期待。

 ヨエコが死んだ。自分のマンションの屋上から飛び降りたのだ。
 白い腕、白い肌、白い顔。彼女はいつも儚さを体現していた。
 生気のない顔で唯一何かを訴えているのは、あの瞳。眼孔の奥で彼女の今までの想いが詰まっているようにいつも暗く、しかし力強かった。

 私が彼女と初めて話したのは、クラス替えをしてから数ヶ月が経ったときだった。クラスにはすでにグループが出来ており、お互いがその輪の中から出ないよう出ないように伺っている中、ヨエコはぽつんとひとりでいた。
 高校に入って二年に進級しても、私には友達がいなかった。ヨエコにもいなかったが、彼女は私以上に不幸だった。うつろな瞳に、顔を覆う長い黒髪、生気のない表情に、クラスの誰もが彼女を避けた。
 クラスからあぶれた者同士、私たちは自然と一緒にいることが多くなっていった。

 ヨエコの白い腕には毎日新しい痣が出来ていた。私はその痣に気づいていたがいつも見ないふりをしていた。ようやく話してくれたとき、ヨエコは私に哀しみを訴えることなく、淡々と父親から毎日殴られているのだと言った。母親は何もしないが、ふと息をするようにお前なんて生まれてこなかければよかったのにと言い、それは文句とは違う、まるで当然の定理を口にするかの如く自然な言葉であるのだともヨエコは言った。

 ヨエコは私にとっておきの場所があると言って、自分のマンションの屋上に連れて行った。
 ヨエコが死んだ場所だ。屋上の扉を開けると吹き抜けた風がヨエコの髪を乱した。
 中学生の三年間ずっといじめられていて、そのときによくこの屋上に言っては泣いていたのだという。その屋上からは夕日が落ちて、その景色を見るためにヨエコは毎日生きていたのだという。今も泣くのかと聞けば、ヨエコはただ首を横に振った。
 彼女はいつから泣けなくなったのか、私は聞こうとしてできずに、結局それを彼女に尋ねる機会を永遠に失った。

 それから私たちは、何をするわけでもなく、よくその場所に行っていた。
 ヨエコは屋上から吹き抜ける明るい空を見上げては、白い雲になりたいだの、鳥のように自由になりたいだのと、私に言ったり一人で呟いたりしていた。
 それは彼女の見た目と相まって気味悪さを感じるものだったが、それでも彼女の境遇を思えばそれも仕方ないことなのかもしれなかった。



 ヨエコが死ぬ前日も、私たちは学校が終わってからその屋上に行き、私は携帯をいじって、ヨエコはフェンスの近くで道路を見下ろしていた。
 するとふと振り向いたヨエコが、私に言った。

「私、明日、ここから飛び降りようと思うの」

 その言葉を聞いたとき、私はいつもの彼女の死にたがりな発言の一つだと思った。
 ヨエコはこの屋上に来るたび、通り過ぎていく人ごみを見下ろしては「死にたい」と口癖のように言っていた。
 私はそれにいつも同意していた。私もこのくだらない退屈な毎日から抜け出したいと思っていて、だからこそ私はヨエコと一緒にいた。ヨエコもそんな私だからこそこの屋上に連れてきたのだろう。

「カナも一緒にいこう」

 だけどそのとき、ヨエコの瞳は本気で、窪んだ眼孔の奥底でぎらぎらと何かが燃えていた。
 思わず私は息を詰めた。そのとき初めてヨエコを怖いと思った。
 クラスメイトも、教師ですらも彼女の異様な雰囲気を感じ取って怖がり近づかなかった。私はヨエコと近い人間だと思っていたから、むしろ居心地を良さを感じていた。でも。私はその時自分がとんでもない勘違いをしていたのではと思った。私は本当にヨエコと同じなのか。ヨエコはもうすでに、誰とも違う人種になってしまったのではないか? 

 そんな馬鹿げた考えさえ一瞬過ぎってしまうほど、そのときのヨエコの表情は異常だった。
 私は頷いた。ヨエコはそのとき――笑った。にっこりと。
 彼女の笑顔を見たのは初めてだった。
 それが嬉しさから出た笑みなのか、すぐヨエコから目を逸した私には分からなかった。
 次の日の朝早く、学校に行く前にここに集合することをヨエコは私に約束させた。

 私は次の日も、いつも通りの時間に起きた。
 朝早くにヨエコからメールが入っていたけれど、私はすぐに携帯を閉じてベッドから起き上がり、制服を着た。朝ご飯はとても食べられなかった。メールは怖くて見れない。

 家を出るときも、ずっと自分に必死に言い聞かせた。まさか。本当にするわけがない。ヨエコはまたいつものように死にたいと言っていただけだ。
 それに。たとえ本当だとしても、私が行かないことで、やめるかもしれない。ヨエコは一人で死ぬのが嫌だったから、今まで死ぬことをしなかったのだろう。
 私は行けない。行ったら私も死んでしまう。彼女を止めることも出来はしない。それだけは確実あった。



 学校に着いて、教室に入った私を待っていたのはヨエコの訃報だった。
 寒いこの時期に額に汗を滲ませた担任がこのクラスの豊田ヨエコがマンションから飛び降りたということを告げた。

 二日後、葬式が行われた。クラスメイト全員が行くことになった。行くときも帰るときも、始終クラスメイトたちはつまらなそうだった。両親は泣いていなかった。私はヨエコが中学校の頃に酷いいじめを受けており、同じ人物に高校になっても呼び出されて金をせびられていることを知っていた。そいつらは、当然ここにいない。ここにいるべきは、彼女の人生に関わった人物であるべきなのに、誰もが無関心な顔をしている。
 ヨエコはただ死んだことになった。衝動的な自殺。何年間もの苦しみを誰も知らず、そして訴えることがなかったから、ヨエコは「若さゆえの過ち」であの高い屋上から飛び降りたことになった。
 

 それから一週間が経って、ようやくヨエコのマンションの屋上から警察がいなくなったが、いまだに立ち入り禁止だった。
 だから私は下からヨエコのマンションを見上げた。
 下から見ても、本当に高く、ここから人が落ちたのだと思うと足が竦んだ。
 ヨエコはいつもあそこから飛びたいと常に言っていた。それが彼女の幸せだと自分に思い込ませる。彼女は空を見上げるとき、本当に幸せそうな顔をしていた。自由な顔をしていた。

 ふと、そのとき私はヨエコが死んだ日の朝に、送られてきたメールの存在を思い出した。
 私はきっと「どうしたの?」「早く来てよ」という内容であろうヨエコからのメールを見るのが怖くて、いままで一度も開くことはなかった。
 おもむろに私は携帯を開き、ヨエコから送られたメールを見た。
 そこには、一言だけ、こう書いてあった。


『私はもう誰にも期待していない』


 その一文を見た瞬間、私は全身から力が抜け、地面に膝をついた。
 携帯を握り締め、呻いた。
 そして地面に両手をつき、叫ぶようにして大声で泣いた。生まれて初めて私は誰かの為に心から涙した。

 もう、誰にも期待をしない。
 この世に、こんなに哀しい言葉があるだろうか。

 最後に会った時の、彼女の笑顔を思い出した。一緒に行くと頷いた私に対しての、あの笑顔。あのとき彼女は私が、嘘をついていると分かったのだろう。だから笑ったのだ。

 彼女は憎むことをやめた。愛することをやめた。愛されることをやめた。期待することをやめた。それは、すなわち彼女の死だった。肉体の死ではない、精神の死だ。あのとき私の前で彼女は死んだ。
 ヨエコの最後の期待は私に向けられ、それを私はいとも容易く裏切ってしまった。
 悔しかったろう、苦しかったろう、哀しかったろう。だが彼女はそれらすべてを訴えることを諦めてしまったのだ。そして真っ白になってしまった。彼女は確かにここにいたのに。生きていたのに。彼女は自分が生きていた証を、残すことを諦めた。誰かに期待することをやめた、それはそういうことなのだ。

 私は彼女にとって殺人者にもなれなかった。救いにもなれなかった。ただの傍観者。私だけではない。彼女にとって他の人間はそれ以上の価値のある存在になれなかった。ヨエコにとってそれは死するべき悲劇だった。

 私はふらりと立ち上がり、流れ落ちる涙も拭かずにマンションを見上げる。私はヨエコに謝る術もない、その資格もない。あるはずがないのだ。

期待。

期待。

学生時代に書いた短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-09

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