兄。(ホラー)
…………私と兄は本当に仲が良かったんです。
幼い頃に両親を亡くしてから、私の親代わりをずっとしてくれたのが、二つ上の兄でした。
高校を卒業した兄はすぐに就職して、ずっと働いて私を高校に行かしてくれました。兄にはずっと迷惑を掛けていて、その迷惑は、一ヶ月前、兄が交通事故で亡くなるまで続きました。
私と兄は一緒に横断歩道を歩いていました。そこに、信号を無視したトラックが突っ込んできて……。一瞬辺りが光に包まれたと思ったら、目の前に兄が血まみれで倒れていたんです。
それから先はあまり記憶が曖昧なのですが……。
私は一人で兄の葬儀を済ませました。人に好かれた兄らしく、葬式にはたくさんの人が来ていました。
その次の日の夜のことです。私は金縛りに遭いました。
霊感など少しもない私には、初めての体験で、背中に汗が流れ、恐怖で心臓は縮んでしまっていました。怖くてぎゅっと固く目をつぶっていました。
すると何だか視線を感じ、意を決しておそるおそる目を開き――私は思わず声を上げそうになりました。
そこにいたのは、兄でした。
天井の、私の顔の前に、兄がすごい形相で、こっちに両腕を伸ばしていたのです。私はそれこそ、心臓が止まりそうなほど驚きました。
兄は、血まみれで、私をまるで睨むように、憎しみを向けるように、こちらをただじっと見つめているのです。
兄はそれから毎晩、私の元に現れました。
そしていつも怖い顔で私を睨みつけ、手を伸ばしています。
少しずつ距離が縮まっていて、その手は、今にも私の首を絞めようとしているようでした。
私は最初、その鬼のような顔をしたものが兄だとは信じられませんでした。
ですが、どう目を凝らして見てみても、それはあの優しかった兄なのです。
兄の表情は苦しそうで、その顔には明らかに憎しみが宿っていました。それは、目の前の私に向けられたものなのです。
――兄は私を恨んでいるのだろうか。
私を殺そうとしているのだろうか。
そう考えては、私は胸を痛め、夜がくるのが怖くてたまりませんでした。
そして数日が経って、兄がだいぶ私に近づいたとき、私は兄が何かを呟いていることに気づきました。
兄の顔は轢かれたせいで歪んで酷いものになっていましたが、その口が確かに動いていることに気づいたのです。
私は必死に兄の声を聞こうとしました。ようやく聞こえた声は、こう言っていました。
――『逃げろ』、と。
私は目を開き、つい、声に出していました。
「お兄ちゃん。何から逃げればいいの?」
しかし兄は相変わらず、こちらを睨みつけたまま、逃げろ、と叫ぶだけなのです。
次の日も次の日も、兄はただ、私に『逃げろ』と言い続けました。
まるで私に訴えかけるように、何度も何度も、私に言うのです。
そうしている間にも、どんどん、兄はこちらに近づいてきています。それはつまり、私の死が近づいてきているということなのです。
兄の声を聞かないよう、耳を塞ごうにも、手はベッドに張り付いたように動きません。私はぎゅっと目を瞑りました。何も聞こえないようにしたいのに、兄の声だけが響きます。
ついに耐え切れなくなった私は、目を開き、兄を睨みつけながら。
こう大声で叫んでしまいました。
『――うるさいッ!! もう私に構わないで。どっかに消えてよ!!』
それは私が生まれて初めて、兄にぶつけた本気の憎しみでした。
すると、目の前の兄の顔が初めて変わりました。
兄は私のその怒鳴り声を聞くと、酷く安堵したように、やわらかく微笑みました。
そして、そのまますっと消えてしまったのです。
私は呆然として、兄が消えた天井を見つめました。
いったいどのくらい時間が経ったでしょうか。
金縛りがとけた身体を起こし、よろよろと立ち上がった私は、枕元にあった大量の睡眠薬をごみ箱に捨てました。
そのとき、私はようやく思い出したのです。
あの日、兄は私を庇って死んだのだと。突っ込んでくるトラックから、兄は私を突き飛ばし、そして代わりに自分が死んでしまったのです。
毎晩現れるときに、兄は両手をこちらに伸ばして険しい表情をしていましたが、あれはトラックから守るために私を突き飛ばしたときの表情とまったく同じでした。
私は次の日、兄が死んでからずっと休んでいた大学に初めて行きました。
私を見て、何人かの友人がすぐに近寄ってきました。そしてすっかり痩せ細ってしまい、まるで死人のような顔をした私の姿を見て、皆驚いていました。『ちゃんと食べているのか』と心配したように尋ねました。
私は兄が死んでから、まともに食事を摂っていませんでした。
どうやら友人は大学に来なくなった私に何度も連絡をし、家にまで来てくれたなのですが、私は鍵をかけてずっと家に閉じこもっていましたので、気づきませんでした。
私は自分のせいで兄が死んでから、何もする気が起きませんでした。
食べることも、寝ることも、生きることも、何もかもが、兄に申し訳ない気持ちが沸き起こってきていました。
私に明確な自殺の意思はありませんでしたが、あまりに重い罪の意識に耐え切れず、無意識に死に向かっていたと思います。
それを兄は毎晩、必死に止めてくれていたのです。『逃げろ』というのはおそらく、私がずっと抱いていた『罪の意識』からでしょう。
兄がまたしても、私を救けてくれました。
兄はその日の夜からいなくなりました。
今となっては、いったいどこからが私の妄想で、どこからが本当の兄だったのか分かりません。もしかしたら全部が私の妄想だったのかもしれませんし、あれは兄の霊で、本当に私を殺そうとしていたのかもしれません。
ですが、今の私には、はっきりと思い出せるのです。
あの夜、兄が消える前に、私に向けた、安心したような笑み。あの顔も、私は前に見たことがありました。
あれは、兄が死んだときのことです。トラックに轢かれて血まみれになった兄は、自分が突き飛ばして、隣で呆然としていた私が無事である姿を見て、安心したように微笑みました。その笑みが、あのときの兄の微笑みとまったく同じだったのです。
私は今でも、あのときの兄の顔を思い浮かべては、どうしても涙がとまらなくなり、嗚咽を漏らして泣きました。
その涙がようやく枯れる頃、私はようやく死にたいと思うこともなくなりました。
毎日兄の仏壇に話しかけながら、思うのです。
私の元気な姿を見て、また兄が、微笑んでくれればいいなと。
兄。(ホラー)