今日の晩ご飯 第二章

第二章 同棲の行方

 当直があった次の日の朝、同棲相手からの衝撃的な発言があった。
「私、告白されたの」
 正直、耳を疑う発言だった。僕は飲んでいたスムージーを落としかけた。だが、同時に頷ける話でもあった。
 彼女には、持ち前の明るさと、教師であるからかコミュニケーション力の高さもある。それに優しいし、小さな白うさぎのようで守ってあげたくなる。豆柴の正信のように。
 だから職場でもモテる。
 それなのに彼氏がいない理由は、ほかに男の匂いがするから、だった。彼女の話を聞いていると同棲相手がいるように思えてくるらしい。
 僕は彼女名義で借りている部屋に住まわせてもらっているわけだ。だから別にとやかく言うつもりはない。それでも、一緒に住んでいる者としては納得のいかない部分もあった。
「私もあの人のことが好きなの。私はオッケーって答えたんだけど、一応君にも知ってもらうべきだと思って」
 不意に彼女は、でも、と言った。
「そもそも、君は私の何?」
 僕はその一言を聞いて考え込んでしまった。
 確かに、僕は彼女の何なのだろう。彼女の元彼ではあるけど、同棲している。お金は一銭たりとも払えないけども、彼女名義で借りている部屋に住まわせてもらっている。
「君は私の恋愛について、つべこべ言う権利はないの。私たちは同棲をしているとはいえ、もうとうの昔に終わっているのよ。恋人でもないし、友達でもない。単に君が障害を持っているから同棲をしているだけよ」
 彼女の言う通りだった。何も反論の余地はない。


 それから、まさに有言実行だった。
 彼女は、一切の躊躇もなく付き合うことを決めたのだ。
 他人の恋愛に関してつべこべ言う権利はない、と二日前、彼女に言われたことを思い出す。もう僕らの関係性は終わっている、と言われたことも。
 完全にそれは同意するけども、つべこべ言わなければ僕はこの部屋を追い出されることになってしまいかねない。

 僕が彼女の家に住んでいるのには理由がある。
 僕の実家は、古い考えや固定観念に支配されている。例えば、男尊女卑的な所もそうだ。父はほとんどの家事を母にやらせていて、母もある程度それを受け入れている。それは日本社会の根本的な構造に問題があるのかもしれない。
 また、どこの家にも、「ウチの子はこうあるべきだ」という考えや教育方針はあると思う。ただ僕には、僕の家庭のそれが耐え難いものだった。
 それは僕のアイデンティティーを全否定するものだったからだ。つまり、障害を負ってしまったという事実を。
僕は、障害というのは適切な相互理解(本人または周囲が受け入れ、周囲の適切な配慮がなされる)の上に、克服することができるのだと思う。つまり、「こうなるとああなるから~」と事態を回避することが障害を克服することにつながるのだ。
 だが、僕の実家はそうすることを拒んだ。ということは、克服することも拒んだことになる。
 身体障害だけだったら、きっと話は単純でスムーズだ。だが自分でも何が起きているかは分からない。頭の中にもう一人、軽薄な馬鹿野郎が居座っているかのようだ。
 まあ、自分でも何が起きているのか分からなければ、それを他者に伝えることもできない。だから彼らは僕の人格攻撃まで行い、自己肯定感を下げに下げた。
 だからこそ僕は、是が非でも彼女と同棲生活を続ける必要があったのだ。

 その日の夜、同棲相手と話し合った。議題はもちろん、今後の同棲生活についてだった。
 僕らは、こうした話し合いの時、なるべく感情的にならないように努めていた。それは、彼女との関係がただの同棲相手になった時から、彼女との口論が予想以上に険悪な雰囲気になったあの日から、二人の間で心掛けるようにしていることだった。
 とはいえ、やはり二人は剥き出しの人間だった。
 途中までは冷静な話し合いができていたが、終盤に感情が言葉に滲んでいた。
「私は彼にプロポーズされたし、私も彼のことが好きなの。だから付き合うっていうのは当然の流れじゃない? 何でそこに口を出すのかが分からない」
 彼女の言い分は肯けるが、僕にも立場というものがある。もし彼女の言い分にまるっきり賛成したら、僕らの同棲生活を根底から揺るがす事態になりかねない。
「優希さんの言うことには反対だね。僕らは恋人でも友達でもないけど同棲しているんだ。だから――」
「だから何よ! そうやって私に我慢を強いるわけ? 君と同棲してる以上、私には自由な恋愛もできないの? 私は奴隷なの?」
 気づけば、僕は感情のままに罵るように喋っていた。
「俺は今までずっと、お前が言う、その奴隷のような状態だった。俺は25年間、お前の何倍もの苦汁や辛酸を、嘗めさせられ続けてきたんだ」
「だからってそれを人に押し付けるの?」
 じゃあお前はどうしたらいいと思うんだ、と僕が聞くと、彼女は分からない、と言った。

 彼女は疲れているのかもしれないが、その一言で簡単に片づけていいものか、僕には分からなかった。僕も、感情的になってしまったことは反省すべきところだ。
 だが結局、話の決着というか、終着点が見えなかった。
 結局障がい者というのは介護や介助が必要であり、時として我慢を強いる、社会のお荷物であり厄介者だ。
 口には出さないが、それが世の総意だ。それが顕著になるのが、ネットである。
 そもそも、彼女との仲が(最初に)険悪になったのも、僕の持つ障害のせいだ。親と一緒に住めなくなったのも。
 障害が何だ、自分は自分だ、障害を持っていようが自分は自分なのだと思っていた青年期の自分に、この追い込まれた無様な自分の姿を見せつけたい。
 障害を負ってしまった、という事実は時の流れと共に自分のアイデンティティーになった。だがそれが今や足枷になっている。
 いや今に始まったことではない。それは今も昔も、これからだってそうだ。僕はソファに眠りこけた冷めたコーヒーを呷るように飲み干した。


 次の日もその次の日も、僕の同棲相手は僕と目すら合わせることなく、早々に出勤していった。
 彼女はいま、何を思っているのだろうか。僕に、離れてほしい、解放させてほしいと思っているのだろうか。
 だが、解放させたら僕はどうなる。これは彼女名義で借りた部屋なのだから、自動的に僕には実家に戻ることになるのか。もう僕の親に僕を養う義務などない。もう成人済みだからだ。
 ならばもう、僕のやるべきことは変わらない。それが即ち、美味しい晩ご飯を作ることなのだ。
 それでは根本的な解決にはならないのは分かっている。
 しかしやらなければ、確実に追い出されてしまうのだった。

 パスタは簡単だ。
 麺をゆで、水を切り、作っておいたトマトソースや、クリームと合わせる。こんなに簡単なのに、何でパスタは美味しいのか。
 手間と美味しさは、必ずしも一致するものではない。
 「シェフ」とおだてられた翌日に作った晩ご飯も、パスタではそんなに手間がかからないからやめたのだった。
 ただ、それでも今回パスタを作るのは、彼女がそれを好物としていたからだ。
 つまり、彼女との同棲を続けるための、これが究極の打開策。
 彼女に好き嫌いは一切なく、食べることも好きだ。そうした人の胃袋をつかむことで、自分にとって有利な条件を引き出すのだ。

 今回僕が作るのは、彼女が大好きなたらこクリームパスタ。
 作るのはとても簡単だ。
 まず初めに、スパゲッティをゆでる。
 その間にレタスをちぎり、キュウリを棒状にカットし、盛り付ける。
 そしてそれにラップを包み、冷蔵庫で保存する。
 スパゲッティがゆで終わったら、水を切りフライパンに菜箸で移す。
 そこにクリームなどを入れ、よくかき回す。
 そしてたらこをつぶしながら混ぜる。
 そうして完成だ。

 彼女は今日、いつになく早く帰ってきていた。
 だが、「ただいま」の一言もなく、居間のソファに座っていた。
 そんな不愛想な姿を見ると、なんだか自責の念に駆られる。
 この状況が起こることは、予見できたし、防ごうと思えばできたはずだ。例えば、短期入所を利用する、とか。
 だが僕はそうはしなかった。それは何故かといえば、トラウマがあるからだった。
 高校時代の僕は、短期入所(ショートステイ)を利用していた。
 だがそこで職員さんともめ事を起こし、「引き受けられない」と言われてしまった。もちろん僕にも言い分はあったが、引き受ける側が引き受けられないと言ったらそうなのだ。
 それがいくら仕事だといえど。

 じっとスマホを睨みつける彼女に、僕はキッチンから声をかける。「ご飯できましたよ」
 少しだけ自分の声が震えているのが分かった。だが、それが何からくる震えなのかが分からない。
 彼女は返事をしない。黙りこくっている。
 僕は深々とため息をつき、先食べますよ、と言って彼女の分もフォークと、空のコップを用意してから、食べ始める。
 美味い。濃厚で、生クリームの優しい甘さがとても美味しい。
 とそこに彼女がやってきた。手にはスマホを持っている。
「たらこクリームパスタです」
 彼女は何も言わずに食べ始める。
「あっ、冷蔵庫にサラダがあります。あの、深緑の皿に……」
「取ってきて」彼女はそう、僕の言葉を遮るようにして言う。まるで、それはナイフのように、僕の体に突き刺さる。
「……はい……」
 僕は冷蔵庫からサラダを取り出し、彼女の目を見ずに差し出す。まるで、女王様と執事のように。
「どうぞ」
 だが彼女はまだ何か言いたげだ。「あの……、まだ何かございますでしょうか」
「ワインを」と彼女。
 なるほど、ストレス発散にはアルコールが最適だ。「はい、ただいまお持ちします」
 勿論、外出用の車いすと室内用の車いすは分けている。とはいえ、室内用の車いすでもほこりがリム(手すり)についてしまうことがある。なので毎回、ビニール手袋をつけて車いすを漕いでいるが、ある時から同棲相手の彼女に「料理をしてもらってるんだからそんなの織り込み済みだよ」と言われてはいた。だが今日の彼女はどこか違う。別人のようだ。
 ただ、僕は普段は足漕ぎ をしているので、そんなにリムに触れる機会はない。
 彼女は30分ほどで食べ終わり、またスマホ片手に無印で買った安物ソファに腰を下ろした。
 そんなことを毎晩毎晩、繰り返した。
 学校でも嫌なことがたくさんあったろうに、家に帰ってきても心を休めることのできないなんて。彼女の心情は察するに余りあるが、かといって僕にはどうすることもできない。
 多分、僕の予想では彼女が、僕の新しい住まいを探しているのだと思う。だから彼女はスマホを手放そうとしないのだ。
 つまり僕がこの部屋を出ない限り、彼女の心の安寧は保たれないのではないか。
 そんなことを考えていたのは、口論してから四日後の日曜日だった。つまり僕は三回、食事の時に下僕のような真似をしていたことになる。
 ちなみに土日は、基本的には日中を共に過ごすことはない。週末で唯一、共に過ごすのが夜、つまり晩ご飯の時間だが、僕はそんなときも彼女の、下僕のように付き従い、彼女の機嫌を損ねることのないようにした。
 だが、その晩、三日間の静寂の殻を打ち破るように彼女は言った。「どうすればよいのか、なんて分からないし、分かる必要もないんじゃないかな」
 僕は思わず聞き返した。「どういうこと?」
「どうすればよいのかが分かっても、それが必ずしもできるとは限らないから、知る必要はないんじゃないか、ってこと」
 彼女はこうも付け加えた。「〝彼〟との交際は継続する。でも君との同棲も続ける。この先、〝彼〟との交際の進展具合によってはどうなるか分からないけど、私にも結婚願望がないわけでもないから、そうなったらさっさと退散してね」
 僕は「うん、……分かった」と言った。困惑と安堵が入り混じったような感情とともに、彼女と僕の三日間の主従関係は終焉を迎えた。

今日の晩ご飯 第二章

今日の晩ご飯 第二章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-19

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