はるみの虚像
「ゆりこちゃーん、ねえ、今日遊ぼう」
春休みのある日、急にはるみから電話がかかってきた。わたしは丁度、ベッドに寝ころびながら、積読を片付けるためだけに本を読んでいるところであった。今日の予定は、ない。曇っている春の空を自室の窓越しに眺めながら、わたしは返事をする。
「いいけど」
「じゃ、十三時、××駅でね」
うん、というわたしの返事はきちんと届いたのかわからないが、電話はすぐ切れた。こうやって、彼女はよくわたしを急に呼び出すのだけれども、もしわたしに誘いを断られたら彼女はどうするのだろう。まあ、来られなかったら来られなかったで、なんとも思わないのかも。そう思うと、勝手にさみしくなって、耳に当てていたスマホを枕の上に投げた。
文庫本を一冊読み終えたところで時計を見やると、もう十二時近かった。そうだ、はるみと出かけるのだった。家にあった食パンにいちごジャムを塗って急いで食べて、家を出て最寄り駅に向かう。
今日は本当にすっきりしない天気だ。花曇り、と頭の中で呟いて、散り始めた桜の花びらを踏みながら歩く。そういえば、はるみと出会った去年の春の日も曇りだったな、なんて思いながら、駅に来た電車に乗り込んだ。
自宅から××駅に行くのに、わたしが使う路線と彼女が使う路線は同じはずだ。もしかしたらはるみもこの電車に乗ってくるかもな、とちらりと思いながら、車窓を流れる曇り空を眺める。
彼女の自宅の最寄り駅に止まると、彼女と同じくらいの背丈の女の子が乗り込んできて、あ、と思った。しかしその人ははるみではなく、全然知らない人だった。彼女はわたしの乗っていた列車には乗り込んでこなかった。
はるみのいない電車の車両から、窓の外を眺めた。たった今、横を通過している公園では、桜の花が満開だ。はらはらと花びらが落ち切るのを見る前に、各駅停車の列車は公園の横を通り過ぎる。遠くのビルも、あまり動かないように見えるけれど、ゆっくり、着実に窓からフェードアウトしていく。一瞬で通り過ぎていくひとつひとつの景色を、高校を卒業するまでに、どれだけ覚えられるのだろう。
そのままシートに座っていると、××駅に着いた。平日の昼だったが、春休みだからか、駅の周りには活気がある。春が来たからか、皆、どこかふわふわした感じで歩いていた。わたしも心臓が宙にふわふわ浮いていくような気持ちで、はるみが来るのを改札の前で立って待っていた。
彼女は改札からではなく、わたしの背後から現れた。
「ゆりこちゃーん」
ごめん、待ったよね、と、小走りに彼女はやってきて、前髪を少し気にしていた。確かに、今は十三時を五分ほど過ぎていたけれど、わたしは「全然」と言った。彼女は肩にフリルのついたブラウスを着ていて、彼女がちょっと動くと、草花が風に身を揺らすようにフリルがひらひらする。
「今日午前、塾行ってたの。ゆりこちゃんが遊んでもいいよって言ってくれなかったら、直帰してたんだ。ありがとね」
と、彼女は笑った。「全然、いいよ」と、わたしは返した。先ほどスマホを枕に投げたのを、少しだけ反省する。しかし、それよりも今はただ嬉しくて、今スマホを投げたら月まで届きそうだった。
「じゃあ、行こ」
駅の近くの商業施設で服が見たい、と彼女が言ったので、ふたりで複数の衣料品店を回った。彼女は何点か試着したが、どれも買わなかった。わたしも服を手にとっては、ハンガーを掛け直す。彼女は、「ゆりこちゃん、このデニムシャツ似合うんじゃない」とか言って、わたしも「その服かわいいね」とか言って、何も買わなかった。そうして春の小一時間が過ぎて、手頃な喫茶店でお茶をする。
「ねえ、四月からクラス、どうなるんだろうね」
わたしと向かい合って座っている彼女は、アイスティーをストローでかき混ぜながらそう言った。からから、と氷が言って、ミルクの白が紅茶の茶色と混ざり合ってマーブル模様を作る。
「そうね」
わたしはウィンナーコーヒーを一口飲んだ。クリームでまろやかになったコーヒーの苦みが口の中に広がる。オレンジっぽい店内の照明に、彼女の黒い瞳は潤みを持って淡く光る。その瞳にぼんやりと映るわたしのシルエットを見ながら、次もはるみと同じクラスになりたい、と思った。けれどうまく言えずに、わたしはコーヒーカップに口をつける。カップを傾けたのだが、コーヒーではなくてクリームばかりが口に流れてきてしまった。
「ほんと、二年生になってもゆりこちゃんとおんなじクラスがいいよ」
と、彼女は少し肩を竦めた。ブラウスのフリルがまた揺れる。
「でも、クラス別になっても、ゆりこちゃんのクラスに休み時間ごとに突撃しちゃうから」
彼女は赤い唇の端を悪戯っぽく上げた。しかしわたしは、彼女の言葉をあまり信じられなかった。彼女はわたしより気さくで、ずっと友達が多い。クラスが別れれば、彼女は新しい友達をたくさん作るだろう。そんなことを考えてしまったが、彼女の言ったことを信じられない不器用さが、自分で少し嫌になった。「クラス替えねえ、」と適当に相槌を打って、コーヒーカップに口をつけた。しかしまた、ウィンナーコーヒーのクリームの部分だけを飲み込んでしまった。
「あ、そうだ、この後プリクラ撮ろうね」
思い出したように、彼女は言った。
「いいよ」
飲み物を飲み終えて、わたしたちはゲームセンターの一角のプリクラ機に向かった。夏でも秋でも冬でもそうだったように、ゲームセンターの中はどこも騒がしい機械音に満ちていた。
わたしたちは百円玉四枚をプリクラ機に投入したのち、とびきり明るい光を受けつつ緑の幕の前でポーズを撮る。プリクラを撮っている時間というのは実にあっけなく、いつの間にか機械から流れる音声にらくがきブースへと急かされている。らくがきブースで肩を寄せ合って、各々好きなように編集する。かち、かち、とペンで何度か画面を操作したのち、機械音声にらくがきブースから追い出されて、ゲームセンターのすみっこで、プリクラが印刷されるのを待つ。ぽと、と印刷されたプリクラが機械から出てきたのを取り、ふたりで分け合う。
そうして得たわたしとはるみの虚像を、スマホのクリアケースに閉じ込めた。ふと、これが最後のプリクラになってしまうかもしれないと思う。わたしはスマホの背面から顔を上げて、本当のはるみの横顔を盗み見た。彼女の黒い瞳は彼女のスマホに視線を注いでいて、彼女の赤い唇はやわらかく結ばれていた。
夕暮れまではまだ少し時間があったが、わたしたちは帰宅することにした。一緒の電車に乗り込んで、たわいもない話をする。あと何回彼女と遊べるのか、一緒に電車に乗れるのか、話せるのか。胸の内ではそんな疑問がちらついていたが、何のつまずきも引っかかりもなく、いつものように時は流れる。彼女は黒い瞳で瞬きをする。彼女は赤い唇を動かす。そして、電車が彼女の降りる駅に着く。
「じゃあね、またね」
彼女は電車を降りながら、手を振った。肩のフリルが、やっぱりひらひら揺れていた。
わたしは電車でひとりになってしまって、スマホケースに閉じ込めたプリクラを指でそっとなぞる。その指の先で、わたしと彼女が笑っていた。いや、違う。それはわたしではあるが、わたしではない。はるみではあるが、はるみではない。プリクラの彼女の、桜の花びらのように白い肌、湖のように潤んでいる黒い目、春の陽のように柔らかな光の乗った唇、ちっともひらひらと揺れない肩のフリルを見つめる。
わたしは少し息をついた。もう少しはるみと一緒にいたかった。車窓の向こうの、花曇りの町を眺める。高校一年生最後の春が終わっていくのを、どうしようもなく感じて、ぎゅ、とスマホを握った。
はるみの虚像
2022年3月 作成 / 2022年4月 某高等学校文学部の部誌に掲載