吐いた煙の残り香

吐いた煙の残り香

白いマリアの足元で

ほとんど眠れないままに朝を迎え、その土地に降り立った。深夜の長距離バスにガタガタと揺られて、約17時間。一度は覚悟すらしたこの土地。ここに、あの人がいる。

行くことを決めたのは、1週間前だった。そのバスに乗るためには会社を早退か休まなければならなかったから、言い訳も考えた。ちょうどいい具合に口実を見つけ、休みを取り、夕方の新宿発のそのバスに乗り込んだのだ。

いてもたってもいられなかった。どうせもうダメなんだろうな、という思いは、心の片隅にあった。だけどそれを認めたくなかったし、やっぱりこれで終わりなんて嫌だったし、こんなやり方卑怯だと思ったし、まだ好きだと思ってたし、約束はちゃんと守って欲しいし、何より、この私がフラれるなんて事実に耐えられなかった。そんなごちゃまぜな気持ちを抱えたままなのも嫌だった。自分のことを白黒つける性格ではないと思ってたが、はっきりさせたかった。きちんと線を引きたかった。

約2時間ごとの途中のすべてのサービスエリアで降り、外の空気を吸った。トイレに寄ったり、サービスエリアの看板を写真に撮ったりした。なんのために・・・?自分の心に刻み込んでおくために。今このバスに乗っているという事実に、おさえても自然と涙が溢れた。寝る格好を装ってフードを深くかぶり、隣の女性になんとかバレないように、声を殺して泣いた。買い換えたばかりの慣れないスマホでメールを打った。そうして、町に喧騒が戻り始めたころ、やっと着いた。

事前にいろんなサイトでこの土地のことを勉強し、あの人に会うために来たのだけど、地元に帰ってからの言い訳ができるように、観光地もまわるつもりだった。あの人の育った町や、行ったであろう場所を見ておきたかった。

あの人からの返信は、会えない、だった。今仕事でそこにいないから、と言っていたが、恐らく嘘だろう。私の滞在中は、この土地のどこで鉢合わせするか分からないから、家から出ず、むしろ家まで来るんじゃないかと、戦々恐々としてたのではないだろうか。遠く離れた本州の都心からわざわざやって来た私から、逃げたのだ。卑怯。男なら、堂々としていろ。それが出来ないのなら、軽々しいことをするもんじゃない。

長時間のバス移動の疲れに加えてほとんど寝ていなかったが、不思議とあまり疲れは感じなかった。朝到着して駅のベンチでスマホをいじっていたら、なんとナンパされたりしたこともあってか、気持ちは保てていた。この土地は、メインの駅からさほど遠くない場所に観光出来る場所が多い。大きなカバンを駅のロッカーに押し込み、下を向くなと、むしろ意気揚々と歩き回った。

「駅に戻りたいんですけど、この近くから出ているバスはありますか?」
その土地で、私はよく道を聞いた。ここの人たちは、本当に暖かい人たちばかりだった。一目で旅行者と分かる私に、親切に教えてくれた。笑顔を添えて。電車もバスも、私の地元とは違う乗り方をする。ガイドブック片手に、見よう見まねで乗り継ぎ、見ておきたい観光地へと次々に足を延ばした。

でも、どこへ行っても、あの人のことが頭から離れなかった。あの人とここへ来たい、これを一緒に食べたい。なんとか、この滞在中に、会えないかな・・・。
会えないことは分かっていたけれど、そう思って、青空の下で泣きながら、緑の美しい公園を歩いたりした。地元ではもう秋だったが、ここではまだ夏の気配が濃厚だった。その差が、余計に私に涙を流させた。

行ける範囲の観光地を回り、写真を撮り、ホテルへ向かった。ご当地的なテレビをぼんやりと見ながら、翌日の観光プランをまたぼんやりと考えながら眠りについた。

翌朝の朝食は、全然のどを通らなかった。徹夜明けでもごはんをお代わりするこの私が、だ。食べないと午前中持たないぞ、と仕事の日の朝のように自分に言い聞かせて、ミルクとジュースで無理やり流し込んだ。今日は、どうしても行きたい所があった。

今夜には、この土地を立つ。荷造りをしてホテルを後にし、タクシーを呼んで向かったのは、メインの駅から数駅離れた、あの人の最寄駅。私の地元じゃ考えられないほどの、小さな小さな駅。こじんまりとした、木製の可愛らしい駅。あの人は、学生時代に毎日この駅を使っていたんだ・・・。電車の本数も少ない。次の電車までまだ少し時間がある。大きな旅行バッグを抱えたまま、駅の周りをふらふら歩いた。何もかも新鮮で、そして、私にはセピア色に映った。

メインの駅に着き、またバッグを預けた。さぁ、行こう。そこへ行くバスに乗り込み、念のためにバスの運転手さんにもその場所を告げて、そこへ行くか確認した。そこはこのバス路線の終点だった。またガタガタとバスに揺られ、知らない人が乗り込み、知らない人が降りてゆき、知らない道を走り、知らない景色が流れ、数十分が経ち、最初は新鮮だった知らない景色にも飽き始めたころに、やっと着いた。バスを降りるときには、私一人だった。運転手さんは、帰りのバスのことも親切に教えてくれた。事前に調べて分かっていたものの、素直に聞き、お礼を述べた。

ああ、空が広い。私の住む街は、そこまで都心ではないが、それでも高いマンションや大型ショッピングモールなどが立ち並ぶ。見える空は、狭められている。都会から離れると、空はこんなにも広かったのかと、いつも思う。それに今日は、いつもにも増して、空が青い。

目的地は、教会。バスを降りて、少し歩いたところにあった。あまりガイドブックにも載っていない。そこはネットで偶然見つけたのだが、そのあまりの美しさに一度行ってみたかった。どうやら少し前のドラマの撮影にも使われていたようだが、日曜日のお昼だっていうのに、人っ子ひとりいない。

外観だけ撮影できればいいかな、と思っていたが、本当に誰もいなかったので、中に上がらせてもらった。椅子が並び、正面には、マリア様。思わずひざまずいて、あの人のことを想い、祈った。もう一度会えますように。もう一度、愛してくれますように。クリスチャンではないが、敬虔な気持ちで祈った。そういえばあの人は、クリスチャンだと言っていた。洗礼名もあると言っていた。その割には、ダメな人だったな・・・なんて思ったりもした。それでも、祈っていた。

教会の入り口には、参拝者向けのノートが置いてあった。パラパラめくると、私と同じように復縁を願う声、想いが叶った感謝の声、確執がなくなるよう願う声、そんなリアルな声が綴られていた。人間はみな、愛によって生かされているんだ。私も、今度来るときには、愛する人と来ます、と、あの人を思って書き込んだ。これで、あの人と違う人と愛し合うことになっても、一度ご挨拶に来なきゃいけないな、なんて苦笑したりしながら。

教会を出て、こちらもネットで紹介されていた、海に臨む巨大な白いマリア像へ向かった。マリア様の足元であの人を思い、涙目で見上げた。その眼はどこを見ておられるのですか?私のことは、見えていますか・・・?

滞在中にいろんなところへ行ったが、ごちゃまぜな思いは変わらなず、でも来てよかったと思った。思いがけず、一人旅の楽しさなんかも知ることができた。そうしてこの土地をあとにした。


帰りの飛行機に乗る前に、帰るね、とメールを打った。機内では電源を切り、空港についてゲートを出て、一服しながら、電源を入れた。ああ、あの人、煙草嫌いだったな。

あの人からの返信が来ていた。相変わらず、言ってることとやってることが違うよね。そう思った。帰路の高速バスに乗り、最寄駅からタクシーに乗り、なんだかぼーっとした頭を抱えたまま、自宅に着いた。荷物を投げ出して座った。メールを見返し、ああ、終わりだな、と思った。これが潮時ってやつか。

サヨナラのメールを打った。
その途端、肩の荷が下りた、と思った。肩が軽くなった。
あーすっきりした。自分でも驚くけど、天を仰いでむしろ笑顔で、そんな独り言をつぶやいた。

分かった。ああ、そうか。これは愛情なんかじゃなかった。ただの情だったんだ。

そうだ。
冷静に見れば、私が付き合うタイプの人ではなかった。良いのは見た目だけで、中身が伴ってない人だった。というか、自分で見た目の良さを分かっていて、それを過信しているような人、というか。30歳という年齢の割にはやたら子供っぽく、自分が気持ち良くなるためには、人の苦なんて関係ない、という人だった。手も上げた。びっくりするぐらい、貯蓄もなかった。車の改造が趣味だったからな・・・。

電車で毎朝会う人、くらいの距離感で、顔と名前ぐらいしか知らなかったのに、突然付き合うことになり、突然一緒に住み始めた。その頃、あの人は家がなく、正確には仕事を辞めるから家賃更新せず、最後の数週間をネカフェで寝泊まりしていた。愛車に最低限の荷物だけ積んで。えー、可哀想。そんな思いで、思わずうちに入れてしまった。

長いこと一人暮らししていた割には家事が全然出来ない人で、さらに自発的に手伝おうともしなかった。私は日中仕事に行き、あの人は仕事を辞めて実家に帰る準備期間中のために無職だったのに、だ。朝仕事前に洗濯して干した物も、日中仕事場から何度もメールして言わないと、取り込むこともしなかった。

ある夏の日には、仕事で疲れて夜遅く帰って来た私に、一日中エアコンに当たって家から出ずにゴロゴロしていたくせに、「おなかすいたーご飯作って」とのたまうような男だった。作る気力なんてないと言うと、疲れて食欲も薄い私を、無理やり焼肉屋に連れて行くような男だった。今そんなの食べたくないと言うと、一緒に来て座ってればいいじゃん、という具合。もう、ほんと、なんでこんなのと・・・。

ある意味、可哀想な人だとも思っていた。末っ子で、それに見た目の良さもあり、親にはただひたすら可愛がられて育てられたのだろう。末っ子気質特有の気の強さもあった。その気質が故か、まわりに可愛がられるタイプでもあった。だから、周りがすべてやってくれたのだろう。自分では出来ないほどに。洗濯物もまともにたためなかった。そういえば、セックスも下手だった。


ああ、私、消耗したな。身も心もお金も。高い勉強代だったな。

今ではもう、愛情どころか腹立たしい思い出しかない。正直、あの人が今、苦労していればいいとさえ思っている。でももう、私の人生には関係のない人だ。
煙を吐くように消えた思い。でも残り香は、しばらく立ちこめる。私は今、まだそれに惑わされ、少し前が見えていない。

あの土地で出会ったマリア様。
もしこの先私に、生涯の愛を誓う人が現れたら、またあなたの元へ行きます。私は、約束は守る。あの人とは違う。それを証明しに。そして愛を誓いに。

吐いた煙の残り香

吐いた煙の残り香

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-16

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