メトロポリタン美術館展

 ヨハネス・フェルメールの『信仰の寓意』は点数が決して多くないフェルメール氏の作品の中では人気が低いと言われる。しかし、以前記したことがある岡崎乾二郎さんの『ルネサンス 経験の条件』では鋭い洞察の対象に取り上げられており、この一枚を実際に見てみたい気持ちは国立新美術館で開催中のメトロポリタン美術館展を訪れる強い動機になっていた。
 真横から眺める構図に配置される家具と人、その関係性が仄めかす謎と物語がフェルメール氏の絵画の魅力であると筆者は認識しているところ、『信仰の寓意』はモチーフと対面する構図の中で至る所に信仰の対象となるものが溢れている。すなわち絵として又は像として表されるキリストの磔刑図、聖なるものの性質を託された杯、人の祖を唆した存在として瓦礫に潰された一匹の蛇とその舌に唆された人間の痕跡となる林檎など教義に関わる象徴がそれであり、また白黒のタイルが抜き出しになった床から一段高い所にあって、森を思わせる模様が窺える敷布が被さった場所で地球儀を踏み付け、恍惚とした表情で胸に手を当てて部屋の「天」井に吊るされたガラス玉を見上げる女性の表情は、生活の場に信仰が満ちている様を物理的に表す。
 フェルメール氏本人を含めて、氏が一生を過ごしたオランダではプロテスタントが国教とされていた事実と中野京子さん著の『絶筆で人間を読む』に書かれていたフェルメール氏がカトリックを信仰する奥方を配偶者として迎えた事実から氏の改宗を推測し、公的に許された私生活の場のみにおけるカトリックの信仰の実体を元に宗教的寓意を抽出した一枚なのかと素人な筆者は想像する。また教義と信仰の象徴として『信仰の寓意』の中に配置されるもの全てに認められる劇的な印象は、確かに光の画家と称されるフェルメール氏の一枚としてはどうにも物足りないと感じられ、絵画表現に向けられた後世の評価にある不満も理解できる。
 しかしながら捲られなければ誰にも見られることが無かったであろう厚手のカーテンの向こうで行われる密かな信仰の表れ、その最奥に飾られるヤーコブ・ヨルダーンスの『十字架上のキリスト』(と言われる)に現れるその人がこちらに向ける意思に鑑賞する視線を合わせると、絵の中の絵として最も遠いはずのその世界における生々しさにハッとさせられる。先に記した著作で岡崎乾二郎さんが指摘していた(と記憶する)とおり、『信仰の寓意』で力を込めて描かれたと感じるのは磔刑に処されたキリストの運命を表し、そしてイエス・キリストの教えを決定づけるその一枚であり、その手前に描かれた厚手のカーテンの向こう側、前記した信仰の象徴が集められたそこが二次的な世界として置かれ、そして最も手前にありながら、最も簡素で何の力も溢れて来ない、カーテンが閉じられて遮断される(はずの)こちら側の三つの世界が示される。こうしてかかる一枚は段階的に構成されているという感覚が生まれる。寄れ具合も巧みに表現されたカーテンの一部が質感と共に伝えてくる中世の世界を想像すれば、カーテンが閉じ切られた時にこちらに見せる(であろう)その広い一面で繰り広げる刺繍の表現も含めて四つかもしれない、と再び無邪気な鑑賞者である筆者は想像するのだが、いずれにしろフェルメール氏の手による『信仰の寓意』はメトロポリタン美術館展を通じて絵画史に名を残す素晴らしい画家と名画によって存分に知れる、絵画独自の世界の成り立ちと広がりがあってこそなのだなと深く納得させられた。

 半可通な筆者の認識を披露すれば、遠近法はキャンバスに描かれるものに奥行きを与え、額縁に収まる絵として描かれながらも(あるいは絵として描かれたものによって)、額縁に収まり切らない向こう側の世界の存在を感じさせることが可能になった。
 ここにルネサンスの活力が加わって人物像が現実(リアル)を目指し、またドラマチックも受け入れられるぐらいに宗教的モチーフがより身近なものとして描かれるに至った。例えばグニャっとした人物の描かれ方にその固有名が浮き彫りになるようなエル・グレコの『羊飼いの礼拝』が描く奇妙と怪しさを兼ね備える人たちの中心から広がる奇跡の輝きによって、外縁へと押しやられる暗闇の対比には宗教画とは思えない感動を覚えてしまう。
 絵筆に専心し、表現の可能性を邁進する画家が描き方に見出した自由がその欲と可能になる技術をどんどんと伸ばし、描こうとする対象の選択への幅広い関心を抱いたことも絵画の歩みに力を与えたと筆者は思う。個人的にメトロポリタン美術館展のハイライトと位置付けるジョルジュ=ド・ラ・トゥールの『女占い師』は金持ちの若い男性をジプシーである老婆が占い、代価の受け取りを行う中で周囲に立つ若い女性たちが男性が身に付けている装飾品を盗み取る場面を描く。被害者として主役に抜擢された男性が袖を通したピンクのシャツとリボン結びされた赤い帯、そしてオレンジのズボンがモチーフの軽薄さを洒脱に呼び込み、こんがり焼けた肌に深い皺を刻んだ老婆の素朴な目が訴える、占い料として男性から受け取った一枚の金貨の物足りなさや男性の周囲に立つ女性たちが掠め取ろうとする装飾品の細かな作り、衣装の作り、そして一人だけ頭にターバンを巻かずに綺麗な黒髪を垂れ落とすジプシーの女性とその手付き(盗品物を受け取ろうとする彼女の表れ)に認められる強かさ(したたかさ)が鑑賞する者の足を止め、ひと目見て分かる画家の技術力の高さに夢中になる。
 絵画表現が行われる時代はそうして進み、社会は動く。だからこそより願われる「思うものを思うままに」、「見たものを見たままに」。そのために必要となる高い技術と羽ばたく心と感情の動きは、先行する流れに対する反動として思考や表現を大きく動かす。個人的にバロックの表現が性に合うためか、思い起こせば恐らく本展で初めてがっつりと目にしたロココな絵画表現に筆者は驚嘆してしまい、親に連れられて行ったことがある朝の礼拝の後で口にした、とても甘かったあのケーキが終始頭に浮かび、苦手意識が筆者の心中でその芽を出して成長しそうな所で出会した、マリー・ドニーズ・ヴィレールの『マリー・ジョセフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ』。
 暗い室内に入ってくる外光は背景にある窓からだけで、その光を一身に浴びて筆を持ち、紙を支えて揺るがない視線をこちらに向ける女性はその一枚を描いた画家本人ではないことが題名から分かる。性別によって行えることと行ってはならないことが目に見えない線で引かれていた時代にあって、観る側をとことんまで描いてみせる意思に満ちたその姿。窓の向こうに小さく描かれた男女の仲睦まじい時間と対比された、その発光。額縁の上部を飾る様式美を駆使した意匠も画面の中の彼女と一緒に語ってみれば真っ二つに割れそうにない無形の美に辿り着きそうで、筆者の苦手意識も霞む。そういう力強さを目にする。
 ミーハー心を発揮して、三菱一号美術館で開催されたコンスタブル展を見て暫くは雲の動きを追ってみる真似事をした筆者は、コンスタブル氏のライバルとされていたターナー氏が描く風景画にも心を動かされる浮気者であることを自覚するので、本展で『ヴェネツィア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む』を観れて嬉しかったし、またギュスターヴ・クールべの『漁船』に描かれていた動的なものの全て、すなわち押し寄せて引いたのか、はたまた引いたところを今から押し寄せてくるのか、判断しかねる動的な状態に止められ、塗り潰したかのようでいて各箇所で丹精に描かれた集中を窺わせる砂浜と陸に上がって傾く漁船の静止した描写によって表される波打ち際の不自然さが興味深かった。
 どこまでも写実に描こうと尽くした努力の結果として風景画に宿されると筆者が思う、人が見る景色と感情の混合がこうして書いている今も日々私たちが感じる世界と心情にピタリと一致する。その見事な符合が風景画の説得力になっていると、本展で改めて知った(先に記したコンスタブル展がコロナ禍で中止になった経緯を振り返れば、現状においてメトロポリタン美術館収蔵の作品を拝見できる機会は本当に有り難い。だからここで、関係者の皆様に感謝の気持ちを記したい)。
 光の変化すら正確に描きたい動機から始まったその技法は、したがって写実主義の範疇に位置付けられると理解している印象派は、けれどそのカテゴリーに括られる画家たちの表現が百八十度異なる場合もあって美術史を編むのに必要な分類に収まり切らない画家の個性を予感する。ベラスケスに影響を受けたエドゥアール・マネが描いた『剣を持つ少年』をじっと拝見できる幸せから、色彩豊かで柔らかいオーギュスト・ルノアールの『ヒナギクを持つ少女』に嗚呼、と歌いそうになる揺れ動きを体験した後で対面する、大好きな理由が明確になったセザンヌ。
 ポスト印象派に位置付けられるポール・セザンヌが描く自然風景の中に建ち並ぶ家々の屋根が、画面に嵌め込まれるように敷き詰められた『ガルダンヌ』を観ていて感じる力点の妙は長い時間を掛けて見続けたい気持ち良さとして思考の凝りをほぐし、想像と視覚が刺激する記憶として刻まれる。その記憶を引き摺ったまま目を移した『林檎と洋ナシのある静物』の歪さは絶妙さを増し、内声を付与された色味と絡まって絵画の中の現実を押し広げる。キュビズムへと繋がるその流れは絵画表現のダイナミクスを語る。
 そして行き着く抽象表現の未来を、あのモネが大画面の『睡蓮』で指し示す。ダークな色調に抱く取っ付きにくい第一印象を遠巻きに眺めて見つけられる水面に溺れたりしないよう、注意深くなって暫くしてから何となく見つけられる絵の全体像は鑑賞する筆者の頭が勝手に作った一枚。不吉な印象を感じさせる命が浮かぶ物静かな水の冷たさに、何故か安堵する筆者の感想。歴史を担う画家から託された決定的な自由。
 クロード・モネという画家の手によるところがまだまだ大きく、表現する側と受け手側の双方の自由が暴れ回る抽象画というにはまだ不自由で、けれどここから始まる抽象表現の萌芽がそこに見出せる、確かな歩みは本展の終わりと絵画史の現在進行形を心に残す。

 選りすぐりの収蔵品が導く絵画の歴史は何度辿っても面白いと思うのは、ある事を契機に始まった大きな流れが結集し、集まった先で溢れて見えない壁を打ち壊し、新たな流れとなってまた始まる。この繰り返しが身体をもって存在する個人性と見えない集団性の交差により編まれていく営みとして興味深いからだと筆者は考える。言い換えれば、生命活動の維持においてしてもしなくてもいいはずの表現がここまで「人」に愛されてきたという事実。絵画表現の魅了された一人として忘れたくないかかる指摘を自己満足として行った上で興味がある方は、メトロポリタン美術館展へと是非、足を運んでみて欲しいことを記す。

メトロポリタン美術館展

メトロポリタン美術館展

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-16

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