トルストイのピストル

 近所の犬が吠えていた。三度吠えて二度は僕のことを静かにみる。昔、テレビで見た潜水士を何故か思い出した。僕が教室に登校すると既にクラスメイトの机の上には光沢のある黒鉛のピストルが一丁、スケールテープで測られた後のように丁寧に置いてあった。クラスメイトたちはそれには触れず、だが、そわそわとした様子に加えて好奇心を抑えて談笑しながら見ていた。僕は冷たい汗を背中に垂らして自分の席に座る。もちろん、僕の机の上にもピストルは置いてあった。すると青い眼で短髪の少年、僕の友だちのアレクサンドロヴィチがワクワクした声で僕の名を呼びながら近づいて来た。
「イリイチ! なんだよこれは! 俺は今日、初めて学校に登校したことを親と祖父母に感謝しているぜ」
 缶切りで開ける時に鳴る鉄のような声は僕にとって朝は堪える。
「なんだよ。うるさいな」
「はあ? 見てみろよ、このイリイチの机にも置いてあるピストルをよ! 毎日、毎日が面白くない退屈な授業の日々にこんな合法的な面白いことがあるってことによ! 少しもテンションが上がらない方がおかしいもんだぜ?」
「知ってるよ。アレクサンドロヴィチ。教室に入る前から気づいた。確かにお絵描きの時間よりは退屈じゃなさそうだ」
「だろ? でもよ不思議と手にしたくはないんだ」
「どうして?」
 僕はアレクサンドロヴィチの意外な反応に質問した。
「なんと言うか。イリイチ。わかるか? それに触れると二度と戻れなくなる気がするんだ。セミやカニ、ヘビが脱皮した後に二度と『自分』の皮に戻らない、そんな現象の感覚と同じなんだ」
「わからないな」
「それならイリイチ。お前はどうなんだ」
「ワクワクはしない。これっぽっちも。ただ一つ、今思えるのは、朝の眠気覚ましには特効薬だってことかな」
 アレクサンドロヴィチがまだ語ることを続けようとした時、教室に担当教師が入って来た。30代前半のメガネをかけた女教師でいつも神経質そうに右まぶたの上をピクピクと振動させていた。
「はい、みんな、自分の席に座って! 授業が始まる1分前よ!」
 教師の声にクラスメイトはすぐに反応して着席した。そして皆が自分の目の前に置いてあるピストルを眺めていた。クラスメイトの全てが席に着いたことを確認した女教師はいつもよりも15パーセント大きな声で「はい! みなさん! すでにお気づきだと思いますが、今日は特別授業となっております。本来なら……、いえ、少し昔の頃なら貴方がたの親や短な大人が教えていたのですが、最近は親とのコミュニケーションをとる機会が少ない影響により、この一般的なピストルの扱い方も知らない子が増えているようです。それで今日はこのピストルの使い方を先生がみなさんに教えようと思います」と言い終えた。
「せんせい! 昨日の夜、トイレに行こうと廊下を通ったら部屋に明かりがついていて、覗いたんです。そうしたら、わたしのお父さんとお母さんがピストルを口に加えていました! もしかして、それと関係していますか?」
 色の白い金髪の少女が手を上げて質問した。
「ええ。プーシキナ。だいたい、そんな感じよ。でも、先生が喋っている途中に話に割り込んでくるのはダメよ」
 女教師はピストルを持ち上げてからクラスメイト全員が見えるようにして「ではまず、先生が手本を見せるわね。あっ、言い忘れたけど、ピストルの弾はすでに入っているわ。そうね。とても簡単よ。自分の口を開けて銃口を口の中に入れるの、それからゆっくり、そう、初めはゆっくりと、引き金を弾くの」女教師がそう言い終えた瞬間、教室中にボーリング玉を落下させた鈍い音が響き渡った。女教師は音と共に後ろの黒板に倒れこみながら尻を床に付けた。クラスメイトたちは一言も喋らずその光景をジッと見つめていた。時計の秒針が4回動いた時である。女教師は何事もなかった表情で立ち上がった。ただ少しだけ両目をパチパチと数回、天井を見上げて動かしていた。
「こんな感じかしら。簡単に説明すると何百年単位で生きていると人間の脳は刺激がなくなっておかしくなるのよ。屋根裏にずっと置いてある本はだんだんとカビ臭くなってホコリぽくなるでしょ? それは太陽の光に当ててホコリをはらうのと同じことなのよ」
 女教師は言い終えるて一息吐いて「じゃあ、みんなもやってみて」と言う。その女教師の言葉に最初、クラスメイトたちは驚きと緊張と恐怖を持っていたが、アレクサンドロヴィチが「いいぜ。まずは俺が先にやってやる」と言って震える手をピストルに伸ばして口を開けて銃口を加えた。そして鈍い音が教室の中で響き渡った。アレクサンドロヴィチは椅子の上でダラリと舌と腕を垂らした。クラスメイトたちは全員、アレクサンドロヴィチの方を見つめていた。全ての呼吸が止まる。それからアレクサンドロヴィチはビクッと身体を震わせる。続けて頭を上げた。
「なんだか、変な、写真の一部みたいなものが見えた。なんだあれ?」
 アレクサンドロヴィチが言葉を発するとクラスメイトたちがいっせいにアレクサンドロヴィチに近づいて「痛くなかった?」とか「どんな感じだった?」とか「本当に生きてる?」とか質問ぜめにした。あまりにうるさい子どもたちの響に女教師は痺れきを切らす声で「さあ、さあ、みんなも自分の席に戻って! アレクサンドロヴィチの様子から大丈夫なことが理解できたでしょ? はい、各自、自分の席でやってください!」
 女教師の声でクラスメイトたちは自分の席に戻った。それで初めはピストルを握って考える素振りを見せていたが、一人が発射すると、続くものが増えた。席に座って銃口を咥える姿はどうみても異質なものであった。
 そうこうしているうちにアレクサンドロヴィチが僕のそばに立っていた。
「イリイチ。お前、なに渋ってんだ? さっさとやれよ」
 僕は目の前に置いてあるピストルを眺めながら「いや、どうも、僕にはピストルを自分に撃つなんて考えられない」と答えた。
「はあ? イリイチ? お前、怖いのか?」
「怖い? それはわからないけど。どうも違和感があるんだ。だってピストルは人に向けて撃つものだろ?」
 僕の問いにアレクサンドロヴィチは眉間にシワを寄せて「なに言ってんだ? 先生も言っていただろ? ピストルは自分に向けて撃つもんだと。今まさに、やってんだろ?」と言い放つ。
「でもそもそもピストルは人に向けて撃つものなんだ」
「なんでだよ?」
「それは……。わからないけど」
「人に撃ってどうすんだよ」
「ごめん。わからない」
 アレクサンドロヴィチはため息を吐いた。
「イリイチ、お前、今日はなんだかおかしいぞ?」
「ああ、そうかもしれない」
 僕は静かに黙った。アレクサンドロヴィチもそれ以上に僕に対して喋り掛けることはなかった。二時間ほど時間が過ぎた頃に女教師は言った。
「はい、だいたい、終わったわね。それじゃあ、終わった子は今日はもう、帰宅していいわよ。家に真っ直ぐ帰って暖かいシチューを食べて早く寝なさい。初めの衝撃で身体が疲れていると思うから」
 女教師がそう言い終えるとクラスメイトたちは席を立ち上がり家路に帰っていく。ただアレクサンドロヴィチだけは最後まで僕の方をみていた。僕はアレクサンドロヴィチに視線を一度だけ向けただけで後は目の前にあるピストルを眺めていた。そしてアレクサンドロヴィチも教室から出て行った。教室に残ったのは僕と女教師だけだった。
「イリイチ」
「はい」
「どうして貴方は撃たないの?」
「さあ」
「さあって」
「僕の父は、よくウオッカを飲む前にピストルの銃口をこめかみに当てて撃っています。母は料理を作った後に椅子に座ってテレビのスイッチを付けたまま額に銃口を当てて撃っています。二人とも、兆候があります。父は会社で嫌なことがあった時と、母がいない時です。母は親族で女友だちとストレスがある時に撃ちます。僕はその姿を見ていて幸福そうには見えないんです」
「へえ。それで」
「だから教えないんじゃないですか? 子どもに。本当に素晴らしいものだったら率先して教えるものです。そんなものじゃ、ないんでしょ?」
 僕は女教師の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「私は彼と二人きりの時に撃ちたくなるわ。ええ。左目の眼球に向けてね」
 女教師が述べた後に沈黙が続いた。とても、とても、とても嫌な沈黙だった。それを女教師がページをめくるように壊した。
「遥か昔、国々が消え去った。そしてこの国も消えそうになった。でも、みんな、とても長く、長く生きた」
 僕は黙って聞いていた。
「昔の歴史、遠い記憶は全て忘れ去ってしまった。そして生きている人たちは退屈と成熟した日々だけが続いていたわ。そんな或る日、過去の生きていた人たちの記憶を歴史の一つとして残そうとする科学者が現れた。名前は『トルストイ』。トルストイは古い歴史を掘り起こして記録をつけていったわ。そして退屈で成長しない止まった脳を再び再起動できる技術も発見し、提供した。でもやり過ぎた。トルストイは気づいてしまったの。本当の真の歴史を。真の歴史を消し去る為に、それを犯行した輩がいることに気づいた。そしてマヌケなことにその犯行をした本人の家系たちもそれを忘れていた。でもそれを掘り起こして全ての人に公表しようとした時、待ったが入った。その真の歴史の情報はヨダレが出るほどに貴重で争いが起きたわ。そしてトルストイ自身にも危険が迫った。それでトルストイは真の歴史をバラバラに、そう、断片的にしたピストルをバラまいた。当たりのピストルを弾いた人、当たりの断片を集めた人が全てを手に入れるように」
 僕はとても真面目な表情で話した女教師に質問した。
「それでトルストイはどうなったんですか?」
「そこら辺でウオッカを飲み歩き痰を吐いているおっさんの記憶を自分の頭に撃ち込んだわ。廃人よりもたちの悪い廃人になってしまったわね」
 やはり、沈黙が続いた。
「嘘よ! 嘘。私の作り話だから。こんなの都市伝説よ。だってほら、貴方みたいに怖がる子がいるでしょ? そんな時に思いついた話よ」
 女教師は似合わない笑顔で言った。
 僕はピストルに手を伸ばす。冷たかった。そして重かった。僕は立ち上がって両手でピストルを持ち、女教師に銃口を向けた。女教師は笑顔を辞めて無表情になり。
「なに、よ?」と女とも男とも言えない声で言った。僕は女教師の顔をしっかり見て答える。
「やっぱりおかしいですよ。ピストルは人に向けて撃つものです。ええ。だって、そう、歴史が証明しているから」

トルストイのピストル

トルストイのピストル

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-23

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