一線
一
藤島武二さんが描かれた『港の朝陽』を目の前にして、抽象表現はこういう効果として用いられるだけで良かったのでないかとふと思ってしまった。
朝日という光源が地平を超えて昇ってくる。高度が低いために長くなる光の波長が人の目に映る空の色を変えていく。始まりの赤、希望の黄色、名残惜しい青、それらを纏める今日という日。明るくならないうちから出していた船に乗り、海上で行われる人の営為は逆光を浴びるシルエットとして遠景を成す。波が立ち、吹く風の存在と強さを想像できる、彫り込まれた見事な意匠の内側で小さな光景は生きている。場所などの詳細は知り得ない。読み解くものはそこにない。だからこそ、良い。私の中で既に生まれている、本当にそれを見たことがあるのかも確かめられない情景は鑑賞する意識の大半を浪漫で染めている。感動が丸ごと表現されている。気持ちに任せて左右のどちらかに片寄らせたら全てが混ぜってしまいそうな色彩表現の境目のなさと、画家が心情豊かに捉えた内的必然が作品全体に込められて、許された撮影を行うのが勿体ない程の輝きが抽象的な一枚として目の前にある。
フォルムを曖昧にすることで生まれるものは特定され難いモチーフの解釈可能性であるとすれば、かかる解釈可能性は描く側の自由度を確保する。見えるものを見えるままに描かない自由、思うものを思う以上に表す自由。イマジナリーによって拡張される画面上の表現が絵画独自の世界をこの世に生み落としていく。その過程にある表現者の喜びは生きる上で厚みを増す固定観念の殻を叩き、観る側の内側に潜むものの気配を呼び覚ます。「そういう夢」に浸らせてくれる。
問題はかかる自由をどこまで行使するか。ともすれば、何も描いていないのに全てを画面に描いたと宣うことだって許されるだろうから、自由の行使に伴う責任を誰かが負わなければならない。
用いられる色の数々と筆触の違いで花開く季節の輝きを多くの緑から成る景色として表すピエール・ボナール氏の『プロヴァンス風景』に感じる不安定は、上空を占める深い青とその間を走る黄色の妖しさにのみ由来するものではないだろう。MOMATコレクションの展示室で鑑賞できたアンリ・マティス氏の『ルネ、緑のハーモニー』において意図的に隠されない絵画表現の過程と同じく、試作と迷いが形となるべき完成の水準に至ったかどうかは画家本人の感性でしか根拠づけられない。ここにおいて美術史における絵画技法ないし形式と関連して抽象表現の価値を論じ得る余地が生まれると半可通な頭で当たりをつけるが、いずれにしろ鑑賞者の目で意識するべき抽象表現の位相らしきものを暗中模索しなければならない難しさを表現者が見つめる、その先を投げ出さない勇気と覚悟の表れはある種の存在感として抽象画の魅力になっていると私は感じる。
岡崎乾二郎さんがコロナ禍の真っ只中にアトリエに籠り、集中的に描いた小作品シリーズである『TOPICA PICTUS』は厚塗りの絵具で表現された抽象画であるが、その各作品には元になった絵画がある。東京国立近代美術館で開催されていた当時、筆者が受け取り今も保管している展示会場で配布されていた冊子にはクロード・ロラン氏の『クリュセイスを父親のもとに送り返すオデュッセウス』を元にした抽象画、『揺れる眼差しはすでにヨコシマ』について岡崎さんが温もりある名文を寄せている。
恐らく、各作品についてそれぞれの内容が掲載されていた冊子が用意されていたのだろう。冊子等をきちんと受け取る癖に読みもせず、かぶりつくように作品だけを鑑賞するという悪い癖を中々直せない私は『揺れる眼差しはすでにヨコシマ』のタイトルも、元になったクロード・ロラン氏の作品のことも知らずに展示されていた『TOPICA PICTUS』シリーズの中で一番お気に入りだと直感した眼前の抽象表現を見つめた。用いる絵具の色、配置、合わせ方、厚みが残る筆の動き、それらの選択を事後的に感じ取れる画面全体の結合ぶりが表現者の意識を確信させる。それを知りたい、できる限りで同じ景色を見てみたいという欲求を駆り立てられたのをよく覚えている。
画家が描いた表現から感じ取ったものを、画家がイメージたっぷりに表現する。その過程にある真摯さが『TOPICA PICTUS』シリーズの核であり、絵画を前にする時に鑑賞者が抱く正解のない問いの手触りなのかもしれないと振り返っては考える、振り返っては考えるを繰り返す。
画面の上でイメージを剥き出しにする抽象画に向き合わなければならない表現者と鑑賞者は可能性という言葉に浮かんだまま、錨を下ろして停泊できない。自由の行使に伴う責任を切実に果たさなければならない。いや、果たしたいと切に願う。互いに示し合わせる機会など一度も持たないまま、それぞれの動機に突き動かされて。
二
一方で解決すべき問題なく生み出されたデザインとしか思えない抽象画に困惑し、丁寧な解説文を読んで愛する人を失くした悲しみから我を見失って描き続けたというエピソードを知って眺める一枚に対して、そうだとしてもあり得る別の可能性、別の表し方を想像してしまって上手く入り込めない。冷たく表現すれば他人事として眺めてしまうことも少なくない抽象画。絵筆も握らない素人の癖にこれはやり過ぎだなと思い、けれどこれが良い所でもあるんだよなと思い直し、自分自身を説得している時間を過ごして終わる結末を否定できない抽象画。画面の向こうに広がるはずの絵画世界の緞帳が既に下され、その前に立つ表現者の永遠なる沈黙を私がこうして見つめ続けなければならないのは何故か、と考え込んでしまうこともある抽象画。抽象画。抽象画。
ここまで、という一線を引けば形式化するのだろうし、だからといって自由気ままに描いてしまえばその世界の広がりと同時に誰もが迷子になりそうで困る。では、とばかりに政治や歴史、人の心理などの論理的土台を持ち込んで行える丁々発止の議論にほっとひと安心できる反面、喜んで足を浸からせた抽象画という湖面の色がすっかり様変わりしていて心中、ため息を吐く。どうしてこうなった、なんで上手くいかない。抽象表現が好きな気持ちを捨てる気が私にはないから、悩みは続く。
そのままに掴めない抽象の可能性は持ち込む手法を見事に溶かし、その泡沫(うたかた)を食む。思考が作る地盤の窪みに入り込み、湖面らしく陽光を反射させ、覗き込めばその深さで見る者を慄かせる。そのうちに飛び込む者や触れようと試みる者が少なくなる。それをいい事にたっぷりの栄養を蓄えて、抽象表現の領域は得体の知れない何かをすくすくと育たせる。そういう強かさを窺わせる抽象画という無形の水面に渦を作り出す何かしらを感知し、それに遅れてでも言葉で改めて触れる事はできないか。アーティゾン美術館で開催された『STEPS AHEAD』で鑑賞する機会を得られたザオ・ウーキーさんの抽象画に対して今までにない印象を強く受けた個人的で、かつ不明確な理由と一緒に考えていきたい。
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