幻想悲曲 第一幕二場
―これは、全部私のやったことだ…… 私が自分でやったことなんだ―
支配人より手渡された杯を数口で干しながら、エノイッサは衆人たちの無躾な監視に対しては、獣じみた復讐心の漲る瞳の輝きをその応えとして返すことにしたのだった。
しかしながら、それとはまた別に彼女は、そのいやらしい視線たちに時折紛れ込んでくる生活の匂い―欲望的、好奇心に満ちた本能的な獣性などではなく、理性的、統御された人間的生活の匂いをも感じ取っていたのである。それは、この図々しい観察眼の主たちであっても、習慣として、生活として、それなりの重みによって肩を苛まれながら支配され、引き摺られながら歩いていかねばならないからに違いない…… その重みとは―今ここで、この場所において見ることの出来る生活の重みとは、如何なる重みであろうか…… それは例えば、日毎苦役として課せられている労働に疲弊し切った男が、木屑や油にまみれたその指でもって貨幣を握り締め、陽の落ちる前にこのような場所に来て葡萄酒を一杯だけ注文する、そして時折は、酔ったその頭でこのようなことをするしか脳の無い自らを嘲るふうに冗談を飛ばしてみせもする、まことにそうした重みであろうか。もしくは、若くして倹約の馬鹿馬鹿しさを能く知り得でもしたかのように、出所を自らに拠らない財産でもって流行の着物を仕立て上げ、それが美しく浮かび上がるようにと、人目に触れることに拠る自尊心の満足のために、夜酒場のたたえるこうした汚らしい光をも有り難がりそれに群がる、まことにそうした重みであろうか。ここでは確かに、暗にこれらのようなことがほのめかされていた―硝子水晶の中に時折鈍くひらめく波涛の形をした不純物たちのように。だが、今やそれが入れ替わろうともしていたのだった―無躾な眼差しのぎらぎらとした獣性の光によって、人物たちの瞳の放つ鈍い生活の輝きは次第に取って代わられてゆくのであった。知り得ないことを知ろうとする無垢は自身の欲深さを知ることが出来ないで、余計にそれを曝け出そうとしていた―自身の欲深さを知れば、多くの者は醜悪ともとれるそれを慎ましやかにせずにはいられないであろうし、また、もっと言えば自身の欲深さを知ってしまえばそれはもはや無垢ではない。彼らの円らな瞳は、呆けながらも分析欲に満ちた表情にはめ込まれていた。それはまるで自分たちと観察の対象である尼僧との間には大きなレンズのようなものが置かれていて、そこ映し出された像に不可思議を認めているかのような瞳であった。だがそのような分析欲に満ちた表情は、そこに反転して映されたものの実際性、凡庸さを知る者にはある種の哀れみを催させるのである。(なんにもないのに…… あなたたち、私のことをそんな眼でみるけれど…… こちらには本当になんにもないのだから)そうした人物たち、酒、ごちそう、蝋燭の火…… エノイッサがそこにあった印象のなにもかもを玄関の大扉の向こうに押しやったのは、確かにそうしたいたたまれなさがあってからのことかもしれなかった。木のはめ込まれる音が虚に響き渡ると、重々しく光を閉じ込めたかに思われた。だが、果たして、それはそうであったろうか? 閉じ込められたのは自分の方ではなかったろうか? 陽の落ちた街路の暗闇に放り出されたのではなく…… これは、閉じ込められたというのではないのか。諧謔に満ちた輝きによって神経を陶酔させる、時折は生活の鈍い光を放ちながらまどろんだ頭をも覚醒させる、そのような俗の世界から閉め出されたというのだ。だが、それであってもこれは―今自分の閉じ込められている世界とは、尼僧にとっての日常に違いなかった。女にとって陰鬱な宗教的日常…… しかつめらしく、花も咲いていない。ただ荒涼とした静けさが、恨み言ばかりを語っているような…… それは、夜を包み込む闇のあちこちから聞こえるような気がする。おそらくそれは、自分が日頃この生活に対して抱いているような鬱憤とした思いが―それに加えて、同年代の尼僧仲間たちの声も、それから、世間一般から自分たち尼僧に向けられる哀れみ、蔑視といったものなどが雑多な想念として頭の中で渦を巻いたものたちが、図らずとも瞳に映る世界にまで紛れ込んできて、そこかしこに散らばっているようなものに違いなかった。…… 甚だ忌々しい話である、なぜならそれらは道ばたに生えている雑草のように足下で声を上げて、卑屈なことにも、歩みを進めるこちらの足を取ろうとするから。躓くことを避けるには、踏みにじってしまわねばならぬほどに、それらは鬱陶しいのだ。街の大通りから外れて、淡く輝く足場が次第に姿を消していった。光の微粒子たちが、まとわりついていた夜道から蜘蛛の子を散らすように離れて去っていくと、履物が路地の敷石と触れ乾いた音を発てる度に、その音源を中心として一層濃い闇色が放射状に拡がっていく心地がした。行く手の壁側に時折現れる燈火たちは、ゆらゆらと宙で朧げに揺れながら、闇に放たれたことによる不安をその光の中にたたえているふうにも見えた―(ああ、あなたたち、私と同じなんだ)果たしてこのようなもので大丈夫だろうか。この真っ暗な夜を照らすには足りないのではないだろうか。そもそも…… あの恐ろしい場所へと通じる道を、このような灯を頼りに歩いていけるものだろうか。震えあがった眼球にはさっと火花のような煌めきが迸り、その心許ない明るみにであっても取り付きぶら下がろうとした。そうでもしなければ、この暗い夜の底に無限に落ちて行きそうな気がしたから…… 夜において明暗の乖離は甚だしく、その間をふらふらと歩く人間は、自分がどこに立っているかすら判然としなくなりそうで、いやそもそも足場などなく、自分はどこにも立ってすらいやしないのではないかと、その動顛した理性が不安がるにも無理はないかに思われるのであった。明暗の乖離―ちょうどこれと同じようなものを見たことがある―エノイッサは突然ふと腑に落ちたのだった。あれは何か詩的な書物だった―はるか昔のこと、人が生まれるちょうどその頃より以前、神の丘に立つ宮殿の中で二人の天使がお互いに激論を交わし退けあったと書かれてあった。光の子として生まれた彼らのうち一人はそれ以来永劫と言うべき闇をその肩に背負うこととなって今では夜の上に跪き覆い被さっているのだ、忌まわしげに顔をしかめて。自らの背負うこととなった罪過を、その重みをこちらの頭上にもしたたらせながら。夜のしじまは罪業にあえぐ哀れな呻き声によく似て黒い気がした。しかし―邪悪な堕天に対して哀れな、などと思うことは尼僧である自分にしてみれば甚だ不信心ではあることかもしれなかったけれど―だけど、そんなことは別にどうだって構わないことだ…… ああ、間もなくその姿、自身の負いきれぬ罪過に身を曲げて夜にすがる姿が見えることだろう……
とある街角にて、いつの間にか徒党の先頭を歩くようになっていたエノイッサは立ち止り、振り返って自分の連れたち―被告と自警団の男とに対して言った、
「さあ、着きましたよ」
抑揚のない調子―口の動きは甚だ機械的ではあったけれども、唇の赤いひらめきが何かの底意を感じさせるのだった。
「私たちが入っていかねばならないのは、こちらの建物です」
エノイッサが腕を掲げて指し示してみせた先には、二つの巨大な建物が通りを挟んで対峙していた。底知れぬ夜の暗い闇色の中で、何らかの意志を持ちながらそこに佇んでいるかような建造物たちだった。それはまさしく、あの書物に出てきた二人の天使たち―かつて行き違う信念のために互いに退けあった彼らのようで、片方が月の光を浴びて白くなる一方、他方が燈火によって浅黒い色に鈍く輝いていたのは、一方の彼に訪れることになった堕天をそのまま暗示しているかのようにも思われた。誰か彫刻家、建築家のような類が意図してこの寓意をこの場所に創作したことなどあろうはずもないが、天使たちは街のこの一角に現れ、大きな通りを隔てて永い時を経た今でもあの時の姿のままで、いまだ睨み合いを続けているようなのだった。通りを挟んで右手で月の光を浴びて白く光っているのは、尖塔の下になだらかな屋根をした修道院で、左手で燈火の光を浴びながら浅黒い色に鈍く輝いているのは(実際の所これは建物が煉瓦によって造られていたためであったけれども)、矢狭間(注:矢を打つためにこさえられた高い塔)を空高く突き刺す宮殿なのであった。これほどはなはだしい対の姿を目にすると、これからの魔女裁判とは別にしても、また妙に神経を苛まれてくる。被告に対する尋問が行われることになっているのは左手にある宮殿で、ここは昔こそ護民官の邸宅として用いられていたのだけれど、時が経つにつれその役割は、牢獄、処刑場、あるいは拷問部屋といった残酷なものに変容されていったものである。であるから、エノイッサが昔読んだ堕天の物語に思いを馳せたとして、それはあながちおかしなことでもなかった。彼女はそうした建物の歴史、性質を知っていたから―もし向かいの修道院の前に立ったとするならその時とは正反対な感情によって、今この宮殿の前に立つとまるで身構えたように体を強ばらせたのだった。宮殿は実に脅かそうとする思惟を持ってこちらを見下げてくるかのようなのである。建物の正門ではなく側面に取り付けてある小さな出入り口を使うように言われていたエノイッサは、壁に沿って滑るように通りを回ると、やがて件の扉の前まで来たのだった。控えめな音を発てて叩くと、覗き窓が開いた。
「私です。被告を連れてきました」
がちゃりと錠の解ける音がして扉が開いた。暗いと思しき建物の中からずいぶん背の低い男が出てきて、三人を迎えたのであった。彼は拷問官である。姓をナッソンといった。エノイッサはたびたびこの宮殿に出入りしていたものだから、彼のことはよく知っていた。
「ごめんなさい…… 遅くなってしまって。もうずいぶんと長い間、待っていたんでしょうね」
と、尼僧が先んじて言った。拷問官は彼女の後ろに立っている被告と自警団員の彼をちらと見やった後、
「まあ、よろしいですよ、どうせたいしたことじゃありませんから。待つなんて、そんなこと、たいしたことではありません…… ただ、急いだ方が良い、私はともかく、お偉いがたはせっかちばかりですからね」
と、言った。四十歳程度である彼は帽子を目深に被っていたが、それでも分かるほどに顔はしわくちゃで、実年齢よりもはるかに老けて見えた。先ほどは覗き窓より飛び出そうかと思われたほどに大きな鋭い瞳、それに加えて、骨の出っ張った鉤鼻といい、不恰好に曲がった背中といい、人を物怖じさせるような風貌であったが、しかし、尼僧エノイッサは、そんな彼を忌み嫌うような感情を持ち合わせてはいなかった。というのは、ひとえに、この拷問官である彼が、ある種の自嘲にも似た控えめさを持っていたからなのだった。物腰からは―一般的に言って、拷問官とは野蛮な人種であると思われているから―およそ職業には似つかわしくないと思われるような人の好さがにじみ出ていたのである。それは世間を知らない尼僧から見れば、一つの礼儀と呼んでも良いほどに洗練されていた。そうした彼自身の態度が、こちらにちらと見せた微笑を作ったようである。拷問官ナッソンは、背後に一人の弟子を連れていたけれど、むしろ、師の方が従者なのではあるまいかと勘違いしかねないほどに今述べた態度は際立っていた。ナッソンは自警団の彼から縄を引き取って、それを弟子に持たせた。するとベルグハルトが、拷問官をじっとにらみつけた。これはまた怒りが再燃してきたわ、とエノイッサは横で冷や冷やものだった。息苦しくなった彼女はナッソンに向かって、
「言っておきますけど、あまりぞんざいにしないでくださいね」
と、思わず口にしたのである。すると、ベルグハルトがさっと彼女の方を向いて言った、
「お前…… 尼さん、あなたはきっと、俺のことを惨めな奴だと思っているんだろうな…… 構わん、正直に言ってみな、俺のことが哀れでたまらないんだろう、ええ? あなたを見ていると、それは手に取るように分かるよ…… 〈ああ、かわいそう、なんてかわいそうなのかしら? この方の為に何かしてあげることはできないものかしら? そうだ、神様にお祈りを、お祈りをしましょう〉だって? 畜生、馬鹿にしやがって……! 俺は、貴様のような奴に情けをかけてもらうほど落ちぶれた人間じゃない…… おまえらはいつだってそうだ。あなた、尼さん、見たところ、とてもやさしそうな顔をしているがね、そんなものは…… へ、へ! あれだろう? 教会の善意と同じで! ぴかぴかした仮面の下には、いったいどんな腐肉がうごめいていることだろうね? な、俺だって、何も知らないわけじゃないんだ! おまえらのことはようく分かっている、ようく、だ…… へ、へ、だがそんなもの、くそくらえだ! そうだ、おまえ、もし俺のことが哀れでたまらないって言うんならな、今すぐに俺をここから救い出してみせろ!」
「ちょっとあなた、私は言っておきますがね」
拷問官が、抑揚の無い言葉で遮った。
「ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックさんとおっしゃいましたっけ。私は良く知らないですけどね、あなたは確かに身分の高い方なのでしょう、けど、今はこうしてお縄につかれているわけですから、おとなしくしていただかないといけません」
「身分? 身分ですって?」
エノイッサの背後からこのやり取りを見ていた自警団の彼が、急に笑い出して言った。
「こいつに身分なんぞありませんよ、貴族でもなんでもない、ただの商人です。もっとも、我々が見たこともないような財産をもっているには違いありませんでしょうけれどね」
「なるほど」
拷問官ナッソンは答えた。
「それならなおさらってもんですよ。あなたが考えているほどには、金なんて、ここではなんにもならないんですよ。そんなもので私の心を揺り動かそうったって無駄です、私はこの上なく冷静なんですから! ひ、ひ…… あなた、それをちょっと考えていたでしょう! いやいや、私には分かりますよ…… だがそいつは汚れた考えです! 私は、そんなことで、あなたに対する尋問に手心を加えたりなんてこと、しませんよ。もっとも私にとっては、あなただけじゃなく、貴族だろうが、王様だろうが、皆同じですけれどね。そのくらい、私は公正なんです」
言った彼は、言葉の最後に、ひ、ひ! と、それは奇妙にひきつったかのような、しゃがれた笑い声を付け加えた。この不快な印象を撒き散らす笑いを、エノイッサはもうとっくに知っていたが、これは彼独特の癖なのであった。
「これでよし」
と、自警団員は折りを見計らって言った、
「ここまで来れば、私はもう用済みですからね。尼さん、それにあなた(彼は拷問官に言った)、後のことはよろしく頼みましたよ……」
言葉を聞いた拷問官は一度頷いて、
「では、行きましょう」
と、言った。エノイッサは急いで建物の内側に入ったのだった。扉を閉めた拷問官は、灯を携えていた。
「みなさんお待ちかねですよ、さあ、急がなくては…… それと、ヒュンフゲシュマックさん」
と、彼は被告の方を向いて言った。
「ここへ来たら、どんなにわめき散らしたところで、あなたが善人だという箔を貰えることはありませんから。あなたは、ありのまま、真実を言うことですね」
「だから、俺がやったのではないと言っているだろう」
被告は言い返したが、声は、まるで独言のように虚しく消えた。彼をじろりと見やってから、拷問官は歩き始めた。弟子に、ベルグハルトが引き摺られるようにして乱暴に連れて行かれる、ろばのように。最後にエノイッサが後ろから着いていったが、彼女は、ふと、前方から静かに流れてくる言葉を捉えた。
「なんでも起こりやがれ…… 平気だ、何事もたいしたことがないんだ…… 俺にとっては! 今まで平気だったじゃないか、今度だって、きっと大丈夫さ…… だけど、どうしてこいつら、こんなに無慈悲でいられるのだろう? 後ろの尼さんにしたって…… まともな人間じゃないからか? 結局、俺がどうなろうと、皆、知ったこっちゃないってことなのか? 所詮は他人事だというわけか…… それにしても、俺なんぞ、全然問題でもないかのようだ。こいつら、まるで家畜みたいに引き立てていきやがるが…… なんて冷たい野郎たちだ! しかし、これを重大に考えているのは、ひょっとすると俺だけなのかも知れん…… じゃないと、こいつらがこれだけ無慈悲である理由が分からんからな! 実に阿呆らしいじゃないか! 俺は、俺の存在は一体何だ? 誰も俺の言うことに耳を貸さない、俺の言葉は、何ももたらすことができない、だから、ひょっとすると、俺は、自分自身で護るにも値しないものなのかも知れん…… いや、いや、そんなはずはないさ! だってこれはすべてだ、俺のすべてなんだ! 俺は、この唯一の所有物を全力で護らないといけないだろうよ、こいつらから、全力で! 耐えてみせるぞ、そうしなければ、すべてが、無くなってしまうことになるからな……」
言葉は、エノイッサの耳を掠めて過ぎ去っていったが、まるでその小さな響きすら残すまいとしてかき消すように、宮殿の暗い廊下には、四人の足音がそれは嫌になるくらい高く響いていたのである。
中庭に出て、二階へと向かう大きな階段を昇った。尼僧は、踵を上げてそれを石段に付ける度、眩暈にも似た感覚を覚えていた。音が頭蓋内に侵入してきては、ちらちらと光のようになって瞬いていた。その足取りは重く、そしてあまりにも鈍かったため、合唱の中で一人だけ調子を外した歌手の声みたいに、前を行く三人の足音の混声からそれは大きく逸して聞えたのである。(ああ! ばかみたい! 別に、私が裁かれるわけではないのに、どうしてこうも怯えているのだろう……? 何も恐れることは無い…… 私は、ただ黙って、自分のすべきことをすれば良いのよ)彼女の視線はちらちらとベルグハルトの方へと向かうのであったが、彼女は意識的にそれを避けようとしているのだった。三人は、先頭をゆく拷問官の持つ灯を頼りにして歩んでいたのだが、そうでなくても、この中庭を歩くのは容易いと思われる。というのは、二階の回廊に一つ、ぽつりと、星のような明かりがあって、それがちょうど部屋の片隅に蝋燭を置いたみたいに、壁で四角にされた中庭を、ほんのりと照らしていたから。(ああ、あの部屋だ! あそこだ! 今日も……) 灯は、人の存在を示すものであり、一行が目的としている場所は、事実そこにあった。階段を昇り切って明かりの下に着くと、扉があってそこに門衛が一人立っていたのである。
「さあ、開けてください」
と、拷問官が門衛に言うと、彼は会釈も返さずに、黙ってゆっくりと扉の取っ手に手をかけた。すると、緩慢な動作で扉が木の割れるような音を発てて開いた。部屋の中は暗かったから、エノイッサは、棺桶に押し込まれるような心地がした。入りたくもなかったが、四人のうちで最後に彼女がしきいをまたいで中に入ると、背後で扉の閉ざされる音がした。
「皆さま、お待ちかねですね。被告を連れて参りました」
拷問官が闇に言葉を投げかけると、部屋の奥に、蝋燭の光に照らされてこちらを見ている瞳が四つ現れたかのように思われた。二つの、生首のような、人魂のような、男たちの顔が闇の中にぼんやりと浮かんでいたのである。
「あれほど言っておいたのに、また、君はとろとろ歩いたのか。ええ、エノイッサ、君は、どうしてそんなにいつもぐずぐずとするんだろうね、いつも、いつも……」
暗闇に浮かぶ男の影の内一人が言ってきたので、エノイッサは、顔を上げて、ただ一言謝った。暗いから相手にはよく見えていなかっただろうが、彼女は今、自分がよく瞬きをしていると感じたのだった。声をかけてきたのはパウロという、この町の司祭枢機卿をしている人物で、誤解を恐れずに言うのであれば、教会に属する人間なのだから、エノイッサとは同じ世界の人間ということになる。今日のことをエノイッサに命じたのは彼だった。暗いのでよく見えないが、司祭はいつも通りの白い法衣を着て、いつも彼がそうしているように、腕を組んでそこに佇んでいるに違いなかった。もう一人の人物は、ヨハン・クラ―メルといい、この宮殿の総督である。この街で行われる裁判やら拷問、処刑などといった刑事的、法的な事柄は、ほぼ彼によって司られていた。司祭と総督とは、椅子を並べて座っていた。この狭い部屋の中には、今述べた二人の男とエノイッサたちとは別に、あと二人の人物がいたが、それはこの裁判の書記と、原告の男とである。しかし、彼らについて今は言うべき時ではない。クラーメルは、隣の司祭に顔を寄せて、なにやらこそこそと耳打ちをした。それに対して司祭は無言で頷いた。
「では、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック。そこに椅子があるだろう、被告のために用意したものだ、貴様はそれに座ると良い」
総督は言って、エノイッサらの目の前に置かれている木製の椅子を指差してみせた。やたらと大きな、つまりは拘束椅子だった。これから起ころうとすることを想像して怖れをなしたらしい、ベルグハルトが呟いた、
「…… いやに唐突なんだな、準備とか、こっちのことなんて、まったくのお構いなしなんだな。俺はてっきり、もっと何か儀式めいたものかと……」
彼は怖気づいて、立ったまま動けないでいる。というより、そもそも〈座る〉ということが何を意味しているかすら分からない様子だった。それを見て取ったクラ―メルが、今度は「座らせろ」と、うんざりしたような仕草で合図をした。で、拷問官たちが騒々しくベルグハルトを椅子に押し込めたわけである。
「では……」
と言って、クラーメルは何やら紙片を持ち上げた。
「被告人の姓名を述べよ」
総督は言ったが、ヒュンフゲシュマックには、その意味が判然としていないふうであった。
「い、言えば良いんですかい……」
「そうですよ、それで良いのです、あなたの知っていることを、ありのままにお話することです……」
と、後ろからエノイッサが助けた。
「…… ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックです」
彼がやっと口にすると、すぐさま質問が続いた。
「家族構成は?」
「誰もおりません…… 私が五歳の時に母親が、それと今から数年前には父親が死にました。二人とも、姓は私と同じです。私に兄弟はいません、配偶者もいません」
「では、被告人は、ここに出頭を命じられた理由を知っているな?」
「それが…… さっぱり分からないですよ……」
すると、総督が被告をじろりと睨みつけた。エノイッサは、しまったと思った。
「ヒュンフゲシュマックさん、なんでもお話することです」
「なんでも…… なんでも、だって? なんでも、とはいったいどういうことだ? 俺にはさっぱりわからない! なんで自分がここに座っているのか…… ああ、あなたら、どうしてそんな目で俺を見ているんだ? どうしてそんな目で俺は見られなきゃならんのだ? 俺が、魔女だっていうからか? 俺の顔に、何かそんな印でも付いているのか?」
「そう、それで良いのだ」
総督クラ―メルがやや早口で、言葉尻を得たりと言わんばかりにさえずった。
「被告は魔女の罪で告発されたのだ。さもなければ、ここに連行されることは無かった。お前は魔女として告発されたのだ、被告よ、周知の通りだ」
ヒュンフゲシュマックは、これを聞いて失笑した。
「本当に、本当のことなんだな。俺がこれから裁かれようというのはなんということだ……」
部屋にいる全員が一斉にヒュンフゲシュマックの方を向いた。皆が皆、「何を言っているんだこいつは?」とでも言いたげな顔をして。当の被告自身は奇妙な薄ら笑いを浮べている。「故に……」と、総督が何事もなかったみたいに続けた。
「故に、まず被告人は自らの罪を認めなくてはいけない。如何なる弁解もしてはいけない」
「ああ、弁解ですかい…… 弁解をして、いったい何になるというんです? 私はこれまで散々やりましたよ、自警団の男にね。それと、そこの尼さんにもね。だけどなんにもなりませんでした。あなたらに言っても同じでしょう、私の言うことになど耳を貸さないんだな! 分かってますよ、私にはね、全部分かってるんですよ…… だけどもし、この裁判がこの上なく公正に執り行われるってもんなら、あなたたちがそこの尼さんと違うっていうんなら、私はこの場で、いくらでも弁解してやりますよ! 私はね、ただそれだけを期待しています……」
「聞えなかったのですか? ヒュンフゲシュマックさん…… 弁解をしてはいけないのですよ。言われるままにしていた方がよろしいですよ」
と、エノイッサが口を挟むと、被告は憤慨して、
「黙れ、俺はもうあなたの言うことになんかには耳を貸さないぞ! あなたみたいな分からず屋になんて耳を貸してやるもんか…… 尼さん、あなたは俺にいったい何をしてくれた? あなたの言葉は、まるで墓碑でも読み上げているようじゃないか? あなたの言うことはいつも同じだ、全部同じ意味だ! 綺麗な言葉で別なように飾っているだけだよ。…… 私は、こんなでくのぼうの言うことはうっちゃっといて、司祭さん、総督、あなたらに喋ろうと思います…… あなたたちは、この尼さんみたいに頭のないのとは違うでしょう? それに、もし仮に、仮のこととしてだね、ちゃんと手続きを踏まれた裁判というならね、これはこの上なく正当なことなんでしょうからね! もしそうなら、私は、言われた通りちゃんとしてますよ。…… だが…… 言われるままにしていた方が良いとは、それは、いったいどういう意味だろう?」
部屋はしんと静まり返った。ちょっとしてから総督クラ―メルが彼に聞いた。
「では、被告は、自らの罪を認めないというのだな?」
「全然身に覚えがないですね!」
後ろで聞いていたエノイッサの頭の中をさっと彼の言葉が不快な火花となって散った。
「おとなしく言われた通りにするとは言いましたがね、それとこれとは別の話です。私は魔女ではない。認めるわけにはいかない」
「皆そのように言うのだ」
パウロ司祭が初めて口を開いた。
「ここに来た者は誰だってそう言う。だがその実、全員が全員魔女だったのだ…… 被告、言っておく。罪を認めなさい。否認は潔白とはならない。もしお前が信心深い者というなら、むしろ罪を認めるべきなのだ。お前はそうするべきなのだ」
するとヒュンフゲシュマックが、恐る恐るエノイッサの方を振り返った。彼女には、被告の言わんとしていることが分かるようだった。(だから言ったのに!) 彼女は無言で、首を横に振って答えただけなのであった。総督クラ―メルが続けて聞いた、
「被告、もう一度聞くが、お前は自らの罪を認めないというのだな?」
「だって…… 認めたらいったいどうなるというんですかい? 私をここから出してくれるんですかい」
「いいや、火あぶりになる」
「私は天国に行けますかね?」
この問いにはパウロが反問で答えた。
「魔女が天国に行けるとでも?」
ヒュンフゲシュマックが「やっぱりこれだからな!」と、叫んだ。
「それなら、いやだ、いやだ、俺は魔女だと自認するわけにはいかない!」
じろりと司祭を見やって言った、
「実際、俺はあなたらの言う天国のことなんてなんてどうでもいいんだ、そんなこと、どうだっていいんだ…… だが、どっちにしたっておんなじじゃないか? それなら、魔女と認めない方がましだ。 不快だ! そんな印を貼られて死んでたまるか! 俺は魔女ではないからな」
「お前は魔女だ」
司祭が低い声で呟いた。追従するようにクラ―メルが頷いた。
「もう良いだろう、罪状を読み上げるぞ」
と言って総督は書記に合図をしてから、手にしていた書状を持ち上げ蝋燭の光で照らし、見づらそうに頭の角度を調整しながら、おそらくそこに書かれてあることを読み上げていくのだった。
「…… 被告は魔女である。彼はキリストの道に背き、悪魔と結託して、世に災いをもたらした。黒魔術を使って毒薬を精製すると、以下六名をこれを用いて殺害したものである……」
そこから、毒薬によって死んだとされる被害者たちの名前が読み上げられていく…… エノイッサにも、三つほど知る名があった。それらの人物たちの持つ家号は特に有名で、いずれも街に強い影響力を持った政治家や大商人のそれであったから、そうしたことは、俗世に疎い尼僧エノイッサであっても知っていた。彼らが死んだ時にはその死があまり公にされることはなかったのであろうが、穏やかならぬ噂となって、鼠のように街を覆い尽くしたことがあった。場所は修道院とて例外ではなかったのである。(あの人も、あの人も…… まあ、ずいぶん殺したことになってるのね)
「クラフト・ワーゲル」
最後にクラ―メルの告げた名が、エノイッサに緊張をもたらした。他の犠牲者たちとは違って、つい先ほど聞いたその死の模様が、予想以上に生々しいものとして、頭蓋の奥底から蘇ってきた。ベルグハルトを見やると、彼はちょっと苦しそうに身をよじった気がした。彼女は被告をじっと観察しようと努めていたのだったが、「それで……」と続く朗読の声に、裁判が滞りなく進んでいることにはっとして我に帰ったのである。
「被告であるベルグハルト・ヒュンフゲシュマックの邪悪な行いは、絶対に許されざるものであるから、死刑をもって彼を断罪する外無い……」
「そんなことを認めるくらいなら、死んだほうがましだ!」
と言って、ベルグハルトは高らかに笑った。
「私がそんなに殺したというんですかい? 被害者の名前は全員知っているが、会ったこともない奴だっているぞ。そうした人間たちを、どうやって殺したというんですかい? …… 私が? はは、それで、いったいなんのために?」
しかしその反問は裁判の進行を妨げなかった。クラ―メルは歯牙にもかけないで、
「さあ証人、きたまえ、ガイス」
と、先ほどから後ろの椅子に控えていた男に呼びかけたのだった。証人は椅子から立ち上がると、乾いたような足音を響かせて、部屋の中央に歩いて来た。証人の名が呼ばれた瞬間にうめき声を上げたベルグハルトは、蝋燭に近づくにつれてだんだんと明るみになってくるその男を見て、体を強張らせたようだった。
「おお、あなただったか…… やはりそうだったか! 私を告発したのは……」
と、呟いた。そして無意識のうちに立ち上がろうとしたのだろう、彼は拷問官によって肩を押さえつけられた。
「あなたはここに座っていなくちゃなりません」
と、ナッソンは言った。おとなしくなったベルグハルトではあったが、その息遣いは激しさを増して、
「あなたのせいで、俺は…… いったいなんの恨みがあってこんなことを? あなたは、根も葉もない言葉で、みんなをたぶらかしているんですね!」
すると証人は無言で彼を睨み返した。憎しみが行過ぎれば軽蔑に姿を変えて、ちらちらと火花のように刹那的なきらめきを見せるとエノイッサは知っていた。被告を睨み付けた証人、ガイスの表情にもそんなものがあるようだった。このガイスという男はこの町の行政長官をしている人間で、名門の大商人の長子として生まれた男である。街の経済の拡大に大いに貢献されたことで良く知られていた。彼の体躯は大きくもなく小さくもなく、歳は四十手前頃で、とある一点を除いて平凡ではあるが、とても男性的な顔立ちをしていた。その例外的な一点とは、瞳の黒い大きな目である。ぎょろぎょろと爬虫類の獲物を見るような…… それはとても印象的で、そんなわけで実は、エノイッサがこの証人のことをはっきりと思い出したのは、ベルグハルトが思い出した場合のようにその物々しい名を耳にしたことによってではなく、彼の大きな目を見たことによってであった。彼女は以前、何度か礼拝堂で彼を目にしたことがあるだけだったが、それであっても、薄暗い中ではっきりと、目の前に立つ男を識別できたのである。ガイスは、やや長めの黒っぽい髪をきちんと撫で付けて、瀟洒な着物を着ていた。
「そう、そうだ、そこで良い。そこに立っていろ、証人。それから、被告は静粛に……」
総督が言った、
「裁判を滞らせるような真似をしてはならん。じっと座っていなさい。お前に関することは自ずと明らかになるだろうから」
言葉に苛まれて、ベルグハルトは、まるで火にあぶられる獲物みたいに、首筋に脂を滴らせていた。蝋燭の光で汗の粒がちらちらと瞬けば、エノイッサは被告の心中を悟ってぞっとするのだった。
「ちょっと待ってください!」
ベルグハルトが言った。
「ええと、何を言おうとしたんだっけ…… ちょっと待ってください、今思い出しますから…… おおそうだ、私の弁護人はいったいどこにいるんですか?」
彼の言葉には異様な熱意がこもっていて、それは、自分が不当な扱いを受けているのだと、さもあからさまに物語っているようだった。藁をもすがる思いで、彼はとっさの思い付きを口にしたらしい。それまで被告の言葉に耳を貸さなかったクラ―メルが、ある種裁判の形式を重んじてか、初めて返した、ため息をついて。
「…… お前は、弁護人を呼べるのか?」
「え、なんとおっしゃいました?」
「お前は、弁護人を呼べるのか、と聞いたのだ。私は」
ベルグハルトが答えなかったために、部屋はしんとなった。だが、言葉を解すことができないでいる被告の、間の抜けた様子を見てとったクラーメルは、ため息をつくような言葉遣いで言った。
「私は、お前を弁護する人間はいないだろう、と言ったのだ」
ベルグハルトはぎょっとしたらしい、それまでの息遣いが途端に止まって。
「構わない、少しなら時間はくれてやるから。お前は、親しいものの内から弁護人を呼んでも構わない」
「今、私は、身内はいないと言いました!」
被告は身を乗り出さんばかりだった。
「へえ…… 俺の思った通りだった! これは…… まやかしだ! 本当にその通りだった! 全然正当な裁判じゃないのだ、これは…… あなたらみんな狂っているよ! 狂っている! どうしてそんな涼しい顔をしてこんな卑劣なことができるのか?」
「ちょっと待て被告、愚弄は許さないぞ。私は言った。お前は、弁護人を呼んでも構わない…… そのほうが我々の手間も省けるというものだ」
「そんなことを言って…… 俺が誰も呼ぶことができないのを承知の上で、あなたはそう言っているんですよね」
「ならば友人は? お前の潔白を証してくれそうな人物が、どこかにいるのではないのか?」
「だって…… いったい誰がいるというんでしょうかね? 私をかばってくれる人間がいったいどこにいるというんです?」
ベルグハルトは、歯をがちがちと噛み合せながら言うのだった。それは、恐怖というよりもむしろ、怒りの響きに聞えた。(なんと恐ろしいことを言うのだろう!)エノイッサは、総督の言葉を聞いて思った。彼女は、彼の言った「手間が省ける」という言葉の真意をそれとなく知っていたのである。もう何度も耳にした言葉ではあったけれども、やはりこの場においても、彼女は震え上がらずにはいられないのだった。魔女裁判に於いては、邪悪とされる被告を弁護するということは、それ自体が同罪とみなされてしまうことになるのだから。つまり、クラ―メルは「魔女を捜す手間が省ける」と言ったに等しいわけである。そんなわけで、たとえベルグハルトに肉親がいたとして、彼らでさえ証言台に上るのは嫌がるに決まっていたし、エノイッサはそうした現場を何度か目にしていた。被告自身がそのことを知っていたかどうかは分からないが、ともかく、彼は弁護人を呼ぶことが出来ないのである。総督が書記に言った、
「書け。〈被告、証人を呼ぶに能わず……〉」
ベルグハルトは、自らを陥れてゆく言葉を貪り聞くのだった。冷たい言葉の中になにか希望的観測の、その断片でも良いから見出そうとして、彼が言葉の隅から隅までに耳をそばだてているということが、エノイッサにはよく分かった。死刑囚が、処刑人の持つ刃にじっと目を注ぐのと似たようなものである。
「〈故に、弁護人は選定された……〉」
「ちょっと待ってくれ!」
ここで、ベルグハルトがまた叫んだ。
「弁護人? だって…… あなたは今、弁護人はいないとおっしゃったじゃないですか…… 選定されたって、総督、あなたはいったい誰のことを言っているのだ?」
問いかけに、クラ―メルがちらりと彼女を見やって言った、
「そこにいる彼女のことだ」
総督の言葉と視線とをまともに浴びて、エノイッサはびくりと体を震わせた。被告がゆっくりと振り返ってこちらを眺めてきた。まるで、今この瞬間、彼女がずっとその場に佇んでいたことを思い出したかのように―今まで彼女のことを忘れていたかのように。ベルグハルトは、まるで当を得ることができないとでもいったような表情をして、笑いながら呟いた、
「あなたは、私をからかっているんですね」
すると、総督は意地悪そうに、もしくは呆れたかのように一度鼻をふんと鳴らしてから答えた。
「冗談などではない、至極まじめだ。お前は今の今まで気がつかなかったのか? お前を呼びにやったのも…… 彼女は今、そのためにここに立っているようなものなのだ」
一瞬合点がいかなかったようなベルグハルトであったが、みるみるうちにさっとその顔に痙攣のようなものが走り、
「馬鹿な…… なんということだ!」
と、彼は再び立ち上がろうとした。そしてまた拷問官によって押さえつけられる。一度はやり込められてしまった行為が再び為されるのを見ると、ある種の滑稽ささえ覚えることがあるが、この場合、一度目のそれと違ったのは、ベルグハルトは自らを押さえつけようとする腕を断固として跳ね返そうとしたのだった。拮抗に体を揺すぶられながら怒った、
「どうしてこいつが…… このでくのぼうが俺の弁護をしてくれようか? いや、こいつに俺の弁護など出来るものか? この尼僧は貴様らの手先ではないのか……? そう、そうだろう、そうなんだろう! ああ、わけが分からない…… ぜんぶ、決まってたんだ! こうなることは、初めから分かりきっていたことなんだ! こうなるように仕向けて、あなたたちは…… えい、忌々しい! 全部目算どおりなんだ、え、総督さん、あなた笑ってるね? 笑ってらっしゃるね! あなたも、あなたらも! みんなして俺を笑っていやがるね! …… へ、へ、全部あなたらの目論見どおりうまくいったようだよ…… ああ、これは欺瞞だ! 全部欺瞞に満ちたことなんだ……」
そう言うと彼は、脱力したようにどすんと椅子に沈み込んで、子供がするようにしゃくりあげて泣き始めたのである。いよいよ彼は、自分の運命の光が段々と暗くなっていくことを悟ったらしい…… 何もかもが自分の希望通りにはいかないということを…… その通り、彼の言ったように、これが欺瞞でなくて一体何だろうか。(ああ、なんてことを! 私もこれに荷担しているのだ…… むしろ私は今、その中心にさえいるのじゃないかしら。でも、黙って見ているだけよ。だって、私にいったいどうしろって言うの? ああ…… ベルグハルト、あなたにこの苦しみを分かっていただけたら! …… いや、いや、こんなもの、こんな私の心など虚飾だ。はたしていったい、これが憐れみと呼べるものか? 私ったらばかみたいじゃないか…… こんな…… 人が裁かれようとする時でさえ、自分の苦しみがどうだのって…… ああ、でも苦しい…… 胸が張り裂けそうだ…… 本当になんとか、なんとかしてあなたをここから救い出してあげることができたら! ああもう、こっちが泣きたいくらいよ……) エノイッサは、顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。総督クラ―メルはこんな場面―被告が逆上するような場面をもう何度も目にしているらしいが、さすがに気を悪くしたらしく、相変わらずの平坦な口調でこそあれ、妙にうなるような低い声をして被告に言ったのである。
「言葉を慎め。被告、弁護人など、誰がやろうと同じことではないか? ことに、こうした場合…… 魔女裁判における場合、誰がお前の潔白を証することができようか? 貴様は魔女であるというのに…… 今までの魔女として告発された連中どもは…… いや、そんなことはどうでもいい。ただ一つ、お前は黙ってそこに座っていれば良いのだ! 鳴き叫ぼうったってそうはいかない…… お前は、黙ってわしに許しを請えば良いのだ、そうすれば少しは……」
何か悪さをした子供が、叱りつけられ泣いているような具合だった。ベルグハルトは何も言い返さなかった。クラ―メルはさっさと先に進んでしまいたいらしく、手元の紙に再び目をやり、書記に向かって「書けよ」と、催促した。
「〈被告、証人を呼ぶに能わず、故に弁護人は選定された…… Enoissa〉」
そこで彼はちょっと咳払いして、
「〈選定された、尼僧エノイッサに一任することになった〉」
ここまで言うと、クラ―メルは尼僧の方をちらりと見やって問うた。
「それでは、良いな、尼僧エノイッサ。君は、この男の弁護人になってやることができるのだな?」
「ええ……」
「必要ない!」
尼僧の承諾をいきなり遮ったのは、他でもない、被告のベルグハルトである。充血して真っ赤になった眼球を、ぎょろりとエノイッサに向けて言った、
「必要ない、必要ないぞ…… 尼さん…… こうなることは、あらかじめ画策されていたことだろう! だからあなたが俺の潔白を証明することなど、できやしない、もう分かりきったことじゃないか…… ええ? そうじゃないか? それに、本当にあなたにはその気があるのというのかね? ええ、言ってみな」
「私はただ……」
「へ、へ……! ただ、なんと言うのだ? 俺のことが可愛そうだとでも言うのかね? 哀れみならいらないぞ! 慰めなんてものは、なおさらだ! へ、へ…… 俺は今までのやつらみたいに、黙って言いなりになんてならないからな! 俺はお前らを信用しきった馬鹿どもとは違う…… お前らの思うようにはさせないぞ! あなたはそこにそうやって突っ立っていると良い! いつまでも…… いつまでもな! 尼さん、あなたは、哀れみだの、慈悲だのと甘い果物をぶら下げては、結局のところ、俺を地獄に落とす手伝いをしているだけじゃないのか? あなたは裏切りのためにそこに立って、今やあなたの全存在が欺瞞なのだ! 畜生、どうとでもなりやがれ! この淫売め! 畜生……」
この汚い言葉をその身に受けた途端、エノイッサの胸底からは憎しみがむらむらと沸き起こってきて、彼女は、急にどうしてそんなことを思ったのかは分からないが、自分に悪態をついて止まないこの無礼で破廉恥な男に対して、これまでのへりくだった態度を捨て去ろうと決意したのである。エノイッサは、思いやりのない、こちらの心を推し測ることのできないこの男にはもう嫌気がさしたみたいなのだった。彼女の頬にはちらちらと火花のような赤みがほとばしって見えた。
「ああ…… あなた、何も分かってないのね、何も!」
それまでじっと澄まして耐えてきただけに、その舌は炎のように盛っていて、
「勝手になさい! あなたのような分からず屋、どうとでもなれだわ! ええ! あなたに弁護人なんていらないわね?」
と、彼女は大声で吠えた。心中がさっと反転したようなのであった。感情を構成する要素がくるくると面を変えていく―自分でもそう感じられたが、激情に身を委ねる快感は勢いづいていて抗いがたく、エノイッサは自分をおしとどめることが出来なかった。
「総督!」
エノイッサは、クラ―メルに向かって、
「私は、こんな男を弁護する訳には参りません……」
こう言うと、後ずさりしてから扉の取っ手に手をかけた。
「どこへ行こうというのかね?」
司祭パウロが、尼僧の態度の急な変貌に驚いたように聞いた。彼女は答えた、
「…… だって、私に何ができるというのでしょうか? 被告がこんな様子じゃ、私なんて役立たずです! まったくの無用物です、この場においては! 私なんて…… ええそうよ、でくのぼうですとも!」
ぶるぶると小刻みに震えるエノイッサは、大きく息を吸い込み、ひきつけを起こしたかのような身震いを一つ起こすと、扉を開けてそのまま部屋から出て行ってしまった。全然顧みようともしないで。誰もが呆気にとられていた。突飛な尼僧の振る舞いに最も驚かされたのはどうやらベルグハルトのようで、彼はきょとんとしていた。総督が言った、
「どうしたんだ? 癇癪か?」
クラ―メルはパウロとしばし顔を見合わせていたが、やがて混乱した頭の中を収拾し終えたのか、静かに前を向いて拷問官に命じた。
「尼僧を追いかけなさい。行って、聞きなさい。この場に戻る意思があるのかどうかと……」
拷問官はすぐにエノイッサの後を追って部屋を出た。彼は去り際、なぜそんなことをしたのかは分からないが、尼僧が開け放したままにしていた扉を閉じた。すると、ずっとエノイッサを目で追っていたベルグハルトの顔を再び影が覆った。
「書け、書記」
総督クラ―メルが言った、
「〈被告は自ら、弁護人を拒んだ。他ならぬ己の意思で、我々の申し出を跳ね除けた〉、とな。一言も書き漏らすようなことがあってはならない」
部屋から出ても、エノイッサはすぐにそこから立ち去るようなことはせず、扉から数歩ばかり離れた壁のところに背をもたせかけていた。胸に手を当てて、激しい動悸を落ち着かせようとしているかのようだった。扉を横目に見やりながら―今しがたまで自分がいた世界の名残、尾を引く存在を目にしながら、なぜだかは分からないが、先ほどの一幕を頭の中で何度も何度も反芻させようとするのだった。(わかりきっているじゃない…… だれがあんな奴のことなんか…… 俗物め! ええ、忌々しい! なんだって私は、こんな馬鹿なことにかかずりあっているんだろう? あんな卑劣なやつに…… こんな欺瞞に満ちたことに!) 彼女はそうしてベルグハルトの真っ赤に充血した瞳を思い出すのだったが、その度にまたむらむらと嫌悪の情が沸き起こってきて、衝動的につばをひっかけてやりたくなるのだった。(もう分かっている、分かりきっている…… だけど実際、ベルグハルトは大変なことになったわね…… 元より、火刑台に行かないで済む見込みなんてまったく無いようなものだけれど…… 彼の表情は今、引き攣っているだろうか? ええ、きっと引き攣っているに違いないわ、誓っても良い…… 絶望しているかしら? 彼は今、一人になって、絶望しているのかしら?) 何やら判然としない言葉をぶつぶつと口にしていた。門衛が、少し離れた場所からいぶかしむようにエノイッサを眺めていた。気でも違ったのかこいつ、と彼は考えていたに違いない。彼女が出てきてからものの十数秒ほどで、拷問官も部屋の中から出てきた。数歩先の尼僧を認めるやいなや、彼は足早に寄ってきた。エノイッサは、不意で全然予期しないことに驚いたとでもいうように、身を強張らせて声かけたのだった。
「どうして……」
すると、拷問官は答えた。
「どうして……? こりゃまたおかしなことを聞きますね! あなたこそ、そこに立ち止まって…… そこで、なにをしているんです? ひ、ひ」
拷問官は、奇怪な引き笑いを添えて。
「ナッソン、何かしら、これは総督の言いつけかしら?」
「そう、そうなんですがね…… ひ、ひ!」
「分かりました、私、すぐに戻るようにします」
エノイッサが言って、もうほとんど歩み出さんばかりの時、ナッソンは手を突き出して彼女を押しとどめながら、
「まあまあ、待ってくださいよ、せっかちさんだな! 私は、ただ、その…… 聞いてくるように言われただけです、ひ、ひ! 総督さまがね、〈戻るのか、戻らないのか〉だとさ。私はここへ、別にあなたを連れさらいに来たわけじゃありませんよ」
と、さもおかしそうに言ったのだった。
「だって…… ナッソン、私が自分の意思であそこに戻られると思う? それに私、あんな破廉恥漢なんて……」
「破廉恥漢ですって! あっは! あの男が! こりゃ最高だ! 尼僧さん、あなたは中々風刺がお出来になる……」
「だって、そうじゃないかしら……」
エノイッサは、怯えたように問い掛ける眼差しを相手に注いだ。ナッソンは、まるで見た事もない空模様でも見るみたいな顔をしてこちらを覗き込んでくるのだったが、やがて、
「ははあ…… 分かったぞ!」
と、不意にこれまでにない声の大きさで叫んだのである。
「実のところ、あなたは…… 彼のことが心配で心配でしょうがないんですね! 彼がかわいそうでかわいそうで…… あなたは、まったく…… ええ、そうなんでしょう! 私には分かりましたよ…… あなたはなんて優しい尼さんだろう、ひ、ひ!」
「いったい何?」
「だって、そうじゃありませんか、尼僧エノイッサ…… 私の言っていることに何か間違いがありますか?」
ナッソンがにやにやと笑いながら聞いた。そうした彼の態度、行過ぎた慇懃さと共に時折姿を表す、なにかこう、人を小ばかにするような感じが、エノイッサの警戒心を呼び起こすだった。彼女は答えた、
「そりゃ、そうだったかもしれない。だけど今は、あんな奴のことなんて…… あんなことを言われた以上、どうして私に、あいつのために何かできるということがあるのかしら? もうこれ以上……」
そう言って、尼僧はその場を後にしようとした。彼女は、ナッソンがこちらを見る時の、奇妙にぎらつく瞳を見てぞっとし、逃げ出さんばかりなのである。しかし、それは出来なかった。再び足を踏み出そうとしたとき、ナッソンが、「ちょっと待ってくださいよ、尼さん」と、今度は修道服の袖を引っ張って無理やりに引き止めてきたから。
「まあ、私の話を聞いてごらんなさい…… よろしい、あなたがここから引き上げるとして…… あなた、それで、あいつはどうするんです? あなたが行ってしまったら、哀れなあの男はいったいどうなるというのです?」
「あんなやつ、どうとでもなれだわ」
エノイッサは、目を合わせないで言った。するとナッソンはまたなにやらにやりと笑って、
「そう、そうなのかね……」
と、呟いたのだった。
「だけど…… まあ、ちょっと聞いてくださいよ…… 別に、こんなこと言ってどうするわけでもないんだが…… ひ、ひ! しかし実際そんなもんですよね! あなたらを見ているとね、私は思うんです。世間にはよくあることですよ。怒りをぶつけ合うふうになったら、どうしてそうなったかなんて、この際どうでもいいですからね……」
彼は相変わらず笑いながら。
「…… ね、あなたもそうなんでしょう!? そうだ、ここにちょっと面白い話があるんですよ…… ひ、ひ! ね、ちょっと聞きませんか……」
しかしナッソンは、エノイッサのことなどうっちゃっといて勝手に喋りはじめたのである。
「いささか極端過ぎるかもしれないですが…… この話にはね、何か興味深いものがあると思いまして…… ひ、ひ! そうだ、これは、私が実際に処刑したある男の話です。まあ、そんなことはどうでもいい…… 昔ね、お互いに全然知りもしないのに、何かのはずみで大喧嘩することになった男が二人いたんですよ。始めは些細なことだったんだが、それはもう収まりどころが分からなくなっちまってね、決闘にまで発展してしまった! だけど、どうしてそんなことになったかなんて、ここではどうだっていいんです、ええ! それで最終的に殺しあうふうにでもなったらね、すべて問題は、片方が片方を地に突き倒して留めを刺さんとする、まさしくその瞬間にあるんですからね! ええ! その他のことは全然問題じゃない…… どうだって良いんです! なぜなら……」
彼の声量はどんどんと大きくなっていったのだが、ここまでくると、何かに気付いて自らの舌を制するように、ナッソンは少しだけ声を低めたのだった。
「なんでこんなことを話すかって……? まあちょっと、最後までお聞きなさい」
なんのためかは分からないが、彼は周囲を気にしてはばかりながら。
「…… その瞬間、相手に留めを刺す為に刃を振り上げた方はね、まあこれもよくありがちのことなんですが…… ちょっと躊躇したんですよ! それでぴたりと止まったままこう思うんです、《なんだこれは!? 俺はどうしてこんなことをしているのだろう!?》 見るとね、自分はさっき見知ったばかりのやつを地に組み伏せて、今からそいつをぶすりとやろうってんですから! これが驚かずにいられますか? 相手は、助けを求めるような、あるいは、挑みかかるような視線をして、抵抗もせずに、じっとこちらを見上げてくる…… あたかも《さあ、お前の憐憫などいらん! 早く殺せ!》とでもいうような感じでね! さて、そこにきてこちらは、今まさしく自分の置かれている異常な状況というものを、はっきり自覚したというわけですよ! 驚嘆すらして! すっかり肝が冷え上がっちまったんですな。《どうした、なんで俺はこいつを殺そうとしているのだ? こうなったそもそもの原因はなんだっけ? そうだ…… あれは、確か……》ぼんやりとそんな考えが浮かんだ後、それからまたこう続けるんです、《だがそんなことはどうでもいい! それとこれとになんの関係が? 俺がこいつを殺そうとしていることに、一体何の…… こいつはなぜ死なねばならんのだ? 本当にこれは正しいことなのだろうか? 俺がこいつを殺すことが、正しいっていうのか……? 俺にしたって、こいつが生き永らえることに、何か差し障りでもあるだろうか? とすると、本当に、これは当を得たことではないのかもしれない…… こいつのことなんて、別にどうだっていいじゃないか》 ひ、ひ! それまで怒りに身を任せて、徹底的に相手を打ちのめそうとしてたはずなのに、段々とね、心中に疑いが生じ始めてくるんですよ…… ね、これは一つの…… そう、面白い事実じゃありませんか? 別に男はそいつを殺したっていいんです、彼にはその理由も動機も権利もあるというのに! 《もしも! 万が一、仮に…… 本当に、仮のこととしてだ…… 今俺が殺そうとしているこの男が起き上がって、さめざめと泣きながら、この俺の前にひざまずいて、足に雨あられと接吻を浴びかけせながら許しを請うてきたとしたら…… どうだ? 俺は、こいつのあんなに無礼な振る舞いの数々を水に流して、命を救ってやろうという気になるだろうか? こいつは言うんだ…… 〈俺が悪かった! 許してください…… どうか哀れな俺のことを助けてください!〉ってね! いや、実際こんなことはありえないんだけど! ああ、ありえないからこそ、本当にそんなことが起こったら、俺はこいつを軽蔑するかもしれない…… だがそれにしても、そうなったら、俺はこいつを許すと思うな。実際、こいつにしたって、自分の思ったようなふうに命が助かれば泣いて喜ぶに違いない……》そんなことを考えたんですよ…… ひ、ひ!」
ナッソンは相変わらず間歇的な笑いを続けていたが、次第に嘲弄の響きすらそこに聞えてくるのだった。
「だけどまだ終わらないんです、《いや、待てよ! しかし…… だって、こいつに泣きながら許しを請うような真似が出来るとでも思っているのだろうか、俺は? よく分かっているはずだ…… ついさっき初めてこいつに会ったばかりだけど、それだけはもう確信して言える…… こいつにそんなことは絶対に出来っこない。ええ? そうじゃないか? それなのに、俺はこいつを見捨てて、殺そうとするのだ。こいつが泣いて許しを請うことが出来ないと分かっているなら、俺は、こいつを許してやれば良いんじゃないか? 許しを請うことができない、ということをこそ、許してやるべきなんじゃないのか? こいつがまったく、後悔していないとでも……? ああ、目の前にいるお前! お前は今、運命を受け入れようとしている…… しかし、本当にそれでいいのか? おい、お前、本当にそれで良いのか? お前、今俺に泣いて謝ってきたら、許してやるぞ! おい、お前…… いやいや、もう分かっているはずだ……》 そして、それまでじっと相手の顔を見続けていたけれど、もう考えることが面倒になったら、こちらは相手の胸をぶすりと……」
「そんなこと、全然関係ないわ!」
エノイッサは突如、挑みかかるような視線を相手に向けて言った。
「全然関係ないじゃない! 喩え話なんて持ち出して、あなたはいったい何が言いたいの、ナッソン?」
「まあまあ、そう怒らんでくださいよ! これは全然別な男の話ですよ! ひ、ひ! あなただって優しい尼僧さんなんだから、こんなこと、彼みたいに、相手からの懇願を心待ちにしているなんて、そんなこと、考えるべくもないでしょうからね! だが…… そうそう、私の言いたいことはただ一つです」
彼は、今しがた自分の出てきた扉を指しながら言った、
「…… 尼さん、あなたは今すぐ部屋に帰って、そうしてからなにくわぬ顔をして再び裁判に臨むことも出来るから…… だから、あなたが今みたいな話に出てきた男と違う、優しい心を持った尼さんだというんなら、今すぐに引き返して、哀れなあいつに寄り添っていてあげると良いですよ。…… 許してあげるといいですよ! 私はね、尼さんがあそこにいて無意味なことなんて、実は全然無いと思うんですよ…… これっぽっちもね。あなたが考えているほどには…… これは私の意見なんですけれどね」
そう言うとナッソンは、それまでのにやけた表情をやめて、じっと尼僧エノイッサを見つめるのだった。尼僧は、何やら言いたそうにして、唇をぼそぼそと動かしていたが、言葉にもならない声がそこから漏れ出ただけだった。突然、ナッソンがまたにやりと笑って言った。
「出来ない、と言うんでしょう! 私には分かっていましたよ…… おお、お許しください! 私は分かっていてあなたに言ったんです! あいつがあなたに泣いて許しを請うことが出来ないと同様、あなたもこのままではあいつを許すことが出来ないだろうってね、それはもうすぐに分かりますよ。本当に、意地っ張りなんだから! ひ、ひ! でも、もうやめましょう、これは! この話はおしまいにしましょう! ひ、ひ!」
そして笑うナッソンを、エノイッサは無言でじっと睨み付けたままなのだった。
「ところで尼さん、私は今からあいつを拷問するでしょう」
急にナッソンが言った。
「…… 私はね、あいつを拷問するんですよ、今から。なんの恨みもないのにね。ひ、ひ! なんせ私どもは…… あなたがこの世に生を受けるもうずうっと前から、こんなことを続けているんですからね」
「子供の頃から?」
「そうですよ!」
尼僧が相槌を打つと、ナッソンは嬉しそうに声の調子を上げたのだった。
「…… 私の家は代々そのようなものでして…… ちょっと物心が付いたような頃から人を苦しめるいろはを叩き込まれました。小さい子供がですよ、そんなことをして、まともな神経でいられると思いますか?」
「いいえ」
「そうでしょう! ああ…… 尼さん、あなたは優しいね、私の思ったとおりですよ! ひ、ひ!」
ナッソンは皮肉げに言った。
「ところでね、そんなもんだから、私が酒を覚えたのも、まだこんな小さい洟垂れ小僧の時でした…… それでもこの仕事に耐えられなかった他の小僧どもはね…… 気が狂っちまってね…… 使い物にならないってんで…… ひ、ひ! 分かりますね! なんせ、子供一人食わせるなんてのも、とても骨が折れることなんですからなあ」
「まあ!」
「驚かれるのも無理ないが、実際そんなもんなんですよ。我々のような卑しい連中なんてのは…… 自分のことで手一杯なんですからな! でも、一つ、誓って申し上げますが、私は子供に手をかけたことはありません、本当です…… 私は結婚をしておりますが…… なんせ、こんな仕事ですからね。私は、自分の代でこのような馬鹿げた仕事は終わりにしてやるつもりです! 今仕事を教えている連中というのは、あれは孤児だったのを私が拾って食わせてるんですよ。大昔に、橋のたもとに捨てられていたところに、私が偶然通りかかったというわけなんです…… ねえ、人には生まれつき、情けというものがあるでしょう? それは私のような仕事をしている男だって例外ではないんです。そいつが暖かい夏の朝、きらきらと涼気を吹き上げている川のほとりで泣いているのを見て、どうしたわけか…… 本当に、一体何を血迷ったんでしょうな! ひ、ひ! ひょんな気持ちを起こして、奴を拾い上げちまったんですよ」
「それは善いことをしましたね、あなたは……」
「いや、いや! 待ってください…… 尼僧エノイッサ…… 本当にそんなこと思ってますか? 私にはたして、そんな、言葉を受ける権利があるでしょうかね? 私は、あなたの言うような、そんな人間でしょうか? いや、なぜなら…… あなたはそう言いますが、もし、もし仮にですよ、あの時あそこに私が通りかからなかったとして、あいつが赤子のままくたばっちまっていたとしたら…… ひ、ひ! 私に教え込まれて、こんな残虐きわまる職を生業とすることなんて無かったんじゃないですか? いっそあのままくたばっていた方が、あいつにとって…… ひ、ひ! それでなくとも、さっさと孤児院かどこかに入れてしまえばよかったのだ」
「まあ、なんてことを!」
「いや、聞いてください…… だって、こんな仕事…… どうです? 私にはもう、よく分かっていますよ…… あなたがこの仕事、私の仕事に対してどんな感情を抱いているのかがね…… あなただけじゃない、世間は…… いやいや、私ですら……」
彼は突然拳をふりあげながら、
「ひ、ひ! こんな仕事、くそくらえだ! ばけつ一杯の汚物だ、こんなこと…… そう、そうじゃないですか? ちぇっ! あなただって、そう思ってらっしゃるんでしょう? 私はこれまで、そりゃもう数え切れないほどの人間を痛めつけてきました…… 今じゃ老けて頭が鈍くなっていますけれどね、昔はあなたのように…… その…… 尼さん、あなたのように……」
そう言ったナッソンは、苦悶に歪んだ瞳で、エノイッサをしげしげと見つめるのであった。
「…… ねえ尼さん、考えてもみてくださいよ。哀れなあいつらは、この世のありとあらゆる苦痛を一挙に背負わされるんです、死ぬことは決して許されないで。そこらへんは私も、うまく加減しますからな…… あまりのことに、あること無いこと、みんなでたらめを喋るんですよ…… 頭が狂っちまうんです。私はそうやって絶望の淵に追いやられていった人たちの顔を、そりゃもう一人一人はっきりと思い出します…… 本当ですよ、決して誇張なんかではありません…… 皆、大口を開けて叫ぶ、こんなふうにね」
すると彼は、口をあんぐりと開けて、そして哀れな人間の叫び声を真似てみせた、小声で。
「ね、恐ろしいでしょう。ひ、ひ! 想像してみてくださいよ! これがもうずっと頭から離れないんですよ…… 釘で手足を砕かれ、火であぶられ、腹を割かれても、まだ息をしているのか、こいつ! ってね…… そんな彼らの顔が、私の頭の中に、まるでくもの巣のようにはりついているんですよ、べったりと! それが私を苦しめる! どうしてこんなことをしなくちゃならないんだ! どうして彼らはこんな目に合わなければいけないのか!? だっておかしいじゃありませんか…… 私は彼らになんの恨みも無いというのに! ええ、これっぽっちも! だのに、同じ人間が人間を苦しめるんです…… なんのため? そうだ! 俺は自分のためにこれをしているんだ! 他ならぬ、自分が生きるために! へえ、そうだ、それならしかたない! だが、生きるためにって、それは本当か? 生きるためならば、許されるのか!? どんなことをしても! 果たして、生きるためにこんなことをしてもよいかな、もしそうでないとするならばひょっとして、私自身が…… 私自身の存在が、ありうべからざる…… ひ、ひ! どう思われます? 尼さん……」
すると、ナッソンは突然、一歩二歩と後ずさりをした。エノイッサをじっと見据えたままで。なにやら奇妙な笑い、自嘲するような、しかし相手をも同時にあざけっているような、そんな薄笑いをたたえて。エノイッサは、ぞっとするような不快さを孕んだその笑いを見て思わず口にした、
「あ、あなた、本当にそんなふうなことを……」
「ええ、ええ……」
頷きながら尼僧の言葉を受け取る拷問官ではあったが、次に彼は、厳しい口調で付け足したのであった。
「ええ、だが…… あなたがなんと言おうが…… あなたらがみんな…… いや、たとえ神が私のやることを、必要悪とかなんとか、そんな詭弁で許してくれたって、私自身、他ならぬこの私だけは、認めることが出来ない! いったいこれは必要か? 目下のことにしたって、魔女だと分かったら、さっさと火刑台に連れて行けばいいのに! 無駄な手間ですよ、どうせ殺されるに決まってるんだから。だけど、私は彼を拷問するんです。なぜだか知らんが…… その、生きるためにね。なぜかって? なぜだか全然わからないけども…… だが果たして生きるためにこんなことを……」
突如彼は、言葉を切った。そうして、二歩ばかり隔たった場所から、またしげしげとエノイッサを見やった。それは、彼女がなにやら口にするのを待ち受けているかのようにも感じられた。しかしエノイッサは何も言わないのである。
「あなた…… 尼さん、私がいきなりこんなことを話し始めたので面食らってるんだな! そうだといいがな! ひ、ひ」
と、彼はまた急に歩み寄って、
「へんなことを散々言いましたがね…… 忘れてください! そうですよ、尼さん、あなたには是非とも忘れていただかないと! ひ、ひ! つまるところ、私は、自分の痛めつけた人間、それと、これから痛めつけるであろう人間たちと、その、友人になりたいんです! ひ、ひ! いや、なりたかったのだ、こんな風ではなく…… ああ、来世では果たしてそうだろうか? だけど…… このことについて私があれやこれやと考えるにはね、私自身がもう歳を取り過ぎてしまっているんですよ…… だからね、お嬢さん」
彼は、尼僧のだらしなく下げられた両手をさっと取り上げて、
「私は、嬉しいんですよ、あなたを見ていると、まるで若い頃の自分みたいで…… いやあ、年月なんてものは、大事なものをさらっていきやがりますからな! ぺっ、くそくらえだ、ひ、ひ! これは、その、決して変な意味に取ってもらいたくないのですけれど…… あなたが思い悩んでいるのを見ると、私はなんだか心を洗われるような気がするんです…… 私はあなたがそんなで、本当に嬉しいですよ。あなたは、他の…… その、鉄面皮な連中とは違うから。ええ、分かってますよ、私には分かってますとも! 私にはそれが嬉しくてたまらないんです! 本当に、世の中は恐ろしいものですな。さっきのあなたとあいつのようにね、片方が心を開いたって、もう片方が突っぱねればそれでおしまいなんですからな、お・し・ま・い! ひ、ひ! 尼さんも悩んでらっしゃるのだ! 自分がどれほど相手のことを思いやったとして、誰も相手にしてくれないし、それどころか、さっきのあいつみたいに、性質の悪い連中は却って悪意に満ちた眼差しをこちらに向けてくるのですからね…… ひ、ひ! そうでしょう、こんな風に思ってらっしゃるんでしょう? あなたは悔しくて悔しくてたまらないんですね!」
そう言うと彼は、握っていた尼僧の手を離して、何やら考え深げに辺りをうろうろとし始めたのだった。ちょっとの間彼を目で追っていたエノイッサが言った、
「あなた…… 本当に、そんなふうに私のことを?」
すると、ナッソンがぴたりと立ち止まって彼女の方を向いた、そして、
「ええ! そうですよ! あなたは優しい尼さんです! 私は、あなたの感情がね、おそらく本物なんだろうと思いますがね…… 彼のために流すその涙がね…… ひ、ひ!」
ナッソンは、エノイッサの頬を指差して言った。そこには涙の流れた形跡が認められたのである。もう乾ききっていたけれど。言われて初めてエノイッサは気付いたのだった。彼女は悪寒を感じて、ぶるっと大きな身震いを起こした。ナッソンはにやにやとしながらこちらを見つめてくる…… (本当…… 本当かしら、私のこれは、この感情は…… 本当に彼のためのもの、哀れなベルグハルトのためのものかしら…… 本当に? もし、もしもよ、そうでないとしたら…… ああ、なんだって、こんなことを考えてしまうのだろう? ナッソン、あなたなぜ笑っているの?)
「私は、その…… もうあんなやつを何人も見てきたから言うのですが…… 彼らには寄り添う者が必要です。ねえ、たとえあそこに、弁護人が全然要らないものだとしても、それとは別に、あなたは彼のために…… 死にゆくさなかにあっても…… やっぱり救いを求めているんですからね、苦悩を折半してやってくださいよ…… 私はそうなんですがね、最後までやつと付きっ切りなんですがね、だけど、それじゃあんまりじゃないですか! 私などではなく、もっと別の……」
さてここで、どれだけの者が覚えているかは分からないが、彼女たちの近くには門衛が一人立っている。一応彼についても述べておくと、尼僧と拷問官がどれだけ言い合おうが、門衛はあたかも、なにも見えない、なにも聞えない、といったかのように取り澄まして、身じろぎもせずに相変わらず扉の前で鉄面皮を作っていた。しかしその実、二人の会話を貪るように聞いていたに違いないのである。尼僧と拷問官は、お互いに眼差しを向け合って、しばらくのあいだ、まるで相手の心理を探ろうとでもするかのように、じっと相対を続けていたのだが、しかし突如聞えてきた恐ろしい叫び声によって、それは中断されたのである。
「まあ!」
と、エノイッサは飛び上がらんばかりだった。叫び声は扉の向こうより聞えてくる。彼女はさっと、反射的にナッソンの顔を見やった。その叫び声が誰のものであるのか、一体なんのためのものであるのか、もう分かりすぎるほど分かっていたにもかかわらず、エノイッサは他人の表情に、その叫び声のもたらした影響を認めようとして、必死にそれを伺わずにはおれないのであった。そうでもしないと彼女は、この叫び声の存在を、到底容認したくはなかったのである、あまりにも恐ろしいので。
「…… ええ、拷問ですよ! 分かってるでしょう、始めやがったのですね! なんて急なことなんだ…… これは、私にとっても思いがけないくらいですよ……」
ナッソンは言って、彼女の物問いたげな視線に応えた。ああ、これは、耳に入る音、恐ろしいこの叫び声は、幻覚でない! もし部屋に戻ったとしたら、この叫び声を嫌というほど浴びることになるだろう……
「…… 尼さん、どうやらみんな、既にあなたのお帰りをお待ちではないようです…… こうなった以上、私は行かなければなりません。いやはや、ひ、ひ! 私の悪い癖で…… ちょっとばかし、時間を持て余しすぎたようですな」
彼は扉に歩み寄る。その時、
「待って!」
と、エノイッサが彼のそばに駆け寄った。彼女はおずおずと、しきりと相手の様子を気にしながら、非常に言い辛そうに、だが言いたくてたまらないことを口にしたのだった。
「ナッソン、お願いだから、彼をそんなに苦しめるようなことはしないで」
「これは困ったな!」
拷問官は驚いたように返す。
「私の仕事は、人を痛めつけて、死なない程度に苦しませることなんですが…… しかし、異端審問においては、別に殺したって構わないらしいんですがね、パウロ司祭がおっしゃったことによると…… こと魔女狩りに関してはね、ひ、ひ! 《判決はあの世で神が為し給う》ってわけですな! とにかく、これが私の仕事なんですよ…… 分かっていただけますね、尼さん?」
「でも、彼ったら! こんなに苦しそうな喚き声を上げるんですもの!」
「苦しそう? そりゃ、そうですよ! 痛いに決まってます! でも、これはまだほんの序の口でして…… あなたもご存知でしょう? こんなに大きな針で……」
「ええ、知っています…… ああ、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックは今、どんな苦悶に喘いでらっしゃることだろう?」
「ひ、ひ! そりゃ、こんな顔に決まってますよ!」
そう言ってナッソンはまた、口をあんぐりと開いてみせた。彼は先ほどの悪趣味な物まねを再び行おうとしたのである。
「やめなさいよ、ナッソン…… 私、耐えられない! ああ、彼はことさら苦しんでいるように思えるわ……! 今までのどなたよりも……」
叫び声は間歇的に爆発するような調子を伴い、。扉の向こうより聞えてくるそれは、次第に音量を増していくのだった。拷問される人間の叫び声は幾度か耳にしたことのあるエノイッサでも、しかしこうした叫び声の典型を耳にするのは初めてなのであって、それだからことさらに不安が感じられるのだった。次の瞬間には叫び声の主が絶命しているのではないか、という、全く予期できない推移に彼女は慄いていたわけである。恐怖というか、この恐ろしい音に対する不快な感情が悪寒となって、細く切れ切れに、あるいは間延びしたように体中を走ってゆくのだったが、それに耐え切れず、
「ああ…… 死んでしまう…… 彼が死んでしまう!」
と、尼僧はわなわなと震えながら呟いた。彼女は、助けを求めるかのように、ナッソンをじっと見つめた。しかし拷問官の顔には、まったく予想外な、いやらしい、なにやら不敵な薄笑いが浮かんでいたのである。エノイッサはぎょっとした。
「死んでしまう……? 死ぬ、ですって、この程度で? ひ、ひ! それは、まったくありうべからざることです! 尼さん、ベルグハルトが、この中で拷問を受けている男が、はたして本当に痛がっているでしょうか? ね、どうでしょうか? え?」
エノイッサの心理を見て取ったナッソンは、まるでそれを弄ぶかのように言うのだった。
「人間はそう簡単に死にやしません! 私はよく知っていますよ…… それでね、私は言うんですが…… 尼さん、あなたは今、《ことさら苦しんでいる》と仰いましたね? ひとつ言わせていただくと…… まあ実際、人が、同じ苦痛を異なったように感じるかどうかというのは、当人になってみないことには分かりませんがね、少なくとも、苦痛の表現のやり方なんてものは、それこそ人によって全然違うんですよ! いやはや、本当に驚くべきことですがね、それで、そいつの人となりが分かる場合だってあります……」
エノイッサは、目の前で楽しそうに喋る拷問官の冷徹な鋭敏さ、もっとも、それは生業によって生まれたものではあったが、そうしたものに対して、一抹の恐怖を覚えたのだった。
「こう、唇をじっと固く結んで耐えている者もいれば、大口を開けて喚き続ける者だっています。それで、その…… これは全く驚嘆に値すべき事実なんですがね、時折は、必要以上に、大げさに痛がるやつだっているんですよ! ひ、ひ!」
ナッソンは、急に笑い出したのである。
「ひ、ひ…… 痛がって見せれば、我々の同情を買うことが出来るとでも思っているのでしょうかね? なにかしらの温情を期待して……? ひ、ひ! 仕事を妨げるだけのそんなものは、とっくの昔に捨ててやりましたよ。ええ、捨ててやりましたとも! それに、こんなに痛がるはずがないんです。というのはね、我々だってそんなに苦しむ姿が見たいわけじゃないから…… 痛くないよう、わざと加減して針を刺して…… さっさとやつらを処刑台に連れてゆこうってわけですよ! 魔女のしるしさえ見つかっちまえば、それでおしまいですからね! 処刑台直行…… ひ、ひ! だからね、《なんだ、こんなものか》なんて、わざと大声を上げて騒ぎ立てる輩にはね、こう…… こちらも、わざと痛いように刺してやって…… ひ、ひ!」
ナッソンの笑いの高音が、うめき続けるベルグハルトの低音を追う、不快な響きの対旋律だった。エノイッサは腹立たしげに抗弁した。
「なんてこと言うの! あなた、ナッソン…… そんなこと、どうだっていいわ! ああ、なんてつらそうな叫び声を上げるのかしら! 痛い、痛いのだわ…… 速く彼を助けてあげないと……」
「いやいや、この程度の拷問で叫び声をあげるなんて、臆病者くらいのものですよ! 今は放っておきなさい! …… 部屋の中では、私のとこの小僧っ子が仕事をしているんでしょうが…… やつだって、仕事のことはちゃんと弁えているでしょうからな、まずは、ちゃんと手加減をしているはずです…… 私だって、そう教え込んできたつもりですよ、《苦痛が長引かないようにして、さっさと処刑台に送ってしまえ》とね! 実際、人が、他人の耐えたのと同様の苦痛に耐えることが出来ないというのであれば、それはそいつの、当人の問題なわけです! この場合、ベルグハルトのね! 本当に、肝っ玉の小さい野郎だ! ひ、ひ!」
すると突然、部屋の中から聞えていたベルグハルトの叫び声は、それまでの間延びしたような調子から外れ、一転して、金切り声のような鋭く大きなものとなったのである。胸底を突き上げるような不快感に、エノイッサはぞっとした。体中から冷たい汗が噴き出るのを感じた。頭は、熱病にかかったみたいにぼうっとした。彼女の耳は感情とは反対に、恐ろしい叫び声をもっと聞こうとするのだった。
「おお、拷問の段階が上がったのですね。針を太くしたのかな、それとも……」
ナッソンがほとんど無感情に、機械的に呟いた。それでエノイッサははっと我に返った。
「こいつは本当に痛がっている声ですよ…… そりゃ叫ぶでしょうよ。ひ、ひ! だが、それでいい! それでいいんですよ! もっと叫べばいいんですよ。そうすれば……」
ナッソンがこう言ったとき、再び金切り声のような叫びが起こった。恐怖と驚愕とに、エノイッサは飛び上がるような、なにか特殊な悪寒に襲われた発作的な痙攣を起こした。
「もう耐えられない! お願い、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック! 罪を認めて! でないと、もっと苦しむことになるわ…… 私たちは、はなから、あなたを罪に陥れるつもりだったのよ…… そうよ、あなたの罪は決められているのよ! だからお願い! これ以上苦しまないために、罪を認めて……! お願いだから!」
そう言って、尼僧はどんどんと扉を叩き始めたのである。がたがたと震えながら。ナッソンと門衛が、慌てて彼女を押しとどめようとした。門衛が言った、
「やめなさい、尼さん。取り乱してはいけません!」
ナッソンは、
「騒いではいけません……! 中に聞えたらどうするんです?」
と、言った。エノイッサはどうやら扉を開けようと取っ手に手をかけたらしかったのだが、寸でのところでナッソンがそれをやめさせたのであった。だが間もなく、尼僧エノイッサの願い―ベルグハルトがこれ以上苦しむ声を聞きたくないという願いは叶うことになる。叫び声はもう聞えなくなった。
時が止まったかのような静寂―人物の呼吸すら耳にすることが出来ず、動的なものといえば、傍らで揺れている灯火のみ。エノイッサは、目を見開いて扉を凝視していた。瞬きもしないで、気が触れたような瞳で。それは、この急な沈黙に対する応えが間もなくそこから現れるのではないかという、無意識における期待であった。そして、司祭パウロが中から出てきたのである。それ程重くはない扉を、それこそ石棺の蓋でも外すかのように、鈍重に開いて。その物々しさに、扉のそばに立っていた人間は、思わず後ずさりをしたほどなのであった。
「さっきから騒々しいのは、エノイッサだな?」
そう言って司祭は、扉のしきいのところに立って、エノイッサのみならず、拷問官、門衛と、三人をそれぞれ睥睨した。各々の口から、肯定しか待ち侘びぬ様子で。
「ええ、少し、感が極まってしまったんですね! 年頃の娘さんにはありがちのことですよ……」
そう言って尼僧を擁護したのは、ナッソンである。彼は労わるようにエノイッサの肩を抱えて、優しい眼差しをその顔に注いだのだった。それが却ってきまり悪く、エノイッサは顔を俯けた。
「顔を上げなさい、エノイッサ。別に私は、お前のことを責めようというのではないから」
司祭が言うと、彼女は言われた通りにした。だが尚も瞳は落としたままで。背の高い司祭の、その胴衣までしか、視界には入っていない。だが程なくして、エノイッサは―年頃の少年少女がよくそう感じるように―彼の言う「顔を上げなさい」という言葉には「私の目を見なさい」という意味が含まれていることをそれとなく察するのである。パウロが未だ黙したままでいることも、その催促であると感じられた。だから、エノイッサはおずおずと伏せていた瞼を持ち上げた。彼女の視線を受け止めた司祭は、軽蔑とも微笑とも取れる、皮肉屋がよくするような、奇妙に歪んだ表情を作ってみせたのである。彼は言った、
「分かっていますよ…… 何もかもね。君の精神がどうしてそれほど不安定なのか…… 近頃は特にそうだ! 一体、何か悪い感化でも受けたのかね?」
「お分かりになっているのでしたら」
エノイッサはびくびくと、だが反抗的に。
「どうして、私なんですか? 今日も…… これまでだって。だって、司祭様、あなたは私のことを良くご存知です…… それに、私の代わりなら、他にもたくさんいるでしょう? ああ、私、あまりもの重圧に、頭が破裂してしまいそうなくらいなんです」
「重圧? 重圧だって? どうしてそのようなことを…… どうしてそのようなものを感じるのか? 私は不思議でならない。君は今、自分の行っていることに対して疑いを持っている。なんという悲しいことだろう! 思い出してもみろ、モーセは言った、《魔女は生かしておくなかれ》」
「ええ、ええ! その部分だったらはっきりと記憶しております! でも私……」
すると司祭は何やら思案げに瞳を伏せた。「以前にも君は……」と、彼は溜息混じりの言葉を吐いた。
「以前にも、そんなことを言っていたな。以前にも君は、処刑された人間のことを擁護するようなことを…… だが、エノイッサ、いい加減にしなさい。この期に及んでまだそのようなことを口走るなどとは…… なんて君は、不信心な娘なんだろうね!」
「でも……」
エノイッサが、おずおずとして言った。
「…… あかしは? あかしはあるのでしょうか? ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックが魔女であるというあかしは? 一体、魔女のあかしとはなんなのですか? あの人に、そのようなものが認められましたか? 被告に……」
「それを今探しているのだ。魔女のあかしとは、被告が魔女であるというあかしだ、私は、もう君に何遍も言ってきた」
司祭が遮るように答えた。この時突然、ナッソンが、
「こんなちっぽけなあざですよ」
と、指で輪を作りながら横槍を入れてきた。司祭は、ナッソンの余計な口出しを注意するように、ちらっと彼に一瞥をくれて、「だが、今裁判をしている彼に関しては……」と、続けた。
「既に魔女であるということが証拠立てられたようなものだ。証人ガイスが、黒魔術に用いた道具を、先ほど法廷に提出したから。エノイッサ、君が出て行ったあとでね……」
ああ! これも、ヒュンフゲシュマックを陥れる陥穽だろうか? もしそうだとしたら…… この拷問に一体何の意味があるのだろう? エノイッサは言った、
「有罪が決まったのなら、もうこのようなことはおやめになってください」
「何を?」
「拷問のことです!」
彼女は、司祭をこれまでになくきっと見上げて言った、
「あの人が魔女なら…… もしそうなら、なおさらです。どうかこのような惨たらしいことはやめて…… 先ほども、恐ろしい叫び声が聞えてきました…… ああ、私とても……」
「耐えられない、というのかね。悪いやつが苦しむのを見て、どうして君はそんなことを? それに、この苦しみも、彼が自らの罪を全然認めようとはしないからなのだ! そうでなければ、こんなことはないはずだ! 自業自得なのだ…… あれ程はっきりと証されたというのに、今だ《自分は潔白だ》などと言い張る…… これまでの魔女は…… 既に多くが処刑されてしまったが、最期には自ら魔女であると自白していった。だが、忌々しいあのベルグハルト・ヒュンフゲシュマックは…… 尋問はまだ序の序だが、あの調子であればおそらく、自白して処刑台に登る前に、苦痛に耐え切れないで死んでしまうかもしれん。これは、初めてのことだ…… だが、それもよかろう。死のうが死ぬまいが同じことだ。なぜなら、《みんな殺せ、その判決はあの世で神が為し給うから》だ」
エノイッサはパウロ司祭の残酷な言葉を、ちらちらとその表情を伺いながら聞いていた。そして、彼女は何かを口にしようとしたが、口ごもってしまった。言いたいことがありはするが、言って良いものかどうか、また、なんとかして言うことができないか―そう思案する時には既に口にしてしまっているようなそんな様子で、やはり彼女も口にしたのだった。
「ですが、それは、あまりにも惨たらしい……」
「まだ言うのか」
尼僧の言葉に逆説の響きを感じ取って、司祭パウロは即座に遮った。常ならぬ彼の声量に、エノイッサの心臓は飛び跳ねんばかりである。だが、ごく厳粛な調子に彩られたのは、始めのみで、後は平坦でなだらかな下り坂のように、彼の語調は緩やかになろうとする―エノイッサは安堵と共に、恣意的に感情の緩急を付けようとするこのような司祭の行いに対して、また、妙な不気味さといったものも覚えるのである。
「魔女裁判で最も決定的なものはなんだ? 自白だ! エノイッサ、言っておくが、こうまで強情だと、君もあらぬ疑いを持たれることになるぞ…… ええ、そうではないか?」
言われて、エノイッサは司祭から目をそらした。パウロは、何も言わない。尼僧エノイッサは司祭パウロのことを特別嫌っているわけではないが、彼がよくする、こうした肯定しか待ち侘びぬような、妙に諭すような問いかけに対しては、それはもう虫唾が走るほどの嫌悪を抱いていたのだ。だから彼女が、
「ええ、どうでしょうかね……」
と、こう言って是非とも取れない返答をしたのは、もうお決まりのようなものだったのである。司祭パウロは、彼女のこうした一種のはぐらかし、逃げるような性質をよく知っていたので、構わずに続けた。
「だが…… この件に関しては、間違いと言わざるをえないだろうな。君にこれを任せたのは、間違いだった。そしてこれは、私にも責任がある。だが、安心しろ…… 君を、これから解放してやろう。この仕事から…… 私が君を、このことのために呼び出すのは、もう金輪際無い。代わりはすぐに見つかるだろう」
このような重たく陰惨な責務といったものより解放されると、一般に安堵や喜びを覚えることもあるが、尼僧エノイッサの心の中にそうした感情が芽生えるにはまだ少し早いらしく、彼女の胸中には依然として、これまでの経験によって培われてきた、陰惨な心象が怪物のように巣食っていた。だがしかし―それであっても、他のいかなる感情をも払い除けてまとわりつき離れようとしないこれらの心象も、やがて時と共に次第に消えてゆくのか、後になると、自分の経験したこれらの出来事、それに当時の精神状態を顧みて、懐かしむどころか、果ては忘却すらするかもしれない。エノイッサは、そうしたことを考えこそしなかったが、瞬間的にそれとなく予感したのだった。だから実は、彼女の心は少しだけ軽くなっていたのだが、その原因とは、未来における精神の安楽、そうしたものに対するこんな期待だったわけである。パウロはまた、付け足して言った、
「今までよくやった。エノイッサ、帰って休むと良い。明日も早いのだから」
「ええ……」
尼僧は放心の呈で答えた。(ああ、終わった、やっと終わった…… いや、もう何も心配する必要は無いのだ! 私はもう無関係なのよ…… そりゃ、ヒュンフゲシュマックや、処刑されていった方々には申し訳ないし、可哀相だけれど…… そうね、あの方々は可哀相。でも、本当に…… ああ、もうやめよう。ああ、よくやった、私はよくやったのだわ。何を思い悩むことがあるのだろう?)
「どうした? 君はどうして、そう落ち着きの無い表情をしているのだろうね。さあ、早く、帰りなさい。我々にはまだ、することがあるから……」
彼女がいつまでも突っ立っているのを見て、パウロが言った。
「そうだ、私はこのために出てきたのだ。おい拷問官、ナッソン! 中ではお前の小僧っ子が仕事をしている。お前は、あの半人前に仕事を遂げさせるつもりか?」
「はい、全部承知です、承知ですよ…… 司祭パウロ。私はちょうど今、戻るつもりだったんです…… そこにあなたが……」
ナッソンは、答えた。おべっか使いどもがよくするように無意味な身ぶりを弄して。そうした彼を、パウロはただ無言でじろっと睥睨したまでである。
「よし、ならば入れ」
と、言いながら手を上げて、司祭は門衛に扉を開くよう命じた。それを見たエノイッサは、再三の願いをまた口にした。
「お願いです。司祭さま、彼の苦痛が長引くことのないように……」
扉は開かれた。敷居の上に立って、もう殆ど中に入ろうとしていた司祭が、振り返って彼女に答えた。
「まだそのようなことを言うのだな。 私を悩ますのは辞めてくれ」
「いいえ、これが最後ですから」
だが司祭は答えなかった。暗がりの中にすっと滑り込むようにして、彼は無音で姿を消した…… エノイッサには分かっていた。パウロが自分の願いを聞き入れてくれるはずはない、なぜなら―馬鹿馬鹿しい―彼の創りだした無音とは、つまりはそういうことなのだろうから。でもひょっとすると、今しがた自分に冷たく背を向けた司祭が、何を思ってか、ひょんなことから気を変えて、突然、また扉の中より現れたなら、「君の言うことを聞き入れよう」と言い、被告に対する善処を約束してくれるかもしれない。他にも楽観的推量はいくらでもあったろうが、それはともかく、こんなありうべくもないことを空想した上で、何かそんなふうな出来事―例えば司祭の気変わりを待ち侘びてか、それからしばらく彼女は、司祭の消えたその場所を凝視したままなのだった。しかし、そうして欲望するものとは裏腹に、彼女の視界を過ぎるのはナッソンである。彼は、部屋の中に入ろうとして今まさに歩き出したのだった。そうしたことを、エノイッサは瞳の端でちょっと気にしただけであった、尚も扉の方を見つめたままで。すると拷問官は扉に近寄る前に、尼僧の傍ではたと立ち止まると、人目をはばかるように口を寄せ囁きかけてきたのである。
「尼僧さん…… あなたはあの男を哀れんでらっしゃる。事実あいつは、おそらくあなたの哀れみなんぞに値しない人間だと思う…… 私はね、そう思うんですよ…… そうじゃありませんか? なんたって、魔女なんですから! ええ、魔女なんだから、あいつは…… だが、私は、あなたがあの男のために祈ることが、ちっとも悪いことだなんて思いませんよ! だって、魔女にしたってなんにしたって、哀れは哀れに違いないんですからね…… 拷問を受ける奴は悪魔にしたって可哀相です。ええ、そうですよ…… 私は拷問官ですから、それがよく分かるんです。あいつは、可哀相なやつです」
エノイッサは、聞えてないふりをしているかのようだった、心ここにあらずといった呈で、虚を見つめたままで。その実、彼女は注意深く彼の言葉を聞いていた。拷問官にもどうやらそれが分かったらしい、というよりはむしろ、エノイッサが自分の言葉を一言だって聞き逃すはずは無いと、彼はなにやら強く確信していたようで、自らの言葉の奔流をちょっとも止めようとはしないことは、その裏づけのように思われた。
「ねえ、尼さん、ベルグハルトは可哀相なやつでしょう、あなたも、そう思っているでしょう…… だが、私はどうかね? ひ、ひ…… だから、ねえ…… もしあなたが、哀れなあいつへの祈りを終えたなら…… その時は、どうぞ、あいつだけじゃなくってね、兄弟を痛めつけることによってしか生きていかれない私どものことも…… 少しだけ…… ええ、ほんの少しだけで良いんです! 思い出してやってくれませんか。そして、罪深い私どものためにもどうぞ、祈ってやってくれませんか……」
その悲痛な調子に、エノイッサは心からの感情によって、さっと反射的そちらを向いたのだった。するとその瞬間、二人が瞳を合わせたまさしくその瞬間、ナッソンが突然、その小柄な体躯をぶるっと、ひきつけを起こしたかのように震わせたのである。そして、まったく予期せぬある種驚くべき変化が、拷問官の表情に現れた。エノイッサはそのために彼の表情に釘付けになってしまったのだが―尼僧の瞳をじっと覗きこんだナッソンは、その顔をみるみるうちに真っ赤にしていったのである。
「…… いや、しかし…… 可哀相だって!? 一体誰が? この俺が? どうして、俺が可哀相なのだ? 拷問官だから? 人に軽蔑される仕事をしているからか……? 馬鹿な…… 本当にそうか? いや、嘘だ! ぜんぶ嘘なんですよ! ええ、尼さん、私は嘘を言っていた…… 私なんて、ちっともそんなふうじゃありませんよ! 私が哀れむべき人間だなんて…… よくもそんな恥知らずな…… そんなこと、あなたが私を哀れだなんて思うこと、あってはならん!」
ナッソンはこんなふうに叫ぶと、飛びのくようにして彼女から離れてしまった。まるで、他ならぬ彼女に憤慨せられたと語ってでもいるかのような、きびきびとした動作をして。ナッソンは敷居をまたいだ。エノイッサの視線は、少し遅れて、彼が部屋の中に入って行くその背中を捉えた―彼女は、呆気に取られていたのである。門衛によって再び扉が閉ざされると、その音にエノイッサは我に返った。彼女は、呆けてしまった頭をどうすることもないままに、身を翻してその場を後にしようとした。それは、彼女が帰るために歩き始めたのは―そうして体を動かすことによって、動揺してしまった心もいくらか落ち着きを取り戻せるのではないかと思われたからだろうか。いやむしろそれは、ここに居たってしょうがないと感じたから、つまり、この場における自分の無意味さを思い知ったからだろうか? 自分はあの部屋から出てきた、そうして、みんなの元を去り、みんなも自分の元から去ったではないか。彼女は問いかけるのだった―いったい何がいけなかったのだろう? 苦しむ人間をどうにかしてあげたい、だけどそんな人間を傍で見たくない…… そんな女にいったい何ができたというのか? それにしても、拷問による苦悶のうめきが聞えてくるのではないかという懸念も、少しはその足取りを速めていたらしい。しかし、そこには―一刻も早くここを立ち去ろうという自分の意思には、もっと何か別な理由もあったらしいのである。現にエノイッサは、全然暗鬱としない、ある種陽気な気分が、胸底にぽつりと灯ったのを感じたから。だがそれがなんなのかは全然分からなかったし、エノイッサはあえて考えてみようともしなかった。人は、自らの持つ悲劇的な感情に対しては鋭敏な分析を働かせる、しかし、逆な感情に対しては、あくまでそうしたことをする必要性を感じないからである。
エノイッサは歩きながら、先ほどの一幕について何度も考えてみるのであった。彼は頼んだではないか? 思い出してくださいと…… それなのにどうして、去り際にあんなことを言ったのだろう? (恥知らず…… 私が? ええ、そうかもしれない、実際……)だが彼女にしてみれば、どんな考えも当を得ているふうには感じられなかったし、またそれ以上、何を考える気にもならなかったのである…… 後には門衛だけが残るだろう。尼僧は急いだ。せわしげで、そして快活な、何かを期待するように響く足音を立てながら、中庭への階段を降りて、エノイッサは一刻も早くここから立ち去ろうとしたのである。
幻想悲曲 第一幕二場