自由。

ガシャン、という大きな音がして、私は顔を上げた。
 どうやら後ろで暴れていた男子が、ロッカーに激しくぶつかった音だったらしい。ぎゃはは、何やってんだよてめー、と何人かの笑い声が聞こえた。

 教室の中は今の音にも反応せず、騒いだままだ。教室の真ん中では女子たちが輪をつくって、持ち寄ったお菓子で話を盛り上げている。他の男子も机の上に座って、椅子に足をつけて、好き勝手に雑談をしている。 授業中なんて、誰も気にしていない。
 教壇の前で授業を進めている長谷の話なんて誰も聞いてない。長谷はそれでもボソボソと教科書を読み、頼りない動作で黒板に字を書く。


 エリはいつものように私の席まで椅子を持ってきて、携帯をいじっている。どこぞの高校の先輩と、放課後遊す行くのだと浮かれていたから、その先輩とメールでもしているのかもしれない。
 手持ち無沙汰になった私は仕方なく、教壇に立つ長谷を何となしに見ていた。長谷は国語の教師であり私たちのクラスの担任だ。
 元々やる気のない教師だったが、一週間後に他の学校に転勤することに決まってからは、授業も投げやりになっているような気がする。それにつれてこうした授業中のまとまりのなさというのも酷くなり、もはや授業として機能していなかった。
 結局最後まで、あいつがこのクラスの担任になったことは不思議だった。全体的に荒れているこの中学の中でもこのクラスは特に酷く、学級崩壊寸前、といわれている。そんなクラスの担任を、あんな生気のない顔をした男に務まるはずがなかったのだ。

  案の定、私たちの長谷へのなめきった態度は留まることを知らず、結局半年を過ぎたところで、長谷は逃げるように他の学校へと行くことになった。

「クビでしょクビ、私たちの担任だもんねー」

 エリはそういって軽く笑った。 私たちはいかにもことなかれ主義の長谷を馬鹿にしていたし、いなくなるならいなくなるでそれでよかった。次の教師がどうなのか、もうクラスの興味はそっちに移っていた。



 肘をついて長谷を見ていた私は、何気なく視線を、ななめ前の席の、丸まった背中へと移した。
 このクラスで唯一、ちゃんと机に向かっている人間が、そこにいる。その人物--野田は、授業中も、休み時間も、本を読んでいるか一人でノートに向かって何かを書いていた。
 私はてっきりよっぽどのガリ勉かと思っていたが、ある日横を通り過ぎるときに偶然野田のノートの中身が見えて、それが違っていることを知った。どうやら野田は漫画を描いているらしかった。
 私はそれを見て、思わずその場で吹き出しそうになった。
 何こいつオタクかよ。暗いっつーの。だからクラスで浮いてんだよ、あんた。
 友達もおらず、誰ともろくに話さない、クラスに一人はいる、あぶれ者。それが野田だった。
 漫画について、よっぽどエリに言ってやろうかとも思ったが、面倒なのでやめておいた。エリなら野田からあのノートを取り上げて、ページを破って黒板に全部貼るぐらいのことは平気でやりそうだ。そのくらいエリは退屈している。
 そう、この教室にいる誰もが退屈しているのだ。繰り返される、つまらない毎日。授業なんて退屈で聞きたくもないけど、義務教育である私たちには、学校をサボることも出来ない。

 だが、私たちがこのまま大人になれば、もっと退屈になることだろう。学校だった場所が、会社となり、社会となる。そうなれば私たちは色々な責任や重圧を負うこととなり、どんどん身動きがとれなくなってしまう。そうなる前に、私たちはその鬱憤を晴らしている。この狭い教室の中だけが、私たちが自由にできる、私たちだけの世界だった。
 確かに毎日は退屈だけど、それも友達とつるんでさえすれば、 何となく誤魔化される。野田のような人間がいれば、それを見下し、クラスで浮いているこいつよりはマシなのだと、自分に言い聞かせることができる。そうして優越感を感じることで、私たちはどうにかこのつまらない毎日をやり過ごしているのだ。


 それから一週間が経った。
 長谷がこの学校から去ることになり、その日の放課後のホームルームでは、教壇に立った長谷は最後の挨拶をすることになった。
 さすがに授業中ほどの騒ぎはないものの、やはり教室はざわついており、それぞれ友達と話したり、机に突っ伏して寝たりして、誰もがだるそうに、いかにも早く終われよ、という雰囲気が漂っていた。
 教壇に立っている長谷は、相変わらず何を考えているのか分からない表情で私たちを見下ろしていた。
 騒いでいる生徒をしばらく黙って見ていたが、ようやく口火を切った。

「今日で僕はこのクラスの担任を辞めます。会うこともおそらく二度とないと思う。だからこれが、僕が君たちへの最後の、教師としての言葉になる」

 そう長谷は前置きをし、一つ息をつくと、淡々とした口調で話し始めた。

「君たちは今までずっと、教師のいうことも聞かずに、好き勝手なことをしてきた。まだ中学生で、まだ若くて、何もかもが許されるうち、好き勝手にしているつもりだと思う。大人になればどうせ縛られるのだから、今のうちに自由を満喫しようと思っているのだろう。
 だがそれは勘違いだ。君たちはまったく自由なんかじゃない。
 君たちは同じ制服を着て、同じように学校に来て、周りと同じように過ごし、周りが好きなものを好きだといい、嫌いなものを嫌いだという。いつだって空気を読み、力のある生徒には逆らわない。弱い生徒はまるで当然というようにいじめるかクラスからはじく。周りと同じようなことを言い行動し、その足並みから外れないようにすることだけがすべてだ。
 僕から見ると、君たちはまるで囚人のようだ。ここは君たちの自由を奪う監獄だ。こんなところ、さっさと抜け出しなさい。そうでなければ君たちに自由はない。それは君たちが大人になっても変わらないだろう。君たちは一生、不自由のままだ。
 今ならまだ間に合う。君たちは決して僕のような人間にはならないように」

 以上です、と言った長谷は、それから何かの連絡を義務的に告げると、教室を出て行った。
 その途端、教室のざわつきが酷くなる。
 私は何ともいえない気持ちで、長谷がいなくなった教壇を見つめた。エリがすぐ私のところにきたことにも、一瞬反応できなかった。

「ねえ、長谷、何か言ってた? メールしてたから、全然聞いてなかった。つーか誰も長谷の話なんか聞いてないか」
「うん、私も聞いてなかった、……」

 まるで反射的に応える。
 今までいつだってそうだった。エリが言ったことに、 私はまるでオウムのようにそのまま返す。今まで何の違和感もなかったこと。だけど。

 ――私は、今、自由? 

 そんな考えが過ぎり、それを振り払うように、私はエリに別の話題を振ろうとした。
 そのとき、前の方から、小さな、ぱちぱちという遠慮がちな音がした。
 見ると、野田が拍手をしていた。周りの喧騒に掻き消されてしまうほど小さな拍手だったが、それでも近くの席にいた男子は怪訝そうに野田の方を見た。だが野田は、いつも丸めている背中を伸ばして、しばらく拍手を続けた。周りの視線など、どうでもいいというように。



 次の日の朝、私は教室に入り、エリにおはようと挨拶をして席についた。だけど私は黒板を見て、鞄に手を入れようとしていた手を止めた。
 黒板には、休み時間に暇を持て余した男子が、ふざけて汚い字で、落書きをすることがたまにあったが、今朝、そこに書かれていたのは、明らかにそれとは違った。少し小さめのその文字は、こう書かれていた。


『自由とは、自分の頭で考え、行動することだ。』

 
 何これ。私は思わず黒板を凝視した。
 教室は相変わらず騒がしかった。誰も黒板の異様な一言には触れない。もしかしたら何か感じているひともいるかとしれないが、いつもの他愛のない話をしているだけだ。 誰も話題にしないが、消しもしない。
 もしここで黒板に行き、字を消せば、クラスの中で目立ってしまうし、それは意思表示になる。まだ中学生である私たちは、極端に何かの意思表示をすることを嫌った。 つまり今自分が何を考え、何がしたいのか、周りに知られてしまうということが恥ずかしく、面倒だから、嫌なのだ。だから私たちは本音を隠し、周りと同じようなことを言う。


 黒板に書かれていた文字は、朝から教室にきた副担任の手によって消された。禿げかかった中年の教師は、まるでその文字を目で追うこともなく、義務的に消して、やる気がない声で出席を取るぞ、と言った。
 まるで生気のない顔で、淡々と授業を進める教師。私たちはああした大人に嫌悪感を持っている。だから排除しようとする。見ないようにする。それは自分たちがあんな大人になることを何より恐れているからだ。それは心のどこかで、私たちはいつかああいう大人になってしまう予感があるからだろう。

 自分のような人間になるな、といった長谷。今ならまだ間に合うといった。それは手遅れになってしまえば、いずれ私たちは、何より恐れている、つまらない大人になってしまうということではないだろうか。
 学校なんて嫌いと言いながらも学校を辞めはしない。学校を休みはしない。ギムキョウイクだから仕方ない、と言いながら、きっと高校になってもエリは学校を辞めないだろう。だって他にすることがないから。学校を嫌がりながら、それでも学校に行って、こうして周りと固まること以外、することがないから。

 だって私たちが学校を辞めていったいどうすればいいのか。それを考えろというのか。それが自由だとでもいうのか。
 ならば、私たちは途方に暮れるしかないだろう。本当の自由を前にして。私たちは自分の頭で考えることを今までしたことがない。

 私はぼんやりと野田の背中を見つめた。
 野田はいつものように、いやいつも以上に、机に齧り付くようにして、がりがりとノートに何かを描いている。きっと漫画だろう。普段はもっと隠れるように描いているくせに、もうそこに遠慮はなかった。
 あの黒板の字は、あんたが書いたんでしょう、野田。
 何故か確信して、喉までその言葉が出かかって、だけど私は口を噤む。ただ私は何かに取りつかれたように腕を動かし続ける野田の横顔を見つめた。
 好きなものを好きだといい、したいことをする。
 それが自由なの?
 あんたはそれを、見つけたっていうの。



「あー。何か面白いことないかなー」

 不意に、エリが言った。
 エリが求めているのは同意か、それとも本当に『面白い何か』を私に問いかけているのか。
 同意ならば、応えるのはあまりにも簡単だ。だけど後者ならば、私に応えようがない、応えられるはずもない。
 だから私は曖昧に笑うしかない。それが引きつっていると、たとえ自覚していても、それしか出来ることはないのだ。

自由。

自由。

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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