僕からの遺書

 ある日、私の元に不思議な封筒が届いた。見た目自体は何の変哲もない、どこにでも売ってあるような長形三号(ちょうど三つ折りにしたA4用紙を入れられるサイズ)の茶封筒で、よほど何枚も書類が詰め込まれているせいか、少し分厚くなっていること以外に特筆すべきところはない。表には、お世辞にも上手いとは言えない、しかし何故(なぜ)かとても見慣れた文字で、うちの住所と宛名が書いてあって、切手も二枚張り付けてある。そして——これが一番奇妙なところなのだが——それを裏返して、差出人の名前と住所が書かれてあるはずの左下には、表に書かれている文字がそっくりそのまま、つまりは私の住所と名前とが同じように書かれていた。
 私はまず自分の目を疑って、封筒の表と裏を何度も見返し、そのどちらにも私の名前と住所が書かれていることを確認した。そしてその次に悪戯(いたずら)を疑ったが、ちゃんと切手には消印が押してあるし、何より、この()(てい)に言って下手くそな文字は私自身の筆跡と酷似(こくじ)——いや、それそのものと言ってよかった。
 もちろん、今ここにいる私自身に、こんなものを書いた記憶も送った記憶も全く無い。過去に学校のイベントか何かで「未来の自分に手紙を送ってみよう!」みたいなものでもあったかとも思ったが、学生だった時と今とでは別の住所だし、そもそも送られてきた消印の日付は昨日になっている。
 明らかにおかしい。怪しいし、気味が悪い。でも、少し、ほんの少しだけ、その恐ろしさよりも好奇心が上回ってしまった。私はハサミを取り出して、中の紙を切ってしまわないよう慎重に封を開けた。

 封筒の中には案の定、幾枚もの——正確に言えば十枚の——A4サイズの紙の束が三つ折りになって収められていた。そして、それを取り出して一番初めに目に入る部分に、

 遺 書

と、大きく目立つ文字で書かれていた。あまりのことに一瞬身を引いてしまいそうになったが、ここまで来て引き返すこともできない。私は折りたたまれたそれを開いて、私が書いたらしい「遺書」とやらを読み始めた。



 遺書

 僕は今、生まれて初めて遺書というものを書いています。何故こんなものを書いているのかと言えば、それは僕がこれから死ぬからです。でもそれは、不治の病を患ったからでも、自殺するからでもありません。これから僕は、疑似的に僕を殺そうと思っています。それは自殺とは違います。僕は今、生きることが辛くて辛くてたまりません。でも、自殺することはどうしてもできません。死ぬのが、痛いのが怖いからという話ではなく、この後に書く自分以外のところにある要因によって、僕には自殺という選択肢を選ぶことが出来ないのです。
 ですから僕はほんとうに死ぬ代わりに、ある一つの方法を思いつきました。「これから僕は死ぬんだ」と思わなければ書けないような、生きているうちには誰にも見せられない本音を、遺書として書けばいい。そんなものが僕の心の内から漏れ出して、この世に文字として存在している時点で、僕は死んだも同然なのだから、結果的に僕は僕を殺したことになる、という寸法です。もちろん、これを書いたことで心が軽くなるとか、前向きになれるだとか、そんな素晴らしい効能は(はな)から期待していません。それでも、これから先おそらく数十年は続くであろう恐ろしい人生というものを、せめて「もう僕は死んだのだから、いつほんとうに死んだって同じだ」という風に開き直って過ごすことができればと、僕は思うのです。
 ですが、この遺書を書くうえで一つだけ問題があります。それは、これをどこに置いておけばいいか、ということです。自分で保管するというのは論外です。もし誰かに読まれてしまったら困ることを、これからここに書くのですから。では、誰にも見つからないところに隠すというのはどうでしょうか。これも却下です。これを書くことを思いついてから、私は私のわがままさに自分でも驚いてしまったのですが、誰にも見られたくないと言いつつ、心のどこかでは、誰かに読んでほしい、自分のほんとうのこころの内を知ってもらいたい、という気持ちを捨てきれずにいます。誰にも読まれたくない。誰かに読んでほしい。このどちらもが、僕のほんとうの気持ちです。だから僕は、僕がもっとも信頼できて、しかも僕のことを知らない人物、つまりあなたにこの遺書を手紙として送ることに決めました。あなたとしては、こんな得体のしれない、しかも内容も重いものを急に送り付けられて、迷惑千万だろうと思います。その点は、本当にごめんなさい。この手紙の処遇は任せます。読むもよし、読まないもよし、持っておくもよし、捨てるもよし。でもきっと、あなたは読んでくれる、そんな気がしています。僕もあなたのことは知らないけれど、あなたはきっとそちらでも、まちがいなく僕だろうから。

 前置きが長くなってしまいました。ここから、僕が誰にも言うことの出来なかった、そしてきっとこれからも誰にも言えないほんとうの気持ちを、これから書こうと思います。
 僕が死にたいと思っているというのは、さっき書いた通りです。では、なぜ死にたいのか。理由は主に二つあります。一つは、生きることそのものが、途方もなく苦手で、苦痛だから。二つ目は、僕は嘘つきで、自分が嘘つきであることが耐え難いから。どちらもとても平凡で、ありきたりな、どこにでも転がっているような理由です。
 僕は、生きることが苦手です。多分、下手ではありません。いや、もしかすると下手なのかもしれない。上手に生きていくことの出来る人は、こんなことで悩むことすらありえないでしょうから。五体に欠損があったり、何か生活に困難を生じるような病に侵されていたりするわけではありません。何度病院に行っても、「あなたは健康です」という検査結果しか返ってきません。それなのにどうしてか、僕は「ただ生きる」というそれだけのことに、どうしようもなく疲れてしまうのです。なぜ、ふつうのひとは週に五日も、平気な顔をして働くことが出来るのでしょうか。毎日掃除をして、洗濯をして、歯を磨いて、食事を用意して、風呂に入って、顔を洗って、身支度をして出かけるということが、どうして当然のようにできてしまうのでしょうか。「当然なんかじゃない、おれたちはそれを苦労してやってのけているんだ」とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。あなたはすごい。こんなに恐ろしく困難な一連の作業に、苦労しながらも一生付き合っていく覚悟をお持ちなのですから。
 僕には、これらのことを継続して行うことが、どうしてもできません。少しの間だけでも、と、続けてみようと頑張ってみることもあるのですが、この一見簡単なように思える物事の一つ一つが、僕の中の何か、どこかを(むしば)んで、あるいは削り取って、あっという間に僕から体の、心の自由を奪い取ってしまうのです。今は、父と母が僕の分のそういったことを受け持ち、補助してくれていることで何とか生き延びることが出来ています。しかし、そういった生活も、きっと長くは続きません。いつか、僕が僕一人でそれらすべての膨大(ぼうだい)な困難に立ち向かわなければならない日が、きっと来ます。それが僕には、恐ろしくてたまらないのです。
 一人暮らしをしたことがないわけではありません。でも、その時の暮らしは悲惨なものでした。電話口で僕の衰弱(すいじゃく)しきった声を聞いた母が地元から飛んできて、ごみ溜めと化した僕の部屋から地元へと僕を引っ張り戻し、二年と経たず僕の一人暮らしは終わりを迎えました。
 あの時はまだ、僕に帰る場所があったからよかった。しかし、今度はどうでしょう?父も母も、当然ながら僕より遥かに年齢を重ねていて、おそらくは僕より先に旅立つでしょう。そうなれば、もう僕には帰る場所も行く当てもありません。兄弟には兄弟の家庭がありますし、恐らく僕には恋人も、もう出来ないでしょう。それに、いま父や母が担ってくれている役割を期待して恋人を探すなんておこがましい真似は、とうてい僕には出来そうにありません。たとえば、お金であるとか、美しい見た目であるとか、相手に寄与しうる何かを僕が持っているのならば話は別ですが、あいにくそういった類のものは一つとして持ち合わせていません。相手に渡せるものが一つもないのに、相手になにもかもやってもらおうとするのは、交際ではなく、寄生です。今の僕が父と母にそうしているように。
 生きていたくないわけではありません。父と母がいます。兄弟もいます。少ないながら、友人もいます。楽しいこともあります。ゲームをして、漫画を読むのが好きです。僕を(いじ)めて、傷つけるような人は、僕の身の回りに誰一人いません。でも、それでも、生きることそのものが、どうしようもなく辛く、苦しいのです。僕より恵まれない境遇に生きている人がいることも、生きたくても生きることが出来なかった人がいることも、わかっています。戦争や飢餓(きが)によって理不尽に生活や命が奪われることも、家庭内や学校、職場で逃れようのない暴力や差別に晒されることも、僕にはありません。僕はとても恵まれています。恵まれすぎているほどに、恵まれています。母は僕に言いました。「——はね、自分で選んでここに生まれてきたんだよ」と。でも、僕はそうは思いません。ここは、僕には相応(ふさわ)しくありません。こんなに素晴らしい、優しい人しかいないところに、なぜ僕のような出来損ないが生まれてきてしまったのでしょうか。勉強が苦手なら、体を動かすことを頑張ればいい。運動が苦手なら、勉強を頑張ればいい。でも、生きることそのものが苦手な僕に、いったいどうしろというのですか。僕は、どうすればいいのですか。

 僕は、嘘つきです。生まれてこの方、ずっと嘘をついて生きてきました。たとえば、一番大きな嘘は、「本当はずっと生きるのが辛いと思っているのに、生き続けている」という噓です。なぜ、こんな嘘をついているかといえば、それは、僕がほんとうのことを言うことによって傷つく人がたくさんいるからです。例えば両親。例えば兄弟。例えば友人。幸運なことに、あるいは最も不運なことに、僕には僕の死を悲しんでくれる人がたくさんいるのです。こんな無能な僕に、何も生み出すことが出来ずにただ死んでいくであろう僕に、周囲からお金と手間と時間をただただ吸い取って、何も還元(かんげん)することの出来ない僕に、いなくなってほしくないと恐らく思ってくれている人が、こんなにもいるのです。その人たちは、僕にこう願います。「自立できるようになってほしい、自己実現できる人間になってほしい、相性の良い伴侶を見つけてほしい」と、心の底から、僕が幸福になれるようにと、祈ってくれています。本当に、なんて恵まれた、なんて幸福な、なんて耐え難い人生なのでしょうか。
 僕は臆病な人間です。そんな善良な人たちから、軽蔑(けいべつ)されたくありません。そして、そんな周囲の善良な人々を悲しませる権利なんて、僕は持ち合わせていません。だから僕は、嫌われたくない一心で、見捨てられたくない一心で、希望を持っているふりをして、夢に向かって人生を歩んでいるふりをして、生きているふりをしているのです。僕はみんなを、家族を、友人を、(だま)しているのです。
 小説家になりたい、と僕は周囲に言いました。僕自身にも「僕は小説家になりたいんだ、なるんだ」と、何度も言い聞かせました。確かに、本を読んだり文章を書いたりすることは、好きです。数少ない、僕が得意とすることであると言ってもいいかもしれない。でもこれは、ほんとうのことをいえば、とても消極的な選択なのです。非常に傲慢(ごうまん)な言い方をすれば「おそらく何かになれるとしたら、小説家ぐらいしかない」といった具合です。もちろん、小説家として専業で生きていくということが、生半可な道ではないことは、最初から分かっています。ですが、社会人としてまともな生活を送る能力が欠如した自分がなれるものは何だろうと、なんとなく考えたときに思いついたものはこれくらいのものだったのです。しかし、最近わかり始めてしまいました。小説家として一定の成果物を作り上げるのに一番必要な能力は、知識でもなければ突飛な発想でもなく、自分で自分を管理して、とにかく書き続ける、ということだったのです。そんなの、無茶じゃないですか。社会というシステムの中で他人に管理してもらって生きることすらままならないのに、どうして自分で自分を管理なんてできるでしょうか。僕は、なれないものになれると言い張って、出来ないことに出来ると言い張って、まわりにも、自分にも、現在進行形で嘘をつき続けているのです。もうとっくに壊れているものを、まだ使える、まだ動くと言いながら、必死にボタンを押し続けている、それが今の僕なのです。
 僕はむかし、自分の恋人に嘘をついていました。「君を助けたい」「一生君を守る」「君が望むなら、なんだってする」「君の為なら、全部捨てていい」どれもこれも、吐き気がするほど薄ら寒い、流行りのポップソングで耳が腐り落ちそうになるほど聞いたフレーズです。
 あの頃の僕は、自分が何者でもなく、これから何者になることもできない人間だと、薄々勘づいていました。自分の中には何もないということに、気づいていました。だから、もし僕のこの何の価値もない命を一つ消費して誰か一人を幸せにできるなら、こんな命にも存在価値が生まれるのではないか、なんてことを考えて、僕はそのひとと交際をしていました。そして結果は、当然破局。考えてみれば、至極(しごく)当たり前のことでした。自分自身すら救えない人間に、どうして他人が救えましょうか。僕はあのひとのことを幸せにしたかったのではなく、自分自身を救うために利用しようとしたに過ぎなかったのです。そして、できもしないことを出来ると言い、守れもしない約束を交わしては破り、とうとう僕はあのひとから見放されました。お互い、どうしようもないほどお互いを傷つけ合いました。僕はきっと、もうどうしようもないと思います。でも「どうかあのひとだけは、僕のいないどこかで幸せになっていてほしい」と、これもまたありふれた失恋ソングで歌われているように、こころからそう願っています。

 今も昔も、きっと僕はただの一枚の鏡でしかないのだと思います。目の前にいる誰かが何かを言った時、文字通りそれを反射して、オウム返しに同意を返すのです。そうすれば、一応その場でのコミュニケーションは成立したように見えます。しかも、相手からは「このひとは私の話を分かってくれる」ように見えます。ですが、それはただ鏡に向かって喋りかけているだけでしかありません。鏡に意思はありません。鏡は鏡でしかありません。相手から嫌われたくない、失望されたくない、その一心から、僕は鏡として「相手の望む自分」を必死に映しつづけます。でもそれは、遅かれ早かれ破綻します。なぜなら、ほんとうの僕はそんなことを一つも思っていないし、その「相手の望む自分」を最後まで演じ切る能力も、実際には持ち合わせていないからです。
 僕が本当にしたいことは何か、誰にも繕う必要のない今ここで言葉にするとするなら、「働かず、好きな時に寝て好きな時に起き、読みたいものを読んでやりたいゲームをして、全てに飽きたら適当に死にたい」とか「自分のことを知るすべての人間から自分にまつわる記憶を消し去って、自分もこの世を去りたい」みたいな、実にありきたりで下らない欲求です。でも、こんなことが叶うはずもないことは、当然わかっています。いま改めて文字にしたものを読んでみると、ほんとうに笑ってしまうほど稚拙(ちせつ)な願望です。僕は大富豪の息子でもなければ、他人の記憶を都合よく消し去るフラッシュライトも持っていません。
 死ぬことも生きることもできないのであれば、僕はきっとこれからもずっと、他人にも自分にも嘘をつき続けて、迷惑をまき散らしながら、死んだように生きていくのでしょう。僕は疲れました。嘘をつき続けることにも、自分と交わした約束を自分で破り続けることにも、ほとほと嫌気が差しました。でも、嫌になったからと言って、はいさようならと止めることもできません。これを書いたところで、僕の生活は何一つ変わらないでしょう。この遺書は、告白は、僕が僕の人生を生きるうえでどうしようもない事たちに対する、ほんの些細(ささい)な反逆です。百姓一揆が成功した試しがないように、こんな小規模な反乱を起こしたところで、また田畑を耕し、年貢を納め続けるような生活に戻るよりほか、僕には残されていません。どれだけ下手くそで、それを行うことを苦痛としか感じることが出来なかったとしても、それをし続けなければなりません。

 長々と、こんなどこにでも転がっているような退屈な絶望を、それでも最後まで読んでくれて、本当にありがとうございます。これを読んで、あなたがどのように感じたか、僕には想像もつきません。くだらない人間だな、と素直に思ったかもしれません。もしかすると、ほんの少しでも共感してもらえる部分が、どこかにあったかもしれません。いずれにせよ、こんな嘘つきが文字通り「決死の思い」で書いたほんとうの気持ちを、どこかの誰かに知ってもらうことができた。たったそれだけのことで、ほんのすこしだけ、救われた気持ちになれたような気がします。ありがとう、さようなら。



「その変な手紙、なんて書いてあったの?」
 私が読み終わったころを見計らって、妻が「遺書」を覗き込むようにしながらそう尋ねた。
「本当のことかどうかはともかく、面白かったよ」
 内容が妻に見えないように紙の束を元のように閉じてポケットに仕舞いながらそう言って、私は部屋着から外行きの服へと着替え始めた。
「あら、お出かけ?今日はお休みでしょ?」
「散歩だよ。ちょっと河原まで歩いてくる」

 河原まで歩くのには、思ったより時間がかかった。川べりを吹く穏やかな秋風が、普段歩き慣れない私の少し火照った体を心地よく冷やしてくれる。
 私は、ポケットから例の「遺書」を取り出した。決して丁寧とは言えない、でもだからこそ痛切に訴えかけてくるような文字で書かれたこの手紙を、私は決して無下に扱いたくはなかった。しかし同時に、私の字と私の名前で書かれた「遺書」を自宅に保管しておくこともまた難しい。だから私は、これを「お焚き上げ」することにした。
 周囲に燃え移るようなものがないか確認した上で、ライターで封筒の端に火を()け、河原の小石達の上に、そっと置いた。小さな炎がじわじわと封筒全体に広がる様子を、私はじっと見ていた。やがてその灰は、穏やかに吹く風に(ほぐ)されて、秋の空へと、静かに溶けていった。

僕からの遺書

僕からの遺書

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-17

Copyrighted
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