天使の遅延証明

なにだれどれ

 人が息を引き取ってから八分間はまだその人がこの世に留まっていると知れたのは、ある小学生の自由研究がきっかけだった。たいがい人さまを困らせて喜びがちな悪戯好きの同世代の少年と比べてなお、彼には素直でないところがあり…彼の母親いわく「身の毛もよだつ恥さらし」の趣味があり…その気質は夏休みの自由研究のテーマにも表れていたが、誰にも邪魔立てされぬよう、余命幾ばくもない実の祖父を対象とした死期の観察を進めていることは、彼の兄以外には知らせていなかった。
 祖父は肺を病んでいた。度重なる手術に身体はすっかり弱りきり、いくつかの合併症も患っていた。少年は病名、病状から似た事例を調べあげ、細かな数字の一切を記録して、祖父の余命の期待値を計算していた。少年の立てた予定日より一日早く、祖父は息を引き取った。
 往生際には是非とも立ち会っておきたかったが、大人たちの判断で少年は病院には連れて行かれず、祖父の自宅に置き去りにされていた。真夏の盛りのわずかに手前、蝉の声が幾重にも重なり合う昼日中のことだった。古い家なだけあり、風が通り過ぎるほどよく通る。生ぬるい風が吹き抜けるたび老いた匂いがした。戦前生まれの祖父にとっては文字通りの生家で、お産もここで迎えたとのことだった。
 留守居を任された少年は、この上ない好機を得たつもりでせっせと記録をつけていた。写真、書類、登録証…。知りたかった祖父のデータがこれでもかと揃っている。祖父の生年月日からこの家の緯度経度まで、新たに得られた情報を片っ端からノートに書いていく。少年はまっすぐ育っているとはいい難い性情の持ち主ではあったが、真面目だった。彼なりに、真面目に自由研究に取り組んでいた。蚊に刺された腕をかくたび、汗がノートにしたたった。つい指でぬぐう。鉛筆で書かれた文字が滲んだ。こうなると消しゴムをかけるにも苦労する。もともと消しゴムは好きではなかった。あらゆる過去は修正できないものと子どもながらに信じていた。
 ふいに蝉の声が止んだ。風も匂いも潜まった。聴覚が失われたような静けさに気を向けると肌感覚が鋭敏になって、背筋をぞわりと撫でられた感触がした。息を立ててはいけない。唾液は呑み込むな。鼓動を止めろ。まばたき一つでさえしてやるものか…。自分の身体の音だけは聞きとられてしまう、ただそれだけの世界に迷い込んでしまった心地だった。
 蝉が鳴きはじめた。この時間を書き留めておくことにした。午後3時27分。きっと祖父は、この時間に亡くなったのだ。
 ところが夜になって母に問い質してみたところ、医師の告げた臨終時刻は午後3時19分であったという。奇妙なそぐわなさがあった。どこか噛み合ってない感じがした。

「おまえ、バカ。本当に爺ちゃん死んじゃったのに、まだノート書いてんのか」
 部屋で頭と鉛筆をひねっていると兄がちょっかいをかけてきた。今朝までの豪放な態度とはまるで違う。身内の死とそれに向き合う親族の感情とに接して、感傷的になっていたらしかった。
「クールでしょ」
「バカ。第一おまえ、そんないっぱい数字ばっか並べても、何がなんだかわかんないだろ」
「僕には僕のやり方があるんだよ。一流のね! いいから放っといて」
 兄は一旦その場を離れてはまたやってきて、毒づいたり邪魔したりを繰り返した。慣れない感情の行き場に戸惑っていたのだった。挙句の果てには手伝わせろと迫ってきた。
「兄ちゃんがグラフにしてやるよ。お前も今のうちから、グラフ慣れしといたほうがいいぜ。この世界にはグラフにできないものなんてない。つまり、グラフは世界の全部を表現できるんだからな」
 持て余した感情を、いっそ機械的な数値の処理に落とし込むことで、どうにか心理の安定を図ったものらしい。
 しかし何より、あの時はただ習得したての技術を試してみたかったのだと後に兄は述懐した。
 その試みは兄弟の行く末を決定づけることとなった。

 兄の仕立てたグラフ上にはある図形が現れていた。
 幾何学の図形ではない。一枚の羽根だった。
 兄がどうした法則で数値を始末していったものか少年にはわからなかったから、はじめは兄がデタラメに絵を描いたものと見なしていた。ところが兄は深刻ぶってわなないている。
「これ、本当? 本当に、こうなるの?」
「えらいもん掘り当てちまったな」
 少年は歓喜に打ち震えた。
 緯度経度にせよ、時刻の数値にせよ、いずれも人間の勝手な尺度であるのだから、神の摂理には関係あるはずがない。関係あるはずがないからこそ、かえって、絶対者の悪戯めいた超越性を感じさせていたのだった。
「兄ちゃん、すごいよ。どうしてこんななるの。どうしよう」
「でもお前、よくわかんない数字が多いよ。この3時27分てなんの時間なんだ?」
「それは…」
 少年は仮説を立ててみた。 
 祖父は息を引き取ると、その…魂というのか、霊というのか、とにかく彼そのものは…死に場所を離れて、この生家までやってきた。祖父に限らず、ひょっとすると、人は死ぬと必ず、生まれ落ちた場所に一度戻ってくるのかもしれない。
 そして天使は遅れてやってくる。
 死者がどこをさ迷おうが、八分遅れでやってくる…
「この羽根の絵は、天使が遅れてやってきたことの証明なんだよ」
 なんてね、と繋げた弟の言い回しを兄は聞き取らず真に受けて、なにやらブツブツ呟いていた。
 
 "シーウィーン"は小中学生を中心としたSNSで、一つの投稿に、文字、画像、映像、図像、音楽、動画を好きなようにまとめられる。ここで語られる話や情報は真偽の如何が重視されない。開設初期はそうでもなかったが、ある時期にここを発生源としたデマが爆発的に広まり、それから皆が皆好き勝手な妄想を表す場となったという歴史がある。おかげで多くの子どもが鬱憤のはけ口として活用していた。クラスメイトの悪口を書こうが、不幸を願おうが、ここに書いてあることは本当じゃないからという言い逃れがかなう分、気軽に呪えるのだった。
 都市伝説や陰謀論とも相性がいい。児童の健全な人格形成を阻む有害サイトとして規制対象に挙げられる日が遠くないことは誰の目にも明らかだった。とはいえ、住人として長く留まるアカウントはわずかだった。高校生にもなれば、まだあんなところに出入りしているのかと嘲笑される、今では落ち目のサイトだった。
 兄はまだシーウィーンのアカウントを保持していた。
「ちょっと信憑性を高めたいときは、検証したがる連中を刺激して反応を増やすのがコツなんだよな」
「どうするの」
「バカ正直にそのまんま書く必要はないからな。今回だったら、うちらのじいちゃんってポイントはずらせないけど、名前だけ有名人から借りちまおう。同姓同名ってことにすりゃいい。それきっかけで、調べるやつは調べる。調べだしたら、それが一歩目になる。あとは成りゆき任せだ」
 ここでの投稿は"シーウィー"と呼ばれている。噂、妄想、知られざる真実、といったニュアンスを含んだネットミームとして認知されていた。兄のシーウィーは当初こそ注目されなかったが、別の人気アカウントがこの内容を剽窃し、再投稿した。シーウィーンでは日常茶飯事のことだった。これをきっかけに"天使の遅延証明"はわずかに話題になった。とはいえそれも一部の物好きが、一部の域内で一時口の端に上げていたにすぎず、やがて誰からも忘れ去られていった。

 少年の自由研究は結局未完成のまま、夏休みが終わった。仮説、推論の段階で提出する気にはどうしてもなれなかった。
 彼の教師はなんでもいいから提出するよう縋った。
「先生も困っちゃうんだよ。な。夏休みに食べたものとかでいいから」
「覚えてません」
「じゃあこれなら覚えてるっていう、なにか印象深い出来事はなかった?」
「おじいちゃんが八分遅れで死にました」
 教師は児童たちの思考様式や生活態度に接近したいという名目で、シーウィーンに出入りしていた。ときには児童になりすまして交流を図ることすらあった。"天使の遅延証明"を知ったのはつい先週で、なかなか好奇心を突かれたが、情報源が情報源なだけに、友人や同僚には話題に挙げられずにいた。
「それ、あれだろう。あの…」
「なんですか?」
「お前だったのか?」
「あ、思い出しました。夏休みに何食べていたか全部」
「な。してるんだろ。その…研究。先生も協力してやろうか」
「結構です」
 あたら遠くの方を見る落ち込み方をした教師を哀れんで、いくらかの問答ののち、結局少年は教師を一味に加えてやった。

 少年の部屋はこれまでに企ててきた悪だくみの遺産にまみれていたから、いまさら今回の資料を隠す必要はなかった。もとより父母はこの部屋を気味悪がって寄り付こうともしない。少年の方では母を部屋へ誘ってみたこともある。その日の夜、夫婦は珍しく口争いをしていた。声は潜めていたものの、要するに躾がどうのといった話題に違いないと少年は確信していた。
「審美眼ていうんだよ。審美眼が連中にはない」
 理解しがたい領分に歩み寄ろうともしない大人たちを少年は常日頃から蔑んでいた。だが、この部屋に入って目を輝かせている教師を見たときには、少年自慢の鉄面皮がひきつった。
 そこかしこに散らばった宝物に手を伸ばそうとする教師を遮って、本命の資料を渡してやった。ところがこちらには渋い反応を見せてきたものだから、少年としては面白くない。
「なんだ、こりゃ。デタラメだよこんなの」
「もう来ないでくださいね」
「冗談、冗談だよ」
「こっちは本気ですよ」
「仲よくしよう。酒でも飲むか?」
「結構です」

 だが兄の方は教師と親交を深めていた。二年分余らせた花火をいっぺんに燃え上がらせたり、バイクの貸し借りをしていたり、ことわりなく町内のそこかしこを掃き掃除したりと、友人同然の付き合いを楽しんでいた。ただしそれらは兄がシーウィーンに書き込んでいたから知れたわけで、あまりに親しい二人の仲をどこまで信じたものか少年には疑わしかった。
 兄のアカウントは次第に人気を集めていった。それに伴い"天使の遅延証明"は二度目の流行を迎えた。シーウィーンの外にまで周知されるようなって、いきおい死の秘密に関するシーウィーが激増した。少年は気に留めなかったが兄のほうは全てに目を通して、これはなかなか良くできているの、これはお話にならないのと一つひとつ品評していた。
 そして、ある一つのシーウィーに取り憑かれた。
 死期を割り出す記述だった。
「俺は死んじまう!」
「いつ? どうやって?」
「10月26日火曜日。何度計算してもそうなる…」
「今年の? もうすぐってこと? バカじゃないの」
「お前は大丈夫だ。でも俺は死んじまう」
「なに本気にしてんのさ」
「お前な、兄ちゃんだって、100%信じてるわけじゃない。でも、お前、たとえ1%でも死ぬって、ああ、1%でも死ぬって思ったら!」
 兄弟の言い争いに関してはいつも微笑ましく見守っている教師が、今回ばかりは耐えかねて口を挟んだ。
「大丈夫だ。心配するな。先生がなんとかしてやるからな」
「先生ありがとう。じゃあ、ちょっと」
 二人は少年を置いてどこかへ行ってしまった。よほど重大な密談でも交わしているのかと思われきや、ものの二三分で兄だけ戻ってきたものだから拍子抜けした。

 兄は日に何度も少年の部屋を訪れるようなった。あるときは毒づき、あるときは口も開かず、部屋部屋を行ったり来たりしていた。ろくに足の踏み場もなかった少年の部屋には道ができた。少年はたびたび棚に積まれた本やら紙類を置き散らして道をふさいだ。何度ふさいでもすぐに道ができていた。
 やたら自分の死について語りたがる兄の本心は読めなかった。だいたいいつも少年にとっては明け透けだった兄を、これまで脅威に感じたことはない。
「なんで生まれたところに戻っちゃうんだろうな。これ、要はロスタイムだろ。八分間だけだって、もうちょっと他に、やっておきたいことありそうなもんだ」
「さんざんシーウィーンで語られてたじゃない。まず僕が立てて見たその仮説からして、信じられるかあやしいもんだって」
「いやあ、でも、俺、なんか実感してるよ。10月末のその日に俺が…んだら、たぶん、俺が産まれ落ちたところに戻るって、なんとなくわかる」
「八分間でしたいことがあるの」
「あるような、ないような」
 そこいらにある書類を手すさびに折ったりつついたり弾いたりしている兄を見て少年は違和感をもった。自分も同じ動作を試してみたが数秒も続かなかった。兄の視線に射抜かれている。
「お前さ、ほんとに天使、いると思う?」
「いないよ。あのグラフに絵みたいな図が出るから、勝手にそこに意味を見出して、それを天使って呼びならわしてるだけなんだから」
 兄は顔からはみ出るほど口を横へ広げて、
「俺が…ぬとなったら、試してみるか。天使に抵抗してみる。あいつらが俺を連れていくつもりならな」
 そう言って書類をにぎりつぶした。

 兄の死に様は、常日頃まず動じることのない少年でさえも震え上がる奇景ぶりだった。兄は体育館内の側面に設置された中二階から柵を越えて転落し、真下にあった低鉄棒に直撃した。落下の瞬間を目撃した者はいない。中二階はたいした高さではなく、衝突音も振動も館内にいた他の生徒の活気にかき消される程度のものだった。しかし脛骨を打った勢いで体が半回転し、前頭部を床に打ちつけて、頭蓋内損傷により敢無く死亡した。転落は事故であったと見られている。文化祭に向けて体育館内の飾りつけを下調べしていたところ、柵から強引に身を乗り出した拍子に血流が圧迫され急性心不全が起こり、バランスを崩した…。
 少年には信じがたい顛末だった。なにしろあれだけ10月26日を取り沙汰していたのに、まさかその当日に柵から身を乗り出すなんて真似をするだろうか。とはいえ自ら飛び降りるなら一も二もなく屋上を選ぶだろう。やはり事故は事故なのかもしれない。不可解なのは遺体の体勢だった。下半身は側面を向き、ゆるく曲げられた左足の上にぴったり右足が重なっていた。上半身は仰臥位で、両手がそれぞれ胴体の横にふっくらした楕円を描くように広げられ、腰元に指先が接していた。誰かの悪ふざけとしか思えないほど出来すぎていた。兄は一枚の羽根になっていた。
 少年は事故現場を直接見てはいない。ただ現場に居合わせた一人が事故直後に撮った写真が出回っていると聞き及び、抗議するという名目で、何人かを通して見せてもらったのだった。
 兄の死の情報をグラフには仕立てなかった。少年はなけなしの優しさをしぼりあげ、悲しみに明け暮れる父母に寄り添った。

 以来、少年は明るくなった。人という人を小ばかにしたかつての悪態はなりを潜め、悪趣味はすっかり洗い落とされたようだった。部屋中にあふれかえっていたノートやバインダーの類はことごとく処分した。父母との会話が増えた。母とは近所の花々を網羅した図鑑を一緒に作成した。父とは週に一度将棋を指すようになった。
 少年とは対照的に教師は軽薄さを失い、押し黙りながら今にも叫びだしそうな不穏さを漂わせていた。伏し目がちなその目は角度によっては凍てついて、何かを隠しているような寒色を瞳際に沈めながら、また角度によってはぎらついて、何かを暴き立てようとしているような熱気が眼球中にみなぎり、老若問わず誰をも寄せつけなかった。
 少年は教師との付き合いを再開できないか機を伺っていた。ちょっといいですか、と話しかけても一瞥くれるだけで無視される変事が二度あった。そのまま冬休みを迎え、年が明けた三学期、教師は学校にこなかった。

 それきり音信が途絶えていた教師からの連絡を受け取ったのは少年の母だった。電話口で名乗られてすぐに彼女は、あの頃は息子たちがお世話になりましたと礼を述べた。
 互いに挨拶を重ね、電話を切ろうとしたところで息子が帰宅した。
 かつて青白い少年だった彼も今は溌溂とした青年となっていた。
 あの事故から十年の月日が経っていた。

 はじめ教師は久しぶりに家を訪ねたいと提案してきたが、それはなるべく避けたいと答えると、では小学校近くの公園にしようと申し出を改めた。電話を通じて聞こえる声からは、あの頃の怖ろしいような雰囲気は感じられなかった。
「先生はいつでもいいんだが。明日でも明後日でも」
「今日これからでもいいですか?」
「おおっ、いいぞいいぞ。ちょっと遅くなるけどな」
 彼は青年になった今も、特定の日付に意味を与えられることを忌避していた。その強迫観念は年月とともに薄れてきているものの、あの事故を想起させる関係にある人と、約束の日を取り付けたくはない。

 十年ぶりに再会したというのに、教師はほとんど前置きもなく、問わず語りにあれからの身の上話を始めた。
 …当時確かに自分は正気を失っていた。しかしそれは事故の一件だけが原因ではない。当時複雑な関係にあった女性の身にも時期を同じくして不幸があった。なにか人知の及ばぬ呪われた因縁を感じ、職も住まいも捨てて失踪した。親戚を頼ることもなく、日雇いでどうにか食いつなぎながら地を這い泥水をすする思いで生きながらえてきた。紆余曲折を経て、去年ようやく会社勤務の働き口を得た。ある同僚と世間話をしていると、都市伝説の一環として"天使の遅延証明"を紹介された。思いの外平静に受け流すことができた自分に驚き、もはやあの日を過去にできていると自覚した途端、当時縁のあった面々に会いたくなって、連絡網を引っ張り出し電話をかけた…
「先週は、その、付き合いのあった女性の地元に行ったんだよ。案外歓迎されて、びっくりしたな」
「僕も歓迎しますよ。お帰りなさい。先生」
「もう先生じゃないよ」
 月明りに乏しい夜だった。雲の隙間から僅かにこぼれた月光が蛍光灯の照射と混じり合い、土に残った子どもの足跡を照らしている。雲の挙動によっては光の粒子がちらつき、土埃の身元を照会して、あたかも夜空が昼間の痕跡を見張っているようだった。二人はベンチに座り、当時にはなかった親密さで思い出を語りながら、お互いに本題を探っているらしき気配を感じ取っていた。
 思い出話は時系列に沿って進み、やがて事故の日に近づくと、元教師の目が、いつかのようにぎらついた。その瞳にただよう鈍光に堪えかね、本題は青年のほうから切り出した。
「先生は何か、知っていたんですよね。兄が、初めて自分の死を口にしたとき、僕は馬鹿にしたけれど、その後二人で数分抜け出しましたよね」
「うん。口止めされてたわけじゃないが、でもやっぱりこれは口外すべきじゃないと思ってね」
 どのように口を割らそうか奸計を巡らすまでもなく、元教師はあっさり白状した。 
「"天使の遅延証明"を本当に信じてるかどうかって、訊かれたよ。真面目な顔つきだった。私は信じていると答えた。彼は真面目な顔を奇妙に歪ませて、こう言った。
『生きていることに意味を見出せなくても、死に意味を与えてやることはできる』」
 
 箴言じみた文句の意を読み取るより先に、兄にとってそんなに人生は無味乾燥なものだったのかという、ぼんやりした衝撃があった。兄の言動一つ一つを思い返して検証したくもなった。
「その時は、自分を対象にした言葉なのかどうか、わからんかった。今もわからんけどな」
「あれでけっこう思い悩むタイプだったんですよ。中学の頃は家出とかして」
「悩みね…たしかにあいつは、悩んでいた」
「僕が原因でしたか?」
 不穏な沈黙があった。意味の込められた沈黙だった。
「きみは賢い。私はね、いつも通知表の書き方に悩んだよ。明らかに問題はあるのに指摘できなくて」
「兄は、僕の理論が嫌いだったんじゃないですか? 僕はあれ以来、あのサイトを見てません。でも確信していることがあります。兄の死期を明かすこととなったシーウィーの発信者が誰か。はじめは特定しようともしませんでした。でもふいに閃いた。ほんの思いつきです。人に伝わるような根拠はないけれど、なんとなくわかる。兄が取り憑かれた理論の提唱者は、兄自身ですね」
 つい今しがたの沈黙とはまた異なる、閉じ込められていた意味をあたりへ拡散させたようなこの沈黙は騒がしかった。二人は目を合わせず会話していた。しかし今、二人の視線の先は交差していた。
「あの夏の終わり…秋の始まりにかけてまでか。あのひと月は楽しかった。いつ思い返しても愉快になれる記憶を量産してるって、当時は思ってたよ。そんな自慢の記憶にまもなく蓋をするなんて見越せようはずもない。でもお兄さんにとっては…違ったんだろう。きみの思いつきについてはなんとも言えない。はぐらかしてるって思うだろうが、私もこれで…」
「僕、兄ちゃんはまだ生きてるって、たまに考えるんですよ」
 この公園は新しくもなく、広くもなく、遊具も揃っていない。その割には子どもで賑わうらしく、昼間彼らがどれだけ楽しんでいたか、あちこちにその証が残っている。植木の脇に置かれたサッカーボールはきっとこの公園を利用する子ども全員の共有物で、また明日も使うからと放置しているのだろう。幼い彼らはその明日を全く疑っていない。
「兄ちゃんは天使を騙してやろうとした…。今もしてるんですよ。死んだふりをして確かめるつもりなんだ。僕たちも全員騙されてて、あいつ、本当は生きてるのに…。なんて、こんな風に考えたって、あれでしょう、死んだ者は返ってこないっていうでしょう。起きた過去は変えられませんからね。でも過去の意味を変えることはできるはずです」
「過去の意味ね。難しいことを言う」
「兄のほうがよっぽど、難しいこと言ってたそうじゃないですか」
「知ってるか。シーウィーンが閉鎖するらしい」
 むしろまだ存続していたのかと意表を突かれた彼の反応を待たず、元教師は畳み掛けた。
「あの頃、たくさんの人の死亡時刻やら場所やらから、例のグラフをこさえていったよな。ていっても情報の出所があそこじゃ信憑性がない、結局は、半信半疑だった。なあ、"天使の遅延証明"について話した同僚がいると言ったろ。そいつは否定派でね。つい最近親戚の最期を看取ったとかで、まぁ細かい経緯は知らんが、算出してみたそうなんだよ」
「合わなかった?」
「そうだ。合わなかった」
「はあ、まあ、でしょうね。やっぱりなんかの勘違いだったんですね。結局、事実関係をオカルトにこじつけただけだった。小さい頃にありがちな牽強付会だったわけだ」
「小さかったのはきみだけだろ」
「あの頃の僕からしてみても、二人は幼かったですよ」
「はは、懐かしい舌先じゃないか。しかしまあ気になっちゃってな。その後すぐ、自分でもしっかり確かめてみることにした。個人的に懇意にしている病院の事務員にねだって、十数年分のそういったデータを手配してもらったんだ」
「はあ、まあ、昔から見抜いてましたよ。先生は小悪党を手なずけるフェロモン発してるって」
「するとどうだ。きみのお兄さんのあの日を境にして、これより以前は、ちゃんと羽根が現れるんだよ。そして、これより以後は…」
「羽根が現れない?」
「そうだ。だから、天使はもう遅れてこない。きみのお兄さんは、どういうわけなんだか、人が死んでからの猶予を奪ったんだなあ」
 月が雲に隠れようと公園の明度に変わりはないが、あやういところで鬩ぎ合っていた光の均衡が崩れると、園内の事物はことごとく生気を失くした。ゴミ箱の近くに横たわったジュース缶はアルミ製の円柱に過ぎず、砂場のある隆起ある陥没はたまたまそうなった地形でしかない。サッカーボールはただの白黒の球だった。家々に挟まれた狭い路地へ大型車両が侵入したついでに、ヘッドライトの光線が園内をゆっくり一閃していった。低木から一匹の小動物が暗闇へ走り去り、ビニール袋が中空を舞って、静かに落ちていった。
 二人の目が合った。
「いや、いや。それはおかしい。遅れてこないっていうんなら、じゃあ、死亡時刻と同時に羽根が現れるはずだ」
「ん? そうか? そうなるか。たしかにそうだな」
「呑み込めてきた。あぁなるほど、そうだ、とんでもないな! 先生、だからね、つまり……。八分じゃなくて、きっと、もっとずっと延びたんですよ」
「猶予が?」
「そうですよ! 八時間? 八日? 八年?」
「今も逃げ延びているとでも?」
「天使は遅れてこないどころじゃない。遅れっぱなしなんです」
 昼間の足跡をせいいっぱい隠すようにビニール袋は横たわり、表面に付着した水分が、蛍光灯の光をきらきら反射させていた。光の粒子が水気から立ち上がって、ほんのわずか、上か下か、右か左か、進路に惑うそぶりを見せてから、表面を滑落していった。どこから来たものか自身にも知れない水滴はこの夜長い旅を経て、昼間の名残りを濡らした。
「先生。だからその…女性も」
「もう先生じゃない」
「でも、今なら、ちゃんと僕への通知表が書けるんじゃないですか」
 その賢立てに元教師は、いかにも悔しげに笑った。
「自由研究が完成したな」

 こうしてかつて少年であった彼は、兄の死に意味を与えてやれた。
 天使は実在するかもしれないし、実在しないかもしれない。そのどちらも同じ意味にしてみせた兄と兄の死を、今ではひそかに誇りにしている。

天使の遅延証明

どこか変なことを言ってる、でもどこか変であるか説明はしにくい、
説明してみたところで意味が通ってる部分も生き残る、
なぜ意味が通るのかはまた説明しにくい…
といった論法の混乱が好きです。
その趣味をわりとうまく落とし込めました。
もとはTiwtter上で見かけた企画で「天使」をお題とした作品を募集していたので
それに乗っかってみようと書いたのですが結局そちらには投稿しませんでした。
明らかにこんな話は求められていなかったから。

天使の遅延証明

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-19

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