町のエンジン、地球のエンジン
吐き出す息が白く、背後へ消えていく。手袋をしているが、手足の先端が冷たい。
コンクリートの道路、あたりは田圃が広がり、地方の道といえるところを和也は走っていた。日はまだ昇る前で人々はまだ寝ている時間帯だ。手足が冷たく、人も起きていない。町全体がエンジンのかかる前の車のような状態だ。なぜこんな時間に走っているのかと一人で毒づき、昨日のチサのことを思い返そうとしたが、散歩中おばあちゃんとすれ違い、軽く会釈をする。彼女らは和也の姿に気がつくと、最初は目を見開き、その後に目を細め、「いってらっしゃい」と声をかけてくれる。今この時間に起きて外にいるからこその出会いなのだなと和也は実感し、笑顔で「ありがとうございます」とお礼を言い、軽やかに駆け出した。
嫌な気分も人の小さな思いやりや挨拶で随分軽くなるものだ。「気休めなんて意味がないよ」と小馬鹿にする人もいるが、そのように話す人ほど眉間にシワが寄っているよなと和也は思う。先ほどよりは明るい気持ちで昨日の出来事を思い返した。
「和也、朝のランニングをしようぜ」休み時間、チサこと千坂孝則は、和也の机に近づきながらそのような提案をしてきた。
チサはいつも突拍子のない提案や行動をする。テレビで「豆腐が流行っている」と報じていれば、嬉々した表情で「今日のおやつは豆腐なんだ」と伝えてきたり、インターネットで筋トレの大切さの記事を見たら即ダンベルを購入し、和也にも進めてきたりする度に和也は辟易としていた。しかし、少しだけ興味を唆られ、豆腐を食べ始めたり、器具なしで簡単に行える運動を試しているのだが、本人には絶対言わない。人を小馬鹿にするような表情で「あれれ〜?」とおちょくってくるからだ。
「どうしてランニングなんか?しかも朝になんて?」和也は頬杖をついて質問をする。軽く周りを見渡すと同じように友人と話をする生徒や、次の授業の用意をする生徒、本を読む生徒、机に突っ伏し寝る生徒、果ては廊下を走り回る生徒など様々だ。
「そりゃあ二ヶ月先に開かれるマラソン大会の準備だよ」と和也の机を両手で叩き、説明を始めた。二ヶ月後の十一月にはマラソン大会があること、部活動を引退し、体が鈍っているということ、そして中学生活最後のイベントだということを、芝居がかった声色と大仰な身振り手振りを交えてだ。
「まあ、それなりに走れればいいじゃないか」和也はことなかれ主義なため、面倒な事はしたくないのだ。
「カズ、お前はつまらない人間になったなあ」と天井を見上げ嘆き、「泣いても笑っても最後なんだから本気出せよ!」と和也の目を見て伝えてきた。
和也もそこまで言われて煮えたぎらない程は腐ってはいない。「今まではチサも適当だった癖に」と苦笑いしながらも引き受けた。
「それで何時から始めるんだ?」と和也が尋ねると「朝四時半から」と意気揚々と返答されたため、和也は驚く。早くても五時半くらいなどではないかと思っていたからだ。
「なんでそんなに早いんだ?」
「朝日を浴びた方が気持ちがいいじゃないか」
「それだけ?」
「それだけだ」
すると予鈴がなったため、「それじゃまた後で」と席へとチサは席に戻ったため、そこで話はお開きとなった。
和也は朝の空気を吸い込みながら、気持ち良さを感じていた。肺へと入ってくる冷たく新鮮な空気、きっと排気ガスや空気中の埃が舞っていないからだろう。それに加えて、起きているのは自分だけという高揚感もあるだろう。
田圃道を抜け坂道を降りた先にチサの家が見えてくる。瀟洒な作りの一軒家で何度か遊びに行ったが、家が広く居心地が良いのだ。最新のゲーム機も揃っているため、いつも楽しませてもらっている。
「家の前で待ってるから」そう言っていたはずのチサいない。念のため、辺りを軽く探し回ったが見当たらない。スマートフォンを開いたが、連絡はきておらず、「寝ているのだなと和也は見当をつける。
そう、チサはいつも言い出しっぺだが飽きるのがものすごく早い。豆腐を食べ始めたと思えば、「味に飽きた」言い、次の日にはおやつにアイスやスナック菓子を食べ始め、筋トレを始めたと思えば、「汗を掻くから嫌だ」とダンベルは部屋の置物と化している。和也は豆腐に鰹節や生姜を組み合わせ、工夫をし、筋トレは物を買わず、気負わないように細々と続けている。
だからこそ今回の寝落ちも想定内である。家の前でずっと待っていても、身体が冷え風邪を引いてしまうだけだ。軽くため息をつきながらも再び走り出した。
「俺たち受験生なんだよな」
夏の太陽がコンクリートを照りつけ、気温の上昇、セミの声が暑さに連動するように鳴いている。そのためなのか余計に暑く感じてしまう。ソメタニ商店の軒下でチサがモナカアイスを開けながら、ぶつぶつとぼやいていた。
八月の夏休み中盤、チサの家のクーラーの効いた部屋で問題集と格闘した後、学生御用たちのソメタニ商店に寄ったのだ。愛想の良い中年夫婦が出迎えてくれる。今回のようにチサの家で集まった時や、学校帰りなどに寄っていくのが通例だ。
「そりゃあそうだよ。部活も引退したし、受験まっしぐらだ」チョコがコーティングされた棒アイスを開け、和也は答えた。ふと、夏休みに入る前の母親にテストを見せたときの「なんでこんな大切な時期にこんな点数を」という言葉と表情を思い出し、憂鬱な気分になる。勉強はできないけど、認めて欲しい、褒めて欲しい、というのは甘く、子供じみた考えなのだろうかと和也は考える。
「いい仕事についてほどほどのお金を貰って暮らせればそれでいいのになあ」チサはモナカアイスに鬱憤をはらすかのようにバリバリと音をたて食べ始める。
「ああ、それは分かるなあ、辛い顔して働いている大人たちを見ると、何の為に大人になるのか分からなくなるもん」
和也の父親は仕事から帰ると、テレビをつけ、お酒を飲み始める。家族に手を上げたり、暴言を吐いたりすることがない温厚な父だが、のんべんだらりと過ごす姿は見ていてあまり、気持ちの良い物ではない。
そのため「学校は、勉強はうまくいっているのか?」と聞かれるとついムッとしてしまい「別に関係ないじゃん」と答え、自分の部屋へと逃げ込んでしまう。
「なんのため、か。それはきっと俺たちを育てるためなんだろう。だからこそ親の心配もよくわかる。今通い始めた塾は忙しいし大変だけど期待に応えたいと思うよ」
チサの言葉に、和也は急に耳が赤くなるのを感じる。自分の落ち度を棚に上げ、他人の表面だけを見て、決めつけていた自分を強く恥じた。これが「穴があったら入りたい」という諺か。
「まあ、適当に暮らせればそれが一番いいんだけどね」とアイスの包装紙を丸め、ゴミ箱へと捨てた。和也のチョコアイスは少しずつ溶け始めていた。
チサが朝のランニングを提案してきたのは忙しさの中に負けずに少しでも思い出を作ろうとしたからなのだろうか。そう考えると、チサの期待に応えて、高順位を出したい気持ちが湧いてきた。
「おーい!待ってくれよ」背後からチサの声が聞こえてくる。
そう、チサの家を出て十分後程経った後「ごめん今から家出る!」とメッセージがあったのだ。そのため、チサの髪の毛はあちこちに跳ねており思わず和也は笑ってしまう。
「笑うなよ」と和也の横に追いついたチサは唇を尖らせる。
「笑わせてよ、その分寝坊した分はチャラにしてやるからさ」と和也はここぞとばかりに上手に出る。
「それはサンキュー、んじゃ笑え」と鼻を鳴らしながら答えた。
「それじゃあ笑わしてもらう。チサの髪の毛、爆発したみたい」と指を刺しながら、写真を撮影し、大爆笑する。
「あっ!そこまでしていいとは言ってないぞ」と和也のスマートフォンを奪い取ろうとするが、和也はそれをかわし、「嫌だね」と言って走り出す。「おい!待てよ!」といいながら、チサが追いかけてきた。
町のエンジン、地球のエンジン