北北東のちいさな村
オリビンの手記一 石英の君
人外種族がこの世に現れてからもう三百年ほどの時が過ぎようとしていました。各地に偏在する人外たちは人間の暮らしにすっかり溶け込み、彼らの多様な生き方と文化が人間の間で人気になるまでにもなっております。人外差別や奴隷制などの社会的問題もどうやらかつてはあったようですが、人に比べて圧倒的な彼らの多様性を前に、それらはすっかり昔の話となっておりました。
此処アルバギアの村も、かつては人外の一種族「石喰い」の隠れ住む鉱山地帯のほど近くの村として栄えましたが、多くの石喰いらは鉱山の衰退とともに、山の麓の町フフーレンに移り住み、残ったのはほんの何軒かの石喰いの家のみとなったのでした。
此処で、石食いという種族について書き記しておくこととしましょう。
彼らは人間によく似た姿かたちをしております。数少ない違う箇所といえば、彼らの耳介が獣のもののように、大きく毛に覆われていることでございましょう。彼らの耳は毛皮に包まれ温かく、おそらく寒冷な地域に住むにあたって凍えないためのつくりなのだと思われます。
また、彼らはその名前の通り、石を好んで食べました。どちらかといえば岩石よりも、純度の高い鉱石や宝石をより好んで食べるようです。石を手で割り嚙み砕くので、その姿が人間と近しくても、彼らの持つ力は相当のものであろう、と思います。
石喰いは一部の人外と同じく人口のごく少ない種族でありましたが、例外的に、人間と混血することの全くない種族でもありました。それでも彼らは独自の生殖方法を持ち増えること、人間の倍以上の年月も生きることから、所謂人外保護はされておりません。絶滅の危機に瀕する人外らとは、その点で違う存在であったのでした。
人間にとって彼らは、姿かたちこそ似ているものの生物としては相容れない存在として、一定の距離を保ったまま暮らしてきたといえましょう。
此れを書いている私にとって彼らは――
――その時、外で物音が聞こえた気がして、私は文章を書く手を止めた。肩まで伸びた黒い髪をかき上げて耳を澄ませる。どうやらひとの足音のようだった。私は急いで紙束をまとめ、台所の戸棚の奥に詰め込むようにして仕舞う。
こつこつ、と扉を軽く叩く音が耳に入る。
(ご主人かも。)
私はぱっと立ち上がり、急いで玄関のほうへ向かった。外がもうすっかり暗いのを思い出し、カンテラに明りをともしてそうっと持ち、ばたばたと靴を履く。勢いよく玄関の戸を開けたが、そこへ立っていたのは想定していた人物ではなかった。
「やあオリビン、遅くにすまないね。セキエイは居るかい。」
襟の細い象牙色の上着は、少しくたびれてはいるが上等の物のように見えた。くせのある濃い緑色の髪から、賢そうな琥珀色の目が覗いている。髪より少し暗い色をし、ビロードに似た質感をもった、獣に似た大きな耳は、彼が人間ではないことを示していた。
私はほっと息をついて、ベリル、と見知った客人の名前を呼ぶ。それから
「いや、まだ帰っていないんだ。今日は帰りそうもない。」
と答えた。ベリルと呼ばれた彼はそれを聞くと渋い顔をして、小さく
「またか。」
と呟いた。私はベリルの様子を見て、口を開いた。
「もしよければ泊まっていくかい。もう遅い時分だし、今日は冷えるだろう。もしまだなら、夕食くらいなら用意するよ。」
「ありがとう。それなら、お言葉に甘えようかな。」
ベリルと呼ばれた彼――彼こそが山麓の町フフーレンに住む人外、石喰いのひとりだった――は礼を言って部屋の中に進み入った。私は石の壁に据え付けられた木のドアを静かに閉め、ベリルの上着を預かり壁に掛けた。それから暖炉に薪を足し、湯を沸かし始める。
てきぱきとした私の一連の行動を見て、ベリルは言った。
「随分この家にも慣れてきたみたいで安心したよ。」
私は照れくさく、小さくはにかんだ。ベリルは笑いながら、慣れた様子で居間の椅子に腰掛ける。ベリルは居間の隅に置かれた、ひどく雑然とした机を睨みながらぼやいた。
「まったく、あいつは片付けというものを知らないのか。」
私は少し困って笑う。
「すまないな、ベリル。研究に関するものには触るなって言われてるんだ。」
それを聞くと、ベリルは気にすることない、とおおらかに笑ってこう言った。
「別に、オリビンのせいじゃないだろ。それに天才なんて、きっと大抵そんなものだ。」
それを聞いて、私は控えめに笑った。自分のご主人が天才、神童、所謂そう呼ばれるような存在であることは、私のほんのちいさな誇りでもあった。
戸棚からはベリルのために水晶の欠片をいくつか取り出して皿にあけ、ついでにキッチンの端に置いたままのパンとスープも持っていく。主人が帰ってきたら直ぐに一緒に食べようと思って用意していたものだった。スープはすっかり冷めきっていたが、気には留めなかった。
「この水晶、セキエイが採ってきたものかい。天然だね。」
ベリルは水晶をその堅い歯で噛み砕きながら言う。私は冷めたスープを飲みつつ、首を横に振った。
「天然だけど、村の鉱石屋から買ったものだよ。主人の気に入りの店なんだ。」
「なるほどね。」
そう言って水晶の欠片をなんてことないように飲み込む彼、石喰いのベリルは、オリビンの友人であった。ベリルは、素性も明かさない人間である私に対しても、セキエイと同様に非常に親しく接してくれる、数少ない知人であったのである。ベリルは水晶をがりがりと食べながら訊ねた。
「セキエイは、いつ頃帰ってくるって?」
「たぶん十日くらい、って言っていたよ。出たのが丁度一週間前だから、あと数日はかかるかもしれない。」
「なんだあ、面倒くさいな。こっちに泊まるか一旦帰るか、悩むじゃあないか。あいつめ……。」
ベリルはそう言って、椅子の背に寄りかかって頭を掻いた。
「主人がすまないね。」
「いやあ、オリビンのせいじゃないだろ。それにこっちの村に来るのだって、俺はけっこう好きだからさ。行き来が面倒くさいってだけで……。」
その時であった。家の戸ががちゃりと開き、その音に私は椅子から飛び上がった。
「ただいま。」
戸を開けっ放しにしたまま無表情でぼそりとそうつぶやいたのは、分厚い上着のフードを目深に被り、藤色の髪に紫の瞳をした、少年とも少女ともつかない様子の人物だった。
「ご主人!」
私は途端、がた、と立ち上がり、慌てて玄関へ走り寄る。
「ああお帰りなさい、帰ってくるのに気が付かなくてごめんなさい。寒くはありませんか、お腹は空いていませんか。そうだ、今からでもお風呂を沸かしますね。丁度暖炉を点けたばかりですし、ああそうだ、ベリル様がお越しですよ。ご主人、上着をこちらへ。」
早口でまくしたてる私に、少年はただ
「うん。」
とだけつぶやき、のそのそと静かに上着を脱いた。その少年こそが、私にとっての「ご主人」であるセキエイその人だった。彼がフードを脱ぐと、ベリルのそれとよく似た形の、紺藍の大きな耳が顔を出す。その先にはダイヤ型の小さなピアスが揺れていた。彼もまた、石喰いのひとりであった。
石喰いには人間のような性別はなかったが、私はセキエイのことをひとりの人物としてたいそう強く慕っていた。しかしその好意がどんなものであったかは、セキエイ本人には知る由もなかった。
セキエイは居間に上がり、ひどく疲れた様子でがたりと椅子に腰を下ろした。
「お帰り。」
と客人であるベリルが声を掛けるも、セキエイは目をつむったまま小さく頷くだけだった。
私は淹れたばかりの紅茶と角砂糖の瓶をご主人の前に置き、それから二人に声を掛けた。
「僕、お風呂を沸かしてきますね。お二方とも、くつろいでいてくだすって結構ですから。」
ベリルはにっこりと笑って
「はあい。」
と答える。セキエイは何も言わず、目をつむったまま小さく頷いた。
◆
居間に二人きりになってから、ベリルは口を開いた。
「なあセキエイ、いい加減うちの学会に来ないかい。時間的拘束はしないって俺が約束するからさ。お前くらいに熱心な石喰いの研究者、そうそういないよ。石喰いってだけでも重宝される世界だぜ。」
「僕は僕がやりたいから研究してるだけ……中身なら代わりにベリルが持っていってもいいよ。」
セキエイは目を開けて、だるそうに紅茶をかき混ぜながら答えた。彼はひどく無口で起伏に乏しいところがあり、他人と親しくなることを嫌うことが多かった。唯一の友人、石喰いのベリルは、これでも数少ない例外であったのだ。
「そんなわけにもいかないから頼み込んでるんだろう。前も同じこと言ってさあ。」
ベリルは頭を掻きながら、はーあと大きなため息をひとつ吐く。
「ま、いつものはこのくらいでいいや。どうせ俺もお前が頷くとはそうそう思ってないしね。今日は渡したいものがあって来たんだ。」
そう言うとベリルは鞄から大判の冊子を取り出して見せた。
「うちの学会誌。俺のレポートも載ってる。」
「……助かる。」
セキエイは紅茶に角砂糖をどぼどぼと入れながら、ベリルのほうを一瞥もせずにそうつぶやいた。
「ありがとうくらい言えよな。」
そう言いながら、ベリルは冊子でぽんぽんとセキエイの頭をたたく。セキエイは紅茶を混ぜる手を止め、ベリルのほうをちら、と見てぼそりと
「……ありがとう。」
とつぶやいた。
「ははは、素直で結構!」
ベリルはにかっと笑い、セキエイに冊子を手渡す。セキエイは、年下だからって、とでも言いたげにじろりとベリルのほうを見やるが、ベリルは気にする様子もなかった。
「そういえば、オリビンから聞いたよ。一週間くらい出かけてたんだってね。何か収穫はあったかい。」
セキエイはぽつりぽつりと、考えながら答える。
「新しい、採掘場探し。……あと、ついでに地質図も。」
「採掘場って、例の水晶屋におろしてる情報ってやつか?」
ベリルの問いに、セキエイは無言で頷く。セキエイらの暮らしは、村に住む他の石喰いに情報を売ることで成り立っていた。ベリルはふうん、と頷き、またこう訊ねた。
「そうだ、ところで彼はどうだい。」
「彼……?」
セキエイはきょとんとした顔でつぶやいた。
「オリビンだよ。もうじき彼がここに来て一年くらいになるだろ。調子はどうかなと思ってさ。」
「調子……。」
セキエイは深く考えるように黙り込んだ。
「よく、分からない。」
ベリルは大きくため息を吐いた。
◆
――おそらく、これが自伝とか回想録のようなものであるならば、私自身のことについて、事細かに語る必要があったのでしょう。けれど、私はそのことについてひとつ、決して書くことはないのだと断言しておきましょう。というのも私は、後述する「彼」と出会う以前のその記憶のほとんどを、もう二度と思い出さないものと決めておりましたから。
さて、石喰いについての話に戻りましょう。
「石喰い」という名前は、石を食べない人間にとっての名前であるので、他に名前をつけるべきである、と主張する人間も多くおりました。しかし、多くの石喰いはそのことに対して、些細であるといったふうに、とりわけ何も言いませんでした。
彼らはなべて、彼ら自身についてどこか無関心なところがあるように、私には感じられました。私の目から見た彼ら石喰いは、いい意味で他人行儀で冷静な、彼らなりの愛想をもった人外でありました。
私は人間でありますが、親しい石喰いが多からず居りました。先述したここアルバギアは、本来石喰いが栄えた村でありましたが、鉱山の衰退と山麓の町の発達によってその多くが山を下り、今はほんの数件の家が残るばかりでありました。そんな此処へ住む彼らのことを、こうして記録に留めておくこととします。
私はアルバギアのある石喰いのもとで下働きをさせていただいて居りました。この私のご主人こそが先述した彼、セキエイでありました。
彼は青紫の髪と耳をもち、歳は三十程、人間で言えば十六、七になるほどの若い石喰いです。
彼は立派な地質学者でありました。それというのも、彼の家には彼が生まれる前から地質学に関する沢山の資料があり、彼の育ての親もそれについてよく教えてくれたからなのだといいます。実際、彼の暮らしぶりに対してたいそう大きな造りのこの家には、何部屋分もの書物や資料が、それこそ山のようにありました。
彼もまた古い記憶を口に出すようなことは滅多にありませんでしたが、今でも頻繁にフィールドワークとして各地を歩き回り、またある時は部屋へ篭って物書きをしているところを見ると、地質学のことを好きで続けて居るのではないかと思うのです。
けれども彼は人付き合いとなると、それを極端に避けるところがありました。彼は専ら無口で感情の起伏にも乏しく、石や土地についての話をする時を除いては自分から話すことは滅多にありませんでした。
そんなご主人をよく誘ってくだすったのが、フフーレンに住む石喰いのベリルでした。彼は緑柱石の名によく似合う深い緑色の毛をもっており、セキエイの五、六つ上の歳のようでした。彼はご主人とは相反して、明るくはつらつと、よく喋る方であり、またご主人と同じ地質学分野の名高い研究者の一人でありました。
ベリルはご主人を自らの所属される学会へ誘うため、また街への使いを自ら頼まれに、よくアルバギアまで足を運ばれました。セキエイはその誘いに首を縦に振ることはありませんでしたが、それでもベリルはご主人のよき友人として、度々ここへ足を運んでくだすったのです。
ほかにもアルバギアの石喰いは――
――私はここで鉛筆を走らせる手を止めた。続きをどう書こうか悩んで、手元の紅茶をすすり、少しの間考えを巡らせる。蝋燭の明りが手元で揺れる。
私はその紙束に簡単な表紙を付けて、糸で綴ってノートのようにした。裏表紙にはオリビン、と、ご主人からもらったその名を書き添えておく。そして何ページか空白の用紙を残したあと、一番最後のページに飛んで私はこう書いた。――
――この手記をだれかが読む頃に、私が居るか分りません。しかし、どうか彼がここに在ったということを覚えていてくれたら、それで私は僥倖なのです。
黄鉄鉱の断片
セキエイは本を読んでいた。本とはいっても、その中に書かれているのは物語ではなく、ある人の日記であった。
表紙の片側が紐で綴じられていて、裏表紙には「セシル」とだけ、擦れたインクの手書き文字で書かれている。ひどく古いもののようで、紙は黄色く焼けていたが、セキエイはその冊子を、たいそう大切にしていた。それは、彼の最も尊敬する学者のつけていた日記の、複製であった。
その日記には、様々の鉱石や岩石、また一部の古生物の化石についてが、スケッチや文章で事細かに記録されていた。百年程も前に書かれたこの日記がある人間の学者の手に渡ったとき、それまであまり注目されていなかった、地質学の見方が大きく変わった。石喰いにとっての地質学の視点が出現したのである。
セシルの日記と呼ばれるそれは、挿絵や文章、装丁などをそのままにいくつも複製され、その中身は多くの人の目に触れることとなった。
その日記の起こした革命は地質学の界隈だけでなく、ひとりの石喰い、セキエイにも大きな衝撃を与えた。彼は幼き日にその日記を読んで以来、そこへ書かれていることを総て覚えるほどに幾度も読み込んだ。
セキエイの家には他にも地質学に関わる大量の蔵書があった。一人で暮らすには十分すぎる広さの家のほとんどの部屋が、棚や本や資料で埋め尽くされていたうえに、それは据えられた地下室の中も同様であった。セキエイはこの三十年近くの間、ほとんどの時間をそれらの文書を読むことに充てており、概ねの内容を把握するほどまでになっていた。
彼の家にどうして地質学の資料がそれほど沢山あったのか、それは彼の育ての親を語らずには説明できないであろう。しかしセキエイにはその人物に関する記憶の大半が失われていた。彼に思いだせるのは、最後に見たその長い髪の後ろ姿のみであった。
そのひとの名はマーカスといった。セキエイはその名を明確には覚えてはいなかったが、家に残された物の多くにその名が刻んであったことから、セキエイはおそらくそうなのだ、と思っていた。
マーカスは地質学者だった――というよりは、そう考えるのが妥当であった。彼はいつからかセキエイに地質学の基礎を教え、幼いセキエイを十三、四歳の頃まで育て、その後は行方をくらましたのである。しかし、マーカスは決して研究者として有名なわけではなかった。むしろ本や記録を遡っても、レポートのひとつさえ見つからないのである。
セキエイにとって彼は、朧げな記憶の中にしか居ない、どこまでいっても謎の人物であった。
それで彼はいつの頃からか、ふたつの目標を据えるにあたった。ひとつめが、マーカスによって培われた、地質に関わる分野の研究を続けること――彼にはそれ以外の暮らしというものが、よく分からないというのも大きかったが。ふたつめが、自らの育ての親マーカスの過去を突き止めること。親のいないセキエイにとっては、マーカスの正体は、朧げな自分の由来を知ることにもつながるのでは、と考えたのである。
今のところ、セキエイは様々な採掘家や研究者にマーカスという人物のことを訊ねたが、成果は全く得られていなかった。
セキエイはセシルの日記を、散らかった机の端にぽんと乗せ、ひとつ欠伸をした。
◆
セキエイはそのとき、二週間ほど家を開けるとオリビンに伝えてから、山をいくつも越えた先にいた。冬の、北風が強く冷え込む日のことであった。セキエイは極度の寒がりであったので、この季節に外出する際には上着を何枚も着込んで出かけていた。かつん、かつんと杖代わりのピッケルの音が、人気のない山の谷底に響いていた。
そこは、彼の家から四、五日歩いた先にある――石喰いである彼の体力による距離なので、人間らの一日で進む距離とは比べものにならないことを考慮する必要があるが――とある山奥の森であった。この近辺の地質図を作るために、彼は何度かこの付近へ足を運んでいた。
やがて日が落ち始めたので、セキエイはねぐらによさそうな場所を探し始めた。日が暮れ、辺りが闇に沈みはじめる頃には適当な洞窟を見つけたので、彼はほっとしてその中へ歩み入った。大きな一枚岩にぽっかりと空いた穴で、まるで人の手が入ったように不自然な入り口ではあったが、それにしては随分と昔のもののように見えたので、セキエイは特段気にする様子もなかった。
彼は灯りを手に持ち、ずんずんと奥へ進んでいった。洞窟の天井は低かったが、横幅は数人の大人が並べるほどの広さがあった。しかし奥行にはなかなか終わりが見えず、ずいぶんと深いもののようだ、と思った。
ある程度奥へ進んだところで、セキエイは迷わないうちに引き返そう、と踵を返して歩き出した。その時ふと、彼の耳に小さな音が届いた。それはひとの声にも似たもののように思えた。小さく、しかし確かに響くその声は、振り返って耳を澄ましてみると、洞窟のさらに奥の、深いところから聞こえているように思えた。
洞窟の奥深くから響く謎の声。セキエイはどうしても好奇心を抑えられず、つい先ほど止めた歩みを、奥のほうへと進めはじめた。
ずんずんと奥に下っていくと、洞窟の空気はどんどんと湿っぽく、温かくなっていった。それと同時に確実にはっきりと聴こえるようになっていくその声は、おうい、おういと、まるで誰かを呼んでいるようだった。そこで試しにセキエイは、普段使わない喉を使って、奥の暗闇に向けて、大きな声で呼び掛けてみた。
「誰かいるのかい。」
彼の声は洞窟の闇にわあんと大きく響き、しばらくこだました後、ぴたり、と数秒の静寂が訪れた。セキエイががっかりして振り返った、その時だった。
「私だよ。ここにいる。」
確かに、奥のほうから誰かがそう言ったのを、セキエイの耳は聞き逃さなかった。その声からは、性別も年齢も、種族すらも分からなかったが、セキエイには何か惹かれるものがあった。
「ここって、どこだい。」
セキエイはまたそう言って、洞窟の静まり返るのを待った。するとやはり、さっきと同じ声が返ってきた。
「分からない。もうずいぶん長いこと真っ暗だ。」
声は続けて言った。
「どうかもう一度、光が見たい。」
セキエイは迷わずその声のするほうへ、再び歩き出した。
しばらくののち、セキエイはようやく声の主を見つけた。
はじめ見つけたものは、一部が掘り出され露出した化石のようにも見えたが、持っていた灯りで照らしてみると、不思議なことにうっすら青く変成していた。声はすぐ側の岩盤から響いた。
「ああ、光だ。あたたかな灯だ。」
セキエイにはすぐに、その声の主が、この目の前にある化石と同一であることが解った。それというのも、何者かによって部分的に掘り出されていたそれは、巨大な古生物の一部にもよく似ていたからであった。全貌の大きさは計り知れなかったが、巨大な生物のものであれば、この辺り一帯に広く埋まっていても何らおかしくはない。
顔も見えない声の主は言った。
「自分はもうずっと昔に死んだはずなのだ。それなのに今の今でも生きていて、もう随分長くここに埋まっている。一度だけ君のように人間が来たが、半端に掘り起こしてこのざまさ。」
よく見ると、化石が表出している場所の表面はひどく傷つけられていた。ずっと昔に死んだはずなのに、なお生きている――そんな化石の話など、セキエイも聞いたことがなかった。
声の主は続けた。
「君は体は小さいが、私と似た匂いがする。これも何かの縁だろう。私を諦めた人間の代わりに、どうか君が、外を見せてはくれないか。」
生きている化石、青い化石、喋る化石。そんな奇妙で興味をそそられるものを前にして、セキエイは首を横に振ることなどできなかった。彼は頷いて言った。
「僕が君に外の光を見せてあげよう。約束するよ。」
それから
「僕はセキエイ。君は、何て呼べばいいかな。」
と訊ねた。化石は言った。
「ありがとう、セキエイ。しかし私は、ひとに呼ばれたことがないから、名乗るものがない。君の好きに呼んでくれ。」
「じゃあ、君はジプサムだ。僕ら石喰いは、石の名前をつけるのが慣例だから。」
セキエイは言った。不思議と、彼の前ではいつもより言葉がすらすらと出てくるのが不思議だった。ジプサムは言う。
「ジプサム。これが私の名前か。不思議なものだ。」
翌朝、セキエイは一旦ジプサムに別れを告げた。次また来た時に迷わぬよう仮の拠点を立て、ジプサムを本格的に掘り起こす準備をするために家へ帰った。オリビンには一カ月ほど留守にすると伝え、また一週間ほどの後、再びジプサムのもとへ帰った。
「幸い、時間なら嫌になるほどあるんだ。」
セキエイはそう言ってさっそく、友人を光の下へ連れ出す準備を始めた。
オリビンの手記二 緑柱石の知己
ご主人にとって私はどういうものですか、と、一度ご主人本人に訊ねたことがあります。それは決して大層な自信を持っている故ではなく、むしろ自分はいつまでもここにいて良いのだろうか、という自信のなさによるものでした。彼は迷いながらも、こう言いました。
「ここに住んで、家事してくれてる。」
私はそれを聞いて、ひどく安心したのを覚えています。私は――その理由を彼が覚えているかどうかに関わらず――彼の暮らしが少しでも楽になってくれていたら、何であれば、迷惑でさえなければ幸いだと思っておりましたから。彼が私にここにいて良い理由をくれる、それで私はまだ生きていてもいいと思えるのでした。
彼は私がここに住み始めてからもよくフィールドワークで家を空けましたが、それも彼に気を使わせていないのが分かって、私は安心するのでした。
それは私オリビンがご主人のもとへやってきて二年ほど経った、とある冬の頃でした。ご主人はいつものように数日の間出掛けると言い置いたまま、もう一週間ほどが経っておりました。
私はその時、長く体調を崩しておりました。ご主人が家を留守にしてから暫く、咳が止まらないことが度々あったのです。けれど私は自分で自分の体調の悪さに知らぬふりをしていました。元来、寒いのが得意ではないほうですし、身体も取り立てて強いほうではありませんでしたから、風邪には慣れていました。
幸い、石喰いは人間のかかる病にうつることは滅多にないと、村の石喰いの医者から聞いたことがありました。それに何より、ここを出ていくよう言われるのが、今の私には最も考えるに堪えないことでありましたから。
本当のところ、これが只の風邪ではないことなど、私にはとうに分かっておりました。あまりにも長く続いて居りましたし、日に日に体のあちこちが痛むことも増えていましたから。
この病をそのままにしておくことに、たくさんの言い訳を考えましたが、最後にはこう落ち着くのでした。どちらにせよ、長命な人外であるご主人よりも、自分のほうがずっと早く居なくなるのは決まっているのだから、と。
ご主人が帰ってきても、私はできるだけ健康に振舞いました。時折隠れて咳を堪える私に、あるいは気が付いていたのかもしれません。しかし、ご主人は私に何も言うことはありませんでした。
帰ってきたご主人は忙しそうに、すぐに出掛ける準備をしていました。随分な大荷物なのが見て取れましたが、私はいつも通りに、どのくらいの留守になるのか訊ねました。彼はしばらくの間考え、言いました。
「とりあえず、一カ月くらい。忙しくなりそうだ。」
私は、何事もないように微笑み頷きました。
ご主人が留守にして数日後、ベリルが家を訪れました。
私は、ご主人の前と同じように、ベリルに体調が悪いのを気付かれまいと過ごしていましたが、鋭い彼はあるときそんな私を見て、眉間に皺を寄せ言いました。
「オリビン、体調が悪いのか?」
「そんなことはないよ、少しいつもと調子が違うだけさ。」
私は笑って言いました。石喰いである彼にはよく分からないだろうとたかをくくっていた気持ちも、もしかしたら心のどこかにあったのかも知れません。彼はそんな私に気がついたのか、むっと顔をしかめて言いました。
「俺がどれだけ人間の町で暮らしてると思ってるんだ。その顔色さ。随分と無理をしているだろう。」
彼の口調は少し怒ったもののようで、私は身体をすくめました。彼はすぐに訊ねました。
「セキエイはいつ帰るっていったか。」
「あと、三週間ほど、だと思う。」
「わかった、じゃあ一緒に医者に行ってやる。村の医者は?」
私は首を振って答えました。
「石喰いの医者だけだよ。山を降りなきゃ人間を診る医者はいない。」
「じゃあ俺がフフーレンまで連れていってやるよ。」
私は自分の心臓がどくんと跳ねるのが解りました。
「山を降りるのは嫌だ! 絶対にだ!」
考える間もなくそう口が動きました。ベリルを前にはじめて声を荒げた私は、自分で自分に吃驚しました。息が詰まり、ベリルの腕をいつの間にか掴む指に力が入っているのに気付き、慌てて手を離します。
「ごめ、ん。」
私は動揺したまま謝りました。突然のことに驚いたのはベリルも一緒でした。彼は戸惑いつつも言いました。
「じゃあさ、せめて町の医者を呼ばせてくれよ。金のことは気にしないで良い。俺、調子の悪そうな友達がいるのにほっとくなんて出来ないよ。種族が違うなら尚更だ。」
友達。その言葉を出された私は、それ以上首を横に振ることは出来ませんでした。数日後、ベリルがフフーレンから呼んだ医者が家へ来ました。私を診た医者は、薬を飲み続ければこれ以上悪くなるのを遅らせることはできるだろう、と言って二か月分ほどの薬を出してくださいました。
その間もベリルは家に泊まり込み、まめに私の代わりに家のことをやってくれ、私はひどく申し訳のない気持ちになりました。
ある日、私が寝込んでいるベッドに腰掛けてベリルは言いました。
「オリビン、君はセキエイのことを好いているんだろう。」
私は一寸の間考えて、答えました。
「勿論だよ。私はご主人のことを――」
「ご主人として、以外にだよ。」
ベリルは私の台詞の行き先を塞ぐように言いました。彼は軽く笑っていましたが、その真意は真面目なのが分かりました。彼は続けます。
「人間でいうところの、愛とか恋ってやつさ。」
その言葉に私の胸はどきん、と鳴りました。答えようとするも、咽がふるえてうまく声が出ません。ベリルの目は、何時にもまして真面目でした。彼は続けました。
「君の気持は、俺には否定できるものじゃないが、やはり……」
彼は視線を左右に向けながら、できるだけ間接的な言葉を探しているようでした。私はひとつ唾をのんで、それからつとめて冷静にきこえるよう、静かに答えました。
「大丈夫、分かっているつもりだよ。僕はただの人間だし、君たちとは寿命も生き方も違うものね。」
彼が言葉を発する前に、私は続けました。
「それに彼だって、何にも持たない僕なんかには構ってられない、もっと大事なものを持っていることだって、分かってる。大丈夫だよ、これでも彼の邪魔にはならないよう、だいぶ頑張っているんだ……。」
溢れだす言葉を止められない私を前に、ベリルはもう何も言おうとしませんでした。怒ったような悲しむような、なんともいえない目を伏せる彼に、私は笑って言いました。
「少しでも迷惑かけることなくご主人のもとへ居たい。もう、それだけなんだ。」
二人ともしばらく押し黙った後、彼はぽつりと言いました。
「セキエイが君のそれを受け入れるかは別として、伝えるだけ伝えるのもひとつの手だよ。」
私は少しの間考えて、それから首を横に振り言いました。
「ご主人は、生まれて初めて私を否定しないでいてくれた。そんなひとを試すようなことはできないよ。」
数日の後、一カ月ぶりにご主人が帰宅しました。私はベッドから出て、また何事もないようにふるまい、働きはじめました。ベリルはそれを見て、悔しいような哀れなような顔をしていましたが、何も言うことはありませんでした。
セシライト
セキエイは悩んでいた。鎚を振るう手に汗がにじむ。人間に比べて丈夫な石喰いの中でも、体力や力には自信のあるほうだと、彼は思っていた。
ジプサムを掘り出し始めてから、もう何日が経過しただろう。ずっと地下に篭って作業をしていたので、セキエイの時間感覚はずいぶんとおかしなことになっていた。それでセキエイは一旦ジプサムのもとを離れ、外の空気を吸いに行った。朝日が昇り、空が白み始めている時分だった。彼は気分転換がてら、辺りをぐるりと歩くことにした。森の土は洞窟と違ってふかふかと柔らかく、今の彼にはそれが新鮮だった。
彼は森の木々を見上げ考えを巡らせた。
ジプサムほどの全身化石を掘り出すのがどういうことなのか、はじめる前には想像もついていなかった。これから最低でも、手作業であの硬い岩盤から塊ごとに掘り出し、明るいところへ持ち出す必要がある。その後にクリーニングをどうするか、巨大なジプサムをどこへやるのか、殆どのことが不確定であった。
この数日間――彼の体感なので、実際の日数は分からないが――でようやく、掘り出しているのはおそらく彼の脛なのではないか、となんとなく思えるようになったほどである。古生物にとりわけて詳しいわけでもなかったセキエイにとって、彼の全貌はあまりにも未知数であった。
自分はまだ若く、時間は十分すぎるほどにある。そんな風に思ってはいたが、生きている化石、喋る化石であるジプサムを前にすると、彼が羨ましくてたまらなかった。
そう考えた自分に気が付いて、セキエイははっとして首を横に振った。ジプサムが幾年もの間、暗闇でひとりだったということを考えると、セキエイはぞっとした。同時に、自分が必ずジプサムを光の下へ連れ出してやらなければならないのだ、と改めて自分に言い聞かせるのだった。
セキエイはジプサムのもとへ戻り、作業を再開した。作業を続けながら、外の様子を嬉々として訊ねるジプサムに、できるだけ細かく、森の様子を話してやった。ジプサムはセキエイの話をひと通り聞いた後、こう言った。
「私が住んでいた頃、外はひらけた草原だった。それに、君らのような生き物はまだいなかったように思うよ。きっと、外の様子は随分と変わっているのだろうなあ。」
その声は昔を懐かしむと同時に、期待をふくらませたような、たいそう嬉しそうな様子だった。セキエイはそんなジプサムにちいさく微笑んだ。
あるとき、セキエイは訊ねた。
「ジプサムは、どうしてまだ生きているの。」
ジプサムは考え込むように少しの間黙り込み、それから言った。
「私は一度死んだ身だが、いつだったか、眠りから目覚めるような感覚があったのだ。不思議なことに、昔の記憶もはっきりとある。」
「何かきっかけとか、心当たりとかはないのかい。」
ジプサムは先ほどよりも長いこと考えてから答えた。
「昔のことには心当たりはない。しかしおかしなことといえば、この辺りの岩には、奇妙な匂いがずっと染み出しているような感覚があるな。」
「奇妙な匂い。」
セキエイはぽつりと繰り返した。
彼の頭には、臭気を発するようないくつかの物質や鉱物が思い浮かびだされた。そのいずれかが、化石を青く変成させて、彼を不死身たらしめている? セキエイの頭にはひとつの可能性が思い浮かんだが、彼は首を振った。それはあまりに非現実的な可能性でしかなかったからだ。
とはいえ、ジプサムのいう匂いというのも、看過できなかった。それが石喰いにとって有害な物質であったりしたならば、彼の作業に支障が出るかもしれないからだ。それでセキエイは翌日、ジプサムのもとを離れて洞窟の中を探索してみることにした。
洞窟の中は入って来た時とと同様に、奥に行くほど狭く深く、そして湿っぽく暖かくなっていった。地下水に温水でもあるのだろうか、とセキエイは考えた。
次第に辺りが暑いほどの温度になり、空間が彼がようやく通れるほどの狭さになってきたころ、セキエイはそれまでに見たことのないような鉱石が、洞窟の壁にほんの少し表出しているのを見つけた。
それは深く濃い、それでいて鮮やかな青色をしていて、まるで星のような金の裂け目模様が入っていた。ラピスラズリの暗い色のものにもよく似ていたが、その石の金色の裂け目は灯りを当てると、まるで金属のように光を反射した。
周りの岩を軽く掘ってみるとそれはかなり脆く、青い石を残してぼろぼろと土の様に崩れ落ちた。途端、ふわりと甘い香りが辺りに漂った。
セキエイはひとつの鉱石を思い当たった。それはジプサムに辺りの匂いの話を聞いたときに、非現実だと頭から振り払った、存在しないはずの鉱石だった。しかし目の前にあるものは確かにその石のデータと一致した。
それはおそらく、石喰いの地質学者セシルの記述にのみ登場する幻の鉱石「セシライト」であった。石喰いが口にすれば不老不死となる――そんな文句で知られ、幾人もの石喰いがそれを探すために奔走したという石。本当に存在するものなのか、セキエイはそれを前にしてもなお、信じられなかった。
セキエイはポケットから方解石の欠片を取り出し、青い石の端っこを擦ってみた。石はがりりと削れ、また先ほどと同じ甘ったるい香りを放つ。簡単に傷がつくほど柔らかく、甘い香を放つ――セシルの日記に書かれたセシライトと、同じであった。
セキエイは考えた。ジプサムは昨日、辺りに匂いが染み出していると言っていた。もしその匂いがこのセシライトのものと同一であれば、この一帯に染み出す特殊な匂いのもとが他の鉱石を変化させ、セシライトを生み出すのではないか。
それは仮説でしかなかったが、詳しく調べるにはこのセシライトと、辺りの岩石をいくらか持って帰る必要がある。セキエイはそう考えて、セシライトの端にたがねを当て、鎚を振り下ろした。何度かそれを繰り返すと、セシライトはぼろりと崩れるように落ち、拳ほどの大きさの塊を簡単に取り出すことができた。
セシライトを手に持つと、さっきよりもずっと強い香りが、セキエイの鼻をくすぐった。おそらく空気中と反応して香るのであろうその匂いは、先ほどと段違いに、彼の胸を満たした。セキエイはとっさに吸ってはいけない、と考えたが、どうやら判断するのが遅かった。
セキエイは慌て鼻や口を塞いだが、セシライトの濃い香りを嗅ぐうちに、これまでにない食欲に駆られた。元来甘いものが好きだった彼には、それはあまりに魅力的な香りで、どんなにすばらしい味なのだろう、と考えた。稀少なセシライトを持ち帰らなければ、という思いと、食べたくて堪らない欲の狭間で、セキエイはしばらくの間動けずにいた。セシライトは片手の中で、その星のような模様をきらきらと美味しそうに輝かせている。
「味を知るのも、研究の一環じゃないか。」
頭の奥で、誰かがそう言った。彼はその言葉に、我慢する理由を失った。がり、と彼はセシライトの塊にかぶりついた。
途端、すぐに欠けたセシライトを口から吐き出した。飲み込むことができなかた。
吐きそうなほど気分が悪い。いや、できることなら腹の中のものをすべて吐き出したいほどだった。口の中がしびれ、左目が焼けるように痛む。あまりに苦しかったが喉がしびれ、ぐう、とかああ、しか言うことができなかった。彼は我慢できず、その場にうずくまった。
ずいぶんと長い時が経っていた。彼ははっと目を覚ました。どうやら気を失っていたようだった。まだひどく気分が悪く、目も喉も痛んだが、セキエイはやっとのことで辺りに散らばったセシライトの欠片を拾い、ジプサムの元へ帰った。
彼はジプサムのもとで数日間眠り続けた。果たしてあれから何日が経ったのかは分からなかったが、セキエイはようやく起き上がれるようになった。ようやく痛まなくなった彼の左目は深い青に変色し、セシライトにあったのとよく似た、金の裂け目模様が入っていた。
セキエイはふらつく足で荷物をまとめ、一度家へ帰る、とジプサムの洞窟を出て行った。
セシルの日記
セキエイは帰宅してすぐ、オリビンの出迎えも休憩もそこそこに、家じゅうの本を漁り始めた。オリビンに心配されるのも嫌だったので、色の変わった目を見せないよう、彼とはできるだけ目を合わせないようにした。それよりも、セシライトについての、より詳細で確かな資料が必要だった。
セシライトのことを思い出す度、その素晴らしい香りと味の不快さ、それから食べた時のことを反芻して、セキエイの気分は最悪だった。これが死に至るような状況なのか、ひとまずそれだけを知りたかった。
かといって、これまでに読んだことのある資料には、セシルの日記を除いてはセシライトに関する詳細な記述があるものは全くなかった。そこでセキエイははっとした。彼の家には唯一、オリビンもベリルも立ち入らせていない部屋があった。そこはかつてマーカスが書斎として使っていた部屋であった。家の角に無理やり作ったような小さくいびつな部屋には、研究資料や文献などがほんの少しだけ残されていたのである。
彼はそれを思い出して、数年ぶりにその部屋へ立ち入った。マーカスの書斎へは、セキエイも普段は滅多に入らなかった。なんとなく、勝手に触れないほうがいいような気がしていたのだ。これまでに何度かその部屋の資料を漁ったことがあるが、めぼしいものは何も見つかっていなかった。
マーカスの書斎は、だれも立ち入らない分ずいぶんと綺麗で、床に積み重ねられた本が空間を圧迫しているほかは、床にうっすらと埃が被っている程度だった。セキエイは部屋の一番奥の机から、資料をあらため始めた。机の上の本も、据え付けられた棚の本も、床に積み上げられた本も、すべて目を通したが、どれもこれまで一度は目を通したようなものであった。
セキエイが、はあ、とため息を吐いて机に腰掛けた、その時であった。彼の指先が、机の天板の側面に、小さな段差を発見した。しゃがみ込んで見てみると、それは細長いスイッチのようにも見えた。おそるおそる、その段差を押し込んでみる。すると、かちりと小さな音を立て、机の天板の下半分がまるで引き出しの様に開いたのである。セキエイはそのからくりにぽかんとしつつも、その中に丁寧に収められた紙束を確かめにかかった。
糸で綴られたその紙束の表紙には、日記、と書かれていた。どうやらマーカスの日記のようであると、セキエイの胸はどくんと高鳴った。これを読めば、自分の出自が分かるかもしれない。
震える手で手に取った日記をそっと両手で裏返すと、思いもよらない単語が目に飛び込んできた。
それはセシルのサインだった。
かの有名な石喰いの地質学者、セシル? セキエイの頭には疑問符が浮かんだ。同じセシルの日記ではあれ、セキエイが昔から持っているセシルの日記の複製とは、どう見ても別物だった。それも、同じ装丁の冊子は何冊も引き出しいっぱいに詰められていた。七、八冊はあるだろうか。
セキエイはいちばん日付の古い日記を机の上に置き、震える指でどうにかページをめくっていった。何故か、嫌な予感がしてしかたなかった。
それは確かに地質学者セシルの日記だった。複製されている有名なほうの日記よりもずっと個人的な内容で、地質学に関係のない日々の出来事も綴られている。しかし、セキエイの手元にある日記の複製と一致する内容も多く、同じ人物の日記であるということは確かそうだった。
一ページずつ読み込んではめくるたび、セシライトの記述された日付に近づいていることに気付き、セキエイは息をのんだ。
日記の複製ではセシライトが記録されている日付のページ。そこには、セキエイが目を見張るようなことが書かれていた。
◆
セシライトは、石喰いが摂取すれば不老不死の力を得られる。
しかし厳しい産出条件はそうそう見つけられるものではなく、誰かに場所を荒らされても困るため、名前だけを公表することにした。存在するかも不確定な、幻の石、として。
セシライトは香りこそ美味しそうだったが、酷い味をしている。きっと石喰いにとって元から不味く、身体にも負担の大きい石なのであろう。どの世界でも決まっている、不老不死を手に入れるにはそれなりのものに、覚悟をもって手を出さなければいけないとね。
実際私は、セシライトを口にしてからずいぶんと長いこと苦しんだ。不老不死なんて言葉につられて同じ目にあうような石喰いがいてはたまらない。
さて、私はセシライトを食べて不老不死になってしまったのだが、これからどうしようか。
少なくとも不審に思われないよう、名前と場所を変えて暮らしていかなければなるまい。今の学会からも分野からも、遠ざからなければならないだろう。私の名はずいぶんと広まってしまった。しかし、これまで積み上げてきた研究結果を無為にするのは勿体無い。
そうだ。自分一人で新しい石喰いを生み出すのはどうだろう。これまで積み重ねてきたものは、その子に引き継いでもらえばいい。
石喰いは人間の様には増えないが、新しい個体をつくるには一人ではできない。最近は人間のほうでも我々の生殖とよく似た方法――確か錬金術とかいったか――で個体を生み出そうとしている様だが、やはり複数の親が居なくては個体の生成は安定しない。
けれども、セシライトを生命維持の触媒代わりに使えばどうだろうか。
早速明日から実験してみよう。
――
安定するまでにずいぶんと長いことかかったが、生殖は成功した。
まだ小さなかれが、私の自慢の子だ。最も硬いセシライトで作ったピアスを外れないよう身に着けさせたから、石喰いの生体としては遜色のない生命力のはずだ。
かれには石喰いの命名に則って、セキエイという名をつけることにする。どこにでもあるが、そんなものは気にならないくらいの、美しい石だ。私はマーカスという名の人間として、彼を育てよう。
きっとセキエイがこの日記を見つける頃には、セキエイ自身のやりたいことも見つかっているかもしれない。もしそうしたら、これからは自分のやりたいことを、やりたいようにしなさいと、そう伝えたい。
◆
そのページには、手書きの小さなメモが挟まれていた。
『セキエイへ。私はあまりに利己主義だから、許さないでも構わない。マーカス』
セキエイはひととおり読んで、ただ呆然とした。彼は誰もいない部屋にぽつりとつぶやいた。
「利己主義だってさ……ほんとうだよ。」
セキエイはそれから数日、マーカスの書斎に篭って日記を読み続けた。なんとなくオリビンと顔を合わせる気にもならなかったので、夜も書斎で眠ることにした。
二冊目からの日記には、過去の自分とマーカスの暮らしのことが、それは丁寧に綴られていた。ちいさなセキエイの行動は他人事のようだったが、自分にも過去があったのだと、どこかで安心することができた。
数日後、セキエイは再びジプサムのもとへ出掛けた。
家を出る際に、どのくらいですか、といつも通りに訊ねるオリビンに、セキエイは少し悩んでから答えた。
「しばらく留守にする。いつ帰るかは分からない。」
オリビンはその言葉に、いつもと変わらない様子で微笑んで頷いた。
「ええ、わかりました。いってらっしゃい。」
山頂の雪がとけだした、冬の終りの頃だった。
オリビンの手記三 橄欖石の回顧
ぱっと、目が覚めました。周りを見回し、ここがご主人の家で、ご主人がどこにも居ないのを確かめてから、ひとつ長く深い息を吐きました。窓の外はぼんやりと白み始めた時分で、冬の空気が背中を濡らした冷や汗をひいやりと撫で、私はひとつ身震いをしました。
ひどい夢でした。
それは昔の景色でした。もう思い出さぬようにと、幾重にも心のなかに鍵をかけて仕舞ったはずの、つらく苦い記憶。それはまるで、かつての自分に無理矢理突き付けられたように、いくら考えないようにしようとも振りほどけない、向き合わずには居られない呪いのようでした。
冷や汗が仕方なかった私は、一先ずベッドから出て顔を洗おうと寝床を立ちました。鏡を覗き込むと、そこへ映る自分が、自分を見つめかえしてきます。
ひどく青ざめた肌のなかの、オリビン色の目。
鮮やかな緑色のそれは、ご主人からの祝福でありましたが、同時に過去の呪いでもありました。私は自分の視線の息苦しさに我慢できずに、慌て踵を返して、また布団の中へ潜り込みました。震える手で両耳を塞ぎ、ぎゅうと体を丸めました。どうか今度は良い夢を、そう祈るように考えながら、私はまた眠りに落ちました。
◆
私は山麓の町フフーレンの南に位置する都市ヘセツァでも、それなりに名の通ったアドラー家の養子でした。
私は物心ついて間もないときにこの家に引き取られましたが、両親らから愛されたり、可愛がられたりといった記憶がとんとありませんでした。しかし、十にもなる頃には分別がありましたから、彼らはどうやら、なかなか生まれない後継の代わりに仕方なく迎え入れた私を心から受け入れ難いのだ、といった話を下働きがしているのを陰で聞いたのを切っ掛けに、辛いながらも腑に落ちたのでありました。私は以来、家族をはじめ家の者に強く何かを期待するということをやめた様に思います。両親はそれを知ってか知らずか、その頃よりさらに私に冷たくあたるようになりました。
三年ほどののち、私には弟が生まれました。黒髪にオリーブ色の目の私とは似ても似つかない、その赤毛と真っ黒な瞳をした彼のことを、家の誰もが可愛がりました。私も当時の彼のことを可愛らしいとは思いましたが、指の一つさえも触らせてもらったことがありませんでしたから、彼は自分とは違う立場の存在なのだ、という強い意識が残ったのみであったのです。
その後も弟――いや、両親にとってはアドラー家の長男である彼とは、私は殆ど接することなく育ちました。弟が褒めてもらえるようなことでも自分は褒められない、弟であれば医者を呼ぶような病でも診てもらえない、そんなことにはもう慣れっこであったので、私はもう何も言いませんでした。
やがて私は中等学校に通いはじめ、弟も国立付属の学校へ通い始めました。私はこれ以上に惨めなことがあってはいけないと思い、勉強に打ち込むようになりました。学校で首席になることもありましたが、家族は皆そんなものは当たり前だとでもいうように何も言いませんでした。それでも私は満足でしたから、自分の中でひとり自分を褒めるのでした。
その頃、私にはひとつの悩みがありました。それがこの瞳の色のことでした。かつては茶色みがかったくすんだオリーブ色であった私の目は、年々鮮やかな緑色に近づいていたのです。私は毎晩鏡を覗きながら、その緑色の瞳を見てはため息を吐きました。
この国ではかつて、緑色の目は魔女のものといわれて忌み嫌われていました。そんな言説があったのはもう何十年も前のことではありましたし、この国に人外の者が増えるにつれて、そんなものは空ごとであるというのは、もうすっかり当たり前の時代ではありました。
けれども私は、この緑の目が厭でいやで堪りませんでした。これ以上、弟に劣るようなことがひとつもあってはならないと思った私は、前髪を伸ばして目をできるだけ隠すようになりました。
ある日の夕方、弟が幾人かの友人を連れ家へやって来ました。私は彼らの気配に気づいて直ぐに、できるだけ顔を合わせぬよう、そそくさと部屋へと向かいましたが、不運にも廊下で後姿を見られたようでした。
私はドア越しに彼らの会話に耳をそばだてました。
「あのひとは誰だい? お兄さん?」
「いや、召使いだろう。髪色が全然違ったもの。」
友人に訊ねられ、迷う間もなく弟は言いました。
「うん、そうだよ。」
ああ、彼は私のことを兄とは認めませんでした。彼は続けました。
「彼のペリドットの目をみたらお終いだよ。呪われるって噂だぞ。」
弟らはそう言ってきゃあきゃあと笑いながら、部屋のほうへと駆けてゆきました。遠くで、その様子を見ていたであろう両親の、くすくすと笑うような声も聞こえました。私は堪えきれず、ベッドに臥せってひとり泣きました。
弟よりも先に居た私が邪魔者だっただけでなく、彼らはこの緑色の瞳のことをも、きっと嫌っていたのだと思います。私は生まれ持ったこの瞳をのろい、弟のような真っ黒な瞳であればまだどれほどよかったかと思いました。
弟はやがて、私の背を越すほどの丈に成長しました。私を見下ろすようになった彼は、何かにつけ私によく手を上げるようになりました。両親や下働きの者たちはそれを知ってはいましたが、とりわけ何か言うでもなく、見て見ぬふりを続けました。
私はそれに対して涙こそは流すまいと、唇を噛んで堪えるのでした。けれどもそれにも限界がありました。弟の暇潰し代わりに虐められるようになった私は、集中して勉強する時間もろくにとれることがなくなり、その成績を落としてゆきました。身の回りには誰一人として、それを気に留める者などおりませんでしたが、私は唯一の誇りを失うことにひどく焦りました。そうしてついぞ再び首席になれないまま、私はむなしく年の瀬を迎えました。
それは例年にも増して冷え込む冬の夜でした。冬至の祭りが明日に近づき、この家だけでなく町全体がどこか浮かれ心地で、往来にはさまざまな明かりが灯され、人々の手には誰かへ向けたプレゼントが抱えられておりました。
私は暖炉のない自分の部屋から、コートとブーツを隠し持ち、裏口からこっそりと外へ出ました。どうせ家族から自分へのプレゼントなんて期待しておりませんでしたし、何かにつけ弟を苛つかせてしまって家から蹴り出されるより、自分からあらかじめ外に逃げてしまったほうがずっと楽だ、と思ったからです。
夜の外は、雪こそ降ってはおりませんでしたが、いつ降りだしてもおかしくないほどの冷え込みでした。歩き出すと、ひゅう、と冷たい風が首筋を撫でます。マフラーも持って来ておけばよかったかな、と思いましたが、あとからあの家に戻る気にはなれません。私は振り返ることなく、町のほうへ歩みを進めていきました。
いちばん大きな明かりが見えていた市場へ行くと、あたりには甘ったるい良い香りが漂っていました。ホットワインに焼き立てのパン、ケーキの屋台もありました。私は服のポケットをあさりました。コートのポケットには三枚、ズボンには五枚のコインがありました。ホットワインを買うには余裕がありましたが、私はもっと体が冷えて我慢できなくなったら、その時にまた買いに来よう、と思い市場を後にしました。
私は道行く人々を眺めながら、ぼんやりと考えました。
――このままどこかへ消えるように死ねたらどうだろう。
突然のその思い付きは、その時の私にはとても素敵なものに思えました。きっとそれは両親にとっても弟にとっても、そして私にとっても、幸せなことのはずでした。
私はそう考えるなりぱっと早足に歩きはじめました。持ち物のひとつも、行く宛先も、なにひとつありませんでしたが、それと同じように、失うものもありませんでした。
私は山のほうへ行こう、と思いました。きっと山や森の中であれば、誰にも迷惑をかけないと思ったからです。通り過ぎる町の明かりはきらめいて見え、曇り空に伸びる山の影はとても立派に見えました。私は山のある北東を目指して、冬空の下歩き出しました。
果たしてその頃の私に今会ったなら、私はその思い付きを止めたでしょうか。その是非は分かりませんが、少なくとも歩き始めた数刻後の私は、思い付きを行動に移した自分自身のことを、強くうらんでおりました。
普段都会で暮らしているような者が、町をひとつ超え、さらにそのうえで山に登り始めるということがどういうことなのか、私は全く想像もついておりませんでした。それもこの季節の夜です。いちばん厚いコートを着ているのに、その寒さは身体の末端を容赦なく凍らせました。
森にしてはひらけた山の中、私は足が棒のようになって、いよいよ眩暈がしてきました。――それからのことは、しばらく覚えておりません。
気が付くと私は、暖かな部屋の中、横になっておりました。ぼうっとした頭の中部屋を見回すと、そこは古い石造りの建物で、家具や小物は使い古されたものばかりでした。部屋の中は広くなく、私のほかは誰もいないようでした。
身体を起こそうとすると、全身が痛みました。特に指先と脚はぎしぎしとした痛みで、動かすに堪えませんでした。仕方なく目をつむって安静にしていると、落ち着いた声が聞こえました。
「起きてる?」
その声は男性とも女性ともつかない、どこか幼い声でした。目を開けて声のしたほうを見ると、そこへいたのは人間によく似た人外でした。淡い青紫色の髪に、大きな獣の耳のようなシルエットが見えます。私はそのよく似た姿を、町の中で何度か見たことがありました。確か近年北の山から降りてきた、石を喰らう人外、石喰いです。
あの、と言いかけて、私は声がうまく出ないのに気が付きました。風邪のときのように喉が痛くて声が出せません。そんな私を気にしているのかしていないのかよく分からない風に、石喰いの彼はこちらに背を向けて言いました。
「凍傷になりかけてたとこを手当てした。無理は駄目。」
凍傷、手当て。私はどうやら昨夜――あの晩からどれほどの時間が経っていたのか、よく分かりませんでしたが――やろうとした事を失敗したことを察しました。ほんの少し痺れの残る指先をぼんやりと眺めていると、彼は振り向いて、マグカップを手に言いました。
「紅茶、いる? ぬるいけど。」
私はほんの少し迷って、それからうなずきました。どうにか上体を起こして、彼の手からカップを受け取ろうとします。しかし私の震える指先は、上手くカップを掴むことができませんでした。ばしゃり、と布団に落ちたカップと紅茶を前に、私はばっと頭を下げました。ごめんなさい、そう口に出そうとしたけれど、うまく音が出ませんでした。ああ、折角助けてやった人間に紅茶を無駄にされるなんて――そんな誰かの声が頭の中に響きました。震える私を前に、彼は気にしない様子でまた淡々と言いました。
「別にいいよ。もう一杯ある。」
その声に、苛つきや𠮟責の意図がないことに、私は吃驚しました。
彼は無言で、驚いてぽかんとした私の口にもう一杯のカップを差し出しました。
「ん。」
私は数秒の間固まったのち、その意図をようやく分かって、彼の差し出したカップから紅茶をすすりました。それはほんのりとあたたかく、はじめて心から美味しいといえるようなものでした。私は零れだす涙を止めることができず、けれどもそのまま彼の手から紅茶を飲み干しました。彼は私の様子を見て、興味深そうにこう言いました。
「君の瞳はオリビン色で綺麗だね。深くで結晶化する橄欖石と同じ色だ。」
――ああ、そうです。それから私は、彼のために生きることを決めたのでした。
◆
久し振りに山から帰ったご主人は、私と目を合わせることなく、長いこと部屋に篭っておりました。
数日の後、やがてまた外出の準備を始めていましたが、その荷物を見るに、また随分と長旅のようです。今度はどのくらいになるか、と訊ねると、ご主人は少しの間押し黙って、それから言いました。
「しばらく留守にする。いつ帰るかは分からない。」
そんなことを言われたのは初めてのことでした。私は動揺しつつも、なるだけそれを隠すように笑って言いました。
「ええ、わかりました。いってらっしゃい。」
山頂の雪がとけだした、冬の終りの頃でした。
博物館
いつ帰るかは分からない――オリビンの問いにそう答えたセキエイだったが、事実、セキエイ本人にもいつ戻るかの見当はついていなかった。マーカスとセシル、そして自分の秘密を知った今、あの家でこれまで通りに暮らせるかどうか、セキエイにはあまり自信がなかった。
セシライトの詳細はある程度分かったが、飲み込むことができなかった自分が不老不死になっていたのかも分からなかった。ただ片目は視力が随分落ちたままなかなか戻らず、自分が妙な状態になっていたことは確かだった。
彼は体調が安定してきたのを見計らって、ジプサムのもとへ帰ることにした。あの洞窟についても調査したいことが山積みになってしまっていたし、数少ない友達を心配させたままだった。セキエイは数日かけてジプサムの洞窟へ帰った。
セキエイの足音に気が付くなり、ジプサムは言った。
「帰ってきてくれて、嬉しいよ。君を信じていてよかった。」
セキエイは、ジプサムは一度掘り出されたのちに長い間放置されていた、と言っていたのを思い出した。彼がつい、ごめん、と謝ると、ジプサムは言った。
「気にしてないよ。それに言っただろう、君は私と似た匂いがする、と。」
そんなこと言っていたか、とセキエイは記憶を遡り、それからはっとした。きっとジプサムの言う匂いとは、このずっと身に着けていたセシライトのピアスのことだったのか、と気が付いた。それからセキエイは言った。
「君を置いていくなんてしないよ。僕の友達だもの。」
ジプサムは嬉しそうに笑った。友達。その言葉を口に出すのは、正直なところ気恥ずかしさがあった。ベリルにもオリビンにも、直接言ったことはなかったからだ。
そう考えてから、セキエイはひとり首を傾げた。オリビンが友達、というのに、どこかしっくりこない感じがしたからだった。もっとずっと気やすくて、そこへ居るのが当たり前なような――。
「あれが、家族、ってやつなのかな。」
口の中でぽつりとつぶやいた。長いこと家族のいたことのないセキエイには、それすらもよく分からなかった。
それからもジプサムを掘り出しつつ調査をする日々が続いて、季節が明けた。洞窟の外の森には暖かな風が吹き、さまざまな花が咲き始めていた。
そんなある日、セキエイはジプサムの洞窟を遠く離れた場所に居た。食料とするための鉱石を採りに、元の家の方角のほうにある鉱山までやって来ていたのである。
岩場ばかりで険しい山であったが、そこでセキエイはある人物と出会った。セキエイは人影を見るなり、ついぱっと身を隠し、遠くからその人物を観察した。
こんな場所に居るということは採掘家かとはじめ思われたそのひとは、採掘家なんて職業ではないことが、その見た目から一目瞭然だった。こんな山に見合わない格好で山に居る人を、セキエイは初めて見た。フフーレンの町でもそうそう見ない、スリーピースのかっちりとしたスーツ。細身の革靴にステッキにシルクハット。そして何より、そのシルクハットが乗った頭は――見えなかった。
見えない? セキエイは自分の目を疑って、目を擦ってみた。視力の良い右目だけで見ても、その人物には確かに、首から上がなかった。
まるで町中を散歩するように辺りを見回しながら岩山を歩く、紳士然としたその透明人間に、一か八かセキエイは声を掛けてみることにした。生きた化石を見た後だ。恐怖と好奇心を天秤にかけても、後者のほうがずっと上だった。
セキエイが岩陰から身を乗り出すと、その男はこちらを向いて――顔がないから分からなかったが、確かにこちらを振り向くような素振りをして――セキエイと見えない目を合わせてきた。
突然に気付かれ、戸惑ったセキエイは、どうにか口から音を絞り出した。
「あの。」
すると男はこちらにかつかつと近づいてきた。足元の不安定さなど気にならないような身のこなしであったし、杖は一切地面につけなかった。その男は言った。
「君が、アルバギアの石喰いのセキエイ君だね。」
「え、あ、はい。」
いきなり名前を呼ばれると思っていなかったセキエイは、思わずそう答え、身を固くした。声を掛けようと思ったのは間違いだったかも知れない、と思った。
透明人間は続けた。その声は思いのほか若く、はつらつとした声だった。
「そんなに緊張しないでくれて構わないよ。僕はノア。ノア・レーヴェンヒェルムだ。頭がないから吃驚させてしまったね。それについては謝ろう。」
ノアと名乗る彼は頭を下げ、それからはきはきと続けた。
「手短に説明させてもらおうか、ここは随分と足場が悪いからね。僕は君に会いに来た。というのも、君をスカウトするためにだ。僕が来たのはここから少しずれた世界で……早い話が、君のことはいくらか把握させてもらっているよ。あの名高い石喰い、セシルとの関係もね。」
セシル、その名が出てきてセキエイは目を丸くした。ノアはちっちっち、という風に、白手袋の人差し指を立てて振って見せた。
「大丈夫、言いふらしたりなんかしないから安心して欲しいな。僕が話したいのはもっと別のこと、そう、君のスカウト先である、とある博物館についてさ。」
セキエイは先ほど思い浮かんだ、声を掛けようとしたのは間違いだった、という考えを改めた。セシルとの関係を知られている、という点で彼がただ者ではないということは分かったし、何より、彼の話す博物館というものは、セキエイの耳にはとても魅力的なものだった。
ここだけではなく、別世界の研究にも、時間を気にせず没頭できる。人手も機材も十分にある――魔法、というものがどのようなものかだけ、セキエイには全く想像もつかなかったが。彼の語る博物館というものは、セキエイにとって魅力的な「未知」であり、理想形のひとつでもあった。
ノアは言った。
「君にはその地質学分野のチーフ、いうなればリーダーを担当してほしい。勿論業務にあたってのサポートは十全に行おう。」
セキエイは首を縦に振る前に、言った。
「行きたい、けど、条件をふたつ、お願いしたい。」
一つ目が、元の家にある資料を好きなだけ持っていくこと。二つ目が、まだ洞窟の中で岩に埋まっているジプサムをどうにか連れて行くこと、であった。ノアは迷うことなく頷いた。
「それでは、ジプサム君は来館後にこちらで手配しよう。準備が出来たら、こちらのチケットを持って僕を呼んでくれたまえ。」
ノアは懐から、黒字に金箔の文字が書かれた一片の紙を取り出し、セキエイに手渡した。あまりに拍子抜けするように快諾されたので、セキエイは目を丸くした。
「わ、わかった。」
セキエイがそう答えるなり、ノアは一瞬のうちに姿を消した。あの場違いな姿はもうどこにも見当たらなかった。
セキエイは荷物を取りに、長らくぶりに家に帰った。遠くから見つけた家は主人をなくし、以前よりどこかぽつねんと寂しそうに見えた。
戸を開けて、ただいま、と言ったが、家は奇妙なほどにしんと静まり返っていた。
テーブルには、ただ毎日オリビンが淹れていた紅茶が、冷めてテーブルの上に置いてあった。
エピローグ
セキエイが博物館に訪れて数カ月ほどの日数が経った。とはいえ、館内の時間経過は元の世界の体感と随分と違っていたので、はじめの数日はそれに慣れるのにずいぶんと苦労した。
セキエイはジプサムの居た洞窟と博物館とを往復しながら、彼を資料のひとつとして回収する指揮をとった。幾人ものひとに指示を行うことなど、セキエイはこれまで一度もやったことがなかったが、その辺りのことは館のスタッフ、即ち学芸員らがうまくやってくれた。そのお陰もあって、かなり短い時間でジプサムの全体を含んだ塊を館に持ってくることができたのであった。
セキエイはその全貌を見て驚いた。ジプサムの正体はセキエイの予測通り、巨大な古生物の骨格化石であったが、その全長はセキエイの予想をはるか超えていたからだった。ざっくりと床に並べてみたところ、その頭から尾の先までの長さは三十メートルほどもありそうであった。
ある学芸員は、彼のことをディプロドクスという恐竜ではないか、と言っていた。ジプサム自身は、当時は種族で呼ばれることなどなかったから分からないが、随分と格好いい名前だ、と喜んでいた。
まだ細かな部分の発掘やクリーニング、それから改めて計測などの資料集めや組み立てなど、たくさんのことが残っていたが、ひとまず改めてセキエイはジプサムに言った。
「ジプサム、これから此処で、よろしく頼むよ。」
「ああ。光を見せてくれてありがとう。」
ジプサムの声はこれまでになく嬉しそうだった。
◆
ジプサムの発掘が終わってしばらくの後、セキエイは仕事もそこそこに、再びかつての我が家付近に足を運んでいた。
久々に友人に顔を見せようと、ベリルとフフーレンで待ち合せられるよう、博物館のスタッフに頼んで手紙を出しておいたのだった。
それは人外向けのバーのような店で、確かベリルの気に入りだった。セキエイはフフーレンの町自体、ほとんど初めて来るようなものであったから、ずいぶんと迷ってようやくたどり着いた。古めかしいドアを開けると、からんというベルの音の向こうに、見慣れた緑色の髪が振り向いた。
「久しぶり。」
セキエイが片手を上げると、ベリルは目を丸くして、椅子から勢いよく立ち上がった。
「セキエイ! 本当に来るとは思ってなかったよ。」
セキエイは苦く笑った。それから何気ないように、最後に会ってからどのくらい経ったっけ、と訊ねた。ベリルは指を折って数えながら言った。
「三年と半年ってところか。それにしてもお前は変わらないな。背も前会った時から全然伸びてない気がするし、ちゃんと食ってるか?」
セキエイは後半のところには全く耳を傾けず、考えを巡らせた。博物館に行ってから一年も経っていないのに三年近く、ということは、博物館側の時間とこちらの時間にはずれがあるのかも知れない。これについては館長や副館長に訊ねてみたほうがよさそうだな、と思った。
それからしばらくの間、ベリルはセキエイを隣に座らせ、最近のことをよくしゃべっていた。それは学会のことであったり、セキエイがよく世話になった水晶屋のことであったりした。セキエイはふと、頭の隅にずっとあったにも関わらず、ベリルが触れないことについて訊ねた。
「そうだ、オリビン、どこ行ったんだい。」
ベリルは途端にはっとした顔をして、それからセキエイに目を合わせることなく
「来なよ。」
と言って、静かに店を出た。
彼はフフーレンの町を迷うことなく、すたすたと早足で歩いて行った。セキエイはベリルのスピードに追い付くのがやっとだった。
やがて辿り着いたのはやたらと開けた土地だった。墓地。セキエイはその存在を知ってはいたが、目にするのは初めてだった。同じような形に揃えられた岩石が整然と並んでいて、ひどく静まり返っていた。
ベリルが立ち止まった視線の先には、ちいさな墓石に、石ころほどの橄欖岩が埋め込まれていた。岩石にはオリビン、と石喰いの一般的なサインと同じ表記で書かれていた。ベリルは言った。
「彼は最後まで気丈な奴だったよ。」
セキエイは何といえばいいか分からずに、しばらくの間考えて、それから言った。
「彼は僕を、うらんでいるかな。」
ベリルは何も言わず、小さく首を傾けるだけだった。
セキエイは岩に語り掛けるように、静かにこう言った。
「きみは僕の、ただひとりの家族だったよ。」
からんとした風が吹き渡る夏の空には、まるで橄欖石のように鮮やかな木の葉が、大きく手を広げていた。
北北東のちいさな村