母と継母と…
棺
母の棺が、土の穴の中に消えていく…
私は、小さかったのでどういう意味なのか、解らないままに父にてをとられた。
「お前も、母ちゃんにかけてやれ!」
父は、私の小さな手に土を握らせて、母の棺にかけるようにと言った。
それからずっと、母は帰って来なかった。
甘えたい盛りの3歳の私は、母を失った…
どれくらいの月日が経っただろうか?
私は、夜になって裸電球がゆらゆらと揺れるのが怖くて、泣き叫んでいた。
父にすがりついて、泣いた…
ゆらゆらと揺れる、人影が怖かったと今も良く覚えてる。
アパート
母が亡くなったので、父は1人では農業は出来ない!と、都会に引っ越して来た。
その頃は、母子家庭支援の制度はあったが、父子家庭支援については整備されていなかったため、私は保育園に入れず、暗いアパートに一人留守番をする事が多かった。
怖かった。
継母と出会ったのは、暗いアパート暮しが始まってからの事で、父も継母も伴侶とは死別している点で、一致した境遇だった事もあり、結婚したのだと大人になって聞かされた。
継母との結婚を期に、兄は継母を「お母ちゃん。」と呼び始めた…
私は、兄が他の人を「お母ちゃん」と呼ぶのに違和感を覚えた…
私は、継母をなかなか「お母ちゃん。」とは呼べなかった。
小さい私がなかなか懐かなかった事をどう感じたのか?
今では、解らないけれど…
継母方の祖母が、私が眠る時に涙を流しているのを知って、継母に言い聞かせた言葉を忘れる事は無い。
「千恵美!この子寝とるのにこんなに泣いて、可哀想にお母ちゃんが死んだ時に、悲しかったんやろうな。お前、母親としてこの子と向き合う覚悟はあるんか?」
祖母の継母に対しての、厳しい口調はウトウトとしていた、私の記憶の中に今もハッキリと残っていて、私は祖母に惹かれ…懐いていった。
大好きな祖母が、来てくれるのは楽しみで仕方なかった。
継母
継母は、朝の忙しい時間を割いて、1年生用の国語ノートに点々で、平仮名を書きながら…
「こうやって、線でなぞって書く練習するんやで。いっぱい書いていいから、点々のないところも、書いていいからな。」
化粧の傍らで、私に教える。
継母は、まだまだ懐かない私に柔らかな口調で言ってから、
「お弁当は、時計の短い針と長い針が一緒になったら、食べるんやで…それより、早く食べたらあかんよ!」
と、毎日時計を指さして説明してから家をでる。
継母は、働き者だった。
コンビニも無い時代、継母は朝早くから味噌汁を煮て、私のお弁当を作り、洗濯をして仕事に向かう。
入学
小学校入学を控えた前年の10月、継母と父は再婚して生活を共にした。
兄と私と言うお荷物付きの父と、良く再婚してくれたと感謝しかない。
入学前に、文字の読み書きが出来ないと、授業に着いていけないから…と言って、忙しい時間を割いて私に読み書きを教えてくれた継母。
継母は、2人の子供と夫を一度に事故で失った。
悲しみの中で、子育ての経験から入学前の読み書きの大切さを知っていたに違いないけれど…
そのように、教える時我が子を思い出して切ない思いになる事も、あったに違いない。
今なら、そう思える。
けれど、私は幼かった。
ただ、継母が沢山褒めてくれるのが嬉しくて、一日中平仮名を沢山書いた。
一人で書けるようになっても、
「点々して…」
朝の忙しい時間にわがままを言うのが、日常になっていたけれど、継母は面倒くさがらずに、私のわがままに付き合ってくれた。
今思えば、勉強の基礎は継母が作ってくれたのだ。
産んだ事…産まない事…
継母と、私は普通の母と娘と言う関係よりも、仲良くなっていた。
中学生になって、クラスの男子に声をかけられた。
「お前、お母ちゃんと仲良いな!手繋いで買い物してたやん!」
「見てたん?恥ずかしい。」
「恥ずかしい事ちゃうやん!羨ましいで。」
「家は、何時もあんな感じやから、なんにも思わんけど…」
「珍しいねんで、中学生になってもお母ちゃんと手繋いで買い物とか…」
「そうなん?」
「そうやって!」
買い物途中の、継母と私の姿を見られていたらしい。手を繋いで買い物と言うのは、何時もの事だけど、男子に見られていたなんて、思っても見なかった。
その頃には、私の中では母とは継母しかいなかった…
産んだ母だからとか、血が繋がって居ないとか、大人の事情よりも、継母が優しく広く見守ってくれる事に、安心感があったのだ。
これからは、沢山勉強して継母に楽な生活をさせてやりたい!そんな気持ちだった。
就職と受験の狭間
高校3年生になってすぐに、3年生だけが入室を許される進路資料室。
資料が沢山あって、専門学校から大学、就職案内なども一人で閲覧できるのだ。
私は、専門学校のファイルから、保育専門学校を探し、特待生の制度のある学校を探した。
私は、小学校の頃から保育士になりたかった。
その気持ちは、高校生になっても変わらなかったのだ。
「先生!ここ行きたいです。」
「速いな!保育の勉強するんやったら、ピアノ弾けなあかんで。音楽専攻の先生に聞いて、初歩だけでも指導して貰えるように、頼んどくわな。」
3年生の学級担任は、気さくな兄貴肌の先生だった。
何度も、進路相談を重ねても親からOKが出ない。
家の中でも、行かせてやりたい派の父と反対派の継母が口喧嘩の日々が続いた。
「先生!私、就職に変えてもいい?」
就職指導や、面接練習などにも参加していなかったが、就職しかないな…
諦めた。どうでも良くなっていた。
担任と仲の良かった、教科担任の計らいで、とある本屋への就職が決まった。
二人の先生は、面接当日私を挟んで両側に座り、社会保険や、厚生年金など保証について、沢山質問してくれた。
学校と言う名を盾に、内定を勝ち取ってくれた。
今なら、許されないかも知れないが…
有難いことに、何も問題なく正社員での就職は決まった。
私の結婚
私は、就職して間もなく仕事上で知り合った方と、付き合い初めて…
結婚が決まった。
継母も、我がことのように喜んでくれた。
やはり、母は継母しか居ないと思う。
娘は、結婚しても子供が産まれると、実家に帰省して産後の養生をする。
今も、昔も変わらない母としての仕事の一つである。
ここでも継母は、母だった。
甲斐甲斐しく病院に通い、洗濯をしては着替えを届けてくれる。
退院してからも、血の繋がらない孫を見る眼差しは、祖母の優しい眼差しそのものだったのだ。
今も思う。
継母は、偉大だった。
実子を亡くしたにも関わらず、実子を育てるかのように、愛情深く育ててくれた。
私には出来ないな…
私は、継母を越えられなかったと振り返る時間は、幾らでもある。
今、継母が側に居たなら…
放って置かないのにな…
親孝行したい時に、親は無し…
父が良く言っていたけれど、現実になってしまっては、笑えない。
継母は私の事を考えて、血の繋がる妹を頼る事になってしまったのだ。
あの頃には、考えもしなかった…
終焉の時を選んだのだ。
私も、父も引き止めたけれど…
継母は、血の繋がりにこだわった。
継母が選んだ道は、更に険しく茨の道であったが、養子縁組をして貰って居ない。
私には、何も出来ないのだ。
私の人生に、後悔が残るとしたら継母の人生を引き受けてあげられ無かった事くらいだろうか…
母と継母と…