伶と九条院の話

伶と九条院の話

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「彁って言葉あるじゃないですか」
 と聞かれて気のない返事をした。それから、ユミカカ、と呟いてみて、少し疲れた。
城戸(きど)さんはあんまり使いませんけど」
 あたしは脚を組もうとしてやめて、まあ、とやっぱりだらしなく云った。
「使いようないし…」
 呟いてから、そんなんインクの無駄遣いだ、とでも返してやればよかったと、一寸(ちょっと)悔いた。
 ファミレスのテーブルを挟んで向かい合う編集者は、ははは、と平坦に笑う。何を可笑(おか)しがられたのかは判らない。彼女は右手に珈琲茶碗を持ったままだ。
「いや…ていうかあれって幽霊漢字だし…」
「でもよく皆さん使うじゃないですか」
 はあ、と溜め息みたいな声が出た。なんだか責められている気分だ。
「字義が判らない漢字だから、まあ、ネットとかではよくネタとして使われてますね」
「ね」と強調される。あたしは多少苛立ってくる。「でも単に伏せ字の代わりみたいなもんですよ」
「そうなんですけど、(ユミカカ)の場合は由来に謎があるじゃないですか」
「謎ね…」
「幽霊漢字って、使用頻度が低いだけのものとか、写し間違いでJISに収録されたものが(ほとん)どじゃないですか。その中で完全に由来が判らないのは彁だけなんですよ」
 やけに詳しい、と訝しんで、あたしは今日ここに呼び出された理由をなんとなく察した。
「なのに使用例はばっちりあるんです」編集者は段々と勢いのついてきた声で続けた。
 あたしはげんなりと、
「聞き及ぶところに依ると或る地方には『彁』と表現する言葉があり。──声に出すと莫迦みたいですね」
 向かいの女性は目を煌めかせた。
「城戸さん、今度の企画、これでお願いします」

 小説を書き始めたのは十三才のときだった。なんと小難しい、しちめんどくさいものに十代の時間を費やしたのか、今のあたしは小説家ではない。自棄のようになって書いた、軽々しい語り口のものが梨の礫だった新人賞を最初の投稿で取ってしまい、外見のこともあって、一時期あたしは文芸誌どころかファッション誌にまで連載を持った。ずっと渾身の力で押していた扉が、実は引く扉だったような気分だった。一年怒濤のように書いて、そのあと二年間、城戸伶という名前は何処にも載らなくなった。
 仕事を下さい、と云って二年ぶりに顔を出した出版社に頼み込むと、映画のノベライズを任された。著者としてあたしの名前が載ったときに、「城戸伶」は風化した。そうだろう、あたしだってそんな書き手を見れば、作家ということにいじましくしがみついているとしか感じない。自作の小説は書かなくなった。
 とにかくなんでもいいから書かせてくれるなら書いた。情報誌の新製品紹介の記事も、コンビニムックの文章書きもした。つまりあたしは、フリーライターというとても曖昧な肩書きを得たのだ。
 二年ほど前、フーディニの映画がきた際に、その紹介記事を書いたあたしは、紙幅を埋めるために二、三の余話のようなものを入れた。編集からは苦い顔をされたけれど、その原稿はそのまま載り、一部では面白がられたようだった。──死後の世界が実在するのなら、自分は霊媒師を通じて二人しか知らない言葉を伝えに戻る、と妻に云い残して死んだ奇術師の映画に、肝心のそのエピソードはなかったが、あたしは好評に押されて好事家狙いのコラムを書かせてもらえるようになった。連載がまとめられて本にもなった。いつしかあたしは、そういう物好きな内容を軽い語り口で取り上げるライターとして定着してしまったのだった。
 向かいの、やたらと語尾を疑問形にする編集者からも、既に何度も企画をもらっている。彼女はもう早速、集めてきたらしい資料や企画書を取り出しながら、
「でも、今回のは今まででいちばん城戸さんにぴったりなテーマだと思うんですよ。城戸さんって、漢字の使い方とか凄くこだわられるじゃないですか」
 はあ、とまた云いそうになって口を噤んだ。
「だけど、何を書けばいいんです」
 こんなことをいつも云う。云っておいて、結局は軽々しい文章で白紙を埋めるのだ。
「取り敢えずあらましと、最初期の使用例とかはここに調べてありますから、あとは本来の意味や読み方についての城戸さんの考察とか」
 初版のみで店頭から消える新書本くらい、自分でも書かれるんじゃないの、と突っかかりたく思い、それは己の頸を絞めることだと気づいて云わない。あたしの存在価値は、軽薄な文章、それだけなのだ。
 企画書には、「仮題」として目もあてられないタイトルが掲げられている。
 それを眺めて、あたしは短く息を零した。
「──弓偏の漢字って、基本的に弓に関連するものらしいけど」
「はい」
(つくり)の『哥』は『歌』の古字だし」
「やっぱりお詳しいですね」
 あたしは苦笑した。
「弓を取って歌うんだから、凱歌かなんかの意味かも」
 どうでもいいことだった。

 それじゃあそんな感じで、と満足そうに頷く編集者とファミレスの前で別れて、あたしはべたつくような秋の霧雨の中をバス停へ歩いた。腰まである髪にロングコート、ロングスカートのいでたちで全身に水分が染み込むようだ。停留所のテントに入り、行ったばかりのバスの時間を睨んでから冷たいベンチに腰を下ろした。じゃらじゃらと安全ピンやらチェーンが仰々しい鞄から、受け取った資料を取り出す。クリップで留められたのを繰っていると、白黒写真のコピーが現れる。死んだ魚のような目があたしを見据えた。
 大礼服に大層な勲章、カイゼル髭の紳士は國松昭太郎という大正から昭和にかけての言語学者で、確認できている限りではこの爺さんの著書が「彁」の最も古い使用例なのだ。というより、冗談半分や聞きかじっての引用でない、唯一の「彁」という文字を実在のものとして扱った例だといえる。「聞き及ぶところに依ると或る地方には「彁」と表現する言葉があり」しかし現代の調査では、そうした事実は発見されなかった。幽霊漢字というのは典拠の不明な、字義も正確な読みも、使用例すら判らない文字のことだが、「彁」に限ってはこの四つめだけは判然としているのだった。それでかえって、爺さんが何処からどうしてこんなものを拾ってきたのか、通俗本の企画として成り立つほどに大きな謎になっているのだった。
 手にしたコピー用紙が段々と湿ってくる。あたしは資料を封筒に戻して、代わりにコートのポケットから携帯を取り出した。
【今度の企画。
 彁。】
 携帯の変換機能でも、「か」と打てば「彁」は出てくる。「ゆみかか」と入れれば変換候補の先頭にくる。簡潔な内容を「九条」に送信した。どうせ二、三日しなければ返信はない。待っているのとは路線の違うバスが滑り込んできて、あたしは思いつきで乗り込んだ。久々に部屋を出たから、適当に町を歩いて帰るつもりだった。
 のだが、あの男は珍しく二時間後にはメールを送り返してきた。しかし内容は相変わらずの定型文で、【店へおいで】と句点すらない。あたしは並んでいた地下鉄の列を抜け出して、雑踏する黴くさいホームを別の乗り場へと移った。
 電車を乗り継いで訪ねると、瀬戸物屋とスナックに挟まれた店は七時過ぎだというのに煌々と明かりが灯っていた。住宅地と商店街との境のような場所だから、余計に目立つ。表の硝子戸の四枚のうち、外の二枚に白く「古書・九条」の文字がある。煌々と云ったがそれは薄暗い屋外にいてそう見えるだけのことで、店内の照明はどれもわざと光量が抑えられている。硝子戸はいつでもぴたりと閉ざされ、埃も一見客も容易には立ち入らせない。一冊五十円のワゴンすらない、左右の壁と中央に据えられた天井まで届く書架が、この因循(いんじゅん)な古書店のすべてだ。
「いらっしゃい」
 硝子戸を引き開けると、呑気な声がそう云って、むっとした。店の奥でカウンターに頬杖を突いた男はにこやかな笑みだ。「いつ振りだっけね、伶君」
 あたしは黙って棚のあいだを抜けて、カウンターに近づいた。
「……二ヶ月ぶり」
 九条院(くじょういん)は円い眼鏡の奥の目を可笑(おか)しそうに細めた。
「元気だったかな」
「死んではいない」カウンターの上の、機械時計の音が耳につく。
「じゃあ、店仕舞いしよう」
 男が立ち上がると、あたしより頭二つ分近く背が高くなる。広げていた本を直すのにやや俯いて、黒い前髪が青白い鼻筋の上で揺れている。やっぱりむっとする。硝子戸に錠を下ろしにいくのと入れ違いに、あたしはカウンターの脇の上がり口から、さっさと奥の居間へ上がり込んだ。
 去年か一昨年か、よく覚えてはいない。あたしはその頃、ただひたすらに知らない町を歩き回っていた。今のような仕事を始めた時期のことだった。独りきりの部屋にいると焦燥や不安が棘になって背を突き破るようで、かといって行かれる場所もない。知らない町にいる自分は知らない自分のような気がする。知っている町には戻りたくなかった。
 棚の上に文化人形が並んでいる玩具(おもちゃ)屋や、和菓子屋、洋品店、半分くらいはシャッターが下りている、そんな商店街をふと折れて、あたしは古書・九条を見つけたのだった。本屋とみると目を惹きつけられる未練がましい習性がまだあった。あたしなどの寄りつける店ではないということは判ったが、なんとなく歩みを(ゆる)めて硝子戸越しに中を覗いた。通路の奥のカウンターに店主らしき人がいて、それが三十才そこそこにしか見えない年齢だったので、一寸(ちょっと)意外に思って視線に重みが加わった。と、それを感じ取ったかのような自然さで、男が顔を上げた。眼鏡をかけた目があたしを捉えて和らいだ。あたしは打ちのめされた。
 そのままじっと見据えられた。あたしは気づけば硝子戸のほうへ足が動いていた。
 中学の頃、港にある画廊で、飾り窓に入った絵を見ていた。中から若い男性店員が出てきて、よければ店内の絵も見ないかと云ってくれた。あたしは驚いて、なんとも云えずに逃げてしまった。中学生に購買力がないことくらい明白だ。だのにそうした親切をしてくれたのが、何年も経ったあとまで心に残った。子供の頃から、あたしは追い込まれるとあてもなく町を彷徨うのだ。
 そのときと、このときは似ていた。というのは、あとになって考えたことだ。だからどうというわけではない。あたしは硝子戸を細く開けて、静かな店内に忍び入った。後ろ手に戸を閉めたときにも店主は何も云わなかった。あたしは気詰まりで棚に目を走らせた。
「なにか気になるものはあるかな」
 しばらくして聞かれた。急に尋ねられたのに、男の声音は空気と馴染んで、あたしを脅かすことがなかった。あ、とか、は、とか云って、あたしは離れたところから店主を見返した。
「別に…買い物にきたんじゃなくて…」
「いいよ、それでも。なにか見たいものはあるかな」
 別に、とまた云った。実際どう答えていいかも判らなかった。ただ警戒心はなかった。戸惑っていただけだった。
「じゃあ、胡蝶本でも見るかい?」
 店主はそう云って、あたしが返事をするより先に立ち上がって奥の居間へ消えた──古い造りの建物で、店舗の後ろがすぐ住居になっているのだ。しばらくしてパラフィン紙に包まれた本を手に戻ってきた。谷崎の「刺青(しせい)」だった。あたしは素直に興味を感じて、カウンターに手をかけてそれを見せてもらった。
 もう片方の手で長い髪を押さえていた。この人はあたしをただの女の子だと思っているのだろうか。解説をするでもなく、またカウンターの中に戻ってじっとしていた。あたしは、ありがとうと云う機会を掴みかねていた。屈ませた頸が痛くなって、(ようや)く口の端をひきつらせて、礼を云おうとした。
 そのとき、「城戸伶さん」と男は何気ないように呼んだ。あたしは喉の奥で悲鳴が息を塞いだ。
「世知辛いね」
 そんなことを九条院は云った。また恐慌の種が躯の(うち)で芽を吹こうとするのを感じた。けれど耐えた。腹立たしさで耐えたのだ。云いがかりみたいなものだった。男が親切にしてくれなかったら、あたしは正体を云いあてられたからといって、こんなにも衝撃を受けはしなかっただろう。まるで全部を肯定して慰めてくれているような口振りまで、苦々しかった。
 この店に、あたしの書いたものなどない。
 そのことで足許が崩れていくようだった。莫迦々々しいことだ。たった一人の古書店主のために。だがそれが真実だと思えた。
 あたしが駈けだしていくこともできずにカウンターの前で突っ立っていると、しばらくして九条院が、何事もなかったかのように(ひる)を食べていかないかと云った。あたしはよばれた。何もかもどうでもよいという気持ちだった。
 九条院はあたしの小説を読んでいた。それも、賞を取る以前に叔父の同人誌に書いたものまで──つまり、あたしの本来の言葉で書いたものまで、知っていたのだった。
「僕は、どんな本でも分け隔てしないで読む主義だからね」
 大した博愛主義者だ。あたしは、どうあってもこの男には心をひらくまいと思った。けれど、今のような仕事をやっていく上では本の博愛主義者は便利だ。だから、あたしは役立ちそうな企画をもらうたびに、事典代わりに九条を利用する。

 居間で脚を投げ出して待っていると、表に戸締まりをして九条院がきた。ご飯食べるでしょ、と独り言を云いながら台所に消えていく。こいつは疑問形の編集者とは逆で、やたら断定的にものを云う傾向がある。野菜の煮物と酢の物と焼き魚という、いつもながら枯れた手料理を振る舞われて、皿が引かれたあとに緑茶を出されて、九条院は急勾配の階段の下にある書庫へ入っていった。古書店主というのは、自分の蔵書が膨れ上がりすぎて、置き場を確保がてら開業する人もいるのらしい。なので気に入らなければ、払った値段と同じ金額で買い戻してくれる店もある。本に人生を吸い取られているのだ。書庫というのは、左右の壁を書架で埋め尽くされた、三畳ほどの小部屋で、あたしは立ち入ったことはない。あの胡蝶本が取り出されてきた場所、そしておそらく、あたしの過去の言葉が仕舞われてある場所だ。九条院が棚を調べるのを、あたしはしばらく眺めて、そして目を逸らした。
 茶器の載った座卓に、ホチキス止めしただけの冊子が置かれた。
「前に見かけてね、面白そうだから買ったんだけど」
 手に取ると、二つ折りになった(ページ)がごわつく。表紙には通し番号の付いた簡素なタイトルだけがある。奇書紹介の同人誌らしい。
 あたしは眉間に皺を寄せて頁を繰る。粗い書籍の写真に、発行年などの情報、内容の解説が味気なく続いている。趣味が極まったという感じだ。奥付まで行き着いてしまう。ウェブサイトのアドレスと、その名称らしい「奇想書架」という文字がある。
 で、とあたしは云った。それらしい本など載っていない。貸してごらん、と九条院は手を差し出す。骨張った長い指が冊子を取るのを、あたしは身構えて見守る。
「ここだよ」
 向かいから、九条院はひらいた頁をあたしに向けて、卓の上へ置いた。読み飛ばした後記の部分だった。そこに「最近祖父が大学時代に参加していた同人誌を見る機会がありました。大体七十年くらい前のものです。創作の他にも、この年に発表された永井荷風の「濹東綺譚」についての評論などが寄稿されています。奇書というのとは違いますが、これも貴重な資料と思って、少しだけ紹介します。ある短篇小説の中には、いわゆる彁の字も見えます──」百合のような、朴訥とした筆遣いの花の絵が一輪だけ描かれた表紙には、右から左に横書きで「夕菅(ゆうすげ)」の題がある。あたしは目を上げて九条院を見た。
濹東綺譚(ぼくとうきたん)が出たのって」
「昭和十二年だね」
 思わず笑ってしまった。「てことは、これが本当なら、一般に云われてる最初の使用例より二年は早いわけだ」
 そうだね、と男は淡々としたものだ。あたしは物足りない。
「で、この書き手の連絡先とかは」
「さあ、そういうのは尋ねないものだから。売ってたのはおとなしそうな男の子だったよ。君よりちょっと下くらいかな」
「若いのにまあ」
「お互い様じゃないの」
「あんたとか?」
 この男の本への博愛は、出版社から商業的に発表されたものに限らない。よくやるものだ。
 そう云ってやると、やっと九条院はくすりと笑った。「面白いものが沢山あるからね。君も覗きにいってみたらどうかな」
 いやだ、と反射的に低い声が出た。あたしは咳払いをする。そんな、書くことに切実な人たちの中へ入っていったら、あたしは打ち殺されても文句は云えない。
 古書店主は仄白い微笑を浮かべている。

 冊子を借りて帰って、お湯を使ったあと、湿った長い髪をくくり上げながら奥付のアドレスをパソコンに打ち込んだ。立ち上がったのはテキストばかりの殺風景なトップページだ。ざっと全体を閲覧したが、管理人のプロフィールや日記のようなものはない。ただ百冊以上もの本の解説が系統立てて、細かいフォントでびっしりと書かれてある。例の同人誌も別に項目を作って紹介されていたが、概観だけで「彁」の字には触れられていなかった。
 これだけの奇書マニアが國松昭太郎の著作を知らないとは思えない。あたしは訝しい気持ちで、メールフォームから「夕菅」について質問したい旨を送信した。五分足らずで返信があった。丁寧な文体で【判る範囲でお答えします。】とある。
 あたしは自分の素性、そしてこれが取材の一環であることを明かしてまた送った。今度は少し間が空いた。心持ちぎこちなく、【自分に判ることなら】と、同じことが繰り返されてあった。いい子なのだろうな、とあたしは思った。
【あなたの本を読みました。質問したいのは「彁」という言葉についてです。ご存じと思いますが、この典拠不明の漢字について、現在確認しうる最も古い使用例は昭和十四年の國松昭太郎博士の著書とされています。しかしあなたのお祖父さんが関わっておられたという「夕菅」という同人誌には、その二年前に既に「彁」の字が使用されています。このことについて、何かお判りのことがあればご教示下さい。】
【城戸伶さま。
 まず、祖父の同人誌「夕菅」が昭和十二年の発行であることは間違いありません。奥付の日付や内容の点からもそうですし、僕自身が祖父から聞いた話でも(当時の年齢など)これは確かです。この雑誌は創刊一号で廃刊になっていて、同人にのちに有名になった方もいませんし、著名人の寄稿もありませんから、おそらく研究者も存在を知らないのではないかと思います。「彁」という文字が使われているのは、井伊眞吉という人の小説です。】
 あたしは検索エンジンに、「彁 井伊眞吉」と打ち込んだ。記憶の通りだ。上がってきたウェブサイトには、問題の國松博士の著書にある「この度の出版に際しては博言学の優秀な学生、井伊眞吉君らの多大なる助力が」云々という序文の文句がはっきりと引用されていた。
【その井伊眞吉という──】まどろっこしくなって、あたしは書きかけた文章を消し、できたら直接話せないだろうかと携帯の番号を載せて送った。反応がなかった。
 酷な頼みだったろうかと気分が沈んだ。文章を書く人の中には、直接的にはまったく喋られないという人も少なくない。書くということは、あらゆるものから切り離されていって、最後に残る自己表現なのだ。撤回のメールを打とうとしたとき、ノートパソコンの横に置いた携帯が鳴った。見知らぬ番号だ。あたしは口許がほころんだ。
〈あの…城戸伶さんでしょうか〉
 声は若い男の子のものだ。十代に特有の、自信のない平坦な響きをしている。ありがとうと云うと、いえ、と少し笑う感じがした。
「早速だけどさ」
〈はい〉
「その、井伊眞吉っていう人の小説って、どういう内容なの?」
〈えっと、恋愛小説です〉
 恋愛小説、とあたしは口の中で呟く。
「……そっか、あ、じゃあ、例のユミカカだけど、使われ方はどういう感じ? なんか前後の文で意味が判ったりしないかな」
〈あ…いえ、今と同じです。主人公が恋人に送る、別れの手紙の中に出てくるんですけど、僕の気持ちは…そう、今と同じで、伏せ字のような使われ方です。意味は判断できません〉
 あたしは唸った。
「そしたら、連絡先とか載ってない? 寄稿した人たちの」
〈ないですね〉
「おじい…さんに話を聞いてみるなんてことは…」
 すると電話の青年は、気まずそうに声を漏らした。
〈その、祖父は去年他界したんです。家を処分するので、片づけているときにこの同人誌は見つけたんです。屋根裏の行李(こうり)の底にあって、僕も話を聞いていただけで、実物を見せてもらったことはなかったんです。それに、僕はおじいちゃん子でしたけど、井伊さんという友達は聞いたことがありません。祖父の葬儀にもきていないと思います。第一、同世代の人だとすると、存命かどうか…。祖父は九十三の大往生でしたから〉
 言葉を返せないでいると、青年が怖ず怖ずと呼びかける。
〈すみません…お役に立てなくて…〉
 ああ、いや、違う違うとあたしは頸を振った。
「凄く役に立ってる。それに、謎解きみたいなことを、どうしてもやんなきゃいけないわけでもないし…」
 口に出してみて、あたしは気づく。あたしに依頼されたのは、新事実を見つけろということではない。周知の情報を軽妙にまとめろということだ。「彁」の本当の意味など、実のところ、誰にとってもどうでもいいのかもしれない。
 青年は有耶無耶に返事をして、それから付け足した。
〈そういえば、祖父は大学時代まで、渥美(あつみ)半島のほうにいたらしいです〉
「渥美?」
 なのに、どうしても突きとめてやろうという気持ちがある。
 自分の衝動に困惑しながらも、あたしはその情報をしっかりと頭に叩き込んだ。
「ねえ、聞いてもいい?」
〈なんでしょうか〉
「君、ユミカカのことくらい当然知ってたと思うけど、自分が持ってる本が凄い新発見だとは考えなかったの」
〈はあ…確かに、発行年が合わないとは思いましたけど、でも何かの間違いかもしれませんし、それに自分が、そんな発見をするなんて思えませんし…〉
 そうだよな、とあたしは心の(うち)で同意する。自分が大層なものになるなどとは信じられない。それはその通りだ。
「ありがと、凄く助かった。また何かあったら連絡してもいい?」
〈はい、僕でよかったら〉
 あたしは笑った。「そうだ、君のことなんて呼んだらいい」
〈あ、あの…ハンドルネームはウッディーっていうんですけど〉
 ウッディーか、じゃあね、と電話を切った。二分後に、この青年はカルト映画愛好家でもあるらしいことを察した。
 ウッディーのウェブサイトを閉じて、晩年の國松博士が名誉教授を務めていた大学のホームページを呼び出した。時刻は午前一時を回っている。
 流石に有名人だけあって、別個にページが設けられていた。ただ大学側は國松昭太郎イコール彁という図式が快くないのらしい。関連する記述は殆どない。それでも、例の本を(あらわ)した時期、博士が豊橋の大学で教鞭を執っていたことは確かめられた。あとは、教え子である井伊眞吉だ。
 だめで元々と、大学のページを閲覧してみたが、一般の学生であった人物について情報があるわけがない。「彁」の字を抜いて「井伊眞吉」で検索してみても同じだ。姓名判断のページしかあたらない。
 もう行き詰まってしまった。つまり、「彁」の確認しうる最も古い使用例は昭和十四年の國松昭太郎の著書だ。ところがその二年前に発行された同人誌に、既に「彁」は使われていた。問題の原稿を書いたのは井伊眞吉という人物だ。この人は博言学(はくげんがく)、つまり今でいう言語学の学生で、國松博士の著作にも関わっていたのらしい。
 頭が混乱してきた。
 なんにしても、井伊眞吉が「彁」の由来に接触しているのは確かだ。この人を見つけ出さなくてはならない。しかし、どうすればいいのか。
 あたしはパソコンの前を離れて、部屋の反対側にあるベッドに転がった。時刻は午前三時にかかる。気が昂ぶっていて、眠りはすぐ間近までやってきてはするりと逃げていく。あたしはぼんやりと途方に暮れた。取り留めもない考えが意識を(ひた)した。幽霊漢字の本当の意味など調べてなんになるのだろう。何故こんなに切実な気持ちがするのか。
 旁の「哥」には兄という意味もある。弓を取る兄、戦友、と連想をして、あたしに仲間と呼べる相手がいたろうかとじっと考えた。懸命に瞼を(つぶ)った。
 日が高くなるまで死んだように眠ると、少しはましな考えが浮かぶようになった。あたしは町中に出て、以前一度だけ覗いたことのある名簿屋を訪ねた。しかし流石に七十年前の、それも渥美半島の資料はない。あたしは失意で雑居ビルを出た。交差点に歩いていく途中で、路上の汚れた電話ボックスをなんとなく目で追った。急に立ち止まったので、後ろを歩いていたサラリーマンが舌打ちをして追い抜いていった。あたしは取って返し、名簿屋で愛知県東部の電話帳を買った。残るは原始的で非効率的な方法だ。
 掲載されているすべての「井伊」姓を拾い上げ、片っ端から電話をかけていった。突然すみません、ご親戚に現在九十才前後の眞吉さんという方はいらっしゃらないでしょうか。三割は「さあいないですね」と妙な大らかさで答え、三割はライターだと名乗った時点で「忙しいもので」と電話を切り、四割は留守電か出なかった。土地柄もあって井伊という苗字は多い。電話帳はラインマーカーの蛍光色に染まっていった。遂に最後の番号までかけてしまった。あたしはテーブルをペンで忙しなく叩き、また初めから四割の番号にかけ直していった。七割はまだ留守か居留守だった。
 そういう作業を三度繰り返した。二回かけてもコールし続けるだけで出なかったある家が、三回めに出た。不意のことであっと声が漏れた。
〈井伊でございますが〉
 相手は老齢の女性のようだった。
 あの、先程もお電話を差し上げたんですが、とあたしは云った。こうするとちゃんと質問を聞いてくれるようになるのを、経験則で学習していた。すいませんね、買い物に出ていましたもので、と女性はおっとりと云う。あたしは用件を伝えた。
〈はあ、おりますが〉
 あまりに淀みなく返されたので、しばらく反応ができなかった。あたしは胡座のまま身を乗り出したので蹌踉(よろ)け、テーブルに強か胸を打ちつけた。
「あの、真実の真に吉兆の吉の眞吉さんなんですが」
〈ええ、わたくしの叔父でございます〉
 息が荒くなった。あたしは丁寧に、その人がかつて書いた文章を見て話を聞きたいと思っていることや、連絡先が判らずに苦心していることなどを説明した。
「それで…ご健在なんでしょうか」
〈はあ、生きております。なんとか〉
 はっきりしない返答だった。
〈豊橋に住んでおりますけれど、なんというか偏屈な(たち)の人ですので、電話帳にも載せていないのでしょうね〉
「ご紹介頂けませんか」
 電話の相手は黙った。それはそうだ。そういうものだ。あたしは云いようのない寂しさを感じた。
 震えた息遣いは電気信号になって、愛知県の何処か右半分に住む井伊眞吉の姪の耳にも届いたのだろうか。長い沈黙のあと、〈いいですよ〉としんみりと相手は云った。
〈けれど、今の叔父がご期待に添えるかどうか〉
 彼女は電話番号を読み上げ始めた。あたしは慌ててマーカーを取り、電話帳の(ページ)一面に〇五三二で始まる番号を書き留めた。礼を云って電話を切ってからも、しばらくぼんやりとそれを見下ろしていた。
 決心してかけた。話し中だった。五分待ってかけ直すと、数コールのあと、女性の声で何十回と聞いた姓を告げられた。
「井伊眞吉さんのお宅でしょうか」
〈そうでございますが〉
 糊の利いたような応対だ。
 あたしは名乗り、姪御さんに紹介してもらったこと、國松博士に関して話を聞きたいと思っていることを語った。
〈そういったお話は、お断りさせて頂きたいのですが〉
 迷いのない拒絶だった。あたしは眉を(ひそ)めて食い下がった。すると、回線の向こうでまた別の声が聞こえた。男性の声だ。初めに出た女性が断って、あちらの電話が(くう)を動く感じがした。
〈すみませんね、僕がお話を伺います〉
 最初に耳に入ったときには判然としなかったが、こうして聞くとまだ若い声だ。井伊眞吉の孫か、下手したら曾孫なんだろうか。あたしはさっきと同じことをもう一度云った。
〈それが、あなたのことはもう知らせて頂いたんです。ライターの方に連絡先を教えてしまったんだけど、大丈夫だろうかって〉
 あたしは自分が怪物になった気がした。
「……そういうことは、(わきま)えています。ただ、お尋ねしたいことがあって」
〈そう仰っても、井伊先生が國松博士に師事していたのは随分前のことですし、珍しいお話があるとも思えませんよ〉
 背筋が強張った。相手の男は妙に自信に溢れている。
〈それに、何かお読みになったそうですけど、先生は文筆業をなさっていたことはありません〉
 あたしは、でも「夕菅」に、と喰いつくように云い返した。男が黙った。痛いところを()いたのだと思った。
「──『夕菅』という七十年前の同人誌に、井伊眞吉さんの寄稿があったんです。お伺いしたいのは、それについてなんです。読み方も判らない、字義も典拠も判らない文字について」
 相手は長いこと口をひらかなかった。それから、やはりおちつき払った静かな声で、
〈調べて、どうなさるんです?〉
 あたしが取材なのだと語る声を遮って、
〈ですから、それを記事になさってどうなるんです〉
 はっきりと悟った。あたしは根本から軽蔑されているのだ。
「記事でなく、文章です」
 押し殺した声で云った。
〈何か違いますか〉
 もう答えることができなかった。
 男は、微かに笑ったようだった。
〈不躾な物云いを失礼しました。ただ、今の先生は余所の方とお話しできる状態ではないんです。申し訳ありませんね〉
 呻き声のような応えをして電話を切った。頬が熱かった。床を睨んでいたら、いつも硝子越しにする幻聴が耳許でした。自分が自分のままでやっていけると信じていた頃、それまでのどの原稿より血を注いだものが一次で落ちた。そのとき代わりに受賞したのは内容があるのかないのか、テーマも何も判らない作品で、納得がいかなかった。それでも傷があるのは確かだったから、丹念につくろって別の出版社に送った。そのときに原稿も読まずに、
「そんな何百倍程度の賞に洩れるようなモノじゃだめですよ」
 そう笑い含みに云われた言葉が耳にこびりついた。数日置いて当の編集者から、もっと文章を平易にして内容も派手に直したら出版してもよいと連絡があった。どうも、あたしのいないうちに電話を寄越して、あたしの本当の年齢を聞き出したのらしかった。まるで先日とは別人の猫なで声だった。あたしは断った。それで別の話を三週間で書き、別の新人賞に送ったら、今のあたしがある。つらいのは、あの編集者の云う通りだったということだ。それでも、どちらの原稿もあたしの血肉であることに変わりはなかった。ただ納得ができなかった。
 文章なのだ。
 電話の男の声で判った。あたしは今の軽々しいものだって自分の文章だと感じている。ただ認められないでいるだけなのだ。
 小さな電子音が響いて振り向いた。いつしか真っ暗になった部屋に半透明の膜がちらちらと浮かんだ。パソコンにメールが届いている。
 九条院かと最初に思った。けれど、あいつは携帯のアドレスしか知らない。机に近づいて、床に膝を突いたまま開封した。送り主はウッディーだった。
【伶さんへ。
 あれから僕のほうでも色々調べてみました。同人誌にはやはりあれ以上の手懸かりはありませんでしたが、祖父の葬儀のあと、家を解体する前に父が祖父の日記を持ち出してきていたことを思い出しました。
 祖父は死ぬ間際まで日記をつけていたんですが、九十四年の二月にそれらしい記録があったので、そのまま送ります。お役に立てばいいのですが。
「十六日 十一時、井伊眞吉君来る。こうして対面するは久方振りの事也。令兄の葬儀帰りとのこと。在りし日に思い馳せ、思い出話に花を咲かす。井伊君、妻子なく、私塾を兼ねし居に独り住まうという。現在は廃業し、晴耕雨読の暮らしと笑う。午には緑風亭よりカレーライス取り寄せ食す。時の過ぎるは早く、井伊君、名残を惜しみつつ去る。我らの春は既に遠き。
 井伊眞吉君住所 愛知県豊橋市×××…
 電話番号〇五三二…」
 祖父の日記は、元々は旧仮名遣いなんです。昔の人って、最後まで古い文字を使っていたんですね。
 ざっと見ただけなのでこれだけしかありません。また何か見つかったら連絡します。】
 あたしは猫のように伸び上がったまま、眩しく光る画面の文字を何度も読んだ。パソコンを引き寄せて返信した。
【気にかけてくれてありがとう。凄く役に立った。
 ところでいつの間にか私を伶さんなどと呼んでいるな。
 それでよし。ウッディーへ。城戸伶】
 青年が知らせてくれた井伊眞吉の住所を、携帯のメモ帳に打ち込んだ。迷った挙げ句、あたしは「九条」にメールした。
【彁の書き手の住所判った。明日会いに行く。】
 しばらく待ったが、返信はなかった。莫迦々々しくなってコンビニに夕食を買いにいき、レジを済ませたところで気がついた。もう十時を過ぎている。あの男はとっくに寝ている。
 あたしは十二時になってから無理矢理にベッドに入った。色々な考えが頭を覆って、眠り込めたのは明け方だった。すぐに電子音で叩き起こされた。霞んだ目に「九条」の文字が映った。
【興味あるから僕も行くよ】
 相変わらず句点も読点もない。あたしはほっとしている自分が嫌だった。あいつだって、心の(うち)じゃあたしを軽蔑しているんだろうに。時刻表示を見て六時前なのを確かめると、携帯をソファに放り投げた。

 東海道本線の岡崎方面ホームであたしは棒立ちになった。それから心底呆れた声が出た。
「なんだその格好」
 乗るつもりの電車の時刻だけ教えてやり、間に合わないなら間に合わないでよいわと思っていたのだが、きっちり五分前に現れた九条院は、(うぐいす)色の着物に羽織に、一分(いちぶ)の隙もない和装をしていた。奇妙なことに九条での襯衣(シャツ)にループタイ姿より若々しくすら見える。というより、店以外で会うのもこれが初めてだ。
「だって余所(よそ)のお宅を訪ねるんだからね。君のほうは相変わらずだねえ」
 あたしはロングコートにロングスカート、あちこちピンやチェーンがついた仰々しい服装だ。これがあたしなのだから仕方がない。そっぽを向くと九条院は小さく笑う。引き締めてきた気が緩んでしまう。それが本当に癪だ。
 定刻通りに豊橋行きの新快速に乗った。十時台の電車だというのに市内を出てしばらくは席が空かなかった。漸く座れた頃には客が疎らになっていた。
 あたしは窓際に座った。正面に九条院がきた。そのくせ手提げから文庫本を取り出して読み始める。がっちりとした革のカバーがかかっている。あたしは窓の外を眺めた。
 建て込んだ住宅が、ある地点から途切れ途切れになり、蜜柑畑が続く。そうかと思うと、ぽっかりと町並みが現れる。
 あ、と急に九条院が声を上げた。
「温泉行きたい」
 それから低く笑い声を立てた。「久しく行ってないなあ、温泉」
 蒲郡のリゾート地が三河湾を背景に作り物めいて遠く広がっていた。あたしは半分眠ったような気分で、
「なあ、どうしてあたしに付き合うんだ」
 投げやりに尋ねた。飽きないからだね。すぐに答えが返った。
「ふうん」
「僕も聞いていいかな」
「なんだよ」
「君は、今でも小説を書きたいんでしょう」
 あたしは目を細めた。視界が──向かいの男が、涙でにじんだようにぼやけた。
「ああ」と、あたしはどうしようもなく笑った。
「君の今の仕事だって、楽しんで読んでいる人は沢山いると思うけどね」
「だといいけど」
 わざとらしく肩を竦めた。
「でもさ、やっぱりだめなんだよ」
 九条院の温度のもやは、揺らぎもしないであたしと向き合っている。「だってさ、あたしが書いているものは、結局は現実なんだから。現実なんて間に合ってるんだよ。だって現実なんだし。だからありもしないことを書かなきゃ。本っていうのは、閉じた扉の中にだって入っていけるんだから」
 少し間を置いて、君はいい子だね、とそんなことを九条院は云った。あたしは窓の外に視線を返した。車窓からの景色はじきに山並みに遮られる。硝子が暗くなると、同じように外を見ている九条院の円い眼鏡の反射が、幻のように映った。

 出がけに検索してきた地図を携帯画面で睨みながら、目指す家を探した。
 井伊眞吉の住所はビルの林立する駅の東側でなく、古い町の残る西側にあった。ずっといけばやがて埠頭に行き着く。バスの路線図を調べ、途中まではそれで向かった。降りると、九条院が行き会ったばあちゃんをつかまえて、さっさと所在を聞き出してしまった。なんだか拍子抜けだ。日記の写しには塾をやっていたとあったけれど、その所為(せい)かよく知られているのらしい。自動車も通られないだろう細い道を辿り、十字路の角から手入れの行き届いた生け垣に沿っていくと、ぴたりと格子戸の()てられた門があった。
 いつまでも古びた「井伊」の表札を見上げていると、九条院が呼び鈴を押そうとした。あたしはその前に自分で押した。
 インターフォンなどない。家の中から女性の声の返事があって、忙しなく玄関がひらいた。駈けてくるあいだにこの人が初めに電話に出た相手だろうと見当をつけた。
「どちら様でしょうか」
 やはり聞き覚えがあった。向こうもあたしの正体に感づいたのだろう。戸は閉てられたままだ。
 あたしは名乗った。
「昨日のお電話の方ですね。お断りしたはずですけれど」
 五十代半ばといったくらいの女性はちらりと視線を動かし、あたしの背後の九条院を見る。
「あの、そちらは」
「ただの付き添いです。九条院隼人(はやと)と申します」
 あたしは男を振り仰いだ。下の名前を初めて知った。
「はあ…」
 女性は当惑した様子で、少し待つように云うと母屋の中へ駈け戻っていった。君、門前払いをされたの、と可笑しそうに九条院が云う。だったらなんだよとあたしは応えた。稍して戻ってきた。女性は背後に一人の青年を伴っていた。
「困った人ですね」
 そう笑い含みに云う声も口調も電話で聞いた通りだ。あの男に違いない。けれど静かに驚嘆した。若いとは思っていたが、あたしとも大して違わない、まだ二十一か二かそのくらいだ。
「ちゃんとお断りしたつもりだったんですが、伝わりませんでしたか」
 あたしは腹を据えて、
「伝わったらばこそ、直談判に伺ったんです」
 この男になら喰らいつける。あたしは顔を上げて相手を睨んだ。男は余裕を込めて息をつき、
「一体、記事になさってなんになるっていうんです」
「記事でなくて文章です」
「あらゆる事実は世に広く知らしめられるべきだと」
「まさか、そんな下らないこと云いませんよ。これはただのあたしのしようもない意地です」
 男は目を細めてじっとあたしを見た。冴え冴えとするようだ。正直な記者さんですね、と少し柔らかな調子で云った。
 作家です、とあたしは返した。
「では、お通ししないわけにはいきませんね」
 ひらりと身を(ひるがえ)し、男は敷石を伝って戻り始めた。呆気に取られたあたしの前で、気の抜ける音を立てて格子戸がひらいた。居心地が悪そうに、女性が「どうぞ」と声を掛ける。
 広い玄関だった。廊下との境に南天の描かれたどっしりとした衝立がある。女性が(かまち)に膝を突いて、あたしたちが上がるのを見守っていた。
「あの…さっきの人は」
 屋内(やない)の静けさにようよう刃向かう気になったあたしは尋ねた。はあ、と立ち上がった女性は生返事をする。
「大学で言語学をやってらっしゃる学生さんなんです。何年か前に訪ねてみえて、それ以来お手伝いをして下さっているんです」
 上がってすぐ右手は二十畳はあろうかという座敷だった。多分ここが教室だったのだろう。──そういうことを考えなければ、心が崩れてしまいそうだった。あたしは悔しいのだろうか。膝が抜けそうな気分だった。先を越されていたということが、どうしようもなくつらかった。
 庭に沿った廊下を歩きながら、私はホームヘルパーです、と女性が云った。続けて何事か云いさしたのを、廊下の先に例の青年の姿を認めて口を閉ざした。会って頂きましょう、と彼は云った。促されて、あたしたちは男の待ち構えるほうへ進んでいった。
 先導しながら、僕は塔田です、と青年は名乗った。先生は寝室です、と同じ調子で言葉を継ぐ。廊下の硝子戸から小春日が暑いほど差し入っている。透かして見る庭木はみんな大きくて密で、日記にあった晴耕雨読という言葉が自然に浮かんだ。井伊眞吉は、ずっと独りでこの屋敷に住んでいたのだ。
 塔田が閉ざされた障子の前で立ち止まった。
「初めに云っておきますが、今の先生は満足にお話しすることができません。それを承知しておいて下さいね。矢継ぎ早に質問などなさらないように」
 あたしは(がえ)んじた。塔田は黙って視線を返し、障子の片側を引き開けた。二つの潤んだ目がこちらを見ていた。部屋の中央にベッドが据えられ、その上半身側を起こして寝間着の老人がじっと見据えていた。怯む心があった。なんだか判らないものを呑み込んで、あたしは塔田に続いて敷居を跨いだ。塔田は真っ直ぐ老人の耳許に近づいた。
「城戸伶さんです。それから──」
「九条院です」
 あたしの後ろですっかりないものになっていた男が答えた。振り見ると、九条院は背に庭の日差しを負って、あたしはその姿を、とても心強く思った。深く仕舞った。書くことに、仲間などありはしないのだ。
「城戸伶さんと九条院さん、先生のお話を聞きにいらっしゃったんですよ」
 がなり立てるのではなく、はっきりとした調子で塔田は教えた。老人の目はひらいた障子のほうを見たまま動かなかった。
 あたしは畳に膝を突き、鞄から一枚の切り抜きを取り出した。背後の男が小さく声を上げたのが聞こえた。ウッディーの冊子から切り抜いた、「夕菅(ゆうすげ)」の表紙写真だ。
「この同人雑誌に先生が寄稿された文章について、お話を伺いたいんです。典拠不明とされている文字があります」
 老人の目がゆっくりと動き、あたしの手許を捉えた。
「一般的には、この初出は昭和十四年の國松昭太郎博士の著書だとされています。けれど、この『夕菅』が発行されたのは、それより更に二年前です。つまり、先生こそが初めてこの文字を使用なさった──」
 あたしは声を失った。
 老人の瞬かない目から涙が溢れていた。身動(みじろ)ぎもせず、声すら立てず、井伊眞吉は泣いていた。
 複雑な面持ちで、塔田が老師を見つめていた。

 女性がお茶を運んできてくれた。木製の小皿に載せられた草餅の粉っぽさが、この秋の一日をよく表していた。
 塔田はあたしから受け取った「夕菅」の写真を師の顔の前に(かざ)して、自分は枕許に寄りかかっていた。官能的にすら見える格好だった。室内の人間はみんな黙りこくっていた。
 やがて、淡々とした調子で塔田が語った。
「僕が初めてお会いした頃は、もっとお元気でいらっしゃったんですけれどね。仕方がありませんよね。今では、僕のように以前からお話を伺っていた人間じゃないと、簡単なお声も聞き取れなくて」
 さっきまでの嫌味な余裕はない。老人の涙があたしたちの距離を妙に近づけたのだった。塔田さんも、この話を聞きにきたの、とあたしは低く尋ねた。
「ええ、僕の従兄(いとこ)に先生の塾の出身者がいましてね、何かの折に話をしたら思い出してくれたんですよ。小さい頃に通っていた塾の先生が、國松博士の教え子らしいと。『夕菅』の話はそのとき先生から直接伺いました。伶さんは?」
 どうしてウッディーといい、こういう男はあたしを下の名前で呼ぶのだろう。あたしは傍らの古書店主から始まる顛末を掻い摘んで説明した。それはもう運命ですね、と塔田は寒いことを云い、ベッドに手を載せたまま、不意に切り出した。
「お聞きになりたいですか、あの言葉の意味」
 はっとして、聞きたい、とあたしは答えた。塔田は小さく息をついた。
「ところで伶さん、もう小説はお書きにならないんですか」
 虚を衝かれた声が出た。まさか、こんな場所でそんな質問をされるなんて、身構えも何もなかった。
 塔田は可笑しそうに笑った。
「僕はあなたをお慕いしているんですよ。あなたの読者であり、あなた自身を崇敬しているんです。十五才で、今のような服装で新人賞の授賞式においでになったときから」
 どう反応をしろというのだろう。耳慣れない言葉ばかりで混乱した。九条院が小さく息だけで笑う。あたしはむっと咳払いをした。
「からかうな」
「いいえ、本心ですよ」
 軽々しいことを返してくる。冗談に違いないと判っていながら、戸惑っている自分がいる。読者、と云った声が耳の奥で反響していた。
「……だって、もう昔のことだ」
「確かに、(ほとん)どの人はあなたの年齢と、それからその見目にばかり関心を寄せていましたね。でも、僕は違いますよ」
 塔田はじっとあたしを見据える。
 あたしは視線を逸らした。
「書きたくても書けないんだから仕方がない。それに、書いてもしようがない」
「ものの見分けもつかない人間相手ではですか」
 目を上げた。「あの言葉の意味はですね」さらりと塔田は切り出した。
「なにもないんです」
 しばらくのあいだ、あたしは言葉が浮かばなかった。
「それは…無だってこと」
「いいえ、意味などないということです。つまり、あの文字で表す言葉は存在しません」
 どうしてだか、判りきっていたことを云われたように感じた。ただ、あたしは虚脱した。どうしてだか。
「先生は小説家を志していらっしゃったわけではありません。その点では伶さんのような方には腹立たしいでしょうね。けれどあなたなら判って頂けると思います。言葉が散乱していたんです。あの時代は、反プロレタリアから新興芸術派が生まれ、しかしそれも中心となる思想がなく瓦解しかけていました。そうした時代だったんです。思想がまず先にあったんです。それは創作の中から現れてきたものではなくて、そのために何もかもが書かれていたんです。似ているでしょう、九十年代を何もできずに過ごしてしまった僕や伶さんが見ている世界と。すべてが言葉に支配されているんです。この『夕菅』に寄稿をされたのは、主宰の方が親しいご友人だったこともあり、ほんの成り行きです。彁なんてものは、単なるユーモアでした。雑誌が時勢もあり創刊一号で廃刊になったために、この文字も仲間内だけの話題に留まって忘れられました。そののち、先生は國松博士のお手伝いをなさるようになり、手稿の清書を任されました。そのときに、ふとある考えが持ち上がったんです。名のある研究者の著書に紹介されていたら、例えそれが真っ赤な嘘でも、世の人は信じるのだろうかと。原稿の隅に密かに書き込まれた数行の嘘は、そのまま活字になりました。博士も当然ながら気づかれ、問い糾されました。しかし先生の疑念をお聞きになって、ご自身の著書に紛れ込んだ一つの嘘を黙認なさいました。世の人は信じました。戦後、著書が改版されることになりましたが、そのときにはアプレゲールという、今では戦後派というほどにしか訳されませんが、そんな外国語が本来の意味を離れて(れっき)とした侮蔑語として広まっていて、アバンゲールにあたる先生の時代と結局は何一つ変わってはいなかったんです。博士は終生、あの文字について言及なさることを避けました。その後の経緯は、伶さんもお調べになったでしょう」
 流れるような言葉を終えると、塔田は目を細めて居竦んだあたしを見据えた。なんの感情もない(ひとみ)だ。
「それ…ずっと知ってたのか」
 やっと口を衝いたのは、上擦った不格好な問いだった。
「あんた、言語学の人間なら、それを発表すればいいだろ」
「ええ、ですけれどね」
 塔田は元の飄々とした顔つきに戻った。
「残念ながら、証明することができないんです。例え先生ご自身に公表して頂いても、それは同じです。確かにこの世の何処にも、その文字が表す言葉がないということは立証不可能なんです。悪魔の証明のようなものですね」
「でも、有力な説にはなるだろ。みんな喰いつく」
「物事の本当の側面など考えずにいるような人たちがですか」
 あたしは口籠もった。
「悪く思わないで下さいね、伶さん。僕はあなたを心から尊敬していますが、こればかりはだめなんです。お話ししたのは最大限の好意だと思って下さい。このことはあなたの胸に仕舞っておいて頂きたいんです」
「でも…」
 云いかけた言葉はあまりに惨めたらしくて、とうとう喉を通り抜けなかった。あたしは身を乗り出した格好のまま、手のひらにきつく爪を立てた。
「そんなに気負わないでいいじゃないの」
 傍らから静かな声が聞こえた。振り見ると、九条院が膝の上で茶器を支えたまま、おっとりと言葉を重ねた。
「誰も君を責めてるんじゃないんだよ」
 悔しかった。あたしは悔しくて堪らなかった。
 ふと、あたしと九条院と塔田と、三人の視線がいっときに同じところへ向いた。沈黙し続けていた老人が、掠れた声を発したのだった。あたしは頬を乱暴にこすった。塔田が枕許へいき、その不明瞭な言葉を聞き取ろうと耳を寄せた。そして、男はしようがないような笑みを零してあたしを(かえり)みた。
「先生が伶さんに仰りたいことがあるそうなので、あいだに入らせて頂きますね。──あなたのお陰で、懐かしいものを目にすることができました」
 ありがとう。
 最後の部分は、塔田が口にするより先に聞こえた。空気の混じった声がそれだけ云い、胸の上で年老いた手が動いた。そこにはあたしが持ち込んだ「夕菅」の写真があり──いい人になったみたいで嫌だ。

「切り抜くなら一言断るべきじゃないかな」
 路地に出ると急に九条院が文句を云った。いいだろ別に、とあたしは軽く返した。辞すときに切り抜きは忘れてきた。
「聞いたらいいよって云ったか、あんた」
「随分と上機嫌じゃないの」
 円眼鏡の奥で目を細めて、今度はからかい口調で云う。あたしは適当な返事をした。
「それにしても、君にも可愛いところが残っているものだね」
 ぴたりと足を止めた。
「君、あの話を信じたのかな」
 愉快そうに肩を揺らしながら、ひょろ長い和装の男は金木犀(きんもくせい)の咲く十字路を曲がる。あたしは慌てて追いかけた。
 曲がったところで九条院は待ち受けていた。
「……なんだよ」
「いや、君の心が安らかならそれでいいんだけどね」
「なんだよ」
「よくよく考えてごらん。彼の話だって、本当かどうか証明するものはないんだよ。第一、君は塔田君を知らなかったのかな」
 間の抜けた返事と、おそらく表情もそうだったろう。九条院は悠々と歩みを再開する。
「多分だけど、彼、君の研究の第一人者」
「は…」
「君がデビューしてすぐくらいかな、あれは高校の文芸部の部誌だったと思うけど、君の小説について信じられないくらい事細かに論評してる子がいたんだよ。彼も昔の作品を知っていたみたいでね。文体を変えたことで、君の表現がどう変化したのか、君はどんな感情をどんな言葉で表そうとしているのか、君は何を感じて何を書こうとしているのか、もうあれは、殆どラブレターみたいなものだったね。あの書き手が確か塔田(かぶら)っていう名前だったよ」
「……よく、まあ、そんなこと覚えてるよな」あたしは破れかぶれに突っかかった。取って返して塔田に咬みつくには狼狽(うろた)えすぎていた。
「実は君と会ったあとに思い出して、読み返してみたんだ」
「ああそう」
「正直、僕は君が城戸伶さんだってことを、胡蝶本を出してきてからやっと気づいたんだけどね」
 足がありもしないものにつまずいた。あたしは前を行く男の背をまじまじと見た。
 ああ、そう、と力を込めて、当てつけみたいに云って、あたしは九条院を追い抜いた。
「で、あいつはなんであんな素振りをしたんだよ」
「君の胸に聞いてごらん」
「はぐらかすな」
「書かせたかったんでしょ」
 あっさりと九条院は云った。「君に君の書きたいものを書いてほしいんだよ、きっとね。──今の君は苦しそうだから」
 まるで、塔田がそう云うのか九条院が云うのか、判らないような口振りだった。
「帰る」とあたしは云い捨てた。
「討ち入りにはいかないの。ちょっと楽しみにしてたんだけど」
「そんな時間あるか。とんだ徒骨(むだぼね)だったんだからな。さっさと帰って仕事をする」
 あたしは先に立って歩き続けた。鼓動が跳ねている。懐かしい感覚だ。
 踏切で立ち止まる。結局、彁とはなんだったのか。塔田の語った通り、あれはただの空白なのか。それとも、もっと別の確かな意味があるのか。でも、もうどうでもいい。どうであったとしても同じことだ。
「元気になったね、伶君」
 そんな声と一緒に、背後からあたしの頭に男の手が置かれた。指先が髪にもぐって、あたしは自分の躯に血が通っていることを、それでどうしてかはっきりと感じた。
 素直になればいいのに、と九条院は云った。
「十五才の君も、そう云われてみれば可愛かったよ」
「ああそれはどうも」
「でも、この髪を切って、男の子の洋服を着て、それでもうちょっと素直になったら、沢山女の子にもてるだろうね、君」
 あたしは少し上向いたまま、不敵に笑った。
「浅はかだな、この見目で好いてくれるような相手じゃなきゃ、意味がないだろ──俺を」
 久々に使った一人称は、口の中に甘ったるかった。あたしはあたしだ。もう馴染んでしまった。
 九条院が笑う。あたしからは男の手のひらは見えない。あたしは太陽に目を細めて、いつまでも顔を仰向かせている。
 けたたましい音を立てて、電車があたしたちの前をよぎる。

shift

 九条院隼人(はやと)は数々の文学賞で話題になっていた、かもしれない。というのも、時代錯誤の云い回しとしちめんどくさい心理描写で埋め尽くされた作品を、何度落選しても性懲りもなく応募し続けていたから。しかしその正体が、かつて軽妙な語り口で人気を博していた某フリーライターであることを知る者はないのだった。
 なんて、真っ白な画面に打ち込んでいる。外は雨、頭の中もざざ降りだ。
 小部屋に穿たれた唯一の窓は開け放してあるけれど、湿気の持つ生暖かさが室内に充ち満ちて気持ちが悪い。たまに強く風が吹くと軒の深い窓からも雨粒が飛び込んでくる。膝の上で折ったロングスカートもじっとりとしている。こんな環境だと気分まで鬱々としてくる。──文学賞の下読みなんて、大体どこも同じ連中がやっているのだから、そいつらのあいだでは九条院隼人はいい笑いものだろうな、だとか。もっとも、本物の九条院はそんなことは露ほども知らないでいるのだが。
 三年前の秋、とあることがきっかけで一度は断念した創作にもう一度取り組むことを決心した。あたしは早速、一寸(ちょっと)専門的な題材を軽妙に取り上げる作風で企画をもらっていた出版社に乗り込んでいき、やたらと語尾を疑問形にする編集者に、里に帰ります。お世話になりました、と伝えた。彼女はデスクから振り向いたままの格好で、
「え、そうなんですか?」
 かくしてあっさりと、あたしは失業したのだった。
 しばらくは貯金と、最後に出した典拠不明の言葉「彁」についての本が予想外に版を重ねたので、その印税で生きていた。あたしは書いた、つもりだったのだが、(なら)してみると、半分以上はぼんやりとしていたのだ。書きたいものはあった。なのに、どう書いていいかが判らなかった。
 そもそもあたしは、堅苦しい文体が好きで、それで書き続けていた。けれど受けなかった。それで自棄になって、思いきりはっちゃけた語り口にしてみたら、一度で新人賞を得られてしまったのだ。見てくれ諸々の要素もあって、一時期あたしは寵児だった。突然の沈黙を経て、語り口だけが取り柄のライターになった。さあ、もう一度、自分の思うままに書いてみようとしたら、途方に暮れた。なんというか、自分の言葉が判らなかった。
 それでもどうにか書き上げ、矢継ぎ早に適当な公募文学賞に送りつけた。それからあっという間に三年、出版社からの重版のお知らせも途絶え、通帳に書き込まれるのはお支払金額ばかりで、はたと気づけば背後に川が迫っていた。その背水の陣も負けた。入選すらしなかった。数週間前、あたしは残高が五桁の通帳を手にして、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
 光熱費や家賃を引かれたら、もう一月(ひとつき)生きられないのは確かだった。もっと早く相応しい住まいに移っていればよかったのだが、まあもう少ししたら、と思っているうちに時間が尽きたのだ。今更引っ越そうにも、そんな費用すらない。どうしても働きに出てやるという選択はしたくなかった。あたしは二、三時間棒立ちになっていて、不意に糸が切れて、ライター時代に手当たり次第に買ったものを新古書店に持っていき、数百点で一万円と一九八〇円になった。帰ると、丁度マンションの下から「ご不要になりましたテレビ、ビデオデッキ、ラジカセなどございましたら…」というスピーカーの声が聞こえてきたので、走っていって呼び止めた。頸にタオルを巻いたお兄さんは訝しみながらも部屋中の家具家電を運び出していって、あたしに形ばかりの買い取り代金四十二円を渡した。それからマンションの契約が切れるまで、何もない部屋でタオルケットにくるまって暮らした。
 苦りきった様子の管理人のおじさんに鍵を返すと、ボストンバッグいっぱいの衣類と、ノートパソコン、そして売らずにおいた希少本と、かつての著作とを手に古書・九条を訪ねた。九条院に会うのは久し振りだった。
「随分と大荷物だね」
 とカウンターに頬杖を突いた男は目を笑わせて云った。
「旅に出る。捜すな」
 とあたしは云って、カウンターに本の詰まった紙袋を置いた。
 九条院は躯を起こし、ちらりと中身に目を遣った。
「どうしたの、切羽詰まってるじゃない」
 ライターをやっているとき、調べ物があると連絡を取ったのが九条院だった。三十代に見えるけれど、詳しい年齢は知らない。本の博愛主義者だが、他のことは知らない。古書店のカウンターで襯衣(シャツ)を着て円眼鏡をかけたのが九条院だ。
 あたしは淡々と、時間切れになったのだと云った。もう一度書けと勧めたのはこの男だったのだから。
「それで、これからどうするの」
「どうとでもなる。いざとなったら、何処ででも暮らせる」
 あたしは本気だった。なのに、九条院が息をつくと、一寸(ちょっと)心が()じけた。
「莫迦なことを云うのはよしなさい。──うちに住んだらいいよ」
 何処ででも、とは云ったけれど、九条院の家なんて選択肢はなかった。唖然としたあたしを余所に、男は店の奥の居間へと消えた。呼ばれてぎくしゃくと続いた。古書・九条は年代物の構造で、左手には水回り、右手には角度の急な階段があって、その下に整然とした書庫がある。九条院は手摺りもない階段を上がっていった。あたしは荷物を提げたまま座卓の脇に突っ立っていた。付き合いは長いが、あたしは居間と水回りの一部しか立ち入ったことがない。書庫なんか戸が閉てられていた(ためし)がないのだが、なんとなく踏み込んでみる気にはなれなかった。しばらくすると二階から九条院の声が呼んだ。あたしは随分と逡巡して、意を決して這うように階段を上がった。
 頸から上を覗かせると、片側がサッシ窓になった狭い廊下に、障子の部屋が二つあった。奥の部屋のほうは閉められていて、ぱっと見に広い。手前の、それより小さな部屋のほうの障子はひらかれていた。廊下に温風ヒーターや空のカラーボックスなどが運び出されてある。更に這い上がって、部屋の中を窺った。九条院が襯衣の袖をまくり、腰に手を当てて見回していた薄暗い部屋が、要するにここだ。
 ほとんど物置と化していた小部屋で、仕舞われていた荷物の幾つかはそのまま使わせてもらっている。押し入れなどもなく、布団を三つ折りにしても小さなテーブルくらいしか置かれない。生活費などいらないから、おちつくまでいるといい、と九条院は云った。人に気を許すものじゃない、というのは承知しているのに、あたしは気持ちがぐらついてしまった。さよならと云ってから部屋が用意されるまで、おおよそ二十分だった。それだからという、ただそれだけで。

 転がり込んだのは暑くも寒くもない時期だったが、やがて梅雨になった。夏場のことを思うと気が滅入る。とにかく畳が腐ったようなアパートにでも暮らせるようにと、あたしはひたすらに書いている。ただ、独りでいたときよりも更に頭にもやがかかっている。気づけば限られたスペースに寝転んで、煮染(にし)められたような色の天井を見ている。自分のやっていることはまったくの無駄で、死に際になってとっとと見切りをつければよかったと、そう後悔するんじゃないかと不穏なことが繰り返し想像される。そうやって倒れていると、階下の音が耳に届いてくる。古書店なんてそう客がくるものじゃないと思っていたが、実際はそうでもないのらしい。思えば、同じ家の中に人の声を聞くのは久し振りだった。
 急に電子音が鳴って身を竦ませた。パソコンの画面を見ると、例の「彁」の件で知り合ったウッディーからメールが届いている。【今なにしてますか】【なにも。】と送り返したら、いつものファミレスで会いませんかと云ってきた。あたしは了承して、しようのない文をそのままに、「文書1は変更されています。更新しますか?」「いいえ」ノートパソコンの電源を切り、身支度をして階段を下りた。
「出かけるの?」
 今の()に客は帰ったらしく、カウンターの九条院が振り向いた。
「ああ」
「遅くなるようだったら連絡しておいでよ」
 あたしは、既に店内を通り抜け始めていた足を止めた。ちらと見遣ると頬杖を突いた九条院が口許を笑わせて見つめている。あたしの目の前を覆っているもの、これまで一定の距離を置いて付き合ってきた九条院が、同居人になった途端、余計に量りかねる存在になっている。静かすぎる苛立ちは、その所為(せい)かもしれない。

「伶さんは九条院さんが好きなんですか?」
 ウッディーがぞろぞろした前髪の隙間から尋ねる。
「は…」
 あたしはファミレスのソファに思い切り凭れたまま、ストローを銜えて変な声を返した。
「だって、()わば恩人じゃないですか。それに、嫌な相手とは一緒に暮らしたりしないでしょう、やっぱり」
「あのね青年よ、現実世界はそう簡単に割り切れないの。何よりもまずお米なの」
 ふん、と鼻を動かして、ウッディーは目をしばたたく。奇書マニアでありカルト映画愛好家である青年とは初めはネット上での付き合いだった。それが実際に顔を合わせるようになったのは、ひとえにあたしが半分非現実的な存在である「有名人」だったからに他ならない。
 でもですね、とウッディーは食い下がる。
「やっぱり、同棲ですよ」
「同棲ってねえ…」
 あたしはもうどうでもよくなっている。自分にまつわる話をしていると、自分がどんどん架空の人物であるかのように思えてくる。
「あたしは男なのだよ青年よ。単なる男同士の同居ですよ」
 伶さんは特別です、とウッディーは即答する。嬉しいんだかどうだか判らない。新人賞を取ったときも、その後のライター時代も、城戸(きど)伶が面白がられた理由はこの長い髪、このロングスカート、この見目に尽きる。元からそうだったわけじゃなく、自分の意志に反する形で評価されたとき、その違和を消化するために自ら違和になったのだ。それがいつの間にか馴染んでしまった。
「それより、なんか面白いことはないの」
「面白いことですか。そういえば、このあいだ手に入れた明治期の本に、源氏物語の『輝く日の宮』の帖についての話が載っていたんですけど」
「もうさ、いいんだよ、そういうのは…」
 ウッディーは小首というかぞろぞろ髪を(かし)げて尋ねる。
「伶さん、ライターに戻る気はないんですか?」
 あたしはグラスをテーブルに戻して、「ドリンクバー二つ、っていう注文の仕方、何度聞いても笑えないか」適当なことを云った。青年は深刻な顔つきになった。心配されなくても、自分がいちばんよく判っている。あたしは迷走している。
 ウッディーと別れ、張りついてくるような小糠雨(こぬかあめ)の中を古書・九条に戻った。カウンターが空だった。居間を覗くと、電話台の前に膝を突いた九条院が通話口を手で覆って振り返る。意外そうな顔だった。
「早かったね」
「おう」
 あたしは興味もなく自分の居候部屋に戻った。そして閉じたままのノートパソコンの上に頬を載せてへこたれていた。男の足音が隣の部屋に入ると、少しして障子の外から九条院の声がかかった。
「お店番を頼みたいんだけど、いいかな」
 気怠い返事をして障子を引き開けた。ぎょっとした。九条院は一寸(ちょっと)()に浅黄色の和服に着替えていたのだ。いくら変わり者とはいっても、こんな格好で近所のスーパーにはいかない。
「出かけるのか?」
「ちょっとね。急に誘われて、伶君がいなければ断るつもりだったんだけど」
「……今からか?」
 もう夕方だ。
「舞台を観にいくんだよ」
 あたしは変な相づちを打った。まじまじと見る。この男は何かの折にはやたらと和装をするのだが、痩せ型の長身で本来似合わないはずなのにそうでもない。妙な雰囲気が無理矢理に調和させているのだ。
 とにかく店へ下りていってカウンターに収まった。九条院は上がり口の下に履物を並べる。
「それじゃあ、時間になったら店仕舞いしていいからね。またお客さんに吹っかけるんじゃないよ」
「血と涙と人生の結晶を買わせてやってるんだよ」
「売り物の値段っていうのは、買う人次第なんだよ」
「……世知辛いよな」
 九条院は足袋を履いた足を動かし、戸棚に晩御飯が入ってるからね、と云い置いて雨の中へ出ていった。あたしはカウンターにめり込みそうだった。
 それから唐突に腹が立った。あいつはどうして、あたしが出かける相手を聞かないことを聞かないのか。
 なんとなく不公平な気がした。

 翌日は久々の晴れだった。無遠慮な日差しに町中の水分が吸い上げられていくように、あたしの気力も干涸らびていた。もう一時間以上はパソコンに俯してぼんやりと窓の外を見ている。──この並びは隣りも後ろも住宅やら商店やらが建て込んでいて、窓の外はすぐ裏の家の屋根だ。青いトタン屋根が登り詰めたところに、秘密みたいにして古い様式の窓がある。窓は開いている。磨り硝子の填ったその窓は、梅雨入り前から閉まっていたので、使われていない部屋なのだろうかと思っていた。あたしは隣近所のことなど知らないが、裏の家について、なんとなくじいちゃんかばあちゃんが独りで住んでいるのだろうと考えていた。それでぼんやり眺めているうちに、窓の中に若い女性が現れたので、意外に思って頭を浮かせた。
 三十七、八といったところの人だった。髪を一つに結い上げて、白っぽい浴衣を着ている。部屋の中には姿見が見えている。暗い鏡面に、女性の浴衣の胸が映っていた。そして彼女は、あたしという観察者がいることなど知らずに、こちらへ背を向けたまま浴衣の帯を解き始めた。
 あたしは凍りついていた。躯を強張らせたまま、女性が何も着けていない背中を露わにするのを見ていた。指の先にむず痒い戦慄が走った。はっとして視線を動かすと、姿見には当然女性の躯の前面が映っている。あたしは目を(つぶ)った。瞼の裏に斑紋が浮くほど力を込めて、息すらもひそめて目の前の光景を閉め出した。しばらくして目をひらくと、そこにはもう女性はいなかった。油のような膜が浮く視界をようよう受け入れながら、あたしは途方に暮れた。
【何も感じなかった。】
【それは、つまり、異性としての興味を感じなかったっていうことですか?】
【判らない…あたしは人を好きになったことがないから。】
 ウッディーは応えなかった。十分待っても返信がないので、あたしはふらふらと階下へ下りた。台所に九条院が立っていて、(ひる)の支度をしている。ゆうべは十一時過ぎという、普段九時に寝る男にとっては大層な深夜に帰宅したというのに、今朝も五時には起き出していた。同じ床の上に暮らしていると、そういうことまで(つぶさ)に判ってしまう。
 居間に突っ立っていたら、不意に九条院が振り向いた。
「お昼にするから、テーブルの上拭いてくれる?」
 あたしは深刻な気分がすっかり抜けてしまって、云われた通りに座卓を片付けた。昼食は素麺(そうめん)と煮魚だった。九条院と向かい合って食事をするのも、すっかり当たり前になってしまった。
「……ちょっと気が早くないか」
 と、あたしは突っかかってみた。
「なにが?」
 九条院は問い返す。
「素麺とか」
「いいじゃないの、もう夏なんだし」
「まだ早いだろ」
「でも春でもないでしょ」
 少しのあいだあたしは黙り込む。あたしが喧嘩を売らなければ九条院という男は基本的に話を切り出したりはしない。
「なあ…裏の家」
 と、とうとうあたしは持ち出した。
「あんたくらいの女が住んでんのな。知らんかった」
「ああ、ヒサキさんのこと?」
 ヒサキというのか、あの背中は。
「最近ね、帰ってきたんだよ。和裁の先生なんだ」
「詳しいな」
「ここにきて長いからね」
「ふうん…」
 九条院がこの店をひらいてどのくらいになるのか、以前にも何処かで開業していたのか、そもそも出身地は何処なのか、そんなことをあたしは知らない。九条院のほうはあたしが今までに書いたすべてのものを知っているというのに。やっぱり不公平だ。
 同居するまでは、こんなことは考えなかった。
【僕の知り合いに、伶さんみたいな女の子がいるんです。その子は男性の姿が格好良く思えて男装するようになったんですけど、それから何年も経ったあとで自分の恋愛の対象が同性だと気づいたんだそうです。
 異性の姿になることが恋愛対象と関係があるかどうかはよく判りません。ただ、伶さんが書く主人公はみんな、誰かを好きだということに少しも気づいていなくて、それで傷ついているように思えます。】
 ウッディーが送ってきた言葉は、あたしを更に戸惑わせた。あの子はライターとしての城戸伶しか知らなかったはずなのに、いつの間に昔の小説まで読んでくれたのだろう。あたしは繰り返し青年のメールに目を通して、そして画面から消した。ウッディーの親切は伝わったけれど、どうしても受け入れがたかった。そんな複雑なことでなく、もっと根本的な不満があって、その所為(せい)で苦しいのだと思えた。
 それから数日後、買い物に出た九条院の代わりにカウンターに座っていると、思いがけない来客があった。
「あら、隼人君はいないの」
 あっけらかんと、わざとらしくすら聞こえる口調で独りごちた女性は、店の硝子戸を後ろ手に閉めると、履物をぱたぱたと鳴らしてカウンターの前までやってきた。あたしが反応できなかった理由は二つある。一つは「隼人君」なんてのが誰のことか即座に思い出せなかったのと、もう一つは女性が例の浴衣の女性だったからだ。
 ヒサキさんというらしいその人は今日は白地の訪問着を着て、真ん中で分けた肩までの髪を垂らし、(ふち)にフリルのついた傘を骨張った手の中に持っていた。
「隼人君に会いたいんだけど」
 あたしと向かいながら、やはり独り言のように云って、ヒサキさんは頸を傾ける。あどけないようで、躯中から「女」が滲みだしていた。
「……買い物に出てます」
 あたしは無愛想に応えて顔を背けた。
「あら、じゃあ帰るまで待たせてもらおうかしら」
 そして本当に、あたしが五分間、一言も口を利かなかったというのに、ヒサキさんは笑顔でカウンターの前に立ち続けた。
「あの、上がったらどうですか…」
 根負けしてあたしは云った。
「ありがとう、でも、勝手に上がったら悪いわ。いつもお店で話すんだから」
「へえ…」
 あたしのさもしい目盛りが少し上がった。
 そこへ九条院が戻ってきた。硝子戸越しに来客に気づいたのは明らかなのに、いつも通り丹念に傘の水を切り、荷物の水滴も抜かりなく(ぬぐ)う。あたしは苛々して待った。
「お客さんですよ店長」
 のっぺりと云った。
 九条院は書架のあいだを進んでくると、ヒサキさんをちらりと見て「どうも」と素っ気ない挨拶をした。彼女はさっきから待っていたことを楽しげに伝えた。
「どうしたんですか、今日は」
 丁寧語の九条院というのは少し違和感がした。それに表情が硬かった。
「このあいだのお礼に、食事でもどうかと思って」
「悪いですよ、こちらが券を譲って頂いたのに」
 あたしは眉を上げた。別に驚かない。
「行ってきたら?」と気づけば口に出していた。九条院とヒサキさんと、あたしのことなんかないものとして会話をしていた二人が同時に振り向いた。
「そうよねえ」
 ヒサキさんがにっこりとしてふやけた云い方をした。(ほの)かな敵意を感じた。それから拗ねたような顔つきの九条院のほうを見て、
「妹さん?」
 と尋ねた。
「弟ですよ」
「居候です」
 とあたしは云った。
 ヒサキさんはあたしを物珍しそうに見遣って、女の子かと思っちゃった、とやはり気安く云った。あたしは頬を笑わせた。
 だけど、この子のご飯を作らなくちゃいけないからと、まだ九条院が煮え切らないので、いいからいけよ、と女の子のようなあたしは突き放した。
「……じゃあ、着替えてきますから」
 男が奥へ入っていったのを見届けて、ヒサキさんはカウンターに近づいた。
「そういえば、自己紹介がまだね。私は入部(いりべ)ヒサキといいます」
「城戸伶です」
「いつからここにいるの?」
「三週間ちょっとっていうところです」
「宜しくね」
 ねえ、隼人君とはどういう関係なの、と尋ねないところが不気味だった。感情の生々しさを感じた。
「私、離婚したばかりなの」
 不意にヒサキさんは云った。「この裏に実家があってね、結婚する前はよく本を見せてもらったりしてたのよ。私も隼人君の着物を幾つか作ってあげたりしたんだけど」
「あたしは、そういうことは全然聞かされてませんから」
 彼女は口を(つぐ)んだ。初めて笑みの絶えた表情を見た。目許に消せない憔悴が刻み込まれていて、一層「女」が強く匂った。九条院が下りてきた。やっぱり和装だ。以前にも見たことのある、納戸(なんど)色の着物だった。ヒサキさんがすっと傍へいって、「まだ着てくれてるのね。直さなくても平気?」と云いながら襟に触れた。「ええ、お構いなく」と平坦に返して、九条院は離れる。鈍感男が、とあたしは胸の裡で罵った。
「それじゃあ、ちゃんと何か作って食べるんだよ」
「ごゆっくり」
 和服姿の二人は寄り添うようにして、店を出ていった。ヒサキさんの立っていたあとに、傘から滴ったのだろう、小さな水溜まりが残っていた。

 あたしは閉店時間の随分前に表の硝子戸に錠を下ろした。九時を過ぎても九条院は帰らなかった。
 どうしてもじっとしていられなかった。部屋に引っ込むこともできずに、居間の中をぐるぐると回った。そして、ふと自棄(やけ)になって階段を上がると、二階の奥の、九条院の部屋の障子を開けた。
 初めてそうした。そこは畳敷きの八畳間で、正面に磨り硝子の窓があった。左手に押し入れ、右手の壁に沿って洋箪笥と和箪笥が一棹ずつあって、その横に書き物机がある。それだけだ。別に珍しくもない部屋だった。あたしは妙に厳粛な気分で中に入った。窓に隣のスナックの看板の明かりが滲んでいる。雨の所為で前の路地を通る自動車の音がやけに大きく響き、磨り硝子を右から左へ光の玉が走る。無性に寂しくなった。
 電灯の紐を引っ張ると、その寄る辺なさは少し薄まった。ますます色気のない部屋だ。ポスターも何もない。振り返ると、障子の横に意外なくらいこぢんまりとした本棚が据えられていた。その上には神棚があって、新芽の茶色がかった榊が供えられている。あたしはなんとなく本棚の並びを眺めていて、はっとした。机にいちばん近いところに、あたしがこれまでに書いたすべての本が──小説も、ライター時代のものも全部、出した順番に几帳面に並べられていた。
 男の部屋を出た。(しゃく)で仕方がないから、残り物の味噌汁に素麺を放り込んで食べた。塩辛くて遣り切れなかった。十一時も過ぎた。あたしは真っ暗な居間の座卓に俯して、ヘッドフォンで字幕の深夜映画をぼんやりと目に映していた。
 短いセンテンスで遣り取りされる無駄のない会話を見ていると、現実世界とはなんと野暮ったいのだろうと思う。簡潔な質問に「ええ」で答えて場面が変わる世界なら、こんなに悩むことなどないのだろうに。
 日付が変わる頃になって、男が帰ってきた。硝子戸のひらく音がしても、あたしはじっと動かなかった。
 九条院が静かに背後に立った。
「音だして観ればいいのに」
 ぽつりと、そんなことを云った。あたしは哀しかった。
「今日は帰らないかと思ってたよ」
 と、画面を見たまま悪態をついた。
「タクシーがなかなかつかまらなくてね」
 九条院は間を置いて答えて、台所に入っていった。冷蔵庫を開けると橙色のランプに疲れた横顔が浮かび上がる。あたしは黙ってそれを見つめた。
「お茶いる?」
「いらない…」
 麦茶の容器を取り出して、九条院は水切り籠を覗く。グラスの他には味噌汁の鍋と丼しか伏せられていないのに、あたしの貧相な夕飯に対してなんの言葉もなかった。
 九条院はあたしの隣に座る。しばらく無言で映画を観た。
「これ、どういう話なの?」向こうから聞いた。
「知らない…」
「ふうん」
 九条院はグラスに口をつける。
「……あんたに、あんな相手がいたとはな」
 云った途端に後悔した。
「別に、そういうんじゃないよ。ただの知り合い」
「その着物、作ってもらったんだろ」
「──まあね」
 こんな機会二度とないぞ、と突っかかりたい衝動に駈られた。あたしはヘッドフォンを引き抜くと立ち上がり、もう寝る、と云ってテレビをつけたまま階段に向かった。
「おやすみ、伶君」
 振り返ると、九条院はまだじっと画面を見ていた。かまびすしい異国の言葉に包まれて、あたしも自分の言葉が判らない。

【資料を送ったら返送されてきてしまったんですけど、城戸さんお引っ越しされたんですか? 実はまた原稿をお願いしたくて連絡をしました。お忙しいですか?】
 電子音が鳴り、このところ音沙汰のなかったウッディーがまた何か云ってくれるのかと思って見ると、ライター時代の編集者からだった。携帯は解約してしまっていたから、メールで問い合わせてきたのだろう。文面まで疑問形だ。
【少し待って下さい。】
 と返して、あたしはしばらく呆然としていた。頭を動かすと、晴れの日だというのにヒサキさんの家の窓は閉まっている。途方もない気がした。
階段を彷徨(さまよ)い下りると、いちばん下で九条院と鉢合わせた。手にメモ用紙と財布と丸めた買い物袋を持っていて、夕飯の買い出しを頼むつもりだったのらしい。何があろうと、気まずく感じようと、生活は続く。それが同じ家に暮らすということだ。
 あたしは一式を取り上げた。書きつけの、サラダ油、レタス、という下手でもない字に目を走らせて、いつものスーパーでいいんだろ、と云うと、九条院は呼吸を置いて「うん、お願い」と答える。あたしは男の脇をすり抜けてサンダルを突っかけた。
 雨が間遠くなってきているから、もうじき梅雨も終わりなんだろう。水分の籠もった雨上がりの日は余計に暑苦しい。本格的な夏になる前に九条を出たいと思っていた。その前には貯金が尽きるまでにはどうにかなるだろうと考えていた。どちらも叶わなかった。
 あたしの人生はこの繰り返しで、甘い目論見(もくろみ)と失敗と、そして後悔だけが待ち受けているのかもしれない。まだ戻られるだろうか、元に戻ろうか、手放そうか。これは堅実さだろうか、それとも弱音だろうか。
 すっかり棚の位置も覚えたスーパーで会計をすると、一枚ですと籤引きの箱を突き出された。云われるままに三角の紙を取って渡すと、レジのおばちゃんが自棄のようにベルを振った。「一等蒲郡(がまごおり)リゾート温泉ペア一泊二日」「二等静岡産高級マスクメロン」「三等サランラップ」のサランラップが当たったのだった。おばちゃんが熨斗(のし)を巻いた景品をぞんざいに差し出す。急に格が下がって千本もある三等だ。あたしの人生もこんなものか、と気の滅入ることを考えて弱く笑った。
 右手にサラダ油が重い買い物袋、左手にサランラップを持って今きた商店街のアーケードを戻った。九条のある横町(よこまち)に差しかかったとき、裏の路地に自転車に(またが)った若い男性がいるのに気づいた。なんとなく眺めていると、家の中から淡い色の浴衣を着たヒサキさんが現れて、親しげな様子で自転車の後ろに横座りに乗った。あたしは慌てて角の自販機の陰に隠れた。二十八、九の男性は自転車をゆらゆらと蛇行させながら、ヒサキさんを乗せて走り去っていった。
 あたしはこれまで意識して近寄らなかった路地を入って、そこに表札の「入部」の文字を読んで九条に帰った。カウンターは空だ。台所で海老の背わたを抜いていた九条院はあたしが意気高く敷居に立つと、何気ない顔で振り返った。
「そういえば(くじ)引きやってるんだっけ、今」
 左手を見て云った。あたしはなんとなくむっとして、小さく返事をすると買い物袋共々サランラップを食卓の上へ置いた。
天麩羅(てんぷら)だけど、いいよね」
「うむ…」
 九条院は手許を見下ろしていて、背中が少し丸まっている。あたしは食器戸棚に凭れてそれを見ている。そういえば、こうして夕方に晩御飯の支度をする人を見るのは、九条院が初めてだった。
「……あのさ」
「うん?」
「さっきヒサキさん見たよ」
 あたしは己が情けなかった。
 眼鏡の(ふち)が僅かにこちらを向いた。
「そう」
「男の人と自転車乗ってどっかいくみたいだった」
 九条院は長く空白を置いた。
「ふうん…」
「いいのか?」
 何がいいのだか、聞いたあたしにも判っていなかった。九条院は始末した海老をバットに並べて、流しの下の戸をひらいた。プラスチックの籠から玉葱を取り出す。ああ、こいつは寂しいのだなと、不意にそんなことを感じた。
「まだ若い男だったんだぞ」
 あたしはむきになって煽り立てていた。九条院は背を伸ばして一寸(ちょっと)考え込んだあと、二十代後半くらいの? と不意に尋ねた。
「ああ…」
「髪の毛金色で、重たそうなウォレットチェーン提げた子?」
「知ってるのか?」
 九条院は笑った。
「ヒサキさんの弟さんだよ」
 あたしは己の莫迦さ加減を(わめ)きたかった。なのに、痺れたみたいに動けなかった。
 九条院は笑い続けていた。そして玉葱の皮を剥き、小麦粉だしてくれる? と軽く云う。あたしは口を開けた。九条院は怪訝そうにあたしを見遣って、買い物袋の中を覗く。忘れた、と云われる前に云った。
「じゃあ、今度は僕がいってくるよ」
 いい、あたしがいく、と突っかかるのを抑えて、「いいからお鍋見てて」と云い残して九条院は台所を出ていった。硝子戸が遠くで閉まった。あたしはふらふらとガス台に近づく。片手鍋の底に(さら)しの包みが沈んでいる。飴色の出し汁をぼんやり見つめた。
 三十分以上経って九条院は戻ってきて、あたしはとうに火を止めて食卓の椅子に抜け殻のように縮こまっていた。伶君、と妙に弾んだ声で呼ばわって、九条院が小麦粉の他にゼリーやなんやの入った袋と一緒に大層な祝儀袋を差し出した。
 一等蒲郡リゾート温泉ペア一泊二日──あたしはぼんやり、おめでとうと云った。

「──でさ、なんであたしと行くんだ?」
 JR東海道本線の座席であたしは尋ねた。向かいで早速文庫本をひらいていた九条院は顔を上げる。
「他にいないじゃない」
「いるだろ一人…」
 ふふ、とでもいうような笑みを口許に浮かべて、九条院は(ページ)に戻る。あたしは車窓の外を見た。てらてらと油っぽい朝日が住宅地を照らしている。(ゆる)やかに自分が分離していくような感じがした。
 随分としてから、
「そういえば、前にも君とこの電車に乗ったことがあったよね」
 不意に九条院が云った。あたしは夢見心地で生返事をした。もう建物が稀になり、トンネルを抜けるごとに緑が深くなっていく。
「豊橋にいったときだっけ」
「その話はするな」
「あのとき温泉行きたいなって云ったんだよね。夢が叶ったね」
 夢、夢か。それが楽しい意味合いの言葉だなんて、やけに機嫌のいいこいつの声を聞くまで、忘れていた。
 スペースシャトルから見下ろす宇宙港のように、線路のずっと遠くに海に(のぞ)んだ蒲郡の町が見えてきた。

 駅前から路線バスに乗って、取り敢えず宿に荷物を置いた。地元のスーパーが手配したのだ、特にどうかした宿じゃない。あたしは部屋で死んでいたかった。それなのに九条院が町に出ようと云いだした。
 受付でもらった観光パンフレットを頼りに、九条院は土産物屋や名産品の店の並ぶ通りを歩いていく。あたしは二メートルばかり離れてついていっている。今日も九条院は和服姿だ。あたしはロングスカートのパンクめいた格好をしている。(はた)から見たら奇妙な取り合わせだろうと思う。乗り物から降りて、景色が自動的に変わらなくなると、途端にあたしの心は沈んだ。九条院が立ち止まって振り向いた。心臓が変な動きをした。
「気分でも悪い?」
「いや…」
 あたしは足を止めている。九条院も動かない。しばらく向かい合ったまま突っ立っていて、あたしは(ようや)く歩きだした。隣に並ぶと九条院も歩みを再開する。
 口の中が苦かった。
「元気ないね」
「別に…こういうのに慣れないだけだ」
 日差しとも、歩道の照り返しとも違う熱のある気配が右隣からして、あたしを変に素直にさせていた。
「誰かと旅行にくるなんて、初めてだ」
「友達とも?」
「あたしには書くことしかなかった」
 マンホールをじっと睨んだ。
「……でも、小さい頃は、よく出かけたよ、三人で。でも、覚えてるのは、あたしを置いて喧嘩しながらどんどん歩いていく背中だけだ」
 愚にもつかないことを語った。九条院は黙っていて、何か云え冗談にしてくれと願った頃に、「それは、寂しかったね」としんみりと云った。あたしは胸の裡でありったけに毒づいた。
 竹島まで回って夕方になり宿に戻ると、「大浴場へどうぞ」と仲居さんに勧められた。あたしだけが内湯に入った。
 食事も九条院と向かい合って二人きりだ。いつもそうだのに、旅先だというだけで気まずく感じる。男は下戸だしあたしは飲めるが飲まなかった。二人して浴衣姿で箸を動かした。九条院はあの会話から喋らなくなって、代わりにずっと微笑を浮かべている。旅館の妙にぽかんとした静けさがあたしたちを際立たせていた。
 膳が引かれると、テレビでやっていた八十年代の洋画を観た。(きら)びやかさとお気楽さが切なかった。
 映画が終わると、なんとなくそのまま寝ることになった。
「なんか──それは傷つくな」
 九条院は布団の上に立って云った。どんな関係の連れ合いだと思われたのか知らないが、布団は同室に隙間なく敷かれていて、あたしはその一方を部屋の隅まで引き摺っていって、押し入れに(へり)が乗り上げるくらいにしたのだった。うっさい、と云い捨てて、さっさともぐり込んだ。
 そして、そっと目だけを覗かせると、畳一枚半離れた九条院が眼鏡を外すところだった。裸眼だと顔のめりはりがなくなって、なんというか普通の男だという感じが強くなって、嫌だ。再び布団にもぐったところで、電灯が消えた。
 旅先の夜というのは、どういうわけか真っ暗闇だ。いつまで経っても目が慣れない。あたしは清潔すぎて居心地の悪い布団の中で転々とした。
 やがて、
「眠れない?」
 九条院の声がした。虚空から聞こえたようだった。あたしは震えた。声が澄んでいるから、九条院も眠っていなかったのだろう。
「別に…歩き疲れただけだ」
 あたしは観念して掛け布団を胸の上に折った。なんだか悔しかった。あたしの声も何処とも知れない闇の中に消えていった。
「ふうん」
「あんたも寝てないだろ」
「僕は普段から寝つきが悪くてね」
「ふん…」
 一緒に暮らしていてもそんなことは知らない。同じ部屋に寝ていることが、どんどんと不可思議になっていく。
「……ほんとに、あたしなんかを連れてきてよかったのか」
 破れかぶれに尋ねた。(こだわ)るね、と九条院の声は笑っている。ヒサキさんを、誘ったなら、喜んだだろうに。自動音声みたいに不格好に、あたしは云った。
「それは、できないよ」としばらくしてから九条院は答えた。「そういう関係にはなれないんだよ」
「あんだけいちゃついといて」
「確かに、プロポーズはされたけど」
 え、とあたしは絶句する。すぐに自分を莫迦にした。
「じゃ…結婚するのか」
「しないよ。それは、はっきりと云ったから」
「どうして」
 男は少し間を置いて、
「ヒサキさんはね、前の結婚はああいう形になったけど、どうしても家庭を持ちたいんだって。でも、僕にはそれはできないから。ヒサキさんも判ってて、気晴らしに遊びにくるだけなんだよ。年下だし、気兼ねがなくていいんだと思う」
 年下なのか、と心が昂ぶりすぎていて、そんなことにしみじみと感じ入っていた。そういえばそうだ、なのに意外な感じがした。和服姿で連れ立って店を出ていく二人の姿が、妙に胸に迫って思い出された。
「……寂しい男だな」
 あたしは云った。
「君だって」
 九条院は少し茶化した。
 だから、君はなんの心配もしなくていいんだよ、と急にそんなことを九条院は云った。
「なにが」
「このところぴりぴりしてたのは、居場所がなくなるように感じてたからじゃないの」
 何も云えなかった。
「そうかもなっ」
 あたしは大袈裟に布団をかぶった。その通りかもしれないと安堵する心も、そうではないと痛む心もあった。
 あたしは布団に籠もったまま、またそろそろと声を出した。
「なあ…」
「うん」
「あたしは、もう、やりたいことをやめたほうがいいと思うか」
 男は息だけで笑って、
「なんて云ってほしいの」
「やめるな…」
「それなら、伶君、やめるのはよしなさい」
 きっぱりとした言葉だった。あたしは枕に顔を押しつけた。か細い返事は布団を透して伝わったのだろうか。あたしは哀しかったのだ。ただ夜のあいだ中、哀しかった。そして、この記憶を忘れないでいようと思った。

 次の日、あたしたちはそれぞれにお土産を買って帰った。同じところに。

 翌年の夏に、あたしは九条を出た。

space

 なんか揺れたな、と思って電灯の紐を見返ると、本棚の中の時計に目が留まった。丁度午前〇時〇分きっかりだ。明けましておめでとう。今年も知らないうちに年を越してしまった。
 溜め息をついてヘッドフォンを外すと、隣室との壁を透して笑い声が聞こえてくる。隣人は見るからに野暮ったい当たり前の男子大生だった。あたしが引っ越し蕎麦を持って訪ねると、のそのそと出てきて、
「あ、すいません」
 と表情を動かさずに云ったのだ。それからしばらく、集合ポストの前なんかで会うと無言の会釈と執拗な視線をくれた。まあ、ほっといてもそのうち気づくだろ、と思っていたらじきに変に笑顔で挨拶してくるようになった。長髪ロングスカート、こんな見目のあたしが男だと、無事認識したようだ。
 そんななんの変哲もない男子大生は、去年の夕方から仲間を招いてわいわいやっていた。おそらくさっきの振動も、年が改まる瞬間に空中にいようという(いとけな)い考えで飛び跳ねでもしたのだろう。おめでとう男子大生たち。あたしは祝福したあとで脱力した。薄い、そちこち剥がれた砂壁に、カーペットを二枚重ねても足が沈む畳敷きの床、それらを伝って無意味な、けれど感動的な隣室の一体感が流れ込んできて、なんだか苦しくなったのだ。
 おめでとう、ともう一度、机の前の壁に向かって云った。祝福というのは相手が喜んでいることに対して贈るものなのか、それともその出来事自体が喜ばしいと思われるのでするのか、どちらなのだろう。
 パソコンの画面の、右下にひっそりとある時刻表示は〇時六分過ぎだ。今からなら七時間近く眠れる。けれど筆の進みも悪くない感じだ。このまま仕事を続けるかどうか、しばらく考えたあと、あたしはパソコンの電源をおとして立ち上がった。あげるのが億劫で、二つに折り畳んであった寝具一式を伸ばす。ハロゲンヒーターを切り、電灯の紐を引っ張って布団に入った。四畳半一間、横になれば頭はデスクチェアの脚に、爪先は一台きりの本棚に届く。右手を伸ばせば汚れたサッシの冷気が伝わり、左を向けば年末に出し損ねた可燃ゴミの袋が居座る台所のビニールの床がすぐそこだ。この安アパートに越してきてもう三ヶ月になる。それ以前、まる一年間借(まが)りしていた古書店の二階は、ここよりもずっと窮屈だった。あの部屋に比べれば、ここは圧倒的に広々としている。広すぎて、たまに途方に暮れる。
 去年の年越しは、あの家で迎えたのだった。
「年が明けたよ」
 あたしは大晦日だろうが構わずに、夕食が済むと二階へ引っ込んだ。一人で知恩院の鐘を聞いていた男は、午前〇時十二分になって階段を上がってきて、()てた障子の外からそう云ったのだった。まるで、喜ばしいことをあたしにもお裾分けしようというような口調だった。あたしは勿論、聞かないふりをして、障子の外の九条院も何事もなかったみたいに隣の部屋へ入っていった。あの、お互い無言で関わり合っていた数秒、あれはなんだったのか、とうとう問い糺せないままだ。
 数日前、その九条院から久々にメールがきた。【お正月には戻っておいで】相変わらず句点も読点もない。むっとして返信すらしなかった。けれど七時間後には出向いていくのだ。
 もう午前〇時十二分も過ぎた。
 睡眠不足だと心が沈む。あたしは少しでも長く神経を休ませようと、無理に目を(つぶ)ったのだけれど、胸苦しくて、やがて再び電気をつけた。一寸(ちょっと)のあいだに闇に慣れた目を(こす)ってカーペットの上の読みかけの文庫本を引き寄せる。これでまた明日が辛くなると判ってはいても、その「明日」なんてものは無限遠の距離にあるように思えた。いつも、ずっとそうだ。この真夜中は永遠だと固く信じているのに、何度となく朝がきてあたしは振り出しに戻る。
 それでも、七時間後にあたしは古書・九条に行く。

 一年のいちばん初めの朝は一年の最初の太陽の色をしている。てらてらと油っぽくて、それが門前の葉牡丹や閉ざされたシャッターやその上の注連(しめ)飾りを照らしている。と、以前には思っていたものだ。今や、元日なんて日付がリセットされるにすぎない。ほんの昨日が去年だなんて途方もないものだとは実感がしない。
 あたしにも一緒に飛び跳ねる仲間がいたなら違うんだろうか。
「おめでとうございます」
 横合いから元気な声がして、あたしは硝子戸に伸ばしかけた手を止めた。
 見るとヘルメットをかぶった女の子が立っていた。ごつい自転車を支えている。年賀状配達のアルバイトの子だ。
 古書・九条は四枚ある硝子戸の一枚分を残して内側にカーテンが引かれている。そのひらかれた部分に今まさに手をかけようとしていたのだから、身内だと思われて当然だった。
 あたしは、あ、と云った。云ってからしくじったと思った。ここは「おめでとう」と返してあげるべきところだ。けれど今更言祝(ことほ)ごうにも間が悪いように思えて、あたしはしばらく「あ」の音を引きずってから、小さく「もらおうか?」と尋ねた。
 すると女の子はぴんと背筋を緊張させて、
「すみません、お手紙はポストに配達するように云われていますので、お入れしますから、そちらからお取り下さい」
 そして自転車のスタンドを立てると、ぎくしゃくしながら硝子戸の脇にあるポストに葉書の束を落とした。
「失礼します」
 ぺこりとして再び自転車を押していった。年明けいちばんに純朴な若者を怯えさせてしまったなと、あたしはジャンパーの背中におめでとうと口の中で祈るように云って、それから年賀状を取り出した。
 輪ゴムのかかった分厚い束の、その上の一葉を何気なく見たら、差出人が「櫻井ヒサキ(旧姓・入部)」となっていた。跳ねた心臓が息の根を止めた。
 そうか、櫻井さんになったのか、ヒサキさん。
 大して親しかったわけじゃないけれど、結婚を報告しにきた場には居合わせた。引っ越しの様子も眺めていた。それでどうして、あたしがこんなにも(しお)れるのか。ライターを廃業したあたしが食い詰めて九条に転がり込んだ、その同じ頃にヒサキさんもこの裏の実家に戻ってきていて、よく九条院を連れ出しにきた。それだけだ。なのに喉がいがらっぽくなる。あたしは咳払いをして、それから思い切って硝子戸を開けた。
 暖房と湯気の匂いが押し寄せた。
「年賀状だぞ九条院」
 破れかぶれに呼ばわりながら暗い店内を進むと、奥の居間から男がひょっこり顔を出した。しかし問題の九条院ではない。それどころか意外すぎる人物だった。
「え…塔田じゃん」
 塔田は何か企んでいるような笑みを浮かべた。「お久しぶりですね、伶さん」
 あたしはぽかんと立ち尽くした。最初にこの男に会ったのは、かれこれ五年近く前だ。そのときの状況が特殊だったので、以後再び顔を合わせることはないと思っていた。ところが三ヶ月前、九条を出て少しして、思いがけなく再会したのだった。
 連絡してきたのはウッディーだった。
【井伊眞吉が他界したそうですよ】
 それだけのメールだったけれど、あたしは十分後には身仕舞いをして安アパートを飛び出していた。電車で一時間の駅で降り、西口のこぢんまりとしたバス停に立ってから、ふと途方に暮れた。
 かつて無節操に文章を書き散らしていたライター時代、ある取材のために捜しあてたのが井伊眞吉という人物だった。井伊眞吉は大正から昭和にかけての著名な言語学者の教え子で、あたしと九条院とが訪ねたときには、既に満足に言葉を発することはできなくなっていた。その傍らで口となり、手足となっていたのが塔田だったのだ。そしてあたしの人生を仕切り直すきっかけになったことを、この塔田は為果(しおお)せてくれたのだった。
 井伊眞吉が死んだ。訃報を聞いて駈けつけたものの、葬列に加わることはできそうになかった。かえって井伊の爺さんに悪い気がした。
 秋口の目映い日だった。初めにおとなったときもそうだった。結局、蜻蛉返りすることもできかねて、あたしは見覚えのある格子戸をくぐった。広い庭や、昔、学習塾をしていたという座敷に喪服の人々が点在していた。思いのほか静かで、閑散とした式だった。爺さんには子供はいない。受付に並んだ、甥姪の息子か婿か、そのくらいの続柄(つづきがら)なのだろう若い二人がこちらを見る。あたしはいつもの仰々しい服装だった。気まずくて視線を逸らすと、庭の奥にぽつんと黒の一点が佇んでいるのに気づいた。
 そちらへ分け入っていった。密な樹木や杜鵑草(ほととぎす)なんかの下生えのあいだに飛び石が続いていて、その先に小さな四阿(あずまや)があった。石の柱の一本に凭れて、塔田はぼんやり空を見ていた。
 背後で立ち止まると、少しして振り向いた。
「伶さん」
 と口の端を(ゆる)めた。打ち(ひし)がれているのだなとすぐに判った。以前の塔田は間違っても、こんな人がよさそうな表情などしなかったのだ。
「きて下さったんですね。何処でお知りになったんです?」
 井伊眞吉は九十七才の大往生だった。それで訃報欄の記事は他より目を惹いたし、たまたまそうして目を奪われた奴の中に物好きがいた。「井伊眞吉」という名だけは学者の著書のお陰で知っている人間は知っているのだ。あの「彁」の井伊眞吉が死んだ、という話はすぐに奇書マニアであるウッディーの耳、というか目に届いた。そしてウッディーは、あたしが日常的に連絡を取り合う数少ない相手だ。
 そういうことを掻い摘んで説明すると、塔田は小さく笑い声を零した。
「やはり運命ですね」
 塔田はこうやって寒いことを平気で云う奴ではあったが、やはり心が乱れているのがよく判った。こんなところにいていいのか、と問うと困ったような笑みで、「まあ、実のところ親族でもなんでもありませんからね」と答えた。本当なら奇妙なことだ。晩年の爺さんに最も尽くしたのはこの男のはずなのだから。あたしは居心地が悪くて頸を捻り、受付の白い卓布を遠く見て、「焼香って…そんな気分になれない」と呟いた。僕もですよ、と塔田は云った。
 健在だった頃の爺さんが丹精した、丈高い庭木がさわさわと鳴った。しかし風は感じない。
 塔田は左の手首に通した木の数珠を弄びながら、再び伸び縮みする秋空を見上げた。そして、ぽつぽつと語り始めた。
「正直に云うと、あまり哀しいという気持ちはないんですよ。先生にとっては待ち兼ねたものだったのかもしれませんし。寝たきりになられてからも何年にもなりましたからね。それに、遠からずこうした日がくることは、謂わば暗黙の了解のようなものだったんですよ。お年を考えれば、それが自然ですけど、でも不思議なものですね、人間の傍にいるということは…。それで、なんだかまるで、これまでの数年間、毎日ずっとお葬式をしていたような気が今ではするんです。だからかえって、こうして本物をするときになって、気が抜けてしまって」
 塔田は焦点のぼやけた目を細めた。涙をこらえる、というより、本当に眠気をこらえるような感じだった。
 大丈夫か、とそれしか云えないで呟くと、男は何かを飲み込むように視線を下ろした。
「──ええ、勿論ですよ。じきに治ります。それは自分でも判っているんですよ。やらなくちゃいけないこともありますしね。いい加減に論文も書かなくてはいけませんし」
 笑って、大学のときも随分ぎりぎりになって書いたんですよ、と云い足した。この男は井伊眞吉の傍らにあるために、沢山の時間を(なげう)ってきたのだと判った。
 あたしは項垂れた。滅茶苦茶に打ち負かされたような気がした。
「伶さん」
 塔田が云って、あたしは顔を上げた。塔田は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「伶さん、あのとき伶さんがお持ちになった『夕菅』の写真、先生は枕許の壁に貼って、ずっと眺めてらっしゃったんですよ」
 それが本当なら、あたしは少しはあのときのことを好きになれるかもしれないと思った。もし柩にあの切り抜きが納められたとしても、それだけでは、そんな気持ちにはなれなかっただろうのに。

 あたしは出棺のときまでいて、別れ際、塔田に自分のありとあらゆる連絡先を教えた。だが三ヶ月間、なんの音沙汰もなかった。多分、あたしなぞになんらかの助力を求める必要などないくらい、あの男はあの男で確固として生きているのだろう。
 そう納得していたというのに、この正月の朝、古書・九条に塔田はいたのだ。
 訳が判らないでいると、居間に続いた台所から(ようや)く九条院が現れた。
「おかえり伶君」
「居酒屋かここは」
 思わず云い返して──塔田のことはひとまず置いて、あたしはぐっとなった。一年間の同居生活は莫迦にならない。あたしは九条と九条院に慣れきってしまっている。それを感づかれるのは癪だ。だからこの三ヶ月間、一度もここにこなかったのだ。
 だが当の九条院はこれといって気にしたふうがない。それはそれで腹が立つ。
「上がって、先にお(せち)でも食べてて。今お雑煮作るから」
 云うなり引っ込んだ。ちらりと見えただけだが、思った通り和服姿だ。(うぐいす)色の着物だった。三十代の古書店主であり本の博愛主義者であるこの男は、折に触れて和装をするのだが、正月に普段通りの襯衣(シャツ)にループタイだったら逆に捻りが利きすぎるというものだ。
 あたしは仕方なく居間に上がった。云い出し損ねて年賀状の束を握ったままだ。台所を覗くと、(たすき)がけをした九条院は心穏やかに流しに向かっている。声をかけてやる気は起きなかった。それで居間の隅の茶箪笥の上に、新年のご挨拶のほうを上にして、つまり伏せて、束を置いた。
「伶さんはアルコールは召し上がるんですか?」
 塔田が尋ねてくる。
「ああ…まあ」
「じゃあ付き合って下さい。一人じゃ味気なくて。彼はもう限界のようですし」
 云われて見ると、二階への急な階段の下にウッディーが伸びていた。手足を投げ出して、顔は真っ赤だ。ぞろぞろの髪が暖簾みたいに垂れている。
「なんでも、カシスオレンジ一杯がこれまでの最高記録だったそうですよ」
「そりゃあ…」
 呆れて呟くと、やっとあたしに気づいたのか、矢庭(やにわ)に青年が飛び起きた。
「れ、伶さん、新年おめでとうございます」
 畳に額を()りつける。あたしはよしよしと頷きながら肩を抱いて起こした。
「いいから(おもて)を上げなさい」
 一寸(ちょっと)力をかけただけなのに、青年はそのまま引っ繰り返り、今度はテレビに凭れて動かなくなった。
「少し勧めすぎましたかね」
 一方の男はゆったりと頬杖を突いている。けろりとして酔いの気配もない。卓の上にある徳利は三本きりだが、どうせこれが最初の分ではないだろう。蟒蛇(うわばみ)だったのかこの男、とあたしはじっと睨んだ。一体あたしがくるまでに、どれだけ飲んで飲ませたのだか。
「さあ、伶さんも」
 あたしは促されるまま盃を受けて、しかしそれには口をつけずに切り出した。
「なあ、聞いてもいいか?」
「なんです?」
「……なんでここにいるんだ?」
 ウッディーはかつて、他ならぬあたしが九条に連れてきた。去年も年始にきて夕飯を食べて帰った。だから疑問はない。問題は塔田だ。
 塔田はくすくすと笑った。あたしは気勢を()がれたままで、盃をかじるように酒を口に含んだ。ぼんやり卓の上を確認した。重箱にはお定まりの料理が詰められ、その他に筑前煮の皿がある。どれもこれも手作りなのだと、去年その調理過程を見ていたあたしは知っている。
「いえ──先生のことで」
 と、稍間を置いて塔田は口を切った。
「正確には、先生の蔵書のことで。葬儀のあと、お宅を整理しなくてはいけなかったんですが、蔵していらした本がかなりありましてね。相当に古いものばかりで、貴重なものなんですが、親族の方は処分なさりたいそうで」
「あの家、やっぱり手放すのか」
「ええ、まあ…すぐにという話ではありませんが」
 あたしはあの家が無人となり、盛んな庭木や草花に飲まれていく様を思い浮かべた。それは、ある意味では大団円なのかもしれなかった。
「本当は、僕がすべて引き取れればよかったんですが、それほど余裕のある住まいでもありませんから。何処かに寄贈することも考えたんですが、それもなんとなくしっくりこなくて」
 しんみりとした空気があたしたちのあいだに流れていた。ところがそれは次の下りで吹き飛んだ。
「そのとき、ふと隼人さんのことを思い出して、どうにか連絡を取ったんです」
「隼人、さん、て…」
 絶句した。指先まで走ったのは酒気の痺れではない。
「どうかしました?」
「いや…」
 あの男、今台所で襷がけをして料理に(いそ)しむ男を下の名前で呼ぶなんて変だ。というだけだ。以前にも一人、「隼人君」と呼ぶ人がいたが、そのときにもあたしは馴染まなくて参った。九条院は「九条院」だ。
 それでですね、と塔田は変わらない調子で話を継ぐ。
「隼人さんにご相談して、先生の蔵書を引き取って頂いたんです。何処だか判らない書庫で埃をかぶるより、求めている人があるならその方の手に渡るほうが有意義だと思いましてね。それ以来、たまに電話やなんかでお話しすることがあって、今回も、本当は心喪(しんそう)に服しているんですけど、気晴らしにと招いて頂いたんです」
「電話、ねえ…」
 あたしは九条院とは句読点のないメールの遣り取りしかしたことがない。電話で話せと云われたら舌を咬む。
 そうなんですよ、と急に合いの手が入った。あたしたちが振り向くと、目の据わったウッディーがむっくりと背を起こした。
「本当にその通りだと思います。歴史に埋もれてしまった本は沢山あるんです。とっても勿体ないことです。源氏物語や、堤中納言物語や、福音書のQ資料や……」
「うんうん、苦しゅうないから」
 あたしが(なだ)めると青年はまた倒れる。どんだけ飲ませたんだよ、と塔田に小声で(ただ)した。
「差しつ差されつですから、僕と同じだけですよ」
 男はにっこりと云う。余裕綽々というのはこの男のためにある言葉だ。すっかり元に戻っている。あたしはほっともしたが、やはりげんなりした。
「あんた…おちこんでたときのほうがいい。ちょっとは可愛かったのに」
「おや、それは年端のいかない子供や愛玩動物や二次元のキャラクターや無機物に覚える好意と同じ意味ですか?」
「可愛くない」
 あたしは手酌で注いで一息に干した。
「大体、あんたらいつから集まってたんだ」
「ゆうべから」
「はあ?」
 心底からの声が出たところで、和装の(あるじ)が顔を出した。
「楽しそうだね。お酒足りてる?」
 何処をどう解釈したらそういう判断がつくのか、あたしは九条院を睨んだ。
「こいつら、ゆうべからいるのか?」
「うん、伶君もくるかと思ってたんだけど」
 県外からの帰省ならともかく、同じ市内の人間に「正月」と云われたら元旦のことだと思うに決まっている。あたしが安アパートで日常を果敢(はか)なんでいたとき、こいつらは三人寄り集まってわいわいやっていたのだ。
「どうします、まだお酒頂きますか?」
 勿論、とあたしは決定した。
 九条院が空いた徳利を引いていくと、塔田が変に親身な声音で尋ねた。
「やっぱりお声をかけたほうがよかったですか?」
 黙殺した。
「でも、伶さんもいけないんですよ」
「──なにが」
 あたしは突っ慳貪に切り返した。
「どう云ったらいいのか、伶さんには孤高の気高さがあるんです」
 その孤高で気高いあたしは萎えすぎて変な声を出した。酔い潰れた青年が「そう、そうなんです」と調子っ外れの賛同をする。
「お誘いしてはご迷惑なんじゃないかと思ってしまうんですよ。それで折角連絡先を教えて頂いても、不義理だと思いつつも自重してしまうんです」
「ふうん…」
 けれどそれは、とても損なことなのじゃなかろうか。あたしはなんとなく横目で台所を窺った。九条院もそうなんだろうか。気高さやそういうんじゃなく、あたしは放っておいてほしがっていると思うのだろうか。
 ここを出ていくとき、あたしは「一応」と云って安アパートの住所を書き残しておいた。しかし三ヶ月間、九条院がおとなってくることはなかった。
 はっとして唸った。大体あたしは、あいつに訪ねてきてほしいとでも思っているのか。
 ふふ、と塔田は笑った。
「……なんだよ」
「いえ、別に。ただ、誰かの傍にいられる時間は有限ですからね」
 やんわりと息の根を止められた。それはそうだ。間違いのないことだ──この男は身を以てそれを知っているし、あたしだって判ってはいる。ただ、今が圧倒的すぎて、未来が手の触れられるところにないのだ。得るということがしっかりと想像できないように、失うということも空想でしかない。
 九条院が湯気の立つ碗と徳利を盆に載せてやってきた。
「お餅いくつ、って聞きませんでしたね、隼人さん」
 あたしは唸ってそっぽを向く。
「だからお代わりしてね」
 九条院は手際よく三つの碗を並べると、本当に不意にあたしの頭に手を乗せた。「伶君もね」
 顔を跳ね上げたときにはもう、九条院はウッディーの前にいっていた。
「君はどうする?」
「はい、頂きます」
 なんだか泣き腫らしたあとのような顔の青年は(にじ)り寄って、塔田の右隣に座を占めた。あたしの左隣だ。九条院は碗を青年の前に移すと、もう一つ用意してきて、それを持って腰をおちつけた。塔田の左側、あたしの右手に。
 (たすき)を解くしゃらしゃらという衣擦れの音を、あたしは耳をそばだてて聞いた。
 雑煮には厚揚げと菠薐草(ほうれんそう)と削り節が入っている。澄ましだ。
「こういうものは地方色が出るっていいますね」
 と塔田が云いだしたので、あたしは一寸(ちょっと)気をつけて会話を見守った。九条院は「さあ、自分が好きなように作ってるんだけど」と煮え切らないことを云った。こいつの出身地を未だにあたしは知らない。また知り損ねた。けれど、別に知りたいわけでもない。
 黙々と箸を進めていると、またしても塔田がくすくすと笑いだした。
「しかし、不思議なお正月ですね。というより、顔ぶれが」
「古書店の主人と言語学者と奇書マニアと文筆家崩れの男四人か。むさ苦しいわね」
「華はありますけどね」
 塔田は何やら不穏な眼差しをあたしにくれた。
「伶さん、もっとこの座に華を添えませんか」
「はあ?」
「やはり振り袖の方が一人いると、格段に雰囲気が違うと思うんですが」
 あたしは唖然とした。だがウッディーが諸手を挙げて賛同する。すっかり質の悪い年上に籠絡されている。九条院は笑っているばかりだ。
「あのな、三十振り袖四十島田といってだな…」
「そんな、ご冗談を」と塔田、「伶さんは特別です」とウッディー、聞く耳を持たない。ところで、それどういう意味ですか、と尋ねる奴が一人もいない。流石でもあり萎えもする。第一あたしは男だというのに。
 調子づいて、塔田はまだ可笑(おか)しそうにしている九条院に尋ねた。
「隼人さん、振り袖はないんですか」
 九条院は笑い顔のまま頸を振り、
「うちにはないけど、なんだったら」
 そこで、はたりと言葉を切った。そしてやんわりと細めた目で続けた。「裏にいけば、貸してもらえるんじゃないかな」
 あ、とあたしは頭が冷えた。──九条の真裏はヒサキさんの実家で、ヒサキさんは和裁の先生だ。
 塔田とウッディーが裏、という言葉の意味を尋ねる前に、九条院は勝手にあたしの碗を取って立ち上がった。
「もう少し食べるでしょ」
 そうしていきかけたとき、円眼鏡の奥の目が最悪のものを見つけた。
「きたんだね、年賀状」
 あたしは咄嗟に言葉が出なかった。九条院は年賀状の束を取り上げて引っ繰り返し、数秒間、眺めて、また茶箪笥に戻した。
「二人も遠慮しないでね」
 背を向けたまま云ったので、それはひどく取ってつけたように聞こえた。
「あの…」
 塔田が台所に届かないように切り出す。「別に、なんでもないんだよ」とあたしは答えた。そのとき何故だか、自分はあの九条院という男と一年ここで暮らしたのだということが、まったきことのように感ぜられた。
 九条院はしばらくして戻り、碗とは別の手に年賀状を持ってあたしの右に座った。
「はい」
「うん…」
 しかし箸は取らずに九条院の手許を見ていた。九条院は輪ゴムを外し、ヒサキさんの葉書を長すぎるほど見下ろしていた。そして裏に返した。文金高島田で見事な白地の着物を着たヒサキさんが微笑んでいた。
 四十の島田だって、充分綺麗だ。
 やっぱり着物が似合うな、あたしはドレス着たんだろうかって思ってたんだけど、こっちのほうがらしいな、なんて、意味のないことなら幾らでも云えた。しかしあたしは黙っていた。九条院のほうが口許を笑わせ、あの人は本当に白が好きだねと、まるで映画の中の女を評するように云った。好きだったくせに、傷ついたくせに。プロポーズまでされたのに、九条院は断った。「自分には家庭は持てないから」と云って。
 あたしはじっと、ヒサキさんの隣の男性を見た。なんてことのない男だ。こうして羽織袴を着て、金屏風の前に立つためだけに生まれてきたような人だった。だからこそなのかもしれない。でも、ぱっとするヒサキさんとはあまり釣り合っていない。九条院と並んでいたときのほうが余程、似合っていた。
 あたしの隣の男はその葉書を座卓の上に置き、他のも同じようにそうしていった。
「不愉快だわ」
 あたしは無意識に呟いていた。
「何がです?」と塔田が問う。
「それはほら…きっとあんたら、あたしに年賀状出さなかっただろう」
「ええ、まあ。でもこうして直接お会いできたじゃありませんか」
「だめだ、その一枚で切手シートが当たるかもしれないだろう」
「僕、昔グルメセットが当たりました」とウッディーだ。
「そういうことでしたらすぐにお送りしますよ。十通くらい」
「いや、やっぱり元旦に束で届けられるのがいいんだ」
「それは迂闊でしたね。では埋め合わせに僕の秘密でもお教えしましょうか」
「……いらん」
「僕のフルネームをご存じですか?」
「え、塔田…(かぶら)?」
「それは筆名なんですよ。本名は(ひびき)というんです」
「どうでもいいな」
「僕は、山瀬耕平です」
「ウッディー…普通だな」
 他愛のない詮もない遣り取りはいつまでも続いた。あたしは切ない思いで我関せず(えん)のように葉書を繰る九条院を横目に見ていた。
「で…塔田響、話のついでに一応聞くけど、あんたもう鳥肌が立つようなものは書いてないんだろうな」
「伶さんについての評論ですか?」
「ぼやかしたことをさらりと云うな」
「それは以前にもお話しした通り、実際に伶さんとお会いしたら書く気がなくなってしまいましたよ。満足してしまったんですね。それに」
「なんだよ」
「──君がまた、書きたいものを書くようになったからね」
 あたしは振り向いた。九条院が葉書を束に直しながら、(やわ)らいだ表情をしていた。
「僕たちにはそれが、何より嬉しいんだよ」
「……実家か、ここは」
 あたしは投げ遣りな返事をして、やっと口を噤んだ。泣きだしそうな顔をしていただろう。腹が立つ。自分が吹っ切れた合図に、あたしをだしに使うとは。
「そういえば、僕は思うんですよ、欧米の人は実家じゃなくて、両親の家って云います。あれが不思議に思うんです。成長したら出ていって別に家を持つのが当たり前みたいな」
「それはやっぱり、東洋には現代でも『家』という概念が残っている影響じゃないかな。儒教的な家族主義だね。東洋じゃその家、その氏に属するということが重要視されていて…」
 奇書マニアの譫言(うわごと)に、新進の言語学者はまだ律儀に応えている。伶君、と九条院が云った。
「おめでとう」
「……なにが」
「そうだね、新年。まだ云ってなかったなって思ってね」
 あたしは口の端を弛めた。それから一度、引き結んで、おめでとう、とぽつりと云った。
 おめでとう、この今現在、今この場所、少し傷ついたあたしと九条院と──それを受け入れるために、「おめでとう」と云うのだ。

 酒に飲まれた青年と酒量を(わきま)えたあたしと蟒蛇(うわばみ)と下戸の四人で近所のお(やしろ)に初詣に行こう、と云い出したのは九条院だった。あたしたちはわらわらと身支度をした。
 表に出ると目が痛んだ。真っ白な、なんの変哲もない昼日中の景色だ。最後に出てきた九条院は古いお札や破魔矢を入れた紙袋を塔田に預け、屈み込んで硝子戸に鍵をかけた。その遣り取りがあんまり自然だったので、あたしは路地でふらふらしているウッディーの二の腕を小突いた。
 商店街と住宅地が混在した路地を四人、固まって歩いた。九条院に、塔田に、あたし、ウッディーと、年の順と身長が綺麗に並んでいる。前を年上の二人がいく。九条院は羽織で塔田は黒の短いトレンチだ。あたしたち二人はバックルがごたごたしたロングコートと学生くさいダッフルコートで、とても見劣りがした。ウッディーは打たれた理由が判らずに、純朴な顔つきで歩いていた。
 五分ほどで辿り着いたのは本当にこぢんまりとしたお社で、元日だのに他に人影はなかった。あたしと塔田は五円、ウッディーは五十五円、九条院は百円玉を賽銭箱に入れた。柏手(かしわで)を打ったものの、あたしは特に願うことも祈ることも思い浮かばなかった。本当に何一つ、願いたいことはなかった。
「何をお祈りしました?」
 と塔田が聞いてきたので、その通り答えてやった。
「確かに、毎度々々頼みごとをされては神様も気が休まらないでしょうからね。嘆きの森というのをご存じですか?」
「そういう談義は耕平君としろよ」
 と云って振り返ると、ウッディーの顔が真っ青になっていた。大丈夫か、と声をかけると、限界かもしれないです、と弱々しい返答がある。
 おやまあ、と呟いた塔田が傍に寄っていった。
「付き合わせたのは僕ですし、僕が責任を取りましょうね」
 ウッディーに肩を貸すと、塔田は隣接する児童公園のほうに運んでいった。幸せにしてやってくれと胸の裡で云った。あたしはコートのポケットに手を入れたまま、二人の後ろ姿が消えたほうをしばらく眺めていた。
 やがて観念して振り向いた。少し後ろに九条院が立っている。九条院と二人きりになった。
「──…なあ」
 と、こちらから切り出した。
「あたしが出ていって、寂しいか?」
 じっとあたしの心裏を推し量るように佇んでいた九条院は、問われると、間を置かずに破顔した。
「そうだね」
「そうか」
「うん」
 そうか、そうなのかと、あたしは静かに納得した。
 でもね、と九条院は続けた。
「君がしたいことをしているんだから、呼び戻したりはしないけどね。二階の部屋はまだ空いてるけど」
「だから、実家か、って」
 そうだよ、きっと。という言葉は聞こえなかった。あたしたちはまた、無言の時間を取り交わしただけだった。
「──しかし、塔田、あんな奴だったとはな」
 もう大丈夫だ。もう、あたしはあたしに戻られる。
「でも彼、さっき云っていたんだよ。久し振りに笑えた、というのは嘘で、この三ヶ月も笑ったり可笑(おか)しく思うことは何度もあったけど、やっと、それでももういいかって思えたって。あれは多分、照れ隠しだね」
「そんな可愛げのある態度か、あれが」
「そういうものだよ、きっと」
「ふうん」
「ねえ君、本当に何もお祈りしなかったの」
 少し目を細めて九条院は尋ねた。心配しているような調子だったから、あたしは笑い飛ばした。
「何もいらないし、何も不足はないし、満ち足りているんだよ、あたしは」
「そう」
「あんたこそ、どうせみんなが健やかでありますようになんて祈ったんだろう」
「勿論」
「来年もこうして集まれますようにって」
「よく判るね」
 おめでたいな、と云って、あとはもう言葉が浮かばなかった。
 圧倒的な今があるから、祈ることなんて何もない。

home-end I

 携帯の着信音で目が覚めた。はずなのに、あたしはその少し前から意識がはっきりしていて、冷静に電子音が鳴り始めるのを待ち受けていたような気がする。時々こんな錯覚をする。こんなときにかかる電話は、大抵いい知らせじゃない。
 あたしは唸りながら寝返りをうち、畳の上の携帯を掴んだ。〆切が近くて、眠ったのは既に空が白み始めた頃だった。まださほど時間が経っていないのは、頭の重さが証明している。瞼がひらくのを拒んでいて、あたしは枕に顔をうずめたまま通話ボタンを押した。意識から閉め出していた、あまりにも身近な声が鼓膜を刺した。
 数秒間だけ呼吸が止まった。小さく返事をして、あたしはふらつきながら布団の上に起き上がった。喉に違和感があって幾度か()せた。現実が取り立てにきたのだ。
〈寝ていたんでしょう、伶〉と電話の声は云った。
「起きてたよ」
 あたしは淀みなく嘘を云って、ぼんやりとサッシの透けたカーテンを見た。いい天気だな、と思うと少しして、どっと虚無感が押し寄せてきた。

 伶、というのはあたしの本名で、筆名でもあった。中性的な名前だったのが、今となっては予定調和のようでお笑いだ。腰まである髪、ロングスカート、そんなあたしを伶、と呼び捨てにする人間は今のあたしの身の周りにはいない。「君」だの「さん」だの、呼ぶ連中としか付き合いがない。
 けれど、世界中何処にも呼び捨てにする人がいないというわけじゃない。ただ一人、もしかしたら二人、あたしを「伶」と呼ぶ人がいて、忘れた頃に目の前に立ち現れてくる。いつでも、絶妙の不意を突いて、あたしを揺すぶる。
 ねえ、判ってるの。
 どうするつもりなの、ちゃんと考えてるの。
 あたしは「判ってるよ」と答えて、咳払いをした。喉が裂けたかのように痛んだ。風邪の予兆だ。あたしはいつだって喉から風邪をひく。
 判ってるよ。と、もう一度、無理に繰り返すと電話の声は沈黙した。それから急に弱気になった。──お決まりだ、干渉と拒絶と恨み言と。そのパターンをなぞるだけで、あたしたちは満足に会話もできない。
 あたしは黙って聞いた。先のことなんか考えずに、仕事、辞めたければ辞めればいいじゃない、などとは云えない。あたしには彼女を養う力もない。それに、この人には底なし沼のような痛々しい心積もりがあって、それは下手に手を出せば一瞬であたしを飲み込んでしまう。あたしが母親を遠ざけるのは、その忍従の沼がこわいからだ。
 結局、いなくたって同じだったろう、──俺なんか。
 あたしは親切心から、そう口走りそうになって口を引き結ぶ。
 一頻(ひとしき)り愚痴を吐き出すと、かかってきたときと同じく唐突に電話は切れた。あたしはしばらく放心したように動けなかった。やがて携帯の画面を見ると、八時十分過ぎ──一時間以上も母親の声を聞いていたのだ。あたしは再び眠るのを投げて、布団をぞんざいに二つに折ってカーテンを開けた。日焼けした畳に剥げ落ちた砂壁、中古品ばかりの手回りの品、そういうものが春先の朝の日差しにさっと照らしだされた。
 この安アパートに越してきたのは去年の夏のことだ。それまでの一年間は古書店の二階に間借りしていた。あたしは始め、大して重みもない新人賞を受賞して作家になった。あの頃に書いたものはどれも張り子のようだ。そしてふっつりと消息を絶ったあと、城戸伶はライターとして再スタートした。更に内容のない本はあぶくのように生まれては弾けて消えていったけれど、どうにか暮らしを立てるだけのことはできて、あの時期がきっといちばん生活は安定していただろう。そこそこのマンションに住んでいたし、気を紛らわせるためにひたすら物を買い集めた。それでも、あたしはやはり自分の願うものを忘れることができなかった。
 改行して初めから。食い詰めて腐れ縁の古書店主の家に転がり込み、我が身とノートパソコンだけが持ち物の(ほとん)どすべてで、そのときには携帯も解約した。そうして昨夏「城戸伶」でない別の筆名を持ったあたしはここに越し、少しずつ身の回りの品を揃え直した。携帯も新調した。だから、家を出て初めて、新しい番号を伝えるためにこちらから電話をかけた。母親は褒めてなどくれなかった。
 頑張ったじゃない、なんて言葉は、(はな)から期待などしていなかった。大丈夫なの、ちゃんと先のことは考えてるの。どれだけ心を悩ませても、彼女の苦悩の基準には達することができない。あたしは今更、傷ついたりはしない。ただ、彼女の声を聞くと躯が痺れて、何もかもが莫迦らしく思えてしまう。自分が願うものも、それがあたしのすべてだということも。
 顔を洗ってのろのろと身仕舞いをした。本棚に置いた櫛に手を伸ばしたら、脚が(もつ)れて、衣類のスチールラックに危うくしがみついた。──あたしは普段、金具やらでごたごたした服を着ているわけで、そういう何着かがハンガーを外れて畳に落ちた。拾い上げるのも億劫で、放ったまま髪を直して部屋を出た。出たところが路地まで伸びる三和土(たたき)の廊下、すぐ目の前に隣家のモルタル塀が迫っている。隣は普通の二階屋だがそういうわけで日が差し込まない。じめじめしているからそちこちに苔が()している。覚束ない足取りで路地のところまでいくと、丁度隣室の男子大生と鉢合わせた。
「あれ、こんな時間にどっかいくんすか伶さん」
 疋田(ひきた)という彼は、あたしが男であることも、作家だということも知っている。だから生活サイクルが一般から逸脱しているのも承知していて、九時前だなんて時間に出掛けようとしているのを訝しむのだ。ああ、まあ、とあたしは気怠く答えた。
「知り合いのところに…な」
「なんか声がハスキーじゃありません?」
「…そうか?」
 疑問形に疑問形で答えて、あたしは喉に力を込める。起きたときには一部分がぴりぴりと痛いだけだったのに、今では喉全体が腫れ上がって熱を持っている。まずいなと思うけれど、部屋には風邪薬の買い置きなどない。
 自分はバイト明けにそのままカラオケいって──と疋田は語る。きらきらしていいことだ。正しい青春だ、とあたしはこの子を見るたびに思う。正しい青春なんて、意外と実現できないものだ。
「じゃ、これから寝ますわ」
 疋田はひらひら手を振って、廊下を奥へ消えた。おやすみ青年、と投げ遣りに返して、あたしも路地をバス停のほうへ向かった。

 地下鉄で行き着く町には繋がりがない。暗転を挟んで突然に現れる。そこが見知った町と地続きだとは実感がしない。だから昔から好きだった。あたしはやっとの思いで駅の階段を上がると、道順を教えてもらったメールを呼び出した。肌がぽうっと熱い。それが体調不良のためか、日頃の運動不足のためかは判らない。
「3番出口から出ると判りやすいです」という最初の但し書きを見て、頭上のゲートを見上げた。はっきり「2」という数字がある。初めは3番出口、と念仏のように口の中で繰り返してきたのに、ああ、やっぱり頭がぼやけているんだな、と変に長閑(のどか)に思った。仕方なく地下に戻り、3番出口から出直した。まだ順序を一つ二つ進んだだけだのに、もうへとへとになっている。
 〆切間近の原稿に、どうしても引用したい希少本があった。以前は所有していたのだけれど、マンションを引き払うときに一緒に手放してしまった。一人、確実に蔵しているであろう奴の当てはあったが、まずは知り合いの奇書マニアの青年に問い合わせてみた。すると手許にあるという。よければうちまで届けると云ってくれたのだけれど、こちらから求めたことだし、あたしは自ら取りにいくと断ったのだった。
 その遣り取りがゆうべのことで、そのときにはこの体調不良や電話のことなど知る由もなかった。奇書マニアの青年とは数年来の付き合いだけれど自宅をおとなうのは初めてだ。それで一寸(ちょっと)楽しみな気分もあって、昨夜(ゆうべ)は──というより数時間前の早朝には、眠りについた。それが今では、そういう浮かれた気分は色々のことの背後に隠れてしまっている。無理を押してたった数行の引用のために本を取りにいく、そうした行為も、そもそも自分が物を書いているということさえ、莫迦らしいことに思えてしまう。
 あたしは気力を振り絞って教えられた道筋を慎重に辿った。国道沿いに歩き、大型スーパーのある角で左に折れる。道なりにいくと小学校がある。更に少し行くと○○という表札の家があって、その脇の路地を入る。あとは自然に判るはず。
 足が止まった。あたしは山瀬さんちを目指してきたのだが、行き着いた先には数軒の商店があって、そのうちの赤というか赤ピンクのテントに白字で「ヤマセ菓子店」と店名が抜かれてあったのだった。テントの下にはずらりとガチャガチャの機械が並び、古めかしいゲーム筐体が虚しくデモ画面を光らせている。そして店内には色取り取りの駄菓子が(ひし)めく。奥の暗がりに住居に続く上がり口があって、そこに腰掛けていた青年があたしに気づいて立ち上がった。
「お久しぶりです、伶さん」
 表に出てきたウッディーが、のっぺりとした表情のまま云った。本名、山瀬耕平は色褪せたエプロンをしている。あたしは気の抜けた返事しかできなかった。
「伶さん、なんだかお顔が赤いですね」
「いや…うん、気にするな」
 ウッディーはぞろぞろ髪の陰で鼻をひくつかせた。何事かを飲み込んだときの癖だ。じゃあ、中へどうぞ、と云って招ぜられた。駄菓子屋に入るのなんて何年ぶりだろう。下手をすれば十五年以上になる。あたしは抗いがたく店内を見回してしまう。懐かしいものもあったし、まったく知らないものもある。記憶の中の駄菓子屋はいつだって同じ学区の子供で満員で、ゆっくり棚を見ていられるような状態ではなかった。店の前には自転車が乱雑に駐められてあったし、足下には駄菓子の殻が散らばっていた。今は店の中にあたしとウッディーしかいなくて、とても片付いていて清潔だ。それで余計に変な感じがする。
「なんというか…のんびりしてるんだな」
「今はまだ学校の時間ですから」
「ああ、そうか」
 脇を通ってきた小学校を思い出した。高学年らしきクラスが校庭で体育授業をしていた。小学生でも中学生でも、姿を見かけると、果たして自分もあれほど躯が小さく幼かったのだろうかと不思議に思う。数字の上で十才だ十五才だと議論して考えるよりずっと、実際の子供は子供だ。けれど、自分がその年齢だった頃には、既に世界中の苦悩を背負っているような気がしていた。そのくせこわいもの知らずだった。()せないものはなんとしてでも否定できた。
 あたしはなんとなく、その無敵のアトラスたちが店にきて、あたしの姿を見たときのことを考えた。一寸(ちょっと)滅入った。
 ウッディーは敏感に感じ取ったのか、伶さん、子供は苦手ですかと問う。あたしは苦笑して答えた。
「というより、無意識の防衛本能がな…」
 すると駄菓子屋の青年は薄く頬をほころばせた。「子供は大人より忌憚がありませんからね」
 ああ、流石だな、と思った。そういうことなのだろう。別に、大人だって同じことを考えているのだ。ただ色々の体面なり制約があって、それを口には出さずに胸の(うち)で煮詰めているだけなのだ。
 それでは、上にいきましょう、と云って、青年はレジの鍵を抜くと上がり口をあがった。
「店番は」と聞くと、
「午前中は、近所のおばあちゃんがおやつを買いにくるくらいですし、僕がいなければ勝手にそのへんに代金を置いていくので」
 いいのだ、と答えが返った。そういうものらしい。
 なので、あたしも段の下で靴を脱ぎ、お邪魔します、とぽそりと云った。
「どうぞ。今は僕しかいませんけど」
 上がってすぐが居間で、奥に台所が見えた。居間にはカーペットが二重にされて、どっしりとした座卓が据えられている。テレビ台の中には土産物らしき置物が並んでいた。上がり口の左手に狭い階段があって、いちばん下には牧場の風景が織り込まれたマットが敷かれてある。匂い立つような「生活」だ。あたしはみるみる萎縮した。
「あ…店番て、一人でやってるのか」
 居心地が悪くて機を逸した質問をした。あたしの先に立って階段を上がりながら、「最近は殆ど」とウッディーは答えた。
「母は今パチンコです」
「へえ…」
 そのほうがいいんですけど、と独り言のようにウッディーは続けた。「昔は母が一人で切り盛りしていましたから」
 彼の話からは部品が幾つか抜けていた。そのほうがいい、のは母親のほうなのか、それともウッディーのほうなのか。あたしはなんとなく湿った哀しいものを感じた。家が「ヤマセ」で母親が「ヤマセのおばちゃん」である幼少期が、心楽しいはずがない。
 二階の突き当たりにある部屋に通された。あたしは思わず息をついた。予想はしていたけれど、凄い光景だ。部屋を構成する四つの辺のうち、三つは扉を除いて完全に本棚で覆い尽くされている。窓のある残る一辺にも、日除けをした窓に対して垂直に本棚が数台置かれている。机もベッドも小型のテレビデオも、本棚の前に申し訳なさそうに()わっている。
 素晴らしいな、と云うとウッディーは、
「ええと、まあ」
 嬉しそうにした。あたしも嬉しかった。躯の怠さも忘れて、遠慮なく本棚の中身を見て回った。(ちつ)に入ったものから和綴じの本、コピー紙を束ねた自家本まで、文字通りお眼鏡にかなったものなら分け隔てなく蔵されている。一所(ひとところ)にはあたしの色々な出版物が何冊かあって、ぐっとなった。薄目にして、試しにかつての吹けば飛ぶような小説を抜き取ってみた。奥付を見る。あたしは当然、初版本を持っているわけだが、青年の蔵書は幾つかあとの版だった。
 あたしがウッディーと知り合ったのは、既にライター時代、それも最後の企画を進めていたときのことだった。とある知り合いを通じて、ウッディーが出していた奇書紹介の同人誌を目にしたのだ。そのときのウッディーは──勿論、例の憂鬱な前日談は知っていたけれど、ライターとしての「城戸伶」しか認識していなかった。あたしの小説はそののちに読んでくれたのらしい。有り難い、そして居たたまれないことだ。
 あたしは別の棚の前へ移動する。よく見ると、テレビデオの後ろの辺りには本でなくDVDやVHSが収められている。青年はカルト映画愛好家でもあるのだ。白黒や原色のケースが目立つ。と、また足下がふらついた。あたしは棚に倒れかかり、「ごめん」と云おうとしたがそれも掠れてちゃんと発せられなかった。
 青年は伸ばしかけた手をぎこちなく下ろし、
「伶さん、やっぱり具合が悪いんじゃ…」
「いや、平気…。気を遣われると余計にしんどい…」
 ウッディーはとにかく座ってくれと勧める。あたしは有り難く畳の床にへたり込んだ。歩いてきた所為(せい)だけでなく、なんというか脚の骨が痛い。
 じっとしていればだいぶ楽になる。あたしはさっきので上がった心音がおちつくと、改めて部屋の中を眺めた。前後左右みんな紙の気配に包まれていて、気が休まる。自分はやっぱり本が好きなのだなと感じ入る。
 ウッディーは座布団を貸してくれたあと、パソコンの載った机の上から目当ての希少本を取り上げた。
「これでいいですか」
 あたしは礼を云って受け取り、(ページ)をひらいてみた。かつて自分で所有していたものよりずっと状態がいい。それを云うと、「やっぱりそういうのも気にするんです」と青年は答えた。
「同じものでも、もっと傷みの少ないやつを見かけたら手に入れたくなるんです。なんというか、僕が持っておけば、少なくともその程度の状態で保っておくことができますから」
 あたしは痛みを感じた。彼にとって無念なのは、珍しい本を誰かに持っていかれることでなく、ある一冊の「本」が永久にこの世から失われてしまうことなのだ。あたしは創作家だから、「小説」の頁に書き込んだりラインを引くなんて(もっ)ての外だが、「資料」とみなした本にはそうとも限らない。だからこの青年の徳には太刀打ちができない。
 けれど、誰もしないのなら自分がするというその心根は、やはり哀しいものだった。奇書マニアでカルト映画愛好家で、というのをこれまでは穿った趣味というくらいに捉えて愉快がっていたのだけれど、それがそういう、哀しい決心から起こってきているものかもしれないと思うと、胸が詰まった。
 ちょっと失礼しますね、と云い残してウッディーは部屋を出ていった。あたしは弱っていることもあって、身動きすると泣いてしまいそうな気がしたので、じっと俯いたまま本の頁を繰り続けた。ままならないな、という感慨がふと浮かんだ。知らないうちに始まった人生だというのに、何もかも、ままならないことばかりだ。そして、それがあたしだけではないということが途方もなくつらい。
 戻ってきたウッディーはエプロンを外して手に盆を持っていた。
「あったかいほうがいいかと思ったんですけど」
 白い茶器の中で、若葉色の緑茶が柔らかな湯気を立てていた。盆には他にヤングドーナツやらコーラシガレットやら、懐かしい駄菓子が載っていた。
「ありがと…」
 あたしは茶器を取り上げた。ウッディーはじっと見ている。稍あって、あの、伶さん、と切りだした。
「お節介かもしれないですけど、なんだか、今日は様子が変です」
「……うん」
「お仕事で何かあったんですか」
 いや、違うよ、とあたしは笑った。ウッディーはあたしの苦悩即ち小説に関することだと思っている。それはそうだ、あたしのすべては物を書くことなのだし、そのために生きてきた。けれど、そういうあたしはウッディーたちが知っている比較的上層のあたしだ。もっと底のほうに埋没しているあたしは、もっと根本的な(いとけな)いことで心を悩ませている。心配されているのは判るし、難題をふっかけたって何かしらの助言をくれる青年だけれど、あたしは鉛のようになっていた。爪で弾いても響かない。
 階下で物音がしだした。青年はぴくりと肩を震わせ、まずそうな顔つきをした。ちょっとすいません、と再び部屋を出ていった。耳を澄まさなくとも判った。母親が帰ってきたのだ。
 慌てた足音が階段を下りる。あたしとは無関係の会話が始まる。声の高低の所為か、ウッディーより母親の云うことのほうがよく聞こえた。店をほっぽり出していた叱責と、青年の説明に対する反応と。それらは全部同じ声の色、調子だ。この独特さが「母親」だ。距離を置いた遣り取りであるのに、あたしは堪らなかった。窓辺へ逃げようとして、躯の重心を移したら、そのまま床に倒れそうになった。意識と躯とが切り離されてしまった感じで、ぞっとした。ずっと昔、本当にぎりぎりまで神経が追いつめられたとき、家の階段の途中で突然、脚から力が抜けた。あたしは転んで、痛さだとかいうものより先に呆気に取られた。あの気味の悪い感じだ。これは躯の所為ではなく、そうして神経が凍りついてしまったための不具合と思えた。
 ウッディーが戻ってきた。詫び言を云いかけていた口を噤み、切羽詰まったようにあたしを呼んだ。あたしは情けなく笑みを浮かべて目許を(こす)った。ああ、もうだめだ、と思った。(うず)めておいたはずの、あの頃のあたしが出てきてしまった。
「……ごめん、やっぱ具合悪いみたいだし、帰るわ」
 努めたわけでもなく、明るい声が出た。あたしは本当に軽快な気分だったのだ。
 希少本を大切に鞄に仕舞い、どうにか立ち上がって、
「そうだ、下でお菓子買っていってもいい?」
 ウッディーは戸惑っていて、
「ええ…それは、勿論…」
 答えてもなお呆然と扉のところに突っ立っていた。あたしが近づくと、はっとしたように踵を廻らせた。
 青年のあとに従いながら、あの話はもう考えないの、とあたしは小さく尋ねた。あたしがライターとしての最後の本を出したとき、編集者にウッディーのことも話した。編集者は興味を持って、青年に連絡を取ったのらしかった。あたしはすぐに廃業宣言をしてしまったから、それ以後がどうなったのかをしばらく知らなかった。ウッディーは出版を断ったのだった。
「いやさ、もし書き続けることができたら、何かと変わってくると思うんだ…」
 はっきりと口にすることはできなかった。このくすんだ色をした日常は、紛れもなく青年の「生活」なのだから。青年はこだわりのない声で返事をした。
「僕は、今のままで充分なんです」
 何かを受け入れて、そして諦めた声だった。あたしには真似できない。たとえ日のめを見なくても、書き続けることはできる。それなのに、どうしても職業作家という肩書きが欲しかったのは、あたしはそれに()ってしか、自分を成立させることができなかったからだ。だのに、あたしはそれを投げた。他でもない「生活」のためだった。自分には書くことしかできないのだと、あたしは小学校の頃には悟っていた。だからその内容がどうであれ、暮らしを立てるために書く場が必要だった。家を出て、独りで生きていくためには。
 階下におりると、居間に小柄なおばさんが立っていた。一目で判るほどウッディーと雰囲気が似ていた。ウッディーの母親はにこやかにあたしに声をかけた。そうしながら、視線があたしの胸許に移った。
 細心の注意で挨拶をしながら、あたしが見目の通りに女の子であることか、僅かな違和感が示すように男であることか、この人にとってはどちらが安心できるのだろうと、そんなことを考えた。
 ウッディーはもう店のほうに出て、気を揉みながらこちらを見ていた。それは「ヤマセのお兄ちゃん」そのもの、母親を含むこの家に属する青年、そのものの姿だった。

 買い込んだのと「ヤマセのおばちゃん」がおまけしてくれたのとで重い袋を提げて、あたしは地下鉄までの道を戻った。ウッディーが送ろうかと云ってくれたのだけれど、あたしは笑って有耶無耶にした。途中で息が切れ、丁度スーパーの近くまできていたので、入口前のベンチに腰を下ろした。そのまま動けなくなった。
 膝から下にだけ倍の重力がかかっているみたいだった。立ち上がる気力がそもそも涌いてこなかった。あたしはぼんやりとスーパーの客足を眺め続けた。こうしてじっとしていても、案外こちらを誰も振り向かないものだ。あたしはここにも何処にも「ない」存在で、それが心地よかった。
 今頃ウッディーは、あたしのことを母親にどう説明しているのだろう。違います、あの人は男性なんですよ──どうしても、あの子は丁寧語で話すところしか想像ができない。
 青年の家を出たのは昼を少し過ぎた頃だった。待ち受けているときに限って、日はなかなか暮れてはくれない。このまま明るいうちにアパートに戻ったら、あたしは決定的に壊れてしまうと思えた。かといって行かれる場所などない。
 そう云いながら、本当は初めから、そこにいくつもりで手土産を買い込んだのじゃないのか。あたしはそんな自分の無意識の算段が悔しいこともあって、意地のようにベンチに座り続けた。透明な太陽は少しずつ油色になり、(ようや)く飴色になった。立ち上がると、全身にずっしりと自分の重みがかかった。歩きだし、冷えてきた空気をきって初めて、躯がひどく熱っぽいことに気づいた。かえって気分が高揚していて、歩くのは苦ではなかった。あたしは地下鉄の駅に辿り着き、目指す駅までの切符を買ったつもりが、出てきたのはアパートの最寄り駅までの切符だった。まあいい、あとで精算すればと思っていて、いざその段になったら忘れていて改札に引っかかった。対応してくれた駅員はやけに優しかった。そうして、あたしは身に馴染んだ階段を上がった。

 地上は既に浅い夜だった。町並みは暗くて、空は投影されているかのように明るい。あたしは歩いていった。車通りから遠ざかり、商店街のやけに照明が煌々としたアーケードを進んで、ある横町(よこまち)に入る。すぐに瀬戸物屋とスナックに挟まれた古書店が見えた。
 四枚分の引き戸の硝子からは明かりが漏れている。このわざと光度の低い蛍光灯の光を見ると、いつもほっとしてしまう。気に食わないことだ。あたしは安らいだ心を尖らせ、一分(いちぶ)の隙もないようにして硝子戸を引き開けた。
 左右の壁、そして中央に背中合わせに据えられた書架の奥のカウンターに、男が一人、頬杖を突いて座っていた。
「あれ…」
 あたしは思わず声を零した。
「──これは、九条院さん」
 カウンターの男が顔を上げ、抜かりない笑顔でそう云った。あたしは九条院という男が経営する古書・九条にやってきて、そしてそこにいた男から「九条院さん」と呼びかけられたのだ。情報を処理するのに時間がかかった。やっとあたしは二の句を継いだ。
「何やってんの塔田…」
 カウンターにいたのは塔田(ひびき)だった。或いは塔田(かぶら)──というのは、一寸(ちょっと)考えたくない文章を著したときの筆名だ。
 その塔田はにっこりとした。
「お正月以来ですね伶さん。隼人さんは今、お夕飯の買い出しにでています」
 あたしはむっとする。あたしも間借りしていたときには、折々に店番を頼まれた。因循な古書店をやっているくせに、そういうところは頓着しない奴だ。
 他にしようもなくてカウンターの前までいった。塔田は眺めていた本を脇へどけ、姿勢を直した。笑みには余裕が充ち満ちている。
「でも、今日は遅いじゃんか」
 あたしは不機嫌に云った。声は完全にひび割れている。塔田は気にした素振りもない。だからあたしも構わない。カウンターの上の機械時計を見た。本当なら、今頃はもう食卓が整っていてもいい時間だ。何せあの男は九時には寝るのだ。
 なんだかご機嫌がすぐれませんね、と塔田は遠慮なく云う。
「今日は僕がお昼頃からお邪魔していて、つい先程まで色々なご本を見せて頂いていたので、支度をする暇がなかったんですよ」
 ああそう、とあたしは醒めた相づちを打った。
「伶さんにもお声をかけたんですよ?」
 そう云われて、あたしは携帯を取り出した。電源を切っておいたことを忘れて、サイドキーを押してもディスプレイが光らないのを訝った──朝方のことがあって、なんとなく電話に忌避感があったのだった。携帯を起ち上げる。案内に従って調べると、確かに昼頃に「塔田」から着信があった。
 それで初めて、あたしは目の前の男の話を信じた。
「ああ…確かに」
「ね、嘘じゃありませんでしょう。遠路遙々やってきたのに、伶さんにお会いできないなんて、こんなにつまらないことはないって云っていたんですよ。その思いが通じたんですね」
 あたしは聞き流した。この調子の立て板の水を一々聞き留めていたら、神経が何束あっても足らない。
 塔田とはウッディーと同じくライターとしての最後の仕事のときに出会った。その対面の経緯(いきさつ)はお世辞にも快くはない。もっとも、それはあたしが人生に一つの段落をつけるきっかけになった。謂わば、塔田があたしの背を押したのだ。しかもこの男は意識してそうした。塔田にとっての「城戸伶」は小説家でしかなかったのだ。そんな相手と素直に親交を深めろというほうが、無理だ。
「それで、運命的な偶然で伶さんはどんな御用でいらっしゃったんですか?」
 臆面もなく塔田は尋ねる。別に説明する義理もないのだが、放っておくと勝手な話を作られそうなので、「今日はウッディーの家にいったから、その帰りに、ついでに」と嘘ではないことを云った。
「おや、耕平君のところに」
「そ、耕平君のとこ…」
 駄菓子の袋を突き出した。塔田は関係性を聞かない。この男はあたしを経由しないでウッディーと交友があるらしいので、もしかしたら知っていたのかもしれない。
 懐かしいですね、と男は袋を覗く。「ネオンこんにゃく」
「…は?」
 塔田は青や黄色の細長いこんにゃくゼリーを抜き出した。
「あんたって…やっぱ変わってるよな…」
「だって小さい頃に食べたでしょう? ネオンこんにゃく」
「そりゃ食べたけどさ…」あたしはたまに、いっそこの男に感心する。
 あんたのほうは、と話を元に戻そうとして、途中で続かなくなった。息が苦しい。ちゃんと呼吸をしているはずなのに、酸素が薄くなってしまったみたいに、いくら吸い込んでも肺が充ちない。
 あたしは言葉を中断したまま、よろよろと居間への上がり口に(くずお)れた。それだけでほっとした。本当は、恍惚の中ここまで歩いてきたつけが一気に襲って、立っているだけでやっとだったのだ。
 お上がりになったらいかがですか、と塔田が変わらない口調で勧めた。あたしは黙って頸を振る。へたり込んでからのあたしは喋らなかった。僕は珍しいご本が手に入ったというお話だったので、見せて頂きにきたんですよ、と塔田は思いついたように云った。この男は言語学の研究で大学にいるのだ。詳しい題目は知らないが。
 俯いた耳に、店の硝子戸が引き開けられる音が聞こえた。あたしははっとして、限界の外の力が働いて立ち上がった。
「おかえりなさい、隼人さん」と塔田が云った。
 熱で頬が赤くなっているのが自分でも判る。それで書架のほうを向く形で顔を背けた。
「伶さんがいらっしゃってますよ」
 ああ、そうなの、と九条院の呑気な声が応える。知っていすぎる響きで癇に障る。──今、あたしの身近にいる人間で、九条院ほど古くから付き合いのある相手はいない。あたしの苦悩も決心も、九条院は間近で見ていた。記憶している通りの()と強さで、硝子戸の錠を下ろし、カーテンを引く音が聞こえる。あたしは居たたまれなかった。九条院という「生活」の中に包み込まれてしまう。もう帰ろう、と思っても足が動かなかった。
「おかえり、伶君」
 九条院の気配がすぐ傍まできた。ここを出てもなお、九条院はあたしがおとなうと「おかえり」と云う。
「中で待っててくれればよかったのに」
 あたしが顔も向けないのを少しも気にしない。三十代の本の博愛主義者、それ以外はよく知らない。九条院の気配と買い物袋の(こす)れる音は背中のすぐ後ろを通り、居間に上がった。
「ご飯、食べていくでしょ?」
 あたしは逃げ場がなくて、背を丸めて靴の金具を外した。返事はしないまま(かまち)を踏んだ。
 居間には塔田のものらしき鞄と上着がかじめてあり、座卓の上には見るからに年代物の本が何冊か積まれていた。あたしのあとから居間に入った塔田は、それを自分の荷物の中に片付けた。台所に向いて「手伝いましょうか」と慣れきったように云う。あたしが知る限り、こいつがここにくるのはこれで二度めのはずなのだが。いいよ、ゆっくりしてて、と台所から九条院は応える。じゃあお言葉に甘えて。塔田は笑って返す。
 あたしは上がり口の柱に凭れて、そういう遣り取りをぼんやりと眺めていた。仄かに憧れのようなものさえ抱いている自分がいた。あたしはとても遠くにいて、九条院と塔田という二人の万事完全な関係を自分とは無関係なもののようにして感じている。正しい人との繋がりだ、と思った。あたしには不可能だ。
「伶君、お茶でも飲む?」
 台所から九条院の顔が覗いた。円眼鏡をかけた顔を、そういえば久し振りに見たな、とあたしはしみじみと思った。その顔が(にわか)に曇り、ちょっと、と口走りながら九条院は素早くあたしの傍にきた。
「君、具合悪いんじゃないの?」
 男はひょろ長くて、覗き込まれるとあたしは男の影にすっぽりと覆われてしまう。額に手のひらをあててくるのを、頭を振って払った。殆ど条件反射みたいなものだった。九条院は怯むことなく、あたしの頸筋に指を這わせる。あたしは突然に心が折れてしまって、どうしようもなく追いつめられた。よせよ、やめろ、と弱々しく云った。いつの間にか横にきていた塔田が、「はいはい、すぐ済みますからね」と云いながらあたしの(よじ)る肩を押さえた。九条院は真剣な面持ちであたしの淋巴(リンパ)節を探った。鈍く痛んだ。それより九条院の指の、心地よい冷たさが躯の芯にまで染みた。
「いつからこうだったの」
「知るか…」
「こんな状態で外に出て…」
 九条院は心配していた。それも、あたしが無理に外に出て、それで余計に症状を悪化させたのだろうということを思って、眉を曇らせているのだ。どうしてそんなこと、あんたが気にするんだと、あたしは憤慨したかったのだけれど、それだけの複雑なことは喋られなかった。だから、なら、帰る、と(いとけな)いことを云って立ち上がろうとしたのだが、塔田がまだ肩に手をかけていて、それを振りきるだけの力はなかった。だめだよ、と九条院は迷わず云った。
「布団を敷いてあげるから、このままうちで休みなさい」
 塔田君、見ててあげてくれる、と云い置いて、九条院は居間の隅の階段を上がっていった。あたしはもう抵抗しなかった。塔田は相変わらずあたしの背後にいて、今や完全に抱き込むような形になっていた。
「伶さんは、仰ることは威風堂々としてらっしゃるのに、躯つきが小柄なのが可愛らしいですね」
 頭まで撫でられている。
「喧嘩を売ってるのか…」
「まさか、褒め言葉です」
 しかし哀しいですね、と塔田は続けた。「僕は伶さんの眼中にないんですね」
「は…」
「だって、これが隼人さんだったら、こんなふうにじっとしてらっしゃらないでしょう?」
 ぐっと言葉に詰まった。のは風邪の所為だ。
「……お前…人が病人だと思って…」
「おや、それじゃまるで、僕が伶さんを心配していないみたいじゃありませんか」
「心配してるのか…」
「勿論ですよ。体調を崩してらっしゃるのは一目見て判りましたけど、でも、伶さんから仰らないのなら、それは気を遣われたくないということでしょうから、余計な口出しはしないでいたんです」
「そう…か…」
 あたしは今度こそ、完全に棘をおさめた。そして今日一日、胸に引っかかっていたものの正体を知った。──母は、あたしの不調に気づいてはくれなかった。電話で話すあいだ、幾度も咳き込んだのに、どうかしたのとすら尋ねてはくれなかった。そんな小さな、そしてどうしようもないことだったのだ。
 二階から九条院の声が呼んだ。あたしは素直に躯を動かした。おぶって差し上げましょうか、という塔田の申し出は黙殺した。角度の急な階段を手を突いてようよう上がると、二階は廊下の片側がサッシ窓、もう片側の手前にあたしが居候していた小部屋、奥に九条院の部屋がある。覚束ない足取りで小部屋のほうに向かった。すると、こっちだよ、と奥の部屋から九条院が顔を出した。
「そっちはずっと火の気がなかったんだから」
 え、とぼんやり口をひらいたあたしを、九条院は自分の部屋の中へ促した。敷居を跨ぐと、和室の真ん中に(とこ)が取られて、布団の上に畳んだ浴衣が用意されていた。
「着替えて横になってるんだよ。あとでご飯を持ってくるから」
 九条院は云って、廊下に出ると障子を閉ざした。あたしは呆然とした。
 蛍光灯がじりじりと音を立てている。味気ない部屋だ。洋箪笥と和箪笥が一棹ずつ、飾りものは何もない。一年間同居して、あたしがここに立ち入ったのはたった一度、それもほんの数分のことだった。あたしはふらつく足取りで、書き物机の脇の意外なほど小さな本棚の前へいった。そこに、あたしが書いたすべての言葉が並んでいる。──去年の夏、「九条院隼人」という新人作家が受賞した折の文芸誌も、きちんとそこへ加わっていた。
 あたしは布団に入り、電灯を見つめた。ここに寝ているのが不思議だった。あたしは失った「城戸伶」という名前の代わりに、九条院の名前を借りた。あの男は頓着なくそれを承知した。それでもあたしは、自分があの男にとってなんらかであるような気がしない。そんなことは信じられない。信じるわけにはいかない。
 やがて、気を失うように眠りにおちた。

 あたしは眠っていて、幾度も現実に引き戻されては、また夢とも幻覚ともつかないものへ飲み込まれた。瞼をひらくたび、まだ少しも時間が経っていないように思えて、それを悲観したけれど、本当は、いつしか明かりが消され、枕の傍に碗の載った盆が置かれたのを知っていた。あたしは暗闇の中に、階下から上がってくる微かな明かりを障子の外に見、九条院と塔田の話し声を遠く聞いたのも覚えている。それなのに、あたしはまだ布団に入ってすぐの地点にいて、もう永久に時間が進まなくなってしまったのだと思った。それは悪夢だった。続くことは悪夢だ。
 また意識が戻った。あたしは絶望して、小さく声を漏らした。
「苦しい?」と傍の暗がりから声がした。
 顔を動かすと、九条院が、すぐ手が届くほどのところに座っていた。男はいつの間にか載せられていた、あたしの額のタオルを取り上げ、裏に返した。ひやりと冷たい。
 あたしはじっと九条院を見た。布団の端から指先を出すと、そこへ視線が動いたのが判った。男の顔にはどんな表情も浮かんではいない。あたしは堰が切れた。
「……あたしは、失敗したんだ」と、自然に口を突いていた。「今日、母親から電話があった…」
 九条院は眼鏡の奥の目を少し揺るがせたあと、うん、と静かに返した。
「今は、独りで暮らしてる。父親とはずっと仲が悪かったんだ。二人が楽しそうにしているところなんて、あたしは見たことがない。両親が揃っているのは、夕食の一時間だけだったよ。その一時間があたしは堪え難かった。段々とさ、空気が冷たいほうへ移っていくのが判るんだよ。別れてくれればいいのにって思ってた。そうやってはっきりしてくれたほうがましだって…。そうしたら、あたしもここを出ていけるのにって…。あの一時間は、永遠に終わらないように思えた。あたしは逃げたかったんだ…もうあの食卓にはつきたくなかった。あたしが家を出て、すぐに二人は別れた。あたしがいることが、二人を繋ぎとめていたんだよ。それを、あたしは放り出してしまった。でも、二人にとっては、それでよかったのかもしれない。ただ…あの頃、あたしがもっと頑張っていたら、今よりずっと、何もかも丸く収まったのかもしれないと思って…」
 頬を温かいものが伝った。闇から九条院の手が伸び、それを拭った。
「──…それは、そうかもしれないし、違ったかもしれないね」
 云い含めるような口調だった。あたしは口の端をほころばせた。
「今の生活をさ…あたしは満足しているんだよ。でもあたしの後ろには二人がいて、それを思い出すだけで、呆気なく崩れる…たった二人のために、何もかも意味がなくなってしまう…」
「子供は、生まれてくる家を選べないからね」
「生まれてくる子供もだろ…」
 九条院は何も答えなかった。あたしの露わな指は冷え切って、求めるように畳を掻いた。九条院はその指をくるみ、布団の中に戻した。
 そうして屈み込み、あたしの濡れた頬を手のひらで包んだ。
「君は、自分が君だっていうことを赦せないんだね」
 大仰な言葉だった。でも、あたしは震えた。
「僕は君が好きだよ」九条院は云った。「僕は今ここにいる、今の君が好きだからね。だから、安心していいんだよ」
 あたしは頷いて瞼を閉じた。その薄い皮膚の上を、もう一度、九条院の指が触れた。ずっとこの言葉が欲しかったのだ、やっと手に入れることができたのだと思って、また涙が溢れた。

 気づくと、朝になっていた。見慣れない天井と電灯の笠が目の前にあって、あたしはぼんやり悩んだ。起き上がってみると、やっぱり少しふらついたが、頭は随分すっきりとしていた。
 そして、あたしは思い出した。
 言葉にならない声が洩れた。あれが幻覚でないことは、どうしてかはっきりと判った。
 階段を足音が上がってくるのが聞こえた。あたしは掛け布団を抱き竦め、強張って障子を注視した。やがて顔を覗かせたのは、塔田だった。
「あれ…」
「お加減はいかがですか?」
 あんた、帰らなかったのか、とつっかえながら問うと、塔田はにっこりと笑んだ。
「だって、伶さんが寝込んでいらっしゃるのに、そんなことできないでしょう?」
「そう、か…」
「そうですよ」
 塔田は(にじ)り寄ってきて、布団の上に落ちたタオルを拾い、琺瑯(ほうろう)の洗面器の(ふち)へかけた。
「まだ、少しお熱がありそうですね。ゆっくりお休みになって下さい。何か御用はありますか?」
 別に…と答えると、洗面器と口をつけず終いの盆を取り上げ、塔田は立ち上がった。
「では、隼人さんを呼んできますね」
「え…」
 塔田は器用に障子を閉ざした。
 また一人きりになった。しんと静かだ。それは、微かに響く階下の物音、食器の触れ合う音、下りていった塔田が呼びかける声、そういうものを含めた静寂だ。もう涙は滲まなかったけれど、あたしは深く息をついた。背後の窓からは透き徹った日差しが入り、全部のものを明らかにしていた。浴衣の袖から覗いたあたしの腕は、妙に白っぽく温度がなかった。掛け布団も浴衣も、あたしには見慣れない柄で、そして清潔だった。
 あたしは安らいでいる自分の心を見つけた。
 また足音が近づいてきた。あたしは背筋を伸ばして、息を詰めて耳を澄ました。

delete

 小学生か、お前は、と思わず口走って小さく咳払いをした。電話の相手は呑気に笑っている。あたしは膝の上に載せていた何冊かの本をひらいて畳の上へ並べた。そうしながら、本気で云ってんの、と拗ねたような口調で(ただ)した。
〈勿論ですよ〉
 塔田は朗らかに云った。
 ずっとかかりきりだった原稿を編集者に送り、寝不足の目を転じたサッシの外がいい天気だった。本当は眠ったほうがいいのだろうけれど、なんとなく勿体なくて本の虫干しを始めたのだった。それに原稿を書き上げたあとは変に気が昂ぶっている。サッシを開け放し、いつにない熱心さでようよう増えてきた蔵書を並べていると、午前九時を回った頃に携帯が鳴り、見ると塔田(ひびき)からだった。塔田とは二週間少し前、九条院のところで会ったきりだ。
 ふと思ったんですけれどね、となんでもない挨拶のあと、塔田は切り出した。
〈不公平な気がするんです〉
「……は?」
 あたしは妙な声を出したろう。陽気もあって気が緩んでいる。外の空気はきりきりと冷たく、けれど日差しはそれを相殺できるくらいに暖かい。
〈伶さん、耕平君のところへ訪ねていかれたんでしょう? 隼人さんのお宅は云わずもがなですし。すると僕のところにだけきて下さっていないわけですよ。それって(ずる)くありませんか〉
 あ、と声が詰まったあと、あたしは思わず口走り、咳払いした。なんとも拍子抜けの云いがかりだった。
 じゃあなにか、あんたのところへもこいって云ってるのか、と呆れきって尋ねると、ええ、と塔田は悪びれもしない。
〈お仕事のほうも、そろそろ仕上げられたんじゃないかと思って、それでお電話したんです〉
 得々と、お(ひる)をご一緒したいんで、それまでにいらっしゃって下さいね、と塔田は云って電話を切った。昼までにと云われても、塔田の住むのは電車で一時間かかる場所だ。しかも、このアパートは最寄り駅までがまた遠い。あたしは携帯の画面を恨めしく眺め、長い溜め息をついて立ち上がった。痺れた脚が一寸(ちょっと)ふらついた。
 ぞんざいに束ねていた長い髪を()かし、ロングスカートに金具のやたらとついた黒ずくめの服にバックルだらけのロングコート、そうして支度をして隣の部屋の扉を叩いた。しばらくして、明らかに眠っていた腫れぼったい顔で隣人の男子大生・疋田(ひきた)が出てきた。
 あたしは自室の鍵を突き出した。
「窓、開けっ放しにしてあるから、一、二時間したら閉めといて」
「……伶さん」
 もたついた声で疋田は云った。「俺…昨日、夜シフトだったんですよね…」
「お土産買ってきてやるから」
 あたしはスウェットのポケットに勝手に鍵をねじ込んだ。どっかいくんすか、と疋田は額際(ひたいぎわ)を掻きながら、当たり前のことを云う。急にな、とあたしは時間を気にしながら返した。
「呼び出されたから仕方がない」
「彼氏ですか?」
 男子大生の声は笑っている。ぐっと言葉に詰まって、
「……勉強なさい、青年よ」
 あたしは実際そうではないので、余計に気まずくはぐらかした。
「ただの──知り合い」
 そう云ったものの、喉の奥に何か引っかかったものがあった。
 バスの時刻が迫っていたので、あたしはとにかく部屋の始末を疋田に任せ、アパートを出た。さびれた住宅地の道路を歩いていくあいだも、胸がざわざわとしていた。
 駅構内のベーカリーで紅茶葉を買って、電車に乗った。中途半端な時間帯なので、席を占めるのは難しくなかった。これで十二時前には向こうに着く。あたしは窓枠に頬杖を突いて、流れる景色をぼんやりと眺めた。電車の中は静かで、車輪が拾うレールの継ぎ目の振動と音ばかりが響いている。波のような眠気に揺られながら、頻りに考えていた。
 友達、とあたしは疋田に云いかけたのだった。当人のいないところで、そう宣言してしまうのは簡単だけれど、しかしそれは真実じゃない。あたしが今、折々に顔を合わせる人間は三人いる。その誰もが「友達」と呼ぶには不似合いな間柄だった。あたしたちを引き合わせているのは、実はほんの曖昧なものなのかもしれない。
 あたしは塔田の家を知らない。住所は勿論、部屋住みなのか、独り暮らしなのか、だとすればどういう住居なのか、そういうことは何も知らない。電話して聞けば判るだろうと、投げ遣りな気持ちでホームの階段を上がると、改札の向こうに無闇に目につく人影があった。あたしは片足が突っかかり、一秒だけ立ち止まり、視線を逸らしたまま切符を通した。
 襟刳(えりぐ)りの空いた服の上へ黒いジャケットを羽織り、にこやかな笑みを浮かべた男は、あたしをじっと待ち受けている。なんだか負けた気がした。あたしは近づいていきながら、なあ、とぶっきらぼうに云った。
「雑踏の中でも見知った奴の姿だけはっきり目に映るのは、どういう作用なんだか」
 塔田は間を置かず、
「きっと頼る相手を見つけたという、安堵感なんですよ」
 反論したくともできないことを返した。尋ねたのがあたしでなくて、答えたのが塔田でなければ頷いてやってもよかった。
「あんた…ずっと待ってたのか」
「いえ、ついさっき着いたばかりですよ。あのあとすぐお発ちになったとすると、これかこの次の電車になるでしょうからね」
 何もかも計算ずくということだ。あたしは紅茶葉の紙袋を、背の高い男の胸の辺りへ突きつけた。
「つまらないもの」
「おや、そんなお気遣いをして頂かないでよかったのに」
 塔田は嬉しそうに受け取った。食べ物を渡すような相手じゃないし、紅茶葉というのは苦肉の策なのだ。充分な時間をかけて手土産を選べなかったことを、あたしは別の意味で悔やんだ。
 ではいきましょう、と塔田は駅の外へ導いていく。路線バスにでも乗るのかと思ってついていくと、駅前の時間貸し駐車場へ連れていかれた。車、乗れるのか、と意外に思って問うと、乗れないと思ってました? と返される。
「いや…なんか、普通の男みたいで変だ…」
 塔田は可笑(おか)しそうに笑った。
 案内されたのがワゴンでもミニバンでもなく、銀のセダンだったのでほっとした。塔田は助手席のドアを開けてくれ、あたしは固くなって乗り込んだ。車内には敷物は勿論、缶ホルダーも地図も乗せられておらず、レンタカーではないかと疑わしいくらい素っ気なかった。と、シフトレバーに小さなテディベアがぶら下がっているのを見つけて、あたしは暗鬱とした気分になった。片手のひらに載るほどのキーチェーンは、あまりにも大きな存在感を放っている。
 塔田が乗り込んでくる。あたしは男の姿を盗み見た。──いくら喰えない奴だといったって、まあ捨てたものでもないのだし、彼女くらいいるものなのだろう。自分の知らない塔田の側面を垣間見たようで、持て余す感じがした。
 平気ですか、と塔田はステアリングに手をかけて尋ねる。あたしはまごついて頷いた。あたしが見目だけでなく何もかも女性だったなら、こんな状況にときめいたりするのだろうか。
 車が動きだすと、あたしは相手が運転している気安さに任せて、ふと口をひらいた。
「なあ…あたしたちって、友達なのか?」
「いいえ」
 前方を見たまま、塔田は柔らかく答えた。
「そうだよな…」断言されて、しみじみと納得した。それからはあまり口も利かず、あたしは窓の外を眺めてシートベルトに挟まっていた。
 この塔田響と初めて会ったのは、駅からさほど遠くない、ある言語学者の家でだった。あたしはまだライターで、塔田は病臥した師に数年来に渉って付き従っていた。それが五年前、再会したのはつい去年のことだ。言語学者の葬式の折だった。
 こうした経緯があるから、塔田の住むところがそう懸け離れた場所ではないことは想像がついた。海にも近くて、駅前を離れると古びた家並みと広大な農作地が広がる町を、車は(とどこお)りなく走り、程なく住宅に囲まれたアパートの敷地に駐まった。待って下さいね、と云うので身構えて待つと、塔田は車を降り、廻り込んであたしの側のドアーを開けた。調子が狂う。あたしは面映ゆくもあって、ただ頷いた。
 際立って新しいわけでもない、けれど小綺麗なアパートだった。L字型になった建物の一方の端から廊下に入り、その折れ曲がったところに塔田の部屋はあった。ひらいた扉を支えてくれるので、あたしはぼそりと挨拶をして上がった。八畳ほどのワンルームで、入ってすぐがキッチン、左手の壁にサッシ窓があって、うららかな日差しがフローリングの床に映っている。何もない部屋だと思った。キッチンを区切るように大きなスチールの戸棚が、窓の脇へは机が据えられてあるのに、それらの上にも何処にも物が出ていない。展示場みたいだ、とあたしは感じ、部屋の中央へ彷徨(さまよ)っていった。
 玄関とは短い壁で仕切られたところへ寝台があり、振り向いたあたしはぎょっとした。モスグリーンのベッドカバーの上に、大中小の(おびただ)しいテディベアが並んでいたのだ。
「あんた…ルーズベルトの信奉者とか…?」
「違いますよ」
 塔田は扉を閉め、何食わぬ顔で座って下さいと勧める。視線で示されたのは件のベッドだ。あたしは怖ず怖ずとテディベアの隙間に腰を下ろした。マットが沈んで、間近の一際大きな一体が肩に寄りかかってくる。
 なんとなく腕を取って、
「混乱してるんだけど…」
 呟くと、キッチンに立って紅茶葉の包みをひらいていた塔田は、
「だって、可愛らしいでしょう」
 当然のように云った。
「あ、あんたの趣味なの…?」
「他に何があるんです?」
「いや…」
 あたしはテディベアの腕を揺すり、唸って、ほんの気まぐれに膝の上へ抱え上げてみる。なかなかの重みだ。
「……自分で集めたの」
「大概はそうですよ。あとは教え子が贈ってくれたりとか」
「教え子」
「家庭教師のアルバイトの」
 それは、と思わずあたしは云った。「むごいわね」
 そうでしょうね、と塔田は可笑しげに笑い、流しの下のキャビネットを開ける。取り出したのは茶器で、そんな日常使うものまで仕舞い込んであることが奇異に思えた。この部屋の、普通散らばっているであろうあれやこれやも、みんなああして隠されてあるのだろうか。
「てっきり、彼女にもらったのかと思ったけど」
 あたしはテディベアの柔らかな毛並みに頬をつけて、なじるような口調で云った。まだ少し(うたぐ)っていた。この男がこんなふうに接するのなら、心を惹かれる女性もいるだろうという気がした。
「いませんよ、そんな相手は」
 手許を見たまま、塔田は答えた。誤魔化しているようじゃなく、真摯な声音だった。
 どうしてか、あたしも厳粛な気持ちになった。塔田の快活さは(うろ)だ。それを、あたしは何処かで悟っている。
「伶さん、お茶は──」
 云いさして振り向いた塔田は、ふと口を(つぐ)んだ。あたしはその眼差しを見返した。稍して塔田が云うには、
「可愛いですね伶さん。その格好のまま、あとで写真を撮らせて下さい」
 あたしはぐっとなった。
「お前な…」
「おや、本気ですよ。実は前々から、伶さんにくまの子を抱いてみて頂きたいと思っていたんです」
「あのな…」本当に本気らしかった。塔田はあたしをじっと見据えて、
「伶さん、僕は作家としてのあなたを崇敬するのと同等に、あなたのその見目姿をとても可愛らしいと思っているんです」
「初耳だ」
「初めて云いましたから」
 この男の腕の中へ、あたしは入ったことさえある。多分、地上でいちばん歯の浮くような科白(せりふ)を囁かれた相手だろう。なのに、まさか、それを鵜呑みにはできない。塔田も真剣に取り合われたいのではないだろう。これは他愛ない遊戯なのだ。
 男は細々(こまごま)と注文を聞いてお茶を淹れ、温かな紅茶々碗を手渡してくれると、自分は机の椅子を引いて腰掛けた。持ってきたものを褒めるのもなんだから、あたしは黙って藍絵の茶碗に口をつけた。そうしながら、懸命に話の接ぎ穂を探していた。男の視線を瞼の上へ感じる。
 伶さん、とやがて塔田は切り出した。
「今日はきて下さってとても嬉しいです」
「そう…か。でも、こういうの慣れなくて」
 あたしは(はす)を向いて肩を動かした。「何か用があるじゃなし、ただ招かれて、どうすればいいのか…」
「経験はおありにならないんですか。どなたかの、お宅で」
 隼人さんは抜きですよ、と塔田は云い添える。聞かんとしていることを察して、あたしはむっとした。
「何処の女がこんなのを相手にするっていうんだ」
 云い返したものの、自分の言葉が自分の耳に馴染まなかった。男性は、と妙に優しく、塔田は問いを重ねる。「男性のことは、お考えにならないんですか」
 あたしはしばらく塔田を睨み、それから、さあ、と本心から云った。
「それは、判らない…」
「有り得ない、とは仰らないんですね」
 男は不意に椅子を立つと、あたしのほうへ歩み寄ってきた。
「博識な伶さんも、色恋のことはご存じないんですね」
「……ていうか、別に誰かを好きじゃなきゃいけないわけじゃないだろ」
 塔田は答えなかった。代わりに寝台に片膝を乗せ、あたしを取り囲むように手を突いた。
「は…?」
「伶さんも迂闊ですね。あれだけお慕いしていると云っている男の部屋へ、独りでいらっしゃるなんて」
「あの、な…あたしは男なんだぞ」
「些細なことですよ、あなたが男性か女性かなんて」
 視線を合わせたまま、顔を寄せてくるので、あたしは身を固くする。お茶を零さないよう、茶碗を保っているのが我ながら莫迦らしかった。
「伶さん、人は恋に狂うと、無理強いをしてでも愛しい人を手に入れたいと思うものですよ」
「……お前、あたしが好きなのか?」
 逸らしたら負けと思って、あたしは男の揺らぎのない眸を、じっと睨み続けていた。
「ええ、勿論」
「なあ…」
「なんですか?」
「──…こういう冗談、よくないぞ」
 すると塔田は口の端を笑わせ、躯を離した。あたしはほっと息をついた。
「冗談ではありませんけどね」
 虚を衝くように云った。
「では、そろそろお午の支度をしますね」
 そのまま塔田はキッチンのほうへ移っていった。
 あたしが二の句を継げたのは、随分あとのことだった。
「あの…あんたが作るの…」
「意外ですか?」
「うん、意外…」とぼんやりと答えた。何事もなかったことにしようとしている、あたしも塔田も。あたしは指先がぼろぼろ崩れていくような心許(こころもと)なさを感じた。塔田が近くにいすぎる。こういうのが嫌で、あたしは人生をさえねじ曲げてくれたこの男のことを、これまで知ろうとしてこなかったのかもしれない。
 寛いでいて下さいね、と冷蔵庫を開けながら、塔田は云う。あたしは生返事のような返事をした。まだ心音が高まっている。それをじっと感じた。
 あたしは塔田が好きなのだろうか。──まさか。迷うことすらなかった。
 料理の下拵(したごしら)えは、もう済まされてあるようだった。なんだか大仰な支度だ。あたしは紅茶々碗を持て余しながら、塔田の後ろ姿を眺めた。調理台に向かう男なんて、あたしは他に一人しか知らない。そいつと塔田とは、長身だったり掴み所がなかったりするのは同じだのに、どうしても重ならなかった。あたしはあの男──九条院に云えないことも、塔田になら云えるかもしれない。そんなふうに思った。
 奇妙な感覚だった。あたしにとって塔田とは、謂わば好敵手だった。あれほどはっきりとあたしを否定して、そしてこれほどに求めてくれる相手はいない。塔田と出会わなかったなら、あたしは自分の願うことを願わないまま、今も生きていたかもしれない。有り体に、明け透けに、ものの喩えとして云えば、あたしが女性の見目と男の生まれつきとで身を投げ出す相手がいるとしたら、それは塔田なのだろう。けれど、心に隔てた壁を取り払うことは生涯、きっとない。
 伶さん、と塔田が独り言のように問いかける。あたしはぴくりと背を伸ばした。
「退屈してらっしゃいませんか?」
「いや…別に…」
 そうですか、とそれで会話が終わる。あたしは急に、取り残されるような不安に襲われた。
「あの…」
「なんですか」
 あたしは一旦、口を閉ざし、
「──あんたって、大学でどんな研究してるの」
 早口になりそうなのを、懸命に抑えた。「上代仮名遣いとか?」
「ええ、あれも面白いですね」
 と、塔田は背を向けたまま少し笑った。
「僕が興味を持っているのは表現です。人の心をどういった言葉で表すのか、上代から現代まで、かな文学からケータイ小説まで、それぞれに見ていくのが僕の主題です」
「でも、批判的に…なったりしないのか。現代のものに」
「言葉遣いや何かということですか。それをいうなら、新仮名の教育を受けた我々のような世代の言葉は、端から間違っているということになってしまいます。もっとも、元来のほうが正しいという前提でならですが。近い将来、全世界の作家は皆英語で文章を書くようになると云っている人もあるようですね。でも、僕はそうは思いません。というより、そうなったときは、全世界の人が公用語として英語を話すようになったということです。日本語を話す我々の感情は、日本語でできています。哀しいときには『哀しい』と感じるんです。同じように、我々の感情は新仮名です。言葉というのは思いを伝えるためにあるもので、正しいかどうかというのは二の次なんですよ」
「珍しい…よな。あんた、言語学者なのに」
「全員が同じでは仕方がないでしょう?」
 なんだか胸の裡が揺れた。この男の芯になっているのがこの考えなら、あたしは嬉しいと思った。
 仕舞われてあった小さなテーブルと椅子とを引き出し、あたしは椅子の背を塔田に支えられて、昼食の席についた。待遇も、テーブルに並べられた料理もレストランのようだった。塔田は向かいに座った。
 促されるままに箸をつけた。美味しいですか、と自分は食べずに塔田は尋ねる。うん、とあたしは素直に答えた。本当だった。
「料理、いつもするのか?」
「そうでもないですよ。ほんの、気が向いたときだけです」
「でも…うん」あたしの意地っ張りの部分が、語尾をぼやかした。白身魚にかかった鮮やかなソースの中で、フォークの先を渦に回して、
「新鮮というか。九条院が作るのは家庭料理ばっかりだし」
 何気なく云った。
「伶さん、隼人さんが好きですか?」
 塔田は元のままの声で尋ねた。
「……あのな、さっきから好きとかどうとか、そんなことばっかり云いすぎだぞあんた…」
 妙に頬が笑ってしまうので、あたしは困った。塔田も軽く息を笑わせて、
「小学生男子ですからね」
「小学校で云ってたかな、そんなこと」
「クラスに一人二人いましたよ、誰々と付き合っているという噂の子は。まあ、他愛のないものでしたけれどね」
 つまり、今の質問も他愛ない冗談だということなのだろうか。塔田は肝心のあたしの答えを聞かなかった。代わりに、本当に不意に切り出した。
「聞いて頂けますか、伶さん。僕の家はお金持ちなんです」
 はあ、とあたしはそれ以外の反応がなくて、間の抜けた声を返した。
「それで…そのことがなんなんだ?」
「いえ、あまり人には話さないでいるというだけのことなんです。どうしても、相手の見方が変わってしまうのが判りますから」
 塔田は少し目を細めた。何かを諦めたような眼差しだった。話の流れで、あたしは小学生の頃、クラスメイトの誰某の名前を聞いては、あすこは金持ちだから、とか、ご両親が公務員だから、などと悪いことのように云っていた、母親の口調を思い出した。そういうことなのかもしれなかった。
「伶さんには話しました」
 塔田は無邪気なほどの口振りで云った。あたしは苦しかった。捧げられている思いが手に余った。
 最後に硝子の小鉢に盛られた苺が出されて、あたしは途方に暮れた。これを食べれば昼食はおしまいだ。今日はこのためにきたようなものなのだから、皿が全部引かれたあと、どう振る舞えばいいのか判らなかった。──この部屋から去るのを、惜しいように感じている自分もいた。
「なあ…あとで、あんたの本棚を見せてもらってもいいか。なんとなくだけど…」
「ええ、構いませんよ。そうそう、先生の蔵書で、隼人さんに引き取って頂いたものの他に手許に残したものがありますから、それなんかは面白くご覧になれるかもしれませんね」
 いや、そうじゃなく、とあたしは真面目に云った。云ってから少し萎えた。
「あんたがどういう本を並べてるのか、それを見たいだけ…。あたしの道楽」
 塔田は笑った。
「そういうことなら尚更、見て頂かなくてはいけませんね」
「誤解すんなよ」
「何がですか? 伶さん可愛らしいですね」
「だから…っ、そういうところが」
 塔田は揺るがない。叩いても手応えがない。それは安堵で、寂しさでもあった。
「ゆっくりご覧になって下さい。時間はたっぷりありますからね」
 あたしは腹立ち紛れに苺を摘もうとしていた手を止めた。え、と呟くと、おや、お帰りになるつもりでしたか? と塔田は飄々としている。
「夕食の準備もしてあるんですから、食べていって下さらないと」
「……あのさ、さっきから薄々疑問には思ってたんだけど、そんだけの支度を電話してからあたしが着くまでにやったのか?」
「まさか。ゆうべからちゃんと下拵えをしておいたんですよ」
「………」
「怒りましたね」
「仮に…あたしが手一杯だって云ったら、どうするつもりだったんだ…」
「そのときはそのときです。けれど、伶さんは必ずきて下さると信じていましたから」
 伶さん、きて下さって嬉しいです、と塔田は先程も云ったことを繰り返した。
「なんでもないときに、ふと思いついたみたいに訪ねてきて頂きたかったんです。そういうの、憧れませんか」
 あたしは黙って男を睨んだ。決めてかかってきていることは、確かにその通りのことだった。けれど苦しい。あたしは──あたしたちのような人間には、他の人たちが当たり前にできていることが生まれつき難しいんだろう。視線を逸らし、そうだな、とぞんざいにあたしは答えた。そうしながら、九条院のことを考えた。二週間少し前、熱にうかされて唐突にあの男の(もと)へおとなった。今ではあのときの心理が計り知れない。
 あの場には偶然に塔田も居合わせていた。あたしはふと、今日のあれこれは、あのときのことが理由になっているのではないかと気づいた。
 向き直って、あたしは尋ねた。
「あんた、九条院が好きか?」
 塔田はにこやかに、
「勿論、好きですよ」
「あたしが九条院を好きでもか?」
 沈黙が流れて、あたしは羞恥に焼け死にそうだった。視線を逸らし、そしてちらと窺った塔田は何処か遠い目をしていた。
 男はふっと笑った。
「そうですね、そうしたら隼人さんに嫉妬するかもしれませんね」
 率直に返されて、あたしはまごついた。
「ものの喩えだぞ」
「そうですか? でも伶さんと隼人さんのあいだには、僕などが入り込めない繋がりがあるように思えます。伶さんが小説に復帰するときにも、もしも僕が今くらいの交際を持っていたとしても、決して隼人さんのようには頼って下さらなかったでしょう。ですから、その点では今でも少し嫉妬しているんです」
「あれは、あいつが勝手に決めたんだ。だし、あいつとは腐れ縁だし…」
「ええ、だから、及べないんですよ」
 塔田は淀みなく云って、それから同じ声音で「苺が温まってしまいますよ」と話題を転じた。この男には勝てない。あたしはそう思った。
 うん、とぼそりと云って果物用の華奢なフォークを差し出すと、
「食べさせて差し上げましょうか」
 ぬけぬけと云うので、
「あのな」
 思わず突っぱねると、あたしたちは元の通りだった。こいつとはずっとこんな感じなのかもしれない。可笑(おか)しそうにしている塔田を一歩引いた気持ちで眺めると、それでもいいか、と投げ遣りな、広やかな気持ちが滲んだ。

 戸棚の中に、あたしの書いたものはなかった。伶さんのご本は特別ですから、と塔田は相変わらずの調子ではぐらかして、その特別な場所が何処なのかは遂に教えなかった。あたしはスチールの戸棚の上段いっぱいに籠められた新旧とりどりの本を眺め、ご自由にという言葉の通りに気ままに抜き出したりして時間を過ごした。やはりレストランのような具合の夕食を振る舞われたあと、車で駅まで送られた。
 塔田は改札の向こうで手を振った。ホームまでついてこないところがこの男らしいと思った。あたしはまさか、手を振り返すなんてできはしないし、しかめっ面で、じゃあな、と頷いた。背を向けて歩き出した、その後ろ髪が引かれるような気持ちがしたのは、どうしてなのだろう。
 既に待っていた電車に乗り込んだ。照明が余所々々しいほど明るい。往きとは違って、なかなかの混みようだった。ようよう窓際に腰掛けると、間もなく隣に大きな手提げ袋を抱えた女性が座った。スカートを膝の下へたくし入れ、肩を縮めて、あたしは窓に見入った。隣の女性の横顔が反射して見える。四十代くらいの、化粧気のない人だった。
 時刻は九時にかかろうとしている。これから自分の家へ帰るのだろうか。小さな反動があって、電車が動き出した。横顔の奥の夜景を眺めながらも、あたしはこのなんの関係もない女性のことを考え続けていた。──家に帰り着けば十時にはなっているだろう。それから食事をして、湯を使って、寝るまでにやれることなんか幾らもないのじゃないだろうか。それで、明日も朝早くに出かけるんだろうか。働くことで一日が消費されていって、この人の楽しみはなんだろう。
 そのうちにあたしは眠ったようだった。何かつらい夢を見た。はっとして目覚めると、全身が疲れ切っていた。女性はいなくなっていた。あたしは自分の乗った電車が、今何処を走っているのか判らなかった。寄る辺のない場所へ放り出されたような気がして、おちつかなく周囲を見回した。白けた明かりの下にじっと黙り込んでいる人たちの顔が、変に近く見えた。
 アナウンスがあり、最寄り駅の二つ手前の駅へもうすぐ着くことが判った。あたしは深く呼吸をして、また車窓の外を見つめた。母の夢を見たのだ、と思い出していた。
 最寄り駅からバスへ乗り換え、アパートに帰ったのは十一時過ぎだった。こちらへ着いてからキヨスクで買った土産を手に疋田の扉を叩いたが、反応がなかった。今夜もバイトなのかもしれない。紙袋をドアノブにかけ、水道の元栓の窪みの中から隠されてあった鍵を取り出して、自分の部屋に入った。
 すっとした空気が肌に触れて、あたしは玄関に立ち尽くした。今朝、ほんの数時間だけ窓を開けていただけなのに、部屋中に清冽(せいれつ)な気配が満ちている。
 手探りで電灯をつけた。並べっぱなしの本が、騒々しく目に入った。端のほうが乱れているのは、疋田がサッシ窓を閉めてくれるときに、足を引っかけたか何かしたんだろう。あたしはカーペットの上に座り込み、それから鞄を下ろそうとして、そんな気力が残っていないのに気づいてぼんやりと腕を垂らした。
 やがて、コートのポケットから携帯を取り出した。誰にかけようとしているのだろうと、自分の心を訝しんだ。夢を見ているような気分で発信ボタンを押し、耳に当てた。どうせ出ることはないだろうとたかをくくっていたら、ほんの数コールで繋がった。
「あ…」
 あたしは声を零した。電話の相手はゆったりと一拍を置いて、
〈どうかしたの、伶君〉
 あたしは後悔して、泣きたく思った。
「──…いや、別に…。もう寝てただろ…」
〈横にはなっていたけどね。珍しいね、君がこんな時間にかけてくるなんて〉
 あたしは唸るように認めて、もぞもぞと鞄の紐を躯から外した。
 九条院はあたしが喋るのを待っていた。あのさ、とコートの裾を弄びながら、あたしは切り出した。
「今日、塔田の家にいったんだよ。急に呼ばれて…。それで、今、帰ってきたとこ…」
〈そう〉
「なあ、塔田はあたしが好きらしいぞ」
 云ってしまって、あたしは口を噤んだ。九条院は電話の向こうで軽く笑い、
〈そうだろうね〉
 呆気なく云うので張り合いがなかった。ただ、それであたしは少し楽になった。
「なんか…変な感じ。その、云われたことがっていうか、あいつのこと、一寸(ちょっと)知りすぎたみたいな気がして…」
〈彼は君にとって独特な存在だからね〉
「知っとくべきだったって?」
〈そうとは限らないんじゃないかな。近くなりすぎるとだめかもしれないね。多分、彼が君の書いたものを、誰よりも理解しているからだろうね〉
 じゃああんたは、と云いそうになって、(こら)えた。小学生か、と胸の裡で自分に云った。
「そう、か。……なんか、疲れた」
〈そんなときは、ゆっくり眠るといいんじゃないかな〉
「当たり前だな」
 あたしは淡々と云い、九条院がおやすみと云うのに有耶無耶に返して電話を切った。
 また静かになった。
 塔田はまだ起きているかな、と少し考えたけれど、そのまま携帯を放り出した。そうして四つん這いになって、ひらいた本を集め始めた。
 悪くないな、となんのことだか、胸の裡に感慨が浮かんだ。

home-end II

 えらいことだ。
 アパートの共同洗濯機の前で、あたしは携帯をひらいた格好のまま固まった。うららかな三月の午前中だった。しかし事態は深刻だった。
 まだ唸りを上げている洗濯機をほったらかして、あたしは薄暗い廊下に駈け込み、隣室の扉を叩いた。反応がない。ノブを回すと開いていた。なので開けた。四畳半一間に敷かれたぐちゃぐちゃの布団の上で、隣室の男子大生・疋田(ひきた)が跳ね起きた。
「なっ…伶さん…っ?」
「緊急事態だ」
 あたしは疋田に向かって小銭入れを投げつけた。「今、毛布洗ってるから、終わったらカーペットも洗って干しといて。洗濯機んとこに置いてあるから」
 青年はきょとんとして、「え…誰か死んだとか?」
「それに近い」
 身を翻して自分の部屋に駈け込むと、サンダルを脱ぎ散らかして上着と鞄とを取り、そのままアパートを飛び出した。走りながら先程のメールの文面を確認した。
【少し相談したいことがあるから、店にきてもらえないかな。いつでもいいから。】
 いつも定型文のようなメールしか寄越(よこ)さない九条院が、句点も読点もある文を送ってきた。あたしはどうしようもない胸騒ぎに()かれて、バス停に向かって走り、そうして、じわじわと足を止めた。
 何をしているんだか。どっと萎えた。
 沈んだ気持ちで古書・九条のある路地に入った。と、瀬戸物屋とスナックに挟まれた店先に人影があって、あたしは立ち止まった。濡れ布巾を手に硝子戸を拭こうとしていたらしい九条院は、なんてことのない表情で振り向いた。
「珍しい格好だね」
 条件反射でむっとした。あたしは普段、金具やらのごたごたした仰々しい服装をしているわけだが、今はトレーナーに色落ちしたスカートの部屋着のままだ。長い髪もぞんざいに一つに括っている。
 すぐこいって云っただろ、とあたしは、破れかぶれに云いがかりをつけた。九条院は(ほの)かに笑い、上がって、と硝子戸を開けた。
「いいのか?」
「いいよ、ただ思いついただけだから」
 バケツの(ふち)に布巾をかけ、そのままにして中へ入っていく。おかえり、と取ってつけたように云った。いつもと違うかもな、とあたしは胸の裡で独りごちた。
 店の奥の居間に上がった。九条院はお茶を淹れてあたしに勧めたきり、しばらく無言でいた。煎茶の湯気越しに、あたしはぼんやりと店のほうを眺める男を窺う。襯衣(シャツ)にループタイ、円眼鏡、三十代の古書店主、本の博愛主義者──それ以外は知らない。この男との腐れ縁は、もう何年になるだろう。
 やがて、九条院は(おもむろ)に切り出した。
「伶君に頼みがあるんだけど」
 自然と背筋が伸びた。九条院は心持ち、視線を落としたまま、けれど平静な声音で続けた。「帰省に、ついてきてほしいんだ」
 聞かされた言葉を理解するのに、しばらくかかった。
「あ、あたしがか…?」
 数多(あまた)の感情の中で当惑が勝った。うん、と九条院は当たり前のことのように云った。「塔田君は、忙しいみたいだし」
 一言で冷めた。あの立て板に水の、口から先に生まれた男を伴うほうが、そりゃあ何かと楽だろう。
「君も無理はしないでくれていいんだけど」
「別に…今は何も引き受けてないし」
「そう。一寸(ちょっと)遠いけど、二、三日で済むから」
 いや、そもそも何処に、と聞きかけたとき、
「ごめんね、──助かるよ」
 それでもう、何も云えなくなった。あたしは括る必要もなく、初めから決まっている自分の腹を(いぶか)った。腹立たしいけれど──何処へなりともついていくのに、異存も不安もなかった。

 どうかしている。
 その翌週、あたしは九条院と並んで新幹線の座席にかけていた。行き先が九州の小倉(こくら)だということさえ、乗車券を渡された数日前まで知らなかったのだ。どうして急に実家に──かどうかは定かでないが、帰ることになったのか、どうして間に合わせとはいえあたしなんかを連れていくのか、疑問はあったが問わなかった。
 九条院という男は何かにつけ和装をするのだ。ところが今日はあまり見たことのない普通の洋服姿をしている。あたしはライターを廃業して小説に復帰するまでのあいだに一年、食い詰めてこの男と暮らした。だのに、それでも見慣れないという感情がある。窓側の席で頬杖を突いて、九条院はずっとトンネルばかりの景色を見つめている。駅で落ち合ったときから、数えるほどしか言葉を交わしていない。あたしはただ、聞いた通り二、三日分の荷物を持ってついていくだけだ。どうかしているとしか云いようがない。
伶君、と不意に九条院が口をひらいたのは、もう関門海峡も越えてからのことだった。
「妹の、結婚式なんだ」
 独り言のように九条院は云った。
「本当は出るつもりなかったんだけど、そう伝えたのに、僕の分の席を用意してるみたいなんだ。もう、ギゼツしているようなものなのに」
 義絶、という漢字がなかなか浮かばなかった。あたしは黙っていた。数週間前、あたしはこの男に、それまで誰にも云わないでいたことを話した。熱にうかされた上での譫言(うわごと)だったけれど、自分の深部を晒してしまったことには違いない。それを九条院はどう思っているのだろう。どうして、そんな同じ痛みのするところへ、あたしを連れていくのだろう。
 曖昧だった気分が沈んだ。小倉駅に着き、ホームに降りるときにも、あたしは先に立つ九条院の焦げ茶のジャケットばかり見つめていた。そして、そのまま思い切り男の背中にぶつかった。
 ざわめきを通して響いた女の子の声と、九条院が突然に立ち止まったのと、あたしが顔を強か打ったのと、それらは殆ど同時の出来事だった。
 お兄ちゃん、という呼びかけと共に、九条院の背中に二本の腕が巻きついた。あたしは呆気に取られ、躯を傾けて男の向こう側を覗き込んだ。弾けるような笑みとぶつかった。
 二十歳(はたち)そこそこの、真っ白なコートを着た女の子が九条院に抱きついたまま、みるみる表情を(かげ)らせた。
「ねえ、この人は…?」
 あたしも女の子も九条院を見上げた。困惑しているはずの九条院は、そうでなく哀しげな真摯な眼差しで、自分に縋る女の子を見下ろしていた。
「おい、妃未(ひみ)よ」
 声がして、振り向くと二十代後半くらいの男女が歩いてくるところだった。あ、と思った。その男性のほうの顔立ちが、何処となく九条院と似ていたのだ。
「おっまえ、こんなとこでなにしとおよ」
 男性に呆れ顔で(たしな)められると、妃未と呼ばれた女の子は不服そうに少しだけ躯を離した。
(かず)兄、うっさい」
 九条院はさり気なく身を退いた。腕がほどけて、女の子は驚いたように声を漏らす。あとから現れた二人のほうだけを見て、九条院はひどく重々しい声で云った。
「迎えにくるなんて話はなかったはずだけど」
「いや妃未がさ、どうしてもいくって聞かんから」
 男性は気楽な笑みを浮かべながらも、九条院からは目を逸らしていた。「兄ちゃん昼頃の新幹線だっていうもんで、だいぶ前から待っとったんよ」
 九条院は何も答えなかった。──この男性が弟、女の子が更に下の妹なのだと、あたしは察する。もう一人の女性は弟の上着の肘を引っ張って、何か息遣いで伝えようとしていた。
 予想外の状況に気圧されすぎて、二人の視線の先にいるのが他でもない自分であると、あたしは稍して(ようや)く気づいた。
 弟は感心したふうに云った。
「やっぱなあ、こんなときに連れて帰ってくるの、彼女以外におらんて」
 ぐっと云いようのないものが迫り上がった。妃未ちゃんは泣きだしそうな顔で下の兄を睨む。女性ばかりがにこやかに頷いていた。
「連れの方がいらっしゃるって聞いたから、ひょっとしたらそうかなって思ったんですけど、それならそうって云って下さったらよかったのに」
 この人だけ口調が違った。九条院は弱り切ったように額に手をやって、
「云っておくけど、この子、男の子だから」
 よりにもよって──その通りには違いないが、そんなことを云うから、三人が三人とも黙り込んだ。それはそうだ。あたしは考えが追いつくより先に、咄嗟に九条院の腕を叩いた。
「いやだな、そんな、なにを云うんだか…」
 血の気が失せた。何を云っているんだかは己のほうだ。
 弟は笑いだした。「そうだって、兄ちゃん、それはないて」取り返しがつかなくなった瞬間だった。
「ま、ここで長話もなんだから」
 兄への取っかかりと思ったのか、弟は快活に歯を見せながらあたしの荷物を取り上げた。あたしは情けない声しか出せない。
「泊まる場所は、もう決めてあるから」と、九条院はいつになく意固地だ。帰省といってもホテルに部屋を取るし、君は一人で好きに行動していればいい、と云われてあったから、あたしだって普段通りの服装をしてきたのだ。もし、こんなふうに九条院の身内と顔を合わせると判っていたら──あたしは、男の格好をしただろう。
 弟は険しい顔つきになる。あたしは息ができなくなる。女性が如才なくあいだに入って、「まあ、お兄さん、折角こんなときなんですから、お構いもできませんけど、お二人で、ね、妃未ちゃんも楽しみにしていたんですから」
 九条院は答えあぐねるようだった。と、顔を動かしたそのほうを見ると、妃未ちゃんがじっと兄のコートの袖を掴んでいた。稍置いて、九条院は承知した。
 ホームの階段を一塊になって降りながら、あたしはまだ心が浮ついていた。少し遅れてついていっていると、さっきから色々に取りなしていた女性が足を(ゆる)めて、隣を歩き始めた。にこやかに、早穂(さほ)です、と自己紹介をする。「主馬(かずま)さんの妻です」と、妻というところをはっきりと云った。あたしは躊躇いながらも本名を名乗った。中性的な名であるのが、いいのか悪いのか判らない。
「伶さん、こちらは初めて?」長距離を大変だったでしょうと、もう身内に取り込んだような口調で早穂さんは続ける。「はあ」とあたしは答える。本当に義兄の恋人と思われているのだろうか。普段はどうでもよくあしらっている自分の見目が、今はちゃんと女性に見えているかどうか、不安なくらいだった。躯中に刺さる九条院の視線が痛い──が、盗み見た九条院は真っ直ぐ前だけを向いて、あたしのことなど視界の端にも入れていない。妃未ちゃんがまとわりつくようにしている。主馬さんはだいぶ前を、あたしの荷物を提げて大股に黙々と降りていっている。
 ふと、あたしは自分がいる場所が判らなくなる。こんな濃密な人の繋がりの中で、あたしは何をしているのだろう。
 駅前のコインパーキングに駐めてあったワゴン車の、あたしは押し込まれるように最後列に、九条院も妃未ちゃんにせがまれて一つ前の座席に乗り込む。早穂さんはあたしの横に座った。車が動きだすと、いよいよ引き返せないのだと少し呆然とした。早穂さんは柔らかな当たりであれこれと尋ねてくる。あたしは襤褸(ぼろ)をださないように、かといってはっきりと嘘をつくことも気が咎めて、曖昧に話を濁したりして心を砕いた。何より、すぐ前に九条院がいるのが居たたまれなかった。しかもその男のことを、「九条院」でも「あいつ」でもなく、「隼人(はやと)さん」などと呼ばなくてはいけないのだ。九条院は黙って妹の持ち出す他愛ない話題を聞いているけれど、内心どう思っているだろうと考えると死にたくなった。
 ふと早穂さんが身を乗り出して、「ねえ、明日の式場だけど、今から云って伶さんのお席を用意してもらえないかな」運転席の主馬さんに呼びかけた。「一人分くらい平気なんじゃない?」
 あたしは面食(めんくら)った。慌てて遮るものの、早穂さんは遠慮していると捉えたのか、「だってほら、婚約者だったら相手方のおうちの式に出たって変じゃないんだし」いよいよ袋の鼠の気分だった。婚約者ってわけじゃ…と、もごもごと答えながら九条院を見遣るが、男は振り向きもせず、助け船を出してくれる様子はない。自業自得なのだから呪いようがない。主馬さんも笑って、「着るもんなかったら早穂の振り袖があるき」と、何処まで本気か判らない調子で煽った。進退窮まっていると、いいじゃん困ってるんだし、と突っ慳貪(けんどん)に妃未ちゃんが云った。
「嫌がってるんだから、無理に出てもらったら悪いって」
 険のあるその一言が、ともかくこの場を収めてくれた。けれどあたしは、薄々感じていたことを確信するしかなかった。間違いなくあたしは──上の兄の恋人は、この子の心証が悪い。
 やがて車内の話題は九条院がいつ振りに帰ったかということになり、主馬さんと早穂さんが曖昧に笑い誤魔化していると、
「十七年」
 と妃未ちゃんがきっぱりと云った。はっとしたのがその年数にだったのか、思い詰めたような口振りにだったのか、判らない。
「あたしが小学校に入ったときだもん、お兄ちゃんがうちをでていったの」
 誰も口を利けなかった。随分と経ってから、そんなになるかね、と主馬さんがしみじみと云った。妃未ちゃんはむきになったみたいに、「次に会ったのが高校生のとき。あたしが自分で、お兄ちゃんの家を探しにいったの。それからでも五年ぶり」周囲の沈黙は続いていた。五年前なら、あたしはもう九条院に会っていたなと、どうしてそんなことを考えたのだろう。妹のことも、実家のことも、あたしは何も知らなかったし、知りたいとも思わなかった。
 早穂さんがそわそわと身動きをしてから、「そうそう、妃未ちゃん急にいなくなっちゃったから、凄い捜したんだよね」妙な明るさで云った。いつもこんなふうに、この人が家内の沈黙を埋めているのだろうか。主馬さんも陽気な声音をして、妃未は兄ちゃんのことになると無茶しよるから、と可笑(おか)しげに云った。
「主兄じゃないけん」
「妃未は兄ちゃん大好きやもんな」
「そうだよ」と、妃未ちゃんは痛々しく聞こえるほど強く云った。
「三ツ矢が聞いたら泣くぞ、お前」
「三ツ矢は関係ない」二人が盛んに云い合うのを、早穂さんは穏やかな表情で聞いている。年の離れた兄は顔を心持ち横向けて、はしゃぐ妹をそっと見つめていた。
 そういえばさ、と気持ちを取り直したらしい妃未ちゃんは、何気なく切り出した。「知ってる? お兄ちゃんと同じ名前の作家さんがいるの」
 あたしは心臓が喉まで跳ね上がった。
「最初、お兄ちゃんかと思った」
 九条院は「知ってるよ」と静かに答えた。知っているに決まっている。妃未ちゃんはこれこれこういう小説なのだと説明をする。あたしが居たたまれずに唸ったので、早穂さんが車酔いかと心配して顔を覗き込んだ。
「同じ苗字の人も、全然あたし会ったことないのに、ほんとにお兄ちゃんじゃないの? それか、知り合いの人とか?」
 上の兄はすぐには答えない。あたしは後ろの座席で息を詰めた。やがて、いや、違うよ、と九条院は云った。正しい回答だった。なのに心に錆が浮いた気がした。
 一時間ほど車は走った。
 最後にコンビニを見かけてから随分になる。空はすっきりと晴れて風もないのに、なんとなく砂っぽい町だった。純粋な民家と、表が商店や工場(こうば)になった家屋とが半々くらいに建ち並んでいる。車幅ぎりぎりの路地を入って、幾度か角を曲がったところで車は停まった。早穂さんが素早く降りていく。あたしは窓に肩を押し当てて到着した家の様子を窺った。──路地に面して、見上げるような鉄の門扉が閉ざされてある。早穂さんは体重をかけて、その片側を引き開けた。穴のあいた屋根に架けられた天井クレーンが、まず目に入った。そこは広い作業場で、三和土(たたき)は赤錆に染まり、隅に僅かに鉄材が積まれていた。車を中に入れると主馬さんはエンジンを切る。妃未ちゃんは兄の袖を掴んだまま、さっさと降りようとするのだけれど、九条院は動かなかった。あたしも動く道理がなかった。主馬さんが振り向いて、「酔ったか?」とあたしにだけ云うように茶化した。九条院はゆっくりと外へ出ていった。あたしは男の姿が離れてから、続いた。
 まだ冷たさの残る空気が、すっと肺の中に入った。あたしは妙に居直っていて、いっそ何もかも見届けてやろうという気持ちにすらなっていた。作業場を囲むトタンの壁に一部分、途切れたところがあって、その奥に当たり前の庭を備えた古い家屋が見えていた。早穂さんは急ぎ足でそちらへ向かっていく。作業場は今は使われていないようだった。乗ってきたワゴン車の他にも、軽自動車と数台の自転車が駐められてある。不要品らしい洗濯機やブラウン管テレビが片寄せられていた。廃業した町工場、というのが、あたしの知る本の博愛主義者とは、どうしても繋がらなかった。
 主馬さんが荷台から、あたしたちの荷物を下ろそうとしているのに気づいて、あたしは慌てて受け取りにいった。無駄なチャームやチェーンがぶらつく自分の鞄が居たたまれない。と、身に染みついた気配がして、あたしは振り向いた。音もなく傍らにやってきた九条院は、あたしのことはないものとして、弟に尋ねた。
「母さんは」
 初めて兄のほうから弟に働きかけた。けれど主馬さんは、やはり少し視線を逸らして、
「明日の朝、妃未を送ってから迎えにいくわ」
 どっちつかずの笑みを頬に浮かべた。「いや、兄ちゃんも帰るけん、今日のうちから連れてこようとも考えたんよ。でもなあ、あれじゃ、早穂がえらいけん…」九条院は黙って目を伏せた。
 打って変わって賑やかしく急き立てる主馬さんに連れられて、母屋の広い玄関を入ると、それだけで一部屋というような廊下の先から早穂さんがあたしを呼んだ。ほら彼女、と主馬さんに背を押されたあたしは、「はい」と「お邪魔します」とをごっちゃに云って、とにかく(かまち)を上がった。小走りに声のしたほうへ向かいながら、ああそうか、あたしはこの人たちにとって家族候補なのかと、今更に感じ取ると、あまりに突拍子のないことなので、奇妙さの中に可笑しさが混ざった。けれどすぐに打ち消した。あたしには架空の役柄でも、九条院には現実と地続きの存在なのだ。あいつのために慎まなければ、というのは、本当の恋人でも考えることなのだろうか。
 十畳はある仏間の押し入れを開け放して、早穂さんがあたしを招いた。押し入れからカバーのかかった客用布団の一式を半分ほど引っ張り出す。
「ごめんなさいね、連れの方がいるとは聞いてたんだけど、こちらにいらっしゃるか判らなかったし、支度してなかったの。お布団これでいい?」
 上のビニールからピンク色の花模様が覗いている。あたしは承知する以外にない。
 お部屋は二階ね、と早穂さんは軽く掛け声をつけて、客布団一式を抱え上げる。自分で運びますと云い募ったけれど、取り合ってくれなかった。仏間を出て、すぐ脇の階段を楽々と上がっていく。あたしは自分の鞄を抱えて続いた。
 二階の一間には、既に九条院の分の布団が用意されていた。早穂さんはその横にあたしの分を置く。なんとなく怯んだ。部屋の中には家具らしいものがない。古い箪笥が数棹、奥の壁に沿って据えられてあるだけだ。肘掛け窓から控えめな日が入っている。室内に視線を走らせていると、ここ、お兄さんの部屋だったのよ、と早穂さんが云った。にこやかな顔は、上手く応えられないあたしをじっと見つめている。階下から妃未ちゃんの楽しげな声と、呆れた調子の主馬さんの声が聞こえてくる。
 早穂さんは笑って、「妃未ちゃん、本当に嬉しいみたい。もう何日も前から、ずっとそのことばっかり云ってたんだから。どうしてもお式に出てもらいたかったみたい」姉というより、比喩としての母親のように云った。
 曖昧に頷いたあたしは、ふと引っかかることがあって、けれど単刀直入に尋ねるのは具合が悪いので、遠回しにかまをかけた。
「あの、ご家族の方は、これで全員なんですか」
 早穂さんは気にしたふうもなく、「うん、──お義母さんは、今は施設にいるから、ここに住んでるのは三人ばっかし」勿体ないでしょう、こんな広いおうち、と若干論点のずれたことを云った。あたしはいっそ自分に感心した。結婚する妹、というのが他でもない妃未ちゃんなのだと、今になって気づいたのだ。
「早い…ですよね、結婚…」ちぐはぐなことが口から零れた。ほんとねえ、と早穂さんはあっけらかんとしている。
「あたしだって二十四で、友達中でいちばん早かったのに、それより若いんだから」
 お嫁さん同士だという──あたしはあらゆる意味で「仮定」だけれど、気楽さだろうか、早穂さんはそんなことまで話してくれる。あたしはぼやぼやと相槌を打ったあと、一呼吸を置いて、あの、お母さんは、と尋ねかけた。そのとき階段を話し声が上がってきて、言葉を呑み込んだ。手に鞄を提げ、もう一方の腕に妃未ちゃんをくっつけた九条院が、無表情なまま現れた。喋っているのは妃未ちゃんだけだ。お疲れになったでしょうと、早穂さんは義理の兄に気を配る。九条院は無愛想にならない分だけ応える。
「下でお茶にしますね。妃未ちゃん、お手伝いして」
 渋る義妹を引っ張っていったのも、配慮の一環なのだろうか。むず痒かった。あたしは叱責を待つ気分で、立ったまま九条院を睨んだ。九条院は早穂さんたちの足音が完全に遠ざかったのを確認してから、襖を閉めた。
「君──」冷めた眼差しが見据えた。判ってるよ、とあたしは子供じみて先手を打った。
「でも、女装した男の連れより、こっちのほうがましだろ」
 九条院は眉を動かした。
「そうじゃないよ。今回のことは僕が悪いんだから。そんな、君が自分を貶めることない」
 責め立てられるつもりが、思いがけず心配されて、あたしはかえって打撃が大きかった。九条院は伏し目がちに言葉を続けた。「確かに…ここの人たちには君を理解するのは難しいだろうけど、だからこそ、責任があるのは僕なんだ。今からでも余所に移るよ」
「それは…」あたしは本心から戸惑った。「妃未ちゃんが、可哀想だろ…」
 九条院は薄く口をひらき、しばらくそのままでいた。それから、糸が切れたように語った。
「妃未は十四も下の妹なんだ。生まれてすぐに父親が死んだから、僕のことをその代わりみたいに思ってるんだ。僕は…昔、あの子を放り出したから…」
 弱いあんたを見たくない、と思った。
「ごめん、伶君──三日だけ、我慢して」
 あたしは承諾を、どう伝えたらよかっただろう。

 どっしりとした座卓を挟んで、鬼千匹と対峙している。
「伶さん、いっつもそういう格好してるの?」
「あ…うん」
「可愛いよね、ほら、伶さん小柄だから、お人形みたいなのとは違うけど」
「このへんじゃ見ないよ」
 あたしは苦笑して、「変な趣味だよねえ…」ちらと九条院のほうを窺うが、少し離れて隣に座った男は何も云わず、何処を見ているやらも判らない。
「いいけどさ…早穂、飯は?」
 怠そうに頬杖を突いていた主馬さんが、察してか、本心でか、うんざりした調子で云った。
「あ、やだ、ほんとだ。お兄さんたち、お昼まだですよね」
 早穂さんは云いつつ、主婦そのものの動作で座を立っていこうとする。あたしは三秒後にはっとして、お手伝いします、と腰を浮かせた。
「いいから、伶君」
 云ったのは九条院だった。早穂さんは居間からお勝手へいきかけた格好で、あたしは中腰のまま動きを止めた。
「僕が手伝います」
 そう云って立ち上がるから、誰よりも慌てたのは早穂さんだ。
「そんな、お兄さん、ゆっくりしてらして下さい」
「いえ、構いませんから」きっぱりと迷惑なことを云うので、早穂さんは押し切られてしまったようだった。じゃあ、あの、お願いしますと強張って笑いながらも、一寸(ちょっと)嬉しそうにも見える。
「伶君、だって」
 わざとらしく呟いてから、妃未ちゃんも立ち上がった。
「あたしも手伝う」
「現金ねえ」三人とも暖簾の中に消えた。
 あたしは座卓に手を突いたまま、どうしようもなかった。「座ったら?」と稍して主馬さんが云った。それから小さく笑って、
「ああ、思い出したわ。兄ちゃん、そういうの嫌いなんだよな」
「え」
「ほら、家事は女がやるもんだみたいなさ。伶ちゃん、結婚したら楽できるぜ」
 はあ、とあたしはお愛想で頬を弛めた。聞かなくていいことを聞いた気がした。
 妃未ちゃんがお盆を持って出てきて、全員の茶器を下げて引っ込んだ。また出てきて、今度は各々のグラスと箸を並べ始める。あたしの分を配ってくれるとき、「伶さん、お兄ちゃんのご飯、食べたことある?」と例の調子で尋ねるから、まあ、うん、あたしは嘘ではない程度にぼやかした。ふうん、と低く云って、妃未ちゃんは去っていった。──丸一年間、朝昼晩と食べていたと答えたなら、どうなったことだろう。それ以前に、口が裂けても同居していたなどとは云えない。
 昼食の味はよく判らなかった。食事が済んだあと、町内にあるという墓地に参ることになった。いよいよ申しひらきができない。その上、気づいたときには九条院の姿が消えていた。
 早穂さんにまとわりついて支度の手伝いか邪魔をしていると、妃未ちゃんがばたばたとやってきて、お兄ちゃんは、と尋ねた。あたしも早穂さんも、主馬さんも関知しないことだった。二階に上がってみると、九条院の上着がなくなっていた。いつの間に出ていったのか、けれど不思議ではないことなのかもしれない。ここは、あの男の生まれ育った家なのだ。
 妃未ちゃんは居間に立ったまま携帯をかけ始めた。それを見て、ふと思い出したことがあった。もう何年前になるのか、あの男と出会って間もない頃、何かの折に携帯の番号とメールアドレスとを教えられた。あたしはとても意外に感じたのだ。九条には固定電話があるのだし、携帯もメールも、まったく必要があるようには思われない奴だ。付き合いが長引くうちに気にしなくなったけれど、もしかしたら、あれは妃未ちゃんのためだったのかもしれない。
 妃未ちゃんは随分と長いあいだ、同じ姿勢でいた。あたしはじっと見ていた。そしてぼそりと、出ない、という声を聞いた。
「まあ、そのうち帰ってくるき」
 主馬さんが妹の肩を叩いた。妃未ちゃんは頷かなかった。
 庭で切った水仙を抱いて、墓地まで四人で歩いていった。墓前で云い訳などすれば、余計に泥沼に嵌る気がする。あたしは必死で手を合わせたあと、古びた墓碑を見た。最も文字の彫りが新しいものは、九条院たち兄弟の父親のもののはずだ。
 ゆっくりと町内を廻って帰ったので、家に戻ったときには夕方だった。九条院はまだいない。あたしは結局、早穂さんと一緒にお勝手に立った。むしろほっとした。料理はできる。けれど、普段は面倒で作らない。古書店の二階に居候していた頃は、鍋を見たりはしていたけれど、一度も手伝うとか代わりに調理するとかはしなかった。ひょっとしたら九条院は、あたしは料理ができないものと思っているのじゃなかろうか。──なんでまた、そんなことを考えるのだか。
 居間では主馬さんと妃未ちゃんが、テレビを見ながら何かぼそぼそと話している。仲がいい、と表現するのとは違う。密着した、濃密な兄妹関係だった。あたしは絹莢の筋を取りながら、いいんでしょうか、と魚焼きグリルを覗き込んでいる早穂さんに声をかけた。
「ん? なにが?」
「妃未ちゃん…明日、結婚式なのに…」
「こんなもんだよ、結婚式の前の夜なんて。準備はみんな終わっちゃってるし、ゆっくり寝とかなきゃ、くらいで」
「へえ…」あたしは自分の身には一生訪れ得ない感覚に、素直に感じ入った。
「……妃未ちゃんて、結婚したら余所(よそ)に住むんですか」
「ううん、今のまんま。旦那さんのほうがうちに越してくるの。だから余計に気楽なんじゃないかな」
 あたしは気の抜けた返事を繰り返した。人と人とが繋がって日常が変わる。それが当たり前に起こるのが不思議でならなかった。
 早穂さんは悪戯っぽい口調で、「伶さんも、お兄さんと結婚してうちに住めばいいのに」あたしは変な声が出た。
「だから…あの、結婚とかそういうのは…」
「だって、もう実家にきちゃったじゃん」
「……そうなんですけど…」
 プロポーズしちゃいなよ、逆に、と早穂さんはけしかける。あたしは苦いことを思い出して、上手く返せなかった。かつてあの男にプロポーズした女性も、それをあの男が、自分には家庭は持てないからと断ったことも、その女性をあいつが、本当に好きだったことも、あたしは知っている。
 玄関に誰かやってきた声が聞こえた。妃未ちゃんが立っていったようだった。稍して急に騒がしさが満ちて、居間に数人の男性の声が入ってきた。
 早穂さんが暖簾から顔を出して、親しげに挨拶をする。隙間から覗き見ると、主馬さんと妃未ちゃんの中間くらいの──つまりあたしくらいの年齢の男性が三人、既にコートや鞄を脱ぎ始めているところだった。主馬さんは座ったまま、少し横柄にあれこれと指示をする。あの人の後輩、と早穂さんはこっそりとあたしに教えた。
「そうだ、お兄さんが帰ってきてるって」一人が腰を据えながら主馬さんに聞いた。主馬さんはこちらへ視線を向ける。
「そ、しかも彼女連れ」な、と云われて、あたしは顔を見せるしかない。後輩三人は、よく判らないが一頻(ひとしき)り騒いだ。そうして、すぐに話題は別のほうへ逸れたらしかった。
 早穂さんに云われて、妃未ちゃんが両手いっぱいの缶ビールを運んでいく。と、背後で早穂さんが声を上げた。驚いて振り向くと、早穂さんはあたしの脇から居間に半身を乗り出して、
「主馬さん、もう飲んじゃった?」
「いんや」
「ビール買っておくの忘れちゃってたの。いってくれる?」
 主馬さんはやれやれというふうに立ち上がった。
「妃未、くるか?」
「いかない」
「じゃ、伶ちゃんだ」
 え、とあたしは虚を衝かれたのだけれど、どうにも断る理由もないし、慌ててコートを取ってきた。主馬さんは玄関で上着のポケットに手を入れて待っていた。表へ出ると、もうすっかり夜だった。母屋は作業場からゆるい傾斜を上がった位置にあり、左右の家も間遠いので、冴え渡った空が陸地の周囲を取り巻いているように見える。群青色の、裾野ばかりがほんのりと明るい。
 あたしはワゴン車の助手席に乗った。ダッシュボードの上に小さなぬいぐるみが放られてあった。普段は妃未ちゃんの場所なのかもしれない。主馬さんは自分で作業場の門扉をひらき、車を出し、また閉めにいった。そこまで気が回らなかったあたしは、心苦しくすみませんと云ったけれど、主馬さんは気楽に笑うだけだった。
 兄弟は似ていない。妃未ちゃんは別にするとしても、上の二人は殆ど正反対の気質だ。だのに、そっと窺う主馬さんの横顔は、乏しい光源の中で見る所為(せい)か、はっとするくらい九条院に重なる瞬間があった。あたしはあいつの弟の隣にいるのだと、なんだか泣きそうな気持ちで考えた。
 伶ちゃんさ、と信号で停まったときに、主馬さんは切り出した。
「今、幾つ?」
「あ…二十、五です」
 へええ、と主馬さんは大仰に声を上げる。どういう意味合いだったのだろう。稍して言葉を継いだ。「そんじゃ、兄ちゃんと丁度一回り差か」
 あたしはこのとき、初めて九条院の正確な年齢を知った。
「なんか判るわ」
「え…」
 信号が変わった。主馬さんはゆるやかに車を出し、その続きは云わなかった。
 代わりに真剣な響きのある声で語った。
「昼飯のときさ、云ったやろ兄ちゃんのことさ。なんつうか、うちの死んだ親父って昔の男だったんよ。昔気質(むかしかたぎ)つうかさ。そんで、お袋がまた、そういうのに黙って従う人だったわけ。兄ちゃんはさ、それに反発してたっていうか…」話はそこで途切れた。
 不意に口を鳴らして、「にしても、何処にいっとんだか」あたしは横顔に見入っていた目を窓の外に移した。車は屋根のあるさびれた商店街に差しかかっている。時刻もあって、シャッターの上がっている店は三分の一もないくらいだ。当たり前だけれど、歩道を通る人は地元で見る人の姿と変わらない。現実感が遠ざかった。あたしはいつしか、流れ去る景色の中に九条院の姿を探していた。
「あれは昔から、よお判らん」独り言のように主馬さんが云った。
 閉店間際の酒屋でビールを一ケース買って帰ると、後輩は五人に増えていた。新郎は? と主馬さんは居間の敷居に立って尋ねた。挨拶するところがあるんだって、と輪の中に悠々と座った妃未ちゃんが素っ気なく云った。
 玄関がひらいた。振り見ると、広い廊下の先の暗がりに、どうしてか一目でそうと判る人影があった。あ、と思ったときには妃未ちゃんが飛びだしてきていて、そのままの素早さで出迎えにいった。居間の中でどっと笑い声が起こった。
 あたしの足はふらふらと動いて、上がり框の随分と手前で止まった。どんな文句を云ってやろうかと算段していたのに、いざ九条院の顔を見ると何も浮かばなかった。妃未ちゃんに気怠げに言葉を返して、九条院はあたしを見た。あたしはなんとなく、視線を逸らした。
「お兄ちゃん何してたの」
一寸(ちょっと)折尾(おりお)に」低く答えて、九条院は土間から上がった。妃未ちゃんはすっと調子をおとして、静かに納得する声を返した。
「元気だった?」
「あんまり…」
 男が仄かに口角を笑わせたのが、視界の隅に感ぜられた。あたしの知る(よし)もない会話だった。
 十数年ぶりに戻った兄が妃未ちゃんに引っ張られて居間に顔を見せると、驚きの声と、それから波のような反応が起こった。耳にしてきた話では、この後輩たちがいつの後輩にせよ、九条院とはさして面識はないはずだった。それで、やはり、何処か余所々々しさがあった。九条院は他人みたいな挨拶をすると、二階へ上着を置きにいった。あたしは追っていくべきか迷ったけれど、早穂さんが呼ぶので結局お勝手へ入った。帰ってきたね、と早穂さんは、まるで子供をあやすようにあたしに微笑みかけた。
 そのまま降りてこないのじゃないかと少し案じたものの、そうだったとしても妃未ちゃんが放っておかなかっただろう。じきに九条院は姿を見せて、妹に云われるまま座に着いたようだった。お兄さん、お酒は? と後輩の一人が尋ねる。男は低く断る。あいつは本当に下戸なのだ。だけどひやひやした。大皿に盛った煮物を運んでいくと、居間の上座になるところには妃未ちゃんがいて、その隣に別の空気を呼吸しているような顔で九条院がいた。更に隣には主馬さんが片膝を立てて気楽にしている。けれど兄とのあいだには少し距離があった。お愛想に二言三言、座に声をかけるあたしを、九条院はちらりと見る。あたしはまた家事を取り上げられないうちにそそくさと引っ込んだ。いつもこうなんだよ、と早穂さんがにこやかに云う。「殆ど毎晩誰かがご飯にくるから、賑やかで」あたしはなんとなく寂しくて、そうですね、と静かに答えた。
 何度めかに料理を運んでいったとき、玄関のほうから「こんばんは」と男性の声が聞こえた。居間の喧噪に紛れてしまいそうなほどだったけれど、妃未ちゃんが箸を置いて大儀そうに立っていった。稍して、やはりあたしと同じくらいの年齢の、見るからに気弱そうな男性が連れられて入ってきた。後輩たちは一斉に笑い出した。男性はきょとんとして、「え、何?」と誰にともなく尋ねた。
「不憫だな、新郎」
 主馬さんが可笑しそうに、けれど慈愛を込めて云った。妃未ちゃんはさっさと上の兄の隣へ戻った。
 妃未ちゃんの結婚相手は、なんというか不釣り合いなのがかえって似合っているような男性だった。妃未ちゃんが強気なら、相手は弱気──力関係もその通りらしい。何々さんからご祝儀をもらってきた、と報告する折に、年も下の自分の伴侶になる女の子を、「ちゃん」づけで呼ぶのが小耳に挟まった。
 お勝手へ戻ると、尋ねるまでもなく早穂さんが教えてくれた。
「三ツ矢君もね、中高とあの人の後輩だったの。よくうちに遊びにきててね、妃未ちゃん、気にもかけないみたいにしてたのに、遠くで買い物したりするときなんかは一緒にいったりしてね、荷物持ちだなんて云ってたのに、いつの間に、ねえ」話題が話題なので止まらない。あたしは怖じ気づきつつ、そして微笑ましく聞いた。要するに、主君のお姫様をもらってしまったわけだ。
 その三ツ矢さんのグラスを持っていってあげると、新郎は上着を脱ぎ、厳粛な面持ちで九条院の前に膝を折っていた。息を詰めた。三ツ矢さんは何事か云ったあと、深々と礼をした。九条院は妹と結婚する男性を、じっと見下ろし、それから男の眼差しの奥に、微かな笑みが宿った。
 自嘲の笑みだった。

 夕食が済み、居残っていた連中が明日の式のことを云い合わせて帰っていっても、妃未(ひみ)ちゃんは九条院をつかまえたまま、次々と、苦しくなるくらいに話題を持ち出して、居間に引き留めていた。三ツ矢さんも帰った。妃未ちゃんは顔を上げて、軽く挨拶をするだけだった。主馬(かずま)さんが苦笑いしていた。何処か哀しげですらあった。
 あたしは洗い物も終わってしまい、所在なく座卓の端に着いていた。卓の上には、妃未ちゃんが持ってきたアルバムが何冊も広げられている。当たり前の、輝かしい女の子の思い出が溢れている。けれど、その裏にはこんなにも切実な空洞があったのだ。
 早穂(さほ)さんがエプロンで手を拭いながら、廊下から入ってきて、
「伶さん、よかったら、お風呂どうぞ」
 さばさばと笑った。「あたしはまだいいから」
 大変だな、余所の家のために、と考えること自体、外れているのだろうか。主馬さんにも勧められて、あたしは二階に荷物を取りにいき、お湯をもらった。パジャマくらい用意してくるんだったと、スウェットの下とトレーナーでどきどきしつつ声をかけると、なんの疑念もなく、疲れたろうから早めに休んだらどうかと気を遣われる。「おやすみ伶さん」まだ返事をする前に妃未ちゃんが云った。あたしは一、二秒言葉を失ったあと、素直に従うことにした。
 部屋には今の()に布団が延べられていた。二組、隙間もなく並んでいる。電灯の紐を引っ張った格好のまま、あたしはしばしそれを眺めた。肘掛け窓にもカーテンが引かれ、周囲はとても静かだ。服やなんかを鞄に突っ込み、あたしはピンクの花模様のほうに掛け布団もめくらず倒れ込んだ。一分もせずに起き上がった。布団を、もし早穂さんに見られても構わない程度に離し、持ってきた文庫本をひらいてみたけれど、頭に入るはずもない。自棄(やけ)になって携帯を操作した。
 出なくていい、と思っているときに限って相手は出る。口をひらくなり、遥か遠い地の男は云った。
〈嬉しいですね、伶さんのほうからかけて下さるなんて〉
 あたしは長く息をつき、しみじみと返した。「あんたの声を聞いて、未だかつてこんなにも安らいだことはないわ…」
 電話の相手、塔田(ひびき)はこだわりなく笑った。〈どうなさったんですか、伶さん〉
 あたしは手短に、簡潔に、客観的に今の状況を話した。聞き終わると、塔田は文章に触れている人間特有の、まず基本事項を確認しようという口調で問うた。〈じゃあ、伶さんは今、隼人(はやと)さんのご実家にいらっしゃるんですか?〉
 意外に思って声を漏らした。「だって…あんたにも声をかけたんだろ?」
 いいえ、と塔田はおっとりと答える。
「……あんた、大学って忙しいか」
〈いえ、別に。いつも通りですね〉
 大学の研究室の内実など知らない。けれど、この男に嘘をつく理由も利点もないのは確かだった。
 塔田は早くも、あたしの困惑の原因に目星をつけたらしかった。
〈それで、ご実家での第一日めは如何ですか〉何気ないことを聞いているようで、声は完全にそれを指し示している。
 あたしはむっとして、「ほんとに、なんでだか、よく判んないけど、……九条院の婚約者だと思われてる」云ってやった。塔田は一拍を置いて、
〈何処のライトノベルですか〉笑いに埋没した形で云った。まったくだ。あたしも仕方なく一寸(ちょっと)笑った。でも腹立たしく、お前な、と(なじ)ると、ええ、すみません、ともう調子を整えて、塔田は返す。
〈今のは失言でした。文学のジャンルについての偏見でしたね〉そっちか、と云いながら、あたしは後ろに寝転ぶ。なんとなく、この数日で初めて楽に息ができている気がした。
 塔田は不意に、ひやりとする穏やかな声になって、
〈結婚、してしまえばいいんじゃありませんか、隼人さんと〉
 あたしはその声音のために、もう減らず口も叩けない。男なんだぞ、とだけ、決まり文句のように云った。あたしは男なのだ。
〈構いませんよ、そんなこと。戸籍上は隼人さんの養子ということにでもして頂けばいいんです。人前式ということなら、僕たちが証人になりますし、どうしても神前で誓いを立てたいというなら、ほら、地鎮祭とか〉
「それは『禁色』だろ」あたしは怠く答えた。流石ですね、と塔田は茶化す。あまり笑えなかった。
〈とにかく、その程度のことですよ、結婚なんて。互いに取り合った手を、他者に糸で結わえてもらうだけのことなんです。勿論、生涯ずっと離れないなどということにはなりません〉
「でも、少なくとも…結わえた人間には、その関係を認めてもらえるってことだろ」
〈情愛に保障が必要ですか〉
 あたしは言葉が浮かばなかった。塔田は、いつもこうして容赦なく核心を突く。
〈結婚なんて、必要ありませんよ。ただ、その相手と隣り合って生きていたいというだけなら、関係の永続も、破綻も、そんな契約では守られも避けられもしません〉
「……云ってること、矛盾してないか、最初と…」あたしは苦し紛れにそんなことを云った。いいえ、と柔らかな声音で、塔田は答えた。〈していませんよ、今の伶さんにとっては〉
 考え込むしかなかった。その通りかもしれない。あたしは、あまりに完全な家庭というものを見て、それで保障を欲しがっているのかもしれない。ごく当たり前のものを。
 あたしの息遣いを数えるように、長大な距離の向こうで沈黙していた塔田は、稍してくすくすと笑いだした。
〈伶さん、それでは難しいこと抜きで、僕と結婚しましょうか〉
「はあ?」思わず大きな声が出た。あたしはなんとなく()てた襖を窺って、「なんでだよ…」今度は小声で云った。
〈おや、お慕いしていると何度も云っているじゃありませんか。僕の伴侶になって下さったら、お食事は一匙ずつ食べさせて差し上げますし、お出掛けのときには跪いて靴を履かせて差し上げます〉
「やめろ、想像しそうになる」
 あたしは本気で身震いして云った。塔田は可笑しそうに笑っている。先日の待遇を考えると、あながち冗談でもないかもしれない。けれど、この男だって、結婚や家庭から弾かれた人間なのだ。そうでなくては、こんなあたしに構う道理がない。
 しばらく話し、明後日には帰る予定なのだということを教えて携帯を切った。電灯を消して布団に潜り込んだ。やがて、静かに襖がひらいた。
 男の重みの足音が、あたしの布団を()けて鞄のほうへいき、また出ていった。じっと待った。少しして足音は戻ってくると、灯りもつけないまま少し荷物を片付けるようで、それから隣の布団に入る気配がした。あたしは初めからそちらへ背を向けていて、やはり振り向きはしなかった。意地になって寝たふりを続けた。
 やがて、伶君、とぽつりと九条院が呼んだ。繰り返し語りかけることはせず、微かに敷布を鳴らして、それきり物音は絶えた。
 あたしは寝返りをうった。慣れた目に天井が薄青く映る。男が寝ついていないことくらい、判っていた。それでも、あたしたちは何も言葉を交わさなかった。
 隣り合って眠るのは二度めだった。

 翌日、早朝と云っていい時刻にあたしは上がり口に立ち、玄関に居並ぶ式日の一家を見送った。ほんとにいいの? と早穂さんは気遣わしげに聞いた。今日は一日、あたしは独りで留守番だ。
「伶さん、あんまり寝られなかったんでしょう? ゆっくりお昼寝しててね。ご飯作ってあげる時間なかったんだけど、適当になんでも食べちゃって」
 朝から変わらない調子の早穂さんに、苦笑しつつ頷き、あたしは妃未ちゃんに改めておめでとうを云う。妃未ちゃんはちらと目を上げ、平坦に謝辞を返した。少しおちこんでいるように見えた。判る気がする。主馬さんが賑やかしく、あたしに声をかけて玄関の戸を開ける。三人が出ていってしまったあと、遅れた九条院があたしに向き直って云った。
「伶君、もし…」
 そこで口を噤んだ。洋装の礼服を着た九条院は、あたしの知るどの九条院とも違った。心がざわめいた。男は稍して仄かに笑みを浮かべ、じゃあ、宜しくね、と重みのないことを云って戸口を出た。あたしは射竦められていた。
 ぼんやりと居間のソファに横になっていた。時計の音がひどく耳についた。昔、両親の家にいるときに、いちばん初めに堪え難くなったのは時計の秒針の音だった。追い立てられている気がした。あたしは起き上がり、所在なく仏間に入った。鴨居を見上げると、額に入った幾つかの写真がある。殆どが老人である中に、一人だけまだそれほどの年齢でない男性の顔があって、あたしは数秒、見つめて逸らした。日焼けした肌と()けた頬とが目の奥にこびりついた。九条院とは似ていない。
 あたしは荷物からノートと筆記具とを持ってきて、居間でひらいたまま放心していた。正午近くになって電話が鳴った。数コールは放っておいたけれど、いつまでも鳴りやまないので見ると、忙しかったからだろう、留守電機能が入っていない。あたしは迷った挙げ句、受話器を取った。

【佐伯さんから電話がありました。昨日の件、どうぞ宜しくとのことでした。戻ったら、折り返し連絡が欲しいそうです。】

 不甲斐ないことだ。あたしは公園の地面を子供じみていらいながら、何度となく頭を振って呻いた。休日の夕方、空は油色をして穏やかだのに、小さな公園には人っ子一人いない。というより、長屋や松の防風林が続く周囲の何処にも人の気配がない。
 九条院は、もう荷物の上に置いてきたノートの切れ端を見つけただろうか。たったあれだけのことを面と向かって伝える度胸がなくて、あたしは任された留守宅を空けて彷徨(さまよ)い出てきてしまった。
 と、背後から声がかかる。振り向くと立っているのは見知った男だ。
 九条院はまだ礼装のままだった。かっちりとした身なりは、雑草の伸び放題になった敷地や、あらかたペンキの剥げた遊具や、それからあたしの心からも浮き上がっていた。心配してたよ、と責めもしない静かな声で云う。うん、とあたしは小さく答えた。九条院はあたしのほうへ歩み寄ってきた。
「書き置き、見たか」
「うん…」あたしはわざと肩を竦めて、
「ずっと謎だったんだ、あんたがいつから本屋をやってたのか」
 二、三歩あたしが遠ざかるあいだ、九条院は黙っていた。折尾の佐伯ですが、と電話口の女性は云った。佐伯書店の。──相手は、あたしを主馬さんと思ったのらしかった。見かけにさえ惑わされなければ、あたしの声は男に聞こえるのだ。
 違います、とあたしは云った。弟さんでしょうか、という問いかけに、違います、ただの──あたしはなんなのだろう。
「佐伯さんにはね、高校の頃からお世話になってたんだ。アルバイトっていうより、本当にお手伝いくらいのものだったけど。古書のことを一から教えてもらってね。あちらへ移るときにも、知り合いの古書店を紹介してくれて、そこで何年か働いたあと、今のところへ自分の店を持ったんだ」
 九条院の声に、あたしは躯をばらばらに持ち去られていくように感じる。今は入院しててね、と男は話を継ぐ。
「僕の通ってる頃から、もうお爺さんだったから。具合を悪くしてるっていうのは、妃未から聞いてたんだけど。──僕に、店を任せたいらしいんだ」

「あたしは、もう、やりたいことをやめたほうがいいと思うか」
「なんて云ってほしいの」
「やめるな…」
「それなら、伶君、やめるのはよしなさい」

「迷ってるんだ」
 あたしは振り返った。九条院はあたしを見ていた──途方に暮れた人の目だった。狼狽(うろた)えている自分を、あたしは知っていた。顔を伏せて、何も云わずに九条院の脇をすり抜けた。
 母屋の玄関を入ったとき、土間の隅に空の車椅子があるのに気づいた。廊下の先から、やけに明るい早穂さんの声が響いている。あたしは躯が冷たくなって、(きびす)を返した。作業場へ下りる坂の途中で足を止めた。
 お母さん、とぽつりと、あたしは問うた。九条院は頷いた。
「流石に…お母さんとは会えないよ…」
 少し間を置いて、そうだね、と男は返した。
 どちらから云い出すともなく、作業場の隅の鉄材に凭れて、あたしたちはじっとしていた。戻ったら、とあたしは促したけれど、九条院は少し離れて隣にいた。横顔を見た。男は寂しげな面持ちで目を細め、穴の開いた屋根を見つめていた。
 これでも、と九条院は独り言のような口調で云った。
「考えたりするんだよ。父親が死んだ年まで、あと何年もないなって…」
 昨日知ったばかりの、この男の年齢を思った。でも、それは半分は嘘だ。埋め合わせをしたいのだ。もう一度、自分が投げ出した場所に戻って、そこへ刻まれている傷を覆おうとしている。
 玄関のほうが騒がしくなると、九条院はそっと躯を浮かし、あたしへ視線を投げてから外へ出ていった。あたしは追った。作業場の鉄扉を抜けるとき、振り見ると母屋の前に、車椅子に小さく収まった人の姿があった。足早にそこから離れた。路上で待っていた九条院は、あたしが充分に近づいてから歩きだし、やがて車通りとの角の、自販機の前で足を止めた。
「伶君、何か飲む?」
 捉え所のない笑みで、いつも通りのあいつだった。あたしは俯き加減のまま、くぐもった返事をした。
 (こら)えきれずに、なあ、と呼びかけた。
「あたしのこと、妃未ちゃんや主馬さんの代わりだと思ってたか」
 すぐには反応はなかった。あたしは待った。
「……別に、そんなつもりはなかったけどね」
 九条院は背を向けたまま、云った。聞こうとしたことを聞いたはずだった。

 あのね、と早穂さんは切り出した。
 あたしは重ねた取り皿を抱えたまま立ち止まった。お勝手には二人きりだ。
「伶さんには云っていいと思うんだけど、実は、お兄さんが帰ってきたのって、今回が初めてじゃないの」
 え、と呟きが漏れた。早穂さんはおっとりと(まなじり)を下げる。
「去年のことなんだけど、あたし、お義母さんの病室で会ったことがあるの。多分、それまでにも何度も訪ねてきてたんだと思うよ。あたしも、あたしたちの結婚式にはいらっしゃらなかったから、実際にお会いしたのはそのときが最初で、それで、主馬さんたちには黙っててほしいって、そう頼まれてたの」
 どう応えていいか判らなかった。九条院とは腐れ縁の関係でも、緊密に連絡を取り合っているわけじゃない。数日、店を閉めて何処かへいっていたって、気づくはずもない。
 早穂さんは続けて、こんなことを話した。
「ねえ知ってる? 主馬さんの野望」
「は…野望…」
「そ、今回の帰省のあいだに、お兄さんの呼び方を、兄ちゃんから兄貴に変えるんだって」
 早穂さんは肩を丸めて笑った。「大真面目に云うんだから。しょうがないよねえ、男の人って」
 あたしはどうしようもなく口の端が弛んだ。笑うわけにはいかないのも承知していた。その、しようがない男なのだ、あたしも。
 仏間と応接間との境の襖を取り払って、かなり大きく(こしら)えた座敷に、聞き取れないほどの賑わいと酔顔が満ちている。足を踏み入れると、むっとした人いきれを感じた。こちら側の親族は少なく、殆どが早穂さん方の身内や例の後輩たちだ。肝心の妃未ちゃんと三ツ矢さんは今夜は式場のホテルに一泊だ。それで座の中心には、主馬さんがいた。
 あたしはお寿司の桶や仕出し料理が載ったテーブルに取り皿の山を置いた。早穂さんの従兄弟だったか、そのお嫁さんだったかの女性が、あ、と云って手を伸ばす。あたしは我ながら薄ら寒くなる反応で取り皿を手渡す。背後から早穂さんが顔を出して、伶さんも食べちゃって、と云う。あたしもすぐ行くから。場の雰囲気に気圧されて、弱々しい返事をしてから、あたしは一人の人間を探した。九条院は部屋の隅で、ぼんやりグラスに口をつけていた。
 隣へいった。黙って腰を下ろした。九条院はあたしを見て、そっと「お疲れ様」と云った。
 あたしは無愛想に(おう)と答えた。
 やがて、「損だな、こういうとき飲めないと」と云うと、微かな笑い声が返った。あたしは飲めるが、飲むような場合でもない。九条院の隣から座敷の様子を眺めた。それはあたしたちからは遠くあった。
「昔は、こんなに賑やかなこと、なかったんだけど」ぽつりと九条院は云った。──主馬のお陰だね。寂しげに続けた。
「よくさ、自分は独りきりの環境にいたから、大勢で賑やかなのに憧れるって、云うじゃない。でも、あれは嘘だね。憧れる気持ちはあっても、自分が自分である限り、その賑やかしいところへは入っていけない」
 あたしは黙って聞いていた。
 必要なだけの空白を置いて、連絡、したのか、と問うた。九条院はやはり淡々とした調子で、したよ、と云った。
 九条院はいなくなる。九条が空になるところを思い浮かべた。仕方がないことのような気がした。九条院が戻れば、妃未ちゃんも、早穂さんも、お母さんも、勿論主馬さんも、喜ぶだろう。あたしは相変わらず安アパートで暮らしている。あたしとこの男とは別の人間だ。人生は別のものだ。当たり前だ。
 主役を欠いた宴会は随分と遅くまで続き、酔客がぱらぱらと帰っていき、残った何人かのお嫁さんたちと座敷を片付けた。早穂さんは動きづめだ。余った料理を大皿に集めたものを、何度かに分けて運んでいるとき、主馬さんは伯父さんではないらしい老年の男性と何か頻りに議論していた。急に静かになった座敷に、お酒の入った主馬さんの声は甲高く響いていた。片膝を立てて、どうも、親類に関する出来事の年代について、意見が一致しないのらしい。業を煮やして──それとも、無意識の振る舞いで、主馬さんは九条院のほうを向いた。それから、一拍を挟んで、兄ちゃん、と呼ばわった。
「あれさ──」説明をすると、「もっと前だよ」九条院は素っ気ないほどの即答をした。顛末を見ていたあたしは震えた。けれどそれは、おっかないという意味ではなかった。九条院は稍してから腰を上げ、主馬さんたちの輪に、少し離れて加わった。
 あんなことを云っていた割に、とあたしは内心で呆れた。そうして、面映ゆいような気がした。大皿を抱えて敷居際に立った自分の躯が、とても孤独なように感じた。あたしはあいつの、恋人でもなければ婚約者でもない。──例えそれらで有り得たとしても、やはり寂しく思っただろうか。人間は欲深いものだ。
 親族の成立論議で忙しい男たちは放っておいて、手伝ってくれたお嫁さんたちを作業場の外まで見送り、重たい門扉を閉めて、あたしは夜の中を借りたつっかけで小走りに戻った。またいちばんにお湯をもらうことになった。浴室から出てくると、居残っていた例の伯父さんでない男性が玄関で苦労して靴を履いていた。おいちゃん大丈夫か、と框に立った主馬さんが云う。傍らには九条院もいた。
 早穂さんが顔を出して、林檎むいたけど、と明るく云う。あたしは後ろ髪を引かれる思いで居間に招かれた。やっぱりスウェットの下とトレーナーだ。すかすかした気分だった。早穂さんは男性を送り出すと、次に義兄にお風呂を勧めたらしかった。じきにやってきて、やれやれと向かいに座る。口調にはそんな大変さなど微塵もない。あたしを促しながら、もう早、自分で一切れを口に運ぶ。あたしは、主馬さんは、と聞いた。「さあ、黄昏(たそが)れてる」早穂さんは平然と答えた。それは九条院も同じかもしれないなと、なんとなく思った。
「ねえ、伶さんって今すっぴん?」
「え…はあ…」普段からそうだ。
「いいなあ、やっぱり若いと違うなあ」
 大仰に云うから、思わず笑いが零れた。「若いって、そんな…」
 早穂さんはむきになったみたいに、「笑ってられるのも今のうちだって、もう」余計に可笑しくて仕方がない。ほんの二つ三つ違うだけだろう早穂さんのほうが、ずっと活気に溢れてずっと綺麗だ。
「伶さん、また遊びにきてね。一人だけででもいいから」
 そう云った声音はしんみりとしていた。眼差しは硝子の器に落ちて、夢見るようにプラスチックのピックを彷徨わせている。別れを惜しんでくれるのが、とても不思議に思えた。あたしとこの女性とは、本当になんの所縁(ゆかり)もないはずだのに。
 これが、人と繋がるということなのだろうか。
 二階へ引き取って、やはり延べておいてくれた布団の上へ座り、あたしは一つの番号を携帯のメモリから選んだ。耳に押し当てて目を閉じた。そっとコールを数えた。──出ない。まだ帰っていないのか、もう眠っているのかもしれない。携帯を膝の上へおろして、ディスプレイを見下ろした。母、と出ている。それ以外に登録しようがない。あたしは終話ボタンを押した。
 布団に入っていると、九条院が上がってきた。電灯はつけたままだ。男は、(うな)されるよ、と云ってそっと口の端を窪ませた。あたしは横向いた姿勢で視線だけ逸らして、うん、と答えた。
「明かり、消す?」穏やかに問われる。
 うん、と同じ調子で繰り返すと、九条院はその通りにして、少しして隣の布団に気配が移った。
 仰向きになった。まだ目が慣れない。闇の中に、ただ、男のいる感覚だけがしていた。
 似てないよな、あんたら、とあたしはぽつんと云った。九条院は少し間を置いてから、そうでもないよ、と答えた。
「喧嘩とか、したことあるか?」
「ないね、そういえば。主馬でも八つ違うから」
「ふうん…」
「君は、独りっ子なんだっけ」
「気楽だ」
 大変でしょうに、と云った男の言葉のほうが、本当だった。あたしは少し、枕の上で頭を動かした。男の横顔が、はっとするほど近くにあった。じっと天井を見つめている。──ずっと以前も、この同じ部屋でそうして夜を見つめていたのだろうか。
「なんだかんだ云ってさ、上手くやれたじゃんか」急拵えの、妙な云いがかりだった。そうかな、と素直に九条院は返す。「好きか嫌いか、どちらかにはなりっこない関係だからね」あたしは小さく喉を震わせた。そういうものだ──家族というのは。
「……なあ、妃未ちゃん、綺麗だったか」
「うん」
「バージンロード、歩いたの」
「いや、主馬が。妃未は、そうしてほしいようなことを云っていたけど、流石に虫がよすぎるから」
「父親みたいな気持ち、するのか」
「どうかな…きっと、僕は父親になることはないだろうから、よく判らないよ」
 あたしは淡々とした男の声に、自分自身のいちばん切実なものを見ているように思う。右の指先が震えた。その数十センチ先に、九条院の体温がある。
 布団の中で手を握り締めたまま、
「古書店のこと、引き受けたらどうだ」どうして、そんなことが口を衝いたのだろう。九条院は応えなかった。
「迷ってるなら……」そう云いさして、あたしは水が染み入るように、突然に男の心が判った。簡単なことなのだ。数週間前の、夢の底で聞いた言葉が耳に蘇った。

「僕は、今ここにいる、今の君が好きだからね」

「構わないけどな」あたしはきっぱりと云った。「別に、あんたがいなくなっても、本のことならウッディーに聞くし、ご飯は塔田に作ってもらうし、そう、あいつの料理もなかなかに旨かったぞ。だから」声が詰まった。しようがなかった。あたしは泣き出しそうな自分を抑え込む。人になら云えるのだ。自分には云えない。今の自分が正しいと認めてやれない。だからこうして、あたしが九条院の隣にいるのだ。
 長い沈黙があった。そして九条院は、静かに、ありがとうと云った。

「伶さん」
 振り向くと妃未(ひみ)ちゃんがじっとあたしを睨んでいた。混雑した駅の構内でも、はっきりと際立つほど、今日の妃未ちゃんは綺麗だった。真新しい指輪が指に光っている。
 ちょっと、と云って、妃未ちゃんはあたしを主馬(かずま)さんたちのいる土産物売り場から引き離していく。三ツ矢さんだけがついてきた。見咎めて、「あっちいってて」と妃未ちゃんは邪険に云い渡す。三ツ矢さんは気にしたふうもなく、じゃあ向こうにいるからと足を止めた。それでもあたしたちに目の届く範囲にいる。いい旦那さんだな、とあたしは思った。
 ロビーの中程まで歩いていくと、妃未ちゃんは向き直った。
「伶さん、お兄ちゃんの彼女じゃないでしょ」
 呆気なく云い当てられた。喧噪の所為(せい)で尚更、虚を衝かれた。
「ていうか、伶さん男の人でしょ」
 もう言葉がなかった。
 喘ぐみたいに口を動かすと、妃未ちゃんは勝ち誇った笑みを浮かべて、
「最初からそう思った。確かに女の人みたいだけどさ」
 (くび)、と指で自分の喉もとをさした。「ニューハーフの人がいちばん気にするのって頸なんだって。太さとか、喉仏とか」
 思わず手をやって、それで認めたようなものだった。あたしはようよう、「それって…主馬さんとか、早穂(さほ)さんは…」気にかかっていたのは、自分の立場などではなかった。
 さあ、と妃未ちゃんは云った。「主兄もお姉ちゃんも、別に何も云ってなかったし。気づいても云わないだろうけど。だし、やっぱり黙ってたら女に見えるよ、伶さん」まじまじと見つめられた。
 ねえ、昔からそうなの、と問われた。あたしは正直に、否んだ。
「ふうん」反応は素っ気なかった。「お兄ちゃん、最初に男の子だって云ったでしょ。伶さんは誤魔化したけど、お兄ちゃんはあんな冗談は云わない。──それに、もし本当に恋人なら、絶対うちに連れてきたりしない」
 胸が軋んだ。その通りだろうと思った。
「そうだね…」呟くと、妃未ちゃんは更に突きつけた。
「お兄ちゃんの名前で小説書いてるのも、伶さんでしょ」
 心地よいほどの容赦のなさだった。
「城戸伶っていう名前、聞いたことあるような気がしたんだ。あとで思い出したけど、昔その名前で本を出してたよね。読んだことあるよ、小説だけだけど」
 忌憚のない声だった。あたしは自嘲で頬が弛んだ。よく、読んでくれたね、という呟きは、単に自分の書いてきたものへの感慨だった。妃未ちゃんは一寸(ちょっと)機嫌を損ねたように、「あたしだって本くらい読むよ」短く云った。「お兄ちゃんの好きなものだもん…」
 あたしはその言葉に打たれていた。安易な感傷ではない。弾劾に聞こえた。
「お兄ちゃん、名前、貸してあげたんだ」
「うん…もう元の名前では書けなかったから…」
 返事はなかった──非難も容認も。少し呼吸を置いて、妃未ちゃんはあたしに語った。
「子供のとき、幼稚園まで送っていってくれるのも、迎えにきてくれるのも、お兄ちゃんだった。手を繋いで歩いてくれて、色んな用意をしてくれたり、ご飯を作ってくれるのもお兄ちゃんだった。ママはずっと工場(こうば)にいたから。あたしが小学校に上がるとき、もう一人で通わなきゃいけないんだよって、大丈夫って聞くから、大丈夫だよって云った。そしたら次の日にお兄ちゃんはいなくなった。よくあるみたいに、だめな言葉を云ったから、それで消えちゃったみたいだった。何ヶ月かして、あたしの名前で手紙がきた。ごめんねって書いてあった。──あたしは、お父さんがいなくて寂しいなんて思ったこと、一回もない。判る?」
 頬がひどく熱かった。泣いたあとのようだった。あたしはただ幾度も頷いた。
 聞いていい、と妃未ちゃんは、目を据えてあたしに問うた。
「伶さんは、本当にお兄ちゃんと一緒にいる人なんだよね」
 それは、沢山の解釈のある言葉だった。
 うん、とあたしは云った。文字にはできない意味が、確かにあたしの心には突き通っていた。
 妃未ちゃんは目を逸らして、じゃあ、いいや、と呟いた。
「あたし、伶さんが羨ましい」
「え…」
「だって、あたしが知らないお兄ちゃんをいっぱい知ってるから」
 困惑するしかなかった。そして、九条院の妹はつんと鼻をあげ、何かを受け入れたふうに笑った。

 電車がホームに滑り込んでくるまで、不思議と全員が黙り込んでいた。九条院が鞄を持ち上げた。早穂さんが堰が切れたように挨拶をした。男は謝辞を云って、それから少し離れて立った妹のほうを見た。──ホテルの前で車に乗り込んできたときから、妃未ちゃんは決して上の兄の傍へ寄ろうとはしなかった。妃未、と呼びかけて少し浮いた手は、妹の肩か頭に触れようとしたのだろうか。妃未ちゃんはぎこちない動きで躯を揺らし、それからふわりと笑んだ。じゃあね、お兄ちゃんと、とても子供っぽい口調で云った。
 隣に立った三ツ矢さんが、小さくお辞儀をした。
「伶ちゃん、またな」主馬さんはあたしに云った。あたしはその場の全員に挨拶をすると、九条院に続いて車内に入った。あたしたちが最後だった。扉の少し中に立って、肩を寄せ合った──ほんの三日前までは会ったことすらなかった人たちの、そこだけはっきりと重力を感じる姿を、目に留めた。発車の電子音が鳴った。
「じゃあな、兄貴」
 主馬さんが片手を上げた。扉が閉まり、小さな窓の外に、四人はゆるやかに流れて見えなくなった。
 あ、と小さく声を零した。九条院はまだ視線を据えたまま、本当に仄かな表情を滲ませて、そっと眼差しを細めていた。
 座席を探していくと、厄介なことに、そこにはもう別の二人連れが座っていた。あたしはなんとなくほっとした。大仰に息をついてから、乗車券を片手に話をつけに近づいた。初老の女性と三十代の男性という、親子とも見えない珍しい連れ合いは、ああすいませんと慌てた様子もなく二つ前の座席に移った。ついてきていた九条院がくすくすと笑い、
「伶君がいると頼もしいよ」
 あたしたちは元通りの場所を手探りしていた。
 並んで座席にかけてからは、お互いに黙っていた。あたしのほうは、男が話し出すのを待っていたというのが本当かもしれない。やがて、九条院は云った。
「伶君、ありがとうね」年老いた言葉だった。あたしは前方の天気予報を読むふりをしたまま、素気(すげ)なく、
「別に、京都以西にいったこともなかったしな。ついでだ」
「そうじゃなくて」男の声は穏やかだった。
「家事のことだったら、あんたのためじゃないぞ。あれは根の深いフェミニズムの問題でな──」あたしは口を噤んだ。そうじゃなくてね、と九条院は、それを見透かしていたように重ねる。
「最初に相談したいって云ったとき、すぐに駈けつけてきてくれたじゃない。そういうことをだよ」
「なにがだよ」
 小さく笑う。「色々とね」
 観念して男のほうを振り向いた。と、九条院はこちらを見てはおらず、往きと同じように頬杖を突いて、足早に流れていく窓の景色を眺めていた。ただその表情は、まるで違った。あたしのよく知るものとも違う、初めて見る心から安らいだあいつだった。
 滔々(とうとう)とした声を、あたしは聞いた。
「父親が死んだときね、僕はもう、家を出るつもりでいたんだ。でも、妃未がいた。申し訳なさっていうのは、周囲の人に少しずつ何かを負ってもらって、それで少し軽くすることができるけど、妃未だけはそういうわけにはいかなかった。だって、あの子があの場所にいたことに、なんの責任もないんだから。それで、僕は考えていたんだ。いつか離れていくとしたら、それは少しでも早いほうがいいのか、遅いほうがいいのか。ずっと傍にいるっていう、決断はできないで…」
 男が膝に乗せた指先が、微かに動いた。妹と繋いだ手を離したときの記憶が、その小さな震えを起こさせたのかもしれなかった。
「この気持ちは、多分、一生消えないと思う」
 九条院は姿勢を直して、「呆れたかな」と苦笑混じりに問うた。
「別に」あたしは不機嫌に云った。「というか、元から期待もしてないしな」
 酷いな、と九条院は可笑しそうだ。──あたしは自分の減らず口の示す真相を、鼓動の速まった胸の裡でじっと考えていた。九条院は気づくまい。気づいても口に出しはしないだろう。なんの期待も打算もない。それでもあたしたちは隣り合っている。恋人でも友人でもなく、単に、腐れ縁だからだ。
 駅の改札を出たところで、意外な人影を見つけた。
「──おかえりなさい、伶さん、隼人さん」
 あたしは思わず立ち止まったので、あとからきた九条院が軽く背中にぶつかった。そこにいたのは塔田と、肩から大きな紙袋を提げたウッディーだった。
「……何してるんだ?」歩み寄って、本心から尋ねた。塔田は飄々と、「いえ、このくらいの時間に待っていたら、うまくお出迎えできないかと思って」
「物好きめ…」
 この男は電車で一時間の場所に住んでいるのだ。
「ああ、でも、こう云ってしまっては伶さんや隼人さんへの好意を疑われてしまいそうですが、今日はそれだけの用事で出てきたわけでもないんですよ。市内の美術館で古筆切(こひつぎれ)の展覧会がひらかれていましてね、耕平君とそこを覗いたあと、彼の洋服を見立てていたりしたんです」
 ウッディーのほうを見ると、ぞろぞろ髪の青年は嬉しそうな様子でこくりと頷く。肩の紙袋はそういうわけらしい。あたしはこの純朴な奇書マニアの青年を、如何にして間違った方向から呼び戻してやるか、少し考えた。
「青年よ、お友達は選びなさい」
「あの、僕には塔田さんみたいな知り合いは初めてなんで、有り難いんです。色々アドバイスをしてもらえて」重症のようだ。
 ウッディーは肩を竦めて紙袋の紐を保ちながら、手にはスマートフォンを持っている。なんの気なしに覗き込むと、メモ画面に古今東西の小説の題名がずらりと並んでいた。
「なんだこれ」
 説明したのは塔田で、「お二人を待っているあいだ、文芸作品のタイトル限定しりとりをしていたんですよ」
 ウッディーも真面目に、「覚書です」あたしは躯の芯から変な声が出た。
 帰ってきた日常はこんな感じだ。あたしはちらと見返った。九条院はあたしたちの遣り取りを楽しげに眺めている。
「二人とも、随分前から待っててくれたみたいだね。折角だから、何処かでご飯でも食べていく?」
「まだ早すぎるだろ」構内のモニュメント時計の針は四時を指したばかりだ。「だし、外食は気忙(きぜわ)しい」
 九条院は元のままの調子で、「そしたら、うちにおいで。あり合わせのものしか作れないけどね」あたしの意地っ張りを包み込んでしまう。あたしは承諾も云わない。つまり、別に構わないということだ。
「お疲れじゃありませんか、隼人さん」
「いいよ、ずっと休んでいたようなものだから」男は嬉しそうだった。手伝わないぞ、とあたしは云わなかった。云うまでもない。
 そういうことに決まって、あたしたちは四人、曖昧な距離で歩き始める。塔田が抜かりなく横にきて、「持ちましょうか」とにっこりとする。いらん、と云いかけたけれど、思うこともあって、あたしは鞄と土産物の紙袋とを押しつけた。せいせいしたものの、少し面映ゆかった。塔田は満足げに利用されている。
「僕はいいからね」九条院は微笑ましそうにこちらを見ている。ウッディーは自分の荷物を抱えて、年上三人の様子を眺めながら黙々と歩いていた。
「伶さん、如何でしたか」塔田が聞いた。「何が」あたしは邪険に聞き返したけれど、掴み所のない男はにこやかな笑みを注いでくるばかりだ。あたしも察しはついていた。
「……まあ、色々と判ったよ」正直に云った。
「例えばどういった?」
「しつこいな、あんた。だから、そう、お嫁さんの大変さとかな」
 あたしは先に立つ九条院の耳の()を見ていた。あたしの声が聞こえているだろうか。それがとても気にかかった。
「そうですか。では、きっと今後の創作に活かされますね」塔田は云う。流石に作家というものをよく判っている。けれど、もっと別の何かが胸の奥深いところに触れた、そんな気がしていた。
 九条院が足を止めたのは、地下鉄の見慣れた階段を揃って上がりきったときだった。
 まだ温かさを残した、薄紫の空に、咲き()めの桜が白く浮かび上がっていた。咲いたね、と当たり前のことを、男は云った。あたしは九条院の隣に並び、幻のような花と、それから仄かに笑みを湛えた男の横顔とを、等分に見た。
「お花見したいですね」と塔田が云った。ウッディーが少し可笑しそうに、そうですね、と相槌を打つ。
「この面子(メンツ)だと、花見より観桜(かんおう)(えん)て感じだな」とあたしは応酬した。あたしはまだ、九条院を見上げていた。
 寂しいような、切ないような気がした。なあ、ここがあんたの築き上げた場所なんだと、そう口の中で教えようとしたら、愕然とした。それはつまり、あたしが手に入れたものでもあるのだ。沢山のものが過ぎ去っていって、それでもこれだけが、今ここにある。
 あたしはさっさと足を進めた。
 伶君、と九条院が呼んだ。

escape

 蚊と思って二の腕を叩く。手のひらを離しても何もない。刺された痕もない。拍子抜けの気分だ。
 あたしは沓脱石(くつぬぎいし)のサンダルに置いた裸足を動かす。親指の先が一寸(ちょっと)コンクリートにこすれる。石はぬくまっている。
 いい天気だ。あたしは仰向いて顔を(しか)める。
「なあ、どっかいくのか」
 三方をモルタル塀に囲まれ、コンクリート固めの、隅のほうに僅かに覗いた土の地面にはアロエと南天が植わっている。そんな猫の額のような庭の物干し台で、和装の男が洗濯物を干している。
「いかないけどね。いいでしょ、たまには」
 九条院は上機嫌だ。あたしはだらけた返事をして、男が広げる自分の衣装に目を向ける。あいつの手の中にあると、自分がえらく小柄であるのを気づかされる。子供のもののような、チェックの襟の銀の釦の黒い襯衣(シャツ)が物干し竿に留められる。
 自分の服を単なる同居人である男が干している姿を眺めているのは、やはり奇異なことなのだろうか。それでもあたしは腹が据わっている。食い詰めてここに転がり込んで一年が経ち、色々なものが身に馴染んだ。日常の一部になってしまった。
 だから今日の九条院が非日常であるのも判ってしまう。あたしは正面の塀の向こう、つまり真裏の家の様子を見遣る。朝から随分な賑やかしさで、普段は見かけない若い男女が数人、揃いのつなぎを着て縁側をいったりきたりしている。和箪笥が幾棹も運び出されていった。
 これは示威行為なんだろうかと、あたしはぼんやりと男の背中を見る。裏の家にヒサキさんが戻ってきたのは、あたしが居候し始めたのと同じ一年前、そしてかれこれ二、三週間前に、ヒサキさんは九条院に結婚が決まった旨を伝えにきた。
 あっさりとしたもので、今日にはもう早、引っ越していってしまうのだ。あたしはヒサキさんが訪ねてきたときにたまたま居合わせたので、九条院の口から結婚のことを聞く気まずさは回避できた。けれど端から見ている二人の様子は雲を掴むようなもので、どうにもそわそわとして居たたまれなかった。
 こちらから結婚を断った女性が別の男の(もと)へいくのを、この男はどういう気持ちで眺めているのだろう。わざわざ和装までしているのに、着ているのは──少なくともあたしが知る限りでは、ヒサキさんが仕立てた着物ではない。ただ天気のいい日に、同居人の女物の服を干している。賑やかしい隣家に引き比べて、あたしはこの古書店の裏庭で、九条院と二人、孤独な陣地を護っているような気がした。
 モルタル塀の向こうから、不意に華やいだ声が響いた。
隼人(はやと)君、うるさいでしょう、ごめんなさいね」
 白地の着物に襷がけをしたヒサキさんが、塀の上から顔を覗かせた。──今日は髪を上げていて、いつもと雰囲気が違う。三十代の女性の、だからこその若々しさと綺麗さがある。
 九条院は手を止めて、お気遣いなくというようなことを云う。手伝いましょうか、とは云わない。そんな差し出がましいことはしない。
 ヒサキさんはあたしに気づいて、伶ちゃん、と「ちゃん」の部分を伸ばして呼びかけた。手を振られて、しようがないからあたしも少し振り返す。あたしの正体も、ある程度のところまではヒサキさんは知っている。
 タオルをバンダナのように巻いた男性が、縁側からヒサキさんに声をかける。ヒサキさんの弟だ。何か呆れたような声を返して、ヒサキさんは家の中へ戻っていった。弟が九条院に軽く会釈をした。
 少し経ってから、九条院はまた手を動かし始めた。あたしは上がり口から腰を上げた。
「出かける」
 ぽつんと云うと、うん、と平気な声で九条院は応える。楽しげな調子は変わっていない。こいつがヒサキさんと結婚するならいいのに、とあたしは今まで胸の(うち)(わだかま)っていて、形にならなかったものを言葉に換えた。その途端に沈んだ気分になった。それは破滅だ。何かが壊れてしまうのだと判っている。
「遅くなるなら、傘を持っていきなよ」
 あたしはぼんやりと居間に立ち尽くしている。
「……こんな晴れてるのに」
「でも夕方から雨だって」
 梅雨はまだ明けていないのだ。あたしがここに暮らすようになったのは、去年の梅雨入り前だった。もう一年が経ったのだ。去年の今頃は、ここにこうしている自分の状態など夢でしかなかった。あたしは書くことしかないと自覚していながら、書き続けることに迷って、そして書いていられることを殆ど疑いかけていた。
 あたしは今年、以前とは別の名前で小説の新人賞を受賞した。九条院にはまだ話していない。
 二階から鞄と、云われた通り傘を取ってきて、迷った挙げ句また居間から「図書館と、ウッディーに会ってくる」庭の九条院に云った。いってらっしゃい、と男は振り向かずに返事をする。あたしは手のひらに爪を立ててみる。深い意味はない。
 カウンターの脇でサンダルをつっかけ、薄暗い店内の、のしかかってくるような書架のあいだを通り抜けて、「古書・九条」の文字のある硝子戸を出た。路地から一寸、店の奥を眺め遣った。
 傘のストラップの辺りを掴んで、さびれたアーケードの商店街を歩いていく。この界隈にも詳しくなってしまった。それでも知り合いと云えるほどの人は、せいぜいヒサキさんくらいしかいない。ここは見知った町になったが、相変わらずあたしは他人なのだ。そうでなくてはいけない。元々九条に身を寄せるのは、あたしがおちつくまでという話だった。九条院は期限を切らなかったし、今になっても何も云わない。しかしあたしは生活の目途が立てば出ていくつもりだった。それは確かに一つの目標で──強迫観念でもあったけれど、いざ自力で暮らせるかもしれないという段になると、奇妙な迷いがある。あたしは、ここを出る、ということを九条院に云いかねるのだ。小説に復帰できるかもしれないということを打ち明けるのに、こわさのようなものがある。そして何よりも、あたしが原稿を送る際に使っていた名前が、どうしようもなく口を重くさせるのだった。
 ヒサキさんが去って、あたしまでいなくなったら張り合いがなくなるだろうかと、そんな莫迦なことまで云い訳がましく考える心がある。
 アーケードを抜けて、車通りに差しかかった。信号で立ち止まったときに、あたしはふと、自分の目が対岸の一人の女性を追っているのに気づいた。
 理由はしばらく判らなかった。
 やがて、現実の重みが倍になったように感じた。
 そこにいたのは、伶だった。中学二年のクラスメイトだった倉渕伶──同じ名前の伶が、道路の反対側を数人のスーツの一団と一緒に通り過ぎていくのだった。伶も襯衣の襟が白々としたスーツを着て、かっちりとした鞄を肩にかけ、髪をさっぱりとまとめて、遅れまいと急ぎ足になっている。どことなく浮いている。その懸命な感じも、スーツ姿もそうだった。あたしは咄嗟に身を引いた。自分を見られたくないと思ったのだった。けれど伶は脇目も振らず、じっと前を見据えて歩み去っていく。あたしは信号が青に変わっても動かなかった。また赤になった。住宅地には不似合いな、そのスーツの一団が完全に見えなくなってから、あたしはやっと昔の伶を思い出した。セーラー服に、髪を二つに括っていた。
 思い至った。あたしたちは今年で二十四才なのだ。気味が悪い、とあたしは思った。伶が損ねられたような気がした。鞄まで画一的なものを身につけなくては、ああいう一団には加われないのか。云いようのない嫌悪感がして、けれどあたしは、奔放な服装をしている自分のほうが、ずっと見劣りがするのだとも気づいていた。

 図書館の中は外よりもむっとしていた。乾いたものの発する息苦しい熱だ。本を読むつもりではなかったけれど、教室のような有様の学習室には立ち入られないし、閲覧室の書架のあいだをゆっくりと彷徨(さまよ)った。去年の暑い時期なんかは、よくここで書き物をしていた。書見台に分厚い図鑑を広げて、メモを取るふりをしてノートに文章を書き殴っていた。図書館というのは、呼吸も憚られるほど静まり返っているか、ひやひやする騒動が起こっているかのどちらかだ。一度、コピー機のところで男性がえらい剣幕で司書の女性ともめていた。どうも、資料を一枚しか複写できないのが不服なようだった。弱り切った女性が、何に使うんです、と尋ねると、引っ繰り返った声で、「いや友達に配ろうと思って」と答えた。それならここで一枚コピーして、外のコピー機でそれをまたコピーすればいいじゃないかと、あたしは心の裡で呟いた。教えてあげようかとも思ったけれど、やめておいたのだった。
 あたしは小説の棚のほうへいって、ずらりと並んだ著者の名前を眺めた。ここにはかつてあたしが書いていた本もある、ただ小説だけだ。目にすれば複雑な気持ちがするのに、どうしてもまず確かめにいってしまう。傾いていたら真っ直ぐになおす。それ以外でも、仮に嫌いな書き手の本でも、逆さまになっていたり小口がこちらを向いていたりすれば、ちゃんとしてやる。物書きの(さが)だ。あたしは五十音で大別されただけの作家の名前も順々にじっと見ていく。
 城戸(きど)伶、というのはあたしの本名だ。筆名を使おうかとも考えたけれど、面映ゆいし、何より最初の版元が「伶」という名前を気に入ったのだった。あたしはこの見目だから、中性的なのがいいと云った。
 ずっと女みたいな名前と思っていた。下の世代ならどうかしらないが、小中と通して男性で「レイ」という名前の人に、あたしは会ったことがない。女の子だってそうだ。女性的な名という認識があるのに、女の子で「レイ」という名前の人も、身の回りでは見かけなかった。何々子だとか、あたしくらいの世代では、まだ有り触れた名前ばかりだったのだ。
 倉渕伶が最初だった。クラスの名簿を見て、ぐっとなった。そうでもなければ、きっと気にもしないようなクラスメイトだっただろう。伶はあたしのことを「城戸君」と呼んだ。
 書架から拾った感じのいい名前を、あたしは口の中で組み合わせてみる。けれどしっくりとしない。この数日のうちに、あたしはどうしても名前を一つ考えなくてはならない。立ち止まっていた片足を動かしたら、傍にいた人にぶつかってしまって、慌てて向き直ると三十過ぎくらいの男性だ。すみませんと云うのも聞いているのかどうか、変ににこやかな笑みを浮かべている。
「何か探してるの?」
 顔を近づけて尋ねてくる。書架のあいだの通路は狭い。そこに向かい合っているのだから、ただでさえ圧迫感がある。それにこの状況の意味が判ってしまったので、困った。あたしの場合、嫌だとか迷惑だとかの前に気まずい。腰まである髪を括って、上着は羽織っているけれどキャミソールにロングスカート、おまけに汗ばんでもいる。それはそうかと他人事のように思った。
「あ…いや別に」苦笑いで云った。
「読みたい本がないなら、自分のお薦めを教えようか」
 男性はそうして、幾つかの本の名前を寸評を交えながら並べていった。正直ぞっとしない選択だ。本読みに自分の好きな小説の話をするのは危険だ。その内容如何(いかん)で当人の品性まで決めつけられてしまう。文庫本やなんかで、外しているとしか思えない解説を書いた作家の作品を、それきり読まなくなるのと同じことだ。
 一緒に棚を見にいこうと、さり気なく腰に回された手をすり抜けて、あたしは後ずさりしながら云った。
「ありがと、今度カノジョと探してみるから」
 ぽかんとした男性を残して、あたしは早足で図書館を出た。隣接した公園の時計を見ると、まだお昼には間がある。
 仕方なく待ち合わせたファミレスに入り、ドリンクバーを二回お代わりした頃にウッディーはやってきた。髪をぞろぞろと伸ばした青年、あたしが手を振ると、あたふたと席にきて、遅れてもいないのにすみませんと謝る。
「いいよ、あたしが早くきすぎたんだって」
「はあ」
 尋ねてくれないので、あたしは図書館で男性に軟派されてしまったことを話した。はあ、と今度はぎくしゃくと青年は云った。
「やっぱり、伶さんは特別ですから」
 同じ相槌を、あたしのほうは口の端をにやけさせてウッディーに返した。
 ランチメニューを頼んで、しばらく他愛のない会話をしていた。いつも会えないかと云ってくるのはウッディーで、場所も必ずこの店だ。青年がどういう環境にいるのかは知らないが、呼び出される曜日はまちまちであるのに、時間帯は昼以外のことがない。そして一時間ほどで別れる。何か用事があるのか、そういうことは突っ込んでは聞かない。
 ふと、ウッディーが切り出した。
「あの…伶さんって、学生時代はやっぱり、男性の制服を着ていたんですよね」
 あたしはきょとんとしたあと、にやりとし、
「学ランだったけど?」
 青年はフォークとナイフを動かしながら、(しき)りに頷いている。
「想像したな」
「いえ、その…」
 あたしは嗜虐的に一寸(ちょっと)満足する。
「その…もてたでしょうね」
「そりゃあ、もてないでもなかったけどな」
 ソファの背に(もた)れて、けれどあたしは侘びしさを感じた。伶のことを思い返していた。埃っぽい音楽室だ。どうしてあのとき、あたしと伶しかいなかったのか、今となっては覚えていない。掃除の時間で、先に立った伶が鍵を持って、二人で廊下を歩いていったのは記憶に残っている。あの子はセーラー服に耳の下で髪を二つに(くく)って、あたしよりも少し背が高かった。躯つきも大きかったと思う。中学くらいまではそんなものだ。あたしは女顔を隠したくて、前髪を長く伸ばしていた。よく体育の先生にからかいとも指導ともつかないふうにつかまった。
 冬服を着ていたから、そういう時期だったのだろう。暑さ寒さの記憶はない。ただ、音楽室に入った途端、ぬるい空気が押し寄せたのは判る──或いは、先程の図書館の印象が混じり込んでいるのかもしれない。確かなのは床のワックスが温められた匂いだ。
 伶は教室の隅の掃除用具入れのほうへいき、あたしは窓を開けようとした。けれど学校の窓というのは大抵そうであるように、一箇所がサッシがひっかかって開かなかった。あたしはそれでやる気をなくして、黒板の脇にある、先生用のオルガンの椅子に腰を下ろした。後ろ向きに蓋に肘を突いて、ぼんやりと漂う埃を見ていた。
 アンニュイな子供だった。自分はもう、取り返しがつかないほど老け込んでいるのだと悟っていた。伶が箒を抱えてきて、何か文句を云った。あたしは薄く笑った。
 そして、どういう折にか、それとも、本当に唐突なことだったのか、伶は尋ねた。
「ねえ、おんなじ名前だと、同姓同名になっちゃうから、結婚ってできないのかな」
 子供だった。結婚とは、苗字が変わることなのだ。
 さあ、とあたしは云った。だらけたまま、単純に答えが判らなかったから、そう返したのだった。
 それから何年も経って、やっと、あたしは伶に好かれていたのだと気づいた。
 ウッディーは髪の陰から、こちらをまじまじと見つめている。この子が顔を隠す理由はなんだろうかと、あたしはとても親近感に満ちた気持ちで考えた。
 ふっと笑った。
「いやさ、そうは云っても、今じゃ会わなくなった相手って、自分のことを嫌ってたか好きだったか、どっちかの存在でしかないのかもしれないけどな」
 口にしてから、ずれているな、と思った。
 ウッディーは真面目な顔で頷いた。
「よく判ります」
 あたしは苦笑した。
「ところで君、彼女はいないのかな」
 意地悪く話題を逸らすと、青年は「えっ」と背筋をぴんとする。あたしは可笑しい。
「いや聞いただけ」
 はあ、とウッディーはふわふわと頷く。青年が奇書やカルト映画以外に執心している姿など想像もつかない。けれどきっと、この子は平穏な結婚をできる人だろう。
 レジで個別に会計をすると、ウッディーはあたしにすみませんと云った。
「なんで謝る」
「いえ、だって今お忙しいでしょう」
 重たい硝子の扉を押し開ける。危うく思い出して傘立てから傘を抜き取った。他には一本もささっていない。
「まあ、忙しいって云えばな…」
 外の扉を出ると、すっとした。
 いつもファミレスの前の路上で別れる。
「実はさ、まだ名前が決まらないんだ」
 それで別れ際にそう云うと、ウッディーは大袈裟なくらいに驚いた。
「だって、発表もうすぐですよね」
「うん…」
 小説の原稿を送る際に、九条院隼人、という名前をあたしは使っていた。同居人の男の名だが、九条に転がり込む前からだ。あたしには前歴があるから、本名は使えない。同じ理由で、所謂(いわゆる)お堅い賞にばかり投稿していた。皮算用だけれど、もし書き手があたしだと判った場合、話題性のあるようなところでは実力と信じてもらえない。それ以前に、そんな効果を見越して選ばれたのではないかという疑念を、どうしても抱いてしまう。
 受賞が内定して、あたしは正体を(あらわ)さなくてはならなかった。だが、そんなお堅い賞にはあたしの前歴など有り難くない。ただの新人として扱われたいという云い分は、それで呆気なく通った。ところが、では「九条院隼人」という名義で発表しようというのも、困る。当の九条院には名前について一言も云ってはいないのだ。
 別の筆名を考える。けれど受賞作の発表の際には投稿時の名前が載る。あたしが賞を取ったとなれば、あの男は当然その選評なりを読むだろう。では受賞自体を黙っているか。それは嫌だ。
 八方塞がりの気分だった。
 やっぱり、九条院さんに話したほうが、とウッディーは正しいことを云う。それはあたしも判っているのだ。
 気遣わしげな青年と別れて、あたしは傘を引きずり、ぶらぶらと歩き始めた。思いつくまま道草を喰っているうちに、夕方になり、空が掻き曇り始めた。天気予報がというより、あの男の云ったことが当たったように感じた。
 周囲がとっぷりと藍色に沈んだ頃、あたしは傘の陰に隠れて、あの横断歩道に立っていた。車通りのこちら側から、昼間、伶のいた場所を見ていた。濡れた道路に車のヘッドライトや、対岸にある自販機の明かりが長く尾を引いて、雨を蹴散らす音がやけに耳についた。
 九条に帰ると、カウンターに九条院がいた。
「おかえり」
 うん、とあたしは云った。九条院は普段の格好に戻っている。
 濡れた衣服が書架の本に触れないように、身を強張らせて奥まで歩いて、あたしは小さな紙の箱を差し出した。
「お土産」
「なに、珍しいね」
 雨の中に立っていたから、ケーキの箱は少し湿気(しけ)っている。
「お世話になってるしな」
「そんな、気を遣わなくていいのに」
 男は嬉しそうだ。あまり実感する機会はないが、こいつは甘いものが好きなのだ。あたしはおやじくさい自分の行動に一寸げんなりとする。
 店仕舞いをする九条院と離れて、あたしは居間に上がる。蛍光灯の明かりが届く範囲の外を、微かな雨音が包んでいる。あたしはサッシのカーテンを少し開けて、裏の家の様子を見た。黒ずんだ塀の向こう、縁側の中の、障子にぼんやりと灯がともっている。もうヒサキさんはいないのだろう。
 階段の一段めの端に、いつものようにあたしの洗濯物が畳まれて置かれてあった。

 夕食の済んだあとに、あたしが買ってきたバウムクーヘンを切り分けた。上にホワイトチョコレートがかかっている。
 四等分にした一欠片を、九条院は器用に二つの皿に移す。料理をするのはこの男に限られている。あたしは空いた食器を流しまでひいていっただけで、これくらいのことにも手を出さない。それが自然だった。
 黙々とフォークを動かしていると、向かいから九条院が云った。
「元気ないね」
 耳に馴染まない言葉だった。
「あの子と喧嘩した、なんてことはないね」
 あたしは思わず少し笑って、
「確実にあたしが勝つからな」
 九条院は初めから、眼鏡の奥の(まなじり)を笑わせている。
 どうしたの、と問われて、あたしは話さなければならないことが喉まで迫り上がり、けれど切り出しかねて、別のことを云った。
「今日、昔の同級生を見かけたんだよ」
 そして伶のことを、苗字の件まで含めて話した。
「あどけないね」
 と九条院は微笑んだ。
 心の何処かが微かに痛んだ。多分、あの音楽室までの距離をあたしは思い知ったのだ。あたしはスーツも着ていないし、懸命に遅れまいと続いていく仲間もいない。あの頃は同じ制服を着て、同じ一つの教室に押し込められていたというのに、何処かであたしと伶はきっぱりと分かれてしまったのだ。
「伶って名前、そんなに珍しいものかな」
「隼人のほうがいるだろ」
「そうでもないよ、意外とね」
「地元には多いんじゃないの」
 九条院は息を零して、
「僕は鹿児島の生まれじゃないからね」
 ふうん、と喉を鳴らして、あたしは向かいの男をぼんやりと睨んだ。不意に手のひらがこわくなった。出身地も知らない男と、ここでこうして他愛もない会話をしている現在が、とても不安定に感じられた。
「あのさ」
「うん」
「あたし、賞を取ったぞ」
 あっという間のことだった。云ったこちらが驚いていた。
 一拍のあと、九条院は破顔した。
「おめでとう」
 呆気なくて、あたしは気分が捻くれた。
「……その、まあ、ほんとは一寸前に判ってたんだけどな」
「なんだ、だったら教えてくれればよかったのに」
「云うほどのことじゃないだろ」
「云うほどのことだよ」
 本心から喜んでいるらしい九条院の様子が、あたしには解せなかった。というより、おちつかなかった。かつて、最初に小説で賞を取ったとき、そういえば誰からも──儀礼的でないふうには、おめでとうなどとは云われなかったなと、静かに考えた。
「それで、さ」
 あたしは口を薄くひらいたまま、しばらく固まって、
「ペンネームっていうか…」この期に及んでも決心が揺らぐ。なにどうしたの、と九条院は可笑しそうに促す。
「あの、ほら、あたしはちゃんとここに引っ越してきてるわけじゃないだろ、紙の上では」
「まあそうだね」
「だから、例えば郵便なんかは、ちゃんと届かないかもしれないだろ、あたしの名前じゃ」
「差し障りがなければ、僕の名前を使えばいいじゃない」
 先に云われてしまった。あたしはぐっと言葉に詰まった。
「……使ってたんだ、その、もう」
 九条院は怪訝そうに目を細める。
「原稿を送るときに」
 やっとのことで口にしたけれど、言葉が足らなかったようで、反応がなかった。あたしは付け足した。「あんたの名前で、受賞したんだ、あたし…」
 返ったのは、しようがないような声だった。
「ああ、そうなの」
 九条院は平然としていた。あたしのほうがまごついた。
「あの、意味…判ったのか」
「つまり、仮名(かめい)に僕の名前を使ってたっていうことでしょう。君は気兼ねすることが多いからね」
 理由まで判られてしまった。あたしは今まで張り詰めていた糸が切れたようで、どっと疲れを感じて細く息をついた。
「変な話だけどさ…本当に賞を取れるとは思ってなかったし、それを目指してたはずなんだけど、ほんとに実感がなかったんだよ、今でもそうなんだけど…」
 明け透けなことを云ってしまった。すぐにあたしは悔いた。九条院はおっとりとした表情であたしを見ている。
「発表のときには、ちゃんと変えるから」
「いいけどね、僕は別に」そんなことを男は云った。あたしは返事が浮かんでこない。
「自分の名前が本に載るなんて、なかなかないことだから」
 ああ、とあたしは呆れた気分で納得する。
「本の博愛主義者だもんな…」
「なにそれ」
「こっちの話だ」
 一呼吸を置いて、
「でも、嫌じゃないのか、他人に名前使われてさ」
「他人じゃないじゃない」
「……まあ、知り合いか」
 九条院はくすりと笑った。
 二人でバウムクーヘンの残り半分も片付けてしまい、あたしは譲られて先にお湯を使った。上がると、台所はもう整然としていて、流しの水切り籠に二人分の食器が伏せられてあった。あたしは明かりを消した。
 九条院は書庫の中にいた。あたしは居間に立って、男が書架を調べている姿をじっと見つめた。それから階段の下に開いた書庫の入口へ近づいていった。
 上がったぞ、と壁に半分隠れるようにして、あたしはぽつんと云った。
「うん、もう少ししたら入るよ」
 九条院は手にした分厚い本に目をおとしたまま、答えた。あたしはその場から動かなかった。
 やがて、入ってもいいか、と問うた。男は振り向き、(いとけな)いことを云われたように、「どうぞ」と笑った。
 寝間着代わりのスウェットの裾を踏んで、Tシャツ姿できつく腕組みをして、あたしは書庫に立ち入っていった。──初めてここに入った。左右に迫った、天井まで届く書架が圧するようだ。古い紙の匂いがする。けれど息苦しくはない。まさに汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)とした空間であるのに、図書館と違ってからりとしている。あたしは一通り周囲を見回して、俯いた。九条院はまた(ページ)に見入っている。あたしは男に向かって頸を垂れている格好だ。
 あたしと九条院との間隔は、昼間、図書館であたしを女の子と思って声をかけてきた男性との距離よりも、きっと近い。だのに違和感がない。奇妙なものだ。この男とは、もう何年腐れ縁が続いているのだろう。そんな曖昧な期間、見知っているというだけで、反発する磁力のようなものがなくなってしまうのだ。
 あのな、とあたしは云った。
「うん」
 九条院は上の空だ。
「さっきは云いそびれたけど、あんたの名前借りてたの、ほんとはここにくる前からなんだ」
「へえ」
 返事はやはりけろりとしている。湯舟の中で考えてた、後味悪そうだし、とあたしは洗いざらい話した。云わねばならないことを全部云って、なのに胸の裡はすっとしない。
 俯いたまま、
「まとまったものが入ったら、今まで世話になった分、ちゃんと返すから」
「いいよ、そんなのは」
 九条院は間を置かずに云った。
 部屋も探すし、とあたしは続けた。会話というより、自分独りで迫り上がってくるものを吐き出している感じだった。
 九条院は何も云わなかった。振り仰ぐと、仄かにほころんだ表情は穏やかにも、寂しいようにも見えた。
 なあ、どうしてあたしをここに置いてくれたんだと、そんなことは問えない。
 あたしは書架に目を遣った。角の擦り切れた、重々しい装訂の本が隙間もなく並んでいる。昔は、書籍は財産だったのだなと、古書を見ていると思う。新古書店に持っていって、十円にもならない値段でしか買い取られない現代の単行本や文庫本が、とても味気なく感じられる。百年くらい経てば、今は当たり前に流通しているそれらが、ここにあるもののように貴重になるのだろうか。それは、けれど希少価値というだけだろうか。
 棚に目を走らせていたあたしは、男の鼻筋の向こうに見覚えのある背表紙を認めて、あ、と声を零した。思いがけずはっきりとした声になってしまって、九条院は目を上げ、あたしの見ていたほうを辿った。そして納得したように手にしていた本を置いて、そのパラフィン紙に包まれた背表紙を書架の上のほうから抜き出した。
 谷崎の胡蝶本だった。あたしが九条に彷徨い込んだ日に、初めて見せてもらった本だ。
「まだ、それ売れてなかったんだな」
 あたしは気まずくて云った。うん、まあね、と九条院はそっとパラフィン紙をひらく。その手つきが綺麗だと思った。あたしはこの男の、古書店主である面が好きなのかもしれないと、そんなことを考えた。時系列の混乱したことを思い浮かべて、それはつまり、いつかあたしの書いたものが古書になって、この男に扱われる日がくるだろうかと、そうあたしは胸の裡に感じたのだった。
「何年前だっけね、君がうちにきたの」
「さあな」
「胡蝶本って云っても、判られないかと思ったけど」
 あたしは口角を上げる。
「見かけに騙されるなよ」
 九条院も笑って、
「まあ、君が男の子だろうなっていうのは、店に入ってきたときからなんとなく判ってたけどね」
 初耳だった。
 ぐっと顔を(しか)めた。
「やめろ、目もあてられないだろ」
「いや、そうじゃなくて。なんとなく心許なさそうだなって、そう感じただけだよ」
 答えになっていない。けれど、あたしはそれ以上問いつめなかった。九条院はなんの所縁(ゆかり)もないあたしに声をかけたのだ。ただそれが重要なだけだった。
 中学のときにも同じようなことがあった。画廊の飾り窓を見ていたあたしに、まだ若い男性店員が何気なく話しかけてくれた。そのときは、ただ戸惑って逃げてしまった。あたしは学ランに前髪を長く伸ばして、更に口許をマフラーでぐるぐる巻きにしていた。
 そのうちに、九条院のこともこんなふうに思い返すようになるのだろうか。
 そうだ、と悪戯っぽい快活さで、九条院は云い出す。
「前に会った塔田君の評論、読んでみる?」
 あたしは反射的に頸を振った。
「読むわけないだろ」
「面白いと思うけどね」
「そりゃ、あんたはな」
 あたしはさっきから、自分の重みがなくなってしまったように感じている。言葉が宙に浮いている。ここを出ようと思った。ここにいては何も書かれなくなる。
「……なあ、もう一回聞くけど」
「うん」
「あんたの名前、本当に使ってもいいのか」
 九条院は、うん、と不真面目にさえ聞こえるほど、こだわりなく云った。
 ほんとかよ、とあたしのほうが拗ねたようになった。
「君こそ、いいのかな」
「なにが」
「折角、君が心を削って書いたものなのに、それに僕の名前を添えていいの」
 この男はいつも、すぐには応えられないような言葉を選んでものを云う。
 仕方ないだろ、と稍して、あたしは返した。
「他の名前にしようにも、なんか、しっくりくるのが思いつかないんだよ」
 それだけ云うと、あたしはじゃあなと書庫を出た。階段を上り始めたところで、おやすみ、と九条院の声がした。男の声音は笑っていた。
 二階の小部屋に入って、電灯をつけた。折り畳んだ布団と、パソコンの載ったテーブルでいっぱいの有様だ。あたしは窓のカーテンを引きにいった。裏の家の明かりは既に消えている。
 折ったままの布団に倒れた。そして躯を丸めた。
 あたしは九条院隼人になったのだ。

 次の日も雨だった。商店街のアーケードを歩いていると、ヒサキさんの弟を見かけた。廃業したゲームセンターの前に自転車が十数台駐められてあるのを、一人で隅へ片寄せていた。あたしが通りがかると、こちらを振り向き、表情は動かさないまま会釈をした。あたしも慌てて会釈を返した。弟は今日もタオルをバンダナのように巻いて、その下から金色の髪が覗いている。手には軍手が嵌っていた。
 そのまま行き過ぎてから、どうしようもなく口の()がほころんでしまって困った。
 今日も図書館にいくと云って出てきた。あの軟派の男性はいるだろうか。いたらいたときだという気持ちがしている。あたしは車通りの横断歩道にさしかかり、信号は青であるのに立ち止まった。
 そのまま数十分立ち惚けていた。雨が傘を叩く、その微かな振動が()を伝って右の指先にすっかりと馴染んだ。跳ね返りで、サンダルの爪先が冷たい。やがて、向こう岸の遠くのほうから、幾つかの傘がこちらへ近づいてきた。
 あたしは目を凝らした。スーツ姿の男性はみんな地味な色味の傘をさし、女性の一人は青色だった。伶は赤い傘をさしていた。
 一団は早足で、あたしの前を横切っていく。ふと、伶がこちらを振り向いた、ように感じた。伶は少しあとに続いた女性のほうを向いて、何か楽しげに会話をしていた。
 もうセーラー服の伶はいないのだ。学生服のあたしもいない。
 あたしは手を振ることも、声をかけることもない。ただ同じ名前の、昔好かれていたのかもしれない同級生を、道路の反対側から見送っていた。
 伶は遠ざかっていく。

伶と九条院の話

初出
「shift」「home-end」
創作アンソロジー『Uiro』(「はにわ@方舟.jp企画」さま主宰)

2013年3月31日発行
フルカラーオフセット表紙/A5判/1頁2段組み/116p
(「琳堂晶也」名義)

伶と九条院の話

城戸伶と九条院隼人は友人ではない。 フリーライターの伶は辞書代わりに九条院の古書店を利用する。 伶と塔田も友人ではない。言語学者の塔田が伶を「お慕いしています」と云っても。 奇書マニアのウッディーは伶の舎弟かもしれない。但し友人ではない。 腰まである髪にロングスカートの伶は女性ではない。もう小説家でもない。 これは交友録ではない。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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