インザスカイ
イン・ザ・スカイ
例えば、雲の上にある小さな世界でも、海は風にゆすられて、さらりと凪いでいますし、晴れもすれば雨も降るし、街を外れたら草原があります。当然そこには人々が住んでいますし、孤独な子供もたくさんいます。どこかの世界と似ていますね。
空の民は、光の翼をもっていて、飛ぶことができます。これは彼らの特質で、工学的なものではないにしろ、誕生してすぐさま飛行というわけにもいきません。飛べるほどの羽が育つには十分な時間がいりますし、不注意で羽を散らしてしまえば、再び生えてくるのを待たねばなりません。
ですから、大抵の場合、空の子供は大人達に手をひかれながらコツをつかみ、段々と、立派に、一人で、燦然と夜空にきらめく、星のすぐそばまで飛べるようになるのです。
しかし、全ての子供が、こうした段階を踏めるわけではありません。大人にも色んなのがいますから―例えば、高圧的だったり、放任主義者だったり、幼稚だったり、ただ時間が無かったりで―うまくついてやれないことも多いのです。
そんな場合でも、子供はたくましいもので、落っこちたり、迷ったり、泣いたりしながら、どうにか、ひとりでも飛べるようになります。
…まあ、そうおっしゃるのも無理はありません。では言い方を変えます。ひとりでも、飛べるように「は」なるのです。
実は子供たちは、もうひとつ、大切なものを、大人達から受け取るのです。
それはハートと呼ばれるものです。これは彼らにとって非常に重要で、欠いてしまうと、ひとりで生きてゆく力を失ってしまいます。
わかりやすくいえば、「寂しさ」に耐える力です。
我々はいつも孤独です。その事実に目を背けながら、なんとか生きています。空の民にとってもこれは同じで、寂しさを、ごまかし、忘れて、そうして、生きているのです。
ハートは、子供の頃にのみ、大人の愛情から、受け取られるものです。不可視で、とても繊細ですから、先程のような大人には到底、授けることができません。大人になってからも、恋愛や交友など、愛情のかけひきは行われますが、それによってハートを得ることは、とても難しいのです。
言語を考えてみましょう。我々がこうして話す言葉は、とても奥深いものでありながら、小さい頃からふれていれば、まず苦もなく話せるようになるでしょう。しかし大人になってからはそうもいきませんね。ハートは、基本的に意識されずに、環境によって獲得されるものです。
大人になってから、他人から受け取るそれは、例えれば、ごく小さな星クズ程度のもので、下手に掴むと容易に砕けて、後に残るのは粒だけです。満たされぬ子供時代を過ごしたものには、到底上手に掴めるものではありません。
なぜなら、彼らは成長してからも、死に物狂いで、足らないハートを求め続けるのですから…
"One of children-of the light."
孤独な子供がいた。いや、孤独な子供の心を持つ、大人だった。αと呼ぼう。むやみに空を飛んでばかりいた。決して満たされない何かを、胸の奥にしまい込みながら…
飛ぶことに意味があるのか、飛びながら自問した。足りないそれが満たされるのなら、いつ翼を失ったとして、なんとも思わない。
ある時、飛ぶαの手には、より小さく、暖かい手が握られていた。
「この子には、自分と同じ思いをさせたくない」
不幸か幸福か、孤独なものは皆、優しさを持っている。しかしその優しさに、自身の傷を癒す薬の作用を、願っていないことも無い。
夕焼けのまぶしい、少しむせるくらいに美しい空を滑りながら、腕の先の、幼い子供の顔をのぞいてみた。小さな羽には強すぎるほどの風をうけていながら、安心しきった表情をしている。
αは、広げた翼の抵抗を、ふと軽く感じた。ただしそれもつかの間で、自分の満たされない気持ちを思い出して、再び憂鬱に陥る。
孤島を過ぎ、草原を抜け、峡谷を尻目に、十分なほど飛び終えると、やがて二人は着陸し、ほんの少し言葉をかわすと、子供は、ぎこちない羽取りで去っていった。
αに残されたのは、一粒の幸福と、岩石の孤独だった。既に広がった闇の中で、泣きそうな顔を照らしていたのは、はるか遠くに、あるかないかの星の光。
「たったひとつでも星が落っこちてきて、ずっとそばにいてくれたらなあ」
叶わないと知ってる望みを、ひとり夜空に向けて呟いた。
毎日が孤独との闘いだった。生きることがそのまま努力だった。αは、気力がだんだん薄れていくのを、いやでも感じ始めていた。
名ばかりの友情、欲まみれの愛情、結末はいつも孤独の再証明で、人と接する程、すると逃げていく、名前のない何かを探し続けて、αはとうとう、耐えきれなくなった。涙が、表面張力ギリギリのコップに、雨が一滴そそいだように、ボロボロとこぼれた。そうしてαは、いやになるほど綺麗な夜空を見上げて、美味しくない涙を飲み込むと、消えようと思った。
抑え込んできた感情が、隠し通してきた汚いものと一緒にみんな、あふれ出した。
「友情なんか、愛情なんか、消え失せちゃえ。みーんな大馬鹿だ。クソ真面目におままごとばっかりして、それが幸せだ、って勘違いしてるんだ。皆…消えちゃえ…」
αは自らの本音を、初めて自分で聞いた気がした。それでも本当は、絶望していながら、頭のすみでは、孤独を埋めてくれる存在が、ひょいと目の前に現れてくることを期待していた。孤独を誰よりも恐れて、すすんで選んだ孤独だった。しかし触れてくるのは、後悔ばかりを扇ぐ、冷たい風だけだった。そしてそれを仕方の無いことだと思った。だって、こんな嫌なことを考えちゃう子なんだもの…
「やっぱり、どうしようもなくひとりぼっちだ。落ち込んでいるとき、ちゃんと駆けつけてきて、胸に抱きしめてくれるのが、ほんとの友達、恋人じゃないか…結局私は、いてもいなくても変わらない、いや、いるとかえってお荷物な、自分は、そんな子なんだ…求めているんじゃない、求めてほしいんだよ…」
消え方を探して、周囲を見渡してみると、いつのまにか夜の上には、たくさんの人々が集まっていた。楽しそうに響く話し声、駆け回る子供達、踊る二人組、謎の儀式に興じる集団、どこから聞こえてくる羽ばたき… そのどれもが、αへの無関心を高らかに歌っていた。αはもう、何も見たくなかったし、聞きたくもなかった。しかし、近付いてくる羽音だけは、どうしても聞こえてきて、それが背後で止まった時、思わず振り返ってしまった。それは子供であった。
穏やかで安心に満ちた微笑みの子供は、αによると、その力のない手を握って、胸の前で大切そうに抱えると、こう言った。
「みて、これ、羽。あれから、もう少し上手に、飛べるようになったから、ずっと見せたかったの。さがしてた。いてくれて、ありがとう。」
αは、身体の芯が、暖かい羽毛で包まれたようになって、ぼやける視界がそれ以上霞まないように、必死にこらえていた。さっきまでとはまるで違う、舐めてもきっと悪い味がしないであろう涙を…
小さい翼が、幸せを運んできてくれた。自分が助けているつもりで、αは最初から、この手に救いを求めてた。そう思うと、情けなくて、みっともなくて、それ以上に嬉しくて、何回も頷きながら話を聞いていたせいか、いつのまにか、涙がそこら中に散らばっていた。
二人は、一緒に空を飛んだ。捨てられた地を横切り、書庫をすり抜け、そして、手をひいているのは、子供のほうだった。αにとっては、握ってもずっと輝き続ける、一粒の星の子供だった。
飛び終えた二人は、また必ず一緒に飛ぶ約束をして、別れた。まだ少しぎこちなく飛び去って、夜空の星達に紛れ込んだ、一つの翼の影にむかって、何度もありがとうを言った。
「もう少しだけ、がんばろう」
脆くて儚いその言葉は、それでも、紛れのないαの決意だった。
インザスカイ