深層の怪
窓にかかるブラインドから蜜柑色の夕日が差し込み始めた。
私はデスクから立ち上がり気のいい直属の上司、Aさんの元へと向かう。
この会社で働き始めてもうそろそろ1年が経とうとしていた。
まだ新入社員に毛が生えたぐらいの若手だけれども、上司に恵まれたおかげでこの会社の基本の作業は一通り覚え、1人でもなんとかやっていけるようになっていた。
「Aさん、今日の分の報告書です、ご確認お願いします。」
脇に抱えたファイルを手渡し、Aさんの顔をうかがう。
「……うん、いいんじゃないか。はい」
そうあっさりと確認が済んだ報告書が差し出された。
お礼を言ってそれを受け取り、ファイルを出しに早足で事務所へと向かう。
実は今日、Aさんのお宅へとお邪魔する予定なのだ。
実家暮らしが長かったせいか私は1人暮らしを始めてからもまったく料理ができない。それを見かねたAさんが時々誘ってくれるのである。
「お待たせしました」
事務所からオフィスに戻り、Aさんに声を掛ける。
時間は午後6時ごろ。夕日に紫色の影が交ざり、外は薄暗くなりかけている様子だった。
「うん。いこうか。もう夕飯の準備をはじめたらしいから」
スマホから顔をあげたAさんは、どうやら奥さんとやり取りをしていたらしく少し照れくさそうに視線をうろつかせた。
Aさんはよほどの愛妻家だと社内では有名だった。彼はいつも奥さんが選んだという結婚指輪を指に着けている。その銀色のリングのついた左手でオフィスの扉を開けると足早に歩きだした。私もそれに倣い早歩きでAさんの後を追う。外はもう藍色に染まっていた。
「ただいま」
「……お邪魔します」
Aさんの家の扉を開けると玄関は明るかった。おそらく帰宅を見越した奥さんがつけておいてくれたのだろう。玄関脇の白い靴箱の上に飾られたAさん一家の写真たてが誇らしげな笑みを見せる。Aさん一家は4人家族だ。Aさんと奥さん、そして今年高校生になる兄くんと、小学校4年生の妹ちゃんだ。写真の中でにっこりと笑うAさん一家の様子は、独り者の私にはとても眩しく見えた。
「おかえり!」
愛らしい妹ちゃんが笑顔で出迎える。
「ただいま。今日の晩御飯はなんだ?」
「ハンバーグだって、お母さんが言ってた!」
そんな微笑ましい家族のやり取りを温かく見守りながら私は家に上がる。
扉が開かれたままの奥のリビングには、お皿を運ぶお兄さんが見えた。
私は手伝おうと思い、リビングに足を踏み入れる。すると脇のキッチンから奥さんが顔を覗かせた。
「あら! おかえりなさい!」
「あ……お邪魔しています。何か手伝います」
「あらいいのよ。お客さんなんだから。座っててちょうだい?」
「いや……でも」
「それにもう終わるから、大丈夫よ!」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘させてもらいます……」
そういって私は席に着く。
運ばれる温かい料理。しばらくすると家族も集まって、夕食を食べ始めた。
談笑する幸せそうな家族。理想の幸せ。
身の丈にあった等身大の幸せが確かにそこにあった。
そうして楽しく話しているうちに夜も更け、子供たちは眠りについた。
私も夜遅いということで今日は泊らせていただくことにした。
Aさん夫妻とお酒を呑みかわす。
色々な話をした。子供たちの将来の話、新婚時代の話、夫婦の馴れ初め話……
話を聞くうち、私はしだいに瞼が重くなり気が付けばそのまま舟を漕ぎだしてしまった。
*
いつから眠っていたのだろうか。
気がつくと私は床で腹這いになっていた。
目覚めようとすると、何故か思ったように瞼が開かない。
ぴくぴくと痙攣する瞼は筋肉が攣った時のように、私の意思に反し頑として開きたくない様子であった。
諦めて目を瞑ったまま微睡むと身体にそれまでにない感覚があることに気づいた。
背中だ。
背中に生えた何かがそれぞれに皮膚を曳き合っては擦れ合ってさりさりと音を立てていた。
その数は123……6本。ちょうど蜘蛛の脚のようにばらばらと蠢く。
そしてそのうちの1本が今、私の顔の横に垂れ下がった。
私は驚きと恐怖で目を見開き叫び声をあげようとする。
しかし、叫ぼうにも口は開かず、最悪なことに瞼だけがくわっと上がった。
垂れ下がった何かが私の視界に入る。
筋肉の程よくついた逞しい腕。そしてその指先で見慣れた結婚指輪がきらりと光った。
――これは上司の腕だ。
電撃のような恐怖が私の身体を駆ける。
それは紛れもなく私の身体の一部であった。そう、身体が認識していた。
私は怪物になってしまった。
周囲を見渡すと、そこには上司一家の死体が散乱していた。
目の前のソファの側面に、もたれるように上司の上半身があった。その奥にはテレビ台から落ちたテレビ。そのテレビから発せられる青白い光に照らされるように血だまりに沈んだ奥さんと妹ちゃんの死体。そして私の背後のドアの前にはお兄ちゃんの下半身と思われるものが……。
あまりの惨状に混乱する。
これは私がやったのか。
記憶を探るも靄がかかったように思い出すことができなかった。
ふと足元に転がった鈍い光に目を落とす。そこには銀色の小瓶が転がっていた。
「――ぎんいろのくすり、または、てとあし、おいしい」
嫌な耳鳴りのようなノイズの混じった声がそうささやきかけるのが聞こえたような気がした。
驚いてその瓶から目を逸らすように顔を上げる。
するとそこには窓ガラスに映る自分がいた。
人間でも雄々しい虎でも巨大な虫でもない、異形の怪物がこちらを見つめる。
それは人にも獣にも成り損なった醜い怪物だった。
*
私は幼いころから絵が好きだった。
暇があるとき、決まってすることは絵を描くことであった
チラシの裏、ノートの端、私はそんな小さな場所に隠れるように描くことを好んだ。
成長するにつれて「いつか画家になって認められたい」と思うようになった。
でも私はいつも2番目だった。いつだって1等賞は別の誰かの手の中にあった。
もちろん褒められたことがないわけではない。賞だってもらったことがある。けれども、私の上には必ず誰かがいた。結局私は1番に希求するものを何1つとして得ることができなかった。それでも私はまだ諦めずに己の力を信じていた。頑張れば追いつけると希望を捨てなかった。
そんな思いのまま私は高校生になった。桜並木を歩き教室へ向かう道中、私は今年こそはという思いを胸に秘めて入学式に臨んだ。
そして待ちわびた部活動、当然私の脚は美術部へと向かう。そしてお決まりのように訪れた部室の前でそいつと出会った。
そいつは文化部にありがちな大人しげな雰囲気をしていた。新品で少し大きめな制服を着ているところを見るに私と同じ新入生らしい。背は小さく、黒髪で眼鏡をかけたそいつは扉にかかっている南京錠に指をかけて揺らしていた。どうやらまだ先輩が来ておらず部室の扉にかかった南京錠は開いていないらしい。
私が声を掛けようとすると、ちょうど奴は私に気が付いたらしく近寄ってきた。
「新入生? 自分も! よろしくね!」
そういって手を差し出してきた奴は、先程までの大人しげな雰囲気と打って変わってとても人懐こそうな笑みを浮かべていた。
「……よろしく」
私はそれに気圧されつつも差し出された手に触れた。
かくして私とRは出会った。
私達の学校はU市という関東の都会だか田舎だかはっきりしない市にある県立高である。学校の裏手には広大な畑があり、正門は大きい街道に面している。街道を挟んだ学校の向かい側には個人経営の小さなケーキ屋、その隣にはこれまた同じの規模の薬屋がある。私は駅からこの街道を下り、街道に渡された大きい歩道橋をわたって通学していたので進学してからは毎朝、薬屋の蛙のマスコットに見つめられ、ケーキ屋の甘い香りに1日の始まりを感じるような日々を送っていた。
そんな甘い香りが漂う通学路をRと2人で歩く。
聞けば、Rの実家はその道を南へ下り、脇の小路に入ったところにある絵画教室を営む家だそうだ。幼い頃から絵具とキャンバスに囲まれて育ち、物心つく前からすでに白いキャンバスに向かって絵を描くのが趣味だったらしい。
そんなものだから私とRは性格こそ大きく異なっていたが親友と呼べる間柄になるにはさほど時間を要さなかった。
「へぇ……いいな。それじゃあ画材も使い放題じゃないか」
「そうだね! まあでも親が絵描きだと口出しされるから一長一短だけどね」
「あぁそうか……それはちょっと嫌だな」
そんなことを話す内、学校についた。
それにしても、生家が絵に理解があるとは本当に羨ましい。自分もそうであったら。
私はRに対して仲間意識を持つのと同時にそんな羨望の念を抱き始めていた。
なぜなら奴は将来有望な絵描きの卵であったからだ。
入学したあの日、Rと2人で入部した美術部は毎日活動があるわけではなかったが、私とRは放課後必ずと言っていいほど部室によっては夕方まで思い思いに絵をかいていた。
そして部室の制作途中らしき作品の中でもRの作品はその中でも格別な存在感を放っていたのだ。
デッサンは狂うことを知らないほど正確で、物の構造をよく表し、どうやって身に着けたのか理解できない独特の色彩感覚で以って色付けられていた。
その絵は、他の部員の絵の中にあってもどこか目を惹きつけるほど引力を持っていた。
綺麗でありながら鮮烈。
私はRの絵にそんな印象を抱いていた。
対して私の絵はどこかぱっとしない印象のままで。掃いて捨てるほどある絵の中に埋もれて死にゆくものだと突きつけられているようだった。
Rの絵と私の絵、そこには努力しても追いつけない差があるように思った。だから、羨ましかった。
夕日が差し込む。その日も私たち2人は放課後の部室で絵を描いていた。夕焼けは色の見え方を変えてしまうから良くないと厳しい人は言うであろう。しかし私たちはそんなことは気にも留めず、ただ自分の大好きな絵を黙々と描いていた。
「やっぱり君は細かくて凝った絵を描くね!」
いつの間にやら後ろにいたRがそんなことを言う。
「悪かったね。どうにも、小さく書き込む癖が抜けないんだ」
「いいや違うよ! こんなにディティールまで描き込まれた繊細さが良いなあと思って……」
驚いた。Rほどの実力者に褒められるなんて信じられなかったから。でも、私は……
「ありがとう。でもこれじゃ駄目なんだ」
「え? なんで……」
「私はもっと万人の目を引くようなインパクトのある絵を描かなきゃいけないんだ」
「ふーん……君の気持ちは僕にはよく分からない。でも、こんなにいい絵が描けるんなら万人受けなんて気にしなくてもいいんじゃない?」
「……」
奴は元々才能があって評価される絵を自然と描ける人種だからわからないのだ。私のようなただ凝った絵、ディティールが細かいだけの絵じゃ評価はされない。目に留まるバランスの良さやインパクトがないと絵の世界で生き残ることは、絵で食べていくことはできないのだということを。
私の実家は貧乏だった。しかし両親の愛に恵まれた故かもしれない。ばかな私は生れ落ちてしばらくそれを自覚することがなかった。実際その家計のやりくりはなかなか人に言えたものではなかった。私が子供特有の無比の好奇心で以ってそれに気づいた時から、私の生は数多の犠牲の上に立っていた。普通ではない。ボーダー下でありながら世の普通と足並みを揃えられる幸福。私はそれに必死にすがりついた。生きねば、収入を得ねば、普通以上にならねば。
その思いは自身の夢が大きくなればなるほど私を縛り付け放さなかった。
だからもし、私が普通を捨て絵の道へ進むなら、今すぐにでも評価をされる絵を描かなくては。絵を学びたいなら、特待生なりになって自分で工面できる額に収めなくてはいけない。だからどの絵よりも秀でて目に留まる絵をなんとしても描かなくては。でなければ限りあるモラトリアムを絵に割くことが無駄になってしまうのだから。
いつからかそんな思いが私の絵に混ざるようになった。焦り。これ以上、育てられた恩のある親を踏みつけにして夢を追うなんて気の弱い私には耐えられなかったのである。
秋も過ぎて底冷えする季節になった頃。珍しく正式に部活があると連絡があり、Rと私はおそるおそる部室に入室した。
部室は美術室も兼ねているので40人分の机と椅子、黒板がある。いつもは私たちと他2、3人しかいないその教室にはおよそ10名の部員が集まって座っていた。なにかあるのだろうかとRと顔を見合わせながら着席する。
ほどなくして顧問の先生が入ってくるなり、印刷したてと思われる白黒のチラシを配り始めた。来年6月に高校生国際美術展というコンテストが開かれるらしい。出品は希望者のみになるので今日は希望者を募るためにこうして招集をしたそうだ。明確な功績が得られるチャンスだと思った。聞けば、毎年開催されるため私たちは来年と再来年出展できるようだ。
私とRは当然出品することにした。といってもそもそもこの学校は公立なので受賞歴もほぼなく、部員たちもあまりモチベーションがあるとは言えないため、お試しとして出す程度で良いと顧問は言っていた。顧問は出品したいという私たちをたいそう歓迎してくれた様子だった。おかげで部室の鍵が入っているセーフティーボックスのロックナンバーを教えてもらえて休みの間はいつでも部室を使えるようになった。
それから私たちは制作に取り掛かった。休みに入ってもそれは変わらなかった。幸い休み期間中も吹奏楽部や野球部など他の部活の生徒もいたため学校はいつもより静かながらも登校しやすい賑わいを見せていた。Rと私はその遠い喧騒を耳の端で微かに捉えながらさらさらと鉛筆を走らせていた。
下絵は好きだ。何を描こうと想像を膨らませながら炭を滑らせる、この瞬間ほど心地よいものはないと思うほどだった。しかしRは私とは反対に下絵はあまり得意ではないようだった。うんうんと唸りながらちまちまと線を描き足していくRは普段の天才の顔をしたRとは程遠くて面白かった。
そんなふざけたことをぼんやりと考えているうちに日が暮れ、夕方になってしまった。下絵を終えた私たちは片づけをして、帰路についた。時間は午後6時ごろ。夕日に紫色の影が交ざってとても綺麗だとRがぼやくのをずいぶんロマンチストだなと揶揄いながらいつもの道を帰った。
そしてあっという間に月日は過ぎ私たちは学年が上がった。それからほどなくして6月、出品の日になった。私たちはここ数か月向き合ったその絵に出品票を貼り、搬入のため顧問に提出した。
帰り道、絵の出来についてRと話す。といってもほとんど一緒に作業していたためお互いがどんな絵を描いたかはわかるのであった。
「何かの賞が取れるだろうか」
「んー、どうだろうねぇ。初出展だからなんともいえないかなー」
「君のは何となく賞が取れそうな気がするのだが……」
「え、そう? ありがとう!」
「私は……来年はもっと上を目指すのみだ」
そうだ。私はもっと上を目指して、結果を残さなくては。普通から這い上がらなくてはいけないんだ。Rはそんな私の内情を知ってか知らぬかわからないが、少しこちら憂うような顔をした気がした。
2週間後、WEBで結果が発表された。嬉しいことに私は入賞していた。
しかし私はいまいち喜べないでいた。なんとRが初出展ながら奨励賞を取るという快挙を成し遂げたのだった。奨励賞以上は国立新美術館に展示されるたいへん名誉ある賞なので顧問どころか学校全体がRを祝福する雰囲気であった。Rはそんな雰囲気に少し困ったような笑顔を浮かべていた。
その様子に私が今までRに対して抱いていた羨望の念の裏にある仄暗い感情が滲みでてくるようだった。それは嫉妬。または強い劣等感と呼ばれるものだろうか。ともかく私の中ではこの歴然の差を眼前に据えた今、焦燥と劣等感と嫉妬の思いしか抱くことができなかった。そして次第に部室に行くことも、Rと顔を合わすことすら避けるようになった。
Rは最初こそ心配して話に来ようとしていたが、私がそれから逃げ続けるうちに諦めたのか話に来なくなった。部活へは隙を見て行った。しかしやはり祝福ムードが冷めやらない様子だったので、私はだんだんと足が向かなくなってしまった。
それからはただ絵に向かうことで自尊心を保つことに注力したのであった。
来年の6月こそは。その思いだけが私の中に残った。
それから半年くらいだろうか。私は学校には通うもののRとは関わらず、部室にも拠らずに家で絵を描いていた。とはいっても私の家はRの家のように画材がそろっている訳ではないので、去年の件で面倒を見てもらえている顧問を頼り、画材を借りてはこっそり持ち帰る日々を送っていた。
そうして季節は冬になった。学校はまた長期の休みに入ったので私は家で絵を描くことになった。幸い両親は私を気遣ってか私室を作ってくれるなどしてくれたが、やはり家で絵を描くのには限界があった。
それに、両親は私がいきなり引きこもりがちになってずっと絵を描いているのでとても心配そうにしていた。父には「絵以外にも学生時代にしか出来ないことはたくさんあるのだから、そっちも大切にしなさい」と言われた。だが私はやめなかった。そんな父を理解がないと切り捨てるほどには周りが見えなくなっていた。
――なんとしても結果を出さなくては。
その思いだけが先走って私は何を描けばよいのか、どこを目指せばよいのかとうにわからなくなっていた。ただひたすら描く。しだいに学業の成績は落ち、学校で孤立するようになった。それでも描き続けた。
そんな長い冬を超えてようやく春が訪れた。私は3年生、高校最後の年になった。必死に技術を磨いたおかげで、最近は筆の調子もよく絵の完成も間近だった。
そして5月下旬、出来上がった絵は私の絵とは思えないほどはっきりした色合いをしていた。技術もすべてつぎ込んだ。間違いなく最高傑作と言えるだろう。
――けれど、私は一体何を描いていたのだろうか。その絵はすべてが主張し、どこを切り取りたかったのかまるでわからなくなっていた。
6月がやってきた。結局そのまま出品票を貼り提出した。持っていくと顧問は格段に成長したと褒めてくれた。私もこの前の違和感は杞憂であったと、出来はいいのだと納得して晴れやかな気持ちで送り出した。
結果、私は去年と同じく入賞、対してRは内閣総理大臣賞を受賞した。
学校には連日マスコミが取材に来た。
Rをファインダーに写しては、皆口々に天才だの絵描きの卵だのと褒め称えた。
どうやら今回は賞を取ったことで新聞やら雑誌記事やらに載るらしい。おかげで学校は以前にもまして祝福ムードになっていた。私はただそれを陰からぼんやりと眺めることしかできなかった。
そしてRの絵が展示される日、美術部員は強制でRの絵を見に行くことになった。当然、私は参加を拒否したが、校長からのお達しらしく顧問も必死で今回ばかりは幽霊部員すらも断れない様子であった。それでもなお休もうとした私を、何処から情報を知ったのか両親すら行くように勧めてきたので、結局参加するはめになった。
展示場所は国立新美術館。カーテンのように波打ったガラス張りの外観。――とても広い。中に入ると大きなガラスから自然光が差し込んで所々に明暗のコントラストを生んだ。
白を基調とした展示室に入るとそこは様々な色で溢れていた。静かに額に飾られたそれらは、こちらが見つめるとまるで見つめ返されていると錯覚させるような熱を内包していた。
奥に進むと、一際目立つものがあった。
それは夕日の絵。
あの美術室で見た景色だった。
だけどそれは現実よりも色彩豊かで鮮やかに見えた。夕日は並んだ机を紅色に染めて、キャンパスボードに降り注ぐ。それはボードに描かれた絵すら鮮やかに染めてしまうようだった。斬新な発想でありながら、Rの持ち味である狂いのない正確さと特別な色彩感覚が伝わる傑作だった。
一緒に来ていた顧問や美術部員たちも息をのんでその絵を魅入っている様子だった。
格が違う。やはりRは天才だったのだと突きつけられた。
それまで私の中に巣くっていた感情がいかにお門違いだったか、思い知らされるようだった。
私は才能ひしめく会場を失意のままにまわり、後にした。
それからほどなくして秋が来た。周りはみな進学に向けて勉学に励んでいた。Rはその功績も鑑みると、推薦入学になるのだろう。残されたのは私だけだった。
目の前には数日前に渡され、まだ白紙のままの進路調査票があった。
私は対した功績も残せず、初めはよかった成績もとうに下の中になっていた。
進路室を借り調べてみても美術学校に行くには他よりお金がかかるようだった。
それに私のようなものが行ったところで何者かに成れるのであろうか。
あの展示された絵たちはすべて私の絵に勝っていた。だけれど進学すればあの絵たちすら普通の絵となるのだろう。
ふとRの絵が頭を過る。あの絵だけは圧倒的だった。
レベルが高い展示品の中にあっても、変わらず人の目を引く鮮烈さを湛えていた。
網膜に焼き付いたあの夕焼けの色が私の熱を奪っていく。適うべくも無い。そう私を嘲る言葉が冷えた脳内に響いた。眼前に置かれた空欄には就職の2文字を書き入れた。
私はその日から絵をやめた。
部活も引退し、燃え尽きたような顔で1日1日を消費していった。
顧問には就職に変えたとだけ伝えた。
顧問は何かを言いかけていたが、私は話を聞く前に部屋を後にし、それ以降、部室には寄り付かなくなった。
早朝、いつも通り学校へ続く道を下っていくと何故かRが立っていた。どうやら顧問からけしかけられたらしい。
脇を通ろうと思ったがどうやらそうは行かないようだ。
Rは私の前に立ち塞がった。
「聞いたよ。美術学校やめるんだって。どうして?」
「君には関係ないだろう」
「2人で一緒に行くって言ってたじゃないか!」
「もういいんだ。私には君みたいな才能もなければ、時間もないんだ。もうほっといてくれ」
「才能なんて関係ない! 時間だって僕たちはまだ17じゃないか……絵は一生ものだろう? まだなんだってできるさ!」
なんだってできる。私もそう思っていた。努力さえすれば追いつけると。でも、そんなものは詭弁だったのだ。あの日、あの場所には私の居場所なんてどこにも存在しなかったのだから。きっとこれからも。
「今まで何もできなかった。続けたとしてこれからも、何もない」
「そんなことない……君だったら」
「君だったらなんだ! 結局なんにも残らなかったじゃないか! 賞も、名誉も、なんにも! つまり私はそんな器最初からなかったんだ!」
そう言うとRは静かに泣いた。
気まずくなった私は熱くなった目頭を抑えてRに背中を向ける。
それから来た道を走った。
ただひたすら走った。
呼吸が苦しくて、このまま消えてしまえたらどんなに楽だろうと思った。気がつけばもう駅が目の前にあった。
私とRが話をしたのはそれが最後になった。
*
それ以降、気持ちを置き去りにして時ばかりが進んでいった。
結局私は販促物などを刷る小さな印刷会社に就職した。しばらくは絵のことを忘れ、ひたすら仕事に追われていた。初めてできた上司はとても厳しかった。毎日叱られ、気の弱い私はただ謝ることしかできなかった。それを知ってか事あるごとに「Aは根性が足りない」だとか「性格が曲がっている」だとか現代ではパワハラと叩かれる古い考えで物事を言うのであった。
しかしそんな日々も辛いことばかりではなかった。怪我の功名というべきか上司のパワハラまがいの教育のおかげで私は急速に仕事を覚えつつあった。
それに数少ない同期と辛さを分かち合ううちに仲良くなり、気が付けばそのうちの1人と交際を始めていた。加えて最近は親に少しばかりの仕送りも出来るようになり、ああ私もついに普通の幸せをつかんだと安堵していた。
――そうだ。これでいいのだ。普通の人間なのだから、わざわざ成功するかもわからない世界で戦わなくてもいい。
私はそう考えられるようになっていた。
しかし2年が過ぎたあたりのこと。出勤前に見るニュース番組で偶然それが目に入った。
日本人画家の絵がオークションで最高値を叩き出したらしい。そこにはRらしき名前が見えた。
私は忘れかけていた自尊心を思い出しそうになりすぐさま電源に手を伸ばす。
次の瞬間、映し出された絵に私は絶望した。その絵は忘れもしない、あの天才の絵そのものだったから。
Rはわずか数年で華々しい成功を納めたのだ。
私が成功するかわからないと嘲った絵の世界で。
人生とはなんと残酷であろうか。
なぜ私のような凡人に叶わぬ夢を見せ続けるのだろうか。
画面を見つめる。かつて抱いた嫉妬と劣等感がこみ上げてくる。
嫉妬とは、劣等感とは、なんて惨めな感情だろうか。
私は私を惨めに思いたくはなかった。人を羨み嫉妬し、そして憎みたくはなかった。
画面の中の変わらずRは天才の顔をして微笑んでいた。
成り損なった私はただそれを歯噛みして眺めることしかできなかった。
やめよう。こんな人生。
ふっとそんな考えが下りてきて離れなくなった。
その日、私は初めて会社を休んだ。上司と同期からの電話がうるさくて窓から放り捨てた。
数日後、私はインターネットで探し出した銀色の小瓶に入った毒を飲み、永遠の眠りについたのだった。
*
嗚呼、そうだ。全て思い出した。
私は生を捨てた。
ここは私の未練が作った歪な夢の中だ。この怪物は私自身だ。
私は心の奥でずっと望んでいたんだ。普通を食い荒らし、幸せを踏みつけにして怪物になることを。死してなおその異彩に憧れ続けた。
なんて愚かなのだろう。そのせいで私は未来すら失ったのだ。
窓ガラスに映った怪物を見つめる。
影のように暗い巨体。その内側には虫のような節足が蠢いている。そして背中からはまるで移植されたかのような痛々しさを放つヒトの手足が生え、それが無彩色の巨体には不釣り合いに見えた。
――まるで私のようだな。とてもちぐはぐで不安定で歪だ。
いつからか私の絵は描くことより、成功することを念頭に置いた。
気が付けば描きたいものよりも、居もしない誰かからの評価を得るためのもので溢れかえっていた。
私には自信がなかったのだ。
些細な差すら私の目には崖のように高くそびえて身をすくませたから。
だから確かな保証を欲しがった。
私は自尊心が人より多かった。故にいつまでも人より臆病であったから。
認められたいと思うほど私は自分ではなく評価される人の手を真似、顔を真似、足を真似、不安定なものになってしまったのだ。
本当はきっと両親の心配すら毛ほどもしていなかった。
ただ失敗を自分のせいだと後悔したくはなかったためだけに、絵をやめ、進学もせず、ただひたすらに逃げ続けた。
それでいて成功を羨んで、未だ成らない自分に失望して生きることすら放棄した。
あの時何にも残らない選択をしていたのは他でもない私だったのだ。
とどのつまり私は、何に対しても中途半端な奴であった。
成りたいと思いながらたいした努力もせず、我が身を恥じて逃げ出した卑怯者であった。
再度窓ガラスに映った己を見つめる。
そこにはやはり怪物がいた。
しかし先程までとは違い、その奥には黄色いぼんやりとした光がみえた。
私はその光に吸い込まれるように窓を割り、バルコニーへと進み入る。
光は、欠けるところのない美しい満月であった。
思わず私は身を乗り出す。
到底、届きそうにもないその美しさはどこかRを想起させた。
しかし、精神の死を待つのみとなった私にとってその美しさはどこか愛おしく感じられた。
ちらと足元を見ると、底の無い闇が広がっていた。
それを目にして、もう戻れる命はないことを悟った。
私は重力に身を任せ、闇へ落下する。
その怪物は誰の目に触れることなく闇へ消えていった。
ただ月あかりだけがその怪物の最期を照らし出していた。
深層の怪
閲読ありがとうございます。