風。
屋上の重いドアをやっとのことで開けると、鈍い音とともに、強い風の音がした。そして頬にあたる。私は思わず目をつぶって、スカートをおさえた。すごい風で、私の耳には風の音しか入ってこない。
私は深呼吸した。風を感じながら、ゆっくり息を吸うと、なんだかすっきりする。
そしてゆっくり息を吐き、目を開けると、フェンスの向こうで立っている男子生徒と目が合った。
じっとこっちを見ている男子生徒は、フェンスの向こうでギリギリの場所に立っていて、今にも落ちそうだ。私は思わず話かけた。
「な、何してるの?」
見たことないけど、上履きを見る限りでは、二年の赤なので、同級生だ。なのでタメ口で話す。
その男子は見た目は本当に普通で、クラスにいても話もしなければ存在にも気づかないような、そんな感じの生徒だった。まあそれは、私も人のことをいえないけれど。
男子は風の音に消されない程度の声の大きさで言った。
「…風に当たってる」
「あぶないよ。そんなところにいたら」
「そっちこそ」
すかさず言われて、私は目を逸らした。
この屋上は鍵は掛かっていないものの、開け方にはちょっとした工夫がいる。それは私が毎日通ってようやく見つけた開け方だった。まさか他にも開け方を知っているひとがいるなんて。
「私も風に当たってるだけだよ」
「へえ」
そっけなく、というか興味なさそうにいわれて、私はむっとした。普通こういう状態のときには、他に何か言うことはないのだろうか?
そのとき下から風が吹いてきて、私はまたスカートを押さえつける。
すると突然男子が言った。
「そこ、風が気持ちいいだろ?」
私が顔を上げると、男子が給水塔の上からひょいと飛び降りるところだった。結構な高さだったのに、まったく動じていないところは、素直にすごいと思う。
だけどそのあとまっすぐにこっちに歩いてきたので、私は思わず一歩だけ後ずさった。しかしそれ以上は後ろに行けないことを思い出し、咄嗟に目の前のフェンスを握った。
男子はもう私の目の前に来ていた。フェンス越しに向き合う。
フェンスを登ろうという気配はなく、ただ私の目を見ながら、淡々と話を続けた。
「眺めもいいし、学校で一番高い場所だし、何よりそこから学校の連中が見えるだろ? 部活動をしているやつ、友達を帰宅しているやつ、笑っているやつ、ただ歩いているやつ。そいつらはおれのことなんて知らないだろう。もしかしたら知っているやつもいるかもしれないな?」
「……」
「でもさ、そんな日常を謳歌しているやつらに、、“非日常”をぶつけられるとしたら?このおれが、学校でも目立ったことのないおれが、そんなことを出来るとしたら?何も考えていないやつらに、悲惨な死体を見せつけることができるとしたら?」
「わ、わたしは……」
「そんなすげえことはないよな。なあ、そんな興奮することはねえだろう?」
男子は興奮したように言ったけど、私にはそんな気持ちはなかった。
私は、ただ。
ここから逃げたいだけ。
「でも、気をつけた方がいい」
そこで初めて目を逸らし、遠くを見つめるような顔で、私の後ろに目をやった。恐ろしい高さの、その下を。
「おれが前にそこに立ったとき、遠くでチャイムが聞こえた。三間目の始まるチャイムだった。三時間目は数学で、教師が怖くて有名なやつだった。おれは思わず早く行かなきゃと思って、このフェンスを登ってこっちに来てしまった。“日常”に戻ってしまったんだ」
それからだ、と言った男子の声には、何とも言えない苦さが込められていた。
「それから何度も屋上に来ているのに、もうおれはそこに立つことが出来なくなった。どうにかしてそこへ行こうとするのに、どうしてもこのフェンスを越えられない。どうしてだろう、おれは本気だったのに。本当に、飛び降りても構わないと思っていたのに」
なのにおれはもうそこに行くことは出来ないのだと、私をまっすぐに見ながら言う。
「だから、もし本気なら、早くした方がいい。絶対に、こっちには戻ってきてはいけない。この強い風の音が、すべての音を消してくれているあいだに。何も聞かずにいられるあいだに。飛び降りなくてはいけないんだ」
私は、男子から視線を逸らして、後ろに目をやった。
下には多くの人間がいる。何を話しているのか、何もしているのか、声も何も聞こえない。だけどそこには確かに、“日常”があるのだろう。
この風の音が、“日常”をかき消しているあいだに。
私は。
私は…。
風。