夢中の彼女
夢の中での焦りとかって起きてからも暫く残ったままになりますよね
それは湖に浮かぶ不気味で巨大な樹木だった。
木に呪われた。
夢の話だ。
夢の中で突然現れた太さの直径が六メートルはありそうな樹木が、木の幹に沿って浮かび上がっている顔を恨めしそうにしてこちらを見ている。
根っこを剥き出しにして湖の上に浮かび上がっているそれは私に向かって恨み言をずっと叫んでいる。
逃げようと後ろを振り返ると、先の見えない暗い森が延々と続いていてその先に行って仕舞えば今の状況よりも悪いことが起きるような予感がする。
再び樹木を見ると恨み言を言い尽くしたのか枯れて浮かび上がらせていた顔もなりをひそめただの残骸へとなっていた。
そしていつの間にか、見窄らしい女が私のそばにいた。
呪われた時の夢はそんな感じだった。
負の感情を向けられていたからか寝汗がすごく、最悪の寝覚めだった。
私は毎日の様に夢を見る体質だった。年に数回、夢を見ずに起きる事ができ、その日だけは目の下に隈を作らずに過ごす事ができた。
だからといって夢を見ることを疎ましく思っているわけじゃない。
いつからか夢の中で「ここは夢だと」気づける様になってからは、裏の日常としていつも楽しんでいる。
面倒くさい上司だっていないし場所に縛られることもなくて、現実だと考えられない様な刺激的な体験をする事ができる、私にとって素敵な場所だった。
しかし、次の日の夢からあの女が私に付き纏う様になった。見窄らしい高校制服の女。
白かったであろうシャツは、おそらく垢や泥のせいでスカートの紺と負けず劣らず暗い色に変色し、髪の毛は脂でべったりとしていて、顔は濃いわけではないが全面が産毛の様な髭に覆われている。
醜いこの女が、言葉を発すわけでもなくただ私の側にいるようになった。
何度も夢を見ても、どんなに場所が変わっても誰と喋っていても変わらずにこの女がずっと私についてくる。
それともう一つ、この女はいつだってお腹を空かせている。しばらく私について来ているとぐるるといって腹から周りに伝えてくる。厄介なことにこいつの腹が減ると同時に夢のどこからかサイレンが流れて聞こえてくる様になったので、定期的に餌をやらないと何が起こるかわからなくて怖い。
この女の餌がまた特殊なもので、こいつが夢に現れてからフェルトの様な球体がそこらに落ちているようになった。夢の中では食べ物が常に出てくるわけじゃないので、このフェルトの球体を女に投げつけると両手でキャッチして食べ始めた。見るのも気持ち悪いのに、得体の知れない毛玉を口に含んで特に噛むわけでもなく飲み込むこいつは本当に気持ちが悪いと思った。
しかも一つくらいじゃ腹が満たされるわけじゃなく、毛玉を見つけたら渡さないとすぐにサイレンが鳴り始め、夢がその時からこいつの餌付けの時間へと変わった。
起きたら働くだけで一日が終わり、眠りにつくと飼育員の仕事が始まる。
呪われてからの日々は私にとって地獄の時間になった。
夢の中に出てくる人たちは、毎日一緒と言うわけでもないが度々私の前に現れてくれてコミュニケーションを取る事ができる。
昔馴染みの友達や、喋る動植物、サンタクロースや妖怪とも夢の中では知り合いになれて現実の知人の数よりも多くなった。
女に付き纏われてからも、夢の根本的な過ごし方は不思議な人たちと旅行に出かけたり、ゲームをしたりとそこだけは変わらなくて本当に助かったと思う。
それでも前より目の下の隈が酷くなっているのがわかる。朝起きて鏡を見てみると目元がパンダのように黒く広がっていて、さすがにみっともないし仕事をしている時に上司や同僚からチラチラ見られるのがさらにストレスに感じる。
どうにかしようと夢の中の女を倒すために、色んなことをしてみた。
高いところから落としたり、道路に突き飛ばして車に轢かせたり、石を思いっきり投げつけてみたり。だけどそれらをした次の時には私の側に平然と佇んでいる。走って逃げるとある程度の距離を稼ぐ事ができるが、少し遅れて追いかけてくる為根本的な解決にはならなかった。
夢の中でここまでやって消えなかったのは初めてで、本当にうんざりした。
ある日、悪夢を見た。
いつも通り夢の中で女に付き纏われながら過ごしていると、小学生の頃の友達と会った。幼かった彼も随分と成長していて、夢の中だけどいい歳の取り方をしていると思った。
しかし彼が私に近づいてくるや否や、雄叫びをあげながら両手で私の首を強く締め上げてきた。
場所はいつの間にか昔通っていた小学校の廃墟になっていて辺りは一気に暗くなった。
油断した。最近、この手の夢を見なかったから平和ボケしてたし懐かしい友人と夢の中だけでも会えたのが嬉しくて警戒心を持たなかった。
夢だとわかっていても、夢だからこそ会える憧れの存在や友人がいる。それも夢だから私の好きな者たちの皮を被って悪意を向けてくる奴らがいる。
彼は歯を剥き出しにして唸りながら首を絞める力を強くしている。私は魚のようにパクパクと口を開けてもがき、なんとか彼を突き飛ばす事ができた。
黒ずんだ木のフローリングの床に倒れ込むと、女がこちらに顔を向けた。ずっと餌やってるんだからちょっとくらい助けてくれてもいいじゃないか。
彼はすぐに立ち直るとゆっくりとこちらへ歩いてくる。どうやら止まる気はないようだ。
私はすぐに立ち上がって暗い廃墟の奥へと逃げ込んだ。廃墟の姿形は私の知っている小学校そのものだが、あらぬ所に階段があり急に落とし穴があったりと迷路のように入り組んでしまっている。
必死に私が逃げて走っても彼はこちらの位置などはなから知っているように追いかけてきて、時には待ち伏せをしてくる。
こんな夢の結末は知っている。
いつだって最後には殺されるんだ。逃げ切れたと思っていても追い込まれていて、そういう時に限ってゆっくりと恐怖を与えてくる。
現にさっきまで入り組んでいた廃墟は一本道になっていて、奥に明るく見えた光は行き止まりである白い壁が光を反射しているだけだった。
わかっている。これは夢だって。
でもね、怖くて怖くて仕方ないんだよ。
結局袋小路に追い込まれた私の元に彼がやって来て、腰が抜けて座り込んでいる私の首を締め上げていく。サイレンの音がどんどんと大きくなっている気がする。
夢なのに涙が出てくる。声だって少しも出す事ができない。早く目が覚めてほしい。こんな時に限って、辛い時に限ってこんなにも時間が長く感じるのだろう。
彼の後ろからあの女が近づいてきているのに気がついた。走って逃げてたから暫く姿を見ることがなかった。こんなにあいつを見ていない時間は久しぶりだと思う。だって餌もあげてなくてこんなにうるさくサイレンがなって。
彼の真後ろに女が立つと途端に鳴り響いていたサイレンがぴたりと止んだ。
女は口を開けると、あっという間に彼の事を食べ尽くしてしまった。吸い込むとも違う、しっかり噛んで食い破って咀嚼して飲み込んでを繰り返して、彼はどんどん小さくなっていって彼女のお腹の中へと消えていった。
美味しかったのか、お腹いっぱいになったのか彼女の満足そうな顔を見て目が覚めた。
その夢から覚めた朝は、あんなに嫌な夢を見ていたにも関わらず妙にすっきりとした気分だった。
あれから見窄らしい格好の彼女は、お腹が空きすぎると夢の中の何かを所かまわずに食べてしまうことがわかった。サイレンの音が大きくなり、臨界点を越すとサイレンの音が止んで彼女の近くにいる人、物を食べてしまう。
また彼女の食べたものは二度と私の夢に現れることがなくなった。これから夢を見ればまた現れるかも知れないが、それも絶対にないだろう。
だから嫌な夢を見た時は彼女に頼ることにした。
殺人鬼に追いかけられたりだとかしたら、ずっと逃げ続けて彼女のお腹が限界になるのをひたすら待って食べてもらった。
それからは少しだけ彼女に対する扱いが変わった。
今までは彼女が私の側に着いて来ていたが、最近じゃいつでも誰が来ても食べてもらえるように私が彼女のそばに居るようになった。
そしてフェルト球も投げつけて渡していたのが、ちゃんと手渡しするようになった。
彼女は特に反応する事ないが、あの時はありがとうと伝えるようになった。
前までは触れるのも嫌だったが、手を繋いで夢の中を歩くようになった。目を見てコミュニケーションを取るようになった。彼女が少しでも楽しそうにする場所へ行こうと思うようになった。
生活は何も変わらなかった。起きていれば生活に追われ、眠れば彼女にかかりきりになる。
それでも、目の下の隈はほんの少しだけその黒さを潜めるようになった。
ある夢の日、二人でショッピングモールのような場所でフェルト球を集めながら歩いていると、白い髭を蓄えたお爺さんが私のことを突然叱り始めた。
どうして彼女を綺麗にしてやらないんだって。
静かに諭すようにこちらへ話しかけてくるおじいさんは、初対面にも関わらずそうすべきなんだって思えるような声をしていた。
だから私は彼女を風呂場へと連れてきた。
全面ターコイズ色のタイル張りになっていて、洗面台の向かい側にシャワーが取り付けてあり、洗面台の上にある白色蛍光灯だけが部屋を照らしている為少しだけ薄暗い場所だった。
まずはシャワーで彼女を洗うことにした。
私がシャワーの水を出すと、彼女は着ている制服を脱ぐことなく私の前に立った。頭からお湯をかけてあげると、彼女は目を閉じてリラックスした状態で私に身を預けている。
右手でシャワーを持って彼女の頭の上からお湯をかけてやりながら、左手で髪の毛を撫でるように梳かしていく。ぬるついてまとまっていた髪の毛の脂がお湯によって溶かされて、本来のきめ細やかで柔らかい髪質が撫でていると気持ちがいい。
そのまま体を洗ってあげる。制服にお湯をかけている事にはなるが彼女はそれも気持ちよさそうに受け入れている。泥や垢によって黒ずんでいたシャツはお湯をかけて手で軽く擦ってあげると、どんどんとお湯に汚れを含みながら流されていって撫でつけた部分からシャツの白い生地が見え始め、足元には汚れで濁った水がタイルの継ぎ目にそうようにして排水口へと流れている。
スカートも同じく撫でるようにして洗うと、無地の紺だと思っていたがチェックの柄がだんだんと浮かび上がり始めて明るくさっぱりとした色になった。
びしょ濡れではあるが既に格好は健康的な少女然としている。
最後に顔のケアをする。覆い尽くすように生えている産毛を処理するために、洗面台の鏡を開いて棚の中からティー字の剃刀とシェービングジェルを取り出す。シェービングジェルの蓋を開けて片手をお椀の形にして、もったりとしたジェル状の液体を乗せていく。手の中にジェルが溜まったら、シェービングジェルの蓋を閉じてもう片方の手で両手全体にジェルを馴染ませていく。
掌を上に向けながら指先を使って少女の前髪を左右に分けてると、少女は言われなくとも顔をこちらに向け少しだけ前のめりになった。
向かい合うようにして立っているので少しだけ気恥ずかしい感じがした。
少女の顔にジェルを塗っていく。頬の辺りに乗せるようにしてから鼻筋を通っておでこへ塗り、そこから落ちるようにしてまた頬、顎、そして首へと塗り馴染ませていく。ほわほわと埃のようになっていた産毛はジェルによってぺったりと肌に張り付いていて、黒く霞んでいた肌の地の色をようやく見ることができた。髭自体、硬くはないのでジェルを塗って置いておく時間は必要ないと思い、右手に剃刀を持って構える。安定が悪いので左手を頬に添えるようにして顔を固定する。
そして彼女の肌を傷つけないようにゆっくりと頬から顎にかけて、剃刀を滑らせていく。剃刀が通った後は、産毛と共にジェルが剃り取られていて湿り気のある綺麗な肌が現れる。両頬、首の下、眉尻、人中と産毛で覆われていた部分を徹底的に剃り上げていき、ようやく彼女の素顔を見ることができた。洗面台の照明によって顔の半分以上が影になっているが、それでもはっきりと私を助けてくれた本当の彼女を見ることができている。彼女の容姿を言葉にして形容したいけど、どうやっても言葉が見つからない。綺麗か、可愛いかなんてわからない。
ただ私の心の琴線に触れたのだ。
意味もなく彼女の頬を撫でてみる。ジェルの残りがまだ肌に乗っていてしっとりと柔らかい頬を指で軽く窪みを作ると、彼女は少しだけくすぐったそうにした。あんなに嫌いだったのに、見たくもなかったのにこんなに愛おしくなるものだろうか。
途端にどこからともなく日の光が部屋へ差し込み始めた。彼女の影っていた顔も照らされたが、妙に明るく白飛びしてしまって全く表情すらも確認することができない。
私は焦る。
この夢が終わるかもしれない。夢の中でこんなに愛おしくなれたのが名残惜しくて、彼女の手を掴んで何か伝えようと口を開けるが、何を考えても相応しくないような気がして何も言えずにいる。
彼女は最後の時まで、何も言わずに正面にいる私のことを見つめているようだった。
あれから夢を見ることがなくなった。
どれだけ寝不足であろうと、眠りが浅かろうと絶対に夢を見ることがなくなった。目の下に隈を作ることもなくなった。
私はとても健康的な人間になってしまい、起きている間は夢までの待ち時間だったのに、今は色んな人と会話をして出かける、行動を起こす時間になった。
普通の生活をすることができるようになった私は、心のどこかが欠けた人間になってしまった。
私の象徴だった目の下の隈を失って、もう一つの日常だった夢を失って、ずっと一緒にいた彼女と会えなくなって。
あの樹木の呪いは一体何だったのだろう。夢を貪る怪物に憑かれる呪いだったのか。それとも私の一部を奪い去るという呪いだったのか。どちらにせよ、私に呪いはかかったままだ。
数年が経った今でも彼女と向かい合った夢のことは忘れていない。
ついこの間、久しぶりに夢を見た。
夢の中で私は少女を追いかけていた。
走り離れていく少女の顔を見ることはできないが彼女だと、なんとなくそう思った。
制服ではなく淡い青色のワンピースを着て何処かへと向かっている。頑張って追いかけているのに一向にその距離は縮まない。
遊園地、学校、高層ビル群、芝生の公園、追いかけている間に様々な場所を通り過ぎて行く最中で彼女と一緒にここを歩けたら楽しいかもなと思った。
地下鉄の改札を出て階段を登って行った彼女を追いかける。地上から沢山の人が降りてきて上手く進むことができずに彼女を見失ってしまい地上に出て人混みの中、彼女の姿を探す。
振り返ると地下鉄への入り口の横で壁に背を預けて待っている彼女の姿が見えた。
私が人を掻き分けて彼女の側へ寄ると一瞬こちらに顔を向けて、そして悲しそうに項垂れてしまう。涙を流し始める彼女に動揺してその場から少しだけ離れて様子を見てみると、彼女の元へ見知らぬ男が近寄っているのが見える。男に肩を叩かれた彼女は涙で濡れた顔を上げて誰かを確認すると、幸せそうに笑って男に抱きついた。
彼女が待っていたのは、私では無かったみたいだ。
そのまま彼女は幸せそうに男と手を繋いで街の中へ消えていく。私はただそれを見て泣いていた。
幸せそうな彼女を初めて見て、私も幸せになれて。
そこで目が覚めた。
とても久しぶりに夢を見て、久しぶりに彼女に会えて、幸せそうな彼女を確認して。
彼女に私はもう必要ない。
とても幸せな気持ちになって、夢の中でどうやっても涙が止まらなくて。
私は目を覚ましても涙を流していた。
夢中の彼女
夢が現実に侵食してくる事って多々あると思うんです。
それがずっと続く人って、どっちに生きている比重を置いているんだろう。