ミロ展



 意識下にあるものに光明を当てるシュルレアリスム運動は意味認識で汲み尽くせない源泉が人の内側に存在することを知らしめることにより、可能性という希望を「人」にこそ見出そうとするものだったと筆者は考える。
 かかる目的に従えば、「意識下にあるものはこれこれである」と言葉=意識で語ることを手段として採用するのは適当でない。しかしながら一方で、シュルレアリスム運動とは何なのかを他人に知ってもらわないとその目的は果たせない。そのためにシュルレアリスム運動は意思伝達を可能にする言語等の情報伝達手段を用いない訳にはいかない。ここにかかる運動の困難さが認められる。ところで死をも生み出すことができる絵画等の表現活動は、したがって存在しないものを「存在しない」まま存在させることができる。これを利用すれば意識下の存在を語らずに表すことができる(かもしれない)。シュルレアリスム運動の一環として表現活動が行われた理由について、足りない知識と頭を動かして筆者はこう推測する。
 もっとも表現活動にも理屈は存在する。絵画を例にとれば、遠近法などの空間表現や感情を表すのに適した色彩に関わる光学的要素、補色効果などは物理法則に基づいて外界を認識し、理解する人間に即した技法である。このように伝えたいものを伝えるために確立した表現技法をもって、シュルレアリスム運動の目的たる意識下の存在を示すのもやはり容易ではない。そこで運動の目的を達成しつつ思想的な意義を失わない選択として、例えば表現者の主体性を制作過程から排除する手段としての自動記述(オートマティスム)の採用や意識が眠る夢をそのまま取り出した様なモチーフを描く画風が確立されたのでないかと素人な筆者はまた推測する。つまり何を描くか又は何を描いたのかということを鑑賞者に把握させないことで鑑賞者の内に眠る純粋なイメージを喚起させ、目の前の表現物にそれを投げ返させることを可能にする。そうすることで自身の内側にあるものを鑑賞者自らが知る契機を与える。日常的な意識作用で把握できていなかった無意識な存在との出会いが自発的に生まれる。
 教授を必要としないこの伝達過程はシュルレアリスム運動の目的に適う。だからかかる運動の範疇に位置付けられる絵画表現は、一見して意味不明瞭と評されて然るべきものとなる。
 けれどもかかる「意味不明瞭」という評価にも言葉は用いられている。その表現の詳細は不明であるが、何かを表しているという意味認識が鑑賞者の内心で成立している。
 加えて、シュルレアリスム運動が世間で評価される程にシュルレアリスムが目指す意味認識作用を経由しない意識下の存在へのアプローチが手続化し、その内容がパターン化してしまえば「シュルレアリスム的表現」としてパッケージングされる。「シュルレアリスムはこうあるべき」というイメージが人々の間で形成される。そこから大きく外れれば、かかる作品は「シュルレアリスム運動の一環として行われる表現でない」と評価される可能性が生じる以上、表現者側がそれを意識しない訳にはいかない。真のシュルレアリスムとはこうである!と勢い込んで表現ないし運動を行うにもかかる世間のイメージと対峙することが必要になるからだ。
 こうしてシュルレアリスム運動は言葉の網の目に囚われる。把握され、分析され、定型化する。シュルレアリスム運動について拙くもここまで筆者が記してきたことですらかかる囚われの一つに挙げられるのだから、対象を把握しようとする言葉の意味認識作用は根深い。言葉は呪いと評される由来がここに存在すると筆者は思う。
 さて、スペインの画家であるジョアン・ミロはシュルレアリスム運動に関わった一人である。「絵画(パイプを吸う男)」などかかる運動の表現として位置付けられるべき絵を描いており、渋谷にあるザ・ミュージアムで開催中の『ミロ展ー日本を夢見てー』でそれらを拝見できる。しかし「正にジョアン・ミロ!」と思わせられる氏の絵画表現は先に記したシュルレアリスムな表現とは一線を画すと評されているし、氏の絵画表現を目にして筆者もそう感じた。
 氏の「絵画」作品にはそのタイトルに何を描いたかが明記されている。例えば本展のホームページに載っている「絵画」の題名を見れば、その画面に「(カタツムリ、女、花、星)」が描かれていることが分かる。したがってかかる題名を見てから「これがあれかな」「あれがこれかな」と検討を付けつつ、氏が「絵画(カタツムリ、女、花、星)」という言葉に託したイメージを楽しく鑑賞できる。カタツムリ、女、花、星などが指示するものに対する自らの記憶と画家がその絵筆に乗せた表象との落差を楽しめる。
 他方で先に「絵画」の画面に描かれるものを見て、鑑賞者が各自で勝手気ままに当たりをつけて想像する自由と遊んだ後でさきの題名を見るのもまた面白い。
 会場内の人集り具合から筆者は「絵画(カタツムリ、女、花、星)」の題名を後から見た。一見して画面上部のタツノオトシゴみたいな生き物に興味を抱き、プランクトンみたいものが画面左端に浮かんでいると思ったので海底のイメージを喚起し、「底」という単純な言葉の繋がりから奇妙な形態の意思主体を地底人と決めつける飛躍をし、画面右側で伸びる人型が触れる筆記体の見た目から耳心地良さそうな音楽を連想して、絵画世界を彩る配色の中から特に好んだ赤と黒の熱情をもって「絵画」を動かした。その後で見た題名のラインナップを見て苦笑し、改めて「絵画(カタツムリ、女、花、星)」を鑑賞し直して氏がイメージする女性を見つけたり、星を見失ったりした。
 かかる勘違いを鑑賞中に思う存分楽しめるのはその形態が似顔絵のように崩されていても、画面上のモチーフが何なのかを把握できる程には意味が保たれているからであろう。実際に何を描いたのか題名に記しているのだから、この点について画家はとても意識的である。ならばジョアン・ミロの「絵画(カタツムリ、女、花、星)」は筆者が考えるシュルレアリスム的な絵画表現とは言い難い。何を描いたのかということを鑑賞者に教えてしまえば、人が行う意味認識を経由しない純粋なイメージを鑑賞者の内に喚起させることはできない。この点で、ジョアン・ミロの絵画表現はシュルレアリスム運動の目的に背くともいえる。
 しかしながら先に記したように、かかる運動は人が認識に用いざるを得ない言葉=意味に囚われて抜け出せなくなるという困難さにいつしか直面する。次第にパターン化して形骸化する運命を辿る運動は人々を巻き込める熱を失い、人の内側にあるはずの存在が放つ輝きを消滅させる。
 意味認識を経由しないという運動の戦略では逃れられなかった、意味認識の網の目。しかしかかる網の目をジョアン・ミロの絵画表現はすり抜ける、というよりは気に留めないと筆者は考える。なぜなら氏の作品には既に意味が溢れているから。そしてだからこそ、氏の絵画表現は表さない意味をも自由闊達に表現することを可能にした。
 その核心を知るために呼び水として記す詩的表現は、論理そのものといえる言葉を用いる。故に作品を構成する単語の意味と文脈の流れをもって濃淡のある論理性を示唆しつつ、日常的な使用方法を大胆に又は密かに裏切ってその特定を阻むことにより可能な限りで言葉と対象の間にある指示する/される関係を引き伸ばす。そうすることで記述される対象との関係を緩ませて、言葉を未熟なままの状態に止める。これをきっかけにして、読み手の内に「世界」認識の別の可能性をイメージさせる。
 同じことが氏の絵画表現にも言えると筆者は思う。モチーフだけでなく画家がその筆に託して表現する文字や色味も含め絵画を構成する全てが未だ知られていない規則に則って有機的に結合し、その自由な有り様をまざまざと見せつけて、意味認識が成立する際に辿る人の理路の内側にすきま風を呼び込む。気の向くままに流れや強さを変えるその力がその画面の前に立つ鑑賞者の既存のシステムを丁寧に、そして愉快に風化させていく。いわば意味認識作用を遡って原初に立ち返る試み。そういう絵空事と思えることを実に真剣に、真摯に取り組んだのが絵画史に名を残す画家、ジョアン・ミロの足跡ではないだろうか。
 意味をもって、意味を越える。
 頭の中の動きそれ自体の自由な表れだ、と氏の絵画表現に対して抱く筆者の感想はこうして明瞭になる。



 本展では別に氏が手掛けた素晴らしい焼き物や彫刻作品、また前衛書と見間違う大画面の作品を通じてその活動の幅広さを知れる。詩人でもあった瀧口修造との交流を通じて、本邦と深い関わりを持った表現者としての歴史もまた興味深い。
 暖かさが戻りつつある時季を迎える今、『ミロ展ー日本を夢見てー』を経由してクスッと笑えるお土産を手に帰路に着くことをお勧めしたい。

ミロ展

ミロ展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-10

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