桜見た日に夢も見る
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四月。
多くの人が新生活を迎え。
心機一転、今日からがんばろうと意気込む明るい表情を浮かべている中。
彼、ハルヒコは少しうつむきがちに、駅へと向かう道を歩いていた。
空を見上げれば青く、雲一つない晴天。
風は優しく、穏やかで。春の陽気を感じさせる。
「ママ、見てー!」
まだ幼い子供の声がして、ハルヒコはうつむいていた顔を反対側の道路へと向ける。
黄色い菜の花が咲き乱れる歩道の先に、桜の木が見えた。
見れば、先ほど声を上げていた女の子は、若い母親に抱き上げられながら父親の元へと連れて行かれたところだった。
女の子は父母、共に揃い。三人で桜を見上げている。
そんな家族の姿を見て、ハルヒコは悲鳴を上げそうになり、思わず口元を手で覆った。
それからハルヒコは、もう彼らの姿は見たくないと言わんばかりに視線を逸らし、再び駅へと向かって歩きだした。
ハルヒコには、家族がいた。
いつも笑顔が絶えない妻、喧嘩の多い二人の娘、一匹の愛犬。
しかし今、ハルヒコの傍には誰もいない。
愛犬は五年前に寿命で他界。
二人の娘とは不仲が原因で絶縁状態。
ずっと傍にいた妻も昨年、ガンで亡くなった。
今、彼は長い年月を掛けてローンの返済を終えた一軒家で一人、暮らしている。
ハルヒコは終始うつむいたまま、駅へ向かって歩いていた。
駅前のスーパーで買い物をするためだ。
歩いていると、次第に視界がぐにゃり、ゆがみはじめる。
ハルヒコの目から、大粒の涙が、ぼたりと落ちた。
「なんで、こうなっちまったかな」
涙を袖で拭い、顔を上げる。
そこでようやく、ハルヒコは気付く。
目の前に、大きな桜の木が立っていた。
「あれ……?」
周囲を見回すと、白いフェンスに緩やかな坂と、桜の木を囲むように咲く菜の花が見えた。
見知らぬ場所。
いつの間にか、世界が一変していた。
「ハルヒコさーん」
ふいに、ハルヒコを呼ぶ声がして。
彼は勢いよく振り向く。
見れば、坂の上。建物の前で、妻のエミが手を振っていた。
「エミ……?」
「なにぼーっとしてるんですかー! いいからこっちに来てください!」
言われるがまま、ハルヒコはエミの元へと向かう。
最初は小走りに、だけれどすぐに早足で。
最後には勢いよく走って、エミを強く抱きしめた。
「ちょ、ハルヒコさん! 痛いですよ!」
「ごめん、エミ……ごめん……」
「もー、何謝ってるんですかー」
エミは苦笑してから、ハルヒコの背を撫でる。
「謝ることなんて、何もないわ」
ハルヒコは嗚咽を漏らしながら、震えていた。
それから二人は、近くにあった日本家屋へと入っていく。
どうやらここは飲食店のようで、洒落たガラスのランプや、畳に座布団。
カウンター席などがあった。
客は、誰もいない。
「私、今はここで茶店をやってるんですよ。今日は土曜日だから、休日なんですよー」
「ああ……そういえば、いつかやりたいって言っていたな」
「覚えててくれたんだ! 嬉しいなあ」
エミは、亡くなる前の時よりも快活な笑顔をハルヒコに向ける。
最初は悲痛な表情だったハルヒコも、つられて微笑みを浮かべていた。
エミの話によると、どうしてこうなったのかわからないが。
ここはどうやら『死後の世界』らしい。
ということは……ハルヒコはスーパーへ向かう途中で、いつの間にか死んでしまったことになる。
「そうだったのか、全然気が付かなかったな」
「本当に覚えてないんですか? 死んだときのこと」
「全然……むしろ、いつの間にって感じだ」
「うーん、そういう人もいるとは聞いてますけど……」
エミは首を傾げながら考えていたが。
ハルヒコの方は、憑き物が落ちたような、穏やかな表情でのんきに言った。
「まあいいじゃないか、もう終わったことなんだから」
「うーん、そうなのかなあ……」
「それよりエミ、メニュー表とかないのか? 見てみたいんだが」
エミもやがて、考えることをやめ。
その日はハルヒコと二人、肩を並べてこの茶店について話をした。
昔、ハルヒコと共にやりたいと夢を見ていた茶店。
今では従業員や常連さんも何人かいて、営業日はいつも忙しい。
そんな話を、ハルヒコはずっと聞いていた。
その日の夜、ひとしきり話し終えたエミは、ハルヒコに尋ねた。
「ねえ、あの子たちは元気だった?」
あの子たち、というのは。二人の間に生まれた子供たちのことだろう。
「わからない。あれきり、連絡も来なかったし」
「そう……」
エミが寂しげにうつむくと、ハルヒコも少しうつむいてから、星の瞬く夜空を見上げた。
夜空は、まるでいつもの自宅で見るような色をしていて。
星の数はあまりなかった。
「ねえ、ハルヒコさん」
「なんだ?」
エミもまた、ハルヒコの隣で夜空を見上げる。
それからハルヒコに向けて、小さく言った。
「あの子たちもね、本当はハルヒコさんに会いたいって、思ってるんじゃないかな」
「そうかなあ」
「きっとそうよ。だって、昔はあんなにべったりだったじゃない。ただ、向こうから絶縁だーって言っちゃったもんだから。意固地になって、会いに行けないのよ」
エミは一心拍、置いてから告げる。
「ねえ、ハルヒコさんから、会いに行ってあげてくれない?」
「いや、無理だよ……あんなに怒らせちゃったし」
「大丈夫、きっと仲直りできるわ」
「だけど……」
「頑固なところはそっくりね。でも、互いに歩み寄りさえすれば、また一緒に桜を見に行けるわよ」
「いやあ……どうだろうか」
「大丈夫。私も、一緒に行ってあげるから」
「というか、もう死んでるんだぞ」
苦笑いを浮かべながら、ハルヒコはエミを見る。
だが、そこには誰もいなかった。
「あれ、……エミ?」
周囲を見回す。
そこはもう、見慣れた自宅のリビングだった。
翌年、四月。
ハルヒコは、駅前に咲く一本の桜を見上げてから、スマートフォンで時刻を確認する。
時刻はもうすぐ、午前十二時。
「遅いなあ……何やってるんだ、まったく」
そう悪態をつきながらも、顔つきは穏やかだった。
何度目になるかわからない列車が、駅のホームに入っていく様子が見えた。
同時に、ハルヒコのスマートフォンにメッセージが届く。
『いま着いたよ』
桜見た日に夢も見る
画像素材:ぱくたそ