ゆるみ

 あらためて、自己紹介をさせてください。
 わたしの名前は藤本愛子。年齢は二十八歳。職業はスパイです。
 ……あら、今、笑われました? 冗談だと思ったんでしょう? 
 だけど、気をつけないと駄目ですよ。そういう気の「ゆるみ」が、わたしたちのような仕事を生業にしている人間にとっては、格好の付け込むチャンスになるんですから。
 だから、絶対に隙を見せてはいけませんよ。たとえ、目の前の人物が、どんなに突飛なことを口にしたとしてもね。
 

 貴方は、夫の会社の同僚だった方ですよね。
 たしか、葬式のときにも来てくださいましたよね。あのときは夫の為に泣いてくださって、ありがとうございました。彼も浮かばれていると思います。彼にふさわしい、輝かしい天国の上で。
 そういえば、あのときから貴方は、わたしの顔を見てくださいませんでしたね。故意に顔を逸らしていたような。もしかしてあのときから、わたしのことを疑っていたのかしら。
 ……そうなんですか。やはり、わたしが彼を殺したのではないかと。
 夫が亡くなってからずっと、調べていたんですか? ちなみに聞きますが、どんなに調べても証拠は見つからなかったでしょう。わたしも一応プロですから、貴方のような素人に嗅ぎつけられるような仕事はしてないつもりなので。
 あれからもう半年が経ちましたもの。この半年をかけて、ようやく疑惑を持てるほどになったというところかしら。それともただの、あてずっぽうかしら。

 彼はとてもいい人だったから、貴方のような親友がいたのですね。羨ましい。だけど夫は、親友の貴方にも、自分の正体を伝えていなかったようですね。
 夫も裏社会のスパイだったんですよ。とても手腕が立つ人間で、わたしが雇われていた会社でも、要注意人物としてマークされていました。彼は表社会に溶け込むのが天才的に上手いひとで、隙のないひとでしたから、主に企業秘密を抱えていたようでした。


 ……今度は笑われないのですか? ふざけるな、ですって? やはり信じていらっしゃらない?
 とても見えなかったでしょうが、それが彼のすごさだったんですよ。わたしの会社の人間も、彼にはかなり手こずったようです。
 それで、わたしは会社から、彼から企業の秘密を探るように命じられました。わたしはそれを請け負い、まず、彼に近づきました。
 当時若かったわたしですが、男に好かれる術は熟知していました。それでも他の男よりは困難でしたが、美人でもなく普通の女だったわたしに、彼はしだいに警戒を解いていきました。
 わたしもそれなりに腕がたつ人間でしたから、彼に怪しまれることなく、何とか恋人にまでなることができたのです。
 それでも勿論、自分の企業について、彼は一切口を割りませんでした。わたしが細心の注意を払って、さりげなく探りをいれても、彼はそれをのらりくらりとかわすのです。
 それでわたしは彼と結婚まですることにしました。彼を安心させるためです。妻にさえなれば、さすがに少しは彼が心を許してくれるのではないかとの思惑があったからでした。
 結果からいえば、それは成功しました。結婚して五年経って、わたしはようやく彼と彼の周辺から、欲しい情報を手に入れたのです。
 情報を手に入れるのに、こんなに時間がかかった相手は、彼が最初で最後でした。
 そうなれば、彼は用なしです。殺せという命令が上司から下され、わたしはそれを承諾しました。



 あれは静かな夜のことです。わたしは仕事から帰ってきた彼に、一緒に晩酌をしようといいました。
 わたしは彼の一番好きなワインと、おつまみを用意し、お気に入りの曲を部屋にかけて、出来るだけ彼がもっともリラックスをできるように配慮しました。もちろんそれは、彼に確実に毒を飲ませるため、油断させるためです。
 わたしたちは乾杯をしました。それから自然に、思い出話をしていました。
 出会ったときのこと、恋人だったときに行ったデート、そこで起こった些細なできごと、結婚しようとわたしがプロポーズした日のこと、それから最近までのことなど、とても細かく、だけどおかしいほど鮮明に覚えている話を、ただつらつらと、彼はワインに口につける前に、飽きることなく楽しげに話しました。
 だけど不思議なことに、彼はこれからのこと、将来のことは何も言葉にはしませんでした。
 そのことに、わたしは内心、ほっと胸をなでおろしました。これから子供が何人欲しいだとか、その子供がどんな大人になるだろうとか、そんな話をされたら、きっとわたしは嘘でも、こたえることができなかったでしょう。
 昔話に花を咲かせているあいだ、彼はつねに幸せそうに笑っていました。そして不意にわたしに、「ありがとう」と言いました。

 うつむき加減だったわたしは顔を上げ、思わず息を飲みました。
 そのときの彼は、とてもやわらかい笑みを浮かべていたのです。そんな彼の笑顔を見たのは初めてでした。いえ、もしかしたら彼は、いつもそんなふうにわたしを見つめていたのかもしれません。それをわたしは無意識に、見ないように、気づかないようにしていたのかもしれません。
 追い打ちをかけるように、彼は続けてわたしに、「愛してる」とも言いました。



 もしかしたら、彼はとっくに、わたしの正体に気づいていたのでしょうか。
 それで、貴方も、わたしに疑いを持ったのでしょう?
 ……そうですか、彼の机にメモがあったんですね。彼はいつも誰かを疑って生きていましたから、やはり、気づいていたんでしょう。誰かに殺されるかもしれないと。それが、わたしかもしれないと。
 馬鹿ですね。そこまで分かっていたのなら、どうして先手を打って、わたしを殺さなかったのでしょう。それができないのなら、別れるべきでした。
 わたしが仕事を終えれば、自分を殺すことぐらい、彼ほどの人間ならば悟っていたはずなのに。たとえわたしが仕事に失敗して、会社の人間に殺されようとも、そうするべきだったんです。

 あの夜、気をつけていたつもりですが、わたしの表情はほんの少しばかり、強張っていたのかもしれません。それで、わたしがあの日に決行しようとしていると、彼はいち早く悟ったのかもしれません。
 だから、彼はあんなことを口にしたのでしょう。それならば、納得がいきます。あのとき、「愛してる」と言ったのも、わたしの気をゆるませるつもりだったのです。

 わたしたちのようなスパイは、まずはターゲットに近づき、その人間にいかに心を開かせるかが重要です。そして隙をつかせ、「ゆるみ」が出たところを狙って情報を得て、そのあとに相手を殺します。
 それを知っていた彼は、逆にわたしを殺そうとして、あんなことを言ったに違いありません。
 ですが残念なことに、わたしはそんな言葉では隙を見せず、逆に彼がわたしに「ゆるみ」を見せることになった。それで彼はわたしの手によって、あっさりと命を奪われてしまったのです。



 ……変な顔をされるのね。どうしましたか? 少なくとも、今手にしている包丁は、落とさないようにしてくださいね。
 少しでも「ゆるみ」を見せてしまえば、わたしは正当防衛で貴方を殺すでしょうから。間違っても、ほんの少しであっても、わたしに対して同情なんてしないでくださいね。
 同情だとか、人情だとか、愛情だとか。そういう感情というものを、相手に持ってしまった瞬間が、人間がいちばん「ゆるみ」が出るときなんです。
 最初にもいったとおり、それがもっとも、相手にたいして殺す機会を与えることになってしまうんです。
 どうしてわたしが最初に自己紹介をしたか、分かりますか? 人間は相手を知れば知るほど、隙を見せてしまう生き物なんですよ。
 本来なら、相手なんて知らずに殺せればいいんですけど、それも難しいですから。特に情報得るためには、わたしのように恋人になることだって、そう珍しいことではありません。そうして用が済んだあとには、たいてい相手を始末します。
 それがわたしの仕事の基本で、今まで揺るがないものでした。
 なのにわたしは、彼が死んでしまった姿を見たとき、いっそ知らなければよかったと、そう思っていました。おかしな話ですね。


 さあ、その包丁で、わたしを突き刺しますか。貴方の親友を殺したこの頭のおかしい女を。
 そう思い込んでいるうちに、わたしを殺すべきです。知ってしまったらもう戻れない。相手を殺すためだけの「ゆるみ」が、意味のあるものになってしまう。
 たとえば、相手への、純粋な愛であるとか。
 ねえ、そんなくだらないことが、本当にあるんですよ、この世には。彼は、それを知っていたのかしら。わたしは、それを知ったのかしら。
 ……分かりません。最近、それを考えるたびに、思考がとまるんです。
 あのときの彼の笑顔を思い出すたび、どうしようもなく、とまってしまうんです。

ゆるみ

ゆるみ

昔に書いた短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-02

Copyrighted
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