髭の虫
奇妙なお話。縦書きでお読みください。
どうして髭が少ないのか。これは若い頃からのことであって、体質なのだろうからしょうがないといえばしょうがない。アラブの人たちをみると、黒々と立派な髭を生やしている。イスラムの世界では髭がないと男として認められないし、それどころか罰せられるという厳しいところもあるようだ。
それじゃ、もし自分が髭の生える体質だったら、はやしているだろうか。と考えたとき、はやしたいとは思わない。それは顔立ちが問題であって、明治時代の軍人は立派な髭を生やしている人がいるが、顔もどっしりとしていて、立派である。五百円札の夏目漱石だって、口ひげは何とも文人と言いたくなる立派さである。だが、自分の細い目とちいちゃめの顔を考えると、何とも髭は似合わないと思っている。
目の前に医者がいる。女医さんだ。
「自分で髭が少ないのだけどどうしてでしょう」と自分が訪ねている。
「男性ホルモンあるのかしら」
なんて答えなんだろう。きちんと子供まで作っている。ないわけないだろう。と思いきや、
「泌尿器に行ってちょうだい」と言われて、なんでだと、思ったら、目の前に男性の医師が現れた。若いお医者さんで、髭も生やしていなければ、鼻の下に黒いぽちぽちも見えないほど色が白い。
「男性ホルモンというのは、化学物質としてはいくつかあるのですけれども、主にテストステロンというやつです、まあ、髭を生やすように作用するときには、別の形男性ホルモン、5アルファ、でヒドロテストステロンというのにかわりますが、テストステロンの量をはかるのは意味がないわけではないけど、髭の濃さとは違うのではないかと思われますが」となんだかとりとめもなく話しているので、素人の自分にはなにがなんだかわからない。そこで、
「僕の男性ホルモンの量が少ないということですか」
いつ測ったのか全く覚えていないが、医者は僕の血液の中の男性ホルモンの測定結果をもっていて、
「テストステロン、特にフリーのテストステロンの量は、成人男性の平均値の中に入っていますよ、問題ありません」と言って、検査結果の紙を見せてくれた。
自由なテストステロンとはなんだろう。
医者はすぐに、「血液の中のテストステロンは、あるタンパク質とくっついていて、そのタンパク質とはなれないと、作用しないのですが、くっついていないのがあって、それがフリーのテストステロンで、いつでも作用するのですよ」と説明してくれた。
といってもわからない。
テストステロンは精子の形成を促すし、筋肉を増やすし、髭にも関係するし、それに性欲を強くします。
すこしわかってきた。自由のテストステロンは、自由に性欲が強くなるので、女性に悪いことをするわけだ。
「あの」僕は言った。
「髭がなぜ薄いのか知りたかっただけなのですが」
「つけ髭もありますよ」
目の前に美容師がいた。
なんてことだ。世の中って、こちらが思っていることを的確に教えてくれる人っていないものだ、と言うことは前から思っていたが、やっぱりここでもそう思うこととなってしまった。
目の前に、なんとかという昆虫愛好家があらわれた。
「虫は髭を生やしているといっても、目的があるひげでしてね、それで匂いをかいだり、味を知ったりするんですよ」
などと説明している。そうか、この人は元がお医者さんだった。それもおかどちがいだ。
やっぱりあの人に会いに行かなくてはと思っていると、高尾山の山の中にいた。
坂道を歩いていると、上から、見たような外人が降りてきた。
「あの、髭が薄いのはどうしてでしょう」
「ああ、髭の虫に聞いてみるといいね」
本当はI recommend you to talk with mustache wormといったようだ。
どこにいるのだろう、と聞いたときその人は、ハンミョウになってすーっと飛んでいってしまった。ハンミョウは道しるべという別名がある。
ああ、そうだ、先の外人さんはファーブルだ。
ファーブルが言うのなら本当だろう。だが、どうやって、髭の虫に会えるのだろう。
まあ、いつか会えるのだろうし、いますぐ自分の髭をどうしようということでもないので、家にかえって、寝ることにした。
パジャマに着替えて、ベッドに入ったら、枕の中から黒い虫が這い出してきた。ぷくっと膨らむと鼠ほどの大きさになって、布団の上に上ってきた。
「髭がどうして気になるのさ」
言葉遣いが乱雑だ。
「だたの興味、暇人の時間つぶし」
「まあいいさ、人間ていうのは、自分の体から生えてくるものや、出てくるものには、まず興味をもつものだからねえ、うんちがでる、おしっこがでる、涙がでる、涎がでる」
そういう出るじゃないでしょ、といいたい。と、
「あわてるのはよくないよ、爪が伸びる、髪の毛が伸びる、鼻毛が伸びる、眉毛が伸びる」
確かに
「じゃまなものは取り除く、鼻毛だな。自分の形を変えてしまうものは、自分の好きな形にする、髪の毛、眉毛、まつげ、髭、ほら髭だ、生えない奴はカツラをかぶったり、付けひげをつける、なぜだ」
自分を格好良くする。
「なぜだい、そこなんだよ、結局見栄えなんだ、みばえ、は見栄、見栄にもつながるけどな、他人からどう見えるかだ、それとな、自己満足もあるよ、それでもこうすると格好いいだろうと、他人を意識した自己意識だ」
この虫の言っていることはわかるような気がする。
「どうだい、まず、経験が大事だ。髭が生えたらどう思って、どうするか、明日からやってみな」
そう言って虫は消えた。と同時に眠りについた。
朝起きて、シャワーを浴びに浴室に行った。鏡を見たが、髭などは生えていない。それで、夢かと思って、裸になって、シャワーの下に立った。
お湯を流して下を見たら、足の指と甲のところに黒い毛がもじゃもじゃと生えている。
なんだこれとつまんでみたら、髭のように堅い毛が指を含め足の甲の部分一面に生えていた。
ともかく、シャワーからでて、朝食の用意をして、食べながら、足先の甲に生えた毛をみた。こんなところに生えて、何の役に立つのだろう。ものをおっことして、足の甲にぶつかったとき守ってくれるのか。
黒々と生えている足の甲を見たとき、原始人になったようで、どこか新鮮味があった。髭を生やすと別人になったような気分になるのと同じかもしれない。人間ならではの脳の活性化につながるということか。ということは、髭が生えにくい自分は、良く生える人より損をしていることになる。顔中毛むくじゃらで、それを格好良く刈っている人を見ると原始人じゃないかと思っていたことは間違っていたわけである。
玄関の呼び鈴が鳴った。こんな朝早く誰だろう。ドアを開けると驚いた。チェ、ゲバラが立っている。
「失礼していいですか」
とやけに丁寧だ。
どうぞと、キッチンに通して、ゲバラはなにを飲むのかと思案をしていると、オチャをと言う。そこで、お茶を入れて出すと、その場所でいつも行われていることが、一番いいというので、どういうことかと考えていると、「日本はお茶ですね」、と静かに言った。
それで何か用かと尋ねると、「あなたが私に聞きたいことがあるそうな、とこのあたりにすんでいる蚊が一匹空に舞ってきて言ったんです」という。
蚊、って、なぜだ。
「それは、私がいつも山に逃げ隠れして、一番つきあいの長い虫だからです」
と言う。そんなものか。
「髭が似合う人ですね、髭をどう思うかききたかった」
「いや、まず逃亡生活で刈る暇もなかった、勝手に延びただけで、たまたま、床屋をした後の自分の写真が有名になっただけで」
とおいしそうに茶を飲んだ。
僕は足の甲に生えた黒い毛を見せた。
「裏には生えていないのですね」と聞く。
ええ、と言いながら足の裏を見せると、「猿みたいだ」と初めて笑った。
確かにそうである。
「裏に生えていれば、スリッパがいらないのですがね」
ともいった。
そんな風に考えるのか。
「男の髭は、女性を引きつける道具と聞いていますが」と尋ねると、
「確かに男に生えるから、男を強調するものだが、テストステロンがそうさせる、女にもテストステロンが少しはあるが、エストロゲンが主だ。その違いはしょうがないだろう、精子を作り、卵子を育て守る、それぞれの役割のホルモンをもっているわけだ。その上、違うホルモンは男の形を作って、女の形を作って、お互い魅力があると思わなければ、子ができん、我々は猿と同じ」
革命家は体のことをよく知っている。と目の前を見ると、脳が空中に浮かんでいる。
誰の脳だと思って、ふと自分の頭に手をやると、髪の毛が生えているところがなくなっていて、頭蓋骨があいている。頭の中に指が入る。脳がない。
「おれだよ」といいながら、自分の頭に脳が戻りふたが閉まった。
だけど頭の毛がない。
チェゲバラが座っていたところに、大きな一見ゴキブリのような格好をした黒い虫が、お茶を飲んでいる。
「頭の毛をつかって、足の甲に髭を生やしてやったんだ」
「この足の甲の髭の役割はなんだ」
ときいてみると。
「好きなように使うさ」
と天井の上に這っていくと、消えてしまった。
足の甲の髭をなにに使っていいか。だいたい、足の甲って言うのは何かに使おうとしても難しい。やってみてください、みなさんも。ブラシのように何かを洗えるわけでもない。そうか、蹴鞠は足の甲が大事だし、サッカーだって、足の甲でボールを受ける。だが、普段足の甲をつかうってことあるのかい。
天井に穴があいて、髭の虫が顔を出した。
「足の甲があることを思い出しただけでもよかっただろう」
と言う。確かにその通りである。
この足の甲の髭をハートが形にでも切って、浜辺で裸足であるいて、ナンパでもするか。
すると、海辺を裸足であるいていた。ビキニの女性たちが甲良干しをしたり、浮き輪で海に浮いている。だが誰一人、自分の足に気づいてくれない。子供がよってきた。
「おじさん、それなに、どこに売ってるの」
足をまじまじと見て聞いた。
「買ったんじゃないよ、髭の虫がつけてくれたんだ」
「ふーん、おもしろい」
子供たちはこれを見て、なにを想像しているのだろう。
「海草みたい」
「ハリネズミの背中だよ」
波が打ち寄せる水際で、足を海水に浸した。
確かに海草にも見える。
自らあがったら、足の甲の髭の中から、やどかりがぞろぞろでてきて、何だ、海草じゃないのかと、海にもどっていった。
足の甲の髭を見ていると、なんだかジョキジョキ音がして、髭が刈り取られていく。どうしたんだと見ていると、真っ赤な蟹が中から現れて、足の甲の髭を全部切ってしまった。
「さっぱりした」
と言って、海に戻っていく。
結局、足の甲に髭が生えても、異性をひき付ける道具にはならなかった。しかし、カニがみんな刈ってしまったので、もう元の足だ。
海辺を虫がやってくる。
「髭切られたようだな」
髭の虫はつぶらな目で僕をみた。
「ほれ、今度はそこだ」
何だと見ていると、目の前を黒いものが揺れている。歩いていくと、目の前の黒いものもずーっとゆれている。
何だ。と、思っていると、自宅の鏡の前にいた。
僕の鼻のてっぺんには黒々とした、髭が生えていた。
さて、鼻のてっぺんの髭はどうしたもんか。
足の甲なら、靴下をはけば見えなくなるが、鼻の頭じゃマスクをしても黒い髭がはみだす。どうやって、隠すか、いや、格好用よくみえるようにするか。女性はなんて言うだろう。そうなったものなら、楽しまなきゃそんだ。
それで、今、ピエロになって、保育園で園児を笑わせている。
髭の虫よ、髭は確かに人生を変えるほどの影響力があるものだとわかった。鼻の頭の髭は飽きたよ、もう一月もピエロになっているんだ。今度はどこに髭を生やしてくれるんだい。楽しみにしているよ。何しろ、まだ、鼻の下や顎のところに髭を生やしたことがない。
そう思っていたら、その夜、髭の虫が天井からぽたりと落ちてきて、掛け布団の上で、べチャート足を広げた。
そのおかげで、目を覚まし、虫の小さな丸っこい黒い玉だけの目を見た。
「他のところに髭を生やしてくれ」
「子供たちが喜んでいるじゃないか」
「本来の髭の役割を知りたいんだ」
「お前にはまだ早い」
「そんなことはない、もうすぐ六十だ」
「還暦なら、臍の周りにでもはやしてやろうか」
「誰が喜ぶんだ、誰も見ないじゃないか、風呂に入らなきゃ見せれない」
「へそ踊りって知ってるだろ、あれをやれ」
「アレは、ハラがでっぷりしてなきゃできやしないよ」
この虫は俺に髭を生やして、笑わせたいようだ、けしからん。
「それじゃ、これでどうだ」
両方の手の、指の先に、長い髭がたくさん生えてきた。
「おい、やめてくれ、これでどうしようっていうんだ」
髭の虫は、布団の上で立ち上がると、ベッドから飛び降り、との隙間から廊下に出て行ってしまった。
そこでいきなり眠気が襲い,ふたたびなにもわからなくなった。
明くる朝、起きたら五本の指の先に髭が生えている。こりゃこまった。どうしたらいいだろう。ともかく今日、保育園に行って、ピエロをやらなきゃならない。すでに頼まれているので、キャンセルするわけには行かないだろう。
鼻の頭の髭も残っている。あの虫のやつ、消し忘れたんだな。鼻の頭に髭が生えたときには、足の甲の髭は消えた。
まあ、指の先と鼻の先に髭が生えているのも、保育園児たちはよろこぶであろう。
といつものように、でかけていって、子供たちを笑わせた。もう、これ以降はよやくがはいっていなくてよかった。もうピエロはやめよう。
僕は親のいくつかのいくつかのマンションや、貸しビルなどの、不動産屋出納係をやっている、しかも、助けてくれる人が二人もいる。働くのは週に二度ほどだから、時間はあまっている。
酒はあまり飲めない。スポーツ観戦も興味ない。まあ強いていえば、ボランティア活動をして、誰かが喜んでくれるのが、少しいきる張り合いになる程度である。骨董市に言ったりはするが、骨董集めもせず、それに自分で何かを作ったりすることもしない。ただ、気が向くと、小説のような物を書いてみたりするだけである。
「髭と髪の毛とどうちがうんですか」
皮膚科の医者がそれに答えた。依然、体中にかゆい湿疹が出たときに見てもらった医者である。
「どう思いますかね」
「髭の方が後ぞごそしていて、髪の毛のほうがやわらかいですね」
「それもひとつですね、実は、身体には目によく見えない毛はたくさん生えています。ただ手のひらにはありません、どれも基本的には同じですが、抜け替わる器官が違います。髭は三ヶ月ほどです、髪の毛は三から五年、もちろん延びる速度も違います。もし、頭ににごぞごぞの毛が生えていたら、どうですかね、針鼠ですね」
「あの、わかりました、それで、指の先に髭が生えたのですが、なんとかなりませんか」
手の先を見せた。
「おお、おもしろい、なんとか利用してみたらいいでしょう」
先生は研究室に行って、瓶を洗うブラシをもってきた。
「ほら、これと同じように、瓶の底を洗うのに便利ですよ」
冗談じゃない。
「小説を書くといっていましたな」
「ええ、素人ですが」
「それで万年筆ですか」
「いえ、ワープロですが」
「あの、キーボードにほこりがたまりますね、そんなときどうします」
「歯ブラシのようなもので、かきだします」
「ほら、そういうときに便利でしょう」
全く気のまわらない先生だ。
「指の先に髭が生えていると、キーを打つのがむずかしいですよ」
「キーを掃除しながら、打っていると思えばいいでしょう」
そういうと、自分の前から消えていった。
しょうがない、何とか利用してみよう、そういえば、髭の虫のやつ、へその周りにも生やしたらどうだと言っていた。
服をめくってみると、へその周りに睫毛のように髭が生えている。
なんてこった。
へそ踊りなんてまっぴらだ。
何か忘れている。なんだっただろうか、そろそろ床屋に行かなければ、そう思って、床屋の予約をした。
「若旦那、まだ一月たちませんが、綺麗好きですね」
「いや、髭が生えなくて」
「え、普通の人のように生えているじゃないですか」
「そうかな」
僕は鏡を見たが、髭はほとんど伸びていない。
「きょうはどのようにかりますか」
「いつものように頼むよ」
床屋のここのお兄ちゃんはカットがなかなかうまい。その季節にあった、ほどほどの毛の量のいいスタイルにしてくれる。
「今日もよくなった」
「若旦那、顔がいいから、どんな髪型だってにあいますよ」
そういわれながら、床屋を見ると、はさみを殺菌箱にいれるところだった。
そうか、はさみで切ればいいじゃないか。
「そのはさみはどこに売ってるかな」
「なににするんですかい」
「ほら、こんなところに髭が生えちまった」
指先を見せた。
「ははーあ、これを切るんですか」
「とっちまいたい」
「もったいない、こんなところに髭が生えるなんて、天然記念物ですよ」
「髭が生えないものかね」
「それだけありゃいいでしょうに」
「そうかな、それで、はさみどこで売ってる」
もう一度聞いた。
「指の先の毛だけなら、古くなったはさみさしあげますよ、大旦那にゃ世話になりましたからね」
この床屋の土地もおやじの物だったが、安く譲ったのだ。床屋がはさみを持たせてくれた。
家に戻って、左の小指を残して、小指を除いてすべての指の先の髭を、爪を切るように切った。これで、ワープロを打つのにじゃまにならない。
ワープロを開いて、文を打ち入れてみた。全く問題ない。キーボードの隙間を左の小指の伸びた髭でなぞるとごみがでてきた。
なるほど、先生がいっていたように、使えないことはない。
天井からワープロの前に髭の虫が落ちてきた。
「やっとるじゃないか、ほら、便利そうだ」
「髭は小指一本でいい」
「どうだ、今度はケツにひげをはやしてやろう」
「やめてくれよ、ケツじゃ自分で切ることができないじゃないか、せっかく床屋から鋏をもらってきたんだ。
「まあ、ためしてみろよ、いい感じだぜ」
次の朝、ベッドの中がふかふかすると思いながら目が覚めた。
パジャマを脱いだら、パンツがやけに膨れている。尻の方に手を入れたら、お尻一面に長い髭、いや、毛に近い物が生えている。毛よりちょっとごわごわしているから髭だろうか。パンツをおろしてみた。
なんだ、髭の虫の言っていた通りになっちまった。
そこに、髭の虫がでてきた。昼間出てくるとは珍しい。
「おお、なかなか立派にケツの髭が生えたじゃないか、座ったときにケツへの圧迫が弱まって、からだにいい。堅いベンチだってへっちゃらだ」
「だがなあ、ズボンをはいたときに、ずいぶん尻がでかく見える」
「いくつになった、若旦那は」
「三十五」
「それじゃ、ケツは大きくたっていいじゃないか、貫禄ってもんだ」
そういって、消えてしまった。今日は事務所にいかず、古道具市をひやかしに行こう。
電車で三つ先の神社の境内に行く。市にたまに出る、古い写真を見るためである。軍人さんの写真や、もっと古い侍の時代の写真をみると、いろいろな髭を生やしている人が写っている。髭が濃くなって生やせるようになったときの参考のために集めているのだ。
境内には全国から古物商が店を構えている。テントを張っているところもあれば、全く露天のところもある。
神社のトイレの近くで、露天で店を開いている男がいた。おいてある物は古い写真ばかりだ。始めてみる店だ。
男が振り向いた。髭の虫じゃないか。
「お、若旦那、どうだい、ケツの髭は、便利だろ」
そのとき、「どろぼうだ、捕まえてくれ」という声がした。
男が何かを抱えて走ってくる。後ろから二人の男が追いかけている。男は僕の方に走ってくると、どしんとぶつかった。
僕はどでんと石の上に尻もちをついた。男もすっとんで、石の上に倒れた。
「いてててて」男は悲鳴を上げて、持っていた箱をなげだした。
二人の男がおいついて、「よかった、とられずにすんだ」そういって、一人は泥棒に「警察にいくんだ立て」と言ったった。もう一人は僕のところにきて、「いやおかげでたすかりました、だいじょうぶですか」と手を引っ張って、立ち上げてくれた。「だいじょうぶです」
僕は痛くて立ち上がれない泥棒を見ながら、髭の虫に「お尻の髭は役に立つよ」
と言った。
「そうだろう」
「なあ、他のとこばかりじゃなくて、鼻の下や顎に髭は生やしてくれないのかい」
そ言うと、髭の虫は一つの写真を指さした。
「これは珍しいんだ」
雪の上に毛もくじゃらの男が裸で立っていた。
「雪男の写真だよ、ほんもんだぜ」
「髭もなにもないな、みんな毛じゃないか」
「そう、みんな髭なんだ」
「体中髭なのか」
「そうだよ、髭を生やしてはやれないが、なんなら、雪男と同じように、体中髭だらけにはしてやれるな」
「それじゃ、髭が目立たない」
「髭を残して、いらない部分は、床屋でもらったはさみで切ればいいじゃないか」
なるほど、理屈である。
「それじゃ、そうしてくれるかい」
そして、僕は毛もくじゃらになった。
僕はパジャマを脱いで、洗面台の前にたった。毛もくじゃらの顔だ。狼男みたいだ。立派に髭が生えている。というか、どこまで髭かわからない。床屋にもらったはさみで周りの毛をきって、髭だけ残せば立派な男になるだろう。
と思ったとき、髭の虫が店にだしていた雪男の写真を思い出した。
雪の中で堂々として写真に写っていた。体中に髭が生えていれば、雪男より立派に見えるかもしれない。しかも寒さを感じない。せっかくはえているのだから、この状態で、ヒマラヤの雪の上を歩くのもいいだろう。
次の朝、僕は早速、ヒマラヤに行く準備をした。
飛行機のファーストクラスを予約した。
この町のこの通りには演芸場がいくつかある。もちろん落語の常設小屋やストリップ劇場もある。芸人たちが集まるいっぱい飲み屋も、それに、つけ髭屋もある。変装用というより、芝居に使ったりする。
そのつけ髭屋は「髭の虫」という屋号だ。
そこに若手の漫才屋がやってきた。
「俺にはちょびひげ、こいつには山羊髭をみつくろってよ」
「ああ、いいよ」
店主は奥から、つけ髭を何種類かだしてきた。
「なあ、不動産屋の若旦那、ヒマラヤでみつかったってな」
漫才屋の一人が言った。
「ああ、新聞にのってた、ヒマラヤの雪の中で、熊の皮に身をくるんだ日本人が凍っていたってあった。名前を見て驚いたよ、若旦那じゃないか」
「ほんとにな、不動産屋の旦那、さぞがっかりしただろうな、大事にしていた息子だからな」
「若旦那はああいう病をもってなきゃ、帝大でのすごいやり手なんだがな、新聞に載る一週間前に、うちにきて、熊の毛皮を買っていったんだ」
「そうなのよ」
奥から、髭の虫の奥さんがでてきた。
「あんとき、若旦那がきて、体中に髭を生やしたいなんていってね、今までにもいろいろな、髭の種類を買っていったのよ、それをきいて、おとうちゃん、いい熊の毛皮が入りましたよ、なんて、若旦那に熊の毛皮を見せてね」
「いやね、不動産屋の旦那にね、言われていたんだよ、息子が髭の虫にいったら、なんでもやってくれといわれていてね」
「あの毛皮、ととも上等で、百万もするんだよ」
「だけど、旦那にそういわれていたから、若旦那にみせたってわけだ、するとな、これで、体中に髭が生えるな、鼻の下と、顎をのこして、みなそればいいわけだ、そう言って、若旦那は喜んで、熊の毛皮を持って帰ったよ]
「なんで、若旦那あんなになっちまったんだ」
「なんでも、旦那が、思春期になった若旦那に、おまえまだ髭が生えないね、と言ったそうだよ、若旦那は早く髭が生えないか楽しみにしていたそうだ、だけどな、旦那を見てもわかるように、あそこの家族の男たちはそんなに髭が濃くないだろう、若旦那の下の二人にしても、旦那そのものにしても、なかでも若旦那は髭が薄いよな」
「それがなにか問題あったのかい」
「ふつうならないけどな、若旦那はいつ髭が濃くなるのか楽しみに大きくなったんだ、大きくなる目的が髭が濃くなることだけだったんだ、頭は良くて、帝大に行ったのにな、まあ、あれだけの不動産の経理をやっているんだから、大したものだけどな、どこかずれちまって、医者にはいっていたようだけどね」
「本人は体中に髭が生えて幸せだったわけか」
二人の漫才師は、
「漫才のねたにはならないよ、悲喜劇ってやつか」
「茶化しちゃいけねえんだよ」
そういいながら、ちょび髭と山羊髭をもって、髭の虫の店をでていった。
髭の虫