美人、花、鳥

 一般に容姿端麗な「人」を美人と称する。なので、ある種の出会いを期待して美人画に視線を向ける鑑賞者に罪はない。かかる期待を逆手にとって、美人画の真髄を画面上で大胆に披露する画家においても同様である。
 片岡球子が描く『むすめ』の容姿について語れることは少ない。何せ『むすめ』を描いた画家自身が敢えてそうしたのだろうと断定できるぐらいに、各パーツの描写は簡素に済まされている。これに対して『むすめ』が袖を通した着物に帯、また結った髪に挿す簪に認められる画家の力の入れようは異様である。粗野に過ぎると嗜められないか、観ているこちらが冷や冷やするぐらいに恐れを知らない原色の暴れっぷりは背景から着物の色に至るまで突き進む。その勢いを横目で見て、素知らぬ顔した『むすめ』の華やかさは着物の柄や帯を彩る意匠として丹精に描かれ、四隅に輝く黄金の輝きにより存在感を増す黒い額縁の内側で面食らう鑑賞者を楚々と迎える。
 要は身に付ける衣裳が素晴らしいのだ、それを美人と言いたいのだと『むすめ』を見る人はいるだろう。ときに表現作品が有する批評性を重視して、片岡球子という画家が美人画に一石を投じた意欲作の一つと評価することは確かに可能だと筆者は考える。けれども着られることで初めて形になる物としての華やかさをこの世に生み出したのは紛れもなくその着物に袖を通したその『むすめ』であり、したがって『むすめ』が居なければかかる衣裳の美しさは何一つ成立しない。故に『むすめ』の有り様は衣裳を含めた美人画としての出来を左右する。ならば、画家として片岡球子がモデルの選別とその描き方に気を配らなかった訳がない。
 豪奢ともいえる衣裳の美しさをもって美人画を語ろうとした片岡球子において、モデルに求める必要最小限は何だろう。日本画に関する知識や鑑賞経験が少ない筆者が想像するしかない疑問に対して、目の前の『むすめ』は重ねる両手と格好を崩さない様で答える。だから可能性の一つとして描かれたその子に見目麗しい事実があっても良かったのだろうが、素人な頭で結論付ければ「片岡球子の描く絵としては全く要らない」。そう思う。
 ひと目でその手によるものと知れる個性に満ちた画家の絵が踏み込んだその歩幅と力強さは、きっと美人画が歩める道を太く伸ばした。そういう革新性に満ちる片岡球子の『むすめ』を先に見据えても尚、揺るがない美人画という表現ジャンルの奥深さは山種美術館で開催中の『上村松園・松篁』展で拝見できる。
 人物画の一ジャンルである以上、美人画には「人」が描かれる。本展の第一部で鑑賞できる美人画は概ね『むすめ』と同じく髪を結い、簪を挿して着物姿を披露する女性たちが描かれているがその描き方は様々である。例えば伊東深水の『春』はモダンと評する他ない着物の色使いとパターンの組み合わせでひそひそ話に勤しむ彼女たちの弾む日常を理想的に描く。あるいは切り取る場面で美人を感じさせる伊藤小坡の『虫売り』では夏から秋へと移行する時季に市中で楽しむ音色を奏でる屋台の前で虫かごを持ち上げて喜ぶ姉弟とは対照的に、売り物である虫の様子を検分しているのか又は頂いたお代を勘定しているのか、その感情が窺えない彼女の淡々とした所作が黒地の羽織りとそこから伸びる水色の着物の柄として咲く花々に寄り添い、澱みなく流れる心情としての形を取る。経済的事情などといった世事をさておいて、画家によって用意された視点に立って垣間見える横顔にも気付いてしまえば最後、紫色の頭巾と黒髪が振り向いたその時に正対する瞬間を夢見てしまう。だからその顔は鑑賞者の数だけ生まれて消えていく。
 ならば彼女はどうだろう、と振り返る美人画の大家と評される上村松園の表現を鑑賞して筆者が感じるのは想像できる「人」の動きと画面の余白を意識した絶妙な重心の置き具合である。
 例えばそこで瞬く蛍に気付いたのか又は蛍に呼ばれたのか、いずれにも解釈できる蚊帳の向こうから団扇片手に姿を表した彼女が保つ立ち姿と、開かれた蚊帳が重ねる曲線美の組み合わせに間違いなく寄与する着物と帯の色と柄、そして内袖が見せる差し色の妙は『新蛍』に感じる色気となって彼女が過ごしていた蚊帳の奥を忘れさせ、姿を見せて「くれた」その瞬間に立ち会えた喜びとして結実する。
 あるいは縦に長い画面の下方、そこより下でも上でも恐らく失われる(と筆者が確信する)全体的な余白を爽やかな風のように漂わせ、年齢差を気にしない彼女たちが『折鶴』を楽しむ小さな姿を映えさせる。そこに決定打を与えるのがたっぷりと盛り上がった着物の無邪気なバランスで、近くに寄っても、遠くから眺めても見惚れてしまう画面の動的均衡がもたらす気持ち良さは特筆に値すると筆者は考える。
 以上のように画面構成が真に巧みだから、上村松園の『牡丹雪』は深々と降る雪景色を進む二人の浅い息遣いと決して描かれない足元の雪深さを観る側に思い描かせる。じっと足元だけを見てこちらを見ない、手前の女性に声をかける代わりに行う、身に付ける衣裳と小物に向ける観察が労働する美を発見し、他方で真っ白な傘と青い頭巾に隠れた奥の彼女の色鮮やかな正体と視線にはこちらから見えない画面外の景色を気にしてしまう。前後不明で、誰かに語れる筋道を絵の前に立つ各人に委ねる『牡丹雪』を始め、描いた絵を展示会場で目立たせる仕掛けとなる掛け軸に施した工夫は画家が拘りを見せる部分でもあったと簡にして要を得る解説文によって知れる。その全てが、上村松園の美人画の「美」に捧げられていたのだった。
 人を介する美しさはその人が其処に居るだけで存在するのだから、画家は自分の関心が赴くままに描けばいい。そういう我儘な頭と心を額縁に収められた「わたしたち」が懐深く受け入れるのだから、と言わんばかりに画家が生み出した美人画は美人であり続ける。
 上村松園で始まり、上村松園に舞い戻る。本展の第一部を見終わって改めて味わうかの画家の真髄は正に芸術なのだと筆者は思う。

 上村松園の子である上村松篁は花鳥画を描いた。入学した京都私立絵画専門学校で特待生に選ばれる程に優秀な成績を収めていた松篁は、しかし教官である入江波光が自信作に対して放った言葉にショックを受ける。曰く、対象を概念的に描いてどうする、赤子が見るように驚きをもって見つめなさいよ、と。涙を浮かべてその批評を聞いていた松篁がかかる入江ショック(とご本人が言っていた)から立ち直り、その通りに描けるようになったと自己評価できるまでに三年かかったという。
 概念的というからには、描かれたものが理屈をもって誰にでも解し得るということを意味するのだろうと筆者は推測する。日本画を含め絵画表現を成り立たせる技法はそのためにあると一面において指摘できるだろうそのことを、入江波光は批判した。抑制を効かせた描写で観る者の内に情感を広げると評されるご本人の表現を見れば、かかる批判を所詮は理想論と一蹴することは難しい。実際、本展の第二部を構成する花鳥画の数々を見れば入江波光の言わんとすることを目の当たりにする。例えば上村松篁の『閑鷺』で描かれるのは擬人化の術が入り込む余地のない画家の生体観察に基づく三羽の鷺が過ごす姿であり、写実に徹した樹木に止まって思い思いのままに枝葉の色の世界を過ごす真っ白な時間である。観察が生む主体と対象の二項対立が維持されている点は、かかる対立を前面に打ち出す西洋の風景画と変わらないなと思う一方で、目に触れてくる画面上の温もりは内観に到達した画家の観察が思わず絵筆の先に移した感情経験そのもののようで、鑑賞中に交感するのを避けられない。こちらとあちらの境目が幽かに揺らぐこの淡いは、画面一杯に優雅に咲き乱れた奥村土牛の『醍醐』にも感じられた。したがって上村松篁の手に成る『芥子』と共に展示されていた本人の言葉に対して、筆者が激しく同意するのはこの瞬間である。情感の後塵を拝する理解を抱き締めて堪らなくなる、有難い気持ちと感謝の言葉を合わせる合掌。ああ、嬉しいな!と何度叫んだところで枯れる声など内心の何処にもありはしない。
 数日経っても未だ興奮冷めやらずの心中を抑え切れないので、本展の第二部を構成する花鳥画はかかる体験をしてしまう名作ばかりと筆者は断言しようと思う。デザイナーの経歴を持つ竹内浩一の『野宴』において各所に描き込まれた緻密な形象に表れる現代性にすら、冷徹な空気によっても奪えない血の巡りを感じたのだ。人として接する花鳥風月に胸筋を開くことを恐れる意味などない。頭上に置いたカメラ位置と興味深いアングルから写し取る、地上に降った秋の痕跡とその訪問者を可愛らしく描いた山口蓬春の『錦秋』や、幾何学模様で象った鴨たちを平面的な水面に浮かべるだけでなく、配置にも遊び心を活かしてリズム良く描いた吉岡堅二の『浮遊』に見られる抽象にも羽を休めて、羽ばたける再びを過ごせるのもまた有難い。
 『上村松園・松篁』の美人画と花鳥画の世界。その質の高さを目に焼き付ける機会を是非、山種美術館で得て欲しい。

美人、花、鳥

美人、花、鳥

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-02

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