新しいふろ

愛川すぐる

新しく引っ越したのは、風呂なしアパート。その街は貧困家庭が多く…

 新しいふろ
             愛川すぐる

初めての一人暮らしは、風呂なしにした。理由はもちろん、値段である。初任給は十九万八千円。至って平均額だが、就職したとたん六万も七万もする小洒落た所を選ぶ奴らとは違う。何と言っても敷金礼金なし、二三〇〇〇円は破格だった。場所は東京の西の西。不動産広告の駅から徒歩二十四分も、築五十六年も関係ない。六畳一間に押入れに台所。スームのアプリ内の写真では、トイレは洋式であった。うん、上等じゃないか。人の一人や二人死んでたっていいだろう。これで一年に幾ら浮くのか。

そんなこんなで内見もせずに、気がつけば南京錠に挿すような鍵を二つ握りしめていた。最低限の荷物だけ持ってその部屋に入り、鍵をかける。かび臭い匂いに覚悟―というより期待すらしていたが、思った程ではない。畳も少し前に張り替えられていたようで、至って清潔である。天井を見回し、窓を開けてみる。その縁などを見てみても、蜘蛛の巣一つ見当たらない。春の暖かい風が入り込む。台所は多少のヤニ臭さはあるものの、給湯器も付いている。駅前で買ったコーラを飲み干したところで、尿意がきた。
ペラペラのプラスチックの便座に座る。大して臭わない。ダブルのトイレットペーパーが三つ置いてある大家の粋な計らいに、思わず笑みが零れる。昨日こっそり調べた本体が一万五〇〇〇円、取り付け費用八八〇〇円の温水洗浄便座は、小便も座って用を足す俺に許された唯一の贅沢かと考えた。
することもないので、畳に寝転んでみる。前の部屋の住人は年寄りだったのだろう。線香のような香りが染みついていた。
窓を閉める。今日から、完全なプライベートだ。徐にスマホを取り出しイヤホンを付けると、ブックマークから自然とエロサイトへ飛ぶ。ジーンズがムクムクと窮屈になり、チャックを下ろそうと寝返りを打った時、床の硬さに気が付いた。せめてマットレスぐらい買ってこよう。だんだん腹も減ってきた。

スーパーは一キロ弱の所にあり、もう一キロ行くとダン・キホーテがある。少し歩くが、ダンキの方が一回で済むので、そっちにした。途中にある小さな郵便局に寄って二万円を下ろす。残高百八十六万円。親からふんだくった出発資金である。こんなものには出来るだけ手は付けずにいきたい。
自動ドアをくぐると、地元のダンキを思い出した。日本のどこでも、この店の雰囲気はあまり変わらない。土曜日の午後なので、結構人がいる。普通の家族連れから年寄り夫婦まで、有象無象である。そしてやはりその人達の服装や髪色は派手であることが多く、時々甘い香りとすれ違う。カゴを見ると、お徳用のスナック菓子や冷凍食品が大量にひしめき合っている。おそらく車高を落としたミニバンか軽自動車で帰っていくのだろう。
三九九〇円のマットレスをかごに入れ、洗剤や食器、追加の下着などの最低限の日用品を揃えた。ペーパーも大家のだけだとすぐ底が尽きるだろう。かなり吟味したはずなのに、気がつけばカート一台が埋まっていた。後は今日の晩飯と明日の朝だ。すぐに菓子パンとカップ麵が思いついたが、さすがに引越し当日にそれは味気ない。そう思ってお総菜コーナーで焼肉弁当とコールスローサラダを手に取った時、二人の少年が目に入った。彼らは、値引きされた菓子パンが大量に積まれたカゴの前にいた。
「なんかまたこのカレーパン小さくなってない?」
「いや、全部だよ。値段変わんないだけいいだろ」
兄弟だろうか、顔がよく似ている。年は小学校低学年と高学年ぐらいだろう。
「俺今日お菓子だけでいいや、その方がいっぱい食べれるし」
弟らしき方が言う。
「だめだよ、ご飯食べないと。お菓子は俺のもあげるから」
兄が嗜めるも、弟はごねる。
「今日おやつ食べてないじゃん。シュークリーム食べたいもん」
弟が指差した先には、一個九八円のシュークリーム、一個七八円のエクレアがあった。
「わかったわかった、じゃあ一個だけな。俺のパンも食べろよ」
明らかに弟の顔が綻んだのがわかった。
しかしその瞬間、兄は二つ持っていた持っていた袋を一つ戻した。値引きされた、一つ八八円のメロンパンだ。
親が来る様子は一向にない。
弟のトレーナーからはシャツが丸出しで、袖口も伸びている。口の周りはかぶれて赤くなっていて、頭を掻いている爪先は真っ黒。そして兄はそこまでではないが、靴の汚れ具合は弟と変わらない。これらを見て、この兄弟が置かれている状況がわかると、俺も大人になったと自覚する。
 ほとんどの大人は素通りしている。遠くを見ると、おもちゃをねだる子供の頭を、若い母親が殴っている。そして余計に泣き出した。その横で泣いている子供を無理に引っ張っているパンチパーマの父親の腕には、黒い印が刻まれている。みんな自分の子供たちから目を離すまいと必死なのだ。物件の地図を見た時に、確か近くに集合団地があったと記憶している。この地域は全体的に、他人を構っている余裕はないのかもしれない。
 しかしその中でも二人は目立つ。華やかな店内を一気に黒く染めるような、強いオーラを放っていた。
 流石にそれを察知したのか、近くにいた老婆がレジに向かう二人の後ろ姿を見ながら、菓子パンを数個カゴに入れた。俺もこの時ばかりはいてもたっても居られなかった。お菓子売り場へと歩き、ポテトチップスやチョコレートなどを買い込んだ。ここで自分の分も買ってしまう所が、まだ大人になりきれていないのか。
 一六七八四円の支払いを終えて、レジから出ると、二人はイートインコーナーで、座ってシュークリームと菓子パンを食べていた。隣にはあの老婆が座っていた。兄と何か問答をしている様子であった。
「お兄ちゃんも食べればいいのに」
「いや、大丈夫です」
「お兄ちゃんがお腹すいて元気出なかったら、弟くんも困っちゃうのよ、ね?」
老婆がメロンパンを差し出す。
「そうだよ、食べなって」
チョコクリームを口の周りにつけた弟が言う。
「お母さんに勝手に人にモノもらうなって言われてるので」
「バレないってそんな」
弟が言ったのを睨みつけ、老婆に頭を下げる。
「すみません」
弟が食べ終えると、ほら、行くぞと弟を促して、立ち上がろうとした。老婆が強引に弟に菓子パンの入った袋を握らせた。それも制したが、最後は弟が胸に抱き抱え、老婆に頭を下げると、逃げるように店を後にした。
 その光景に呆気に取られた俺は、二人にお菓子を渡すタイミングを逃してしまった。振り返った老婆は、お菓子を買ってきた私に気が付いていたようだった。
「あの子たちに渡そうとしてたの?」
「ええ、まあ…はい」
「やめなさい」
ぴしゃりと言われた。
「え、だって今、あなたも…」
「私はどうせ先もないから関係ないのよ。あなた、気がつかなかったの?私があの子たちを見てあのパン買った時、周りにいた子たちが見てたの」
「は?」
「自分たちにもくれるんじゃないかと思って期待してんのよ」
全く気がつかなかった。菓子パン一つでか、理解に苦しむ。
「この辺りの子たちはみんなお腹空かせてるし、一人だけ特別扱いすると、どんな目で見られるか」
じゃあなんであげてたんだ。その言葉を飲み込んで私は言った。
「よくこういうことされてるんですか」
「たまに…たまにね」
「あの子たち、いつもあんななんですか」
「その都度親からお金はもらってるみたいなんだけど、たぶん一回二百円でしょう」
二百円で二人-一人百円。それなりに節約術は学んできたつもりだったが、ここまではない。まともな食生活が送れる筈がない。
考えてみると、すれ違う人たちは太っている親子が多い。あれだけ菓子パンやカップ麺、駄菓子などを買い込めば、当然バランスの取れた食事からは遠のくであろう。俺も例外ではない。
老婆は小さなシルバーカーを持つと、しっかりと俺の目を見て言った。
「あげるなら、あの子たちに全財産あげる覚悟でやらないと。親切な自分に酔いしれたいだけなら見ないふりするのが一番。自分のことだけ考えな」

偉そうな老婆だ。買ってきたマットレスを床に置いた瞬間にそう思った。善意で席を譲ったら舌打ちされたような気分だ。
そのストレスを解消するように、勢いでメロンパンを二個食べた。マットレスが目に入る。今ここで寝ころんだら寝てしまうだろう。でも頭が痒い。今日は一日中歩き通しだったので、風呂に行こう。
実はもう一つ、ここの物件にした大きな決め手の一つ。徒歩十分の所に銭湯があるのだ。東京では銭湯値段が統一されているというのが少々疑問だが、週三回で来たとしても十分元は取れる。
 入り口に着くと、至って普通の、敢えて言えばこじんまりとした銭湯だった。しかし唯一気になったのは、裏の駐輪場に大量の子供用自転車が停まっていたことだ。
暖簾をくぐってドアを開けた途端、その予感は的中した。狭くはないが特別広くもないロビーは、まるで公園のようだった。浴室からは叫び声が聞こえ、そこらじゅうにお手玉で野球をしていたり、孫の手でチャンバラごっこをしている子供もいる。ほとんど男子。ここは本当に現代なのか。番台には、今にも死にかけのような老父が椅子にもたれて寝ていた。
「すみませーん」
呼んでも起きる様子はない。
「すみませーん!」
びくともしない。これだけ子供たちの喧しい声が飛び交っているというのに。見かねてもたれている肩を叩こうとしたとき、奥の方から「やめて!」という声が聞こえた。
 出てきたのは、なんとあのダンキで会った老婆であった。
「あっ!」
「あ!さっきのお兄さんか」
「あの、このお爺さんは…」
「はい、四八〇円!」
返す間もなく老婆は手を出した。
「あ、はい、すみません」
なんでこんなことで謝らないといけないのか。内弁慶なのか、ダンキで見たときより更に数倍でかい態度であった。そう思いながらも、俺は財布から五〇〇円玉を取り出した。
「お兄さん、風呂なしなんだね」
お釣りの二十円を出しながら、唐突に切り込んでくる。
「ええ、まあ…」
「何年も続けんじゃないよ、そんな生活」
流石にこれはイラッときた。私は自分の意志でこの家を選んだのだ。別にあんたに心配される筋合いはない。
「でも、意外と楽ですよ、とにかく安いし」
「はじめはみんなそう言うのさ」
「築年数は結構たってるけど、改築してくれてあったし」
「だからって外見はオンボロだろう」
この人に何を言ってもダメだ。そう思った俺は、咄嗟に話題を変えた。
「いやーそれにしても賑やかですね」
「小学生のガキンチョだけだよ、ああいうのが目当てなんだろう」
老婆が示した視線の先には、本棚が二段に別れ、漫画や雑誌が置いてあった。さっきは気がつかなかったが、全員が入浴している訳ではなさそうだ。それはそうだ。いくら団地とはいえ、昨今風呂なしの家に住んでる子供など絶滅危惧種であろう。聞けば小学生の料金は一八〇円であり、入らない子からは取らないそうだ。それは彼らのオアシスとなるのも頷ける。もしかしたら、彼らも……
「さっきの子たちも来てたりします?」
「ああ、いるよ」
「え、どこですか!」
「そこ」
見ると、彼らは漫画の棚の更に奥、児童文学が数十冊置いてある場所に、へたり込むように座っていた。兄も弟も、齧り付くように本を読んでいる。いや、読んでいるというより、縋っているようにも見える。やはり友達はいないようだ。他の騒いでいる輪からも遠く離れている。
「さっきみたいに、余計なことしないでね」
「わかってます」
 そんな状態なのに、彼らが虐められたりしている様子はない。騒いでいる子供たちは皆無関心。さっきダンキで見た大半の大人たちと同じであった。
「もう何十回も読んでる筈なのにね」
後ろから老婆が小さな声で言う。
「けっこう来るんですか? あの子たち」
「うん。あの子んち、風呂がないんだよ」
「え?」
「どういう暮らしさせてるんだろうね、全く」
「あの、親御さんとかは…」
「ああ、なんか母親は水商売やってるみたいだけど、男のとこに居着いて帰らないんだろうね。訴えたらすぐ捕まるよ、あんな親」
「へえ…」
すると急に老婆は話し過ぎたことを後悔したようで、そそくさと奥に引っ込んだ。老父は寝たままである。結局一言も話さなかったが、恐らく老婆の亭主だろう。

 湯船に浸かっても気が休まったものではない。浴槽は彼らにとってはもちろんプールだ。潜って泳いで、水をかけまくっている。この中で大人は俺一人なので、もっと絡まれるかと思ったが、意外と話しかけられない。自分たちの世界に入り込んでいる彼らにとっては、俺も無関心の対象なのか。
 浴室の至る所に「水出し過ぎるな! 石鹸で遊ぶな! 走るな!」という看板が貼り付けられている。よく考えてみれば、洗い場には牛乳石鹸が一つあるだけだった。
 あの老婆はどういうつもりでこんな商売をしているのだろうか。さっきから大人には二人しか会っていない。土曜なのに、温泉好きの老人たちすら見かけない。雀のお涙のような子供料金だけで、果たしてやっていけてるのか。
 上がっても、彼らは同じ場所で本を読んでいた。本好きというのも、自分の幼少期と重なって、もう話しかけざるを得なくなった。
「その本、面白い?」
兄の方は少し怪訝そうな顔をして、弟は兄の背中に隠れた。
「はい」
兄の方が言った。彼らが読んでいたのは「グリム童話」―小学生にしては相当な分量だ。
弟が言う。
「俺将来、絶対お菓子の家作るから!」
「子供みたいなこと言うなよ」
兄は鼻で笑った。ヘンゼルとグレーテル、そんな話があった。両親が山に子供たちを捨てる話だ。この子たちの母親は魔女なのか。本当にこの子たちを置いて捨てていったのか。

銭湯から部屋に帰ると、俺は一人で決心した。よとりあえず一年、ここで頑張ろう。一日おきではなく、毎日あそこに通おう。そうすれば、もっとこの街が知れるような気がする。
 その瞬間俺はマットレスを敷き、晩飯をセッティングした。電子レンジもない。明日買ってくるしかないか……
何もない部屋で、俺は一人、冷めた焼肉弁当を食べ始めた。

新しいふろ

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就職や転勤、進学など様々な場所に移り住むことが多い四月。新生活が不安な方は是非こんなものでも読んで気分転換して下さい!

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-04-18

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