カゲロウ
駅の構内に入り、すぐに私は足を止めた。
構内の真ん中にある柱の向こうに、黒い塊があったのだ。それはまるで人混みを避けるように、じっとしている。
私は眉を潜めた。つい昨日もあれを見かけたのだが、確か昨日は駅の入り口にいたはずだ。
昨日の朝も私は駅に入ろうとして、入口の横の電柱に、やはり隠れるようにいた黒い塊に気づいた。そのときは何とも思わずにすぐに通り過ぎたが、確かにそれは今日いるものと、同じものだった。
その黒い塊を、最初はただの影だと思った。だが妙な動きをしているそれは、 明らかに周りと浮いていた。
私はそれに近づいてよく見てみようとしたが、通勤ラッシュの駅のホーム、少しでももたつけば、人にぶつかる。実際、すぐに私はサラリーマンと思いっきり肩をぶつけてしまい、チッとこれ見よがしに舌打ちをされ、私は仕方なく流れに素直に従って前に進んだ。
どうやらあの黒い塊は、私にしか見えていないようだった。
次の日の通勤時間にも、私はそれを見かけた。そのときは人が一番ごったがえす、自動券売の隣の公衆電話の影にいた。それからも、天井や、売店の隅や、あらゆるところにそれは潜んでいた。ある日私は定期が切れているのを忘れていて、改札機が通れず、朝の忙しい時間に駅員に嫌な顔をされながら定期を買っていたのだが、ふと顔を上げると、その駅員のすぐ背後にもいた。
私は心の中でその何かに、カゲロウと名付けた。
意味なんて何もない。ただ、黒くて影みたいで、蜃気楼みたいに少し靄がかかっているから、『カゲロウ』。何となくその響きが好きだった、というだけのことだった。
どうやら初めは駅の入口付近にいたカゲロウは、少しずつ移動し、だんだん駅のホームの方に近づいているようだった。初めの頃、私は駅に入るといつもカゲロウを探した。それを見つけるのが苦痛な通勤の、ささやかな楽しみになっていたのだ。
だが、それと同時に、私はカゲロウを恐れていた。カゲロウが電車のホームに辿り着くことが、私は恐ろしいような、待ち遠しいような、何とも奇妙な気分でいた。
しかし最近になってから仕事が忙しくなり、残業が多く、朝が眠くて、しばらくカゲロウのことを見つける余裕もなかった。ずっと疲れているからだろうか。
ここ一ヶ月、忘れ物も増え、何だかぼうっとすることが多かった。
ある日の朝、私はホームの階段を早足に歩いていて、はっとした。すぐ横の階段の隙間にカゲロウがいた。それを見つけた途端、私の心臓はうるさく鳴った。
見たくない。私は反射的にそう思い、目を瞑って階段を駆け上がった。
いつのまに、こんなところまで来てしまっていたんだろう。この調子だと、明日には、きっとホームまで来てしまうだろう。そうなれば、今度はどこへ行ってしまうのだろうか。
私は漠然と、明日が来なければいいのに。そう思った。
次の日の朝、起きてからも何だか身体が重く、駅にも、あのホームにも行きたくはなかった。
だけど仕事は休めない。今は特に仕事が忙しい時期なのだ。遅刻なんてしようものなら、何て嫌味を言われるか分からない。
私はやはりいつものように駅まで来てしまい、階段を上って、恐る恐る駅のホームに足を踏み入れ、周りを見渡し、息をついた。どこを見渡しても、カゲロウの姿が見えなかった。
消えたのか、と思い、拍子抜けした気分になりながらも、私はいつもの定位置に向かった。電車の入口付近はもうすでに人で埋まっていたが、私はその近くの、黄色い線のぎりぎりの場所に立った。それから何人もの人がホームにやって来て、私の後ろや真横に並ぶ。
私は鞄の中に入っている会社の書類を確認し、息をついた。何だか頭が痛い。
最近頭痛薬を毎日飲んでいる。私はその箱を鞄の奥から取り出そうとして、ついそれを落としてしまった。箱は危うくホームに落ちかけたが、寸でのところでとまる。私は溜息をついてかがみこみ、箱を拾おうとしたが、すぐに、その手をぴたりと止めた。
私の視界に、広がる暗闇。そこで私はようやく気づいた。
カゲロウはやはり、このホームにいたのだ。
後ろだ。私の真後ろにいるんだ。私がこのホームに来てからずっと、私の背中にぴたりと張り付いていたんだ。
そう気付いた途端、私の背中に、冷たい汗が伝うのを感じた。 ちゃんと地面に足をついているはずなのに、急に足元が頼りなく、ふらつきすら感じる。
左隣のサラリーマンのおじさんが、大きく咳払いをした。右隣の女子高生は、ずっと携帯から顔を上げない。こんなに人がいるのに、誰も一人として関わりを持っていない。そんな日常のすべてが、今は煩わしい、いや、それどころじゃない、今、私は私が、何を考えているのか分らない。
私は身体を起こしてから、ぼんやりと、目の前の線路を見つめた。
いつもと変わらない日常。実際、私以外は、何も変わっていないだろう。だけど私の心臓は鳴り、視界も霞んでいて、よく見えない。上手く考えられない。
私はあの黒いものに、カゲロウと名付けた。陽炎。光の屈折によって、目の前が霞んでしまう現象。その場所は何一つ変わってないのに、ほんの少しの屈折によって、目の前の景色が霞んで、見えなくなってしまう。
この目の前の景色だって、いつもと変わらない。ただ、いつもと違うことは、今まで遠くにいたはずのカゲロウが、今は私のすぐ後ろにいるということ。たったそれだけのことで、こんなにも世界は見えなくなり、人は簡単に、自らを見失ってしまうのだろうか。
向こうから、電車が走ってくる。スピードは落ちているが、私の位置までなら、まだ勢いを残したまま、突っ込んでくるだろう。
――ねえ、カゲロウ。
あんたは、私を殺しにきたの?
ピリリリリリリリ。突然私のバッグの中の携帯から着信が鳴り、私はびくりと肩を揺らし、足を踏み止まらせた。
その一瞬後に、目の前に電車が入ってきて、ドアが開き、周りの人間が我先にと近くの入口へと滑りこんでいく。私は咄嗟に動くことができず、呆然としている間に、ドアは閉まり、発車してしまった。
私は鳴り続ける携帯の受信ボタンを押し、耳に押し当てた。
電話口からは、場違いなほど明るい声が聞こえてきた。
『おう、マナ。ちょっと悪いんだけどさ、また三万だけ貸してくんねーかな』
その声を聞いたときに、何だか私は全身から、一気に力が抜けていくのを感じた。
一ヶ月前に勝手に部屋を出て行って、そのときも私の財布から五万を持っていったくせに、すっかり忘れたように私に言う。
私は携帯を握り締め、目を瞑った。その拍子に何かが零れ落ちる。
――ばかみたい。
あんたはこんな男にすがりつくほどに、寂しかったの? たった一人だったの。
分かってる。カゲロウ、あんたは私を救けにきたのね。あんたは私だから。あんたは私の弱い部分。だけど、それは私のすべてじゃない。それが分からなくなってしまうほど、私は見失っていた。今の今まで、自分自身を。
だけど私は、やっぱり、あんたに救けてもらわない。そんなに簡単に、逃げてあげないわよ。
「……いやよ」
『は? 何だって?』
「あんたにあげる金なんか、もうない。二度と電話してこないで!」
私は言い、思いっきり電源を切った。いきなり大声を上げた私に、ホームに残っていた数人の人間が何事かと私を見たが、このときには気にならなかった。
電車はとっくに行ってしまっている。もう会社にも間に合わないだろう。今まではすごく恐れていた事態だったのに、いざこうなってしまうと、逆に開直ってしまうのだから、人間って不思議だ。
後ろを振り向く。カゲロウはいなくなっている。もう現れないだろうか。分からない。
だけど根拠もなく、私はもう大丈夫な気がした。だってあんな情けない男の電話一本が、私の命を救うことだってあるのだ。この私が誰かに出来ることだって、きっとこれから、たくさんあることだろう。そう思い、私は頬に流れていた涙を乱暴に拭い、ホームから出るために踵を返した。
カゲロウ