アクアリウムの魚

アクアリウムの魚

 愛していると言えばうっとりとし、苦しかった昨日の記憶などまるで無かったかのように笑っている。飼いならされた犬や猫と言えば聞こえはいいが、それはどちらかといえば自由に泳いでいるつもりでその実閉じ込められている熱帯魚のような有様なのであった。
 それで私は「まるで魚のようだな」と思ったことをそのままに言うと、吉田は煙草なぞをふかしながら「なにそれ」と言った。テーブルライトの薄暗いオレンジ色の光に照らされるやつの裸の背中は、ごつっとして浅黒く、これは何か、アロワナ、いや違う、アリゲーターか、そんなことを思いもしつつ、そんな力強さがあればもっと違う人間になっていたか、などと少し吹き出してしまう。
「なあ」
 私はベッドに腰かける吉田の背骨に声をかける。
「それ私にもちょうだい」
「吸えないでしょ」
 そう言いつつ吉田はミニテーブルの上の箱に手を伸ばすが私は「それでいい」とやつの吸っているのを取って口に咥えてみた。
「すぅって肺に入れるんだよ」
 言われたとおりにやってみるが、まるで車の排気ガスを思い切り喰らったかのような煙たさに思わず咳き込んだ。
「だから言ったのに」
「もういらん」
 私が返すと吉田はそのまま再び吸いはじめた。それってそんなにいいだろうかと私は思うがそれを吸っている吉田は嫌いじゃないしキスをするときに微かにかおるその匂いは嫌いではないのだった。
「なあ」
 私がもう一度呼びかける。
「何」
「私は何人目の女なの」
「何の」
「何人目に抱いた女かってこと」
「はじめてだって言ったじゃん」
「ほーん」
 吉田が灰皿に火のついたそれを手放した隙に私はがばっと飛びついて、吉田をベッドの上に引き倒す。吉田は一瞬驚いたようにするがすぐに平静な顔に戻る。眼鏡越しの瞳は私を見ていながら別のものを見ているようだ。
「私がいつまでも閉じ込められていると思うなよ」
「どういうこと」
「私はアロワナだということ」
 吉田が何かを言い出さないうちに私はやつの唇を奪う。口の中に濃い煙草の匂いが広がる。閉じ込められているのが私の意思なのか、そもそも意思というものが自分から出たものなのか、他の何かから強制されてできたものなのか自分にも分からぬまま、私は自由な振りをして泳ぐのだ。やつを喰い尽くすまで。


 ベッドに横たわったまま「なあ」と言うと、やつは「何」とこちらを向く。口に残った煙草の匂いが微かにかおって、その匂いはやはり、嫌いじゃないなと思う。
「本当に私がはじめて?」
「はじめてだよ」
 そう言ったやつの目はやはり私を見ていないようで――、これは騙し合いなのだ、生という檻の中で自由も意思も関係なく泳がされている私たちの。
「あ、そういえば」
 私が思い出したように言う。
「何」
「アロワナじゃない、アリゲーター」
「どういうこと」
 吉田は笑うが、私は答えない。
 テーブルライトの薄暗いオレンジ色だけが二人を照らす。私たちにふさわしい濁った水のような光だ。

アクアリウムの魚

アクアリウムの魚

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-07

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