今日の晩ご飯

高木 純

今日の晩ご飯


 今日の晩ご飯、何にしようかな。
 そう考える時間がとても楽しい。僕はこの後、家に帰ってから買い出しに出掛ける。だが、その時に何がお買い得なのかは今朝の折り込みチラシで見たはずなのに、すっかりそれは頭の中から抜け落ちていた。
 今日の晩ご飯のメニューを考えるにあたって、重要なのは昨日の晩ご飯のメニューだ。しかし何故か、昨日の晩ご飯だって、何を食べたか思い出せない。昨日あった出来事から芋づる式に思い出すしかないが、それも難しかった。
 僕は、生活介護事業所に通所している、身体障害者だ。俗にいう車いすユーザーだが、多少は歩くこともできる。リハビリを頑張ったおかげだ。
 僕はある女性と同棲している。と言っても、彼女と僕は単なる同居人に過ぎない。恋愛感情を互いに抱いていない――いや、抱かせてくれない――のだ。僕らはキスもセックスも、抱擁さえもしない。僕らの関係を一言で言い表すのはとても難しい。

 彼女との出会いは2019年、僕が23歳のときのことだった。彼女が僕の通う施設に実習生として来て、そこで僕は彼女の明るさと魅力の虜になった。当時彼女は19歳、未成年と付き合うのは気が引けたがあのとき、一歩踏み出せなかったら今後しばらく僕に恋人ができることはなかった。
 それから半年後、未曽有のウイルス禍が日本を、いや世界を襲い、ものの見事に社会活動が完全に停止に追い込まれた。僕の通っている施設も休園を余儀なくされ、実習生の受け入れも原則停止となった。もうその頃は彼女も実習を終えていたが、彼女と知り合うのが1年遅かったら、彼女と付き合うことも、同棲することもなかった。
 一期一会を大切にしようと思ったのは、そのときだった。


 僕の乗っている車が、ゆっくりと減速し始めた。
 それと同時に、見慣れた風景が僕の前に現れた。
 僕の家の前に着いたのだ。
 必ずしも、バスポイントが家の前であるとは限らない。家の前にバスポイントが設定されるためには、ほかの車の進行の妨げにならないことが前提となる。
 車が完全に停車すると、道路と直角で車体と一体になっている乗降車用リフトが道路と平行になり、車いすを添乗員に押され、乗降車用リフトの上に乗る。
 僕は、添乗員の「また明日ね」という声に応えながら、迎えに来てくれた僕の同棲相手のもとに降りて行った。
 僕の同棲相手――西村有希――は何も言わずに、僕の車いすを押していく。「ただいま」とか「お疲れ様」とか、一言くらい何かあってもいいじゃないか、とは思うものの、僕らは押し黙って家路を急ぐ。
 彼女は小学校の教諭をしているが、たまたま今日は休んでいる。現在彼女は23歳で、新米教師という立ち位置だ。学校と保護者との板挟みになり、並ならぬストレスを抱えているようだ。
 だからなのか、彼女は最近元気がない。この前、保護者会があり、いわゆるモンスター・ペアレントたちの餌食になってしまったようだ。若いから見くびられてしまったのかもしれない。彼女の元気がないと、生活に張りがない。僕が思うに、女性の明るさが、男性をやる気にさせる。彼女のそれはやはり、僕をやる気にはさせてくれはしなかった。
 もっとも、彼女は仕事の悩みは職場で解決して、家には持ち込まないというスタンスらしい。しかし本当にそうなのだろうか。それなら何故彼女は最近元気がないのか。思い当たる節が、僕にはないとは言い切れなかった。


 さて、今日の晩ご飯は何にしよう――。
 僕らの住むアパートのエレベーターが閉まるとき、僕はまたそんな考え事に耽っていた。
 僕らの住む部屋は、203号室である。そのとき、エレベーターを降りる間際に「今日は私が作るからいいよ」と同棲相手に言われた。
 ご飯を作るのは僕の役目である。おいしい晩ご飯を作り、何とか彼女を家に繋ぎ止める。僕と一緒に暮らすのが嫌でも、美味しいご飯を作りさえすれば、僕の同棲相手でいてくれる。それが僕にできる、最大限の奉仕なのだった。
 だが前述のとおり、同棲相手は今日休みなのだ。ならば別に、晩ご飯を作ってもらうことに異論はなかった。それなのに何か心に引っ掛かりを残すような感覚を、僕は覚えないわけではなかった。
 僕は豆柴の正信を散歩に行かせた。

 有希との同棲生活がうまくいかなくなってから、もう半年以上が経つ。
 僕らが同棲生活を始めて三ヶ月ばかりが過ぎたところで、家事を一身に背負わなければならないことに不満を覚えた彼女は、唐突に僕に別れを告げた。
 別れを告げられた僕は唐突すぎて何のことか分からなかった。しかも僕は有希と付き合うまでほとんど恋愛経験のないような人間だったから、そんな女性の機微に気付けやしなかった。
 僕は「分かったよ、ごめんね」と宥めるように言ったが、打開策は全く思いつかなかった。
 何せ、僕にできることは格段に少ない。それは障害のせい、と言ってしまえばそうなのだが、そんな一言で片付けたくはなかった。まるで、「自分は身体があまり動かないんだ」と白状している気がした。
 いや事実そうなのだ。そうなのだが、下肢が思い通りに動いてくれないのを上肢で何とかしている。上肢の方がまだ、使い物にはなるからだ。
 そこで、僕は保護犬の豆柴、正信を家に迎え入れた。それで彼女の気を紛らわそうとしたが、それでは根本的な解決になっていないと指摘され、彼女との関係は悪化の一途をたどっていく一方だった。
 だから結局、僕がご飯を作ることで落着した。
 そのために、外出用と在宅用で車いすを分けることにした。キッチンまで車いすで移動することができれば、あとはご飯を作るだけだ。
 それからの僕の日課は、彼女に満足してもらえるような美味しい晩ご飯を作ることと、正信を散歩させることになった。
 だから彼女の提案を聞いたとき、僕はそうなったのである。


 とはいえ、彼女が作ると言ったら、彼女が作るのだ。僕は正信と散歩に出かけたあと、半年前と同じように無印で買った安物のソファに座り、ダラダラしていた。
 いい匂いがしてきて、僕は思わず腹が鳴りそうになるのを抑える。
 僕の同棲相手が作る晩ご飯は、半年前に食べたきり食べていないが、美味しかったという記憶だけは鮮明に残っていた。
 だが、僕だって負けていないはずだ。
 別に料理は勝ち負けではないが、作り手によって味の優劣に差が出るのは確かなことだ。
 僕は彼女に軽い嫉妬を覚えた。そして同時に、こうも思っていた。
 ――もし彼女が僕と同程度か、それを上回るものを作ったら、彼女の潜在能力が暴かれ、僕が彼女と暮らす必要はなくなる。彼女が自分名義で借りている部屋を出ていくことは考えられないが、僕が部屋を出ていく方向に差し向けてくることは、容易に想像できる。
 それを阻むために必要なのは愛情だが、それは今の僕らに決定的に欠落しているものだった。
 その日のメニューは、酢豚、もやしの炒め物、ニラ玉、ワンタンスープだった。にらは足が早いので、使い切ってしまったとのことだった。
 うまい。素朴な味付けだがとても美味い。まるで彼女の優しさがにじみ出ているような美味さだった。
 やはり、彼女の作るご飯は美味しい。僕なんかよりも、全然うまいのかも知れない。僕は口惜しさに顔を歪ませ、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「美味しくなかった?」彼女は怪訝そうにそう聞く。
 僕は首を横に振った。「いや、美味しいよ。これからは有希さんにご飯作ってもらおうかな」
「何言ってるの。私が作るご飯より、君が作るご飯の方が美味しいよ。それにこういうのは、たまに食べるから美味しいの。だから明日からもよろしくね、シェフ」
 シェフというのは僕をおだてるときに同棲相手がよく使うあだ名だった。僕は、明日からも頑張ります、と胸を張って答えた。


 彼女は朝が早い。
 小学校の先生だから、まあそれも仕方がないことだとは思う。
 帰ってくるのも遅いときがある。当直の日はほかの先生が帰ってから校内を見回り、鍵をかける。ペアがつくことがほとんどだが、同棲相手としては気になるところだ。
 今日がその日だった。前日、彼女におだててもらったことに自信を持って、張り切ってご飯を作った。
 まるで水を得た魚のように。
 冷蔵庫を開けると豚肉があった。それと余っていたネギを使い、豚肉のネギ塩焼きを作る。あとはほうれん草のお浸し、根菜の煮物にしよう。
 まずは根菜を切るところから始めよう。
 レンコンとニンジン、ゴボウとコンニャクを切って、中ぐらいの鍋に入れ、ごま油で煮る。
 その途中で、当直中の同棲相手から「九時過ぎに帰る」との連絡が入った。今八時過ぎだ。
 まあ、いい。彼女には恋愛感情はないが、一応共同生活のパートナーであることだけは確かだ。だから困っているときは助ける。ご飯も彼女の分も作るのだ。彼女の分は取っておこう。
 僕は、「分かりました。ご飯は取っておきます」と伝えた。同棲相手との連絡は、彼氏だった頃よりも丁寧にしている。でないと、彼女の気分を害してしまう恐れがあるのだ。よりビジネスライクに、僕らの間にはいかなる感情も差し込ませてはいけないのだ。
 僕はスマホを触った手を水で流し、野菜室からねぎを取った。そして包丁を手に取り、ねぎを斜め切りして豚肉と炒める。いい色合いになったら火を止め、お皿に盛り付け彼女の分にはラップを、僕の分には蓋をした。
 一方で中くらいの鍋には、料理酒やみりん、花がつおと醬油を加えて煮る。
 そして、白い小さな鍋に水を入れ、沸騰したのちにほうれん草を丸ごと一本浸した。
 一分ほどしたら菜箸を使ってざるに移し、水気を切る。シンプルだが、これが美味い。
 素朴なご飯だ。あんなにおだててもらったのだから、もっと豪勢なご飯を作ればよかったのに。盛り付けながらそう思ったが、こういう日常的な晩ご飯にこそ調理センスが如実に表れると思うのだ。
 ――あ、味噌汁を作るのを忘れていた。
 白い小さな鍋にお湯を入れて沸騰させ、さっき使ったねぎの残りを薄く切り、入れる。そして冷蔵庫にある味噌をお玉で掬って鍋の中に入れ、菜箸で溶かす。
 あとは和風だしを入れ、味噌がいきわたるように混ぜ合わせ、完成。

 その折、彼女からメッセージが届いた。
「ごめん、やっぱり十時くらいになっちゃうかも」。
 僕はすぐさま、「分かりました」と伝えた。
 それが僕らの同棲生活を揺るがす出来事の発端になるとも知らず――。

今日の晩ご飯

今日の晩ご飯

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-18

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