鮮明な他人
廊下の壁に貼られた試験の順位を見て安堵した。今回は厄介だった。特に物理が非常に頭を悩ませた。同級生たちの意識が自然と僕に向かれている。向いているだけ。僕は振り払うようにして、足早に図書館へと向かった。
「今回もさすがだな」
いつもの席に着くと隣が口を開いた。中身は分からないが、今日も薄い文庫本を手にしている。こいつは僕が学校で口を利く数少ない人物だ。
「あれだけ勉強ができると女に好かれるのも時間の問題だな」
うらやましい限りだよと、ほざきながら本から目を離さない。この流れは出会った頃からの定番だ。どんな試験の結果でも、体育で記録を出しても、同じ流れ。僕はもう飽きている。
「女はおろか、男にすら好かれていない俺がか」
僕は制鞄から課題を取り出してノートを広げた。昨日の自習中、彼にふざけて貼られた馬のシールが目立つ。試験が終わってすぐなのに教科担当は休ませるという気はないらしい。次の試験までもう一か月ほどしかないという事実もあるため仕方がない気もするが。
「お前が知らないだけだ」
文庫本から顔を話し、嫌そうな顔を隣から全力で向けてくる。僕にとってそんなことはどうでもいいんだが、そうもいかないようだ。恐らく、来年には嫌でもこの話題は振ってくることはないだろう。
「そういえば、結局誰なんだよ。好きな人」
あまりに唐突なことで、砂を噛んでしまった。これは僕が犯した失態だ。人が忘れてほしいことをいつまでも蒸し返してくる。先日、気になる人がいると打ち明けられたときに「片想いは辛いよな」と言っただけだ。ただの励ましのつもりだったのだが、彼曰く、顔からも声からも苦痛な訴えが滲み出ていたらしい。
好奇心たっぷりの目がこちらに向いたままである。
「お前には絶対に言わない」
僕は課題から視線を外さずに言い放った。抗議の声など気にしたら負けだ。問題を解答するために最適の公式を探している。生憎忙しくて僕には何も聞こえない。
玄関にはクタクタで皺のある靴が無造作に置いてあり目についた。
「兄さん、靴ぐらい片付けなよ」
居間に入ると横たわった兄がいた。ネクタイやジャケットが散乱している。今年は就職活動で一段と気合を入れなければならないであるのに、日を追うごとに兄から覇気がなくなっていくように見えた。もちろん返事などない。
冷えた麦茶を二杯分、卓上台に置いた。結露がグラスに滲んでいく。もうそろそろ湿気が常にまとわりつく季節だ。晴れるのはあとどのくらいだろうか。
兄はゆっくりと起き上がり、麦茶を手に取った。一定のリズムで喉が鳴らし、一気に飲み干した後、深く嘆息をした。
「就職って何でこんなに面倒なんだろうな。会社っていうのが俺には合わない気がする」
兄は既に内定をいくつか取得している。このままだと就職はできそうだ。そんな状態でも兄は納得がいかないようで何か答えを探している。遠くを見つめる兄を見て、僕はあえて何も言わなかった。
自室に入ると、不図思い出してしまった。さっさと僕の恋沙汰から関心をなくしてほしいと思う。一日に一回は聞かれている気がする。懲りないやつだ。僕は何度も絶対に教えないと言っている。お前の気になる人の話はどこへ行ったんだ。本当に懲りないやつ。暇なやつ。頭がぐるぐるとして気持ちがまとまらない。別のことへと思考を飛ばした。机の上で散乱した教材が帰る場所を求めている。
今はかなり就職がしやすい。にもかかわらず、そんな中にいる兄は自分の就職について疑問を拭えないでいる。きっと僕には想像もつかないものが頭を占めているんだと思うことにした。自分は将来どんな大人になっているだろうか。なりたい大人とは遠ざかっていないだろうか。目の前には大学受験を控えているが、希望の職へつながるといいなという程度の認識だ。
勉強机の引き出しから一枚の写真を取り出した。これは無意識の日課だ。僕と同級生一人が写っている。偶々先生がカメラを僕らに向けたから撮れた一枚。去年の文化祭。僕のぎこちない表情よりも隣に目がいく。これから先、打ち明けることはないだろう。そう頭に叩き込み、そのまま静かに元の場所へ戻した。
毎日不規則な生活を送っている。編集者として忙しく、ゆっくり休息をとる暇もないことが多い。そして圧倒的に人手が足りない。あと、怒られる内容が度々理不尽だ。今日は一人称が「自分」であるというだけで偉そうな人に難癖をつけられた。「俺」よりはよほど問題ないと思う。他にも不満はいっぱいある。後ろ足で蹴飛ばしてやりたいくらいだ。そうは言ってもやはり、この職に就いて良かったという思いは今も変わらない。就職には随分と苦労したがなんとか採用を掴みとった日の喜びを強く覚えている。
不規則ながらも、私生活は充実していて、恋人と同棲を始めて5年以上になる。大学で知り合ったので付き合いはもっと長い。途中で数えるのは放棄したが、交際日と同棲日の記念日は毎年お祝いしている。初めのころは格好つけて花束を贈った年もあった。けれども、花言葉を気にせず贈ってしまったため少し怒られたのだ。「何で花言葉が『友情』なのか」と。見た目が綺麗なだけでは駄目だったらしかった。非常に難しい。
地面の暖色が目立つ季節となり、交際記念日が近づいている。今年はどう過ごそうか。今の自分には漱石が数人しかいないので、もう少し他の偉人から力を借りたいところだ。いつも交際記念日は自分が、同性記念日は恋人が準備することになっている。交際を申し込んだのは自分で、同棲を提案したのは恋人だった。どうやって相手をもてなすかで、記念日後は甘美か否かが決まる。自分以上に恋人はそういうことを大切にする。自分は毎年適当にしているわけではないが、安直な選択をしているのは否めない。
恋人がテレビを見ている横で頭を捻っていた。テレビの中では今からずっと先の近未来が広がっているようで、指紋をかざすだけで開錠する鍵や靴紐が自動で結ばれる靴などが出てくる。現代では実現不可能なものばかりだ。生きている間にそんな現実を過ごす日が来るのかと思うと俄かには信じがたいが、きっとその頃も二人で楽しく過ごしているだろう。
何度集中して考えようとしても脱線してしまう。こんなことで悩んでいるなんて贅沢な悩みだ。今年も文句を言いながら喜んでくれるということは分かっていた。結局甘美でなかった年など今まで一度もなかったからだ。究極的に言ってしまえば、一緒に過ごせるだけで十分。自分と一緒にいてくれるだけで、本当に十分だった。
「今度の記念日にどこか行きたいところでもあるか」
恋人は画面に夢中だったが、「んっ」と声だけは向けてくれた。
「それを考えるのは康介の役目。次の記念日は交際記念日だよ」
「そうなんだけど、まとまらなくてさ」
協力してくれる気はないらしい。淡々とした口調から寂しさを覚える。手持ち無沙汰で恋人の手を握った。若いころはがっしりとした手だったが、少し柔らかくなった気がする。時が経つのはあっという間で、これからの共に過ごす未来もあっという間なんだろう。
「思い切って博打とかどう。競馬とか」
笑ってくれるかと思って冗談を言ったが、恋人は冷たい視線を浴びせただけで、すぐにテレビへと戻った。
「おいしいごはんとおもしろそうなこと」
ぶっきらぼうな口調で、非情だと伝えてきたのが分かった。目を向けることはないが、手は握り返してくれた。嬉しくて反射的にもう片方の指でピアノを弾いてしまう。表情筋は散らばっていってしまっているが、死角で恋人には隠すことができているはずである。そのため、何の問題もない。
「抽象的で難しい注文だな」
恋人へ困ったように笑いかけると、察したように振り返って、満足そうな微笑みを見せてくれた。
面倒くさがりな自分が不本意ながらも、記念日について一生懸命考えている。恋人と少しでも思い出を作るためには安いことだ。二人の思い出が増えて、困ることなどない。ただ、自分たちには恋人としての思い出はもう十分であるという気持ちもある。自分と恋人は婚約状態である。既に婚約してから数年が経つものの、未だに実現していない。周囲に許されていないのだ。特に恋人の父親からひどく嫌われていて、何度か恋人の実家へ伺ったことがあるが、挨拶すらまともに行えたことがない。二人の中で籍は諦めているのだが、義親の許しを得られないまま毎日を過ごすというわけにもいかない。駆け落ちする勇気はないし、そもそも、穏やかに過ごしたいのだ。他の人のように。ちなみに、実親に反対されることはなかったが、賛成されたわけではない。たとえ義親に許されても、なだらかな道は待っていないように感じる。でも、それでも、お互いがお互いの手綱をもって、お互いを支え合い、一緒に過ごす日々を希望する。
手に少し力を入れてしまった。
「どうしたの。寂しいの」
また、恋人が振り返って、今度は目を細めて微笑んでいる。自分は手を離し、そっと恋人を抱きしめた。
急に違和感を抱いた。恋人が全体的に硬くなった気がする。がっしりしている。中年ではなく、青年のような身体。出会った頃とよく似ているのだ。場所も違う。ここは確か恋人の実家だ。恋人の部屋。何故自分はこんなところに。恋人の様子もおかしい。恋人は自分と一緒にテレビを見ていたはずだ。近未来のやつ。着ている服も違う。咄嗟に自分と恋人の身体を引き離した。やはり服装が違う。それから、若い。恋人がやけに若い。恋人は自分に向けてなにか悲痛な表情をしていて、上手く聞き取れないが叫んでいるようだ。自分の名前のような気がする。恋人のひどい取り乱し様に気をとられてすぐに現状把握ができない。不図背中に異物を感じた。すると急に痛みを思い出し、恐怖も思い出した。恋人を守ろうと身体に力を入れる。再び抱きしめようとしたところで、僕はそっと瞼を閉じてしまった。
「康介のご友人ですね。こちらへどうぞ」
部屋に入ろうとすると高さは充分に足りているのに自然と頭を下げてしまう。考える間もなく、腰を下ろした。顔を覆う布を持ち上げるとモノクロの康介がいた。涙なんてもう出ない。もう底がついたのだ。
「思ったよりきれいな顔していますね。康介」
でも、布団の上で目を閉じる康介はもう康介ではなかった。康介ではない。
布をもとに戻し、康介の兄へ身体を向ける。目が合ってそのまま深々と頭を下げた。畳の目が見づらい。
「この度は本当に、本当に、うちの父が申し訳ありませんでした。」
玄関で名乗る勇気はなかった。追い返されるのが怖かったからだ。せめてもう一度康介に会いたかった。父から理解を得られていないにもかかわらず、康介を家へ呼ぶべきではなかった。康介は交際していることすら自分の家族に言っていなかったというのに。あまりに軽率だった。何を言えばいいのか分からず、大量の言い訳が頭に押し寄せる。
康介の兄は秒針が止まったようだった。だが、すぐに気を取り戻し、柔らかい声色を向けてきた。
「そうでしたか。あなたのお父さんでしたか」
頭など、頭など上げられない。上げられるわけがない。たった今、実弟が横たわるすぐ傍に犯罪者の子供がいるのだ。殴りたいだろう。罵りたいだろう。追い払いたいだろう。殴られてもおかしくない。罵られてもおかしくない。追い払われてもおかしくないはずなのに、彼からはそんな気配は感じられなかった。恐々と頭を上げてみると目が合った。
「あなたもつらかったでしょう」
康介の兄は視線を逸らして康介に向けた。目尻をやさしく下げ、康介の身体をやさしくさすり始めた。
「自分の友人がこんな目に遭って」
康介の兄に会うのはこれが初めてだった。康介はよく兄を話題にするたびに、真面目で他人思いと評価していた。その通りだ。いっそ刺された方が、幾ばくか気が楽だった。
「あなたはなにも悪くないですよ」
康介から念願の出版社の内定をとれたと、嬉しそうに報告されたばかりだった。本当についこの間の話だ。大学でお互いにお互いを励ましながら就職活動を頑張っていた。康介は出版社に決まった後も遊ぶわけでもなく毎週アルバイトをし、僕の上手くいかないことを言い訳にした八つ当たりを責めもせず、丁寧に支えてくれた。そんな康介のやさしさが染みて、自分も良い報告を早くしたいと思っていた。康介も楽しみにしていたと思う。
就職先が決まった後の予定はたくさんあった。ちょっと背伸びしたところでご飯を食べよう、近場の草津にでも旅行しよう、お土産に高い茶碗を買っちゃおうと計画を立てていた。予約しないと入られないような身の丈の合っていないお店で、ふたり向かい合って軽くシャンパンで乾杯でもしたかった。大きい皿に2秒で完食できる肉が乗っている。そんな料理を目の前にして笑い合いたかった。かけ湯はしっかりやれって怒られて肩からしっかりかけられたかった。温泉後に卓球でもして、器用な康介を思いっきり負かしたかった。お酒でもゆっくり飲み、もっと語り合いたかった。華美な柄の茶碗を買おうとしたら渋られたかった。
もっともっと康介と過ごしたかった。どんなに足掻いても目の前の康介はもう康介ではない。その変えられない事実を受け入れられない。
「でも、康介も、なにもわるくない」
口の中が綿でいっぱいになっていく。息ができない。喉が渇く。苦しい。
彼はさすっていた手を止めて下唇を噛んでいた。微かに手が震えている。気が付くと、二人して涙を絞り出していた。頬から離れない涙の筋が気持ち悪い。
康介と過ごす未来が保証されている世界へ行きたかった。そんな場所へ連れていきたかった。だが、もう康介はいない。
僕たちはいつまでも他人だった。
鮮明な他人
きれいな恋愛ものは苦手だ。でも、これもきれいな恋愛ものだったかもしれない。