ヘテロトピア
あの愛の真相ともいえたあたたかな場所を何者かにうばわれて以来、私はもう25年ものあいだ眠っておりません。
催眠術師が、哲学者が、娼婦が、詐欺師が、強姦魔が、花の香りで、晦渋な書物で、豊満な肉体で、型破りのメンタリズムで、門外不出のカクテルで、どうにか私を眠りにつかせようと妙手の限りを尽くしてくれました。
果ては長広舌が自慢の校長先生、しまいには絞め技の精髄を極めたプロレスラーまで、意気昂然と我が家にやってきては、敢え無くすごすご帰っていったものです。
脳外科医に至っては私の頭蓋骨を射殺すようにねめつけ、七晩で七人の患者を殺めたのだといういわくつきのドリルを操り小さく穴を開けると、開ける前と変わらぬようきっちり元通りに整形し、身動きできない私の隣ですやすや眠りこけてしまいました。
そういうことではないのです。
私が眠りにつくとは、そういうことではない。
それでも私は毎夜0時になると、ベッドに横たわり目を瞑ってみます。
最後に眠れたあの日を思い出してみるのです。
そこはあたたかく、安らぎ、何ものにもおびやかされず、生の喜びからも死の恐れからもまぬかれている時空間、この世すべての愛を溶かしのけた小さい海でした。
今となってはそれこそ夢のような、現実ならぬ現実の、幻想めいた異郷へのあこがれ…決して取り戻せはしない、恋焦がれるばかりのトポフィリアに過ぎません。
けれども、この記憶を思い返すと、しだいに、かすかながら眠気の核のようなものがうみ出されてきます。
ここからが大事業なのです。
核からかろうじて弾かれた波長を頼りに、大気中に動揺する眠気の分子をかき集めていきます。目に見える物体ではありませんから、まぶたは閉じたまま、体外へ神経回路と電気信号を延ばして、撃ち落とすようにつかまえます。
眠気の分子には時間の都合がありません。過去から未来にわたる全時代を通じての眠気をある程度…目玉二つ分ほど…収集できたら、今度は、記憶を失わせていきます。漢字を忘れ、ひらがなを忘れ、今日の泣き言、昨日の夕映え、怪人のひみつ、月の名、森のさえずり、土と水気、仲のいい鯨たち、戦争史、神話、感情の目録、通り過ぎゆく雑音、数、恋、生い立ち、…めまぐるしくイメージされる何もかもを忘れていきます。記憶を手放していくごとに、私の輪郭はやわらぎ、境界はちょろまかされ、生も死もあいまいになって、やがて世界と同化していきます。
ところがようやく私が私を失えかけた頃、夜は覚醒している。これは世界と同化した私と同一のものなはずであって、いやおうなしに夜の覚醒は共有されてしまい、せっかく匿われつつあったシルエットの正体も気取られて、そうして、今夜も眠れない夜を過ごします。
いよいよ私は堪忍ならない。
だって、これではあんまり、いいかげんではありませんか。私だって、生物のはしくれなのです。こんな不条理の根は絶たねばなりません。
私は我が身の複製をこしらえました。窮余の一策とばかり、分身の方に眠ってもらう手筈です。
分身は我が身が実現させた異郷で、今は生も死もなく眠っています。
分身が見る夢を思い描いてみます。
分身は孤島でした。
孤島のくせに橋をかけられて、ただ一方的に物資を運び込まれていました。
孤島は日に日に大きくなっていきます。
孤島は孤島を囲む海が好きでした。
謎めく海の向こうへとつながる橋のことも慕っていました。
孤島にとって日々とは橋との対話でした。
「この向こうには何があるの?」
「向こうにだって? もう、取り返しのつかない夜が、一面に!」
孤島はまた、かつての私でした。
いったい誰があのつながりを断ち切ったのか?
そのお節介者を私は決して許さないでしょう。
仕掛け人の手がかりはあります。
しかしいま、私自身もまたその仕掛け人の宿命を継承しつつあります。
まもなく分身は眠りから覚め、やがてはあなた方に見つかり、取り返しのつかなくなることでしょう。
この先もしも私の分身を見つけた方がいたら、どうか優しくなでてあげてください。
あなたにそのあたりを傷つけられた記憶がないならば。
ヘテロトピア
Twitter上の「傷つけられた記憶」という企画に投稿した掌編です。
一息で書き上げましたが、最後の最後、「そのあたり」にするか「へそのあたり」にするかでずいぶん悩みました。