芋虫

苦手な部下

そして、月曜日がやってきた。
重い足を引きずりながら職場に行くと、真っ先に後輩で部下の柏木に声をかけられた。

「主任おはようございます。なんか顔色悪いですけど何かありました?」

彼は心配そうにこちらを見ている。

そんなに、顔色悪く見えるのだろうか?自分ではわからないけれど。寝不足のせいかもしれない。
あれから、不安で私は全く眠れなかったのだ。

「本当に顔色が悪いですよ?大丈夫ですか?」

柏木はそう言って私に顔を近づけた。

ち、近い……!

目をじっと見つめられると、腹の中を探られているような気分になる。
柏木はよく気が付く上に毒舌だ。水津との事を知られたらバッサリと斬り捨てられるかもしれない。いや、説教どころじゃないかもしれない。

『そんな事があったんですか?酔った世話を部下にさせるなんて、上司として恥ずかしくないんですか?」

極上のスマイルで放たれる心を抉る言葉が、幻聴として聞こえてくる気がした。
考えるだけで冷や汗が出てくる。この件は、絶対に知られてはならない。

「いや、なんでもないの。ちょっと体調悪くて、もう若くないから」

私が適当に年の事を出してはぐらかすと、何か言いたげだったが柏木は「辛かったら休んでくださいね」と、こぼして自分のデスクにむかった。

「な、なんとか誤魔化せた」

年齢のことを持ち出せば、彼は余計なことを言わない事を踏んであえて持ち出したのだ。これは、自虐ではない。
ちなみに柏木は28になるが二十歳そこそこに見える。
本人はそれを気にしているけど、私からしたら羨ましい。

「水津くん、おはようございます」

私は柏木が居ない事を確認して水津のデスクに向かうと、彼は一瞬だけ眉を寄せた。そして、何もなかったかのようにいつもの笑顔を貼り付けた。
彼はよほど私の事が嫌いなのだろう。
こうもあからさまなのは、本当に……堪える。理由がわかるならまだしも、わからないのはどうしようもない。

それにしても、今、睨んだわよね。
私、何をしたんだろう……?

「あ、おはようございます。小久保さん」

水津は当たり障りのない挨拶をする。あの日に会ったことなどなかったように。


「あ、あの。金曜日の事なんだけど、本当にごめんなさい。申し訳ないんだけど、何しでかしたのかも覚えてなくて。本当に申し訳ないです」

何したか覚えてなくても、お酒を断りきれなかった自分が悪い。

「っ……」

水津は驚いた表情をしながら苦笑いする。私が謝るなんて思いもしなかったような顔だ、

一応言っておくけど私は謝れない人種ではない。
悪いと思ったらすぐに謝る。

「いえ、飲めないのに勧めたこちらも悪かったですから。少し話がしたいので昼休みいいですか?」

水津はみんながうっとりとするような笑顔でそう言い出す。

私はこの笑顔がどうしても苦手だ。
悪意という刃を隠すような笑みにしか見えない。
今のところ、実害はないが空恐ろしいものを感じるのだ。

私には嫌な予感がした。

不安な気持ちを持て余しながら仕事をしていると、あっという間に昼休みになった。

「もう、お昼……」

私はくたびれた黒色の革のバッグから弁当を取り出した。
うちの会社は弁当を持ってこない人が多い。節約の為に奥さんが作ってくれる人も居るが。食堂で食べたり、外食したりして社員はデスクには誰も居ない部署だってある。
ちなみに、私は節約のために弁当を持ってきているのでランチには行かない。
誰かと食事に行くのは付き合い意外では行きたくない。好
誰かと一緒に食事をするのは随分久しぶりな気がした。まだ、相手が柏木なら気が楽だった。
しかし、相手は水津だ。

「へぇ、小久保さんってお弁当なんですか、家庭的な感じなんですね」

水津は私の弁当箱を見てそう言った。どこか馬鹿にしているように聞こえた。

「まあ、節約のために、ね」

歯切れの悪い返事をすると、水津は興味なさそうに「先に屋上にいてもらえますか?」と言って私の返事も聞かずに去っていった。
取り残された私は、言われた通りに屋上へと向かった。
人に聞かれたくない話をするなら屋上なら最適だ。間違ってもコピー室を使ってはいけない。

「お待たせしました」

水津はコンビニで弁当を買ってきて、私に声をかけた。もしかしたら、ランチに行くつもりだったのかもしれない。
もしそうなら、私のせいで昼の時間を潰させて申し訳なかった。

「レシート頂戴。私が支払うから」

「そんな、いいですよ」

水津が困ったように断るが年上としてここは譲れなかった。

「私のせいでランチに行けなくなったから支払わせて」

「本当にいいですから」

水津は嫌悪感を滲ませた表情になったので、食い下がっても怒りそうなので渋々引き下がった。

「金曜日の事なんだけど、お店で飲んでから殆ど覚えてなくて。私が奢らせたりとかしてないよね?」
「会計の時に『自分が払う。』って大騒ぎしてましたから」

水津はその時の事を思い出したのか「『自分で払う』言うような女性とは初めて出会いましたよ」と苦笑いしながら言った。

「そう」

自分で支払いをきっちりやって良かったのか悪かったのか。
騒いだのなら、もう、あのお店には行けない。

「本当に覚えてないんですか?」

水津は疑わしげに私を見る。

「う、うん。ごめんなさい」
「全裸で俺に乗ってきたんですけどね。本当に覚えてないの?」

「は……?え……?」


私があんぐりと口を開けていると水津は呆れたようにこちらを見た。

「まぁ、俺も溜まってたし。別にいいけど」

そうか、異様に腰が痛かったのってそういう事だったのか。

私は変に納得をしてしまった。
いや、そんな現実逃避いいよ。やめよう。セクハラじゃない。
ババアが部下に全裸で股がるって……!
最低最悪。酷い。想像もしたくない。吐き気すらする。

ダラダラと汗が出てきた。クビどころか訴訟案件だ。


静かに私はその場に跪いた。

「本当に申し訳ない事をしました……」

頭を地面に擦り付けながら私は土下座のポーズで謝る。

「ちょっ、やめてよ。飲ませた俺が悪いし、気にしてないから」

そう言いながらも水津はとても冷たい目で私を見下ろしているのだろう。見なくてもわかる。

「あの、犬に噛まれたと思って忘れてください」

何て言ったら良いのかとにかくそう言うしかなかった。

「……提案してもいい?」
「何か?」
「割りきった身体の関係とかどう?こっちで恋人を作るつもりないので」

びっくりする事が2連続で来ると、思考が停止してしまうようだ。

つまり、一回寝たけど。
『顔を隠せばイケるからセフレになれ』と、そういうことなのだろう。

私は電光石火の速さで水津の言いたい事を理解した。

年増の女と寝て水津の汚点になることはあっても、いい思い出になることはまずない気がする。
しかし、あの一夜の事を持ち出されると私は間違いなく訴えられて職を失う。
記憶がないなんて政治家のような言い訳は私にはできない。
今この場で乗っておけば、今すぐにはクビにならないはずだ。
関係を解消する時に私はクビを切られるかもしれないけれど。

絶対に仕事は辞めたくない。

3年前に全て失った私だが最後に残ったのは仕事だけだった。これを、なくしたらどうしたらいいのか自分でもわからない。

私は結婚するつもりもないし、彼と関係を持っても何も損することはない。

それに、どのくらいの頻度で来るかもわからない。
関係を持ったら少しは対応がマシになるだろうか?
そんな打算が生まれた。
毎日のように嫌味や嫌がらせをされると、精神的に辛いものがある。
精神の安定のために身体を差し出すなら全然いい。耐えられる。
水津は私よりも育ちはいいだろうし、病気なんてないはずだ。


向うは性欲満たすために私に身体を差し出す。私は少しだけ関係がよくなればいい。

明らかにおかしいが利害は一致している。

割りきればいいだけだ。

波風たてない人生の為に。
いつか、切り捨てられるんだ。だったら、彼との関係を続けている間に転職先を探そう。

「私でよければ。いいよ」

私は彼と同じように嘘くさい笑顔をうっすらと貼り付けた。

「……っ」

水津は少しだけ眉を寄せたような気がした。


その後、お葬式のような雰囲気の中で一緒に弁当を食べた。何を口に入れても味がしなかった。


仕事を終えて家に帰ると、私は水津との今後の関係について考えることにした。

淋しい枯れた女でもいいという綺麗な男が居るんだ。
セフレの関係で何回か寝ただけで私が変に勘違いして、面倒な事になったら洒落にならない。
心なんて動かないと思うが、これ以上痛い女になんてなりたくなかった。
絶対に必要以上のことは話さないでおこう。
もし水津を好きになりそうだったら、好きな人が出来たとかなんとか言って関係を解消してもらえればいい。
私の事は嫌いだろうから一々聞かないだろう。
踏み込まない。踏み入れない。
また、あの愛する人を失くす苦しみは味わいたくない。

これは自分を守るためにすることなのだ。と、自分に言い聞かせる。
私は生活を守る為に水津と関係を持つ。ただそれだけだ。そこに、愛情は必要のないものだ。

あの日から私は芋虫のように地べたを這う醜い生き物になったのだから、たまには綺麗な蝶と戯れたっていいじゃないか。
今はこの刹那的な関係を楽しめばいい。
この関係は水津のお気に入りのセフレを見つけるまでの繋ぎみたいなものだ。
そう言い聞かせる。

「人ってその気になれば落ちぶれられるものだね。本当に笑える」

苦笑い混じりにそんな皮肉が唇から溢れた。
3年前、澤田と結婚するつもりで、幸せそのものだった自分の姿とはかけ離れている。

「まあ、口先だけで怖気付いて本当は来ないかもしれないし」

そう言って自分を元気付けたが、そう世の中うまくいかないものだった。

悪夢と迫り来る悪意

『凛子姉さん、ごめんなさい』

これは夢だ。私は反射的にそう思った。
それは、前に見た光景だから。目の前で申し訳なさそうに座る二人。私はそれをただ見てる。

一時期は何度も見ていたが、最近ではめっきり見なくなった夢。
夢といっても現実だけれど。
その現実が私の心に焼き付けるように、忘れるな。と、何度も繰り返し夢として出てくるだけだ。
目を覚まそうとしてもその夢は、彼らの前から私が立ち去るまで続く。

ずっと悪夢を見ていろと言わんばかりに。

その日、婚約者だった同僚の澤田智也にファミレスに突然呼び出された。
そこには私の妹の彩那が彼の手を握り座って居た。
明るい二人は気が合い仲が良く時々遊んでいるのを私は知っていた。
あまりいい気分はしなかったが、『未来の家族』として仲良くなってくれるなら別にいいかと目を瞑った。

それが間違いだったんだと思う。

この当時、大学生で卒業が間近だった妹は常々『就職なんてしたくない。働きたくない』と口癖のように話していた。
働かないで済む方法の一つに結婚という選択肢もある。
でも、まさか姉の婚約者を寝盗るような事をするとは私は思いもしなかった。
要領のいい妹らしいといえばそうかもしれない。

二人とも加害者のくせに私の顔を見た瞬間に、被害者のように今にも泣きそうな顔をした。

「凛子とは結婚できない、オレは綾那と結婚する」
「姉さん。私のお腹には澤田さんの子供がいるの。だから諦めて」
「凛子は強いから一人でも生きていけるだろう?彩那は違う。俺が守らないと」

私は手を取り寄り添い。この瞬間に酔いしれている二人を見て、心が凍てついていくのを感じた。
私に申し訳なさそうな素振りはみせるが、そんな事は心にも思っていないだろう。
なぜなら、私に謝りすらしない。
私という存在が邪魔だという事は伝わってきた。

私は悪役ね。

彼のことはとても好きだった。
気が強いくせに要領の悪い私にとって、同期の彼の明るさはありがたいものだった。
私は仕事になれるまで何度も彼に励まされていた。
向こうも辛いのに優しくしてくれてどれだけ嬉かったのに。

明るいじゃなくて、何も考えていないのね。

この別れ話は間違いなく彼の落ち度だ。これから色々な人の信頼を失うのは間違いなく彼だ。

でも、どうでもいい。

「わかりました。澤田さん、今までありがとう。職場には私に落ち度がないことだけは伝えておいてください。この件で私は貴方のフォローは一切しません。お祝いはしません。されても嫌でしょ?」

それだけを伝えて伝票を取ってその場から去った。

帰り道、雨なんて降っていないのに顔が濡れた。どれだけ顔を手で拭っても雨は降り止まなかった。

私は誰からも愛されない、醜い存在なのだと、この夢を見るたびに思う。
私は芋虫のように這いずりながら日々を過ごしている。
仕事でもそうだ、同期に先を越され、部下にもいつか追い越される。頑張っても私は地面を這う事しかできない。
他の人は蝶のように羽ばたくのに私にはできない。
番を見つけた妹と元婚約者の二人は今も幸せそうに羽ばたいているのだろう。私という存在など忘れて。
私は妹の件で親からも縁を切られて一人ぼっちだ。
これから先もずっと、誰も信じられない。

醜い私は無様に地面に這いずりまわる姿がお似合いだ。

「……」

目覚めは最悪だ。
目の前に広がるのは、私の人生を模したような灰色の天井。
身体が怠くて重たいのは変に力が入ったから、全身がベタベタするのは流した汗のせいだろうか。
九月とはいえ、全裸で寝るのは風邪をひきそうだ。


『はぁ』

ああ、幸せが逃げる。盛大なため息を吐いて私は反射的にそう思った。そして、すぐに心の中で苦笑いを浮かべる。
失うものなんてない私に、幸せが逃げるわけがない。
それに、幸せなんて望んでない。私が望むのは幸せな日々ではなくて、心を乱されない淡々とした日々だ。
最近ではそれすら脅かされているが。

もたつきながら身体を起こすと腰がグキリと鳴った。

「これじゃ、ババアね。もう、30だし、劣化どころか老化かも」

40過ぎたらギシギシするって女お笑い芸人が言ってたのをテレビで観た。きっとそうなるのだろう。
芋虫のように床を這いながら私はとりあえずキッチンに向かう。

「お水が欲しいわ」

昨日の記憶を巡ると、確か月一のお楽しみのバーで一杯だけ飲んで帰るつもりでいたのに。
たまたま、4歳下の苦手な『部下』とかちかち合い。潰れるまで飲んだ気がする。
お酒が弱いから。と、何度も断ったがしつこい勧めに、仕方なく飲んだらこんな事になってしまった。

「それにしても、よくアパートまで辿り着けたわねぇ」

きっと、私を潰した事に負い目を感じた『部下』が送ってくれたんだろうけれど。

「顔を見るの、気が重いわ」

悪いことをしてしまった。お会計は私が出してるはずだが、もしも、彼にお金を出させてしまったら申し訳ない。
粗相をしていなければいいが、会ったら謝らないといけない。
支払いしてなかったら、お金も渡さないといけない。

その時、彼はどんな反応をするのだろう。

考えるだけで……。

「気が重い」

私は水と一緒にため息を飲み込んだ。やっぱり幸せが逃げるのは嫌だった。
これ以上『部下』に嫌われて今後の楽しみもない人生を、ハードモードにはするのは嫌だった。

何もない人生でも幸せなものだから。

「どうしよう」

私は、苦手そのものの部下のことを思い出す。

『部下』は見た目だけで言えばかなりのイケメンに分類されると思う。
初めて会った時に私は芸能人かモデルかと思ったくらいだった。
顔立ちは整っていて、タレ目で中性的なのにどこか野性的なのは、とても身長が高いからだろうり
それなりに鍛えているらしく、スーツ越しでも身体はガッシリとしているのがわかる。

彼と出会ったのは半年前。

「水津隼人です。3年間ですが、よろしくお願いします」

水津は人の良さそうな笑顔を貼り付けて会釈した。
しかし、その時、私は見逃さなかった。
彼が明らかに私の顔を見て眉を寄せたのを、敵意だろうなとこの時に思った。
嫌な予感は初対面ですぐにわかった。

実は、彼は本社の幹部候補で社長の親族だ。
出向という形で支社でしばらくこちらで働く事になっていた。その間の彼の上司を私にと白羽の矢が刺さった。
そう、グサリと。

立ったんじゃない、刺さったんだ。あれは。

彼は、私にだけ辛辣だった。事あるごとにグサグサと察しの悪い私でもわかるくらいの嫌味。
最初は女上司の私が嫌なのかと思ったがそうではない。『私が嫌い』なんだ。
私が手から落とした資料を人が見えないところで蹴飛ばしたり、踏んだり、言葉の端に分かりにくいような嫌味を入れたり。

誰かに訴えようと思ったが、彼の人柄の良さは共通認識になっていた。
理由があって嫌われている。私の言うことなんて誰も信じはしない。言えるわけがなかった。
ジワジワと心が削られる日々を過ごしていた。
お陰様で婚約破棄の時になった偏頭痛が再発してしまい。
彼の出向が終わる日を指折り数える日々を過ごしていた。
何が辛いかというと、水津に嫌われていると周囲に知られることだ。
何もしていなくても必然的に私が悪くなるに決まっている。
それくらい私の信用は薄いのだ。

澤田と別れた時も、私には落ち度がないのにみんなは信じてはくれなかった。最後は誤解だとわかってもらえたが、一度失った信頼は中々取り戻せない。
それに、未だに私を良く思わない人はいる。
当たり障りなく接してくれているが、腹の中では何を考えてるかなんてわからない。考えたくもない。

今回の件は、明らかに自分の落ち度だ。

水津に迷惑をかけてしまった。私はなんと周囲から言われるのだろう。考えるだけ怖かった。

悶々としながら、私は土日を過ごした。

芋虫

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更新日
登録日
2022-03-25

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  1. 苦手な部下
  2. 悪夢と迫り来る悪意