野呂さんは僕を食べたいらしい
ある日の夕暮れ前のことだった。
在り来りな人気のない廊下で、背が俺より首一個分背の小さい女子に引き止められて、部室に向かおうとしていた俺の足は少しの余韻を残して足踏みすると、とまった。
きらきら輝くオレンジを模した宝石のような夕日が沈みかけて、その子の上靴と俺の上靴と、その子の頬が同じ色だ、と思った。
俺と同じ、二年生が履くオレンジ色の上靴だ。
夕焼け色の頬、ダークブラウンの髪。この沈黙はなに。なんなの。
「今日の朝、何食べましたか」
「は?」
「も、もしかして朝食べない派ですか」
それならすみませんでした、ってはずかしそうにその場を去られて、瞬く間に廊下は俺一人になった。
本当に彼女が今さっきまでいたのかも朧気で、名前も知れず、動機もわからず、部室に向かうしかなかった。
まるで、いきなり飛び出してきた野生の小動物が挨拶だけして逃げて行ったみたいな、我ながら例えすらよくわからない、そんな心境でさ
「本当にあれはなに」
「知らねえよ、聞けばいいじゃん」
「学年一緒なのは覚えてるけど顔を忘れた」
「クソかよ」
ベースを鳴らして片手間で俺の話を聞く小田俊介ってやつは、顔と一緒に今日の出来事も忘れとけばいいのってほざく。ふざけんな。
一瞬だったんだって、本当に。顔も覚えれないくらい一瞬しか話さなかった癖に会話の内容が少しぶっ飛んでて脳裏に雰囲気だけ残ってる。
どういう顔をしていたっけ、口元にほくろがあったかもしれない。黒髪なのも覚えている。前髪が長くて、中学生かよって思う洒落てない眼鏡をかけていた気がする。唇は少しM字だったような。
そんな断片的な記憶をどんどん組み合わせていくとツギハギで不気味な女が出来上がって、考えることをやめた。
そもそも俺はあの子の顔を今日、あの時間まで知らなかったし見覚えすらない。同じ学年とて、異性でクラスも違うなら接点もどうせ無いし、覚えることが少ない。
「間宮ー!今日お菓子作ったからあげる」
「ありがとう、小田これいる?」
「なにそれ、もう一生お菓子あげない」
こうやって軽音部に遊びに来る女子ですら、実は名前がわからないし、手作りのクッキーとか粉っぽくて好きじゃない。
少し顔は可愛い、ゆるりとした雰囲気が男にモテそう、でも俺は馬鹿だから恋愛って本当によくわからない。
彼女にはせめて名を名乗って、わたしはこんな動機で今からこんなことを聞き数秒後この場を去りますって自己紹介をして欲しかった。
「あー・・・野呂さん。」
ところが、初対面で見ず知らずの他クラスの女子だと思っていた彼女が、一年の終わり頃転入してきた、二年から不登校で近頃転校するっていう、幻の野呂さんだって数日後に俺は知った。
一ヶ月学校に顔を出したか出していないかの彼女は同じ学年ですら会ったことがある人は少なくて、勝手に幻にされている。可哀想。
そしてその幻が今、また俺の目の前にいる。この前はつけていなかった左胸のネームプレートに、野呂って書かれていて気がついた。
「間宮さん、あの」
「え、さん付け?」
「他の子みたいに間宮、くんって呼ぶのは失礼に値すると思いまして」
「間宮くんって言ってみて」
声が震えていて、緊張しているのが伝わってくる。それが驚くほど人間だから、この子は幻なんかじゃないと確信した。
「そんなことしたら無礼すぎて今世で死んでも生まれ変われなくなります。死んでも、また生まれ変わりたいです」
「俺が悪役みたい」
「そんな!間宮さんはヒーローです。物語の主人公」
悪役にしてしまってすみません、そう謝られる。この子は自分をなんだと思っているんだろう。
この間俺が野呂さんの顔を覚えれなかったのは、彼女が顔面を45度くらい下に傾けているせいであって、俺の記憶力の問題じゃなかった。こんなに直視しているのにまだ顔をよく認識できていない。
細い縁でレンズの小さい、それは老眼鏡かと思うほどお洒落とは程遠い眼鏡が光を反射して、更に彼女の顔を認識させにくくする。もしかしたら本当に、野呂さんはツギハギで不気味な女の顔をしている。
そんな馬鹿な話があったら、部活のネタにできるのにな。
「今日の朝は俺、焼きそば食べた」
「え、あ!ありがとうございます」
一瞬、先を読まれたことに動揺したのち一礼をする。
そのままくるりと背を向けて、デジャブを感じる自己完結型別れをまたし始めようとしたので、反射的に俺は彼女の手を掴んだ。
背中にまた来ますって書いていない気がして、なぜか不安だった。まだ顔を、覚えていないのに。
俺の咄嗟の行動に両肩がビクッと反応をして、野呂さんはそこから石のように動かない。
我に返って、こわがらせてごめんと言うと絶対に顔が見えないようにそっと振り向いて、なんでしょうか、と遠慮がちに聞いてくる。なんだよそれ。
「顔見せて」
「あ、」
それはダメだとでも言いたげに、野呂さんは顔を両手で覆ってその場でしゃがみ込んだ。俺が見れるのは、背を向けてしゃがんでいる彼女の黒髪と、少しだけのぞく耳だけだ。拒絶された気分だった。
俺の顔は知られているのに、俺は顔を知れないのか。
阿呆らしいと思って、あの時と同じ向かうつもりだった部室に、聊か乱暴な足取りで向かった。
後ろで小さくすみませんと聞こえた気がしたけど、それは聞こえないフリをした。
「俺はそれクソ腹立つ」
「こっちの事は知ろうとするけど自分の情報は明かさないのが謎なんだよね」
「お前のストーカーかなんかじゃね」
「真面目に考えてくれたらジュース奢るよ」
謝ってくれてたのに無視した俺も悪い気がして、小田が彼女を馬鹿にするのも良い気持ちはしない。
野呂っていじめられてるしズレてるんじゃねえの。
小田は少し考えてから、さも当然かのようにそう言ってベースを弾き始める。数秒間の放心状態の後、お前も真剣に部活動に取り組んだらどうですかと言われて、発生練習をした。
来月軽音二年のメンバーで曲を披露する機会がある。いくつかの部活で発表があって、軽音部もいくつかに入っている。
そして、その練習で毎日切羽詰まってそうな二年と、そうじゃない怠け気味な二年の俺らはあんまり仲が良くない。
部室の窓側で発生練習をしている俺を睨むのは、部員の北川さんだ。彼女は切羽詰まった二年の代表例である。
北川さんの両親はモンスターペアレントな挙句ヒステリーで彼女自身も手に負えず、大変そうとよく聞く。よその家には色んな事情があるものだな、と俺は呑気にサイダーをがぶ飲みした。
その日以降、野呂さんは俺の前に現れることはなかった。
結局彼女はなんだったのか、気になって昇降口で待ち伏せする日と気にすることをやめて小田と軽音部をそれなりに真面目にやる日を繰り返していたら、あっという間に歌を披露する直前だった。あの日飲んだサイダーの炭酸がはじける玉響に時が過ぎたのかと思うほど、頭から野呂さんが抜けないままだ。
軽音二年は二バンドで二曲ずつ発表する予定で、少しだけ身なりを整えて格好つけた俺含めバンドメンバーたちがステージに上がる。
彼女はあれから学校に来ている様子がない。今日も、俺の歌をどうせ聴きに来ないし本当に何がしたかったんだろうと頭の片隅に浮かぶ。それが黒いもやもやとした感情を生んで、少しむしゃくしゃした。
"我が高校の軽音部二年による曲の発表です"と放送部の誰かが言うと、目で合図し合って少しの静寂の後に静けさの余韻も残さず演奏を始める。
メインボーカルの俺は歌い始めのためにマイクに手をかけて、息を吸った。その瞬間、少し遠くに見えた派手目な容姿の、確か軽音部にお菓子を持ってきた女子が見覚えのある眼鏡を片手に笑っていたような気がして、出だしが遅れてしまった。
小田のおいという小さな声が後ろで聞こえて、申し訳ないと念じながら二曲歌い切り、お辞儀をするとステージから降りた。
「お前、出だし最悪」
「ごめんちょっと、あとでなにか奢るから暗幕係代わって欲しい」
「高いアイス奢ってくれんなら」
「任せて」
急ぎ足で体育館を飛び出る。俺らの発表が終わった途端、興味を失くしたように体育館を出て行く眼鏡を持った女子の姿を見ていたからだ。
勘違いだったら恥ずかしすぎるけれど、死ぬほど嫌な予感がした。あの眼鏡は、野呂さんがかけていたものだった気がする。
二年の教室を手当り次第にまわって行くと、九組の教室の前で北川さんや数人の女子と話していて、かろうじてこの子が二年で良かったと思った。
「あの、」
「間宮くんー!どうしたの?」
北川さんはわかりやすく俺から遠ざかり、お菓子の女子は俺の名前を当たり前のように呼んで笑っている。彼女の右ポケットには、やっぱり野呂さんの眼鏡が入っていた。
「その眼鏡どうしたの」
「え、これ?拾った拾った」
てへと貼り付けたような笑顔を向けられる。
それよりまなのお菓子食べてよ?ㅤって言われてようやく彼女がまなという名前であることを知って、でもそんなことどうでもよくて、つまりこの子はなんなの?
「野呂さんって知ってるでしょ」
「うん。一年の時同じクラスだったよ」
「それ、その子の眼鏡だけど」
そうなんだ、じゃあ届けなくちゃ。まなが届けておくね、ってその場にいた女子とどこかに行こうとするから、一番後ろに引っ付いていた北川さんを引き止める。
彼女たちは届けるつもりなんか、きっとない。
「は、なに?」
「野呂さんどこにいるか知ってる?」
「なんでわたしが、」
「もういいや。まなさん眼鏡貸して」
数歩先にいたまなさんのポケットから眼鏡を奪うと、引き止める声がしたけど無視して、俺は階段を駆け下りる。できるだけダッシュで校内をまわると、軽音部の準備室に『使用中』の貼り紙が貼ってあることに気づいた。
九組の真上に位置していて、遠回りしたと冷や汗をかく。鍵が閉まってることを覚悟して扉に手をかけると、いとも簡単に開いて、それに少し驚いてしまった。
左手に握った眼鏡がかちゃりと鳴った。軽音部の準備室は埃を被ったマイクスタンドや黒いケースに入れられたギターなどで室内の七割は埋まってて、埃も舞っている。
そんなもう使われていないだろう楽器に混じって、白い布が被せられたドラムくらいの大きさの何かがあって、布に手をかける。
びくりとそれが俺の手に反応して、確信を持った。
「大丈夫?」
「・・・」
困惑したように布の下で動いたまま返事はなかった。
とりあえずこんな埃だらけの教室から出たくて、布をゆっくり取ると顔を一生懸命隠し始める野呂さんに俺のブレザーをかける。そっと立たせて教室を出ると部室に二人で入って、鍵をかけた。
「あの、間宮さん」
「なあに」
「これ、なんでしょうか。わたしは今、何をしてもらっていますか」
「わかんない。たぶん助けてる」
助けれているのかぜんぜんわからないけれど、とりあえずゆっくりでもいいから話がしたくて、椅子に座らせる。こわがらせたら嫌で少し離れてしゃがむと、野呂さんはさ、と話し始める。
ブレザーを被ったまま下を向いた野呂さんが、頷いた。
「いじめられてますか」
首を振った。
「北川さんとまなさんと友達ですか」
それにも、首を振った。
「あの子たちに眼鏡を取られましたか」
「いえ、取られたわけでは」
「じゃあどうしたの?」
その問いかけには黙ったままだ。
「ブレザー取ってもいい?」
「嫌です、それは駄目です」
「嫌じゃない駄目じゃない」
「間宮さんが不幸になります!」
はいはいと宥めながらブレザーを取ると、手で顔を覆うから手首を掴んでそれを阻止する。見たら駄目ですって下を向いて嫌がる野呂さんの顔を覗きこむと、彼女はぎゅって目を瞑った。
はたと睫毛がゆれて、唇は震えている。陶磁器のような綺麗で白い肌と、通った鼻筋と、形のいい唇。顔の所々に痣ができていて、左目は腫れていた。
幻なんかでもツギハギの不気味な女でもない、普通の女の子だった。
「この顔は、北川さんたちにやられたんですか」
観念したように野呂さんはゆっくり頷いた。
そのまま彼女はすごく申し訳なさそうに、わたしが悪いんですと付け足す。
昨年度転入した時に原田さんと北川さんがいた四組に入って、最初はお二人が率先して仲良くしてくださったんですが、原田さんの好きな人が少しだけわたしに興味を持ってくださったらしいんです。それでわたしが気を悪くさせてしまって、原田さんがわたしをいじめるようになりました。
はじめは教科書がなくなっていて、だんだん暴力が増えていって、それで、最近。お父さんが亡くなったんです。交通事故らしくて、轢き逃げをされてしまって。原田さんはお父さんが亡くなった次の日、呆気なく死んだねと言って笑っていました。
「でも、わたしが悪いんです」
お父さんまで巻き込んでしまったわたしが悪くて、だから間宮さんに助けていただけるほどの人間じゃないので。
それきり喋らない野呂さんは最後までまなさんを悪く言うことがなくて、ため息を吐いた。本当に、なんだよそれ。
「どうにかしようと思わなかったの」
「しようと思いました。だから、間宮さんに・・・」
「朝食を聞くのが精一杯のSOSだったの?」
「違くて、間宮さんになろうとしてたんです」
間宮さんは一年生の頃から軽音部でメインボーカルをしていて誰かを悪く言うところも見ないし恋愛にうつつを抜かさないし、キラキラ輝くヒーローみたいで、それになりたくて。なにを食べたらこうなるんだろうって思って、聞きに行っていました。
でも駄目でした、わたしじゃ朝食を抜いても焼きそばを食べてもヒーローになれませんでした。
「これ、野呂さんのだよね」
片手に持っていた眼鏡を差し出すと、ありがとうございますと小さく呟いて眼鏡をかける。
顔はもう隠すことをしないでいてくれて、それじゃあありがとうございました。と部室から一人で出て行こうとするから、俺は野呂さんの手を握ってそのまま靴を無理やり履かせて校舎を走り出た。
よくわからないけどこのままじゃだめな気がする。
俺にできることは少ないし、今一番できることはこの場から彼女を離れさせることだ。一刻も早く、ここから離れさせること。そして、一人にしないこと。それができるのは俺くらいしかいない。
握ってる右手に伝わる体温があたたかくて、この子は生きているんだと思った。野呂さんと話している間に下校時間になっていたらしくて、下校途中の生徒と生徒の間をくぐり抜けて校門を出た。遠くに行かないといけない、そんな考えが正気を殺して、道路に飛び出る。
次の瞬間、危ない!という声が後ろからして、瞬く間に俺と野呂さんの体は二十メートルくらいぶっ飛んだ。
ずざざざざ、と肉を引きずる音が聞こえる。
サイダーの炭酸がはじける玉響に、アスファルトに赤が広がって、野呂さんの頭から流れる血が俺の周りを侵食していく。右手はあたたかくて、生きているんだと思った。
きらきら輝くオレンジを模した宝石のような夕日が俺らと道路を照らして、俺も、死にかけの野呂さんも、同じ色だと思った。
野呂さんは僕を食べたいらしい