桜と変人にまつわるエトセトラ。


 ひらり、ひらり。散っては、舞い落ちる。桜の形容というのは幾度もあるけれど、私はやっぱり綺麗だと言ってしまう。ああ、綺麗だなあ。花びら一つ一つが、まるで生きているかのよう。
 ならばこれは死体の山なのだけれど、そんな恐ろしい想像もこの美しい映像の前では浄化されてしまう。ということはないだろうか。どうせなら私自身も浄化して欲しい。

 久しぶりに外に出たのに、結局は公園に集まる人間の数に圧倒され、逃げ出してしまった。それでも何とか留まろうとして、吐き気をこらえながらも踏ん張っていたら、ちょうどジョギングコースの真ん中に突っ立っていたようで、取りすがりの若くて綺麗なお姉さんに変な顔をされた。あれは確実に不審者を見る目だった。私の性別が女だったからまだ良かったものの、これが小太りの男だったら通報されていたかもしれない。いや、それはさすがに失礼か。

 考えすぎるのが私の短所だと兄の清田助丸は注意したけれど、長所は人を傷つけないことだと言ってくれた。なのに私はたった今、心の中とはいえ、小太りのおじさんに対して悪口を言ってしまった。もし心を読める小太りのおじさんがいたら、きっと私の言葉に傷ついただろう。
 ああ、なんということだ。たった一つの長所が今消えてしまった。たとえ心を読まれていなかったとしても、考えてしまっただけでアウトだ。今までは部屋に引きこもっていたから人を傷つけることもなく長所を生かすことが出来たというのに、外に出てから一時間も経たないうちにそれを失ってしまうとは。絶望だ。これはまさに、死ぬときなのではないか?

 私はふらりふらりと桜の下に近づいて、その太い幹に、手を置いた。頬ずりしそうになったが、そろそろジョギングコースを一周したさっきのお姉さんが戻ってきそうで、今度こそ決定的な現場を見せてしまうことは不本意ではなかったので自制する。死ぬとしたら首吊りをするべきか? この桜の木などどうだろう。かなりのがっしりとした、太い幹だ。これならば標準よりも重い私の体重でも支えきれるかもしれない。
 そうなると決行は夜になるだろう。朝や昼だと、この公園には誰かしらの人影が現れる。その中で自殺しようとしていたら、おそらく人は私を止めるだろう。だとえどんな極悪人であろうとも、人間とはそういうものなのだ。目の前で死のうとしている人間がいたら、それが見知らぬ他人であったとしても、生きていることの大切さというものを説いたりする。その人のことをまったく知らないくせに、大丈夫だと無責任にいう。だけどそんな人間の習性が私は嫌いではない。


「あの……」

 そのとき、後ろから声をかけられ、私は固まった。まさか本当にこの公園には心を読めるひとがいたのか? そして私がこの桜に首をつって死んでしまおうと思っていることもばれてしまったのか。

「大丈夫ですか? もしかして具合でも……?」

 振り返った私は仰天した。目の前には綺麗なお姉さんが、そこに立っていたのだ。
 心配そうに話しかけれ、そのときになって私は、自分が泣いていることに気がついた。



 いったいどこで泣くポイントがあったのだろう。桜を見た瞬間か、お姉さんに不審な目で見られたときか、心の中で悪口を言ってしまう反省したときか、自殺しようと決意したときか、はたまた人間の習性について考えていたときか。
 とりあえず桜にすがりついて涙を流す私は周囲から相当変な人間だと思われてしまっているだろう。そんな私に恐る恐る話しかけてくれたお姉さんは、見た目だけでなく心も綺麗みたいだ。まさに天使。まさに女神。

「おい、爽」

 また後ろから声を掛けられた。今度は名前を呼ばれた。
 これは正真正銘私の名前なわけだが、今までかついてこれほど似つかわしくない命名があったろうか。いくら赤ちゃんのときには話せないためにその後の性格などが考慮されないとしても、それでもほんの少しでもこの子供が暗い人間になってしまうという可能性は考えなかったのであろうか。それとも自分の赤ちゃんというのは、無条件に『良い子』に育ってくれる天使だという幻想でも抱いているのだろうか。
 ならばそれは違うと声も高々に言いたい。爽やかな人間になって欲しいと望まれて『爽』と名づけられた赤ん坊が、大人になってから桜にしがみつく不審者と成れ果てることもそう珍しいことではないのだ。

「兄さん……」

 うう、と今現在も泣き続けている私の顔を一瞥すると、兄ははぁ、と溜息を吐いた。

「お前なぁ、家を出たなら言えって。どこに行ったのか心配になっただろ。三年ぶりにいなくなってたから、風呂場で死んでるんじゃないかって」
「さ、三年ぶり?」

 お姉さんは仰天したような顔で、私を見た。
 ああ。そんな美しい顔を私のせいで歪めないで欲しい。おそらくスッピンであろうその顔は、ちょっとの刺激でもすぐに色を変えてしまうのだ。いや、でももしかしたら今はスッピンではなく薄い化粧をしているのか? 分からない。私はもうすぐ二十歳になるというのに、もっぱらそういうことに疎かった。
 化粧しているのか否か、ブランドがどうの、今はやっているファッションがどうのというのはまるっきり宇宙の世界の話を同等だとしか思っていない。つまりは、私には未知の領域ということだ。

「スッピンですか?」
「え?」

 思わず訊いてしまったら、お姉さんはぽかんとした顔で私を見つめた。失敗した。明らかに失敗だ。

「ほら、そんなことにいたら不審者だと思われるぞ。離れろって」

 そうこうしているうちに、兄は私の洋服の襟をひっつかんで桜の幹から離そうとした。
 だが私はもうここで人生を終えることを決めたのだ。それまでここで生活すると今決定した。慌ててしがみついて反抗する。

「やめてください。助丸兄さん!」
「誰が助丸だ。変な名前つけんなって言っただろうが。俺の名前は晃だ」

 だってだって。晃って漢字は日と光と書いて晃と読むんですよ。どれだけ明るければ気が済むんですか。それに、『あきら』って女性の名前みたいですし。もし私が高校に通えていて、もしも万が一友達なんかがいたりしたら、兄さんの名前を言っても「姉さんがいるの?」と勘違いされてしまうかもしれない。だとしたら『助丸』の方がいいじゃないですか。そうしたら勘違いもされないし、そもそも格好いいじゃないですかその名前。

 ということを言おうとしてもごもごしていたら、兄さんは引き続き私を引き剥がしそうとしながら、不思議そうに尋ねた。


「それにしてもお前、どうして外に出ようなんて思ったんだ? 三年ぶりに。しかもこんな人の多い公園に来るなんて、お前の性格にしてみれば奇跡だよな」

 ぐぎぎ、と引っ張る兄の力に反抗しながら、私は応える。

「桜……が」
「ん?」
「窓から見える桜が、綺麗だったから……」

 いつも閉め切っていたカーテンが、母によって開けられており、私の視界がいつもよりも明るくなった。慌てて閉めようとしたときに、遠めに見えたこの公園の桜が見えたのだ。
 そして気がついたらふらりふらりと足が運んでいた。それだけのことなのだ。
 その言葉を聞いて兄さんは、不意に私の襟から手を離し、ふむ、と頷いた。

「考えすぎてしまうお前にしては、簡潔な理由だ」

 と言って、珍しくかかかっと笑った。私は美しい桜が好きだけど綺麗なお姉さんも好きだけどこの兄さんの笑顔も嫌いじゃない。

「そうだな。ついでに公園で花見でもしていくか。桜がこんなに綺麗に咲くのは、今しかないからな」


 そうですね、でもだから桜は綺麗なんしょうね、と応えたら、兄さんはまた豪快に笑った。その後ろで桜の花びらが落ちてはまたその命を失っていく。だがそれは相変わらず美しく、綺麗なお姉さんはいつもまにかにいなくなっていた。

桜と変人にまつわるエトセトラ。

桜と変人にまつわるエトセトラ。

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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