まとも
私の兄の心臓には包丁が突き刺さっている。
久しぶりに一階に姿を現した兄は、頭を掻きながら、どうしても抜けないのだと何だか気まずそうに言ってきた。
兄の心臓のある場所に見事に突き刺さっているのは確かに包丁の柄であり、一瞬おもちゃか何かだと思ったが、少しだけ見えた肉に食い込んだ鋭い刃はどうみても本物だった。リビングに座っていた私と母は目を見張って、そのあと続いた沈黙が破られるまでに途方もないくらい長い時間がかかった。
しばらくして、それがどうにも悪い冗談ではない、とようやく気づいた母が叫び声を上げた。
それは父が家を出て行って数年が経ち、兄が大学を中退して、そのまま部屋に引き籠るようになってから、二年ほどが経った時のことだった。
私は兄が大学を辞めた理由を知らないし、母も同じだろう。兄は部屋の前に置かれた食事を取るとき以外は、自分の部屋のドアを頑なに開けようとしなかった。
ショックから立ち直った母と私とで兄の胸に深々と刺さった包丁を引き抜こうとしたが、包丁の刃の部分は兄の大きな腹の肉に完全に一体化してしまっているようで、包丁を抜く為には、その周りの兄の肉を切って隙間を作らないといけないみたいだった。包丁の柄は固くて、家にある道具では勿論折ることも出来なかったし、道具があったとしても、女だけの力では無理だろう。
もしくは医者に見せれば何とかなるかもしれない、と提案もしてみたのだが、母はとんでもない、とすぐにそれを否定した。こんなものを他人に見せたら、騒ぎになってしまう、と。世間に何を言われるか分かったものではない、と。
母は世間体というものを人の生き様というものより何より一番に大切にする人で、それに関しては、離婚した父とも一致していた(私から見れば両親はわりと気が合っていたと思うが、それでも別れたのは、結局二人の間には最も重要な『愛』というものがなかったらしい)。
兄が大学を中退して引きこもりになってしまっているのも、親戚を含め、知っているのは家族だけだ。もし親戚の誰かに兄の所在を聞かれれば、母は曇りのない笑顔でこう応えるのだろう。就職して、県外にいっておりますの。寂しいですけど、頑張ってるみたいなんですよ。
母は何とか他の誰にも知らせることなく、家の中でこの問題を処理しようとしていた。だが突起した包丁の柄のせいで兄は服を着ることが出来ず、ちょっとコンビニに行くのも難しかった。まだそれぐらいならバレずにいられるかもしれないが、もし兄がバイトでも始めようものなら、すぐにその服の下の異物を見つけられてしまうだろう。
何よりもそれを恐れた母は、その奇異な症状になってしまった兄を完全に家に閉じ込めることにした。これからも部屋いてもいいが、その代わり、家から一歩も出てはいけないと命じたのだ。母は兄を救うことを止め、それを兄も了承した。
それから数ヵ月が経ったが、表向きには何も変わらないように見えた。
兄は前と同じように部屋から出ることはなく、たまに母が仕事に出た後にふらりと朝食を食べに一階まで降りてくるようになったことだけが前と違っていた。たまたま私が学校へ行く前と時間が会えば、一緒に朝食を食べることもあり、ぽつりぽつりと会話も生まれた。
そうして普通に話せるようになってから、私は以前から聞きたかったことを訊ねてみることにした。母と私は今までそのことに触れなかったが、あれほど見事に包丁が刺さったということは、おそらく兄は自分で自分の胸に刺したわけであり、つまりは死のうとした結果がああなってしまったというわけだ。
「どうして包丁なんか自分の胸に刺したの?」
自殺、とはあえて単語にしなかったのだが、それも聞きたかった。兄の包丁はものの見事に、心臓をめがけて深く、刃渡り二十センチくらいの包丁がほぼ埋まってしまうぐらいだったので、いくら兄の脂肪が熱いといえど、痛みには違いなく、そんなことをしてしまえる勇気(という言葉は適切ではないだろうが)は、私にはなかった。
兄は母の作った天ぷらをポン酢にひたひたにし口をしきりに動かしながら、うーんと首を捻った。
「まともな人間になるためかな」
「まともな?」
私は思わず包丁に目をやった。少なくとも今兄は『まとも』からもっとも遠い存在だ。
「俺はさ、ずっとまともな人間になりたかったんだよ。たぶん、生まれてからずっと。そうじゃないと生きていけない気がして、生きちゃいけない気がして。でも俺には無理だった。本当は、小さい頃から分かってたのかもしんねーけど、とにかく、俺にはまともな人間は無理なんだって、ついに思い知っちゃったんだよ。だからもう俺は死ぬしかないんだなぁ、死んだらまともになれるのかな、と思ってさ。ま、結局こんなことになっちまって、お袋に、もっと迷惑かける結果になっちまったけどな」
そう言って大義そうに顔をかく兄は、しかしどこか安心しているような気がする。兄は働かずに家にいられるのが嬉しかったのかもしれない。
前から引き篭っていたとはいえ、この胸の包丁のお陰で、兄は母から家にいることを正式に許されたのだ。
「……でも、包丁って痛くなかった?」
「うん、まぁ、刺さる瞬間はそりゃ痛かったよ。でもずぶずぶ奥に行くうちに、刃の先から、なんというか、俺の一部になっていったっていうか、痛くなくなってた」
でもさ、と兄は唾を飛ばしながら続ける。
「俺、何で包丁なんかにしちまったんだろうって、後悔してんだよ。手首をカッターで切るぐらいだったら、どうにかなったかもしれないのにさ。手に刃が残っても、包帯でも巻いときゃ何とか誤魔化せるだろ? 包丁をこんなに真っ直ぐ差しちゃ、ごまかしようがないもんな。でもさ、首つりや飛び降りはしなくてよかったよ。首つりだったら、紐が首に食い込んで、メシが喉を通らなくなってたかもしれない。メシ食わなかったら俺死ぬもん。餓死だけは死んでも嫌だな。それに飛び降りだったら最悪だぜ。ぐちゃぐちゃになって、それでも生きてるなんて考えただけでぞっとする。実は俺、ベランダを見る度に飛び降りようかな、と思ってたから、危なかったんだけどさ」
そう言った話を喜々として語る兄に、そういえば兄は幼い頃から、こういったオカルト話が好きだったのだと思い出した。まだ私たちの仲が良かった時、兄がよく話をしてくれた。だが母はそうした趣向は将来に良くないと言い、兄が小遣いで買った何十冊ものそういった関連の本のすべて捨ててしまった。あれぐらいからだろうか、兄が心を閉ざすようになったのは。そうしていつのまにか兄に閉じこもり、どんどん身体を太らせていった。
私は久しぶりに兄の顔が輝くのを見て、何とも言えない気分になっていた。もしこの包丁が本来の役目を果たし、兄の心臓を刺せば、兄はここにはいなかったのだ。そう思うと何だか不思議でやりきれない。
今、兄は生きている。胸に包丁が刺さっているという歪な状況でも、確かに。きっと兄はこれからも生き続けるのだろう。そう思っていたし、私はそれを心のどこかで願っていた。
しかし、私のそんな願いはあっさりと破られた。それから何ヶ月経っただろう。再び、兄は死んだ。
包丁を心臓に刺そうとしても死ななかった兄は、今度は、部屋のベランダから飛び降りた。兄はうつ伏せで地面に伏しており、包丁の刃が深く刺さりようやく心臓に達していたのが良かったのかもしれない。今度は兄も命を落とした。
だが、兄の死因が飛び降りと聞いて、私は驚いた。前にも兄が言っていたように、それは、とんでもない賭けだったであろう。兄は全身を叩きつけられており、身体はぐちゃぐちゃになっていた。今度も兄が死にそこねたとしたら、母はそれを誤魔化すことは出来ないのだから。
そのリスクを犯しても、兄は誘惑に勝てなかったのだろうか。ベランダの外から誘う何か声に、負けてしまったのか。毎日、あの部屋にいることは、兄にとって幸せではなかったのだろうか。
それでももしかしたら兄が生き返るのでは――と疑っていた私は、兄が死んで何日も経ち、死体が柩に収められるときにも目を光らせていたが、そのとき兄が目覚める気配なかった。
兄の葬式は静かに執り行われた。兄の友達らしく人物は結局一人も現れず、大学まで行ったのにクラスメイトすら来なかった。出席したのは親戚だけで、母はずっと俯き加減で親戚の叔父叔母が慰める言葉を受けて弱々しく頷いていた。
そうして親戚もいなくなり、母と私は二人で霊柩車に乗り、火葬場に移動した。
火葬場の職員のひとが、兄の柩を運び、それを乗せた台車を火葬炉に入れられようとした。
ついに兄は燃やされてしまうのだ。私は目を瞑った。
そのとき。
コンコン――と。それは頼りない音であったが、確かに兄の柩の中から聞こえた。
神経を尖らせていた私の耳に、確かに届いてきた。私はばっと顔を上げた。
兄を入れた柩はいまにも燃やされようとしている。私は慌てて声を上げた。
「まって――ちょっと待って。今、中から、叩く音が聞こえた」
「彩香、何を言ってるの」
母が今にも職員の人に詰め寄りそうにな私の肩を強く掴んだ。
私は声が喉に張り付きそうになりながらも、必死に、母に言った。
「お母さん――ねえ、お母さんにも聞こえたでしょう? 今、確かに、こんこんって――お兄ちゃんが叩いたんだよ。ねえ、聞こえたよね?」
「やめなさい――」
「すぐに開けてあげなきゃ、燃やしちゃだめ――お兄ちゃんはやっぱり生きてたんだ――早く助けてあげないと――」
「――崇人は死んだの。人が、生き返るわけないでしょうっ!」
甲高い声で叫ぶのを私は耳元で聞き、それが脳に達してその意味を理解するのに時間を要した。
私は振り向いた。そこにいたのは、さっきまで息子を失って憔悴しきった顔をした母の姿ではなく、恐怖と不快感とで顔を青くし、だが目だけは焦りと私への怒りでぎょろりと血走っていた。
――本気で言ってるの?
兄は包丁を心臓に突き刺しても死ななかった。ならば生きている可能性は、ほんの少しでもあるのに、どうしてそれを否定するのか。
自分が信じられるもの以外は、そんなに見たくはないのか。貴方は自分の目で見たことよりも、世間の常識というものを優先するのか?
ならばこの数ヵ月、貴方は兄ではなく、いったい何を見ていたのか。何を家に閉じ込めていたのか。私は誰と話していたのか。
兄は自分で自分の胸に包丁を差したのだ。今度は固い地面へと自分で飛び降りた。そうなっても、兄の存在を否定するのか――。
だが、私の口は呪いにかかったように閉じられた。
目の前で兄が入っている柩が火葬場に入れられていく。燃える。燃えていく。
私の視界が霞んでいく。
呪われているのだろう。私も、兄と同じように。兄は呪いに取り殺された。私はどうだろう。
兄は数時間後、綺麗な灰となって私たちの前に現れた。母はもう一度涙ぐむと、それを丁寧に骨壷の中に入れていった。私はその光景をぼんやり眺める。
――兄はこうして灰になってようやく、母の望む“まとも”な人間になれたのだろう。
私はそう思い、哀れな兄を想って、初めて泣いた。
まとも