探求
一
クオリアの難問を抱えていても、人間が識る世界は身体に備わる五官の作用によって得られる情報を観測地点としての意識によって統合し、把握する脳内の出来事として始まる。かかる出来事を人は覚えた言葉=意味で分節し、内容ごとに括る。その内容を理解して感情を抱き、その経験を積み重ねて育まれたのが「私」固有の「世界」となる。
かかる過程は人の身体が世界に触れて始まる。かかる人の身体は遺伝子レベルで他の身体と区別できる、だから身体は個人性を有している。故にその身体で構築される世界像は人の数だけ存在する。人の間において言葉等の情報伝達手段ですり合わせを行い、ある種のごっこ遊びの様相を呈すると意地悪く指摘され得るとしても秩序ある集団生活を送れるという事実は、この点を踏まえてこそ大きな意義を見出せると筆者は考える。異なる世界像の近似値を探る試みだからこそ、仮定的な繋がりの内に個人の尊厳や生まれる理解の有難さ、そして好みや嫌悪で足を引っ張られがちな「私」の限界を乗り越える多種多様なきっかけが生まれると信じるからである。
二
上記したことに基づき繰り返せば、私たちの「世界」は異なる。イメージとして異なる。この事実を前にして絵画等の表現物を鑑賞する時に頭をもたげる疑問は、「世界」を異にする「私」たちの間において表現に対する評価基準は成り立つのか、成り立つとしてその根拠は何処に置くべきなのかという点である。
恐らくは個人性を重視すればかかる評価基準は等しく並べられる結果相対化されるのだろうし、他方で客観性及び一般性を重視すれば、個々人の評価基準と抵触し得る統一的な評価基準の正当化に多くの言葉を費やさなくてはならない。
ここにおいて力を振るうべき論理は絵画等の表現の歴史や各時代の政治的又は社会的要請を引き連れて、議論可能な編まれ方をする。その妥当性が個々人の趣味趣向を超えた通有性を獲得し、例えば絵画の市場における財産的価値を紹介できる説明文として用いられるのだろうし、「感動する」という主観的な情動の机上に共有可能なテーブルクロスを敷くことを可能にするだろう。芸術鑑賞の間口を広げるとも評価できるこの流れは、やはり有用だと筆者は思う。
また見方を変えれば、絵画等の表現作品に対する客観的及び一般的な評価基準の確立と更新は表現活動にも影響を与えるだろう。すなわち、打ち立てられた評価基準を乗り越えるため又は再評価の名の下でその中心的時間を巻き戻すために表現者が発揮する創意工夫は、さらなる作品表現の幅広さと深化をもたらし得る。評価する側とされる側の真剣勝負が放つ火花は表現に認められる新旧の価値を生み、また深めていく。
三
白髪一雄も属していた具体美術協会は、上記した表現に対する客観的かつ一般的な評価基準を打ち立てようとすること自体に反旗を翻す運動だったと筆者は理解する。その狙いは作品を構成する絵の具の異様な塊り具合や偶然に流れた色の痕跡又は無心を表す単純な若しくは複雑怪奇な図形を介して表現者の痕跡を観る者に認識させ、作品と表現者の渾然一体となった非人称的な唯一無二の「語り」を現実のものとし、これを一回的な出会いと位置付ける。そうすることで、型に嵌め込まれない創造性を確保しようとしたという点にあったと考える。
実際、具体の表現作品を鑑賞すればとんでもない声量が込められていると感じる。非人称的な表現者の痕跡は間違いなくそこに存在している、聞き取れない内容を無視してその作品と面と向かった対峙を行うほか無い。
ただ、厄介にも人は慣れる。慣れた上で行える観察を通して非人称的な表現者の立ち姿にパターンを見つけることが可能になる。なぜなら人の姿で用いる道具や描き方にも限界はある。こうすればこうなり、ああすればああなる。そういう思いを鑑賞者が抱いてしまえば、飽きという腹ペコな欲求が鑑賞者の足を作品の前から離れさせるのもまた、自然なことなのだと正直に思う。
四
例えばレディメイドほどの挑戦状を鑑賞者に叩きつけなくとも、絵画等の表現作品に備わる「物」性を強調し、表現の核心を問い質してその純度を高めていくのも一つの道である。かかる方法は、突き詰めれば日常的に用いる物全てに対して鑑賞者が豊かな感情を抱き、あらゆるものに芸術性を見出して身体を通じて把握する現実という名の「私」=「世界」から飛躍できるようになるにまで至るだろう。
つまりは世界の全てはアートであるとする高らかな宣言。「私」=「世界」が関わるもの全てが表現となる。かかる根本的変容こそが純度の高い表現そのものであると一面において評することもできるだろう。ある種の宗教的神秘体験に近付く歩みであり、言葉を用いて教義に触れ、真に信仰に生きることで見えるヴィジョンと同視であると指摘してもいい。
だから、以下の記述は筆者の恣意的な評価基準に従ったただの我が儘になると自覚する、「私」=「世界」を生きる者がそれを観測し、感情経験を経て、意思主体としてその命の濃さを増して生きていきたいと望む一人の「私」として拘る、独善的なものとしての。
すなわち、筆者は「私」に解消されない表現作品に驚きたい。筆者が思いもよらなかったイメージに溢れ、筆者の身体を通じて把握する実に個人的な「世界」を縦横に揺さぶり、見知らぬものを外から内に放り込んできたり又は見知ったものを勝手に内から外に解き放ったりして、筆者が知らない輝きを放つ「私」=「世界」の構成要素に気付きたい。それらを次々と体験して追い付かない言葉=意味をもってただ一言、「すげぇ!」と言い続けたい。そのために期待して止まないのは、私以外の別主体が辿った「世界」への道。材料を用いた表現者が「完成した」とピリオドを打ち、発表する作品に編み込み又はコントロールできずに錯綜したまま形にした目の前の情報群が導いてくれる、可能的「世界」像。
だからそこに存在していて欲しいと思うのは作品と未分化な何者かの意思、人称的主体性。具体に認められる痕跡としての非人称的主体の存在すら感じられず、比喩を駆使した告発文の朗読を聞かされている気分に陥りがちなネオダダの作品群は、故に一番苦手なのだと筆者はここに来てやっと知る。
五
作品のサイズに合わせて最も適当な展示スペースを選択したのだろうと理解はする。けれどスペイン出身の現代作家であるミケル・バルセロの表現を十分に知るために最も適当なのは、東京オペラシティアートギャラリーの二階に展示されていたミクストメディアやスケッチブックに描かれていた緩やかな形象と素敵な色彩が指し示す、彼の内なるイメージの強度であったと振り返って思う。例えば「4人の座る女たち」と「紫色のスカートの少女」に見られる顔なき人の営みに合わせた衣服の色と、世界の喧騒。あるいは「サンガの市場―2人のフラニ族」と「自転車のタイヤチューブを担ぐフラニ族」がサイズの好対照を表して鑑賞する目に焼き付ける、単色の粋(いき)。これらの画家のイメージ群が質感を伝える紙に描かれていることで、ミケル・バルセロの表現と選択の全てが「世界」へのイメージに捧げられていると分かる。
旅をする画家と言われる彼が素材への拘りを見せるのも、五官の作用が束ねられた先に生まれる内的世界への好奇心に溢れているからだろうと筆者は推測する。「虫食いの穴のある本」に存在する穴の数々をなぞった絵筆と色は夢を見るままに遊び回る少年の現実であり、また各頁に穿たれた生き物の活動が弄ぶ多面なイメージのサイコロのような転がり具合が期待できるし、また予感できる多層性の表れである。
また赤茶けた素焼きの壺の表面に描かれた「私の馬の尻」はところどころで盛り上がった形状がかの馬たちの臀部と重なったり重ならなかったりして笑顔を誘われるし、見慣れて来ると荒野を行く悠々とした姿をそこに見つけられて腕時計が刻む人工的な時間を忘れる。その時間の都合上、全部を観ることが叶わなかったある映像作品では壁に開けた穴の向こうに入り込んでいく真剣な姿が窺えたから、ミケル・バルセロという表現者において人の身体は外界に対するイメージを知るためのツールとしてフル活用されているのだと思い出して述懐する。
素人の癖に黙ろうともしない、この生意気な口でミケル・バルセロという表現者の技術面を語ろうとすれば絵画作品の構図を決める視点がとても興味深い。例えば真上から覗き込むような視点で描かれる「小波のうねり」は、近付けば当然に目立つ厚塗りの凹凸が画面から離れる毎に平面と化していく絵の像に抗うように「動」の印象をどこまでも残す。騙し絵にも似たその効果が次の場面へと動きを移すべきだと主張する、しかし動けない絵画の軋みとなってこの目に映り、鑑賞者の中に力めいたものがどんどんと蓄えられていく(説明文にはそのために採用した制作上の工夫も記されており、表現者としての太い背骨に支えられた画家の姿勢を思い浮かべられた)。
一方で基本的に撮影可能な『ミケル・バルセロ展』において、展示会場で観るしかない「飽くなき厳格」を筆者が最も好む理由は次元の混在にあるのでないかと当たりをつける。
すなわち、再び厚塗りで表現される沖の深い青と手前で散る真っ白な波の様子が遠くの向こうに見渡せる画面奥の海岸線へと導く不安定な動きを感じさせるのに対し、かかる動きを侵食する効果を浴びせかけるかの如く、画面手前の頭上からこちらに向かって見境なく垂れ落ちて迫って来る黒雲の抽象性が平面を強調して表す異和。視覚的に思い通りにならないから辿り着けないかもしれない予感、けれどその地を望むことを止められない感情の双方が余す所なく描写された風景画として、キャンバスに収まらない絵画世界として成立していると感じられて目が離せなくなった。
画面上の次元を意識し、それを跨ごうとする表現は「雉のいるテーブル」にも認められる。大画面の右端に描かれる、花が生けられた花瓶の平面に視線を置いて移す意識に嫌でも訴えかけてくる中央の絵の具の盛り上がりが蠢きつつ形を取る。種類も数も半端じゃ無いそのイメージ群は、陸海空と生息域を問わない未分化の命を湛える。そこに置かれる、唯一その命を終えたと知れる髑髏(しゃれこうべ)が伝える物としての冷たさと濁った陽光のような画面の内で燃え上がり、救済のような存在感を見せる炎が気にさせる事柄、すなわちそれらみな自由になろうとしているのか、それとも逃れられない運命に対してもがいているのか。キリストの十字架を彷彿させる「亜鉛の白:弾丸の白」を観た後で探るイメージと言葉とで過ごす時間は、とても濃い。
六
触発の二文字は、ミケル・バルセロという表現者を見事に飾るというのが筆者の実感である。飾られるべきその場所の一つは作品に向き合う本人と素材との間、もう一つはグツグツと煮立ったイメージに放り込まれ「物」らしさを失わない各作品と、それを観る鑑賞者との間。これらの間で保持される人称性は「私」とは異なる存在であり、生き続ける「世界」である。その境界を抽象化しても決して見失わず、融け合える一つのきっかけとなってミケル・バルセロという画家の飽くなき熱意が鑑賞する者の気持ちを大きく動かす。
「私」たちは何をもって美しいと言い、素晴らしいと感銘を受けているのか。全く無関係な空白にこそ意味を見出せる、主観的な評価軸。蜃気楼のように揺らめくその姿形を心で感じ、そして考えてみたい。あらゆる現実を前にして枯渇し易いその在りどころを求める意欲を、『ミケル・バルセロ展』からたっぷりと持ち帰る。
探求