Wait a minute.
ちょ待てよ。どこか近くで声がした。
依然として止まる歩みはなかった。もしくは、止まった足に僕らが気付かないだけかもしれない。
ちょ待てよ。声は、加湿器のミストのように狭い世界に馴染んで消えた。聞く耳はどこにもなかった。或いは、あげたつもりの声が、単にかすれた喉から漏れ出た呼吸だったのかもしれない。
主がいなければ声とはいわない。声には主がいた。主は人々を恨んだ。でも主には、恨んだ人々が何者なのか、そこまでは分からなかった。
主の恨みは、無人の観客席の蜃気楼に向かって歌われた歌声のように、主の中でのみ響き渡った。
しばらく子犬のように尻尾をふっていた恨みは、疲れて、やがて眠った。
(ちょ待てよ。)・・・これは空耳で、再三声がすることはなかった。
誰かの目の前が真っ暗になった。透明の肉体は暗闇で初めて承認欲求を満たした。
暗闇を照らす光があった。救援灯かもしれない。
しかし肉体は動じなかった。暗闇に適応した瞳には、その光は余りにも眩しすぎた。
・・・しかし、それも僕らには分からない。肉体は助けを求めて、もはや余力がなかったのかもしれない。
ところで、声の主は今頃、死んでいるのかもしれない。
Wait a minute.