造夏
架空の人物の架空の話で架空で架空なありがちの話
終わりの始まり、始まりの終わり
ㅤこんな昼ふと考える。何が君のためになったのかって、日の落ちていない空で月を探しながら思うのよ。
「ねえ、暑い」
「暑いね」
ㅤ透き通った海を目前に、肩をぶつけ合って並んで座る。君はなにを思っているんだろうと、そう考える前に私が直射日光に耐えられなくて嘆いた。私は暑いって思っているよ。
ㅤもしかしたら君も同じことを感じていて、日光が肌をじりじり焼きつけてくる熱が鬱陶しいと思っていると期待してみたけれど、隣で海を眺めるその横顔に、暑いのあの字もない。
ㅤむしろ清々しいとさえ感じられる、暑さなど忘れて開放感を満喫しているような表情だった。ああ、暑いとか日に焼けるとか子供っぽいことしか考えてないのは私だけだ。
別にいいんだ、これからの苦労に比べたらこんなのどうってこともない。
ㅤまだ私が子供だった頃に君と出会った。君はもうすっかり大人だったというのに、私はまだ近所の小学生の子と変わらぬ子供だった。ふと現れてふとした瞬間に消える君を、気づいたら好きだった。子供の私には不可抗力だと思う。
「それはすごい大げさな言い方だね」
ㅤそう言って君が笑った。笑い事なんかじゃあないぞ。これから私がどう生きて行けば良いか一緒に考えてちょうだいよ。
「僕を忘れて」
ㅤ無理を言わないで、そんな冗談が面白いと思って言っているの。ぜんぜん笑えないよ。
「僕が数を言うから、ゼロになったら君は僕のことを忘れてよ」
ㅤ有無を言わさず早々と君は立ち上がって深く息を吸った。一度すべてを吐いて、また息を大きく吸う。深呼吸だ。手と息が震えていて、何かしらの恐怖が君にもあると知った。ねえ、ちょっとはやいんじゃないの。まだ話したいことがとてもあるというのに。
物事には全て、終わりがあって、永遠がある
ㅤ私には夢がある。すごく大きな夢で、叶えるためならどんな事でもできると言える。もしかしたらどこかの誰かは小さいねって笑うかも。
ㅤとある森に、嫌われ者でひとりぼっちのきつねがいた。人相が悪くてその森で起こる悪い出来事はすべてそのきつねのせいにされていたらしい。しかしとある日、嵐が来て森が荒れて倒れてきた大木に巻き込まれそうになったリスが死を覚悟した瞬間、きつねが影から飛んできてリスさんを救って、代わりに大木につぶされちゃったんだって、ぐしゃって。リスはきつねに救われたことに気がつけないまま、こわくてその場から逃げ出して、きつねは死んじゃったの。
ㅤ小さい頃に読んだ小さな物語の話だ。本当の優しさというものは人の目に見えぬところで善い行いができる、そういうことで、神様はずっと見てくれるから善い行いができる人はいつか報われるらしい。そして時により、恋人や結婚相手が神様になり得ることもあるそう。
ㅤそんな私は報われないままに、夢というものを拗らせて大きく育ってしまった。私の夢は、こんなきつねのように死んだあとも語られるよう神様に見てもらうことだ。生前にどんなにひとりぼっちだったとしても、このきつねのようにどこかで語られるようになりたいのだ。
ㅤ皆の夢が街中で光り始める夏から目を逸らして滴る汗を拭って、どうしたって拭いきれない蒸し暑さをごまかした。それが、最初の罪だったのだと思うの。
ㅤ厚手のパーカーを被ってデニムパンツに足を通すと、見事なまでに季節外れなその格好で外に出た。夏と言ったらそれだけでワクワクするけれど、実際のところ夏が楽しいのは最初の一カ月だけだ。
ㅤただ、暑くて長いお休みシーズンに世界が包まれて、皮膚が焼けるほど太陽に照らされる、それだけである。世の皆様はそれが好きらしいが、私はちっとも好きじゃないんだ。
ㅤ脳みそと何かが歪んでいくほどどこもかしこも空っぽななにかで満たされていて押しつぶされそうなのに、独りぼっちな感覚が、とても嫌いだった。だから公園に行こうとしたの。
ㅤ植物を観察するのは嫌いじゃないから、少しでもこの独りぼっちを好きになれるように、蒸し暑さを拭いきるフリをしたのだ。
「一体全体、どうしたらこんなに世界が空っぽになるって言うんだ。空っぽな何かに侵されてる」
ㅤ伽藍とした公園にはモンシロチョウの貸し切り状態で、モンシロチョウに失礼するね、と挨拶する。お話相手がこの子しかいないじゃん。
ㅤやれやれとため息をついて、花壇の前にしゃがみ込んだ。横幅二メートルほどの赤レンガで囲われた花壇には、知っている花や知らない花が綺麗に並べてられている。みんなが同じ色ではないけれど重なりあって綺麗に均衡を保っていて、根が弱くて日陰に行ってしまっている子ほど花弁が萎れているけれど綺麗に残っていて、根が強く日光を独り占めしているてっぺんの子は虫に食われて模様ができていた。どこか人間に似ているなと思った。
ㅤこれはラベンダー、これはパンジー?ㅤ端っこに向日葵が咲いている。みんな夏らしい彩度の高い花ばかりで、そう思った矢先、
「この子は、どこの子だ?」
ㅤふと目に行ったのは、花壇の端っこにある向日葵のさらに奥で白く光っている提灯型のなにかだった。これはなんだろう、この子だけ雰囲気がちがう?
「スズラン。本当は5月の花なんだ、造花だけどね」
ㅤ透き通った、雪みたいな、そんな声が後ろからした。
「へえ、すずらん」
「ここで何してるの」
「あ……」
ㅤ近所の好青年が教えてくれたのかと振り向いてみれば、想像以上に生気のない背丈が同じくらいの人が立っていて、ギャップに驚く。白い服を着て肩くらいまで黒髪が無造作に伸びている。
ㅤ声色が変わって、怪しまれてしまったとたじろいだ。そりゃあそうだ、私くらいの人間が一人でこんな季節に花壇を覗き込むなど、花でも毟っているんじゃないかと疑われるだろう。
「植物観察が好きで」
「そっか。近所の子どもたちがここによく遊びに来るんだよね、こわがらせないようにね」
「怪しくてごめんなさい。端っこのすずらんが光ってて綺麗だったからつい、前のめりになっちゃった」
「綺麗でしょ、お気に入りなんだ。僕が植えたの」
ㅤふふ、と花壇の方を見て微笑んだその人はすごく、俯いている花とは裏腹に、根は真っ直ぐ上を向いて凛としているスズランにそっくりだ。生気を感じられぬアンニュイな雰囲気と相反して命の光が、目の奥で輝いているように見える。その人の髪の毛が、そよ風に揺れて太陽に照らされると、きらきら光る。
ㅤなんだか宝物を見つけた気持ちになった。今日から私もお気に入りだ。
ㅤそう思ってしまったのが、二つ目の罪である。
「ねえ、この花の名前は知ってるの」
ㅤ花壇の中でふと目にとまった深い紫色の花が綺麗で、まだあの人がそこにいると思っていた私は自分の背中の向こうに問いかけた。返事がなくて振り返る。
ㅤそこにはもう誰もいなくて、静かにモンシロチョウが公園で空中旅行を楽しんでいた。ひらひらと、ぱたぱたと空っぽな空間を羽で仰ぐ。
ㅤ諦めてしばらく花を眺めて満足した私は、独りぼっちのまま少しの寂しさを手土産に、お昼過ぎ頃帰ったのだ。
ㅤそして明くる日、昨日の出来事を夢でもう一度見た私は同じように公園に向かった。今日は絵を描くためにスケッチブックを片手に持っている。
ㅤ珍しく私に目標がある所為か輝かしい太陽に見向きもせず、太陽によく似たアスファルトから覗くたんぽぽを丁寧に避けて歩いた。鉛筆とスケッチブックがぶつかってガシャガシャと鳴る。私の歩くテンポに合わせて、リズムのよいBGMがついてくる。なんだかこれって、すごく夏みたいだと思った。
ㅤ目的地である公園にはあいにくあの人がいる様子はなくて、公園の外側から花壇を眺めて帰ってしまおうかと少しだけ考える。絵を描くのは口実で、きっとあの人に会うのが目的だったんだろうなとそこでようやく気づいた。
ㅤしかし今日は気分が良かった。遠くからでも光っているのが見えるスズランに、どうせ予定もないしここでスズランの絵でも描いて暇をつぶそう、そんな考えで公園に足を踏み入れた。ここで私は人生で初めてもう夏だ、という気持ちになったのだった。
ㅤ世の人間はどうしてあんなに孤独に強いのか疑問だったけれど今はそこはかとなくだがわかるような気がする。見えない誰かがいるんでしょうね。見えない誰かに、何かに依存しているんでしょう。
ㅤ踏み入れた先の公園という場所は、私の知っているいつもの公園と何かが違った。ここには踏みとどまる理由で満ちている。ブランコ、スズラン、木陰から覗く太陽、日に当たって光る雑草、私を呼んでいるみたいで帰ろうとする足を止める理由だらけだった。
「君は今日も光っているね」
ㅤ微笑むみたいにスズランがゆれる。
ㅤ造花にしてまで飾るのも理解できるような気がするの。こんなに可愛いんだもの。
ㅤスケッチブックを開くと鉛筆をなんとなく走らせ始める。紙とスズランを交互に見て、しばらくすると筆が乗ってきて、私はひとりの世界に入るのだ。姿勢が崩れ、横に流していた前髪も乱れるくらいスケッチブックに前のめりになる。やがて疲れた首に一旦我を思い出して空を眺めて、急に我を忘れて再び紙と向かい合う。草木のさらりさらりと揺蕩う音も鉛筆の芯が削れる音もぼやけて聞こえて、まるで違うどこかの世界のものみたいだ。
ㅤ集中している間は空っぽな世界のことを忘れて、何層かの透明なフィルターでバリアを貼っている気持ちになれるから好きだった。バリアの中には集中しているものしかないのでそれだけを見つめ続ける。フィルターの隙間には世界の破片が散らばっていて、好きなものほど近くの層にあるし嫌いなものほど遠くで挟まっているのに何枚にも重なったフィルター越しにここから見るだけじゃ近いも遠いもわからない。そんな感覚に陥るのが好きだ。
ㅤ集中していない時はフィルターなどなくて好き嫌いがわかるのに、集中した途端に好きも嫌いも関係なく世界を見られて、だからこそ新しい発見ができるのだ。
ㅤそう考え事をしているうちにふとフィルターの何枚目かの音がぼんやりと聞こえてきて、これは何枚目だろうかと顔を上げた。
「上手だね、それ」
ㅤうまく返事ができなくて、黙ってしまった。私がフィルター越しに聞こうとしていた音の正体は、スズランみたいな、そんな人だ。
「いいでしょう、描くの好きなの」
「へえ、すごい集中していたよね。返事がなかったよ」
「なんて言っていたの。絵を描くとそうなっちゃうのよね、たぶん皆もそうよね」
「そうだね」
ㅤその先になにか続く言葉が本当はあったのか息を少しだけ吐いてから諦めたように口を閉ざした。何を言いかけたのかがわからぬまま、その人は少しだけ間隔を空けて隣に座った。
ㅤ夏が始まってからもう一カ月は経っているのに、服から覗く手足がとても白い。このまま透け色になって、いつか消えてしまうんじゃないかと思った。
「よくここにいるの。二日連続ここで会ったけれど」
「ずっと暇だから、気づいたら来ているんだよね」
「私もずっと暇だから、この夏をどう過ごしきるかすごい悩んでいるの」
「わかるよ。小さい頃は楽しかったのに、最近はまるで楽しくないから困った」
ㅤ渇いた笑いをこぼすと、頬の汗を拭った。隣で膝を抱えて座っているだけなのに、気づいたら滲むほどの汗をかいている。
「じゃあ近くに住んでいるんだね」
「結構近所に」
「そういえば、あの紫色の花の名前知っている?」
「あれはムラサキツユクサだよ」
「物知りだね、花に詳しいの」
「ここにある花と、自分の興味ある花についてしか知らないよ」
ㅤ花自体はすぐ枯れるからそんなに好きじゃない。ムラサキツユクサなんて本当にすぐ枯れるけれど、これは花言葉が綺麗で誕生月によく見るから植えてみたんだ。
「あなたの名前を聞いてもいいかしら」
「それはどうだろう」
「何か知られたらいけない名前でもしているの」
「ううん、一般的な名前だよ」
「じゃあ教えてよ」
ㅤええ、と迷っているかのように濁されて私は変な質問をしたのかと思った矢先、じゃあ私の名前はなにかと質問で返される。私の名前だけ知ろうというのだろうか。
「槇山」
「まきやま?どういう字だろう」
「こずえって読めるやつにやまだよ」
ㅤスケッチブックの端っこに槇山と書いて、こう書くんだよと教える。へえそうなんだ、それだけしか言われなくて続きがある様子はない。
ㅤ自分の名前は、それで、なんなの。
「頭文字だけ一緒だよ、僕もまから始まる」
「まえだ」
「ああ」
「当たったかな」
「さあ、どうだろう」
ㅤどうだろうって、どうだろう?ㅤ反応に困って黙っていると、そうだよと笑う。当ててしまった、と私も笑う。
「前田、さん?」
「疑問形じゃん、もしかしてちゃんと名前聞いていなかった?」
「呼び方に迷ったの」
ㅤ好きに呼んでよと前田さんは笑った。あまりにも静かに綺麗な声で笑うから、花壇の花たちが喜んでいるかのように揺れた。
ㅤそうだ、この音は私のフィルターの手前の方のものだ。
ㅤㅤ前田さんは非常に綺麗な人だった。何がかと聞かれると全てだ。無駄に上品な訳ではないが、笑い方や間の取り方にどこか品があって綺麗なのだ。本人はそんなことはないと否定するけれど、人を不快にさせないという意識かなにかがあるのだろうなと思った。
ㅤ手の施されていない黒髪も、ファンデーションが乗っていない白い陶磁器のような肌も触れたら溶けてしまいそうな気がする。どこか儚いのは、どうしてだろうか。目の奥で輝く何かがふとした瞬間に消えてしまえば、前田さんはふっと居なくなってしまいそうだった。
ㅤ私が絵に集中していると隣で黙って地面の雑草を眺めていて、一段落した時に上手だねとかここ細かく描けていて凄いねと褒め始める。そして少しばかり絵の話をしたのちまた絵を描く私と、地面を眺める前田さん。
ㅤきっと私より彼女は足を踏みとどめる理由を多く持っているのだろうなと思う。私はまだまだフィルターがあっても視野が狭いのだ。雑草に目を向ける理由が、これといって私にはないのだから。視界にちらりと緑がうつるだけで、私にとってはただの背景の一部だった。
ㅤ不意に前田さんは立ち上がった。どうしたの、と声をかけるとお腹がすいたと言われたので、私は家でサンドウィッチを作って来ることにした。
「これは野菜とツナで、こっちはハムとチーズ」
「僕に家政婦さんができた。いただきます」
ㅤなんとなく嬉しそうな顔で頬張ってくれて、その額にはやっぱり汗が滲んでいる。もしかしたら前田さんにとって、この世界はサウナくらい暑いのかもしれないとか、汗を少しもかいていない私の腕を見て考える。
ㅤ野菜を挟んだサンドウィッチを食べている所を隣で見ていたら、二口目あたりで前田さんの動きが止まった。
「あら、トマトが嫌いなの」
「好きじゃない。ぐちゃぐちゃしてる」
ㅤあまりにも嫌いなものを差し出された幼稚園児のようなしかめっ面をするものだから食べかけのサンドウィッチからトマトだけ引き抜いて、食べる。トマトが好きなのかと聞かれた。嫌いだ。
「他に嫌いなものはありますか」
「作ってもらったのでちゃんと食べます」
「そっか、前田さんは偉いね」
ㅤ馬鹿にしているのかと怒られた。もうすぐで夏の終わりに差し掛かる頃になる。
**
ㅤその日は豪雨だった。私は一人ぼっちでザアザアと唸る雨と時々光る真っ黒な空、そして時差で地面を打ち付けるかのような轟音を他所に窓ガラスに反射する部屋をぼうっと眺めている。
ㅤあれから連日で公園に行けるほど夏に強くない私は、前田さんに会っていない。たった二回しか会っていないことに驚く程、話が合ってすっかり仲良くなっていた。
ㅤ孤独な私に、神様が微笑んでくれたのかもしれない。というか神様そのものが、前田さんなのだと思う。
ㅤ私ですら気が付かなかった絵の細かい所を彼女はすごくよく褒めてくれて、これが語られる気持ちなのかと実感した。彼女が私の神様なのかもしれないのだと思い込むには早すぎたのだけれど、十八年時を刻んできた中で一番意味のある二日だった、そう私は自信を持って言える。彼女にとっての私は何か意味がある訳ではないとは思っているが、神様は一方通行なのだ。きつねだって、語り手のことを物語中に思い出したことはないし語り手はきつねを救った訳ではない。だからきっと、一方的に語り手がきつねの勇敢な姿を語り継いでいるだけであって実際の語り手にとってもきつねも、きつねにとっての語り手も大して意味のある存在というものではなかったのだろう。
ㅤそんな、狂気の沙汰なほど神様への希望が大きかった私は運命も必然も作れるってことを知らないのだ。
「スズラン大丈夫かな」
ㅤもしかしたら造花でも雨の強さに負けて折れてしまっているかもしれないし、本物の花と一緒で替えはきかない。前田さんと話すきっかけになったスズランは他の造花じゃ成り立たないから、折れてしまうのがとても嫌だった。ゲリラ豪雨の中、きっと傘をさしたら壊れてただの荷物になると思って手ぶらで、パーカーのフードをかぶって家を飛び出した。
ㅤ私の住んでいる小さなアパートの階段を駆け下りてすぐそこの道路に出ると、駐車場がある方の道を真っ直ぐ行って赤い屋根の家を右に曲がったらもう公園だ。アパートを出て目の前には駐車場があって、裏にはベランダとスレスレに古い一軒家が建っている。道路の駐車場側をまっすぐ行くといつもの公園とその奥に進んでいくと大通りがあり、一軒家側に行くと住宅街に迷い込む。入り組んでいて特に用がない限り行くこともないから道が曖昧だが、生憎住宅街に用ができることがなかった。仲の良い知り合いがここら辺にはいないのだ。というより、私には仲の良い人間というものがいない。
ㅤ意味がなかったに等しいフードは数分もすればびしょ濡れになって、むしろ私の視界を悪くする。目に水滴が入りながら赤い屋根の家を急ぎ足で曲がった先で、見えた光景にギョッとした。
ㅤ公園の入り口で、こんな豪雨をものともせず突っ立っている前田さんがいたのだ。空を見上げたままビクともしない。黒髪とだらんと重力のままに肩からぶら下がる手の先から水が滴る。
ㅤ服を見る限り私よりも長く外にいたのだろうにそこから動こうとする様子がまったくなかった。
「前田さん」
「……あれ、なにしてるの」
「こっちのセリフだよ、なにしているの?風邪ひくよ」
ㅤ声をかけるとゆめうつつ、そんな顔でゆっくり振り向いてくれて、目が合う。
「なにがあったのか、聞いたらダメかしら」
「え?」
「私が最近会った時から、今日までの出来事で話せることがあるなら話してよ」
「できない」
「じゃあ、とりあえず家においで」
ㅤそのスズランも持ってね、と彼女の後ろでパーカーに包まれたスズランを指さすとありがとうと覇気のない声が返ってくる。造花なはずのそのスズランには根が生えていて、それを抱えている前田さんの目の奥は光っていなかった。
ㅤサイズが合うかわからない私の服に着替えてもらって心ここに在らずな前田さんの髪を乾かすと、ふと我に返ったのか自分の服装を見て驚いて立ち上がった。
「迷惑かけたねごめん」
「私が好きでやったから迷惑じゃないよ」
「ごめんね、ありがとう」
ㅤどのくらいあそこにいたのか、どうしてあそこにいたのか、気になることがあったけれど聞かない方がいい気がして部屋に飾ってある時計を眺める前田さんを、ただ見つめていた。
ㅤ木造で、玄関を入るとすぐトイレ付きのバスルームが左側にあってまっすぐ行くとキッチン付きの洋室、洋室の隣に和室があるごく普通のアパートだが、父親がいなくなって一人になった私にとっては広すぎたので前田さんがいてくれると、なんだか丁度よい。
ㅤ時計の刻む一定のリズムだけが家に響いて、テレビがないことを悔やんだ。こんな時、余計な音が救ってくれる。
ㅤただ黙っているだけには寂しすぎるし、口を滑らせてしまいそうで話しかけようにも話しかけることができなかった。どうしようか、と悩んでいると彼女は立ち上がってもう帰るよ、とか言い出す。
「今はまだ危ないよ、一緒に私の家にいようね」
「いや、申し訳ないからいいよ」
「家の人が怒るとかあるのかしら」
ㅤピクと眉毛が動いたけれど、ううんそんなことないよと返ってきたので帰ろうとする前田さんの腕にしがみついて無理やり泊まってもらうことにした。だって本当に危ないよ、雷が鳴っているし前田さんも何かがおかしいよ。
ㅤてんで生活感がない私はお茶を出そうにも癖のあるジャスミン茶しか家に無いので代わりにオレンジジュースと、お腹が空いているだろうと思って冷凍のたらこパスタを暖めて前田さんに出した。
「たらこは食べられるかな」
「うん、好きだよ」
「食欲があるなら、食べられそうだったら食べてね」
ㅤ少しだけ考えたあとこれ君が自分のために買ったやつでしょ、君が食べなよと弱々しい笑顔で言われてしまい、ラップのされたたらこパスタが冷蔵庫で眠ることになった。
ㅤそれから前田さんはいつも通りで___どこかいつも通りじゃなくて____、ふとした瞬間に魂が抜けたように天を仰いでいる彼女の隣でただ黙っていることしかできなかった。私がいつも使っているベッドに前田さんを寝かせて、私は父親が使っていた布団を床に敷いて寝た。朝起きたら、前田さんに貸した服がベッドの上に畳んで置いてあって、少しのぬくもりも置き土産にないまま彼女は去っていた。
神様が、挨拶に来たんだ
ㅤ翌週の頭、私はあのスズランの行方が知りたくて公園に向かった。聊か駆け足であの赤い屋根の家を曲がる。この赤い屋根の家は夏期、爽やかな金魚柄の風鈴を庭に飾っているので公園へ行く時は毎回涼しい風鈴の音色を聞き流していた。最近の私の中では、前田さんに会う合図のようになっていたのだった。
ㅤ今日もまた、リィンリィンと近所中を涼しくするその音に心臓がドクンというのだ。まさか会えるとはさすがに思ってはいないが、習慣というものは人間の本能に近い所にある。思考とは裏腹に、心は期待する。
ㅤしかしドクンと鳴った心臓の期待は見事なまでに裏切られてしまい、彼女どころか一輪のスズランさえそこにはもう無かったのだった。スズランが引き抜かれた残骸として、向日葵の足下の土が少し盛り上がっているだけである。
ㅤ袖をまくってわずかな彼女の痕跡をすくってみると、スズランのちぎれた根が埋まっていた。やっぱりあのスズランは、造花じゃなかったのだろうと確信する。一体どうして造花と言っていたのか、騙すつもりがあったのだとしても意図がわからない私はただスズランの根を丁寧に全て取り出して、ハンカチで包んで持ち帰ることしかできなかった。帰り道、時折優しく持ち上げてみると何となく違和感というものがあったけれど、そういえばスズランには毒があるのだったと誰かから聞いた情報を思い出して、触るのをやめた。
ㅤ家へ帰ると、前田さんが畳んだ洋服にも冷蔵庫の冷えたたらこパスタにも手をつけられないままベッドの横の引き出しにスズランを仕舞う。前田さんと過ごした三日が最近の私の原動力だった。
ㅤ大人はきっとたった三日と笑っていただろうし、父と母はされど三日と寄り添っていてくれたような気がする。母は愛を深く知っていた人だったと、物心ついた時から片親の私もよく知るほどに父は母を愛していた。私の母は愛する人のため、苦手だった料理を得意に変え、足が悪いのに目線を合わせたくてヒールを履くような人だったらしい。嬉しそうに、遠くを見つめて話していた父の目線の先にはきっと母がいた。目には見えない母が、父にはずっといたのだろう。
ㅤ年齢に関係なくファッションを楽しむ人で、形見には当時も現代も価値の高いブランドのリップがある。そんな母は私が生まれてすぐに亡くなった。母が亡くなった原因や理由を聞けたことはなかったが、父が時々私の見えない所で母を想って泣いていたことも、いつも左手の薬指につけていた指輪が母のものだったということも知っている。そして、母の旧姓は佐藤であることを知っている。
ㅤ父は去年の春、私一人はしばらく生きていけるほどのお金を私の口座に振り込んだあと自殺した。相続手続きも済ませたら生前看護師だった母の預金も合わせた相当な額が私の手元に残り、あなたは生きなさいと言われたような気持ちだった。しかし私には重たすぎるそのお金は未だに手をつけられたことはなく、遺族年金でさえ毎月半分以上余らせてしまうほどだ。これからの生き方がわからないまま、フラフラとそれとなく生きている。父が死んでからのこの一年、未成年であってももう十八歳というプレッシャーと突然親がいなくなってしまった現実に参ってしまって、人生の目的も死ぬまでにやりたいことも特に作れないままなのだ。私はこの夏、いよいよ十八になった。
ㅤ父の死んだ理由は主に私で、母に似てきた私を見るのが苦痛という言葉が遺書に残されている。父の字で見る苦痛の文字が頭にこびりついて離れなくなった。
ㅤふと目に向けた時計は私が小学三年生時に夏休みの宿題で自由研究として作ったものである。時計の手作りキッドで木の枠組み等々部品はあったので、父と一緒に海に行った時に拾った貝殻を周りに貼り付けてなんちゃって手作り時計を見せると大喜びして、ずっと飾っていた。日が経つと貝殻が剥がれて落ちてくるので、また海に行って貝殻を拾って貼り直す。それを何年も繰り返して、何度も接着剤で付けたきたボロボロな時計は父との思い出が詰まっていて苦しかった。
ㅤ針は十二時を指している。こんなに意気消沈としているのにまだ、昼過ぎである。
ㅤねえ前田さん、私は豪雨の日あなたが何を抱えていたのか知らないのよ。ねえ前田さん、私には何も言わなくてもいいし何でも言っていいのよ。ねえ、前田さん。
ㅤ不気味なほど雲のない青一面な空に、指でスズランを描くと太陽が私を睨んだ。今日は睨まれる側だ、太陽燦々と直射日光で攻撃をしてくる。窓から身を乗り出して、健康的な朝に健康的な外の空気を目一杯吸い込む。
ㅤ雲の一つもない空、前田さんはこの気味が悪いほど元気な夏に侵されて、草臥れてしまってはいないのだろうか。彼女はこの太陽からちゃんと元気をもらえているのだろうか。
ㅤたらこパスタは冷凍室へと移動になった。畳まれた服は少しも崩すことなく窓際の棚に置いてある。日当たりが良いから、今日みたいな日にこの子たちは太陽のぽかぽかとした匂いに包まれて一日を終わる。
ㅤ前田さんと正反対な太陽が、皮肉にも私の救いだ。
ㅤ早朝から囀る小鳥、ゴミ出しをする近所のおばさんや出勤中のサラリーマンの雑音を聞き流してシャワーを浴びた。髪を乾かしてカジュアルな格好に着替えると、軽い足取りで家を出て赤い屋根の家を通り過ぎる。今日は大通りにある小洒落た喫茶店に用があるのだ。
ㅤ一人でその喫茶店のドアベルを鳴らすと窓際の席に案内される。木製のブラインドの隙間からさす乾麺のような日差しがテーブルを照らしていて、小さな頃に憧れていたウッド調の内装で柔らかな音楽が流れるこの雰囲気に目を瞑った。鼻をかすめる木の香りと珈琲の香りが混ざった匂いが大人になった気分になれて好きだ。
ㅤ今日の用事というのは、特に決まっていた訳じゃない。気分転換がしたくて、遠出をする気にもなれなかったのでちょうど近くにあった此処に足を運んだのだ。前田さんのことばかり考えてしまう私も、割り切って自分のこれからに集中しなくては、というのは彼女と出会う前からもう考えていたことで、それが実行できないままにフラフラと外を出歩いていたのがあの、スズランを見つけた日だった。
ㅤ自立がしたかったので、有り余っているお金には手をつけないまま時々バイトをしてお金を稼ぐことに慣れようとしていたものの、あまりピンと来なかった。お金を稼ぐことが大人になるっていうことなの。
ㅤ仲の良い人間ができないままこの歳になってしまったものだから、こういう時に相談できる相手もいない。ソーシャルネットワークサービスにて同年代の子について調べてみたけれど、この歳で両親を失っている子なんてものは早々いないし、いたとしても私生活について公開することがまずなかった。
ㅤ私には、見えない誰かが必要だ。その誰かに当てはまる人がどこにいるっていうのか、わからないのよ。ねえ、神様? ねえ、前田さん。あなたって私の神様なの。
「ホットココアをください」
「かしこまりました」
ㅤ髪を綺麗にひとまとめにした女の店員さんは、さらりと髪を揺らして少々お待ちくださいとお辞儀した。かすかに甘い香水の匂いがして、上品だと思った。用のない後ろ姿を無駄に見つめると入り組んだ店内のどこかに消えていって、魔法使いなのかと疑う。小さいように見えた店内は天井や照明一つ一つに目を向けるとすごく広く感じる。
ㅤこの雰囲気に酔う以外特にすることもなく、手持ち無沙汰で顎のラインで切りそろえたボブカットの髪を指先にくるくる巻き付けていると、ホットココアが間もなくして届いた。白いティーカップに入れられた湯気のたつココアと睨めっこをする。
ㅤ私は猫舌なのだ。試しにティースプーンですくってみるとやっぱり熱そうなので戻した。届いたホットココアにも用がなくなった私は、ぼうっとブラインドの隙間から窓の外を眺める。
ㅤ外の景色はただ、喫茶店の前にある駐車場と大通りを走る車と向こう側にある寂れたヘアサロンだけである。その彩度の低い景色に集中していると、ぼやけた怒鳴り声がどこかで聞こえた。どこだろうと頭で考えているとすぐ近くでガシャン!という激しく金属がぶつかる音が聞こえてはっと我に返った私は音の方を見る。
ㅤフィルターのすごく遠くの音だ、これは。揉め事、っていうやつだ。
「せっかくの木の匂いが台無しじゃあないか!ㅤどうしてくれるんだ」
「申し訳ございません」
「いいからその甘ったるい香水の匂いをどうにかしてくれ」
ㅤ怒り狂った男の人が近くの席で先程の店員さんに香水についての文句を言っていて、彼女は申し訳なさそうに俯いてずっと謝っていた。彼は右手際にあったお冷を手に取ると、彼女に頭から水をかけ始める。三十代半ばといったところだろう、大声で怒鳴るなんてせっかくの喫茶店が台無しじゃあないか! どうしてくれるんだ。大人気ない人ね。
ㅤ心の中で彼に水をかけるイメージトレーニングをしたのち、おしぼりを片手に立ち上がって、店員さんの所へ駆け寄る。何だい君は、と睨んでくる男の人は達磨かなにかなのだろうか。赤鬼なのだろうか、顔を真っ赤にして眉を寄せている。
ㅤおしぼりで店員さんの顔と髪を軽く拭うと私にも申し訳なさそうに俯き始めてしまうので、私はあの赤鬼とは違いますよと耳打ちした。はあ、と困惑している彼女の落ちかけのファンデーションをおしぼりで拭き取る。
「すみません、どうかされましたか」
「彼がこの人にお水をかけ始めたので、風邪をひかないように今日は上がらせてあげてください」
「はあ」
ㅤ駆けつけた別の店員に説明をすると、クエスチョンマークを浮かべているような顔をされて、一件落着だなと冷えたホットココアを二口で飲み切るとお会計をした。今日の用事はもう、終えた気分だった。
ㅤ喫茶店がある歩道側には他にコンビニエンスストア、薬局、飲食店が並んでいてその反対側には寂れたヘアサロンと保育園、家電量販店や花屋に大きなスーパーなどがある。喫茶店から見て左に行くと別の大通りにぶつかり、そこの交差点の横には小さな公園と神社がある。神社の裏には図書館もあって、暇な時は図書館で本を借りて公園で読んでいた。夜、一人でご飯を食べるのが嫌な日は神社の賽銭箱の前でおにぎりを食べていた。決まって黒い小太りの野良猫が寄ってくるので、毎回猫の餌の缶詰を持っていっている。
ㅤ喫茶店から出て車通りが激しい大通りを渡ると、寂れたヘアサロンとその隣にある保育園の間を抜けてあのスズランの公園の道に出る。大通りの少し外を行けばもう、住宅地だらけだ。
ㅤ数十メートルすると園名看板が見えて来て、公園はすぐそこだった。不意に、足をとめる。意図的になのか、思わずなのか曖昧なラインだ。
ㅤ目の前に見えるのは道路から公園を眺める、黒い髪を短く切って爽やかな表情をしている神様だった。元気そうなその顔を、じいっと見つめる。
ㅤ偶然が三回重なったらそれは運命なのだと聞いたことがあるの。私たち、運命だね。
「前田さん」
「あ……」
「なにしているの」
ㅤまずい、とでも言いたげな顔でこちらを見ると早足で逃げていって赤い屋根がある道に曲がった。考えるより先に体が動いて同じ道を曲がると、すぐそこで立っていた前田さんにびっくりして立ち止まる。リインと、風鈴の涼しい音が耳を抜ける。
ㅤ走る準備をしていなかったせいで足の力が抜けてしまい、ガクンとその場に座り込んだ。前田さんはただ、私を無表情で見下ろしているだけだった。
「どうして逃げるの」
「もう逃げてないよ」
「最初は逃げてた」
「立てる?ㅤ僕の所為で転んだよね、これ」
ㅤ立たせる気はあんまりなさそうな、差し伸べられた手を掴むとほぼ自力で立ち上がる。また逃げられてしまいそうな気がして、前田さんのその左手を離さなかった。
「もう逃げないよ、君から逃げる理由もないし。ところで、僕に聞きたいこととかある?」
「どうして」
「この間の今日で、何もありませんって言う方が無理があるよね。ごめんね」
「じゃあまず、一個いいかしら」
ㅤうん、何?と私の目を見る前田さんの目を私も見返す。
「どうして私の名前、呼ばないの」
ㅤ予想もしていなかったのか、目を見開いて何かを考え始めてそのまま黙ってしまった。彼女の黒髪を風が通り抜けて、短くなった髪もよく似合ってるなと思った。
ㅤそれより一旦、僕の家においでと言われて前田さんがすぐそこの赤い屋根の家の玄関の方に歩いていって、まさかと思った矢先ここが僕の家だよと彼女は笑って、玄関の扉を開けた。こんな偶然があるのか、それとも運命なのか。運命にしてもできすぎているし、やっぱり前田さんは私の神様なのね。
ㅤ中に入るとそこには落ち着いたジャスミンの香りが漂っていて、玄関を入ってすぐ目の前にある階段を登って右にある部屋に案内された。
ㅤ彼女の部屋かと思ったけれど、カーテンも家具もない空間が狭く広がっているその光景に、彼女の部屋ではないことを願った。
ㅤ押し入れから折りたたみ式の机を取り出して部屋の真ん中に置くと、少し待っていてねと前田さんは階段を降りていく。温かいジャスミン茶を持ってきてくれて、机に二つコップを置いて私の隣に三角座りをした。
「それで、何か聞きたいことがないんだっけ。あるんだっけ」
「名前、呼んでくれないの」
「苗字で呼ぶのは気が引けたんだよね」
「ミコって呼んで」
「ミコ?ㅤ可愛い名前」
「前田さんの下の名前は、なあに」
ㅤ僕は……とまるで何か後ろめたいことでもあるかのように躊躇う。
「カオル」
「躊躇しなくて大丈夫なくらい綺麗な名前だよ?」
「ありがとう」
ㅤ前田さんもとい、カオルさんはぎこちない顔で笑った。それが照れ隠しじゃなくて別のものに思えて、けれど私は踏み込んだ質問をする勇気がなくて口を噤む。
ㅤその時の私は既に、カオルさんと一緒にいたいなら知ってはいけないことがあるのだと、うっすらと感じていた。
「あの日から様子が変わったように感じるのだけれど、何があったの?」
「何がって言われると……あの日だけの話じゃないから少し難しいな。長くなるんだ」
ㅤそれでもいいよ、と言ってただ目を見つめていると、ふうと息を吐いて話し始めた。ただその話に耳を傾けて、時々息を詰まらせてしまうカオルさんの左手を握ったりジャスミン茶を飲ませたりした。カオルさんの飼い犬らしいあんずちゃんが挨拶をしに来て、いつの間にか彼女は出会った時のような笑顔になっていた。
「親っていうものは、すごく無責任な時があるよね」
「でも、僕の母さんも色々あったからそれを考えたら母さんだけが悪いって言いきれないんだよね」
「それでも、カオルさんは娘でしょう。お母さんが娘にそう思わせていいものではない気がするの」
と、怒った私は言葉にも救う力があると信じて疑わず、行動に移せない若さと弱さに気づかなかった。子供だったのだ。そして、子供ながらにカオルさんが大切な気持ちだけは大人と変わりがなかった。
ㅤ悲しいことに、親に養われる歳である子供にも中身が成長していないという意味の子供にも、救えるものも力も限りがあり、またそれは無力に等しいのだ。
ㅤ味方でいてくれてありがとう、というカオルさんの応えに先程まで奮闘していた私の熱が冷めていくのがわかった。私は力になれないのだ。
**
ㅤああ、どうしよう。僕の頭はその、どうしようって気持ちでいっぱいだった。ねえ、どうしたらいいの。
ㅤとりあえず血で汚れた手を服で拭うと愛犬のあんずがクウンと鳴いて寄ってきた。僕の手の匂いを嗅いだあと、目の前で倒れ込んでいる母さんを見つめて首を傾げる。犬に、人の死がわかるのか。
ㅤ母さんのげっそりした体を引きずって風呂場まで運ぶと熱いシャワーで自分と母さんに着いている血を洗い流した。薬の副作用と癌の影響で、母さんはすっかり痩せ細っていて辛うじて運びやすかった。手は震えていたけれど、怖さはなかった。
ㅤ僕の家の周りは老人だらけな上に近所付き合いが悪い母さんが数日いなくても不審がる者はいないし、僕の母さんには親戚がいなかった。死んだ父さんは頭がおかしくて、そんな父さんと結婚した母さんを助けようとする人間なんていない。
ㅤ第一僕も、数日もしない内に死んでしまうつもりだ。
ㅤふと母さんの寝顔を死んだような顔で眺めていると玄関から物音がして、亮一が塾から帰って来たのかと焦る。そうだった、この家には僕の弟がいるんだ。
ㅤいつも通り塾で疲れた亮一は、シャワーを浴びにお風呂場に来てしまう。
「なに、これ」
「あ、りょういち」
「母さん?」
ㅤもし弟が通報して僕が捕まったら?ㅤ僕は生きなくちゃならないのだ。それはまずいと思ったし、本当にまずくて僕を焦らせた。
ㅤ怯えたようにこちらを見ている亮一に覆い被さると、暴れ出すので近くにあった浴槽洗剤の大きな箱で頭を殴る。唸っている所を何度も何度も頭に、顔に凶器を振りかざして大人しくなってきた頃に、亮一の首をひと思いにギュウと絞めた。ギチというほど力を込めて、泡を吹いて首に血管を浮かせる亮一の訴えなんて僕には届かなかった。完璧に亮一の手から力が抜けたのを確認してから僕は、二人の手足をガムテープで縛ると水をなみなみと溜めた浴槽に沈めて風呂蓋をして、雑誌や本を詰めたダンボールをその上に乗せた。二人の息の根を止められていないことが怖かった。
ㅤ浴槽の血を洗って亮一を襲った時に散らかった物も片づけると、薬局で芳香剤を買って家中に置く。お風呂場の窓と扉にはガムテープを貼って、できる限り匂いが漏れないようにした。僕が死ねなかった時のために、時間を稼ぎたいのだ。
ㅤひとまず僕の家に人を呼んでも問題がなさそうになってからようやく、自分が何をしたかがわかってその日はあまり眠れなかった。
ㅤ朝、母さんの動き出す音で目が覚める。弟は既に起きてゲームをしていて、時々悔しそうに声をあげる。この家では基本的に自分が一番、起きるのが遅い。
ㅤ起きるにせよ寝るにせよ、特にすることもなくてぼうっと窓の外を眺めて、今日も公園に行こうかなんて考えていた。黒髪のボブカットを揺らして僕を見つめる、宛らスズランのような彼女に会えないか、少しだけ考えた。
ㅤところが、覇気のない薫ちゃん、という母さんの呼ぶ声が聞こえて、のそりと眠気の取れない体を無理やり動かして起き上がる。リビングへ行くと、深刻そうな顔をした母さんがルイボスティーを二つ用意して座っていた。
「なあに、母さん」
「あのね薫ちゃん、よく聞いて」
「うん?」
ㅤ母さんの前に促されるまま着くと僕の手を母さんは握って、言う。僕のことを薫って呼びながら。
「槇山さんの娘さんとは、もう会わないでちょうだい」
「……何?」
「私ね、癌が見つかったの。薫ちゃんお願い、どこか自然が綺麗な遠くで、家族三人、私が死ぬまでこの街のことなんて忘れて、幸せに暮らそう?」
ㅤ声が出なかった。僕のことも家族って呼んでくれたことが嬉しかったけれど、同時に僕はこの人がとても被害者ヅラをしていることに気づいてしまったからだった。
「パパを失った私には、薫ちゃんと亮一しかいないの」
ㅤ母さん___飯嶋さん___は、父さんを殺したも同然なのに。
ㅤ激しい豪雨の日のことだった。僕がまだ中学生の時、僕の名前が薫じゃないことを知らされた。
ㅤ学校で住民票が必要な日があって、いつもは母さんが書類を学校に持って行っていたけれど、その日は母さんの体調が悪くて僕が持つことになった。自分の情報について知らないことがあったとはまさか思っていなくて、将来必要な時にある程度どんな書類か、自分は見たことがなかったから確認の為に二重に封筒でしまわれている住民票を取り出す。
ㅤ世帯主と住所と、母さんの名前に生年月日、その下は僕の____?
「あれ」
ㅤ見間違えかと思った。見たことない名前が書かれていたから、どこかの家と取り違えてしまったんじゃないのかと考える。でも、母さんの名前も弟の名前も生年月日も書いてあるし、僕の所も名前以外の情報は僕と一致する。
ㅤ見たことない綺麗な漢字が二つ並んで、読み方まで丁寧にふりがなで書いてあって、混乱した僕は急いで家へ帰ると母さんを呼んだ。
「何?」
ㅤ封筒から取り出された住民票を片手に持っていることに気づいて、母さんはしまった、という顔をした。ねえ、なにその反応。
「時期、気づかれるって知っていたし隠していたって仕方ないとわかってはいたんだけれど」
「僕の名前、なにこれ」
「とりあえずゆっくりお話しましょう」
ㅤ先程まで居た外は、ザアザアと激しく強い雨が降って真っ暗になっていた。ルイボスティーを入れて優雅に飲む母さんと、まだ話そうとはしない母さんをただ見つめるだけの僕の間を、時計の針の音が抜けていく。
ㅤ豪雨の音が窓越しに聞こえて、外は大変だなあと思った。
「近所に、槇山って名前の子がいるのよ。知っているかしら」
「すぐそこの家でしょ」
「そう。あそこの家と実は色々あったの」
どこまで話すべきかしら、と悩んでまたルイボスティーを一口飲むと、意を決したように僕に向き合った。
ㅤ薫ちゃんは私と血が繋がっていないって、そういうドラマとかを見て思ったことはない?ㅤそうよね、ないよね。実は血が繋がっていませんって言われたら、あなたはどう思うかと考えたら一度も言えたことがなかったんだけれど。槇山さんとこのお母さんとあなたは、血が繋がっていたのよ。お父さんとあの人の間に生まれたのがあなたで、私と結婚する前お父さんはあの人と仲が良かったから、二人である日心中してしまって、残されたあなたを私が引き取ったの。薫は偽名で、あなたを自分の子供として育てたくて新しい名前をつけたわ。ああ意味?特にないのよ、焼け死んだ両親が可哀想だから薫ってつけただけよ。それでね、話を聞いていて気づいたかもしれないけれど……こら、あんずちゃん。テーブルの上には乗っちゃダメっていつも言っているでしょうよ。ああそれで、槇山さんとこの娘さんは、あなたの、妹って言えるのかしらね。血は繋がっているけれど一緒に住んでいないし、赤の他人も同然よね。美虹ちゃんっていって、あなたの一個下だったかしら。一緒に住んでいる亮一とは血が繋がっていなくて、よその子とは血が繋がっているって不思議な話だよね。美虹ちゃんはあなたのお母さんと、別のお父さんとの間に生まれた子だから詳しく言えば異父兄弟なのだけれど。あなたの名前、綺麗な字でしょう。希望のある空でノアって読むのよ、美しいに虹の美虹ちゃんと似ているでしょう。
ㅤ一通り話して微笑む母さんは、これからも私をお母さんと思って暮らして欲しいの、と僕の目を見て言った。突然のことに理解が追いついていない僕はそれを呑み込むしかなくて、自室に戻るとベッドに寝転んで、天井をじいと見つめる。天井の模様が変形して顔になり、僕を嘲笑った。瞬きをすると、顔は消えた。
ㅤまさか、疑いもしなかったけれど、そういえば僕の個人情報が載った書類は厳重中の厳重に管理していたし、そういえば病院も塾も亮一は行けているのに僕だけ行かせることを躊躇っていたし、そういえば母さんはどこかよそよそしかった。しかし、親を母さん以外に知らない僕は疑う余地もなかったのだ。宛ら洗脳だ。
ㅤその日聞かされた大きなカミングアウトは僕の胸にずっしりとのしかかり、ノアという聞き慣れない名前を時々母さんは呼ぶようになった。が、それだけではなかった。
ㅤ父さんの部屋は現在物置として使われているのだが、僕は好奇心で母さんを置いて死んだ父さんについて知りたくて、こっそり物置に入ると棚や詰まれたダンボールを物色し始めた。
ㅤ父さんについて今まで知ろうともしてこなかったけれど、まだ隠されていることがある気がする。だって、僕と妹なはずのミコさん?にこんな綺麗な名前をつけるお母さんとお父さんがそんなに自分勝手で僕たちを置いて行くっていうのか。薫よりよっぽどマシでよっぽど綺麗だ、ノアなんて。
ㅤ一つのくたびれたダンボールを開けると、前田翔平と書かれている日記帳や古臭い学校の卒業アルバムが出てきて、これは父さんの遺品だと確信した。父さんの顔は亮一にそっくりで、彼らは親子なのだと理解する。
ㅤ卒業アルバムや日記帳、カビの匂いがする小説を取り出すと一番下に、癖のある字で遺書と書かれた白い四つ折りの紙が潰れて出てきて、ギョッとする。父さんと言えどほぼ赤の他人の遺書を、僕に見る権利があるのか。シワができているその四つ折りの紙を開かずにマジマジと見ていると希空という文字が透けて見えて、後ろめたさを感じつつ開いた。
「父さんは死ぬつもりなんかないんだが、参ったことに美希さんがヒステリックを起こしていて、俺はもうじき殺される。これを愛する希空が見ているのなら、俺は誠心誠意謝罪をしたい。こんな環境に生んでしまって本当に申し訳なかった。父さんが死んだ時、これを見ることになるんだろう。無責任に死んでしまったことが本当に悔しいし、これを読んでどう思うかわからない愛する娘を抱きしめてやれないことが情けなく思う、……」
ㅤかすれたインクに癖のある字で書かれていて、その先は何文字かただ紙をなぞっただけの跡があった。インクが切れたんだろう、久しぶりに僕は涙を流した。よく知らない僕の父さんを、なぜかよく知っている人だと思って、その癖のある字を懐かしいと思った。日記帳を漁ると僕がよく愛されていたこと、母さんと結婚する前は美希さんと付き合っていたこと、突然父さんが母さんとの結婚したこと、美希さんは僕とミコさんの実のお母さんであることがわかって、布団に蹲って静かに泣いていた。
--------娘の名前はノアに決めた。俺の自慢の娘だから、希望に満ち溢れた魂と空のように広い心を希って希空だ。
--------美希さんは入院中、スズランの花を飾って欲しいとお願いをしてくるので週に一回俺はスズランを届けている。スズランに見守られて生まれてきた子はスズランのように美しく育つだろうと言っていた。
--------生まれてきた我が娘と今日、初めて対面した。俺は不器用なもので子供をあやすのが下手だし、顔は怖いし、そして子供は俺の顔を見て泣くので苦手だったが、娘は俺の人差し指を小さな手で包んで笑った。天使のようで、抱き上げながら俺が泣いてしまった。幸せが形になって現れたのは初めてで、今日もこれを書きながら泣いてしまいそうになっている。
ㅤその日記は「飯嶋さんと結婚することになった」という淡々とした一言を最後に終わっていた。
「僕の実の妹なのに、関わったら駄目なの」
「薫ちゃんもパパみたいに、槇山さんを選ぶのね。置いていかないでちょうだいよ」
ㅤどうして皆槇山さんを、と顔を覆って泣き出す母さんを突き放すことができなくて家を飛び出た。母さんは、飯嶋さんは僕と血が繋がっていなくて、ずっと嘘をついていて、名前すら教えてくれなくて、今も被害者ヅラをしている。でもここまで育ててくれたのは母さんだし、僕が母さんと思って生きるのもこれから先あの人だけなのだ。本名が希空だとしても、僕は母さんにとっては薫だ。僕は、どうしたらいいんだろう。
ㅤいつの間にかあの日のような豪雨の中、僕は公園で立ち尽くしていた。
バアカ、それは夢だよ
ㅤ僕は君のことを知っているのに、君は僕をよく知らないよね。でも、それでいいんだ。どうせ僕はもうじき死ぬんだから僕をよく知らないまま君だけ、大人たちの希望ってやつが詰まった空に浮かぶ虹のように、強かに生きて欲しいって、自分勝手か。
「カオルさんのお母さんは、こんなに綺麗なカオルさんを大切に育てられないの」
ㅤ僕はとりあえずミコちゃんに、母さんが今までよそよそしかったけれど癌が見つかって遠くで暮らしたいと言われたことだけ伝えた。話している間、嘘をついていることが後ろめたくて詰まると手を優しく包まれて、罪悪感でおかしくなりそうだった。
ㅤ黒髪を揺らしてうん、と頷いて僕の目を見るこの子は本当に、僕の好きなスズランによく似ている。純粋そのものだった。
ㅤ純粋そのものな君は僕が母さんを刺した右手を、亮一の首を絞めたこの手をどうか握らないで欲しかった。
「ミコちゃんは今日何していたの」
「今日?ㅤねえ、何だろうな。わからないや」
ㅤ喫茶店でホットココアを飲んで、びしょ濡れになった綺麗なお姉さんをおしぼりで拭いたよ。
ㅤへらりと笑って、こっちを見る。
「ねえところで、カオルさん」
「どうしたの」
「いつになったら血が繋がっている話、してくれるの」
ㅤ美虹ちゃんは笑っていて、目の奥が悲しそうに揺れた。
***
ㅤその美しさが偽物でもいいから、造花のように永遠であって欲しいと願った。
三月十日 お腹の子の性別が女の子とわかって、私は嬉しくてピンク色の赤ちゃん服を早速買いに行ってしまった。どのような顔をして生まれてきてくれるんだろう、この子は私の幸せそのものだ。私の大好きなスズランのように、美しく育ちますように。
三月二十五日 翔平さんは私のお腹をさすって、愛おしそうに微笑んだ。彼の不器用な所も、こういったふとした瞬間の素の優しさも愛してる。彼との子供を産めるのが幸せで仕方ないの。飾っているスズランが私を見守るように揺れている。
五月十一日 膨らんだお腹に、私の子供が育ってきているのが実感できる。私はようやく、翔平さんとの子供を産めるの。この目で顔を見る日が待ち遠しいわ。翔平さんが戸惑いながらもお腹に話しかけているのが、愛おしい。
七月七日 この子はもうじき生まれるだろう。腰周りが痛くて辛いけれど、愛する娘の顔が見れるの。こんなんでへこたれないわ。ああ、でも翔平さんの顔が見たい。翔平さんは最近、困ったことに私に隠し事をしているのよ。
七月二十四日 娘が生まれた。汗だくで地獄のような時間を越えて震えた手で抱き上げると感動で泣いてしまって、翔平さんも同じように希空を抱き上げて泣いていたの。日記帳を持ってきてもらったのに、わくわくした気持ちをすぐに文字にしてしまうのが勿体なくて筆が進まないわ。
八月十三日 翔平さんは飯嶋さんと結婚した。ずっと前から考えていたことだから悪く思わないで欲しいと泣きながら説明する翔平さんを、誰が責めるっていうのよ。どうして、私に子供だけ残して貴方は、あの赤い屋根の家に消えていったの。
八月三十一日 私は翔平さんのいないまま、どうこの子を育てていこう。この子に父がいないことの方が苦しいわ。この子にとって父の代わりとなる誰か、私は翔平さんじゃなきゃ駄目だけれど、この子ために誰か父となってくれる人はいないのだろうか。翔平さんは、何をしているの?
十月九日 希空が泣いている。そうだよね、私のお腹の中で守られていたのに突然広い世界に生まれてきて不安だよね。小さな指が簡単に壊れてしまいそうだ。私が守らなくてはいけない。
十月二十日 希空が元気になってきて、手足をばたばたと泳がせている。天使のような笑みを浮かべて私を見つめる。愛おしい。最近穏やかにこの子を見られるのは、悟さんのおかげだ。
七月十五日 久しぶりに日記を開いた。じきに娘が産まれると思ったら希空が生まれる時に書いていた日記を思い出して開いてみたけれど、翔平さんを思い出して少し苦しいわ。今度生まれる子は美虹って名前にしようと思っているの。希空と美虹の名前を一つずつ取ると私の名前になるように、二人で一つという意味を込めて。悟さんが飾ってくれたスズランの花言葉は、再び幸せが訪れる。今の私にピッタリだわ。
八月二日 病院を抜け出した。もう私は限界だ。見たくもない光景を見てしまった、あの女も同じ時期に出産していた。許せないのは、あの女は翔平さんの子を抱いて幸せそうな顔をしていたのだ。翔平さんを奪って彼女だけ幸せになるつもりなのだ。このあと私は、翔平さんと二人で会おうと思っている。昨日生まれたばかりの美虹を私は置いてきてしまった。不安でいっぱいだろうに、私も不安でいっぱいでどうもしてあげられない。希空と美虹をどうしよう、置いていってはいけないのに。赤い屋根の家が、許せない。
ㅤワインレッドの表紙に厚みのある帳面を開くと、綺麗な字で日記と書かれている。母の日記帳だった。お父さんに、母の日記帳をあすげられていた。
ㅤ母について知りたいことがあったら、見てみたらいい。自分から母の死について語らなかったお父さんは母から直接知りなさい、と遠回しに言っていたんだろう。
ㅤ開くとボールペンで書き殴られた文字が暴力のようで、読み終わった頃にはランニングをしたあとのようなひどい疲労感に襲われた。見覚えのない希空という字に、頭がガンと殴られたような衝撃を受ける。母は、飯嶋さんという人の家のお父さんと無理心中して亡くなったのだった。そして母は、私とは別でもう一人娘を生んでいた。
ㅤ父である槇山悟は母にずっと恋をしていたけれど、母は前田翔平さんに夢中だった。前田翔平さんとの子供を産んだタイミングで突然、前田翔平さんは飯嶋さんと結婚してしまった。ということが日記には書いてあって、父は母に置いてかれたことがショックなのに私をここまで育ててくれたのだ。母も父も、愛に溢れた人なのだ。
ㅤ「スズランのように美しく育ちますように」、その言葉は私がお腹の中にいる時も、もう一人の子がお腹の中にいる時も繰り返し祈られていたもので、まるで呪いだ。もう一人の子は、施設にあずけられたのだろうか。あの赤い屋根の家で育てられたのだろうか。
ㅤその謎は赤い屋根の家に入っていくカオルさんの後ろ姿で解けてしまったのだ。
ㅤ喫茶店に行く前の日の夜、自分の将来と向き合うためにも母の日記帳を読んだのは偶然だったけれど、私たちの出会いは偶然なんかじゃあなかったのね。必然なのだろうけれど、赤い屋根の家に目が惹かれたのもカオルさんがスズランのようで惹かれてしまったのも、ねえ今日だって公園で約束なんかしていなかったのに会えたんだ、これってやっぱり運命なのよ。ねえカオルさん、ねえ神様。ねえ、お姉ちゃん。
「知っていたんだ」
「つい昨日、たまたま知ったの」
「すごい偶然だね」
「偶然が重なると運命なんだって。私たちは、運命なんだよ」
「会えるとは思っていなかったけれど、僕は君に会おうとはしていたよ。運命なの」
「だって私、あなたがスズランのようにと育てられたことを知る前からスズランみたいで、好きだったの」
「僕は、君の方が本当にスズランみたいだなって思う」
「そう思ってくれる前から私はスズランみたいって思ってた。残念、私が先だよ」
「ああ、負けた」
ㅤ力が抜けたように希空は私に寄りかかる。お姉ちゃん、という実感がまるで湧かない。私の名前を呼んでくれなかったのはきっと、すべてを知っていたから呼べなかったのだ。ああ、すべて繋がってしまった。
「ねえ、美虹ちゃん」
「どうしたの、希空」
「呼び捨て?ㅤ僕はちゃん付けしたのに」
「希空ちゃんも希空さんもしっくりこない。それで、どうしたの」
ㅤ僕はもうじき死のうと思っているんだ。
ㅤ私じゃないどこかの誰かへ話しているかのような、誰にも話していないような、独り言みたいに希空が言った。
ㅤじゃあ私も死のうかな、そう言ってみるとそれはダメだよ。君だけは残って欲しい、と私の頬にキスを落とした。そうなんだ、と力の抜けた希空の体を支えて頭を撫でると、最後の懺悔を彼女はした。
ㅤ本当は君と心中しようと思ったけれど、僕と違って君には生きる力があるって思い知ったんだ。私はただ、そう言う目の奥が死んだ希空の髪を撫でるだけだ。私は希空を、救えない。
ㅤぐったりとして肌の色が変色した飯嶋さんの身体を、ホームセンターで買ったノコギリで幾つかに切断する。柔らかいようで切りにくい人間の肉に刃を通すのが少し怖くて希空がやらなくてもいいよと笑った。そんな弱くないよ。
ㅤ希空は彼女の弟を同じようにノコギリで切っていて、私より苦戦している。馬鹿ね、非力め。
ㅤある程度小さくしたら沸騰させたお湯で茹でてからミキサーに少しずつかけて柔らかくしたあと、黒いビニール袋に詰めて少しずつトイレに流す。お風呂を掃除したあと、殺虫、消臭を繰り返ししてできる限り証拠をなくした。
ㅤ希空の弟さんは塾に通っているし、近所で顔も知られているからリスクが高いのでバレるのは時間の問題だった。ひとまず死体をどうにかした私たちは、近くの駅から終点まで電車に乗った。遠い所に行ってしまおう、すぐにバレるのはわかっていても遠い方が安心するのだ。
ㅤ母と父が私に預けたお金だけ持って、二人で夏に似合わない長袖のパーカーを羽織った。
ㅤ見えない神様は、今私の隣で窓の外を眺めている。スズランのように、凛とした横顔で。
ㅤしばらくすると海が見えてきて、終点の駅に着くと二人で肩を並べて電車から降りた。初めて海を見た私がはしゃぐと希空は笑った。希空もはしゃいでいる癖に。
ㅤ駅のすぐそこに広がった海に向かって、私は一直線に走る。希空は少し待っていて、と少しだけ姿を消した。またいなくなるのではないかと不安になっていると、花束を抱えて戻ってきた。
「ちょうどそこに花屋を見つけたんだ、美虹ちゃんにあげるよ」
「ありがとう。とってもうれしい、どうしよう」
ㅤ八月一日。ねえ知らないでしょう、今日は私の誕生日だったの。
まだ私はあの子の夢を見ていたいのよ
**
ㅤ手が震えた君は、私を見下ろして微笑む。数を数えるために君は再び息を吸った。
「五、四、三」
ㅤこの世界でこんなに好きになるのがあなたで良かったって、私はすごく思うのよ。子供な私にとって、あなたは宝物みたいな存在だったの。
「二、」
きっとこれから先もこんなに好きになれる人はいないし、それに、
「いち」
私だけはずっとあなたを忘れないからね。うん、私はずっとあなたのことを、ねえ待って、
「愛しているよ」
ㅤ今までに見たことがないくらいの綺麗な笑顔でそう言って、君は海へ落ちていった。私より先に愛の言葉を吐いて、聞いたことがないような甘い言葉を。隣の空いた私の心に色濃くして笑顔が染みついて、宛ら呪いのようだと思った。
「暑い」
ㅤ透き通った海を目前に、一人ぼっちで座っている。私はこれから先、君のいない誕生日を、夏をどう過ごせばいいのかわならない。
ㅤ七月二十四日、八月一日。君と出会った日と、君とサヨナラをした日。もしかしたら君も同じことを考えてるって、そう思ったの。そう思って、そのまま終わりで、本当のこともわからないままわたしは一生、君のことを忘れない。
ㅤゼロのない君の最後の言葉と包まれた黒色のチューリップに混じった勿忘草のために、君を一生忘れてなんかやらない。
造夏
大丈夫、君の見えない足跡 一文字一文字に気持ちが詰まってるって知っていいよ