海と薄膜

桜井明日香

 液体を駆け抜ける無数の水素、窒素、炭素、酸素の分子が有機化合物の合成と崩壊を激しく繰り返す。いつしかそれらは蛋白質と呼ばれるものになった。水素と炭素は列をなして脂質を形成する。脂質が重装歩兵のように密集するとそこは強固な城となった。蛋白質の城門では外の世界からの旅人を厳しく尋問し道を開ける。気付けば町には様々なオルガネラが茂り一つの楽園となった。それを私は私と呼ぶことにした。しかし滅びの時は必ず来る。城壁にヒビが入り海水が流れ込んでくる。私と私ではないものの境界が曖昧になり、私の中に私ではないものが入ってくる。そこで私は私ではなくなるのだ。

海と薄膜

「ではみなさんは、生物が生きているということは、畢竟なんであるかご承知ですか」
 畝傍教授の柔らかな声が講堂を満たす。階段教室からの答えを待たずに、教授はゆったりと黒板へ向かいカツカツと小気味良い音を立てた。さっきまで膜蛋白の話をしていたというのに、突然何を訊いているのだろう。学生たちは教科書をめくるのを諦めて茫然と黒板を見つめていた。
「それは海と薄膜です」
 教授は黒板の真ん中に精密な細胞を書き終えてそう言った。生きているということは海と膜である。橿原には全く意味が分からなかったが、しかしそれは鉱石に鶴嘴を振り下ろしたように鋭く頭に響き渡った。
「我々はすべて、太古の熱水鉱床で様々な元素と莫大な熱エネルギーによって化学反応を起こして生まれたものでした。しかしそれはまだ『生物』と言うには難しい、海を漂う『物質』でした。物質どうしが極めて機能的に結合して『内なる海』を作り出したとき、生物は生まれたのです。これは目の眩むような長い年月が成し得た奇跡と呼ばざるを得ません」
 それは福音のように残響を伴って語られた。来年退官だという教授は相変わらずおっとりとした表情であったが、聴衆に有無を言わせない迫力があった。ペンを走らせる音すらも、衣摺れの音すらも、禁じられているような気がした。
「内なる海は、海とは別の組成になることで生物となりました。ただ、その海は現在の海とは異なります。その海――『外なる海』と呼びましょうか――外なる海は、長い年月を経て『海』ではなくなったのです。さて、内なる海とは何でしょうか。内なる海と外なる海を隔てるものとは何でしょうか。なぜ外なる海は海と別の組成なのでしょうか。これは宿題と致しましょう」
 しばらく間を置いて教授は教室を後にした。あの人はすごい人だ。橿原は訳も分からず確信した。
「ねえ、」
 この感動を共有したくて振り返った。学年は百人いるはずなのに後ろにいたのは五人くらいだった。皆そそくさと帰り支度を進める中で、脚を組んだ男だけが目を合わせた。軽音部に居そうな軽薄な髪型。苦手なタイプだ。机の上には紙の一枚もなく手を後ろ頭に組んでいた。
「全く騙されたわ」 
 話しかけるか迷う間に彼から口を開いた。
「高校の時、上の学校を目指すんなら物理を選択せえ言われてんけど、生物の方が要るやんか」
 言われてみればその通りだ。入学以来、ドイツ語や倫理の授業以外は、G蛋白がどうのこうの、解糖系がどうのこうの、細胞分裂がどうのこうの。生物学の授業だらけだ。慣性モーメントなどは何処へやら。みな高校生物を履修しているものとみなされているので授業の進度は凄まじい。全然ついていけない。こんな挫折を味わったのは小学生の逆上がりぶりだろうか。かくして橿原たち物理選択者はこの「生物学入門講座」を受けるよう指示されていた。
「百人中騙されたアホは十人くらいか、賢い九十人は今頃楽しくキャンパスライフしてるんやろなあ」
 心底羨ましそうな顔をしてみせる。妙にフレンドリーだが橿原はこの男の素性を知らない。
「はは……ごめん、名前なんだっけ」
「まだ同級生の名前覚えとらんのか、はあ、そういうとこやぞ。俺は耳成。芳一ちゃうで」
「おう」
 耳無し芳一やのうて耳成山の耳成や、橿原も知っとるやろ、と力説するが、橿原は群馬生まれなので何のことか分からなかった。
「でもなんで僕の名前を?」
「耳成山は橿原市にあるからな、なんや親戚のような気がしてな。あー、そうや」
 耳成はおもむろに席を立って橿原に近づいてきた。小さな声で内緒話のように語り掛けてくる。
「先輩に頼まれたんやけど、ちいと人集めててな。探偵とか興味ある?」
「探偵? 推理小説なら読むけど」
 耳成は悪企みをしていそうな顔でニヤつき、
「そんなら今日から仲間や、よろしく頼むぜ、橿原」
 軽々しく肩を組んでくる。普通なら悪い予感しかしないはずだが、こんな時に限って、冒険心というか好奇心というか、そういった余計な感情が湧き上がってしまっていた。後から思えばこれが運の尽きだった。
「ほんなら四時にコーサテンで待ち合わせな」
 耳成は橿原の肩をぽんと叩いてスタスタと歩いてゆく。
「ちょっと待って、交差点ってどこの?」
「ワカレミチのコーサテンや、先輩に呼び出されとるから行ってくるわ、堪忍な」
「分かれ道の交差点ね、わかった。じゃあ現地で」
 耳成は背を向けたまま軽く手を挙げて応えた。

 北国医科大学は福井県唯一の国立医学部。一県一医大構想も最終期、一九八〇年の開学だから今年が創立三十周年らしい。北陸三県の中でも田舎の福井県、その県庁所在地である福井市からも外れた三国町という小さな港町の、さらに外れた郊外に建っている。キャンパスから見える景色は、田んぼ、防風林、石油コンビナート、そして日本海の荒波だけだ。
 キャンパスライフというと、都会の一等地に煉瓦造りの講堂があって、学問に部活にバイトにインカレに青春を輝かせるというものだと思っていた。だがしかし、この医大は全然違う。昭和の匂いしかしない無骨でボロボロの校舎。正門を出ると防風林。タヌキやシカとこんにちは。バイトをするなら免許と車を手に入れて市内へ行かないと始まらない。インカレサークルに入ろうにも他の大学が近くにない。というか若者がいない。そんな状況では学問か部活に打ち込むしかない。聞いた限りではほとんどの学生が部活に全てを捧げているようだ。どうして橿原がこんな異郷の地に来たかというと、単にセンター試験の点数で北国医大がB判定だったからだ。私立医学部ならいくつか合格できたと思うが、六年間毎年数百万円を納める蓄えなんて逆立ちしてもありはしない。国立大学なら文学部や法学部とも学費は一緒。僕が医学部に入るとしたらここしかなかった。

 さて困った。
 橿原はママチャリに跨り数メートル漕いでからおもむろに足を着いた。
 分かった気になって耳成君を見送ったけど、分かれ道の交差点なんてトートロジーじゃないか。田舎とはいえ交差点などこの町に五万とある。一体どこのことなんだろう。耳成君の携帯番号かアドレスを聞いておけばよかった。
 橿原には一つ思い当たることがあった。耳成は「探偵に興味があるか」と訊いていた。
 そうすると、きっとこれは何かの試験なんだ。答えが分かれば仲間に入れてやるということか。ミステリ好きが試されるなんて熱い演出じゃないか。ここで負けてはいられない。頑張れ、灰色の脳細胞!
 橿原はママチャリに跨ったまま数分間唸っていたが、結局答えには辿り着けなかった。
 耳成が指をさして「アホやなあ」とケタケタ笑うのが目に浮かぶ。癪に障る顔だ。泥臭いが真正面から考えてみる。交差点は交差点としか言いようがないが、分かれ道というと丁字路かY字路のことだろう。交差点よりも分かれ道の方が選択肢はぐっと狭まる。きっと意味があるとしたら「分かれ道」の方だ。アナグラムか何かなのだろうか。ひとまず動くしかない。
 橿原は九頭竜川に架かる新保橋を越え港橋を越えて、三国駅前で地図の看板を眺めていた。
 三国の市街地は狭く川に沿って細長い。街並みは古く細かく入り組んでいることから「分かれ道」と言えそうな場所は意外に少ない。もし「分かれ道の交差点」が三国町内ならここだろう、という場所は三箇所見つかった。答えが町外ならハズレだがこのチャリで町外に行くのは無理だ。途中で行き倒れてしまう。ダメ元で行ってみるか。
 一箇所目の「分かれ道」は空振り。交差点があるだけで信号機もなく右も左も林だった。そこから少し行くと「歓迎 東尋坊」という簡素な看板が見えた。ここが柱状節理で有名な東尋坊か。三国の町からこの台地まで駆け上がるのにかなり体力を消耗していた。携帯を開くとまだ午後三時。休憩がてら寄っていくことにした。しかし辺りは相変わらず背の低い林で、土産物屋の一つも見当たらない。一抹の不安を覚えながら進む。
 海が見えてくると海産物屋や団子屋やソフトクリーム屋やらが軒を連ねて賑やかにしていた。少しほっとする。ここはカニが名産らしい。
 喧騒を抜けて潮騒が聞こえだすと急に視界が開けた。
 海だ。
 日本海の荒波が東尋坊の絶壁に衝突して白煙を上げる。ヴィブラスラップの渋い音がどこからか聞こえてくる気がした。
 内陸県の群馬で育った橿原にとって海は特別な存在だった。家族旅行か海浜教室くらいしか海は見たことがない。そのどれもが太平洋の穏やかな波の寄せる砂浜だった。こんなに激しい海なんて見たことがない。
 スニーカーで来るところじゃなかったな、と内心後悔しながら、橿原は柱状節理の突端にいた。六角柱が整然と、鉛筆を束ねたように海に突き刺さっている。恐る恐る覗き込むと、十メートル崖下に荒波が打ち付け、引き潮で大きな渦を巻いていた。渦は唸りを上げてどんどん深くなっていく。見ていると引き込まれていきそうだ――おっと危ない、気付かないうちにかなり身を乗り出していた。
 海は一つではない。
 空と海は世界に繋がっているとはよく言うけれど、どうしてもそうは思えなかった。漣揺れる太平洋と岩を噛む日本海、どちらも同じ海だと言うのだろうか。
 畝傍教授の講義が脳裡に浮かぶ。
「内なる海」「外なる海」「海」――。それぞれ異なるというのはそういうことだろうか。
 内なる海が細胞の中を指すというのは講義の流れから理解できた。それなら「内なる海と外なる海を隔てるもの」は細胞膜だ。しかし、「なぜ外なる海は海と異なる組成なのか」という問いはまるで分からない。外なる海は細胞の外のことだろう。血や骨なんかがそうなのだろうか。それがなぜ海水と違うのかと言われても……。
 改めて海を眺めると日が傾きだしていた。まずい、遅刻だ。

「ああ、そういうことね」
 三箇所目の「分かれ道」に着いた時、橿原は深い溜め息をついた。赤黄緑の信号にぶら下がった看板には「岐れ道」と書かれていた。そしてその交差点に面して一つの喫茶店があった。三角屋根の小洒落た建物。入り口の軒先には黄色いランプが灯り、小さな木製の看板にはこう書かれていた。
「珈琲喫茶の香茶店」
 店名を読み上げると合点がいく。岐れ道の香茶店は岐れ道の香茶店としか言いようがない。耳成君が言ったのは試験でもクイズでもなかったんだ。
 拍子抜けしたまま店の扉を開けると、流れるように面取りされたカウンターが奥へ伸び、珈琲の香ばしい匂いがした。気の利いたジャズが耳に心地よい。
「いらっしゃい、君の席は右の手前だよ」
 初老の紳士が皿を拭きながら橿原に語りかけると、奥から耳成がやってきた。
「おう橿原、待っとったで。もう五時や。大遅刻やぞー」
「しょうがないじゃん、ワカレミチのコーサテンじゃ分からないよ」
 今日ここに来るまでの顛末を話すと、耳成はひとしきり笑ってからすまんすまんと言った。まあきっと悪気はなかったのだろう。
「お待ちしていましたよ、橿原君」
 席に着くと、テーブルの一番奥の上座の先輩らしき人と目が合った。組んだ手に顎を乗せて謎めいた声で語る。
「我らが探偵サークル『交差点』へようこそ。部長で六回生の筒井と言います」
「同じく六回生の百地です。よろしくね」
 筒井のすぐ隣で百地が微笑む。筒井先輩は袖の弛んだ服を着て怪しい魔法使いのような感じだけれど、百地先輩は正統派の美人だ。髪は染めず後ろに縛ってウェーブのかかった横髪を垂らしている。
 探偵サークルがあるというのは噂には聞いていた。次々と怪事件を起こしたり解決したりしていると。しかし活動場所や新歓の日程などを知っている同期はおらず、あまりに情報が少なくて探偵サークルは都市伝説だと思っていた。まさか耳成君が知っているとは。ミステリは好きだけれど、この活動実態不明なサークルに足を踏み入れていいものなのかどうか。
 よろしくお願いします、とその場しのぎのつもりで答える。
「それじゃあメーリス入ってね」
 あっけなく決断を迫られたが百地先輩に言われると断れない。百地先輩とアドレスを交換できたから良しとしよう。事件が起きた際はこのメーリングリストで召集が掛かるらしい。
「先輩、六年生ということはポリクリとかされているんでしょうか、毎日お忙しいですよね」
「おい橿原」
 雑談のつもりの一言に耳成が噛みつく。百地が苦笑いをして答える。
「わたしたち六回生なんだけど、四年生なんだ。六年生はポリクリニック――ポリクリで精神科から心臓血管外科まで全ての科を回らないといけないから大変よね。わたしは二回休学して海外にいたの。ワーキングホリデーってやつ。で、彼は……」
「教授は私の天才的解答を理解できなかったようです。実に残念でなりません」
 単純に試験で落第したようだ。
「ははは……。本当はあと二人いるんだけどね。二年生の高松塚さんは骨学実習、三年生の八木くんは新しい彼女とデートに行ってるみたい」
 平日の昼間からデートしていて大丈夫ですか、と訊きたくなったがそれは置いておいて、
「コツガクって何ですか?」
「橿原くん、これは覚えておいた方がいいかも。ホネは医学用語でコツって言うの。骨学では人体の骨という骨全てを暗記するのはもちろん、ざらざらしたところとか出っ張りとかにも名前がついてるんだけどそれも全部覚えるよ。わたしは頭蓋底の孔とそこを通る脳神経とか血管の名前を覚えるのに苦労したなあ」
 来年は途方もない試練が待っているようだ。
「それとね、医学部は奇数学年と偶数学年とで忙しさが全然違って、二年生は解剖、四年生はCBT、六年生は卒試国試で大忙し。一、三、五年生は大きな試験がなくて比較的ヒマなんだ」
 それで二年生の先輩は忙しいけど三年生の先輩はデートに行ったりしているのか。なるほど。
「もう一つアドバイスしておくとね、大学の試験ってちゃんと講義を受けてしっかりレジュメを読んでも全然点数取れないの。みんな過去問を部活の先輩から貰っていて、それで勉強してるんだ。過去問を見られるのは部員だけで門外不出だから、部活に入らないと留年しちゃうよー。もちろん耳成くんと橿原くんは入部してくれたのでわたしたちの過去問をあげるからね」
 なるほど、こうして強固な部活社会と縦社会が築かれていくのか。橿原は百地の厚意に感謝しつつ内心恐ろしさを感じていた。これ以上尋ねると縦社会にずぶずぶと嵌っていきそうなので耳成君に話題を振ってみる。
「ところで耳成君はどうしてこのサークル知ってたの?」
「部長サンが高校んときの部活の先輩やから、やな。入学決まったとき、俺のサークル入れって言われたんや」
「へえ、なんていう高校?」
「京南やけど。橿原、このことはあんまり言わんといてな。京南のくせに四浪までしてこんな田舎のFラン大学に来てるなんて、恥ずかしい」
 そういうものなのか。橿原は関西の高校事情には詳しくなかったので耳成の言う深刻さが分からなかった。
「ちなみに何部?」
「地歴研究会」
 意外に文系で硬派な部活だった。
「大学にまで来て部活もやる気せえへんし、過去問もらえるならええかと思てな」
 計算高いというか省エネというか、とにかく最初に抱いた印象とはかなり違う人物のようだ。
「そろそろ本題と行きましょうかね」
 筒井が口を開く。
「我らが交差点は十年ほど前にここ香茶店で結成されました。探偵とは人生の交差点を読み解く詩人である――初代部長の言葉です。その言葉と店の名前からサークル名を『交差点』と名付けました」
 なかなか味のある名言だが、相変わらずややこしい名前だ。
「そんな交差点は大きな案件を抱えています……それは……」
 筒井は劇場でスポットライトを浴びた役者のように訴えかけた。
「それは、解決するべき謎がないことです」
 橿原はまあそうだろうなと思ったが、耳成を含めてその場の全員が心底残念そうに俯いた。しかしこんな平和な田舎で探偵の出る幕はあるまい。
「気になる謎はありませんか」
 筒井先輩はそう言うが謎という謎は思い当たらない。けれども気になることは……
「的外れかもしれませんが、畝傍教授が講義で『内なる海とは何か、内なる海と外なる海を隔てるものとは何か、なぜ外なる海と海は別の組成なのか』を宿題にされたのですが、全然何を言っているか分かりませんでした」
 筒井は、ほう、と少し笑って、
「面白い謎を提示してくれましたねえ。畝傍教授、懐かしいですねえ。私も高校で物理選択だったので『生物学入門講座』を取っていましたよ。まだその問題を出しているんですねえ」
「大丈夫大丈夫、うねびんは絶対受からせてくれるから」
 百地が橿原を安心させようと声を掛けたが、そういう話ではなくてねえ、と筒井に制止された。
「まず、内なる海とは細胞内液のことです。狭義に言えば細胞質基質、サイトゾルですねえ。細胞外液とは違ってカリウムやリンが多いのが特徴です。細胞外液というのは細胞の外側を満たすもの、つまり外なる海です。血漿や間質液がこれに含まれますねえ。次に、内なる海と外なる海を隔てるものとは生体膜のことです。ヒトで言えば細胞膜ですねえ。リン脂質の疎水基を内側に親水基を外側に向けることで非常に安定な脂質二重層でできています。最後に、外なる海と海の組成についてですが、ええと、どうしましょう」
 この人は教授が言っていることが分かるのか。もしかするとこの人もすごい人かもしれない。橿原はまたしても訳もわからず確信した。
「しょっぱ!」
 耳成が突然叫ぶ。砂糖と塩を間違えてコーヒーに入れたらしい。ひどい目にあったわ、と言って二杯目を注文した。
「そうですねえ、そうですねえ、苦いはずのコーヒーも塩を入れたらしょっぱいですよねえ」
 何がおかしいか分からないが、筒井は腹を抱えて笑っていた。
「ありがとう耳成君。いいことを思いつきました」

 翌日、メーリスに呼び出されて中庭の池に行くと、先輩が浮いていた。
 浮いていたというのも、ラッコのように仰向けで。
「死海の塩化ナトリウム濃度は約三十パーセント、海水は約三・五パーセント、細胞外液は〇・九パーセント。これで答えは分かったでしょう」
 筒井は奇異の目線を気にすることなく本を読みながら呟いた。
「水溶液の比重が大きくなると浮力が増すということですか、あまり今回の謎とは関係がなさそうですが」橿原が答える。
「ノンノン、そこではないのです。細胞は海の中で生まれたはずなのに、細胞外液が海水とは違う組成というのは違和感がありませんか?」
「確かに」
「死海は水源がヨルダン川一本で流出する河川を持ちません。ヨルダン川を流れてきた水が死海に溜まりそこで蒸発することで水量の平衡を保っているのです。上流から来る塩分は行き場を失い死海に溜まります。そのため死海の塩分濃度がこれほどまでに高いと考えられています」
「海水や湖水の塩分濃度は変化しうるちゅうことですか。地殻変動や気候変動なんかで。ほな、細胞が生まれた頃、海水の塩分濃度は細胞外液と同じくらいやったかもしれないと。細胞外液は太古の海を封じ込めたものかもしれんと、そういう訳ですな」
「耳成君は理解が早くて助かるよ。ちなみに細胞内液は細胞外液と同じにはなりません。両者の組成の違いを敢えて作り出すことで膜電位やチャネルを機能させていますからね。まあこの辺りは二年生の生理学で勉強してください」
 橿原は眼から鱗が落ちたように熱心に筒井の話を聞いていたが、耳成は怪訝な表情だった。
「それでなんやけど先輩、どうやってこの池の塩分濃度を上げたんやろか」
「塩を百キロばかり買ってきて入れましたよ」
「それで先輩、この池の魚たちは今頃どうしてるんやろか」
 筒井が沈黙する。
 まさか、僕のちょっとした好奇心のせいで池の魚を全部犠牲にしてしまったのだろうか。そんな、そこまでしなくても。橿原は狼狽した。
「そんなこともあろうかと、こちらで保護しておきました」
 百地が水槽を満載した荷車を押して現れた。水槽の中で鯉や小魚たちが元気そうに泳いでいる。
 筒井は「勘の良いガキは嫌いだよ」と言いたかったに言えなかったので震えていた。
 そんなこんなで一件落着、と思いきや。
「またですか、筒井君……! どうしてこう問題ばかり起こすんですか!」
「ああ、そこは引っ張らないでください、脱げちゃいますよう」
 筒井は学務課の職員に引き摺られていった。
 その後には塩化ナトリウム三十パーセントになってしまった池と水槽の魚たちが残された。
 これをどうやって戻すというのだろう。橿原と耳成は顔を見合わせる。
 百地は短くかぶりを振り半分呆れながら言った。
「あーあ、筒井君またやっちゃったね。ヒトの体は太古の海を封じ込めてる。言いたいことは変じゃないのに勿体ないね。……でもね、死海にもたくましい細菌や古細菌が棲んでいてね、もしかしたら数万年後にはわたしたちとは違った細胞外液の組成をもつ多細胞生物に進化するかもしれないよ。わたしたちは絶えず進化して、海も地球も絶えず変化しているからね」
 筒井は遠くで学務課職員と言い合いをしていた。まだしばらく掛かりそうだ。
 百地がふわりと振り返って言う。
「まあ、いつもこんな感じだけど、交差点をよろしくね」
 医大生一年目、波乱の幕開けだ。

桜に幔幕

足羽川に散ってゆく。
背景は白く抜けて花びらの輪郭だけがはらはらと落ちてゆく。何千何万の薄片が風に揺れ、ホワイトアウトに溶ける。これをコンピュータ・グラフィックスで作るとしたらGPUが熱暴走しそうだ。見上げるとオーロラのごとく数式が降りてくる。この関数は微分できるだろうか。

「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」
筒井が斜め上に顎を上げながら呟く。
今日は麻地をサリーのように巻いて小さな丸眼鏡をしている。いつもは胡散臭いだけの探偵サークル部長が、桜の森の中では耽美な文学青年にしか見えない。
天を仰いだまま筒井は続けた。
「ええ、解りますとも、耳成君。別れにこだわりたくなりますよねえ。傷心の自分を味わいたいですよねえ。悲しいかな、それは歪んだ自己愛なんですよ、結局は。そこをほじくり返しても君のアイデンティティを支えてくれるものは出て来ないんですよねえ。そこでかの劇作家 寺山修司はこう返歌したのです」
「部長はん……」
「ほう、『幸福が遠すぎたら』をご存知ですか、耳成君。博識ですねえ」
「『京』の演算速度っちゅうのはどんなもんでしたっけ」
え。筒井は目を丸くして一、二秒フリーズした。
「いや、これをCGで作れ言われたら嫌やなあ思うて」
「ハハハ……私も大概ですが耳成君も独特ですねえ」
「部長はんはなしてそんなこと?」
「この前言っていたでしょう、高校三年間付き合った人と別れたと。そしてこの満開の桜を見て物思いに耽る。そうきたらもう考えることは一つでしょう」
「この桜を一緒に見たかった、とか? そういうしみったれたのは御免ですわ」
部長はロマンチストだったらしい。甘美な心象世界を打ち砕かれた部長は口を半開きにして他の部員たちのところへ逃げていった。

そう、北国医科大学の探偵サークル『交差点』は足羽川へ花見に来ていた。福井市の中心部を流れる足羽川沿い二・二キロメートルにわたって続く桜並木はまさに圧巻の一言で、福井市民の誇りだ。
北国医科大学は福井県坂井郡三国町にある県下唯一の医学部なのだが、いかんせん立地が田舎すぎる。京都から流れてきた一年生の耳成は、ちょっとした刺激を求めて、同じく一年生の橿原とともにこの怪しげな探偵サークルに所属することとなった。
入部を決めて早々、今日は四年生の筒井部長や百地副部長に誘われて満開の桜を見に来たというわけだ。

この間の飲み会でついつい高校の時のことを口走ってしまって、アルコールの作用もあってかなぜか涙腺が緩んでしまった。そんな様子を心配して声を掛けてくれたのだと思う。部長は不器用だけれど優しい人間なのだろう。まあ、説教くさくて煙たがられるだろうけれど。こっちが何か悪いことをした気分になる。
「ねー、耳成君は何語を取ったの?」
サークル一行と距離を空けて歩いていたつもりだったが、百地先輩が気さくに問いかけてきた。頭の後ろに組んでいた手を急いで解く。
「えっ、いや、普通にドイ語を」
「硬派だねー。わたしの時にはまだ解剖の香具山先生がいて、英語とドイツ語だけじゃなくて、ラテン語も覚えさせられたなー。今の第二外国語はドイツ語とフランス語とロシア語と中国語しかないんだっけ?」
「チャイ語ラクショー。絶対落ちない。一択っしょ」
三年生の八木先輩が口を挟んでくる。チャイ語とは中国語のことらしい。大学生というのはなぜか不思議な略語を使いたがる。
「ロシア語を選ぶ変態は私くらいでしょうね」
 部長が小さく呟き、
「……フラ語。……取ったの五人しかおらんかったけど」
 二年生の高松塚先輩は目線を宙に漂わせながら会話に参加し、
「僕はとりあえずドイツ語にしちゃいました」
 と一年生の橿原が付け加えた。
「と、いうことはですよ、なるほどなるほど」
 部長はなぜかすっかり気を取り直していた。不敵な笑みを浮かべている。これはヤバそうだ。
「面白いことを思いついてしまいましたねえ。今日は上物が入っているんですよ。フフフ、今日は雄島で肝試しといきましょうか」
「イイっすね先輩! おい新入生、雄島を知っているか?」
 八木先輩が間髪を入れず食いついた。雄島は東尋坊のすぐ近くにある外周約二キロメートルの無人島。新歓の時期になると毎年、部活の先輩が新入生を肝試しに連れて行くのが習わしらしい。その手の筋では心霊スポットとして有名だとか。
「わかってますねえ、八木君」
「わかってますとも、部長!」
二人は熱く手を組み、その傍で百地先輩は苦笑いをしていた。また池の魚が大変な目に遭わなければ良いが。
耳成はそんな彼らをさておき、寺山修司の詩を口ずさみながら足羽川の桜並木を後にした。

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう

 メーリスで全体招集がかけられ、雄島橋の駐車場で車を降りた時には日は傾きかけていた。
 朱塗の長い橋が真っ直ぐ島へ繋がっている。それ以外は何もない。辺りは静寂に包まれ、厳かな空気が立ち込めている。畏怖というべきであろうか、橋の手前で思わず足が止まった。クローズドサークルに自ら飛び込んでしまうような気がして、橋を渡る一歩一歩が重かった。
「いやー、いつ来ても綺麗な海だねー」
耳成は平静を装うのに精一杯だったが、百地は欄干から覗く海の底に夢中だった。
雄島橋を渡り切ると、石造りの鳥居と狛犬が見えた。その手前がちょっとした広場になっている。ここで筒井は全員に声を掛けた。
「それでは皆さん! 第十回雄島肝試し&謎解き大会い!」
 ドンドンパフパフと自ら擬音語を追加した。ぱらぱらと拍手が起こる。
「ルールは簡単、一人ずつ島を時計回りに一周して帰ってきてくださいねえ。途中に謎解きボックスを置いておきましたから、回収してくださいねえ。謎解きボックスの地図は一人ずつこれから分けますねえ」
 一、二年生の耳成、橿原、高松塚に地図が配られた。
「それでは一人目は耳成君にしましょうかねえ」
 耳成はなるほどと頷きながら聞いていたが、筒井を凝視して突然の大抜擢に無言の抗議を示した。
「そりゃあ一番怖そうにしてましたから。このゲームを一番楽しめるかなと思いましてねえ」
 鬼畜や。楽しむのはジブンの方やろ。
耳成は事実を受け止める暇もなく、百地や八木から手厚いレクチャーを受けた。八木は最後にこう付け加えた。
「雄島をまわる時は必ず時計回りなんだ。どうしてか知ってるか?」
「……? なしてですか?」
「反時計回りに行くと帰ってこれなくなる」
 八木は急に無表情になって動きを止めた。耳成の背中に戦慄が走った。
「人の手のように伸びるヤブニッケイの木々においでおいでをされて、迷子になってしまうんだ」
 耳成は一歩二歩と後退りをした。
これはただの肝試しやない。モノホンのサバイバルや……!
「ええですよ、受けて立とうやないですか」
 耳成は捨て台詞を残して恐怖を振り切るように階段を駆け上がった。
「おお、活きがいいですねえ。本当に迷子にならないといいですが」
 筒井が小さく呟いた。

 流紋岩の階段を登り切ると、大層なお社が姿を現した。かなりの歴史がありそうだ。しかし、ここは日本海の無人島だというのに、周りは亜熱帯を思わせる木々ばかり。いつもなら好奇心を持って見ていられるが、今は不気味さしか感じない。学生のお遊びで神域に立ち入るなんてバチ当たりやないか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、耳成はジーンズの後ろポケットから財布を取り出し、五百円玉を賽銭箱に投げ込んで柏手を打った。
神さん仏さん、お邪魔してすんません、どーか生きて帰らしてください。
耳成は一心に念じた。
地図を見ながら時計回りに進んでいく。途中にあった鳥居からは東尋坊が見えた。樹林帯をしばらく行くと、柱状節理の荒野が広がった。日本海の強風が直接打ちつけて、服がバタバタと大きな音を立てた。風の音と波の音、それしか聞こえない。
波の音に目を向けると、海の向こうで今まさに太陽が沈もうとしていた。太陽に続くサンロードが黄金色の輝きを放つ。それは強風の中とは思えない景色だった。
耳成は地図が飛ばされないように折り畳んで胸ポケットにしまい、次を目指した。
しばらく行くとヤブニッケイの純林に入った。この辺りに「謎解きボックス」があるというが……、あれか。謎解きボックスはあっさり見つかってしまった。道沿いの木に引っ掛けてあるだけなんて、なんてお粗末なんだろう。

耳成はボックスを携えて悠々とスタート地点へ戻った。そこには百地の姿があった。
「おかえりー。早かったね、耳成くん。怖かった?」
「怖いゆうより、綺麗でしたわ、ちょうど日い沈むとこで」
「ええー。耳成くんの反応楽しみにしてたのにー」
 百地がいたずらな顔をする。
「それより、謎解きがめちゃ簡単だったんですわ、これが枝に引っ掛けてあるだけで」
「その中身は開けてみた?」
 中身があったのか。少し力を加えてみると、白い木の板が転がり出た。なんだろう。拾い上げてみると英語の筆記体が書いてあった。
 CaëHala
カエハラと読むのだろうか。eの上に点々がついているしHだけ語中なのに大文字だ。しかしこれではまるで何も分からない。
そうしている間に、橿原、高松塚&八木先輩ペアが戻ってきた。八木先輩は「レディーを一人にはさせられないだろう」と言った。人によって対応が違いすぎて却って潔い。
 彼らが持ち帰ったボックスにも板が入っていた。赤と青の板だった。そしてそれぞれに英語の筆記体が書いてあった。
 赤い板には、
 3uHcэuga
 青い板には、
 gakэra
 の文字があった。
 いよいよ読めなくなってきた。数字の3が入ってくるし、カタカナのヨのような、eがひっくり返ったような、θの一部分が欠けたような、変な文字が入っている。
 なるほどね、と橿原が鼻を鳴らした。
「この筆記体、英語じゃなくてドイツ語なんですよ。だから英語にはない文字が入ってるんです。ウムラウトとか」
「そうすると、どう読むんだ?」
 八木が尋ねた。
「まず耳成君のは、……変だな、ドイツ語で外来語以外にCで始まる単語はないはず」
「おいおい、いきなり仮説崩れてるじゃねえか」
そうですね、すみません、と橿原は引き下がった。
しかし、いい点を突いている気がする。これは英語ではない。
なるほど、と今度は高松塚が鼻を鳴らした。
「……大事なヒントを見落としてたね。この板の色。青白赤。トリコロールといえばフランス国旗。それにフランス語にはトレマがある」
「そうすると、どう読むんだ?」
 再び八木が尋ねた。
「……カエアラ、3ユウーギャ、ギャクラ。そんな単語聞いたことない」
 暗礁に乗り上げてしまった。四人とも腕を組み、頭を抱えた。長方形の板、謎の筆記体、赤白青の三色。
 なるほどね。
「橿原、高松塚先輩、おおきに。謎、解けましたよ」
 その場の四人とも、耳成を食い入るように見つめて次の言葉を待った。
「まず、青白赤の長方形の板。これはやっぱ国旗なんです。でも縦やのうて横にして、白青赤のロシア国旗です」
 耳成は板を積み上げてロシア国旗を作ってみせた。
「ほんで、ロシア語はラテン文字やのうてキリル文字です。この筆記体をブロック体に変換すると、
Саёнала
дакэга
зинсэида
となります」
ペンを取り出して板に書き込んだ。
「ちょっと待ってくれ、gがこれなんて、全然違うじゃないか。これ顔文字でしか見たことないぞ」
「дはデーと読みます。ギリシア文字のデルタが変化した形ですわ」
「じゃあNのひっくり返ったやつは?」
「これはиでイーと読みます。筆記体にするとuになるんですわ」
はあ、と八木は感心してため息をついた。
「すごいね、ロシア語知ってるなんて」
「シベリア鉄道乗ったときにちょっと齧ったんですわ」
 耳成は百地に褒められて得意気になった。
「ほんでこれをラテン文字に転写すると、
Sayonala
dakega
zinseida
つまり、さよならだけが人生だ、です」
 おおっ、と歓声が起こった。
我ながら完璧な回答だ。
「天才じゃん耳成」「すごいね耳成くん」「さすが耳成」「キミすごいね」
耳成に称賛の嵐が吹き荒れた。
百地先輩に褒められるとは、今日はなんていい日なんだろう。
「でも、『さよならだけが人生だ』が答えって、これから何が起こるんだろうね」
 百地の一言で、五人は凍りついた。とてもこれから楽しいことが起こりそうではない。そして、ここは心霊スポットとしても有名な雄島。対岸には東尋坊。宵の口、空は瞬く間に黒ずみ、みながひた隠しにしていた不安や恐怖が覆ってゆく。

 雄島橋に一つの人影が見えた。部長だろうか。悪い予感を振り払おうと「おーい、部長はん、謎解けましたでー」と叫ぼうとしたが、その手に持っているものを見て驚愕した。一升瓶だ。あの一升瓶で何をしようというのか。週刊誌に「狂気! 血塗られた一升瓶」という文字が踊るのを想像してしまった。なにしろ、この部長は何をしでかすか分からない。前科がありすぎる。
そうしている間にも人影は近づき、五人の眼前に迫った。
「やあ諸君。謎は解けましたかねえ」
「……『さよならだけが人生だ』」
 耳成は恐る恐る答えた。
「そうですよ大正解です。さすがですねえ。それじゃあお楽しみといきましょうか。皆さんこれを見てください」
 筒井はそう言って一升瓶を掲げた。
「あ、それ、黒龍の純米大吟醸じゃないすか!」
 八木が目を輝かせて言った。
「お眼が高いですねえ。その通り、黒龍の純米大吟醸です。なかなか手に入らない銘酒ですが、松岡町の蔵元に直接行って手に入れてきましたよ」
「……どうして今酒なんですか」
 耳成は未だ怪訝な顔をして尋ねた。
「どうしてって、今答えが出たでしょう。あれ、もしかして于武陵を知らないですか」
「ウブリョウ?」
「そうです。唐代の詩人 于武陵の五言絶句を井伏鱒二が翻訳して、あの有名な
『サヨナラ』ダケガ人生ダ
が生まれました。そして于武陵の五言絶句の題名は、」
筒井はスポットライトを浴びた舞台役者のようにポーズを取った。
「酒を勧めると書いて『勧酒』です。さあ、今から宅飲みですよ諸君!」
八木が雄叫びをあげて筒井と肩を組み、
「わかってますねえ、部長!」
「わかってますとも、八木君」
 と言葉を掛け合った。その隣で百地は「あはは……」と苦笑いをしている。
 なんだかいつもの風景だ。バイオレンスなことにならなくて良かったとしよう。しかし何だろうこの踊らされた感覚は。虫の居所が悪くて酒を流し込みたくなる。
 耳成は肩を組む二人に駆け寄り加わり、雄島には笑い声がこだました。

二重螺旋

 当直室の小さい窓から朝日が溢れてくる。宙を漂う綿毛が鉱石の輝きを放つ。診察台の上に布団を掛けただけの、国鉄三等寝台や野戦病院のようなベッドは寝心地などないようなものだけれど、こうして朝を迎えることができたということは、今日もこの街が平和だったということだ。素晴らしいことだ。
ゴウンゴウンと何やら機械の音がする、元倉庫を少しばかり整頓しただけの部屋。独房と言った方が良いかもしれない。研修医に分け与えられる部屋などこんなものだ。
三次救急という最後の砦を担う当院は、ひっきりなしに救急車がやってくる……というわけではない。もちろん、トラックと乗用車の交通事故で四肢がひしゃげた人や「開胸心マ」が必要な人も来る。でもその代わり、風邪、発熱、頭痛などなど、ちょっとした症状の人々は来ない。市の医師会がつくる夜間救急室が相手をしてくれるからだ。そのお陰で重症例に絞って対応することができる。世に言う「ハイパー病院」では、軽症も重症も十把一絡げに救急車で横付けされるから、医者は徹夜で患者の行列に対応する羽目になる。そもそも、軽症の人は普通に明日来てくれたらいいのだが。
ひと欠伸。
 いま何時だろうか。胸ポケットに入れた当直PHSをもぞもぞと取り出す。
 不在着信 一〇件
 おっと? 夢だったようだ。もう一寝入りすることとしよう。
 間髪を入れずPHSが鳴り響く。震える手で受話ボタンを押した。
「センセ! いったい何回掛けたと思ってるんですか、早く来てください、上の先生は下りてきてもう一人帰してますよ」
 救急看護師の辛辣な声が耳を刺す。なんということだ。研修医の私がまず対応しなくてはいけないというのに、指導医の先生を働かせて私はぐうすか寝ていたということか。ああ、取り返しがつかない。視界がぐわんぐわんと揺れる。
韋駄天で当直室を飛び出し、螺旋階段を駆け下りた。

二〇一〇年初夏 福井県三国町 珈琲喫茶 香茶店(こうさてん)

「という夢を見たんですよねえ」
「なんや夢オチかいな」
 長々と続いた筒井(つつい)の話は竜頭蛇尾であった。前のめりになって聞いていた耳成(みみなし)はブーイングしながら仰反って後ろに手を組んだ。
「いやー、先輩、夢でよかったですね。現実だったら大目玉ですよ」
 一年生の橿原(かしはら)が相槌を打つ。
「どうでしょうかねえ、予知夢なんていうのもありますからねえ」
 そこは頼みますよ、と笑いながら橿原が続けた。気が利く後輩だ。
 今日は本新歓。我らが北国(ほっこく)医科大学探偵サークルへ入部する新入生を歓迎する会だ。部員勧誘のための歓迎会を「新歓」と呼び、入部祝いの歓迎会を「本新歓」と呼んでいる。兼部を禁止している部活もあるから、今まで各部活で新入生の奪い合いをしていたわけだ。晴れて本新歓ということで、我らがアジテーティング・ポイントの珈琲喫茶「香茶店」にはOBOGの先輩方も集まっていた。
 今年の新入生は結局二人になった。耳成と橿原だ。耳成は筒井と同じ京都の京南高校卒で、確か四浪していた。いくつ下だったか忘れたが、高校の後輩だ。京南生が旧帝大や首都圏、京阪神ではない大学へ進学することを「都落ち」と言ったりする。耳成も入学当時は相当コンプレックスにしていたが、群馬出身のおっとりした橿原との出会いもあってか、次第に自然体になっているようだった。先輩に対する口の利き方がなっていないのが気になるけれど大目に見てやろう。
「一年生は今何をやっているんですか?」
「DNAの複製とかですわ。あとは英語やら二外やら倫理やら」
「正直、畝傍(うねび)教授の授業は速くて難しいです。ポリメラーゼとか色々出てきますが何のことやら」
「いいですねえ。夢がありますよねえ。デオキシリボ核酸。ワトソンとクリックが二重螺旋構造を発見した時には、それこそシャンポリオンがロゼッタ・ストーンを解読したときような快感があったでしょうねえ」
「例えが独特だなあ」
 同級生の百地(ももち)が苦笑いをしながら耳を傾ける。
「歴史学を塗り替える大事件なのですが、それはさておき。染色体DNAは二本鎖で二重螺旋構造をとりますよねえ。ちなみに、一〇塩基対で螺旋一周になるんですよ、螺旋階段を一〇段昇ると一周というわけです。そして、遺伝情報は二重螺旋の間に架かる塩基対にあって、それを読み取って複製するんですから、まずは二本鎖を解かないといけませんねえ。解けた一本鎖DNAにポリメラーゼを主とした様々な蛋白質が結合し、鋳型となるDNAの塩基に相補的なヌクレオチドを結合させることで一本鎖を二本鎖にするわけです。結果二本鎖DNAが二本できるので『複製』ということですねえ。さらにこの『解く』というのがまた深くて、エピジェネティクスの領域になるわけですが」
「……分かったような分からないような」
 酒が回ったわけでもないのに橿原は目を回している。
「物理選択には難しいんじゃないかな、もっと順を追って説明しないと」
「百地先輩、今は何科なんですか」
 橿原が渡りに船とばかりに百地に水をお酌しながら尋ねた。
「授業は循環器と整形と、あと脳外だったかな」
「循環器……、確か心臓でしたよね」
「そうそう、心臓と大血管。ふふ、せっかくだから問題出しちゃおうかな。心停止で電気ショックが必要な異常波形は?」
「異常波形? 心電図ですか? 全然分かりません」
「AEDに任せたらええんと違います?」
 耳成くん、キミねえ、と百地はまた苦笑いした。
 後輩に助太刀しよう。筒井は腕組みしたまましたり顔で答えた。
「心房細動と心室細動でしょうねえ、AEDは automated external defibrillator 自動体外式『除細動』器ですから」
「半分正解」
 筒井は目を見開いた。華麗に正答を決めたと思っていただけに、筒井は驚きを隠せなかった。そういえば循環器の授業は何回出席しただろうか。出席点が足りないのはまずい。
「心停止はVF, pulseless VT, PEA, asystoleの四種類に分類されるんだけど、除細動、つまり電気ショックが有効なのは、はじめの二つ、VFとpulseless VTだけなの」
「なんですか、横文字ばかり」
「あらあら、筒井くんも横文字披露してたじゃない」
 百地が鼻を鳴らしながら得意げな顔になった。ウェーブの掛かった長髪は軽いブロンドに染まっている。百地は二回留年してまで世界を旅して回った生粋の意識高い系だ。英語の弁論大会で大臣に表彰されたとかというようなことを言っていた気がする。今日はハーマイオニー・グレンジャー並みに舌が回る。筒井は前髪を掻き上げてドラコ・マルフォイになってやった。
「百地はよく勉強しているなあ」
 甘樫(あまかし)が特製ジンジャー・エールを片手に会話に参加した。甘樫はサークルOBで、大学病院に残って初期研修医をしている。とてもふくよかで物腰の柔らかい先輩だ。
大学を卒業して医師国家試験にめでたく合格すると、初期研修医としてほぼ全ての診療科の臨床研修を課され、大抵一ヶ月ごとに診療科をローテーションしていく。二年の年季が明けると満を持して……後期研修医になる。医の道は遠く長いのだ。ちなみに初期研修医はレジデントとも呼ばれる。毎日遅くまで残業するあるいは泊まり込む、病院の住人residentだからだ。
「ありがとうございます! ACLSサークルでも心停止の波形について教えているんですけど、覚えるのって難しいですよね」
「ACLSだと除細動器の出力が何ジュールだとか、アドレナリンを何分間隔で投与するかとかも覚えるよね。医学生のうちは実践が積めないから覚えづらいかもね」
「そうなんですよね。先輩は確か今救急を回っていましたよね、こういった実践をされることもあるんですか?」
「そりゃあもう毎日さ。嫌でも覚えるから安心していいよ」
 甘樫は全員に向けて笑いかけた。こんなにゆったりした先輩も救命病棟二四時みたいなことを毎日こなしているのか。筒井は医学科六年目だが、留年を二回しているので四年生だ。あと三年でその境地に達するとは到底思えなかった。もう何回かモラトリアムを満喫するとしようか。しかし、かつての同級生はもう来年医者になるのだ。仮にも医の道を目指して、それが目前に迫っているというのに、いつまでこの調子でいられるのだろうか。
「さっきの筒井の話だけど、同じようなことがあったんだよね」
「シャンポリオンがロゼッタ・ストーンを解読したようなことですか?」
「絶対違うでしょ」
 百地が筒井にツッコミを入れる。夫婦漫才の領域だった。
「そっちじゃなくて、看護師さんに呼び出されたのに気付かなかったっていう話。幸い、二回目の電話で起きて救急車の到着には間に合ったんだけどね。危なかったあ」
「ほんとですよ、センセ」
 オレンジ・パフェを突きながら三輪(みわ)が反応した。三輪は甘樫と同じ学年のOGで、大学病院で看護師をしている。看護科は四年で卒業なので、社会人歴は三輪の方が上だ。今月は三輪と甘樫が同じ救急部にいるようだ。
「その節はどうもすみませんでした」
甘樫がふざけ気味に頭を下げる。
「まったくもう、二回目はないですからね?」
 三輪の言葉には凄みがあった。とても笑える雰囲気ではなく、関係のない耳成や橿原たちも身震いを催した。
「そういえば、まあ大したことじゃないんだけど、そのとき変なことがあったんだよね」
「変なこと、ですか?」
 筒井の食指が動いた。
「うん、救急車が来てサイレンが鳴り止んでもまだセンセが来てなかったから、仕方なく私が直接呼びに行ったんだよね。でもセンセはいなくて、おかしいなと思って救急部に戻ったらセンセはもう来て対応してたの。当直室は救急室の真上だから、階段で絶対に会うはずなのに」
「確かに、それはおかしなことですねえ。甘樫先輩は何か覚えはありますか?」
「呼びに来てくれたんだ、わざわざごめん。あのときは慌ててたから、白衣を掴んで走って階段を下りたよ。サイレンが鳴り止んだのも聞こえたしね。ファーストタッチの時点で研修医がいないなんて話になったら指導医の先生に何と言われるか。でも三輪ちゃんとは会わなかったなあ、救急部でも階段でも」
「違う階段を使ったということはないですか?」
「俺はもちろん急いでいたから最短の螺旋階段を使ったし、三輪ちゃんもそうじゃないかなあ?」
「私も螺旋階段で呼びに行ったよ」
「なるほど、同じ階段を同時に使ったのに、上りと下りで二人は出会わなかったと、そういうわけですねえ。この謎、ご依頼ということでよろしいでしょうか?」
 筒井は不敵な笑みを浮かべた。三輪先輩が微笑み返す。
「そうだよね、甘樫センセ。可愛い後輩が言ってるよ」
「ううむ、そうだなあ、報酬は黒龍(こくりゅう)の純米大吟醸でどうだい?」
「それはこの前飲みましたよね、部長!」
 いつから聞き耳を立てていたのか、三年生の八木(やぎ)がすかさず割り込んだ。
「仕方ないなあ、梵(ぼん)の吟撰で手を打ってもらえるかい」
「イイっすねえ! 行っちゃいましょう、部長!」
 酒が入っているはずもないのに八木はとてつもなく盛り上がっていた。筒井は、言われなくとも、と前置き、
「承りました。螺旋階段の謎、探偵サークル『交差点』がお引き受けいたします」

福井県三国町 北国医科大学医学部附属病院

 メーリング・リストで召集が掛けられ、部員たちは臨床講義室前に集まった。
「こっちの方は来たことなかったです。白衣の人が行ったり来たりしていて、病院にいるって感じがしますね」
 橿原が辺りを見回す。
「まあ大学病院やからな。大学附属病院なんか病院附属大学なんかは分からへんけど。ほんで部長サン、勝算はあるんか?」
「いいえ、何も分かりません。同じ階段を同時に使ったら必ず出会うはずです。お二人の証言が正しいのであれば、何かしらのトリックがあると思います」
「証言が正しいとは限らんと? まさか夢オチの線もあるっちゅうことですか」
「それはおもしろくないですし、救急現場では誰がいつ何をしたか克明な記録が残っているはずですし、第一、そんな嘘をついても誰も何の得もしないですけどねえ。分かってはいますが、全てを疑って掛かりましょう」
「ああ、ごめんごめん、待たせたね」
 小走りで白衣の甘樫がやってきた。私服だと穏やかなお兄さんだが、白衣を纏うと「先生」になる。効果は絶大だ。
「それでは皆さん、行きましょうかねえ」
「どこに行くんですか?」
「現場検証です。犯人は現場に戻ると言いますからねえ」
「犯人はいないんじゃないかな。それって救急部に行くってこと? 大丈夫なの?」
 しっかり拾ってから的確な質問をする。百地の良いところだ。
「その点は安心していいよ、救急の先生に『学生の見学です』って言ったら歓迎してくれてたから。でも三輪ちゃんは仕事で忙しいってさ」
「そういうわけです。では皆さん、まずは救急棟二階の医局へ向かいましょう」
 甘樫の名札で医局の鍵を開けると、その奥に当直室がいくつも並んでいた。昼間なので全ての扉が開かれ換気されている。部屋はごく簡素。三畳ほどの空間にベッドと白衣掛けがあるだけだった。横になれるだけで最高だよ、と甘樫が解説した。
 件の螺旋階段は医局の一角にあった。無骨で非常階段を思わせる造り。壁面や段差は塗り固められ、横幅は一人分しかない。圧迫感がある。閉所恐怖の人は使えそうにない。
「暗いんだよね。夜はもっと暗くなるから転ぶ人も多いよ。俺も何回か寝ぼけて足を踏み外したよ」
 甘樫は笑いながら言うが、こういうことを避けるために消防署では滑り棒を採用しているとかしていないとか聞いたことがある。白衣を着た人が滑り棒で降りてくるのはなかなかシュールかもしれない。
 筒井はおもむろにポケットから分度器を取り出し、螺旋階段の中心に宛てがった。
「一段三六度といったところですか。ヒトのDNAと同じですねえ」
「ちょっと待って、筒井くん、どういうこと?」
「一〇段で三六〇度、つまり螺旋を一周するのでDNAと同じだなあと」
「そこじゃなくて、何で分度器を持ち歩いてるの? 使うのは小学生くらいじゃない?」
「この分度器は真鍮製なんですよ。小学生は持てません」
「小学生と張り合うんじゃないの。まあいいわ」
 甘樫と部員たちは一列になって螺旋階段を下りてゆき、程なくして一階の扉を開けた。救急初療室にはけたたましく警報音が鳴り響き、その中を医師や看護師が右へ左へ行き交う。ここはまだ踏み入れてはいけないところだ。筒井は救急部の扉をそっと閉めた。
「あれ、もういいのかい?」
「いいのです。皆さんお忙しそうですから邪魔はできません。それに、謎はもう解けましたから」
 一行がどよめく。声は螺旋階段に反響して大きくなった。筒井は人差し指を唇に当てて静かに続けた。
「最後に仕上げをさせてください。そうしたら皆さんもお分かりになると思います」

「もう謎は解けちゃったの?」
「ええ、今すぐ、三輪先輩がお昼休みのうちに真相をお伝えできます」
「随分強気だねえ」
 昼休み中の三輪を捕まえて謎解き披露となった。筒井は自信満々に進行を続けているが、他の部員たちは互いに顔を見合って首を傾げていた。
「ほんで部長サン、トリックはなんやったんですか」
「まあまあそう焦らず。トリックはなかったのです」
「ちゅうことは、証言が間違っとったと? 先輩らが嘘ついてはると?」
「筒井くん、それはないわ。カルテには分単位で記録がある。私だけじゃなくて他の看護師やセンセも書くから、立証には十分なはずよ」
「先輩を疑ってはいません。同じ階段ではなかったということです」
「そうは言ってもね、救急棟の階段はあの螺旋階段と外階段だけだし、さすがに外階段っていうのはないんじゃないかな」
「そうです。あの螺旋階段で間違いありません」
「ううん、話が見えてこないな」
「百聞は一見に如かずですよ。先輩、行きましょう」
 筒井は三輪を促した。他の部員たちも後に続く。三輪の名札で看護室の鍵を開けると、正面に螺旋階段が現れた。あれ、と百地が声をこぼした。四方を塗り固められた螺旋階段を登っていくと、医局前の廊下に出た。
「先輩、僕たちは瞬間移動でもしたんでしょうか。時空の歪みでしょうか。それともどこでもドアを開けてしまったのでしょうか」
 橿原が宙を見つめながらつぶやく。
「何言ってるの、新入生。普通に階段を上っただけじゃない」
「俺らは医局の中の階段を下って救急部へ行ったんです。なのに上ったら医局の前に出てきてしもうた」
「そうです。これが真相なんです」
 真相と言われても。三輪と部員たちは困惑で言葉が出なかった。百地は親指の爪を噛みながら記憶の糸を辿っていた。
「まだ納得いかないようですねえ。DNAと同じ二重螺旋ですよ」
「わかった! 二重螺旋階段だったのね」
 百地が目を輝かせた。
「その通りです。サン・パトリッツィオの井戸、シャンボール城などで実例がありますねえ。日本でも福島に栄螺(さざえ)堂というのがあります」
「イタリアのサン・パトリッツィオの井戸、フランスのシャンボール城。どちらも行ったことあるわ。そんなに有名じゃないのに、筒井くんよく知ってたね」
「お褒めに預かり光栄です、ミス・ハーマイオニー・グレンジャー」
「待て待て、私たちを置いてきぼりにしないでくれる?」
 三輪が手を振ってストップを掛ける。
「もう一周したらより分かりやすいですが、いまドクターの甘樫先輩がいらっしゃらないのでできません。私たちが下りで使った螺旋階段と上りで使った螺旋階段がそれぞれ別のものだったということです。二つの螺旋がズレて存在する二重螺旋構造の階段です。これにより、上り用の階段、下り用の階段などと使い分けることができます。サン・パトリッツィオの井戸が好例ですねえ。私たちが下った階段の入口は医局の中、出口は救急部の初療室で、上った階段の入口は救急部の看護室、出口は医局前の廊下でした。ここでは医師用と看護師用になっていたようですねえ。研修医が寝坊なんて前代未聞だと思いますから、三輪先輩も焦っていたと思います。先輩、実は当直室がどこにあるか知らないのではないでしょうか」
「そうだね……。センセがどんなところにいるかは知らないんだよね。センセのスペースはだいたい鍵が掛かってるし。センセは呼び出すものという認識」
 先輩と職場が一緒になったら馬車馬の如く働かされそうだ、と筒井は苦笑いになった。

 三輪は足早に午後の勤務へと戻っていった。一行も帰路につき、甘樫が梵・吟撰を買ってくるのを待つこととした。
「先輩はどの時点で真相に気付いたんですか」
 橿原が尋ねた。
「甘樫先輩が名札で医局の鍵を開けたときですかねえ。医師専用の階段を看護師も使えるようにしておくとは考えにくいですから」
「はあ、さすが探偵サンやなあ」
「もっと褒めてもいいですよ」
「そこは謙遜しなよ、大人げない」
「大人になると褒められることが少ないですからねえ、積極的に褒められにいこうかと」
「筒井くんは長生きするよ」
 百地は呆れながらも筒井の歩みに合わせた。

海と薄膜

海と薄膜

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-18

CC BY
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CC BY
  1. 海と薄膜
  2. 桜に幔幕
  3. 二重螺旋