卵焼きの渦

 ある日の昼休み、俺は苦手な卵焼きを少しずつ咀嚼しながら、岡江ともみが友人と教室で喋っているのをなんとなく盗み聞きしていた。彼女の友人である丸山が、自分の彼氏がなんだとかいう話をひとしきりしたあと、岡江ともみは彼氏を作らないのかという話題に移ったようだった。
「ともみは好きな人いるの」
 と、丸山は言った。俺はなんとなく気が引けて、これ以上はあまり盗み聞きをする気はなく、卵焼きを飲み込むことに意識を転換させようとしていた。
「ともみは」岡江ともみの話し声が、少し遠くに聞こえる。俺は卵焼きをごくんと飲み込んだ。「お兄ちゃんかな」
 と、卵焼きが喉を逆流してくるような心地がした。岡江ともみの方を思わず振り返りそうになった。丸山はえ、と声を上げた。
「それって、恋愛的な意味で、ってこと」
「ちがうよ」へへ、という笑いが混じったような声音だった。「今まで会った人の中で好きになっても良いのは、お兄ちゃんくらいかなってこと」
 えー、と丸山が甘えたような声で言う。
「ちょっと、わたしのことはどうなの」
「愛してるよ」
 そんな戯言で、その話題は終わった。俺は素知らぬふりをして、ペットボトルの水を飲んだ。卵焼きの風味を口内から消すことには成功したが、卵焼きの渦のように、「お兄ちゃんかな」という声がぐるぐると頭の中を駆け回って離れなかった。

 その日、放課後の下駄箱で、岡江ともみの姿を見かけた。頭の二つの赤いリボンと、それで耳の上で二つに結われた長いこげ茶の髪が揺れている。岡江ともみのツインテールは、どこか非現実的なツインテールだった。そのように髪を結ぶのは、アイドルか、創作上の女子高生だ。少なくとも俺は、現実にいるそんな髪型の女子高生を、岡江ともみ以外で目にしたことがない。
 その時、彼女はこげ茶のローファーに足を突っ込んでいるところだった。革靴に午後の光が鈍く照っている。黒い靴下を履いた左足のかかとが、すっぽり靴の中に収まるのを目にした瞬間、俺は「岡江」と言っていた。
 なに、と岡江ともみは俺の方を振り返った。その彼女の顔を見てからやっと、俺がほぼ無意識のうちに彼女に話しかけていたことに気づいた。
「お兄さんってどんな人」
「え」岡江ともみはちょっと困ったように目を見張ってから、思い出したようにあは、と笑う。「ああ、あれ、聞いてた?」
「違う」と言ってから、ああ、と思った。違う、と言うなんて、違わないと言っているも同然だ。「えっと、……違う」
「佐野くんって、おもしろいね」へへ、と、彼女はたれ目を細めて、照れたように笑った。「お兄ちゃんも、大体佐野くんみたいな感じの人だよ」
 じゃあね、とツインテールを揺らしながら、岡江ともみは軽やかに下駄箱を去っていった。俺は下駄箱に一人突っ立ったまま、彼女がローファーで踏んでいった床のタイルを見つめた。

 それから部活を終えて帰宅すると、中学生の妹が既に食卓で夕飯を食べていた。母は既に夕飯を食べ終えて、キッチンで何か作業をしており、玄関の靴の数からして、父はまだ帰ってきていないようだった。
 玄関でただいまとは言ったが、洗面所で手を洗った後リビングに入ってから、もう一度ただいまと言う。「おかえり」と母は言ったが、妹の千夏は黙ったまま、録画したドラマを見ながら、食べかけのアジフライをかじった。俺はそれに、なんとなく岡江ともみの姿を重ねてみた。千夏はテニス部で、肌は焼けていて、ほぼ真っ黒に近い頭髪はショートカットにしていて、眼差しはしっかりとテレビの画面を捉える。岡江ともみとは似ても似つかない。
 台所にいる母に、俺は食べ終えた弁当箱を持っていきつつ、今日の弁当には卵焼きがあったことを思い出した。卵焼きが嫌いだなどというようなことはこれまで母に言ったことはない。そっと、弁当箱を流しのそばに置く。母はにんじんと玉ねぎをみじん切りにしていて、「今、味噌汁あたためてるから」と言った。俺はうん、ともふん、ともつかないような返事をした。
 自室で制服を脱いで、部屋着に着替える間、ふと、岡江ともみの兄のことを考えた。「今まで会った人の中で好きになっても良いのは、お兄ちゃんくらいかな」と言うほどに、岡江ともみには親しい兄がいるのか。少し、胸が詰まる。俺と岡江ともみはクラスメイトというだけで、それ以上のことは何もないのに。いや、何もないからこそ、ほとんど知らない相手だからこそ、だ。脱いだワイシャツが、着てもらう人を失ってくしゃくしゃになってベッドで横たわっているのを見て、口の端が歪む。
 俺は再びリビングに戻って、ほとんど夕飯を食べ終わっている千夏の横で夕飯を食べ始める。話の流れを知らないドラマを、ぼんやりと眺めながら、アジフライをかじる。ちら、と千夏の横顔を見やると、退屈そうな、それでいて興味ありげな風に唇を閉じていた。アジフライの油分で、その唇はリビングの照明に照っている。妹のことは、知っているようで全く知らない。このドラマに出ている女優が好きなことは知っているが、千夏が学校で誰と喋り、誰と帰り、どんな風に過ごしているのか、給食はきちんと食べているのか、自室では何をして過ごすのか、勉強はちゃんとやっているのかやっていないのか、知らない。
「ねえ、明日のお弁当もアジフライにしようと思うんだけど」と、キッチンにいる母に言われて、俺はうん、と言った。卵焼きが出ると嫌だな。俺はアジフライをかじった。寝る頃に、今日あったことの全てを忘れていると良いな。俺は味噌汁を飲んだ。しかしきっと、明日学校に行って岡江ともみの顔を一目見てしまえば、それもなし崩しになるんだろうな。
 テレビの画面の中の女優の髪が、岡江ともみのツインテールのように風に揺れて、俺は細くため息をついた。

卵焼きの渦

2022年3月 作成 / 2022年4月 某高等学校文学部の部誌に掲載

卵焼きの渦

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-07

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