羽化
車内アナウンスが駅への到着を告げる。
冷房の効いた車内から、べたついた空気が待つホームへ。空調にすっかり慣らされていた肌は、一拍置いてから日本の夏の蒸し暑さを思い出す。湿気を吸った制服が、朝をより気だるいものにしていた。線路脇の木に蝉がいるのか、朝から暑苦しい合唱が聞こえる。教科書やノート、資料集を詰め込んで、重く膨らんだ学校指定のカバン。その持ち手を肩に食い込ませながら、私は重い足でのろのろと改札を目指す。
ばたばたと足音。続いて、私の横を風が通った。
リュックを背負った子供が駆けていく。身軽にくるりと振り返って、早く早くと親を急かす。急がないと夏が終わってしまうとでも言うかのように。私にはまだ始まってもいない夏が。
小学校や中学校は七月の下旬から、高校でも八月になると周りの学校の多くが夏休みを迎えていた。そんな中、進学校を名乗る私の高校は、夏の特別補習授業と銘打ってまだ授業を続けている。
小走りで追いついてきた父親と一緒に、子供は改札を抜けた。夏の日の下へと出ると再び親の手から離れて駆けていく。逆光の中に消えていく小さな背中が少し眩しかった。
ぬるい風を感じながら、湿気を振り切るようにペダルをこぐ。
側溝の金網を鳴らして校門を抜ける。自転車を降りた途端に、また湿った空気はその手を伸ばしてくる。スカートがまとわりつくのは湿度のためか、滲んでくる汗のためか。うんざりしながら荷物を下ろしていると、足元に茶色い枯れ葉のようなものを見つけた。
蝉の抜け殻。
中身は今頃どこにいるのか。家の庭先、公園、駅前、迎えた夏をどこで過ごしているだろう。私にはまだ始まってもいない夏を。始まってもすぐに終わる夏を。
「高田が風邪で休むってよ」
「今年もかよ。あいつ去年も補習の最後の方サボっとったやろ」
自転車が二台来た。邪魔にならないように自転車置き場を後にする。
昇降口で上履きに履き替えながら壁面の黒板を見る。月間予定が書かれたそこには『夏期休暇』の四字と期間を示す矢印。何度見直しても矢印は二週間より長く伸びはしない。
「うち、今年は家族で沖縄行くんやわ」
「えー、いいなー。お土産忘れたらあかんで」
「じゃあシーサー買ってきたる」
「シーサーとかどこに置くの。お菓子にしてよ」
「何、アヤカどこ行くって?」
「沖縄行くんやって。羨ましい」
「それなら、うちらもどっか行こっか」
「そういや今、映画で……」
賑やかな女子たちが、休み時間のお喋りで休みに予定を入れていく。詰め込むほどに忙しくなるとわかっていても、短い夏を全力で、じゃあじゃあ、みんなでみんなで、と喧しく賑やかに過ごそうとする。
トイレに行こうと教室を出たら、やけに蝉の声が騒がしく聞こえた。音の聞こえる方を見てみると、渡り廊下に繋がる引き戸、常に開け放されているそこから入り込んだらしい。掃除道具入れにとまった一匹が、外の合唱に合わせて鳴いていた。
授業が始まってしばらくすると、休み時間とは打って変わって静かになる。
カーテンを閉め切って日差しを遮った教室は、電灯を点けていてもどこか薄暗い。エアコンで冷やされた室内は快適で、教師の長い説明が子守り歌になって生徒を眠りに誘う。起きている生徒は、真面目に授業を聞いている者もいれば、大量に出されている夏休みの課題を少しでも進めておこうと内職に勤しむ者もいる。
断定の助動詞の識別法を右から左に聞き流し、手元では自信のない三角関数や根号をノートに書き込みながら、静かで冷たくて日の当らない教室は土の中のようだと思った。
教室が土の中なら生徒は幼虫だろう。二週間足らずの夏を謳歌するために、羽化の時を心待ちにする蝉の幼虫。そして羽化したら、短い夏とわかっていようがいまいが鳴かずにはいられない。
改札を抜けて駅前ロータリーに出る。じゃわじゃわと今日も朝っぱらから蝉が喧しい。駐輪場に向かって歩いていくと、大きな荷物を引いた家族連れがバス停にいた。落ち着きのない子供がベンチの上に登っては母親に注意されている。
「まだなの?」
待ちきれない様子でそう訊く子供に母親は、
「もうすぐやよ」
と時刻表を見ながら答えた。
もうすぐ、と私も心の中で呟く。夏休みに食い込んだ補習授業も、いよいよ最終日を迎える。
空気が篭った廊下。リノリウムの床に響く自分の足音。グラウンドの方からは野球部の掛け声。それぞれ一定のリズムで繰り返される音の重なりを聞きながら教室に向かう。
途中、がちゃがちゃと音がして窓の方を見ると、蝉が一匹、羽根を鳴らしてガラスにぶつかっては落ちてを繰り返していた。一番近くの窓を開けてやる。瞬間、新鮮な空気が流れ込んでくる。すぐに爽やかさは消えて、また空気はぬるいだけに戻ってしまったけど、蝉はそのまま南の空に飛んでいった。
「ねえ、アヤカって今日休み?」
「みたいだよ」
「家族旅行って今日からやったんかな」
「さあ……って、あ」
「何?」
「そこ、抜け殻落ちてる」
「ひゃっ!」
「もー、抜け殻だから恐くないって」
今日も彼女達のお喋りは賑やかで、室内のざわめきに混ざっていく。
夏休み前、最後の授業も今までと変わらない。居眠りと内職ばかりで教室は土の中。背中を丸めてほとんど机に伏したような姿勢で居眠りしている者。かさこそと課題を進める者。
ただ、授業終了の十分前ともなると、さすがに様子が変わってきた。前の席に座る男子は、もう授業は終わったようなものと言わんばかりに羽根を伸ばしつつある。隣の席の女子が小さく身をよじって、それと共にぱき、と小さな音が聞こえた。
あちらこちらで羽化が進む。まだ日に焼けていない白い体。これから夏を迎える幼虫が、羽根を伸ばして飛ぶ準備をする。終礼のチャイムと共に羽根が広がる。
ホームルームが終わった途端、ばたばたと教室を飛び出していく男子。苦笑して見送る担任。やんややんやと集まってお喋りする女子。いつもの放課後よりも大きな解放感に満ちた教室。カーテンは開かれて夏の日が差し込んでくる。換気のために教室の前後のドアも窓も全て開け放された。冷たい空気は外から流れ込む熱気に、静けさは放課後の喧騒に打ち消された。
教室を出て、焼けつく日の下へ。教科書の重みからも、制服の堅苦しさからも解放された今、身も心も随分と軽くなって飛ぶような気分だった。駅に向かって、ぐいぐいと自転車のペダルを踏み込む。
前を歩く麦わら帽子の子供。その背中を今、追い越した。
羽化