なんじゃそりゃ

どこかで起きた、なんじゃそりゃな出来事の記録。

もう、恋しか残ってない。
青葉さんはそう言って、悲しげな顔で自動販売機のボタンを押した。
「ありがとう!また買ってね!」アニメちっくな声が屋上に響く。子供向けのパック飲料が並ぶその自販機には声の主だと思われるウサギのキャラクターが大きく描かれている。
パックのコーヒー牛乳を手に取り、ベンチに力なく座る青葉さん。私は別の自販機で缶のコーヒーを買う。
「ありがとう!また買ってね!」
え、と思い先ほどの自販機を見ると小さな女の子が取り出し口から『いちご』と書かれたパック飲料を手に取っている。女の子は嬉しそうにストローを出しながら青葉さんの隣に座った。
青葉さんはベンチに体育座りし、うねりのある髪の毛を顔の両側に垂らしてコーヒー牛乳を飲んでいる。私は仕方なく青葉さんの座るベンチの横に立ち、手すりに体を預けた。
「こんな大人で、こんな埃にまみれてる。才能すら開花せん。もう、ない。もう恋しか残ってないんや。そう思うやろ?」
青葉さんは隣に座る女の子の方を見て問いかけた。暫く固まった末に青葉さんは言った。
「え・・・もしかして過去の私か?」
そんなわけあるかい。と言いかけたが、面白そうな展開に私は黙っていることにする。
女の子は青葉さんの問いかけなど無かったように嬉しそうにいちごミルクを飲んでいる。女の子を見つめる青葉さんの顔が何故か穏やかになっていく。
「私のこと励ましに来てくれたんやな。そうか。ありがとうな。」

青葉さんは、自称発明家だ。と言っても週5日、このビルの清掃を私と一緒にしているわけで、他称清掃員だ。年齢は分からない。年齢という概念を捨てた。といつか言っていた。自分の誕生日を忘れていた事に気づいたある日、青葉さんはひらめいた。このまま毎年自分の誕生日を忘れることに成功したとしたら、自分が何歳か分からなくなって、そしたら何歳か気にせず生きていける。「この発明は人間の自由に関わるな。ヘーゲル氏は言った。歴史は人間が自由を手に入れるまでの過程やと。つまりこの発明は、歴史を動かす発明になるやろな」と、青葉氏は言ったのだった。
思い付きなどの形のないものも発明と言うのだろうかと私はそのとき疑問に思った。その発明のおかげなのか分からないが、青葉さんはずっと子供みたいに見える。一応書いておく。この発明が歴史を動かした気配は、今のところない。
青葉さんの髪はいつもうねっている。青葉さんの青白い顔にはおそらく化粧は施されていない。青葉さんの目は一重瞼だけど黒目がち。黒目の大きさは人間みな同じだと何かの本に書いてあった。目幅とかの割合の問題らしい。その事実を疑うくらいの黒目がちだ。その目で捉えたものたちを青葉さんはいつも思慮深く見つめている。青葉さんはいつも同じつなぎを着ている。基本手ぶらだ。青葉さんのつなぎのすべてのポケットには一つずつ発明品が入っているらしい。上半身の真ん中辺りにある一番大きなポケットにはメモ帳が入っていて、そこには発明した言葉が書いてある。ポケットの位置にはちゃんと理由があるらしい。
「言葉の発明はこのポケットって決めてるんよ。なんか染み込みそうやろ。」
どういう意味だ。そして言葉は発明と言うのか。発明という言葉を便利な言葉として使っている可能性が出てきた。関西の人が言う、まあ知らんけど。みたいに。まあ発明やけど。と言い出したら注意しようと思う。発明した言葉を一つだけ見せてくれたことがある。言葉の発明は貴重だからあまり人には見せないらしい。さぞかし素晴らしいのだろうと期待した。青葉さんに期待することはあまりないから、それは珍しい青葉さんへの私の感情だった。
なんにもがんばってないけど、ごほうび。
メモ帳の一ページ全部の面積を使って書かれたこの文字を見て、私は一瞬すべての感情を失った。これは言葉に対する冒涜か。ご褒美の意味が完全崩壊しているではないか。いやでも、もしかして忙しなく働き続ける現代社会の人々への労いの言葉かもしれない。まさか。間違いなく頑張っているはずだ。忙しない現代社会の人々は。そもそも何で全部ひらがななんだ。頭が悪いのか。「なんにも」のところなんて「ん」を入れてきている。ふざけているとしか思えない。もしやコメディーの一種なのか。この人にとっての発明は、お笑い芸人の大喜利の答えのようなものなのかもしれない。そうだ。そういうことにしておこう。深い考察の末、私はお笑い芸人の大喜利の答え的な捉え方でこの言葉を消化することにした。
「良いですね、なかなか」内容には触れず、完結に。
「良いやろ。この世界のすべての頑張りを帳消しにできる気するよな。」
大喜利のお題は、テロリストだと疑われる発言をしてください。こんなところだろうか。
私は定期的に発明品を見せてもらって青葉さんがテロリストの名簿に追加されないように見守っていようと思う。

「夢ある?」
青葉さんが女の子にまた話し掛けている。
まだ隣に座った女の子を過去の自分だと思っているらしい。女の子は不思議そうな顔を青葉さんに向けた。初めて存在を認められた青葉さんは目を大きく見開き、返事を待ち構える。
「三つ編みの少年」
女の子は笑って言うと、遠くに駆けて行った。青葉さんは呆然と女の子を見送った。
「過去の青葉さんでしたか」
青葉さんは驚いた顔でこちらを見た。
「おったんか。」
「居ましたよ。何で過去の自分やと思ったんですか。メルヘンですか。」
「たまにはメルヘンでも起こって欲しいやん。」
いつになく元気がない青葉さん。発明家を名乗る青葉さんの頭の中は毎日がメルヘンだと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。
「なんか元気ないですね。そういえばさっきの何なんですか」
「え。何が?」
「恋しか残ってないって」
「ああ、そうそう。私の家、発明一家なんよ。で、私が父さんの跡を継いで発明家になる予定やったんやけど、弟がものすごい発明して父さんが跡継ぎは弟にするって言い出した。お前は最近ろくな発明せんからもう辞めてしまえって言われた。やからもう私には恋しかないんよ。」
つっこみ所が満載な話だ。まさか青葉さんちが発明一家だったなんて。というかそんな一家が日本に存在している事すら知らなかった。そして弟のものすごい発明って何なんだ。青葉さんの発明がろくなものではないのは分かるが、弟のものすごい発明というのは果たしてどちらのものすごいなのか。これに関しては今の状況で受け止められる自信がない。そして先ほどの女の子の件も気になっている。三つ編みの少年。その単語がまだ私の脳みその中を漂っていた。とりあえず話を前に進めなければ。
「でも案外前向きなんですね。発明が青葉さんのすべてやと思ってましたよ。」
「父さんがいつも言ってたから。人生は、発明か恋か。どっちかやって。」
「発明か恋か。2択ですか。でも青葉さんのお父さんは結婚してるわけですよね。発明と恋、両方手に入れたんですね。」
「そうなるな。でも多分、手に入れるものじゃなく、追うものの事を言ってるんやと思う。父さんは発明を追って、追った道に母さんがおった。つまり発明を追って、恋を手に入れた。私がもし恋を追って、発明を手に入れる事ができたら、父さんを超えられる気がする。跡継ぎの道が断たれた今、父さんを超える方法はそれしかない。恋しか残ってない。」
「父さんは超えるべきものですか。」
「うん。だってもう肩車とか一生してもらえんやん。」
答えになってないと言いたかったけど、青葉さんが悲しそうな顔をしていたからやめた。
悲しそうな顔をしている人にあげる言葉を、私は一つも持ち合わせていない。
「三つ編みの少年ってなんですかね」
「わからん。でも今まで聞いた夢の中で一番好きやったわ」


朝。
1日を3つに区切った中の1番初め。夕方と深夜も入れたら5つか。そんな細かいことはどうでもいい。どっちにしろ区切りの中のいちばん最初。私は朝を、恐れている。
朝が来たらまず、私を優しく包み込んでくれている布を剥がなければならない。大きな世界との束の間の断絶を許してくれる優しい布。その名も布団。布団を剥いだ箇所からじわじわと大きな世界に溶け込んでいかなければならない。頭、肩、胸、お腹。ここまで剥いだところで一旦気持ちを落ち着かせよう。上体を起こし、寝ぐせの具合を確かめよう。まだ取り返しのつきそうな感じだ。大丈夫だ。落ち着いた。ここからは一気に行こう。残りの体を剥ぎ、立ち上がる。ここまで来れば、こっちのもんだ。私は私に言い聞かせる。
朝は生活の匂いが一番する。生活って生きて、活きるってことなのか。といつか漢字を眺めて思ったことがある。生活って生きている日々、変わらない日常みたいな意味かと思っていたけれど、それ以上なのかもしれない。生きて生きること。生きる×2だ。
例えば植物に生活は無い気がする。野生動物にはある気がするけど、ペットの動物にはあんまり感じない。アリにはものすごく感じる。
「生活」と「生きる」の間にはなんか長い距離を感じる。人を見ても思う。ああ、この人にはとても生活を感じる。この人には感じない。
スーパー、大型ショッピングモール、美容院、サザエさん、バナナ、キャベツ、食パン、靴屋、お玉、仏壇、ハンドクリーム。8時、17時、日曜日、時計、友引。
生活・・・一週間 一カ月 一年 十年 24時間
生きる・・・一日 太陽 月 星
そんな感じがする。生きている。


「発明に辿り着く恋はあるのか、確かめてくる。」
青葉さんはいつになく思慮深い黒目がちな一重瞼の目をして言った。暫くこの目が見られなくなるのかと思うと、寂しいかもしれない。
「どこ行く気ですか」
「明るい方やな。とりあえず」
「なんか寂しいですね」
「そやな。これあげるわ。ちょっとは寂しさ紛れるかも」
青葉さんは私の手の中に銀色のかたまりを握らせた。
「どこの鍵ですかこれ。」
「私の住んでるマンションの鍵。君、犬好き?」
「青葉さんが思ってる5倍好きですよ」
「じゃあ、行ったらいいわ」
「青葉さんって性別何でしたっけ?」男前すぎて私は思わず問うた。
「ショルダーバッグよりもリュックが好きや。ハートマークよりも星のマークが好き。スカートよりもつなぎが好きで膨らんだ胸より角ばった肩甲骨が好き。リカちゃん人形よりクマのぬいぐるみが好きでピースサインよりもグッドポーズが好き。細い眉毛より太い眉毛が好き。少女っていう漢字よりも少年っていう漢字の方が好き。ポーチよりもキャンパスのノートを鞄に入れておきたい。日差しが強い日は日傘も帽子もなしで歩いていきたい」
今まで見た中で一番可愛い笑顔で私の問に答え、青葉さんは旅立った。


青葉さんのマンションには、青葉さんがいた。
青葉さんは頭にヘアバンドをしているらしい。その頭の上から何かが生えているらしい。そして何かを背負っているらしい。おそらく私の方を向いて立っていると思われる。なにゆえこんなにアバウトなのかと言うと、よく見えないのだ。青葉さんだと思われる人物が立つすぐ後ろには窓がある。その窓から差す太陽の光がスポットライトのようにその人を背後から照らしている。西日という素っ気ない言葉では済まされないその光に狙われた青葉さんらしき人の姿は黄色く縁取られ、その中は黒い。
「そら、カーテンテケテン!」
何かのおまじないのような声が響き渡る。青葉さんの声ではないような気がした。
まじないの言葉を合図にカーテンが閉じられていく。色を取り戻した私の視界に入って来たのは、犬だった。犬がカーテンの裾を咥えている。進んだ技術の仕業だと思われた光の遮断は、一匹の犬の進んだ知能の賜物だったのだ。これは何だ。何かのショーだろうか。
発明一家という怪しい一族にはやはり関わらない方が良かったのかもしれない。
戸惑う私の元へ仕事を終えた犬がやって来て、おすわりした。きれいな白地に控えめなグレーのぶち。ブルーとグレーの間くらいの色をした瞳。そこには凛々しさと可愛らしさがある。この犬は確かハスキーという犬種の犬だ。私は犬が好きなのだ。私を見上げる目と目の間には灰色のぶちが垂れている。なにゆえそんなに狭い隙間にぶちがあるのだ。反則だ。ピンと立った耳の奥は少しのピンク。少し濡れた鼻は健康なしるし。少し開いた口から赤い舌を出した表情は笑ったように見えるけれどそんなのは人間の勝手な思い込みだ。すぐにお水を差し上げよう。赤い舌から控えめに顔を出す鋭い白い犬歯。その歯で何を噛み砕くつもりだ。教えてくれ。ああ、犬が好き。やっぱり犬が好きなのだ。
「みのりの友達?」
犬に気を取られ過ぎてしまった。みのりとは確か青葉さんの下の名前だ。つまり目の前に居るこの人は青葉さんではない。確かに声が違う。男の人の声だ。よく見ると青葉さんとは少しずつ作りが違っている。青葉さんと同じ黒目がちで一重瞼なその目は青葉さんよりも何というか、柔らかい感じがした。青葉さんのはじっと見るって感じだけど、この人のは真っすぐ見つめているって感じだ。青葉さんに比べて輪郭に丸みがない気がする。髪の長さとうねりは同じだけど、ヘアバンドによって顔の全部が押し出されている。なんか貴重なものを見た気持ちがした。私は青葉さんの顔を本当は見た事がなかったのかもしれないと思った。そういえば青葉さんの顔の大半は髪の毛だったんだった。頭から飛び出しているのは花だった。背負ったリュックに花束を入れているらしい。
「この前まで同じ仕事場で働いてて。鍵貰って。」私は戸惑いながら言った。
「へー。僕、弟の成(なる)。まあ双子なんだけど。一応弟。」
「あなたが青葉さんの弟。お父さんの跡継ぎ」
「そんなことまで知ってるのか。みのりに友達が居るなんてびっくりした。」
「発明したんでしょ。」
「そう。これ。」
成くんという男版青葉さんは、背負っていたリュックを体の前に背負い直した。発明品だと言うそのリュックは透明なビニールでできており、底には水が溜まるようになっている。詰め込まれた花たちは溢れんばかりに突き出てはみ出し突き破り、リュックに咲き誇っているのである。そして今、成君の頭を完全に覆っている。上半身は、ほぼ花だ。そのまま話し始める成くんだった。
「僕の人生を変えた発明、その名も、『花を背負うよ。』」
沈黙が流れる。ハスキー犬のハッハッという息遣いが聞こえた。
「花を背負うよ。」
花に顔が被ったまま、棒立ちの成くんがもう一度言った。
ゆっくりとリュックを背中に戻す成君。
「やっぱり名前が良くないかな?」
「どうだろう。」
「花おんぶ」「背負える花瓶」「花は背負う時代だよ。」「花ックサック」
「花を背負うよ。で良いと思うよ。」
「よし。そら!カーテンテケテン!テンテケ!」
ハスキー犬はよしきたと言わんばかりにカーテンを咥えに行く。この世で一番おいしいジャーキーをあげたい。弱まった西日の光は部屋を程よく照らしてくれた。さっきまで気づかなかったが、部屋には試作品と思われるリュックと花瓶に刺さった花束がそこら中に散らばっている。
「その犬の名前は?」
「そら」
「それ名前だったんだ」
「宇宙の宙(ちゅう)で宙(そら)って書くんだって。みのりが付けた。」
「青い空の空かと思った。」
「うん。一応僕は、宙を呼ぶ時に宇宙を思うことにしてる。せっかくだしね。」
「せっかくか。でも何で宇宙の宙なんだろう」
「宇宙から降って来たかららしいよ。」
宙は花瓶の花を嗅いで、くしゃみした。
やっぱり犬が好きだ。


私の休日について書いてみたいと思う。
私の休日には朝がない。起きたら昼だった。という決まり文句は青葉さんの発明メモに追加してほしいくらいに好きな言葉だ。朝をスルーした休日の気持ちは、運動会の日に正式な風邪を引いた時のと似てる。絶対に訪れる避け難いあれやこれやが寝てる間に終わっているなんて最高だ。
窓の外から聞こえてくる音に集中してみる。車の走る音、踏切の音、向かいの家の子供の声、お隣さんの洗濯機の音。何かを打つ音が聞こえる。昨日の夕方、空き地だったところに木の骨組みができているのを見た。きっとあそこで何かを作っている音だ。音を出している大工さんを想像する。大工さんといえばあのズボンだ。裾のところだけ膨らんでいるあのズボンには何か意味があったような気がするけど忘れてしまった。あそこにハムスター一匹くらいなら入りそうだ。愛しいmyハムスターをあの裾の膨らみに入れて高いところに登ったり釘を打ったり端っこでお弁当食べたり。そんな大工さんが居たらいいのに。
音を聞いていると、今日がもう始まっていて馴染んでいることに安心する。
目覚ましのアラーム、おはよう、絶望的な寝ぐせ、間に合わないかも、散歩する犬、早歩き、おはよう、もう間に合わない、おはよう、怒ったような顔。眠っていた間に終わったものを想像すると得した気分になれる。カーテンの隙間から差す光は、今日に慣れた光の色に見える。朝の光より、きいろが多い。起きてもまた寝ても寝ながら起きてもいい。
休日が始まっている。

休日は30分くらい歩いたところにある駅に行く。最寄り駅は歩いて5分のところにあるけれど、そこには行かない。目的は電車に乗る事ではないのだ。
30分歩く駅は、人が多くも少なくもない。新しくも古くもない。改札は一つだけ。一つだけの改札を抜けた正面にはカラクリ時計がある。他の駅からやって来た人たちが目にするのは俯いたり目を閉じたりしていない限りこのカラクリ時計だ。
私はこのカラクリ時計が動いているところを一度しか見た事がない。それも扉が閉まる前のほんの一瞬だけ。何か小人みたいなのが動いていたような気がする。としか言えない。そもそもこのカラクリ時計は決まった時間に動き出すわけではないらしいのだ。本来カラクリ時計とはどういう条件下の元、動き出すのか。私のイメージでは12時とか15時とかだけど、その時間に動いているのは見た事がない。時計の横には『カラクリ時計』という看板が立ててある。これも怪しい。時間を知らせないカラクリ時計は果たしてカラクリ時計といえるのだろうか。気まぐれに音の鳴るオブジェだ。ここ最近に至ってはただの木箱だ。閉ざされたメロディーだ。この自称カラクリ時計の動向を確認することも、まあ私が休日にここに来ることの理由の一つだと言えるだろう。30分かけて。
カラクリ時計から少し行ったところに広場がある。駅から街へと続くその広場では、ほぼ毎日がフリーマーケットみたいになっている。ただ、少し変わったところがある。先ほどのカラクリ時計の記述でも少し触れたが、看板だ。
この広場の自由度はかなり高い。基本何をしても良い。お店をしても良いし、歌を唄っても良いし漫才してもコントしても漫才みたいなコントをしても良い。布団を敷いて寝ても良いしただ座っていても良い。ただ一つ、絶対に守らなければならないことがある。
看板を書いて皆が見えるところに立てること。それがこの駅のやり方(・・・)だ。その看板には、広場で自分が何をしているのか、それをはっきりと書かなければならない。そのやり方を守らない人の元には駅員さんが走ってくる。看板を脇に抱えて走ってくる。そして書き終わるまで待たれる。もたついていると、急かされる。気を付けた方がいい。この駅員さんについてはちょくちょく登場するのでここではこれくらいにしておこう。
私はこれから、この広場の一番の目玉店『コワレテイルヨ屋』に行くことにする。
コワレテイルヨ屋をしているのはカケル君という外国人の男の人だ。初めて名前を聞いたとき「あなたはコワレテイナイヨネ?」とどうしても聞きたくなったけれど我慢した。分かっていただけると思うが、このセリフは決してカケル君を壊れている人だと思ったわけでも、良い返しが欲しかったわけでもない。ただ言いたかったのだ。今でもたまに言いたかったなあと思うことがあるくらいだ。今更言っても何の面白みもない。
コワレテイルヨ屋の看板。この看板ができるまでの事を書こう。残念なことに、カケル君は日本語が昔も今もずっと下手だ。上達の気配はないので、もうこれ以上は期待できないのだと思う。
「コワレテイルモノガオオイデスネトヨクイワレマス」
「それを書いたら良いじゃない!はっきりしてるじゃない!」と駅員さん。
「ナガクハナイデスカネ」
「そのまま書いたらそりゃ長いじゃない!こわれものや!いや!こわれていますや!いや!何だ!君も人に任せきりじゃないで考えたらどう!はっきりしないといけないよ!」
「コワレテイルヨハドウデスカ」
「いいじゃない!はっきりしてるじゃない!屋は付けるんだよ!お店だからね!分かりやすくね!はっきりね!」
「ヤッテナンデスカ」
「は!仕方ないね!特別ね!」
駅員さんは『屋』だけを書き、去って行った。
このやり取りの末に誕生したのが、コワレテイルヨ屋だ。
「このクマの置物かわいいね。」と、私。
「ソレ、ココ、コワレテイルヨ。」クマの耳を指さして言うカケル君。欠けている。
「この絵本良いね。でも英語だ。」
「ソレ、ココ、ページヤブレテイルネ。コワレテイルヨネ。」
「このCD誰だろう。ジャケット可愛いな。」
「ソレ、ナカミナイヨ。コワレテイルヨネ。カシカードワアルヨネ。」
カケル君の商品説明はとても完結で分かりやすい。商品の魅力を一言で伝えてくれる。買ってほしいのかほしくないのかの判断は難しいけど。
「このマフラーかわいいね。カラフルで長い。」
「ソレ、ココ、ホツレテイルネ。コワレテイルヨネ。ケド、カワイイネ。グッドネ。」
マフラーをした私を見てカケル君は親指を立てたグッドポーズで笑った。
ほつれた虹色のマフラーを買った。日差しを浴びたマフラーからは太陽の匂いがした。
大きく息を吸うと、太陽の匂いと冬の匂いがまざった。

一応カラクリ時計の様子を見て帰ろう。
扉はやはり閉じられていた。メロディーは封印されたままだ。けど、大きな変化があった。
からくり時計の横にミュージシャンらしき人がいたのだ。改札から吐き出されてくる人々の視線を直に受けるであろうこんな恐ろしい場所で歌を歌う気なのだろうか。でもまあそんなに人は多くないか。あぐらをかいて座るその人は、茶色のセーターを着て帽子を深く被っている。チューリップハットという名前だった気がする。その人のそれには虹色の線が入っていて、毛糸で編まれていた。毛糸はいつも心をきゅっとさせてくる。そういえばさっき買った私の虹色マフラーと色合いが似ている。
組んだ足でできた土台に乗っている木製のギター。首に掛かっているハーモニカ。マイクはない。暫くすると聞いたことのないメロディーでギターが鳴った。前奏のあとに聞こえてきたのは鼻歌だった。私はただ立って、その人を見ていた。周りの人から見たらやはりこの人の毛糸チューリップハットと私の虹色長マフラーはお揃いに見えるだろうかと気になった。もしかしたら熱烈なこの人のファンだと思われているかもしれない。駆け巡る思考を遮ったのは、ハーモニカの音だった。ハーモニカの音は好きだ。形も好きだ。吹いている姿も好きだ。最近のミュージシャンはあまり使っていないみたいだから少し寂しかったのだ。鼻歌とギターの間に入ってきたハーモニカの音と姿は、からくり時計ととても合っていた。そういえば看板を確認するのを忘れていた。この駅のやり方を覚えているだろうか。木の看板を皆の見えるところに置くことだ。
『鼻歌唄い』と書かれていた。
何かが欠けていると思ったら、歌だ。言葉が無いんだ。
演奏を終えたその人はハーモニカを大事そうにハンカチで拭きながら、
「ここに座ったら。」と小さな椅子を隣に置いて言った。
私はためらった。だって隣になんかに座ったら、もっとお揃いになるじゃないか。度の過ぎたファンサービスにも見えるかもしれない。でもまあ座ってみようか。小さい椅子の座った感じも気になるし。
「セットみたいになるから座ってくれてありがたいよ。」
「セット。」
まあお揃いよりファンサービスよりセットの方が恥ずかしくないか。と思った。小さい椅子の感じは、まあまあだ。
「何で鼻歌なんですか」聞かずにはいられなかった。
「最近あまり聞けないから。本当は誰かのごきげんな鼻歌を聞くのが好きなんだ。」
「ごきげんな鼻歌。確かに見かけない。」
「ごきげんな人が減ったのかな。」
しばらくそこに居て、何曲か聞いた。歌詞の無い演奏は、曲と曲の境目が分かりにくかった。ずっと一曲だけだったのかもしれなかった。ギターとハーモニカと合わさった鼻歌は、なんだか贅沢だなあと思った。鼻歌に贅沢をさせているみたいだった。ごきげんな感じはあまりしなかったけど、彼のごきげんさはチューリップハットに任せきりだから仕方ない。
ごきげんな人が減ったこの世界で、彼はごきげんではいられないのだ。これは勝手な私の想像だ。馬鹿言うんじゃないよお。と言われるかもしれない。ごきげんではない彼は他人のごきげんな鼻歌が好きで。でも聞けないからごきげんではない彼がこの広場でごきげんな鼻歌を歌う。この場所は何だろう。分からないけど、あっちよりは あったかい。
「じゃあ」
「さよなら」
私を見上げてそう言った彼と、初めて目が合った。虹色のチューリップハットから見えたその目は、片方だけが二重まぶただった。アンバランスなその目は彼の演奏と似ていると思った。あぐらに乗せたギターを真ん中にして見ると、彼が大きな椅子に見える。少しだけそこに座ってみたいと思いながら家に帰った。30分かかった。途中で誰かの鼻歌が聞こえた気がしたけれど、気のせいだった。私の耳にまだ残っていた彼の鼻歌だったのだろう。その残りを最後に、全部忘れてなくなってしまったような気がした。寂しくはなかった。


家のドアの前に、成君が体育座りしている。背中には、『花を背負うよ。』を背負っている。
「どうしたの。」
「僕のそら、見なかった。」
どこかで聞いたことのあるフレーズだと思った。子供の頃この問いかけとその答えを繰り返し口ずさんでいたような気がする。あ、思い出した。
「これは僕のそらじゃないよ。」私は答えた。こんな絵本があったのだ。皆さん知っているだろうか。確か男の子が猫を探す物語だ。あの男の子は猫を見つけることができたんだっけ。
「何言ってんの。そらだよ。宇宙(うちゅう)の宙(そら)。走り回る宙(そら)。」
「何という表現力。」私はふざけてみる。
「何で分からないの。カーテン開けれる宙だよ。花でくしゃみする宙。」もしかしたらこの人は犬という単語を知らないのかもしれないと思った。
「ああ、白地に灰色のぶちの。」こうなったらこっちも使ってやらないことにしよう。
「そう。いなくなったんだけど。」
「え。」
日が暮れようとしていた。10月の終わりの夜は寒い。この寒空の下、宙がどこかで震えているかもしれないと思うと悲しかった。探さないといけないと思った。とりあえず部屋に入って少し落ち着いてみようということになる。
テーブルに向かい合わせに座ってあったかいココアを飲んだ。何か不思議な気分だった。
成君はココアで両手を温めた。その手から成君の寂しさが見えた気がした。気を紛らわせたかったのか、成君は私のしている虹色のマフラーを見て言った。
「マフラーはどこに片づけるの。」
「え。ハンガーに掛けるかな」
「僕の発明品もってきてあげればよかった。」
「どんな発明なの」
「見た目はただのクマのぬいぐるみなんだ。けど、首が少し長い。そのクマの首にマフラーを片づけることができる。」
「名前あるの」
「クマをあたためる。」
「じゃあ宙が見つかったら取りにいくよ」

夜の道を、花を背負って歩いている。隣には同じく花を背負い、リヤカーを引く成君がいる。
「宙―。」私たちは大きくも小さくもない声を交互に、時には同時に出した。
成君に引かれる木箱の淵には等間隔に花が咲き、豆電球が垂れている。花はさっき成君がリュックに刺さったものを何本か抜き、針金で括り付けたのだ。木箱の中には宙の匂いのついた毛布が敷き詰められ、銀のお皿に並々盛られたドッグフードが設置されている。
「宙は花が好きなのかな」私は成くんに聞く。
「宙―。」
「くしゃみするから嫌いなんじゃない。」
「宙―。」
「え。今、ここ、花だらけだよ。」
「宙―。」
「でも、いつも嗅ぎに来るから。くしゃみが好きなのかもしれないし。」
「宙―。」
「嗅がないと気が済まない性格なんじゃない。」
「宙―。」
「どっちにしろ、花には可能性があるんだ。」
「宙―。」
「それで私にも花を背負わせたの。」
「宙―。」
「花じゃないよ。『花を背負うよ。』だよ。荷物じゃないんだ。」
「宙―。」
「ごめん。」
「宙―。」
「うん。それに、僕がいる景色は常に楽しくしときたいんだ。」
「宙ー。」
「ふーん。」
「宙―。」
「発明はね、景色を変えることができるんだよ。」
発明を背負った私の前に広がる景色は、暗かった。きっと成君のそれも、同じように暗い。でも私たちの後ろを歩く人が居たらどうだろう。花と電球で囲んだ木箱が夜の道を行っている。その中身はたくさんの毛布とドッグフード。木箱を引く青年の背中には花束。その隣を歩く人の背にも花。後ろを歩くその人の景色は、いつもとは変わっているだろうか。
首に巻きつけて後ろで結んでいた虹色のマフラーが、ほどけて前に垂れてきた。太ももくらいまで垂れ下がった虹色が見える。隣を歩く成君を見た。
「寒くないの。」私は成君に聞く。
「大丈夫。」
「マフラーのこの部分余ってるけど、使わない」
首からだらんと垂れた虹色を掴んで、私は成君に見せる。
「余ってるならいただこう。せっかくだし。」
虹色マフラーは、私の首を一周して少し距離のある成君の首に繋げてまた一周する。それくらいの長さだった。


夜には穴がある。布団に入ってしばらくすると分かる。今日は穴に落ちるかもしれない。浮かび上がってくる悲しい記憶。無意識だった呼吸が意識的になる。息を吸うのは鼻からだったか、口からだったか。息を吐くのは鼻からだったか口からだったか。息苦しさに耐えられなくなった私は、出口を見つけたようにベッド脇の小窓を開ける。窓の外も穴の中だった。テレビの映像が、本に書かれた文字が、無意味なものになる瞬間を知ったのは穴に落ちた夜だったような気がする。私を救ってきた物語が機能しない。囲まれた扉の全部が閉まっているみたいだ。自分と重ね合わせ、大丈夫だと思わせてくれた主人公たちは、私とは全く関係がなく、明るいところで笑ってる。一人が続いていくのだと言ってくる。朝が来れば何ともなくなることは知っている。けれど穴に落ちた夜は、それを忘れるくらいに長い。
ぐっすり眠るという行為が、いつの間にかとても難しくなっていた。

朝が来ていた。目を開けると白い空が動いていた。と思ったけど、動いているのは私だった。リヤカーに運ばれているらしい。昨日の夜深く、ついに力尽きた私と成君は公園で休憩することにした。私はリヤカーの中で横になり、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。成君が近くの網目状の遊具の上で蜘蛛に捕らえられたみたいに横たわっているのを見た気がする。その時『花を背負うよ。』は、成君のお腹の上で大切に抱えられていたと思う。
「成君。かたじけない。」私は体を起こして成君の背中に言った。
「起きたの。どう、乗り心地は」
「売られていく気分」
「何それ」
「嘘。この乗り物が街に溢れてほしいよ」
「それはよかった。あ、何か聞こえる」
遠くから聞こえてきたのは鼻歌だった。ギターとハーモニカの音がそれに足される。
広場だ。
「鼻歌でも聞きに行かない。」
「宙いるかな。」成君は眠たそうな声を漏らす。
広場に着くと成君は力尽きたように鼻歌唄いの前でリヤカーを停めた。私がトイレに行って戻ると、木箱の中で膝を抱えて眠っていた。流れる鼻歌が子守歌に聞こえる。
「ちょっと!ちょっとちょっと!」駅員さんが怒った顔で向かって来ている。脇には看板を抱えているではないか。これはやっかいだ。
「ちょっと君たち!ここのやり方分かってるの!看板書いてよ!はい!見といてあげるから!ね!」駅員さんが看板を押し付けてくる。
「あー。どうしよう。」駅員さんがものすごく見ている。
「何!これだから最近の人は!何をやっているのか、己の行動をはっきりしないといけないよ!何!何してるのかな!」
「あー。寝ています。リヤカーで。」
「それを書いたら良いじゃない!はっきりしてるじゃない!」
「でもどう書けば良いのか」
「もう!何!特別ね!」
駅員さんは書き始めた。
『リヤカーで眠る。』
「うーん。なんか短いね!サブタイトル付けたいね!何かある!」サブタイトル。なんだその新しいシステム。聞いてないぞ。
「え。一応犬を探していますけど。」
「それを書いたらいいじゃない!はっきりしてるじゃない!犬の名は!」
「宇宙(うちゅう)の宙(ちゅう)で宙(そら)です。」
『リヤカーで眠る ~宙を探して~』
「良いね!じゃあね!」
眠る成君を納めたリヤカーの傍に、看板は建てられた。美術館の展示品みたいになった。
「花を一輪くれるかな。」
歌い終えた鼻歌唄いが私の背中を指さして言った。
「ああ。はいどうぞ。」
鼻歌唄いは欠けた花瓶に花を挿して看板の傍に置いた。その花瓶はいつかコワレテイルヨ屋で見たものだった。
「お礼は鼻歌でよろしいかな。」
虹色のチューリップハットから一重まぶたの目と二重まぶたの目を覗かせた鼻歌唄いが言った。お揃いだった私の虹色マフラーは、いつの間にか成君の首をあたためている。
「おねがいします。」
リヤカーに体を預け、鼻歌を聞く。私は深い眠りに入ることができる。
目が覚めると、宙がいた。鼻歌唄いのあぐらの中で座っている。
あの日見たのと同じ、赤い舌と白い犬歯。目と目の間に垂れた灰色。間違いなく宙だ。
鼻歌唄いがハーモニカを吹き始めると、宙は驚いたように振り返った。鼻歌唄いの口からハーモニカを奪い、自分の懐の中で舐めまわす。鼻歌唄いは仕方なく鼻歌だけを奏で始めるのだった。ただの犬が大好きな、ごきげんな人に見える。
鼻歌唄いのあぐらの中に納まる宙を中心に見ると、やっぱり鼻歌唄いのそこは椅子に見えた。座ってみたいとまた思う。宙の息遣いが少しだけハーモニカの音を鳴らした。
成君は気持ち良さそうに、まだ木箱の中で眠っている。


似ている、という事について考えている。
家族は顔が似ている。青葉さんと成君はとても似ている。双子だから似て似ている。
実家にある昔の写真を見るとびっくりする。父さんの若い頃の写真は兄ちゃんの今にとても似ている。父さんの幼稚園の頃の写真は兄ちゃんの幼稚園の頃とほぼ同じ顔だった。写真が白黒とカラーなところは違うけど、それって何か不思議だ。技術の進歩はこんななのに、人類は同じ顔を生み出し続けている。
クラゲとキノコは似てる。砂浜で拾ったサンゴ礁と人間の骨は似てる。植物の成長と昼から夕方になる空は変わり方が似てる。猫の肉球と人の足の指先の膨らみは似てる。風が吹いた時の木の葉っぱが擦れ合う音と弱い雨が降る音は似てる。太陽と満月と眼球はまるい。爪と髪は先っぽがいちばん古い。似てるものを見つけた時の気持ちは、考えたけど何にも似てない。


青葉さんが帰ってきた。お祝いをしようということになり、青葉さんちのマンションの屋上で流しそうめんをすることになった。季節はずれだ。屋上に設置された流しそうめんと呼ばれるものは、私の思っていたのと違ってた。子供が遊ぶミニチュアのモノレールの線路みたいに円形に水が流れている。どこかのスーパーで見て誰が買うんだと思った一人用の流しそうめんの巨大版だ。傍には大量の流しそうめんが設置してある。糸のかたまりみたいだ。
「みのりは回ってるものが好きだから。観覧車とかバレリーナとか自分のしっぽを追いかける犬とか。お寿司を回すのは私が先に考えたのにって言ってたし。」
青空の下、成君は流れる丸の真ん中に立って言った。青葉さんは死んだように眠りたいと言って眠っている。
「そうめんが好きなわけではないんだ」私は言った。
「どうだろう。念のためそうめんじゃないものも流そうか」
「え。何流すの」
「トマトとか」
「とか何」
「トマトとか」
そうめんとトマトを流すことになった。宙は半狂乱で一通り屋上を走り終えると流しそうめんの水をがぶ飲みした。少しだけ食欲が減退した。
結局そうめんが流れ始めたのは夜だった。
「流しそうめんっていうか回しそうめんやん。いや、回るそうめんやん。」
青葉さんはライトに照らされた回るそうめんを見て言った。確かに。と思った。
「まあでも取り損ねてもまた回ってくるからええな」と言って青葉さんは食べ始める。
成君は流し役に徹していた。いや、回し役か。
「青葉さん、恋はどうなりましたか。」私はさっそく聞いた。
「星出てる?」青葉さんはそうめんを啜りながら聞いてきた。
「出てますよ。ライト消したらもっと見えるかもしれないです」
「そうか。星が出てるんやったら仕方ない。これ食べ終わったら話してあげよう」
「星が出てなかったらだめなんですか」
「そうやな。星は必要や」
そうめんでお腹がいっぱいになった後、屋上の真ん中に毛布を敷いた。
毛布の上、真っ暗な空の下、私と青葉さんは並んで座った。真ん中には花瓶に入った花があった。「余ってるから。せっかくだし。」と言って成くんが置いたものだ。
「くるまりが一緒やってん。」
「え。くるまりって。」
「毛髪の。」
髪のうねりのことを言っているらしい。
「え。誰とですか」
「雨(あま)宿(やどり)さんって人。」
「それ名字ですか。」
「たぶん。」
書く必要もないくらいに分かりきったことだが、今、青葉さんは恋の話をしている。名前のいかれ具合が少し邪魔をしたが、これは紛れもない青葉さんに訪れた恋。発明に辿り着き得る恋の到来の瞬間である。この素晴らしい瞬間をここに書き残しておこうと思う。
しかし、これは私が青葉さんから聞いた話であり、決して青葉さん自身が見て感じたことではない。でも今の私が出来得る限りの文章力、語彙力、タイピング力、脳みそへのストレスかけ具合、頭を掻く回数(これは考える時にやる癖)を絞り出し、書こうと思う。恋とは何なんだろう!私は正直分からない!それは匂いで、それは歌で、それは季節で、それは場所で、それは!ではないだろうか!自信がないことには!マークを付けることでやり過ごすことにしよう!紙に残すべき文字とはこういうことだと私は思っている!恥ずかしいこと、ロマンチックなこと、意味不明なこと、なんじゃそりゃなこと。そしてお気に入りの箱に入れておきたい出来事。そうだ、本は箱なのかもしれない!そういえば形も四角くて箱に似ている!音でもなく、映像でもなく、文字!見える言葉!ひらがなの丸み!カタカナのふざけ具合!漢字の堅苦しさ!全部利用してやろう。幼き頃、誰もがそこに手紙を入れた。キーホルダーを入れた。バッジを入れた。切り抜きを入れた。あの箱を作りたい。この箱、この小説、いや小説と呼べるか分からない文字の羅列も終盤にさしかかっている気がしているので書きたいことは書いておこうと思い、狂った文字を打ってしまった。今、私はとてつもない恐怖に襲われている!私は私を信じることができるだろうか!少なくともこの文字の羅列が終わるまで!私には青葉さんの素晴らしさを素晴らしいままに、いやそれ以上にいや、そのままでいい。そのままというのが一番難しいのだ。私の頭はからっぽなのか詰まっているのか、もう分からない。からっぽにしないと次が入ってこないのか。もっと詰めるべきなのか。書くことは怖い。でもあったかい。何かに包まれている。私はできるかぎりここに居たい。ここに居たい。読む人のことなど考えていない。私は私があったかくなるために文字を羅列しているのだ。何という自己満足!電力が!紙が!水が!食べ物が!両親が私に費やしたお金が!愛犬が傍に居てくれた時間が!死にたい夜を救ってくれた数々の歌が!テレビが!映画が!書物が!ああ、もったいない!申し訳ない!長々と申し訳ない!もう終わりにしよう。決して期待しないで、最後まで読んでいただけたら嬉しい。ただただ嬉しい。
感想なんて、なんじゃそりゃだけで結構だ。万々歳だ。なんじゃそりゃという文字の形は好きだ。なんだそりゃ。ちがう。なんじゃそりゃだ。


青葉さんはまず、明るいところに向かった。出発の日を覚えているだろうか。とりあえず明るい方やな。と意気込み、青葉さんは晴れの街と呼ばれる日本一雨が少ない場所に向かったらしい。その街の公園で青葉さんは毎日座っていた。何故その公園だったのかというと、そこで工事をしていたからだ。公園に大きい大きい穴を掘っていたらしいのだ。何人もの作業員が。毎日大きな穴を。
「そんなの見るしかないやろ。その景色にな、私が好きなものが何個かあったんよ。まず工事の人が好き。あのズボンの裾のとこが膨らんでるのが好きやし、腰になんかいっぱいぶら下げてるとこも好きや。ヘルメットしてる人も好き。で、公園が好きやし、でかい穴も好き。まあでかい穴は好きというか興味深々。」
私も同じくその膨らんだ裾が好きだという事は話の邪魔になる気がしたので言わないでおいた。
数日間その穴の工事を青葉さんは見ていたらしい。時々工事の人たちは掘った穴の感じを確かめるように皆で穴を覗き込む。青葉さんはその光景がとてつもなく好きだったのだ。
「穴の中でバレリーナ回ってたんちゃうかな。」と思い出し笑いするくらいに。
ある日雨が降った。2週間ぶりくらいの雨だったそうだ。さすが晴れの街。変わらず青葉さんは公園に行ったが、工事はしていなかった。いつも座っているベンチも濡れている。青葉さんは導かれるように穴へと向かった。穴の周りは赤いコーンで囲まれ、コーンとコーンの間には黒と黄色の縞模様の棒が渡してあった。その棒に足が擦れるくらい近づき、青葉さんは穴を覗き込んだ。
「なんかな、その穴見てたら不安になってきたんよな。悲しい気持ちになってきて、なんか大事にしてたもん置いてきてしもた気がするというか、いつも傍におってくれたもんがもうおらん事に気づいてしまった、みたいな気持ち。何でやろうな。心臓がすかすかしたわ。」
発明だ。青葉さんの心は、発明で満たされていた。それを置いて行った青葉さんの心は、すかすかになっていたのだ。すっからかんだ。空っぽだ。
そんな時にやってくる恋は、どんなだろう。
「夜に考え事しちゃいけない。」
穴から聞こえたその声に青葉さんはびっくりした。
「みたいに、雨の日に穴の中を見てはいけない。」
今度は穴の外から聞こえてくる。雨宿さんだ。
顔を上げた青葉さんの正面、穴の向こう側に雨宿さんはいた。傘を差していない代わりにカッパを着ている。被ったフードで顔がよく見えない。しかしこの時、重要なものが青葉さんの目に映る。膨らんだ裾だ。雨で色が濃くなったスニーカーの上に、それはあった。ぼてっとあった。ハムスター一匹は入るのではないかと私が考察したあの膨らみ。なんと雨宿さんは穴掘りの中の一人だったのだ。
「あ。ごめんなさい勝手に見て。今日はもう穴掘らんのやと思って」青葉さんは戸惑いながら言った。工事の人を遠目から見るには良いが、いざ目の前にするとなかなか威圧感があるらしい。下半身はほぼヤンキーや。と青葉さんは言う。そうだろうなと私も思う。
「いえいえ。見るのは構わないんですけど、雨の日はおすすめしません」
「何でですか?」
「この街、雨降らないでしょ。長く居ると晴れに慣れ過ぎてしまうんです。だから雨に弱くなる人多いんです。どんよりした空とか水たまりとか乾かない洗濯物とか。」
「なるほど。それでか。妙にすかすかしてしもたのは。」
「心も晴れの日基準になるんですよ。やから雨の日に穴なんか見ない方が良いんです。掘ってる僕が言うのも変ですけど。」
「掘るのは良いんですか?」
「良くないです。僕閉めに来たんです。」
「え。そこまでして。そんなに見たらダメなやつですか。あれですか。街に伝わる呪いみたいなやつですか。呪われると不幸が舞い降りるってやつですか。あのやつですか。」
「いや、中に水が溜まらないようにです。ビニールシート被せに・・・。すいません、何かしょうもない理由で。そして何かを連想させてしまったみたいで。」
「なるほど。いや、大丈夫です。あのやつじゃなくて良かった。」
「じゃあ早速失礼いたします。」
雨宿さんは大きな青いビニールシートを穴に被せ始めた。なかなか手こずっているようだ。
「すごく申し訳ないんですけど、そっち引っ張ってもらっても良いですか」
青葉さんは広がるビニールシートの端を指示通り引っ張った。その時、何を思ったか一匹の鳩がビニールシートに飛んできた。空の青と間違えたのだろうか。なんと間抜けな鳩。
「あ。」青葉さんは声を漏らす。
「ふぁとお!」と雨宿さん。
私の推測では、雨宿さんは「鳩!」と言いたかったのではないかと思う。あくまで私の個人的な推測だ。驚いた時に出る雨宿さん特有の感嘆句の可能性だって捨てきれない。ファイト!の可能性もあるか。体育会系出身ならあり得る。ファ(・・)の音(おと(・))が大(お(・)お)きい!(・)の略で、ふぁとお!。音楽系出身ならば・・・。ないな。
戻ろう。
謎の深まる叫び声と共に、雨宿さんは鳩と共に穴へとダイブした。青いビニールシートと雨宿さんと鳩と。一瞬にしてしゅるしゅると穴に吸い込まれていく。穴の中、ぐしゃぐしゃになった青色の中、うずくまる雨宿さん。雨宿さんの腕の中でもがく鳩。
「大丈夫ですか。」青葉さんは穴の中へ問いかける。
雨宿さんの腕から鳩が飛び立つ。地上に戻り、何事もなかったかのように歩いて行く鳩。
「もしかして鳩も雨の日の穴に入らん方が良いんですか?」青葉さんは心配が足りてない。
「そんな事ないと思います。あれやったらさっきの話忘れてもらってもいいですよ。」
「え。」戸惑う青葉さん。
「反射的行動やったんですけど、今考えると鳩が飛べること忘れてたんかもしれないです。」穴に落ちた後こんな思考に辿り着いた人が今まで居ただろうか。
「飛ぶこと忘れるくらい、あいつら公園練り歩いてますもんね。」心配がまだ足りてない。
「確かに」と脱力した笑顔で言った雨宿さんは地上から見下ろす青葉さんを見て、あることに気づくのだった。
「あれ。僕と髪、似てますね。」
「え。」
雨宿さんは被っていたフードを外し、犬のように頭を振った。
「ほら。くるまりが一緒。」言葉にグッドポーズを添えて、雨宿さんは言った。
青葉さんの髪型を覚えているだろうか。青葉さんの髪にはうねりがある。皆さんの想像するおしゃれパーマなどではない。くせっ毛でもない。うねり。漆黒のうねりだ。その漆黒のうねりは、その時、雨の湿気に晒されている。うねりとパサつきのコラボレーションが起きているのだ。その最悪な状況の髪と似ていると言い放った彼の頭はどんな感じなのだろうか。これは私も見たわけではないので青葉さんの言葉をそのまま借りよう。
「ボンバーヘッドやった。丸かった。」
「アフロ?」私は聞き返した。
「いや、アフロではない。」
とのことだ。想像するのが難しい方は、特別。あなたの好きな髪型を浮かべて下さい。
私の表現力不足ったら酷い!もっと精進しなければ!かたじけない!申し訳ない!
戻ろう。
想定外の発言、そしてグッドポーズ。ピースなら良かったのかもしれない。いや、ピースだったら恋は起きなかったかもしれない。いや、恋が起きているのかすら分からない。
青葉さんが更に謎の返しを繰り広げる。「くるまりが一緒」に対する返しだ。
地上「似てるけど、一緒ではないかもしれん。そちらのくるまりは外側やけど、私のくるま  
りは内側や。(発言後、グッドボーズを決め返す)」
穴 「ふは。それは失礼。」
地上「穴に入った感じはどんな感じですか。」
穴 「空が狭いです。」「そちらから見た穴の感じはどんな感じですか。」
地上「安心って感じです。穴にはやっぱり何かしら入ってる方がいいみたいです。」
穴 「それは良かった。」
地上「はい。」
穴 「安心してるとこ申し訳ないんですけど、出るの手伝ってもらっても良いですか。(青葉さんの方に手を伸ばす)」
地上「もちろん。(雨宿さんの伸ばした手を掴む)」
少々長い、穴と地上でのやり取りだった。
雨越しに握った手の感触は、ピタリ。って感じやった。と青葉さんは後に語ったのだった。

ここまでが青葉さんが語った恋の一部始終だ。上手く書けただろうか。
巨大な水たまりに道を阻まれつつ公園に行き、雨に身を任せ過ぎて少し死にたくなり、いつもは平凡な池がなんだか幻想的に見えて生き返る。そんな浮き沈みの激しい一日に私が書き上げた青葉さんの恋の記録。
果たして、結局、つまりは、恋って何なんだ。恋は雨か。雨が恋か。そんなわけはない。
でも一つだけ分かった。雨はすごい。この記録によって私が得た真実はこれに尽きる。
誰かの声が聞こえた。
今日は天気が悪いねえ。
私は言おう。進んで言おう。自分から言おう。
雨だ。今日は天気がいいですねえ。

さっきより星がきらきらして見えるのは何のせいだろうか。恋か。恋なのか。
「どうするんですかこれから」
「分からん。というかこれは恋なんやろか。」
「恋やから話したんじゃないんですか。こんな花まで添えた星の下で。」
「恋かどうかは話す場所で決まるんか。」
「そんなの知りませんけど。でも私は今日を忘れないと思います。今を簡単に思い出すことができると思います。この場所で、この匂いでこの季節でこの星でこの花でこの毛布で。そのどれか一つでも目にするだけで思い出せます。その事実は青葉さんのそれが恋という証明にはならないですかね」
「何言ってるかよう分からんけど、ならんやろな。」
「そうですか。恋、むずいですね。」
「むずい。でも一つ言葉を発明、あ、いや、思ったことがある。」
「何を発明、いや、思ったんですか。」
「まんなかやな、と思った。恋はまんなか。あの人も穴の真ん中に落ちてたし。」
「それやったら私は、くるまりやと思いましたけどね。」
「何やそれは。でもそっちもなかなか捨てがたいな。」
恋はまんなかかくるまりな可能性が出てきた。恋がもっと分からなくなった。


雲が散らばった青空の下は、寒いと暖かいが交互に来る。文字を照らす光の色を気まぐれに変える。木の茶色と葉っぱの緑、空の青と雲の白。電線が空に線を引いている。頭上に見える鳥の姿は黒く、その向こうの太陽はこっち見んなといかつい光で突き放す。
風で音を鳴らす葉っぱは枝の先に近い。枝のはしっこ、枝のまんなか、枝の根元の順番に音は小さい。木は風で揺れないから音は出さない。見た事がない虫が手に止まる。アリに羽が生えたみたいな虫だった。生活を止めたアリかもしれない。アリにはとても人間を感じる。革命家の本を読んだのだ。革命は革命家によって起こされる。革命家は革命家の資質を持つ。戦える心、現状を変えようとする心。それが資質だ。しかし、革命が起きなければ革命家は生まれない。革命家単体で存在することなどありえないのだ。革命が起こらない時の革命家は農夫であり商売人であり放浪者であり罪人であり堕落人だ。それで生涯を終えることだって大いにある。時代。時代が革命を求め、その時代に生きてること。この二つが現実となったとき、初めて革命家は革命家になる。このアリは革命家アリかもしれない。人間によって引き起こされた環境破壊がアリ世界に革命を望ませた。そしてこのアリには資質があった。羽だ。羽を生やすことができる背中を持っていたのだ。そして革命が望まれたその瞬間、平らなその背中に羽は生えた。晴れてアリは革命家になったのだ。革命家アリは私の指先に辿り着くと、羽を広げて飛んでった。革命の始まりだ。革命。その目的はただ一つ。自由を勝ち取ることなのだ。
青空の下の読書は気持ち悪い妄想を生むみたいなので、やめといた方が良い。
犬がリードを持つお爺さんを引っ張っている。犬を散歩させているお爺さん。お爺さんを散歩させている犬。あれ。どっちだっけ。


屋上には、真っ青なビニールシートが敷かれている。その上には粘土のかたまりや絵の具、水の入ったバケツなどが乱雑に散らばっている。宙がその周りを狂ったように走っている。絵の具で濁った水を飲んでしまわないか心配になった。
「それ、どう思う?」
いつから居たのか、青葉さんが背後に立っていた。手にはパックのコーヒー牛乳が握られている。コーヒー牛乳以外の飲み物を飲んでいる青葉さんを、そういえば見たことがない。
気が付かなかったが、ビニールシートの真ん中にどしんとした造形物がある。
靴を脱ぎ、ビニールシートを伝ってそれに近づいてみる。灰色の無機質な粘土のかたまりがそこにはあった。高さと幅は30㎝くらいだろうか。真四角なそのかたまりの上部には丸い凹みがある。穴に見えなくもない。真ん中に大きい丸、その丸を囲むいくつかの小さい丸。
「もしかして発明ですか?」私は聞く。
「分からん。発明なんやろうか。」
青葉さんの髪のうねりがいつもより乱れていた。うねりの乱れは心の乱れだろうか。
「え。なんか青葉さん最近分からんこと多いですね。」
「そうかな。分からんわ。」
「え。こわ。」
よく見ると青葉さんの黒目がちな思慮深い一重瞼の目と目の間に皺が寄っている。眉間の皺というやつだ。まずい。青葉さんが乱れてゆく。
青葉さんは徐にシートを伝ってやってくると、造形物を凝視した。そして穴を順番に指さしながら話し始めた。
「この小さい丸穴は宙。ここは成。ここは君。ここは発明。ここも発明。ここは肉まん。ここは発明。ここも発明。この大きい丸穴なんよな。まんなかや。ここに恋を置いて、生きていこうと思う。」
なんて親切な人生のプレゼンテーション。未だかつて見たことがない。
「あれみたいですね。昔流行った頭の中を漢字で表すやつ。お金が好きな人には『金』っていう漢字が脳みそに並んでる画像が出てくるんですよ。」
素晴らしいを通り越し過ぎて褒め方を間違えた。
「あんまり嬉しくない感想ありがとう。まあ似てると言えば似てるかもしれん。脳みそじゃなくて心臓やけどな。これは。心臓の可視化装置や。」
「装置なんですか。」
「装置ではないか。」
「それにしても発明多くないですか。発明の丸全部合わせたら多分恋の丸より大きいですよ。」
「良いんよ。まんなかやから。大きさより位置が大事ってことや。そろそろ乾いてきたから色塗ろか。君もやるか」
「良いですけど」
「よし。宙―!」
青葉さんの声に宙が全力で走ってくる。大きく開いた口からはいつもより赤い舌がよく見えた。
「宙!エノググンテクテンテンテンテンテケテンテケ、ケケケ!」
青葉さんは魔女のように唱えるのだった。こんな事が前にもあったような気がする。やっぱりこの一族には関わらない方が良いのかもしれないとまた思った。
宙は散らばった絵の具の中から一つを咥えて青葉さんの手の平に乗せた。水色の絵の具だった。
「よし。水色やな」青葉さんはお腹を見せる宙を雑に撫でて言った。
パレットいっぱいに水色の絵の具を出し、私と青葉さんは灰色の上に塗っていく。
「雨宿さん元気ですか。」
「どうやろ。雨の日しか会ってないから基準の元気さ分からんのよな。」
「何で雨の日しか会ってないんですか。名字の呪いですか。」
「工事が休みやから。何や名字の呪いって。呪いはもうどこにもないで。」
「へー。」
「そういえば掘ってたあの穴、登り棒のための穴やったらしいで。」
「え。まじですか。」
「登り棒の見えてる部分、全身の3分の2くらいらしい。3分の1は埋まってるんやって。」
「思ったより埋まってますね。」
「そうやんな。」
「告白とかしないんですか。」
「まだ無理やな。素直が足りてない。」
「どういう意味ですか。」
「告白が成功か失敗かっていうのは、良いですよ。って言ってもらうことじゃないと思うんよ。付き合って下さい。からの良いですよ。じゃない。いかにそのまんまを伝えることができるか。気持ちをそのまま言葉にして更に声にまでして。ひとつの言葉の言い方なんか何万通りもあるんやで。声量とかトーンとか発音とかトーンとか言い出したらもっとある。その中から一番そのまんまのものを選ばないかんわけよ。それができたらもう返事なんか何でも成功や。でもむずい。やからその時要るのが、それが素直。つまり私が今一番欲しいものは素直や。」
この思考回路がこの人の髪のうねりの乱れと眉間の皺を作っているのだろうと確信した。
「私が今一番欲しいものは何でしょうか。」
「知らんよ。てか欲しいものの話してたんやっけ。」
「あ。じゃあこの造形物の名前教えて下さいよ。装置か。」
「やっぱり装置ではないな。」
「じゃあ何ですか。」
「発明でいいか。」
「結構前から思ってたんですけど、青葉さんって発明を便利な言葉として利用してる節がありますよね。」
「それは心外やわ。まあでも自覚はあるから気を付ける。」
「気を付けてください。」
「心入れやな。この発明の名。小物入れならぬ、心入れ。」
私は心入れのまんなかを塗った。空っぽだった。


電話が鳴っている。今日は休日だ。起きたら昼だったを味わいたかったのに、私は電話に起こされた。青葉さんだった。
「テレビ見てる?」
「朝にテレビは見ません。朝を感じ過ぎるでしょ。」寝ぼけた声で私は答える。
「何やそれは。良いからテレビ付けてみそ。」
朝のダジャレほど罪深いものはない。私は渋々テレビを付けた。
テレビに映っていたのは、広場だった。ものすごい数の人が集まり、激しい音楽が流れている。現場のアナウンサーが人々に押されながら必死に状況を伝えている。
「現場は激しい盛り上がりを見せています!なんと今!誰も顔を見た事がないと言われている伝説のバンド!『BRAID BOY』がゲリラライブを敢行しているということなのです!見て下さい!噂を聞きつけた人たちが彼らの演奏を一目見ようと続々と駆け付けています!こちらには駅員さんが来てくれています!お話を聞いてみましょう!」
駅員さんをテレビ越しに見る日が来るとは。看板を持っているではないか。
「こんにちはね!こんなに人が集まるなんてきいてないね!でもしかたないね!看板書いてもらってるからね!うれしくもあるね!はっきりしてるからね!」
「看板ですか!ということは『BRAID BOY』の直筆ということですね!カメラの前にお願いします!」
「看板はこの駅のやり方だからね!これね!はっきりしてるね!」
『ヤキュウガシタイヨ。』
数秒間の沈黙が流れる。
「なるほど!バンド名を敢えて書かず、メッセージをお書きになるあたり!さすが伝説のバンドという感じがしますね!何というのでしょう!深い!」
嫌な予感がした。あの看板の字体を見た事がある。そして聞こえてくる音にも聞き覚えがあった。ギターとハーモニカの音だ。謎の言葉をシャウトしている声には聞き覚えがないが、伝説とは思えないほどに下手くそだ。仕方ない、広場に行くか。そういえば今日は休日だ。

広場へと向かう途中にも人がたくさんいた。みんな広場へと向かっている。
「何で急に顔出ししたんやろ。しかもよう分からん謎の駅で。」
「確かに。でも誰も顔見た事ないんやろ?偽物やったら笑うな。」
「それは笑うな。でも髪型が一緒やから間違いないって兄ちゃん言ってたで。」
「髪型だけなん!?やばいな。」
ロックな服装をして前を歩く少女たちの会話が嫌な予感を膨らます。
広場に着いた。人ごみを掻き分けて何とかステージの前に辿り着く。
ステージと言っても広場の真ん中にシートを敷いているだけだった。やはり鼻歌唄いが居た。シャウトする少女の右側にいつものスタイルで座り、ギターとハーモニカを担当している。なぜ彼はいつも通りの穏やかな顔をしているのだろうか。鼻歌唄いというのは嘘だったのか。ごきげんを切望するあの言葉もでまかせか。何だ。BRAIDとはもしかして鼻歌という意味なのか。そうなのか。そして背中。私は目を疑った。『花を背負うよ。』を背負っている。チューリップハットから花が飛び出ているではないか。
左側にはカケル君が居る。皆さん覚えているだろうか。コワレテイルヨ屋の店主、カケル君だ。割れた花瓶や見た事のない金のかたまりやどこにでも落ちてそうな石を棒で叩いている。笑顔でこっちを見ている。手元など一切見ずに、こっちを見ている。そして彼の出しているであろう音は全く聞こえないのだった。なぜそんなに笑顔で参加できるのだ。誰かに騙されているのか。日本を嫌いになったらどうしよう。そしてこれまた背中には『花を背負うよ。』を背負っている。丸っこい頭から花が生えている。
そしてボーカルの後ろを陣取っている男。成くんだった。『花を背負うよ。』の主犯格だ。ドラムを狂ったように叩いている。頭を振っている。必然的に背負った花も激しく揺れている。
何だこいつは。まさかBRAIDって発明という意味なのか。発明ボーイ。違うか。
そして先ほどからシャウトをかましている少女。カケル君と同じ小麦色の肌をしている。外国人みたいだ。みどりの線の入った野球のユニホームに、みどりのヘルメット。見た事がない色合いのユニホームだ。背中にはもちろん『花を背負うよ。』を背負っている。頭に被ったヘルメットから花が突き出ている。そしてヘルメットの両サイド、耳の後ろ辺りから垂れ下がっていたのは、金色の三つ編みだった。
歌っているのはどうやら英語ではないらしい。よく聞くとなんと、日本語だ。聞き取ってやろうじゃないか。皆さん自由にリズムを付け、ぜひ口ずさみながら読んでいただきたい。
「ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!ウミデハナビヲヤラセロウタセロバクハサセロ!ヘイ!ジテンシャフタリデノラセロコガセロハシラセロ!ヘイ!コーウエンデーネカセロウタワセハナビサセロ!ヘイ!ケイートラノニダイノセロネカセロハナビサセロ!ヘイ!ソラヲジユウニトバセロハネクレハバタカセテクレ!ヘイ!タイヨウーヲミサセロニラマセロソバニイカセロ!ヘイ!ツキノホウヘートバセヨソバイキダキシメサセロ!ヘイ!テーブラーデアルカセロ!ヘイ!ナンニモオシエテクレルナミセルナウヌボレサセロ!ヘイ!アシタノパンヲカットイテクレ!ヘイ!キノウノスープヲアタタメテクレ!ヘイ!ナイテルアノコニアメアゲロ!ヘイ!イツモノトコロデマッテテクレ!ヘイ!ヘイ!ヘイヘイ!ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!ヘイ!ヘイ!ヘーイ!」
なんという歌詞。ロック界の心の広さは宇宙よりでかいと思った。
「これ何なん。」
いつ来たのか、隣に青葉さんが居た。
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「伝説のバンド、BRAID BOYですよ。青葉さん、言って下さいよ。弟がバンドマンなんて隠す事ちゃいますよ。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「弟バンドマンちゃうんやけど。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「え。だってあそこで頭振ってますよ。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「そうやんな。あれやっぱり私の弟やんな。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「何か聞いてないんですか。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「昨日のやつかな。なんか友達の妹がホームシックではんぺんしか食べんようになってるって言ってたわ。元気出させる為に手伝いたいみたいな事は言ってたけど。伝説のバンドマンやっていう告白は聞いてない。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「友達って名前言ってなかったですか。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「なんやったかな。壊れてるとか欠けてるとか傷ついてるとかなんかしんみりした名前やったような気がするわ。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「大体分かりましたよ。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「あれ。あの子って屋上におった子じゃないか?」
最前列で演奏を聞いている女の子がいた。真剣なまなざしでシャウトを見つめている。
「青葉さん、BRAIDってどういう意味ですかね。」
青葉さんがスマホによる検索を始める。
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「三つ編みやって。」
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
「そういえばあの子の夢なんやったっけ?」
三つ編みの少年は、広場のまんなかでシャウトしている。
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
私は願う。どうか似ていますように。
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
それにしても歌詞が酷い。
ベースボールヲヤラセロウタセロナゲサセロ!ヘイ!
なんじゃそりゃそりゃ。

                                    了

なんじゃそりゃ

なんじゃそりゃ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
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2022-03-20

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