フェルメールと17世紀オランダ絵画展

 画業を成り立たせるためには需要と供給を意識しなければならない。
 現在のように個々人が趣味として又は投機的目的として欲しい絵を求め得る市場が成り立っておらず、教会などの権威ある主体からの注文を受けて描かれる絵は、教会内の壁画のように多くの人の目に触れ、信仰の輝きを発する宗教的場面の見事な表現によって感動を与える。その評判により高められた画家の名声を聞きつけた貴族などが自身の権威の象徴として又は歓待する客人と知的な時間を過ごすために(そして、かかる時間を利用して客人の教養などの質を確かめるために)画家に絵を発注する。そこでの評判も高くなれば、客人として絵に触れてくれた貴族や噂を聞きつけた豪商が新たに絵を発注してくれる。この流れが高まっていつしか国を統べる王の目に止まり、取り立てられて行き着くところが宮廷画家であり、ベラスケスや外交官としても活躍したルーベンス、あるいはメトロポリタン美術館展で鑑賞できる可愛らしい少年の肖像画『ホセ・コスタ・イ・ボルネス』の目に触れる甘さからはとても想像できない野心溢れる手練手管を駆使して栄誉に預かる地位に上り詰めたゴヤのような美術史に名を残す存在となる。
 「私はどういう絵を描けるのか」という言葉に込められる意義は、だから絵画の流れを変える革新性から時代を共にする人々に向けてその心に残るよう計算された意図であったりと様々であり、そこに優劣はないと筆者は考える。筆を取り、キャンバスの前に立つ画家が自身の腕を売り込むために先行する著名な画家の業績を踏襲しつつ、それを乗り越えるために加える工夫は、俗っぽく言えば同時代人に「ウケる」ために行われたとしても長い時代を経て尚見応えのある素晴らしい絵画表現として素直に感動できる。
 正妻サラに息子イサクが産まれ、世継ぎに関わる争いを憂うサラからの申し出を受けたアブラハムが妾であったハガルとハガルに産ませた子であるイシュマエルと共に追い出す聖書の場面を描いたヤン・ステーン作、『ハガルの追放』は真っ白な布で涙を拭うハガルが追い出される立場として画面の中心になり、入り口からの明かりで奥にぼんやりと浮かぶサラとイサクが「正妻」と「嫡出子」という親族関係を強調する。それを背負い、家の前に立ち塞がって厳しく(いかめしく)ハガルと向き合う高齢のアブラハムに対して認められる妙な前傾姿勢と押し返せそうな頼りなさが、神に告げられたことを決定打にしたとはいえ正妻と妾に板挟みになった心中を表しているようにも見える。これに対してハガルと共に画面左側奥に向かって描かれた道を追放された者として歩み、砂漠に放り出されることになるイシュマエルが足元で弓矢を用意しながらこちらに向ける無垢な視線によって、大人の都合に従わざるを得ない姿に向けてしまう痛切な心情が観る側の意識を引っ張る。闇をもたらす夕刻の空にかかる雲の広がりが二人の行く末を暗示しているようであり、けれど神の使いが光ある視線を彼女に既に送っているかの如く、画面全体の暗さに引き立てられてその肌や衣服の色彩が際立つハガルの立ち姿がかかる一枚のドラマチックさを奏でる。同じ題材を描くレンブラントの版画と比べて、観る側の身の丈に合った感情を乗せられるのがヤン・ステーンの絵画表現なのだなと筆者は即断する。
 実際、メトロポリタン美術館展に展示される『テラスの陽気な集い』に表れる乱痴気騒ぎは反面教師の道徳を説きつつ、苦笑を誘って憎めない愉快さを保つ体温で伝えており、その高い技量をもって観る者が軽やかにかつ楽しく飛び越えられる低い敷居がかかる作品の売りとして感じられた。東京都美術館で開催中の『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』で拝見できる『ハガルの追放』と並べられた『カナの婚礼』では背景に追いやられたイエス・キリストが起こす奇跡より、その奇跡によって齎されたワインの味に酔わされた母親が子供に盃を向けたりと、あちらこちらで認められる人々の浮き足だった姿が底抜けに愉快に見えて「おいおい」と心中呟いて笑ってしまった。
 知識不足を補うために以前どこかで言及した中野京子さん著、『「絶筆」で人間を読む』に記されているところを参照すると海洋貿易の成功で豊かになり、商業貴族を中心とした共和政が敷かれていた17世紀のオランダでは他国と違って王族や教会が大口の注文主となってくれる訳ではなかった一方で、パン屋や花屋にまで少なくとも一枚は絵画が飾られていたというぐらい個々の市民が絵画を好んだ。そのために当時のオランダでは雪景色専門の画家がいたぐらいにジャンル分けが細かくなり、写実の術(すべ)を駆使した各ジャンルの象徴となる名画が生まれた。かかる特徴は『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』で存分に味わえる。例えば静物画としては一線を引く自然の向こう岸から放たれる神々しさを見事な構図で描きつつ、親鳥の羽毛に包まれる雛鳥たちの戯れが微笑ましくなる一枚として人々の感情を解き放つ「鳥画家のラファエロ」と謳われたメルヒオール・ドンデクーテルの『羽根を休める雌鶏』が、豪奢の一言に尽きるヤン・デ・ヘームの『花瓶と果物』と並んでいる。または認識と感情が重なり合う人の世界の情感を最も見事に伝えるジャンルの一つでないかと贔屓目全開な色眼鏡をもって筆者が鑑賞する風景画として、例えば狩りという嗜みが繰り広げられる画面の中心に描いた一本の枯れ木で諸行無常な命のやり取りを示唆し、流れる雲が覆い切れない空に見られる清爽と大地に根を張る木々が生んだ陰影との対比で生死の淡いをしかと捉えるヤーコプ・ファン・ライスダールの『牡鹿狩り』や、神聖性に縁取られた意識=額縁の内側で建築物としての教会に認められる幾何学的要素を視界に収め、そこで過ごす人物と差し込む光との関係性に好ましくなる生命(いのち)を静かに送り込むエマニュエル・デ・ウィッテの『アムステルダムの旧教会内部』と直面する幸せな時間を過ごせる。
 黄金期を迎えていたオランダで育まれた絵画表現の結晶と言っても過言ではない、逸品揃いのコレクション。
 勿論、修復作業が済んだフェルメール氏の『窓辺で手紙を読む女』が本展のメインではあるのだろうし、実際に目の当たりにしたかの一枚は本当に素晴らしかった。それでも『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』について評価するならこの点を置いて他にないと、記憶を振り返っても筆者は実感する。

 以前、東京国立近代美術館で開催されていたピーター・ドイグ展のホームページで公開されていた解説の一つとして、展示する前のピーター・ドイグ氏の作品を裏から見た時の印象などに基づいて氏の作品に迫る興味深い文を載せていた田口かおりさんが専門とする保存修復の分野に触れてみたく、図書館で借りて読んだ『保存修復の技法と思想』には作品に介入する修復作業の難しさが絵画作品の価値に向けた理論的かつ思想的なアプローチによって展開されていた。商品でもある絵画に加えられる様々な介入によって生じる変容を元に戻すという簡単な話にならない修復作業において軽んじてはならない、時間経過によって作品に堆積していく見えない価値は門外漢な筆者の拙い理解でも心に残るポイントだった。
 修復される前のヨハネス・フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』が画面奥の壁に何の絵も掛かっていない状態で鑑賞者に愛されてきたという事実を前にしたとき、そこに掛けられていたキューピッドを元に戻すべきなのか、フェルメール氏自身が塗り潰した訳ではない事実が分析結果から得られたとしても迷って然るべき堆積する時間的価値はあったのだろうなと半可通な筆者は想像し、かかる一枚の修復過程に関する展示を具(つぶさ)に見て、修復される前の複製画と修復された『窓辺で手紙を読む女』を見比べる有難い機会を得た。
 興味の赴くままにメトロポリタン美術館展でフェルメール氏の『信仰の寓意』を鑑賞して氏の構成に係る計算と技量を勝手に夢想し、そのままの意識で『窓辺で手紙を読む女』を観たからだろう。届いた手紙に目を落とし、開いた窓辺から差す光を真正面から浴びる彼女によって体現される希望の色味が意味を持って雄弁に物語る日用品の形と配置によって用意された枠に映え、窓ガラスの内側に写る反転した彼女の顔の角度、そしてたくし上げられたり、捲られたりして皺が寄っている布地の色気に中てられる。光の画家という氏の評価を味わうのならこちらの一枚なのだと素直に思う、だからかかる筆者の感想においてはキューピッドが是非ともそこの壁に掛けられていて欲しい。その場でそう述懐した(かかる一枚については、グッズ売り場に置かれていた良質なポストカードの中にキューピッドの絵が掛けられているものといないものの二種類が用意されていた。穿った見方なのかもしれないがそこには鑑賞者の好みに対する配慮があり、正解というものを用意していない意識が認められて、史料的価値をも有する絵画が何よりも表現物として大切にされているようで好ましく映った)。

 感動であれ権威であれ、観る側の心を動かすこと。
 不可逆な介入となる修復は商品としても有するべき絵画のその力を左右する。だから一絵画好きとして興味が尽きない、『窓辺で手紙を読む女』の一大プロジェクト。オランダ黄金期のラインナップとなる古典絵画の名作が導くかかる作品への道のりに足を向けてみる価値は間違いなくあると筆者は思う。

フェルメールと17世紀オランダ絵画展

フェルメールと17世紀オランダ絵画展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-23

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