いじん

この作品は元は英語で書かれたものを、日本語に訳したものです。読み辛いところもあるかと思いますが、寛大なお気持ちで読んで頂けると幸いです。

全部で二十八章の長編になりますが、星空文庫には最初の七章を掲載しています。完全版は以下のリンクよりキンドルで販売中です(1200円)。
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第一章

第一章

 大久保利通は、少なくとも初見から人に恐れられるような風貌をしていたわけではなかった。背が高く、ひょろりとした印象を与える、その体の上には若干大きすぎのずんぐり頭を乗っけていた。髪は天辺から既に薄くなり始めていたものの、それを周りに気取られぬよう細心の注意を払い、ポマードをふんだんに使用し、まだ左右に残っている光沢の良い見事な髪を慎重に弄っていた。彼は身嗜みにこだわりがあることで知られており、まるで鏡の前の花魁のように、自分が望んだ通りの結果になるまで、その髪を精緻なまでに分け、梳き、巻き、固めていた。(私が覚えている限り、大久保が本気を出したときにはいつも、それが何であれ、彼は望んだ通りの結果を得ていた。)頭の頂点で髪の束を平らに固め終えると、更にこめかみ際で髪の毛の先を少し丸めるのを好んでおり、その様はいつも私に、かの偉大なるフランス皇帝ナポレオンの姿を想起させていた。そして、これだけではまだ足りぬと言わんばかりに、大久保はこの使節団に乗り出して以来、誇らし気な西洋風ウィスカー()すら生やし始めていて、彼が旅の最初の二、三か月の内に生やすことに成功した口髭は常に小奇麗に整えられいた。彼の服装には侍らしさなどはまったく残っておらず、またそのせいで、船中では彼の個人的習慣を嘲笑う声がコソコソと囁かれていたりもした。だが服装に侍らしさがなかったとして、彼の態度にはそれが十二分に存在しており、彼に面と向かって意見できる者など皆無であった。彼の仕草は殆ど王者のそれであり、相手が下級の荷物持ちであろうが岩倉卿であろうが分け隔てなく堅苦しい類のものであり、また彼は、最も気を緩めているときですら、ベルトの上からかつて大小が収められていた位置に手を休めるという、周囲をやきもきとさせる癖を持っていた。とはいえ、彼の面構え、それ自体は非常に落ち着いた特徴をしていた——細長の顔に貴族的な頬骨、重厚な顎に、滅多に笑わない幅広で荒くれた口、そしていつも飽きたかのように半分閉じられ、無表情な眉の下に深く沈み込んだ黒く大きい瞳。彼は全てを見ていたが、何も言わなかった。それが周囲の人間を怖がらせたのだと、私は思う。野卑な男は憎しみと恐怖を喚起し、愚かな男は軽蔑と嘲笑の的になるものだが、何も言わず何も見せない男の考えを読むことは不可能であり、そして人は他の何よりも未知を恐れるものだ。

 その日列車から降りた大久保は車両のステップ上に一瞬留まり、キンと冷えた空気に白い息を吐き出しながら、ソルトレイクシティ駅の総てを、その深い視線でゆっくりと凝視した。

「これがアメリカか」と彼が呟くのを、私は聞いた。

「木戸参議」と通詞ライスの遠慮がちな声が後ろから聞こえてきた、「恐縮ですが、閣下にお進みいただけるよう、お頼みいただけますか?日が暮れる前に百人を越す大所帯を、この列車からホテルまで移動させないといけないのに、もうお昼過ぎなのですから。」

「一体何を言い出すのだ」と私は大久保に向けて言った、「我々がアメリカに着いて、もう三週間も経っているではないか。それとも今になって初めてアメリカを発見したとでも言うのかね?」

「さて」とだけ短く答えると、大久保は冷たい風に対して外套の襟を返し、完璧に整えられた髪に注意して帽子を被り、車両のステップからホームへと大きな一歩を踏み出した。ようやく後ろのライスのせっかちな鼻息が止んだ。

「木戸参議、大久保卿。どうぞこちらへ」とライスは言いながら、ホーム上に整然と並ぶ、綺麗に磨かれたブーツとトップハットの一行の元へと私達を案内した。

 今朝、オグデンという小さな街に列車で到着した私達は、その先のユニオン・パシフィック鉄道の線路が大雪で閉ざされてしまっており、貴重な数日間を遅延で失うのは避けられないであろうと聞かされた。だが奇遇にも、朝食を食べている最中に、新たな機会は予想外のところからやって来たのであったのであった。我々はその場で、ソルトレイクシティなる街から来たという紳士達に紹介され、彼等はなんでも、我々をちょっとした以南の寄り道、ユタ自治領内随一の重要拠点である彼等の街へと誘致したいということであった。かくして、世界万国の優れた文明に広く知見を求め調査する、という目的から構成された我々の使節団は、ユタ・セントラル鉄道の列車へと乗り換え、予定外の調査へと向かう次第になった。

 さて、我々をオグデンまで誘いに来た者達は、彼等を出迎えに来た仲間達を相手に、使節団誘致に成功した功績を自慢しているようであった。これは我々がサンフランシスコに到着してすぐに経験したときの歓迎の様子に似通っていた。異国の使節団をもてなすと言うのは、田舎の名士達が暇潰しに興じる酔狂みたいなもので、連中は使節団一行を、さながら景品か何かのように見ているようであった。私はこういった扱いや歓迎ぶりに憤りを感じるべきであったのかもしれないが、正直なところ、別にどうでも良い話でもあった。連中は自らの目的のために我々を利用しているだけかもしれないが、それはこちらも同様で、故に文句を言う筋合いはなかった。私にとって唯一興味深かったのは、我々がどこに行っても付いて回る、過剰なまでの使節団面々への賞賛であった。私如きのために、なんとも大仰なことだ。萩の外れの下級武士、卑怯者の桂、血を見たこともない侍、天皇陛下の信頼すら未だに勝ち得ていない参議……私は、虚無の王だというのに!東京では、誰も私のことなど真面目に取り合わなかった——『木戸さんは、餓鬼っぽくて感情的すぎる。想像力ばかりいつも並外れて豊かだが、議論になるとすぐに貶されたと思って大袈裟に喚き、国元の母のことなど話題に上れば、それだけでたちまち涙したりする。』それどころか、仲間内ではお互いに警告しあってさえいた、『木戸さんには重要な案件は何も打ち明けないほうが良いぞ。口が軽いから、大久保卿に正式に建言する前に、皆に知れ渡ってしまう。』私という存在は、東京の省内の廊下で囁かれる、幾千もの冗談のネタでしかなかった——だがこの地では、私は気品と誇りに満ちた地位の人間であり、東洋の貴公子であった。今この瞬間、異人達が畏怖と尊敬の混ざった視線で私を見上げるたびに、私は自分が持つ影響力の感覚に酔いしれ、名状しがたい充実感を感じていた。この可笑しな者達が進んで、私の目前に無様に這いつくばりたいというのなら、それをわざわざ止めてやる義理もなかろう?

 そうこうしている内に、ホーム上の外套の集団にデロングが加わった。ライスはそれを期に、ソルトレイクシティの錚々たる重鎮達に、使節団の面子を一人づつ階級順に紹介しはじめた——即ち、全権大使及び右大臣の岩倉具視卿、長州出身の副使及び参議の木戸孝允、薩摩出身の副使及び大蔵卿の大久保利通、長州出身の副使及び工部大輔の伊藤博文、佐賀出身の副使及び外務少輔の山口尚芳(ますか)、そして米国大使チャールズ・E・デロングとその御夫人。これに対する返礼として、我々も先方の紳士達の名前を矢継ぎ早に聞かされる羽目になった。異人達の名前は相変わらず奇怪なものであった、まあ恐らく向こうも我々の名前について同じことを思っていたであろうが。オグデンからここまで我々に同行して来たのはケイン、フラー、ヘイデン、マキーン、ワインダー——これに加えて、ここまで迎えに来たのはジェニング、クラウソン、ウェルズ、ウッズ、ヤング、スミス、カノン、プラット等々で、あまりの人数の多さから、誰がクラウソンで誰がカノンなのか分からなくなってしまうほどであった。無数の握手が交わされ——私達の中には、いつもの癖でお辞儀をする者まで出てきた——加えて他にも、デロングがこの場に合っていると判断された行儀作法は、全てこのホームの上で繰り広げられた。これは私がサンフランシスコの波止場の土を踏んだときから感じていたことだが、どうもアメリカ人のホストという連中は、みな揃いも揃って行儀だけは良いくせに、どうも常識を欠いているように見受けられた。今この場で過剰な行儀作法に興じるにはちと寒すぎるではないかと、私は思った。

 どうやら大久保も同じ考えであったのか、彼が何か岩倉卿に耳打ちすると、卿はそのままデロングの方を向き、続きはまたホテルに落ち着いてから再開してはどうかと尋ねた。我々のホスト達もこの発言の意図を即理解したらしく、早速馬車の行列が待つ街路へと我々を誘った。最初の馬車には五人の大使と副使、次の馬車には幾人かの理事官、三台目の馬車にはデロングと数名の使節団付きの異人、四台目にはデロング夫人と五人の女子、そして最後の五台目には現地のホスト達がそれぞれ乗り込んだ。随行員達や書記官達は、この五台の馬車が戻ってくるのを待ち、そのほか使節団に同行しているだけの五十人ほどの留学生の若者や子供達に至っては、自力で雪道を歩きホテルへと向かう手筈になっていた。

 ホテルに至るまでの、短いが凹凸の激しい道を乗った後、我々は冬の空気にはあまり晒されることなく、すぐにホテルの中へと案内された。一方ロビーに着いてからは、使節団一行が一人づつ宿泊客の名簿に記帳するという退屈な時間が待っていた。

 やがて私の番が回ってくると、ライスが私の名前を言うのを注意深く聞いた後、宿の主人は『J. T. Okubo』のすぐ下に、『J. T. Kido』と記した。

「この『J.』と『T.』とは、一体何だ?」と私はライスに尋ねた、「おい、こいつ間違っているぞ。彼に『Kido Takayoshi』だと伝えてくれ。」そして私は宿屋の主人に向けて繰り返した——「『Kido Takayoshi』!」——主人はどこか抜けていて人の良さそうな笑みを浮かべたまま、ただ頷くだけであった。

「『T.』は勿論『Takayoshi』の頭文字です」とライスが説明した、「こちらでは姓の前に名を書くのが慣習なのです。そして『J.』は『従三位』の頭文字になります。『Jusanmi Takayoshi Kido』、略して『J. T. Kido』というわけです。」

「だが従三位は名前ではなく、位階ではないか!」

「閣下、ここでは位階は大変重宝されるものなのです」とライスは生真面目な表情をくずすことなく言い切った、「信じてください——こう書いておいたほうが、絶対に通りが良いですから。」

 私はライスの説明にまだ懐疑的であったが、これ以上文句を言うのは控えることにした。私の不満を承知の上で、彼が取り合わないでいることは、既に分かっていたからだ。こうして私はこの街では今後永久に『名誉ある使節団副使閣下J. T. Kido』として覚えられる羽目になった。すると私の名前は『John Thomas Kido』になってしまうかもしれないわけだが、それがどんなにふざけた話なのか、ライスはちっとも分かっていないようであった。唯一の救いは、私同様、大久保ですら『John Thomas Okubo』という辱めを受けているということであった。もし奴が今後二、三日間この名前で呼ばれることに耐えられるというのであれば、私も同じく我慢してみせようではないか。

「先生」と囁く声に振り向くと、満面の笑みを浮かべた伊藤がそこにいた、「アメリカにおける、貴方の新しいお名前は何になりましたか、先生?」

「なんでも『ミスター・J・T・キド』らしい」と私は溜息をついた。伊藤ならば、こんな滑稽の中にですら、何かしら愉快なことを見いだせることは分かっていた、「君のほうはどうだったのだ?」

「どうやら私はここに滞在している間『ミスター・J・H・イトウ』なようです」と伊藤は仰々しいお辞儀と共に宣言し、岩倉卿に横目で睨まれつつも、ただその口元の笑みをハンカチで隠し、言い加えるのみであった、「早急に新しい名刺を刷ってお届けしますよ!」

 伊藤博文は女と金に緩い、大層気風の良い男であったが、その割にはそれなりに有能な官僚で、既に従四位の位階を贈与されており、副使として参加しているこの今回の使節団においても、岩倉卿、大久保、そして私に次ぐ立場にあった。かつて若かりし日にロンドンに留学していた経験もあり、我々の中では珍しく多少なりとも英語が話せる人材として重宝されていた。彼の英語力は実際、中々のものであるらしかった。だがそれにも増して重要だったのは、相手がどんな異人でも、この男がまったく物怖じすることすぐ打ち解け、踏み込んだ議論が出来るということであり、彼のこの気質とやたら弁論好きな異人達の気質とは、よく噛み合うようであった。伊藤は天才と呼べるほど明晰な頭脳を持ち合わせていたわけではなかったが、一方ではかなりの読書家であり、学術的好奇心を満たすことに貪欲であった。この男はまた、それ以上に快楽に貪欲であり、毎晩のように芸者達や騒々しい酔っ払いの仲間達に囲まれては、いつも何かしらの悪戯に興じていた。外見の話をすれば、彼はけして男前ではなく、むしろ目立った特徴は一切持っていなかったが、それでいてその平凡さを補う不思議な愛嬌を持っているのか、男でも女でも、相手には事欠かないようであった。背が低く、太い首のガッチリとした体躯と大きな平顔は柔術家を思い起こさせ、そして外側に向けて吊り上がった、狐のような一風変わった細目は、いつも笑っているような印象を与えていた。彼は私より八歳以上若く、彼がまだ俊輔という名で呼ばれていた少年の頃、松陰先生の足元に座し、目を輝かせて講義を聞いていた姿を、私はよく覚えている。それが今や私は三十八歳、彼は三十歳になっており、二人共この国の政権の座についたというのに、この男は未だ少年時代から変わることなく、私をまるで実兄かなにかのようにからかうのだ。

 名簿の記帳を終え、宿の主人がデロングとライスを横に呼び、何やらヒソヒソと相談話をし始め、それを聞きデロングの表情が険しくなるのが見て取れた。

 我々を各自の部屋へと案内しながら、ライスが申し訳なさそうに説明した。「今日は宿泊客が予想より多く、残念ながら使節団の半分には列車に寝泊まりしていただく必要があるとのことです。また、これも宿の主人が、どうか貴方にお許しいただきたいと懇願していたことなのですが、木戸参議には今日は60番号室にお泊まりいただきたいとのことです。今日だけはもうスイートルームが残っていないらしいのですが、明日には新しいお部屋に移りいただけるはずです。」

「それなりに柔らかくて、線路の上をガタゴト走っていない寝床なら、それだけで既に昨晩よりはましだからな。君の話を聞く限り、どうやら部屋があるだけでも喜ぶべきなようじゃないか!ときにライス、この宿の主人に、近くに銭湯なり風呂屋なりがあるかどうか尋ねてくれないか?長く列車に乗っていたせいで、体がベトベトして敵わないのだ。」

 早速ライスが主人に尋ねに行き、二人はいくつか言葉を交わした。主人は、どこやらをしきりに指さすと——道筋でも説明しているのであろうか——やがて二人は突然合点がいった、とばかりに大笑いし始めた。

 ライスは私のほうを向くと、悪戯めいた顔で言った。

「木戸参議。代わりに温泉に行かれては如何ですか?」

「温泉!」と私は思わず躍り上がって言った、「アメリカにも、そんな素晴らしいものがあるのか?」

「我々もそこまでの後進国ではないということですよ」とライスが再び笑って答えた。

「温泉?誰か温泉って言いました?」と続いて廊下の端から伊藤の声が聞こえてきた。

 そして、「温泉!」という叫びが部屋から部屋へと連鎖し、しまいには岩倉卿の頭がヒョッコリと扉の間から現れ「温泉?一体なんの話だ?」と声を上げた。

 大久保同様、岩倉卿もまた、初見で他人に強い印象を与える外見ではなかった。背は低く、また公家独特の奇妙な顔をしていたからだ。しかし大久保とは異なり、岩倉卿はすぐに相手の印象を変えるに足る力を持っていた。機知に富み、優れた頭脳を擁し、老獪に政治を操るその手腕は、たとえ私が今後二十回生きたとしても、とても辿り着けない域に達していた。そしてこれらの才能にも関わらず、卿は私達のような下位の者達に対しても構えることなく親身になって接してくれていた。卿は私がこれまで見てきた中でも最も真っ当な公家の一人で、大久保も私も、この天上人に等しい人物が私達に対して揺るぎない信頼を預けてくれていることを、心から感謝していた。

 この誇り高き公家は廊下を急ぎ足で渡り、目下の重要案件の真偽を問い正しに来られた。

「温泉と言ったのか?」と卿が威厳たっぷりの顔でライスに迫った、「冗談では済まされぬぞ、若者——これは冗談では許されぬ話だ!本当にこの僻地のど真ん中に温泉があると申すのか?」

「温泉とは大体、僻地にあるものではないですか?」とライスは微笑んだ、「宜しかったら、手配いたしますが?」

「ライス、お主は英雄、賢者、いや聖人だ!」と岩倉卿が破顔した。

 こうして荷物を開く間もなく、我々一行は廊下と階段を駆け下り、馬車へと殺到していた。馬車が温泉に辿り着くまでのおよそ一里の旅の間、我々は期待にはちきれんばかりであった。目指す理想郷は今か今かと窓の外を眺めつつ、馬車は喧騒を極めていた。

 通常、日本人が温泉を求めるのに理由は要らないが、私の場合は事情が少し異なっており、治療の一環として湯に浸かる必要があった。と言うのも、ここ数年ほど私は体調が芳しくなく、特にこの西洋視察に出発してからの一か月間は、持病の痔にかつてないほど苦しめられていたからだ。脂っこい異国の食生活、常に旅路にあることからの緊張、そして奇怪な『座る便器』などのせいで、気の休まることがなかった。異人達が『温泉』と呼ぶ、恐らくぬるま湯みたいなものであろう代物にどれほどの効能が期待できるかは分からなかったが、今は藁にも縋りたい気持ちであった。

 馬車がようやく目的地に到着したとき、私には一体どれが温泉なのかすぐには分からなかった。伊藤と共に馬車の窓から覗いてみても、目に映るのは山稜の麓にポツンと立つ、小奇麗な白い柵に囲まれた趣のある木造小屋だけであった。その外見は、ここまでの道すがら見てきた納屋と変わらず、そこにはポーチ、煙を吐き出す煙突、綺麗な白い窓枠の他、凍えそうになりながら玄関の扉を掻いている猫がいるだけであった。

「ここが温泉なのか……?」と訝しむ声が出ていた。これは何かの手違いで、私達はこのまま裸で誰かの家に突入することになるのであろうか。

「一応、扉の上には『BATH() HOUSE()』とは書かかれていますね」と伊藤が私に読み聞かせながら言った、「なのでもし違っていたとしても、悪いのは誤った表現で日本人を誘い込もうとした主人のほうでしょう。」

 ライスに連れられるまま中に入ると、最初に見えてきたのは薄暗い廊下と小さいデスクだけであった。彼はそこで私達の入浴料——一人当たり25セントで入り放題!——を集めて支払うと、店員から手渡されたタオルと石鹸を渡して回った。彼は廊下にある、カーテンがかけられただけの小さい扉のいくつかを指さした。「それぞれの部屋の中に、温泉があります」と彼は説明した、「複数のプールに分かれているのですね。この時間帯には女性のお客様はいらっしゃらないようなので、そこはお気兼ねなくいただいて大丈夫です。御自由にお部屋を選んでいただき、好きなだけお湯に浸かってください——部屋の中には体を洗うための蛇口もあります 。ですが、まあ、あなた方に改めて説明するほどのことではありませんね。」

「一緒に入ってはいかないのかい、ライス?」と伊藤が気軽に尋ねた。

「やめておきますよ」とライスは口の端を持ち上げて答えた、「もし他に御用がなければ、私は先にホテルに戻ることにします。お帰りの際には、店員に馬車を呼ぶよう伊藤副使が指示していただければ大丈夫です。」

 待たないというのは、良い決断であった——日本人の集まりが、温泉で談話し寛ぐのにどれだけ時間をかけるかなどは、誰にも予測できないものだ。

 さて、どの部屋でも良いとなると、仲の良い者達で固まるというのが自然な流れであった。使節達は互いを尊敬し合ってはいたものの、一緒に風呂に入るとなると話は別であった。私自身、大久保は無論、岩倉卿とでさえ、同室しては寛げないことは分かっていたので、代わりに同郷の士である伊藤と山田を誘うことにした。

 早速、廊下の最初の部屋のカーテンを持ち上げて中を覗くと、湯に浸かっていた四つの毛むくじゃらの赤ら顔が見つめ返してきた。思わずカーテンを取り落とし、小声で謝りながら次の部屋へと急ぐと、幸いこの部屋は空いていたので、我々は早速取り掛かることにした。部屋の間取りは日本の小さい温泉とさほど変わらず、そこにはがたついた木枠に囲まれた湯舟、服とタオルを吊るすための壁掛け、そして部屋の片隅に位置する、跪いて体を洗うための質素な蛇口があった。

 上着とネクタイが飛び交い、靴が無造作に放り投げられ、シャツはせっかちに脱がれた。湯上りに無様な姿を岩倉卿に晒すことにならぬよう、一応着ていたものは壁掛けに吊るした。

「うわっ。この風呂、深いですよ!」と山田が湯を覗き込んで感嘆の声を上げた。

 彼の言う通り、どうやらこの湯は四尺半ほどの深さらしく、我々の仲間内では殆どの者が、足をつけても顎近くまで湯が来るほどであった。「まあ異人は皆、巨人だからな」と私は微笑んだ、「温泉も同じように、大きくするしかないのだろう。」

「私なんか溺れちゃいますよ!」と小柄な山田が明るく笑った。

 私が先に体を洗っている間、この二人は神妙に待機していた——地位に付帯する特権もあるものだ。次いで伊藤と山田が順に体を洗っている間、私は一足先に風呂の湯加減を確かめることにした。「あち!これは、本物の温泉だぞ。」

「熱すぎですか?」と山田が泡立てた石鹸で足を洗いながら尋ねた。

「いやいや」と言いながら、私はゆっくりと湯船に身を沈めた、「あちちっ!いや、最高だ!」

「あぁ!」と伊藤もつられて湯に手を浸した、「良い湯加減ですね——個人的には、もっと熱くても良いぐらいですけど。あ、それに、どうやら溺れずに済むようですよ。ちゃんと座るための石があります。」

 この伊藤の言葉は、どっぷりと湯船に浸かった私の耳を左から右へと通り過ぎていった。熱い湯が肌を包み込むにつれ、私は思考が至福の霧の奥へと沈んでいくのを感じた。体中の血が上り、脳髄を駆け巡り、心地よい眩暈と共に、私の顔を上気させた。湯から出ている強い鉱物の香りは、催眠的ですらあった。

「木戸先生……?」

 まるで遠くから聞こえてきたかのような伊藤の声に、気怠るく向き合い「ん?」と返事を返した。

「ああ、良かった。生きていますね」と伊藤は笑いながら言った。だが伊藤自身も湯船に浸ると、その笑い声は満足の溜息へと変化した。この調子なら、あと二、三分間は邪魔せず静かにしてくれていることであろう。

 こうして私たち三人は、ただ湯に身を任せ、まるで心地よい猫のように目を細めながら、沈黙と共に湯をのんびりと満喫した。

 しばらくして最初に沈黙を破ったのは伊藤であった。「嗚呼、これで後は上等な酒さえ飲めたら言うことないのになぁ!」と唸りながら、顎まで湯に浸かった。

「良い景観もあると良いな」と私も呟いた、「この辺の山々は中々のものだ。何故この不要な壁を取り払い、湯に浸かりながら眺められるようにしないのかな?」

「先生!」と伊藤が大笑いした、「そんな、とんでもない!」

 時折、伊藤はこのように人を鼻で笑う悪癖があり、それはまるで『あれ、木戸先生は西洋について何も御存知ないのですね?こういうとき、ロンドンではですね……』とでも言うかのようであった。そんなときは大抵、私は真面目に取り合わず、無礼な若造の戯言として無視するようにしていた。だが、今みたいに山田の目の前で、こうも気軽な態度で私に接する不遜さには流石に苛立ち、思わず顔を顰めずにはいられなかった、「伊藤君。君は一体、その知識がたっぷり詰まった重い頭をどう支えているのかね?」

「もし木戸先生が、ここでの相客に御不満でしたら」と伊藤はすまし顔で言った、「大久保卿のお風呂に移りになっていただいても宜しいのですよ。」

「まあ、そこまでしなくても良いだろう」と私は答えた。

第二章

 充足感の余韻が残る中、汗ばみ、火照った頬と平らになった髪と共にホテルに戻ってきたのは数時間後のことであった。夕食はホテルのダイニングルームで取るきまりになっており、今夜はもう肌寒い外気に晒されずに済むというのはありがたい話であった。食後、伊藤とロビーの階段近くで会話をしていると、とある気品豊かな紳士が近づいてきた。今朝我々を迎えにオグデンまで来た一行の一人ではなかったかと思っていると、伊藤はこの紳士こそユタ自治領の旧知事、ミスター・フラーだと私に紹介した。

「オグデンまで迎えに来た委員会は、私達の滞在中、私達をもてなす責務も負っているのだと言っています。と言うことは、これからの二、三日間、彼とは頻繁に会うことになるでしょうね」と伊藤が加えた。

 光栄に思いますと、私は紳士に返礼した。

「彼も私達同様、このホテルに滞在しているそうです。そしてこれから彼の部屋に木戸先生も招待して、ちょっとした首脳陣会合を開きたいと仰っています……」と伊藤はフラーが二、三言付け加えた説明に耳を傾けてから、通訳を再開した、「……このユタで、どういった知見が期待出来るのかを、事前に説明したいとのことです。」

「岩倉卿も御同席されるのか?」

「はい、そうだと仰っています。」

「そして君は招待されていないと?」

「何も、そうハッキリと言う必要はないじゃないですか」と言い、伊藤は口を尖らせた、「『首脳陣だけ』の会合だと、彼も言っています。」

「だが我々だけで、彼が何と言っているのか、どう理解できる?」

「恐らくライスも同席するのでしょう。」

「宜しい。ならば喜んで招待を受けると、彼に伝えてくれ。」

 フラーに連れられ階段を上っていくと、そこにはちょうど、フラーの部屋の前で大久保が懐中時計を確認しようとしているところであった。フラーは如才なく我々を部屋に招き入れはしたものの、大久保とも私とも会話を交わせぬままであり、彼は代わりに鈴を鳴らしてウェイターを呼ぶと、軽食を持って来るように指示した。大久保がすぐさま上着の内側から煙管を取り出し、仕草だけで喫煙しても良いかとこのホストに許可を求めると、フラーは激しく頭を縦に振ることで了承した。更には大久保が煙草入れを引き出す前に、彼は素早くデスクに飛んで向かい自分のタバコを取り出すと、それを熱心に薦めてきた。大久保はこれを拒まず、礼儀正しく感謝しながら受け取った。私達のホストは煙管に興味津々らしく、大久保の細長い指が少量のタバコを掴み上げ、球状に緩く丸めてから、小さい銀色の雁首へと詰め込む様子を見つめていた。フラーは大久保のためにマッチを擦ると、自分自身のパイプをも取り出し、この二つを比較した。アメリカでもう何度も目にしてきた異人のパイプは、太い木の塊で作られた奇怪な怪物で、大量のタバコをその火皿に詰め込められる作りになっていた。フラーは日本の優雅な煙管と、不格好な自身のパイプとを愉快気に見比べていた。一方、大久保はといえば、パイプの見比べにはまったく興味がなく、ただ吸うことのみに興味があるようであった。夕食中一度も吸えなかった不満を払拭するかのように、満足気に煙を吸い込んでいた。

 大久保が最初の一本を吸い終わる前にデロングとライスが、次いで岩倉卿がゆったりとした足取りで到着した。より多くのパイプとタバコが取り出された。私自身は、通常嗜んでいる悪習の中でも唯一、喫煙だけは特に好んでいなかったので、代わりに椅子に深く座り込み、奇怪な果物の香りを漂わせた異国の煙を吸い込みながら、ただ酒が出されるのを待ち望んでいた。

 まずライスが口火を切った、「ミスター・フラーは、我々の使節団に興味がおありとの話です。政治的な理由でも、経済的な理由でもなく海外を訪問する使節団などは見たことがないし、今回の使節団の趣旨は一応聞いてはいるものの、この長くて骨が折れる旅をする目的が一体何なのか、貴方達の口から直接聞きたいと仰っています。」

「それではこの尊敬すべき紳士に、儂等には選択肢がなかったのだと伝えて欲しい」と岩倉卿が若干皮肉の混じった声で答えた、「儂等の国家はようやく戦後の焼け跡から出て来たばかりで、未だに日夜、列強の脅威に晒されておる。新政府はまだ若く経験が浅いし、また日本に古来よりあるものだけでは、世界の文明諸国に仲間入りすることは到底叶わん。儂等には無駄にできる時間などないのだ。まだ封建制度の生み出した闇を抑え込めている内に、可及的速やかに、進歩と啓発を国内へと持ち帰らねばならん。故に、天皇陛下の近習である儂等が、可能な限り効率的かつ早急に、学ぶべきことを全て学ぶため、直接現地へと赴くことを決意したわけだ。地球全体を一周するこの旅を通じ、最も開化の進んだ国々の思想・政府・法律・産業・文化・人民について記録することで、何が将来、新たな日本の国益になるか取捨選択出来るようにするのだ。」

 ライスは時間をかけて考えてから、この高尚な演説を、ただ意味を伝えるだけでなく、私達のホストの耳に心地よい表現になるよう気を付けながら訳した。フラーはこの説明に感心したかに見え、新たな質問をライスに投げかけた。「彼が知りたいと仰っているのは」とライスは少し躊躇いがちに続けた、「えーとですね、日本とアメリカの外交関係の現状を鑑みて、ワシントン政府を相手に、より条件の良い通商条約の交渉に来られたのではないか、を知りたいと……岩倉卿、もし適切でないとお考えでしたら、お答えいただく必要はありません。」

「ならば返答は控えることにしよう」と岩倉卿がわざとらしく答えた、「ただ天皇陛下からは、現在履行中の通商条約を、どのような形であれ変更するような勅許は承っていない、とだけ伝え給え。」

 ライスはこの気まずい話題を巧妙に訳すことに成功したようであった。フラーは話題を変え、今度は彼が、我々が滞在することになったこの侘しい辺境の地についてどんな質問でも答える番だと言った。質問によっては街の他の人間のほうがより満足のいく受け答えを出来るかもしれないが、今は取り急ぎ、ソルトレイクシティ社交界の大枠について、我々の理解を手助けしたいとのことであった。

「おそらく貴方達がここで、まずお耳にするのは、セイント達とジェンタイル達の争いでしょう」と彼はライスの通訳を通じて話し始め、ライスはこれに小声で付け加えた、「この『セイント』というのは、モルモン達のことです。」

 これが、その後何度も聞くことになるモルモンという名を、私が初めて聞いた瞬間であった。

「残念ながら、この両派の不和こそ、この街の日常茶飯事なのです」とフラーが続けた、「とはいえ、貴方方はあまりお気になさらず、誰に対してでも、どんな御質問でもなされるべきです。貴方方は遠くからこの良き街までお越しになられたのだ。お聞きになられたいことは、何でもお尋ねください。」

「モルモンとは、ここに住む人種の一つなのか?」と岩倉卿が尋ねた。

 宗教の一つだというのが返事であった。

「フラーさんもモルモンなのか?」

 フラーは愉快気に、いやいや違うと否定した。

 その時、小さなノックと共に、ウェイターが数本の瓶と杯を乗せたカートを運んできた。

 ウェイターが飲み物を注ぐと、フラーはこのアメリカの労働の成果を是非味わうようにと熱心に薦めてきた。岩倉卿がこの飲み物の名前を尋ねると、林檎から作られたシードルというものなのだとフラーが答えた。

 一口目、私はこの飲み物の甘さが気に入った。しかし二口目で、中に一切の酒が入っていないことに気付き始め、私の中での評価は若干落ちてしまった。

 ウェイターがカートと共に立ち去ったのを見てから、フラーは安心したかのように先程の繊細な話題について話を再開した、「モルモン達はここがまだ未開の荒れ地だった頃に、こちらに住み着いたのです。彼等は幾年もの迫害を逃れ、平和裏に生きるため、この地に楽園を求めたのです。」

「迫害とは、一体何故かね?」と岩倉卿が尋ねた。モルモンが宗教を理由にアメリカの領土から追い出されたのだという返事を聞くと、卿は若干驚いて言った、「だがアメリカでは、様々な宗教の自由が法律で保障されているのではなかったか?」

「その通りです」というのが返事であった、「しかしモルモンは邪教で、道徳的に唾棄すべき教えだと思われているのです。何せ連中はポリガミーを実践しているのですから。」

 岩倉卿がこの、通訳されず英語のまま伝えられた、聞き慣れない単語について聞き返すと、ライスは若干顔を赤らめながらもごついた、「ええと、というのも、彼等は複数の妻達を囲っているのです。」

「あぁ!では何故、そう言わんか!まあ宜しい。で、それはアメリカ人の目には不快に映るのかね?」

「えぇ、とても!それ故に彼等はモルモンを軽蔑しているのです。」

「理由はそれだけのことかね?」

 ライスがこの質問を英語に訳した瞬間、フラーとデロングは両者とも猛烈に声を荒げ、ライスもこれを最初の内は訳そうとしていたものの、途中で諦めてしまった。「閣下、これは『それだけ』というような、小さい問題ではないのだと御理解ください」と他の二人のアメリカ人が大声で論じ続ける中、この哀れな通詞は主張した、「これは野蛮かつ神を恐れぬ所業で、文明社会においては存在自体が許されぬことなのです!」

 私はその場でライスに対して、こちらにおわす大久保が長きにわたり、薩摩と京都に一つずつ、二つの家庭を実に誠実に囲ってきたのだと伝えるのは、流石に無神経かもしれないなと心中で思った。どうやら『文明化された』国家の道徳の中には、我々には到底理解できない事柄もあるらしい。

「まあ、お主等がそう頑固に言い張るのであれば、それはそれで構わぬ」と岩倉卿は顔を顰めた、「モルモン達はアメリカの果てより先に追放されたと。それで、何故連中はこの不毛な地に来て、何故今更またアメリカの支配下に暮らすことになったのだ?」

「彼等はアメリカ合衆国のイリノイを追い出されました。そして彼等の高僧であり、預言者でもあるヤングが、千二百里ほど離れたこの地まで彼等を導き、自分達だけのための街を創ったのです。そして自分達のことをセイントと自称したので、ここは『セイントの街』になったのです。これが1847年のことです。初めの頃、彼等は小さな集団で、たったの144人しかいませんでした。にもかかわらず、彼等はこの地を豊かにすることに成功したのです。ここに住み始めた当初、この土地はメキシコに属していたので、ここならばアメリカの権力も及ばないだろうと彼等は考えたのでしょう。ですが、たった一年後の1848年、合衆国がメキシコとの戦争に打ち勝ち、戦後の講和条約の一環としてメキシコがこの地をアメリカに譲ることになりました。というわけで、モルモン達はアメリカを逃れて間もなく、すぐまたアメリカの支配下に戻ってきてしまったのです。最近になり、近隣で開かれた豊かな銀鉱のこともあり、以来ソルトレイクシティには多くのアメリカ人植民者が流入するようになりました。しかしモルモン達はこの地に長く根を張り成功してきたこともあり、この街の重要な役職は全て独占しているのです。市長・判事・議員・商人……皆、モルモンです。」

「では今日鉄道の駅で我々が会った紳士達も?モルモンだと?」

「ええ、ほぼ全員がそうです」と我々は聞かされた。「そして彼等の預言者こそ、この自治領一の長者で、最も権力を持つ人物なのです。ユタ自治領は十三万人を超す人口を有し、中でも二万人以上がこの街に住んでいて、その全員がこの男の気まぐれの支配下に置かれているのです。モルモン以外、つまり彼等がジェンタイルと呼んでいる人々——我々にとっては侮辱的な呼称ですが——は、街の人口の僅か三分の一ほどでしかないのです」とライスが言い加えた。

「では、そのモルモン達とやらが、この地の真の支配者だというのだな?」と岩倉卿が驚いたように言った。

「厳密には違います」とライスが答えた、「彼等はこの地における全てを管理してはいますが、支配者ではないのです。」

「ライス、それでは筋が通らなかろう」と岩倉卿は優しく諭した、「何か間違って訳しているのではないか?」

「そんなことはございません、閣下」とライスはきまり悪さに赤くなりながら答えた、「それもこれもアメリカ合衆国が……ええと、良いですか、アメリカはユタ自治領を軍の力で支配してはいるものの、この地の住民の心情と精神までには、影響力を及ぼすことには未だ成功していないのです。無論この自治領にも、モルモンではなくワシントンの政府に忠誠心を持った知事が派遣されています。しかしこういった人物すら、雁字搦めにされているのです。もし民衆がこの人を無視しようと決めてしまったら、彼に出来ることは限られてしまいます。ミスター・フラー御自身も、知事だった当時、多くの問題に直面したと仰っています。現知事のミスター・ウッズが面している現状は、若干良くなっているのかもしれませんが……?」

「それは彼に直接聞くしかあるまい」と岩倉卿が答えた。

 そして会話は自然と、あまり気まずくない、即ちあまり興味深くない話題へと移っていった。しばらくして私は、大久保の指がぴくぴくと神経質に動いていることに気付いた。懐中時計を見たいと思う強い衝動を、それは堪え難いほどに無礼だという考えで抑え込んでいるときの、彼のいつもの癖であった。じれったさは私も共有していたが、彼ほどの責務に対する義理堅さは持ち合わせていなかった私は、時を見計らい丁寧にその場を辞し逃げおおした。ミスター・フラーの応接間を出ると、私はその足で89番号室に向かい、静かに扉をノックした。

 伊藤は私の来訪にまったく驚いていないようで、ただ微笑んだ、「会合は上手く行きましたか、先生?」

「頼むから、荷物のどこかにウィスキーをしまい込んできたと言ってくれ」とだけ私は言った。

「お入りください、お入りください」と伊藤が笑って言った。

 彼が気前よく注いだ一杯を手に、私は肘掛け椅子にドサリと腰を落とした、「なあ俊輔君、我々は何とも不思議な土地に来てしまったようだ。」

「と言うことは、ミスター・フラーの話は有用であったと?」と伊藤が自身の杯から一口飲んで言った。

「ああ、かなりね」と私は答えた。酒の温かみが、指先に至るまで全身の神経を伝わっていき、既に体がほぐされていくのが感じられた、「伊藤君、これはどうも、当初の考えほど一筋縄ではいかなさそうだぞ。我々は西洋について研究し、その成功と失敗から学ぼうと考えていたわけだが、それもこれも東京で仮想論をしていたときの話だ!一体、我々の教科書のどこに、インディアンやらモルモンやらの話が出てくると言うのかね?」

「まあ私の経験に照らし合わせても、アメリカのほうがイギリスより何かと多彩なのは、まず間違いありませんね」と伊藤が答えた、「とはいえ、別に何も変わらないじゃないですか。インディアンだろうが……なんでしたっけ、モラモン?だろうが、私達には関係のないことでしょう。」

「モルモン」と私は訂正した。

「そのモルモンとやらが何です」と伊藤は続けた、「唯一重要なのは、ワシントンで何が我々を待ち構えているかでしょう?そりゃあ、アメリカから学べることが多いのはその通りですが、この強国に立ち並ぶことを望むどうこう以前に、まず、私達を不平等な立場に燻ぶらせている障壁を取り除く術を見つけないと駄目でしょう。」

「不平等条約のことを言っているのか」と私は言った。

「他に何があります?」と伊藤は杯に向けて呟いた、「日本の屈辱ですよ、あれは。我々の国家主権を侵し、天皇陛下御自身の誇りすら傷つけ、こちらの意思を無視して市場を海外へとこじ開け……!それでいて我々は関税の税率を変えることすら出来ず、不利な輸出税のせいで、列強が暴利を貪る中、産業は窒息させられる一方です!外国人達は我々の土地に住んでいながら、我々の法律に従う必要もなく——我々は自国の港すら支配する権利を持ち得ない!それでいて、こんな条約ですら植民地にされるよりはマシだと?私達はこの旅を通して、こう言った条約類を研究し、その複雑さを紐解き、どうすれば現状を改善できるか理解しないといけないのです。」

「それは無論だ」と私は断言した、「苛立たしいのは分かる。面目が立たず、極めて屈辱的なこともだ。だが伊藤君、我慢強くあらねばならん。君はまだ若いし、きっといつか、日本が文明諸国と机を並べる日が来るのを目の当たりにするだろう。我々はそのためにここにいるのだ……どうすれば、まともに取り合ってもらえるようになるのかを学ぶために。」

「その基本的な権利を得るだけのために、どれだけの対価を支払わわないといけないのですか?」と伊藤が物思わしげに言った、「何を犠牲にしないといけないのですか?何者にならないといけないのでしょう?」

 彼が何を言わんとしているのか、私には良く分かった。「まだ、しっくりとしないな」と私は二、三週間前にサンフランシスコで仕立てばかりの背広を見下ろして言った、「毎朝これを着る度に、私は偽者になったような気分になるよ。まるで他人の皮を被っているような感じだ。」

「まあ、そんな考え方は止しましょう、先生」と伊藤は人が好さそうに肩を竦めた。これも、彼だからこそ、簡単に言い捨てられることであった。彼にはもう二度の海外渡航経験があり、西洋の背広は彼の体格に自然と似合っていた。これは、いつも自信満々に胸を膨らませ歩き回っている連中全員について言えることであったが。「代わりにですね」と彼は再び胸を膨らませながら続けた、「代わりに、これは変装だと思えばいいんですよ。敵との合戦に及ぶ際に、相手方の姿に変装していれば、勘付かれることなく接近出来るでしょう?」

「合戦、か」と私は薄く笑った、「私にはあまり馴染みのない話だな。」

「ええ、でも変装についてなら、先生は昔からお詳しいでしょう」と伊藤がクスリと笑った、「危機が迫ったときにはいつも、賢い手段でどうにか逃げ延びてこられたじゃないですか?新選組を躱すために、船乗り、物乞い、荒物屋、芸者の箱屋……女性に変装されたことすらありましたっけ!そして今度は、文明国における西洋人の役を演じているというだけの話ですよ。それだけのことです、先生。ただの新しい役みたいなものです——こんな大役、先生以外、誰に出来ますか。」

私はその優しい言葉に何も言えず、ただ手中でクルリクルリと揺らしていたウィスキーの杯に視線を落とすしかなかった。口を開けば、感傷的になってしまう気がした。

「もう少しいかがです?」と私の思考を遮るように、伊藤が穏やかに言った。

 私はただ頷いた。

「ともかく」と私の杯に新たに注ぎ足しながら、伊藤が続けた、「ソルトレイクシティの話の途中でしたね。フラーさんがどんな話をしたのか知りませんが、相当お気に召されたようですね。」

 私はウィスキーを一口、もう一口と口にしてから答えた。「君は誰彼構わず話すから、私が聞いたことより多く、すぐどこからか聞きつけてくることになっても驚かないがね。まあ興味があるようだから話しておくと、この地はかなり奇妙な具合のようだぞ。邪教に、唾棄すべき教えに、預言者に、インディアン……そして、それらをひっくるめて鎮圧しようと待機している合衆国陸軍!正直な話、私はこの荒野を本当にアメリカと呼んでいいのかすら、よく分からんよ。」

「へぇー?」と、伊藤が思慮深げに言い、今や彼もウィスキーの杯を手中で揺らし始めていた、「だとしたら、何故岩倉卿はこの珍妙な僻地に来ることに同意されたのでしょうね。我々のアメリカでの旅程は、研究に有用な街にだけ立ち寄るよう計画されていたじゃないですか。そりゃあ、線路が閉ざされちゃって東部に進めないっていう事情は分かりますけど、だとしたらオグデンで雪の除去が終わるまでの間、ただ待っていればよかったじゃないですか?どうせ一日、二日程度の話でしょう……」

「それはどうかな」と私は残っていた分を一気に飲み干し、もう一杯注ぐよう杯を突き出しながら答えた、「確かにここはボストンではないが、今の時点でソルトレイクシティを見限るのは早計かもしれないぞ。アメリカらしくはないかもしれないが、少なくとも興味深い街なのは確かだ。それに大久保のことだ、きっと奴なら何か研究に値することの二つや三つ、ここでも見出せることだろう。第一、これだけ重要な国家案件に携わりながら、オグデンで無用の日々を過ごすわけには行かないだろう——国税の無駄遣いだしな!」

「やっぱり最後は金の話になりますね、結局」と伊藤が冗談気味に言った、「薩摩の連中に聞かれないようにしないといけませんよ——我々長州人が守銭奴呼ばわりされちゃいますからね。」

「薩摩隼人とて、時には常識を弁えることもあるさ」と私もぼやいた、「この点については大久保も私に同意するはずだ。何せあいつは今や、大蔵卿なわけだからな!」

「そうですね。あの人なら、学びに金をかけるのは正しい金の使い方だと言うでしょう」と伊藤も笑みを浮かべて賛同した、「そのためにはどんな出費も惜しまれないはずです。大久保卿は人に色々と噂されるお方ですが、国のためになると信じたものには金に糸目をつけませんからね——なんでも政府の資金が足りていなかったときに、自腹で公共事業に投資されることもあるらしいですよ。」

「伊藤君、私がこの件についてどう思っているかはよく知っているだろう」と私は溜息をついた、「もし大久保の伝記を書きたいというのなら、村田の部屋にでも行ってやってくれ。」

「先生は狭量すぎですよ」と伊藤はからかうように笑った。

「そして伊藤君は不遜すぎる」と私は杯を空にしながら言い返した、「まったく!何の話をしてくれても構わないが、あいつの話だけは止してくれ。こっちは朝から晩まで、あの頑固な薩摩っぽ、芋喰いの相手をさせられているのだ……同盟以来の幾星霜、国家の瓦解を防ぎ、共闘するため、見たくもないあいつの面を何度も見てきたわけだが……此度の旅はあんまりだ!日々酷くなる一方だ。毎日毎日、あいつと顔を突き合わせなきゃならんのに加えて、一緒に暮らさないといけないんだぞ!」

「でも木戸先生。先生こそ、よくあの人の話をされるじゃないですか……」と伊藤があえて言った。

「そんなことはない!」

「分かってますって、先生」と伊藤は慌てて私を落ち着かせようとした、「先生とあの人は、国家のために結ばれているようなもので、それがお二人双方に大きな犠牲を強いているのでしょう。でもそれが天意なのは、先生もご存じでしょう。ならば、そう、ただ認めるしかないでしょう……?」

「そうかもな」と私は呟きながら、もう一杯注ぐよう身振りで促した、「だが気に入らん。」

 私達にしてはまだ早い時間に、私は伊藤の部屋を後にした。ホテルは静かで薄暗く、並んだ部屋から聞こえてくるのは、くぐもった咳払い、笑い声と足音だけであった。その静けさと酩酊した思考の中、私は突然、夜空に浮かぶ星を見に行きたいという衝動に駆られた。ここにも故郷と同じ星はあるのだろうか?それは、東京で私のマツを見守っているであろう星と、同じものなのだろうか?確かめようと私はよろめき階段を下り、外へと向かった。

 結局のところ、その日は曇り空で、星は一つも見当たらなかった。玄関を開け外へ出た私はその代わり、繊細な雪のレースに覆われた闇夜の静寂さに迎えられた。雪の欠片がホテルの窓の薄光で銀色に煌めき、雄大な山々の輪郭が白くぼんやりと浮かんでいるのが見えた。頬を打つ外気は凍えるほど冷たく、ウィスキーのせいで顔は紅潮し、体は暖かかったにも関わらず、私は外套も着けず上着姿で出て来たことを思い出した。私はだがその場に留まり、寒さに打ち震えながら、壮麗な景色に魅了されていた。

 玄関の扉に寄りかかり、この山々を眺めている内に、私は途端に心が望郷の念に駆られるのを感じた。目前の青白い峠には、伊豆を発つときに見た、雪を抱き寂しそうに背後へと沈みゆく、あの富士の輪郭を思い出させられた。故国を発ってからの四十二日間で、まるで四十二の人生を生きたかのようであった。マツは今頃、何を想っているのだろう?今は朝で、湯に濡れたあの美しい髪を梳いているのだろうか?それとも今は午後で、火に暖を取りながら半纏を繕っているのだろうか?それとも今は夜で、もしかして彼女も私のように玄関に寄りかかり、無為に星を探しているのだろうか?

 こんなことを考えるのは、まったくもって無意味であった。こんなことを考えるからこそ、私は同僚達の間で、愚かなまでに感傷的だという評判を得ているのだ。私達は国家の将来を定める重要な使命を帯びてここにいるのだ……それ以上に重要なことなど、何がある?喉に詰まった何かをぐっと飲みこみ、夜空に向けて長く白い溜息を吐き出し、もう寝るべき時間を大分過ぎてしまったと、私は自らに言い聞かせた。

第三章

 ソルトレイクシティ滞在中は、ホスト達が皆こぞって街一番と称した宿、創業者であり主人であるミスター・ジェームズ・タウンゼントにちなんで名付けられたタウンゼント・ハウスなるホテルに宿泊することになった。タウンゼント・ハウスは特に目立ったところのある建物ではなかったが、住まいとしては十分であった。細長い建物の中央部は尖り屋根の三階建てになっており、上層階の窓の外にはバルコニーがついているほか、五尺ほどの高さにはTOWNSEND HOUSEという文字が、非常に目立つ緑色の文字で塗りたくられていた。優美さを誇るようなものはなかったが、唯一、建物の周りをぐるりと囲むように設置されたポーチだけは中々に快いものであった。これはいわゆる落縁の一種であったが、この国では『ベランダ』と呼ばれているのだと聞かされた。このベランダを覆う低い屋根を支えている柱には、風変わりで魅力的な模様が小さく刻み込まれており、それは私の目には七宝柄の断面図のように映った。天気の良い日には、宿泊客達はこのベランダの長椅子に座ることで、のどかで小さい街並みで起こる若干奇抜な情景を眺めることが出来るのであった。大久保はこのベランダの常客として知られており、それが寒い日であろうとも、よく朝食の前には長椅子に座っているのが見かけられたのだが、私達が時を置かずして学んだのは、こういったときの大久保は話しかけるだけ無駄だということであった。と言うのも、街を観察している間の彼は人のお供を必要としておらず、唯一お気に入りの煙管を供に過ごしていた。

 ミスター・ジェームズ・タウンゼント自身も一風変わった人物なのだということは、我々もじきに思い知らされる羽目になった。前日の夕食時、何故ブランデーや他の蒸留酒がまだ食卓へと運ばれて来ないのか私達がライスに尋ねると、彼はこの件について確かめに行き、すぐに苛ついた顔で戻ってきた。

「どうしたんだい?」と伊藤が尋ねた。

「どうやら、この宿屋のご立派な主人、タウンゼント氏はチートータラーなそうです」とライスは顔を顰めて言った。

ちーとーたらー?「それはどういう意味だ?」と私は尋ねた。

「ブランデーはない、ということです」とライスが溜息をついた。

「ブランデーがないだと!」

「他の蒸留酒もです。タウンゼントは酒類を飲まず、我々にも飲ませる気がないようですね。この建物の中では、酒類は一切提供されないとのことです。」

「それは」と伊藤が陽気に言った、「我々がどうにかしないといけませんね。岩倉卿は筋が通ったお方ですし、我々を禁欲主義者達の手からお救いになられることでしょう!」

一方、伊藤の背後では、大久保が自らのフラスコを悲嘆にくれるライスへと手渡していた。

 タウンゼントの風変りさは、この一件に留まらなかった。これも昨晩の話だが、私は夜の天体観測の帰り、ロビーで思わず誰かとぶつかりかけてしまった。その段になり初めて、それが一人の御婦人であったことに気付き、私は慌ててその場でできる限りの謝罪の言葉を並べてみたのだが、この女性は少し微笑んだ後、母親が子供をあやすかのように私の腕をポンポンと叩いた。我に返り、正式な挨拶と礼をすべきであったと思い至った頃には、この人は既に階段下の扉の奥へと消え去ってしまっていた後であった。

 翌朝、私達にとってこの街での二日目の朝、私は彼女が朝食を提供しているウェイター達を監督しているのを見かけた。

 私はライスを呼びつけて尋ねた、「あの女性はどなただ?昨晩偶然お会いしたのだが。」

「私の理解では、あの方がマダム・タウンゼントですね。」
 
「あぁ!」と声が出てしまっていた、「それは恥ずかしいことをしてしまった!」

「木戸参議、昨晩は一体何をしでかされたのですか?」とライスが尋ねた。

「いや、うん、大したことではないのだが……あぁ、しかし使節として、細々としたやり取り礼儀作法を全て覚えておかないといけないというのは、何とも難しいものだな!残念ながら、どうやら私は完璧な紳士として振舞う機会を失ってしまったようだ。」

「まあ、そう気にされる必要はありませんよ、閣下」とライスは肩を竦めた、「あの人は伯爵夫人なわけではなく、ただの宿屋の夫人なのですから。」

「そうすると、あちらは娘さんなのかな?」と伊藤が尋ねながら、入り口から私達のほうをチラチラと見つめている若い女性に、にこやかな笑顔を向けた。

「あの方ですか?」と言いながらライスが目を細めた、「いいえ、あちらはもう一人のマダム・タウンゼントだと思います。」

「妹さん?」
 
「いえいえ、彼の御夫人です。」

「いや、君はもう一人の方が彼の御夫人だと言っていたじゃないか?」

「はい」と嫌悪に唇を曲げながら、ライスが答えた、「ですから二人共が、です。」

 伊藤はこれに相当仰天したのか、朝食の残りの間一言だにせず、ただ目を輝かせ、片方の夫人からもう片方の夫人へと視線を移してばかりいた。

外では雪が降り続けていた。そしてこの日は使節にとって、ほぼ無駄と言い切って良い一日となった。一行の半分はまだ列車に足止めされており、ホテルに辿り着いたもう半分も、これまでの列車旅で疲れ切っていた。岩倉卿はこの日の朝から御気分が優れず、寒い天気の中、ベッドから離れることを良しとしなかった。卿は代わりに、使節の残りの一行が列車からホテルまで移動するのを監督するよう、自らの秘書である久米を派遣した。最初私は、なぜ副使の一人がこの仕事を任せられなかったのかを疑問に思っていたのだが、じきにホスト達が既に我々のために、今日の予定を組んでくれていたことを学んだ。朝食後、フラーが迎えに来て、明日の正式な歓迎式の前にこの街の一部の見学をしては如何かと尋ねた。彼はユタ自治領の立法府への非公式の訪問と、場合によっては他にも二、三箇所を案内してもよいと提案した。大量の荷物を泥雪のなか街の端から引きずってくるのと、馬車に揺られて街の観光をするのとでは、決断に困る選択ではなかった。こうして副使達と理事官達は久米一人に面倒ごとを全て任せ、用意された馬車にいそいそと乗り込んだ。

「いやー、あれだけの荷物をどうにかするには、骨が折れそうですね」と伊藤が外で濡れた雪飛沫が飛び散る様子を眺めながら言った、「久米さんも可哀そうに!」

 この『セイントの街』ソルトレイクシティについて、いくつかの話をしよう。

我々が理解の限り、この街における『ザ・イースト(東部)』という言葉は通常、遠くボストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、もしくはワシントンに住んでいる、邪魔くさい弁護士達を指す表現として使われているようであった。我々が到着するまで、この街の住民は誰も日本人を目にしたことはなく、我々が来た『イースト(東洋)』については、良くも悪くもまったくもって無知であった。これはある意味我々を少し安堵させた。ここの人々は裕福ではなく、威張ることを知らない人々であった。この自治領では二万ドルさえ持ち合わせていれば王族のような生活ができる次第であり、結果、人々は大体において単純さや質素さを好み、街の景観も自然とそれに沿ったものになったようであった。彼等にとっての唯一の贅沢と言えるのは教会であったが、これについてはまた後程述べよう。

 一瞥、この街はさしたる印象を残さなかった。これは我々が見知っていた——もしくは想像していた——ヨーロッパの大都市と比べると殊更のことであった。この街はどちらかと言うと、美濃や飛騨の山岳部で旅人が見かけるであろう小さい宿場町を彷彿とさせ、幅広い泥道に並び建つ、二、三年以上の使用は想定されていない、ただの即席の木造建築の集合体のようであった。我々もサンフランシスコでは、煌びやかなホテルに設置された無数の昇降機や、蛇口を捻るだけで出てくる流水に感動させられたものだが、そんな我々のほうが、ソルトレイクシティの住民の大半が一生かけても見られない数の昇降機を、既に先んじて見てしまったのではないかと思えるほどであった。ソルトレイクシティの道路の両側には、冴えない建物のファサードが規則正しく並んでおり、少しでも華美と評してよい公共の建物はところどころ点在しているのみであった。モルモンの寺院を除けば、劇場こそ最も小奇麗な建物の一つで、これもまたモルモンによって建てられたものなのだと我々はじきに学んだ。街の中心部に位置する建築物の殆どは、これら美しい建物とは比較にもならず、馬車が轟音と共に茶色に汚れた雪のぬかるみを窓に吹き上げ進む中、我々はこの感動に欠けるファサードの列を次から次へと見て回るのみであった。

 ソルトレイクシティに一つだけ魅力的な側面があるとしたら、それは四方を囲む雄大な山脈であった。嗚呼、なんという山々か——それは日本ではお目にかかることのできない規模の、峻烈にして壮大な山々の鎖であった!この山々の手前にあっては、下町に並んだ木造建築はどれも小さく見えてしまうのは、偉大な将軍ですら神前ではみすぼらしく映ってしまうのと同じことであった。街のどこにいようとも、この雪に覆われた粗削りな峠が我々の矮小さを見下ろしていた。我々の滞在中タウンゼント・ハウスのベランダ上で、この風景を題材としたいくつもの優雅な俳句が詠まれたであろうことは想像に難くなかった。

ユタ自治領の立法府はソルトレイクシティ市庁舎の中に設置されており、この建物自体はがっちりとした石造りの箱であり、その天辺には装飾の施された小さい塔が聳えていた。ホスト達の説明では、今日は議会が開会中だが、議員達は喜んで一旦休憩を取り我々が大会議場を訪問し見学できるよう手配してくれるとの話であった。明日の歓迎式もここで催される予定なのだと聞かされた。

 彼等は我々を議会の部屋から部屋へとあちこち連れまわし、無数の熱心な顔に紹介して回った後、市庁舎の入り口で立ち止まると、いくつかの言葉を伊藤へと伝えた。

「手術医が仕事をしている様子を見学するのに興味はありませんか、と聞いています」と伊藤が伝えた、「どうやら切断手術が行われるようですね——なんでもこれは今週一の刺激的なイベントだと言っています!勿論、私達の来訪に次いで、ですが。」

 大久保はこれを最大級の礼儀正しさで辞退するため、ライスに向かい、こうホスト達に伝えてほしいと指示した、「血を見ると、気分が悪くなる気質なので。」

 この言い訳は、あの時代に我々が目の当たりにしてきた惨劇を考えれば、出鱈目も糞も良いところであった。奴は単に、医療は自分の担当分野ではないし、それよりは他の仕事に時間を割きたいとでも考えているに違いなかった。山口も大久保を真似て、昨日の列車疲れがまだ残っているためホテルに戻って休みたいと告げた。彼がおそらくホテルではなく、例の温泉で『休む』つもりであろうことは容易に想像でき、私もそうしようと決意した。

「いずれにせよ」と大久保が続けた、「我々一行の誰かがアメリカの医療手法を観察していくのは非常に有意義なことだと考えます。幸いにも、木戸さんは文部省の担当として使節に参加している人々の中でも最も高位なわけですし、こういった機会を通じて近代医学の進歩について最大限に学べるのは、彼にとっても光栄なことでしょう。」

 あぁ猪口才な、と私は大久保の発言を内心苦々しく思った。

「田中さんも文部省の代表でしたね」と大久保は言い加えた、「ですから彼にも参加してもらいましょう。他にも、我々の中には数名の医者が同行していますし、彼等の中にもおそらく、同僚の仕事ぶりを見学するのは有益だと考えている人もいるでしょう。」

 最終的に、切断手術を見学する一行は、私、部下の田中、医者の福井、異人であり使節団の公式医でもあるスローン先生、そして必要に応じて通詞代わりにもなる伊藤と決まった。

 結論から言うと、私はこの小任務を思いのほか楽しむことができた。私は蘭方医を父に持っており、私自身、少年時代からこの類の手術を身近に育っていた。ほとんど忘れかけていた消毒液、阿片、そして血の匂いを嗅ぎ、一種の懐旧の念を感じていた。

担当医とはまず手術室の外で会うことになった。上機嫌で愛想よく笑っているこの医者の様子は、切断手術を控えているときのかつての父の様子にそっくりで、彼はハミルトンと名乗った。このハミルトン先生はその場で、私達のために——これを伊藤の通訳を通じて聞いていた福井は、頭をコクコクと降りつつ、色々と手帳に書き込むのに忙しそうであったが——私達がこれから目撃する悲しい結末の発端について解説してくれた。とある地元の鉱夫が銀鉱で働いていたところ、陥没と地滑りのせいで右足を大石の下に挟まれてしまった。この哀れな男はその窮地から救出されこそしたものの、二、三週間後には傷部は感染し、腐敗しはじめたのであった。もはや他に取れる手段は残されておらず、生存のためには脚はあきらめなくてはならないのであった。

 手術自体も中々に興味深いものであった。その理由の一つには、国元での実体験を元に想像していたものと大差なかった、という事実があった。手術室はよく整えられた個室で、中央には大きなテーブルと、その周りには何種類ものピカピカした金属の備品が置かれていた。私達が到着した時には、患者は既にテーブルの上に寝かせつけられたうえ白い敷布で覆われており、私達はこの患者を取り囲むように立ち、彼が痛みに歯ぎしりしている様子を見ようとした。しかしすぐに気付くことになったのは、彼がまったく音も立てていなければピクリとすら動くこともしておらず、事実私達がここにいるということすら認識していないようだということであった。もしやこの患者は先生の知らないところで、もう死んでしまったのではないかと医者を問いただしてみると、彼はただ笑い、この患者の生存を保証した。彼は透き通った液体の入ったボトルを取り出して見せ、私達が順番に匂いを嗅げるよう栓を抜きながらも、ほんの一嗅ぎだけに留めるようにと警告した。彼の説明では、これはクロロホルムと呼ばれる薬らしく、適量を吸引させれば手術中の患者に全感覚を失わせしめ、完全な無意識を実現することが出来るという話であった。これは近代手術における極めて新たな進歩で、ここ二十年来の最も偉大な医学革新の一つだと、彼は誇らしげに宣言した。彼の上機嫌を損ねたくなかったため、麻酔薬なら日本の蘭方医も半世紀以上使い続けている、という事実は言わずに留めておくことにした。

 手術を始める前に、この医者は多岐にわたる彼の得物、即ち様々な状況下で使用する刃、鋸、錐、鑢を私達に見せびらかした。そしてその中から手術用のメスを選ぶと、まずは肌から足の組織を通し、骨の手前まで来る切り口を作った。そして本日の目玉——彼は刀のように精密で鋭い骨切り鋸を持ち上げると、それを侍じみた巧さで使いこなした。彼がこの素晴らしい道具を二、三振りすると、カチッ!という音と共に腐敗した足が外れ、待ち受けていた助手の手の中へと落ちた。この間患者は一言もなしであった!我々が医者と握手をしてから、彼が傷口を余った皮で包み縫い終えるまで、通して十分とかからなかった。福井と田中はこの優れた技術の実演に感銘を受けたらしく、熱心に手帳へと記録を取りつつも、切断縫合をより近くで観察できるよう、ぐんぐんと顔を近づけていった。私自身はこの手腕に感銘を受ける以上に、敬愛する亡父への思慕の念にかられていた。

 その日の午後ホテルに戻ってくると、入り口は高く積まれた荷物で一杯であり、私達は残りの一行がようやく列車からここまで移動し終えたことを知った。だが彼等もこの街に温泉があると聞き、荷物をこの場所に放って湯に浸かりに向かっていたため、我々が戻ってきた時分のホテルは既に、再び静寂に包まれていたのであった。

 この機にいくつか報告書を、そして国で待つ井上への手紙を書こうかと思い、私は自室へと戻った。ところが机に向かい墨をすり終えるや否や、廊下を渡ったところにある岩倉卿のお部屋へと来るよう指示する手紙が私の元に届けられた。右大臣に呼ばれながら、お待たせするわけにもいかず、私はしぶしぶと上着を着用すると、たった今時間をかけて用意したにも関わらず使わずじまいであった硯を洗った。

 一行の他の面子と同様、異国の地に到着して以来のこの数日間、岩倉卿も断続的な病に苦しめられていた。彼はそれでも公式の責務から逃げだすことを常とせず——温泉からは殊更に——どうやら今回のように、病床からでも部下の副使達に指示を出す用意が出来ているようであった。私がノックをし、従者によって卿の部屋へと招き入れられると、大久保は既に来ており、岩倉卿のベッド隣に座っているのが見えた。従者が急いで私が座る椅子を持ってきて、岩倉卿自身は彼の小さな体躯をより小さく見せる巨大な枕の山に寄りかかりながら、私を暖かく歓迎した。

「孝允君、近こう寄れ。利通君がちょうど、お主等の今日の活動について話し始めてくれていたところだ」と卿が言った。

「彼が上手いこと抜け出した活動については、何か言っていましたか?」とコッソリ呟いてみたが、不味いことに岩倉卿は地獄耳のようであった。

「いつものことながら、孝允君は御機嫌なようだな」と岩倉卿が答えた。彼の笑いは次第に咳へと変わり、大久保は一杯の水を持ってくるよう従者に指示を出した。「今日は」と卿は水を飲みながら、しわがれ声で続けた、「今日は有意義な一日を過ごせただろうな、諸君?」

 立法府と手術の見学をするよりも、温泉に行けたほうが有意義であったかと思いますと、私は出来ることなら伝えたかったが、それは流石に無礼に当たるかもしれないと思い留まった。

「閣下、明日には、この街の他の側面を見られるのではないかと願っています」と代わりに大久保が答えた、「町で一番重要な場所を見せて頂けるという約束になっており——私がデロング公使から聞いたところによると、彼が自ら全て手配したとの話です。ただその前に明朝、市庁舎での歓迎式が催されれるそうですが。」

「ふむ、それまでに儂の体調が良くなっていると良いのだが」と岩倉卿が言った、「もしそうならなかった場合、儂の不在中どうすれば良いかは、お主等も分かっておるな。儂が歓迎式で使節団代表として公式の挨拶ができない場合には、孝允君にその栄誉を一任することにしよう。あの、サンフランシスコのときと同じ要領でだな。」

 必要とあらば、喜んでその責務を果たしますと私は表意した。

 もし大久保が、公式の場で話す機会を与えられないことを苦々しく思っていたのだとしたら、彼はそれをまったく顔に出さずにいた。私達は三人共、大久保が物腰一つでどれだけ人々を戸惑わせがちであるか知っていたし、威厳の点では劣っている私も、彼よりはまだ優しげな顔付きと人を落ち着かせる口調を持ちあわせていた。岩倉卿も、異国の聴衆は死ぬほど怖がらせるよりも、甘言で煽て喜ばせようという戦略で行くことを決めているようであった。(そもそも我等日本人にとって、大久保が我等の美しい母国語を彼の濃い薩摩訛りでぶつ切りにする様を長時間聞かされるなど、拷問以外の何物でもなかった。)

「この街の見学が終わったら」と岩倉卿が言った、「それぞれの省庁の代表者達に、まだ記憶に新しいうちに公式の報告書を書くよう推奨するのが良かろう。これは無論、諸君自身の報告についても言える話だ。」

「はい、閣下」と大久保と私は同時に言い、軽くお辞儀をした。

「うむ、こう言った外交的調査をするうえでは、自制が肝心だ。一日一日、一都市一都市ごとに、儂等は新しい発見をする。故に、常に報告書を書き記しておかねば、新たな発見が古きものを記憶から消し去ってしまい、正確な記録が残せなくなってしまう。それと自制と言えば」と岩倉卿が続けた、「残念ながら、より実務的で、あらかじめ警告しておかねばならぬ話がある。」

 私は大久保を横目に見たものの、その顔には何らかの感情も認めることができなかった。

 岩倉卿は一旦言葉を区切ると、真面目な顔で私達を上から下まで凝視した。「全員がホテルに揃った今」と卿は話し始めた、「いくつか規則を定めておくのが賢明だと、儂は考えておる。船で起こった、あのような事件は二度と起こしてはならぬ。」

 私は、なぜ卿があの件について私達に文句を言っているのか理解できなかった。これではまるで、大久保と私が船で若い娘を侮辱したかのような言い口ではないか。

「ここでの滞在中、この使節団の全員が、老若男女問わず行儀良く務めるよう徹底して欲しい——特に、こういった小さい街では悪事千里を走り、根も葉もない噂話がすぐに広まることは知っておろう。国中が電信で繋がれたこの国では、最も小さい街における恥ずべき行いすら、儂等が列車で旅するより早く、ワシントンの最高責任者の耳へと届くに違いない」と岩倉卿は大久保のほうを向きながら続けた、「利通君。皆が儂の命令を確かに聞き届け、これに良く従うよう、頼りにしておるぞ。」

「お任せください、閣下」と大久保が答え、深くお辞儀をした。これで誰もソルトレイクシティでは羽目を外せなくなったな、と私は思った。

「念のために明言しておくと、諸君、ホテルの部屋には娼婦を連れ込んではならぬ——孝允君、これはお友達に直接、お主の口から伝えておいてくれたまえ。」私はこの発言に対する不愉快さを気取られぬよう、より固いお辞儀を返した。「そして」と岩倉卿が付け加えた、「部屋で集まって飲むときには、騒々しくせず、家具も壊さず、他の宿泊客に文句を言われてしまうような事態は避けるように。儂等は天皇陛下の公式の代理としてここにおり、その立場には威厳が付いて廻るのだということを、くれぐれも忘れぬよう。陛下の御尊名を傷つける行為は、儂等の頭上に天の怒りを招くであろう。もう何度も話したことだとは分かっておるが、お主等の部下にも繰り返し、この重責について言い聞かせておくれ。」

「はい、閣下」と答えてから、私達はもう一度慇懃に一礼した。

 岩倉卿の用事はこれだけのようであった。私はホテルの献立になんとか酒を加える手段について相談したかったのだが、これが適した場ではないと察するしかなかった。それに大久保ならこの類の懸念は時を見計らい卿に相談するであろうことは織り込み済みであったし、もしかするともう話をつけた後かもしれないとすら、私は考えていた。

 その日の夜、夕食が終わると同時に、ライスが宿屋の主人タウンゼントと共に私を探してやって来た。「木戸参議」とライスが口を開いた、「こちらの主人は昨夜、もっと貴方方の地位に見合った部屋の配置にすると約束をしました、そして再整理の結果、それが実現可能となりました。彼は貴方に不便をおかけしたことに対する謝罪を伝えて欲しいと言っていますが、荷物運び達に貴方の荷物を60番の部屋から106番まで移動させても宜しいでしょうか?主人は、106番号室のほうが、輝かしい帝国使節により一層相応しいお部屋だと言っています。」

「ふむ、私はそれで異論ない」と私は答えた、「見に行っても良いかね?」

 階段を上り上層階の部屋まで来ると、いくつかの部屋で引っ越しが行われているのが見え、我々は様々な形と大きさの旅行用鞄を担いだ荷物運びで溢れかえった廊下を、右に左にと交わしながら進んだ。106番号室に到着すると、そこは確かに一段大きな部屋で、私は再び、愚かな異人達が私を何らかの王侯貴族のように扱うときの、あの自尊心に満たされる奇妙な感覚を覚えていた。

 寝室の具合を確認していると、私はベッドのすぐ隣の壁に、控えめに設置された小さい扉があることに気付いた。この扉がどこに繋がっているか、ライスを通じてタウンゼントに尋ねようと思ったものの、そのときには二人とも廊下で荷物運びに色々と指示を出しているようであったので、私は代わりにノックして自分自身の目で確かめることにした。

 ノックからしばらくして、急に私の顔にぶち当たりそうになるほどの勢いで扉が大きく開かれ、そこには秘書官の福地がいて吃音気味に言っていた、「き、木戸参議!どうしてここに?」

「福地!」と私は鋭く言い、ドアにぶつけられた肩を揉みしだいた、「君の御主人様は、秘密の扉ですら自分の手では開けないと言うのか?ああ!どきたまえ。」私は頭を扉の間から突き出し呼びかけた、「ほら大久保卿!君の新しい隣人に、挨拶しに来たらどうかね?」

 ズルリと椅子が木の床の上を滑る音が聞こえ、すぐ左を向くと、そこに突如目前に現れた大久保が私を驚かせた。見れば、彼の机は私達共用の壁側、つまり私のベッドのすぐ裏側に置かれていた。「こちらが貴方の新しいお部屋になりましたか、木戸さん?」と大久保が言った。

「その通りだ。だからもし君が一晩中机に向かうというのであれば、せめて静かに働いていただけるかな?私もきちんと休んでおきたいのだ。」

「私が木戸さんの眠りを妨げるようなことがあれば、遠慮なくお知らせいただけると思っています」と大久保が穏やかに答えた。

「うむ、なら我々も隣人として、どうにかやっていけるだろう」と私はわざと荒々しく言った。

「あぁ、木戸参議!」とライスが慌ててやって来た、「それに大久保卿、失礼しました。騒音や混乱で邪魔立てするつもりではなかったのです!木戸参議、タウンゼントが、色々と使節団に関する内密な話もあるでしょうから、貴方と大久保卿のお部屋を隣り合わせにしましたと伝えてくださいと言っています。高位使節のプライバシーが守られた方が、色々と便利だろうと考えたようです。」

 私は溜息をつき、大久保が簡潔に答えた。「ミスター・タウンゼントは非常に思慮深い御主人のようだ。ライスさん、この使節団と全行員に代わり、私達の深い謝意を、是非とも彼に伝えてください。」

 ライスが急いでこの命に従っている間、大久保はその半分閉じられたかのような眼で私を一瞬見下ろしてから続けた、「まあ、確かに上手くいくかもしれませんね——このモルモンの街で何かしら『内密な話』が出て来ないとは言い切れないでしょう?消灯後には、静かに書くことを約束しますよ、木戸さん。」それだけ言い終えると、彼は私の眼前で扉を閉じ、私は控えめな施錠音を聞いた。

 そう、たとえ上手くいかなかったとしても、どうせ短期間の話なのだ、と私は自らに言い聞かせた。次の機会、シカゴに着いた暁には伊藤の隣の部屋にしてもらおう、と私は心に決めた。

第四章

 翌日が多忙な一日になることは当初から見込まれており、私が朝食を食べに下りて行くと、そこでは既に大久保が、これから良い一日を送るための準備に取り掛かっていた。私が副使達のテーブルに着いたのは、彼が取り出したフラスコからオートミールにブランデーを垂らしている最中であった。口を挟むようなことではなかったが、大久保は時折実に『使節団の頭脳』と呼ばれるに相応しい行動を取るものだなと、私は感心していた。

 彼が酒の力を必要としているのも納得であった。この日は朝から晩まで予定がぎっしり埋まっていたのに加え、空は陰気に曇り、薄ら寒かった。岩倉卿は病床に就いたままであったため、大久保と私が使節団の首脳代理ということになっており——そして今日一日限定で、私が『日本の顔』を務めることになっていたわけだが、私としてはその実どうしても、大久保が私の陰に潜みつつ、背後から全てを操っているという密かな疑いを払拭しきれずにいた。彼はまだ朝の内にフラーに会っており、モルモンの紳士に対する礼儀正しい呼称は何か、といったことから、自治領におけるこのような催しではどのような上着が最も場に沿っていると考えられるのか、といったことまで、多岐に渡る地元のエチケットについて、細やかな質問を繰り返し尋ねていた。我々は午前十一時にソルトレイクシティ市庁舎での歓迎式に参加する予定になっており、モルモン達の市長自ら馬車を引き連れ、我々をホテルからエスコートするよう手配されていた。故に、大久保は明らかに、彼等『セイント』達と交流する上で、それに見合った礼儀正しさの度合いをきちんと把握しておきたいようであった。

 市庁舎に向けて出発する直前になり、少々話したいことがあると、病床に横たわる岩倉卿が大久保と私を彼の部屋まで呼び出した。

「お主等を引き留めたいわけではないのだが」と言いながら、内密な話のためにか、卿は一旦従者達を人払いした、「儂から何の指示を受けていないうちに、今日お主等が突然不愉快な驚きに遭遇することだけは避けておきたくてのう。今朝早くにモルモンの高僧、件の預言者ヤングから使者が送られてきたのだ。この使者は、儂等が都合の良い日を選び、彼の主人を訪問するよう招待しに来たわけだが、先日フラーさんに伺った諸々の話を思い出し、一層の熟考が必要だと儂は思ったのだ。儂自身は、誰が百人の妻達を娶っていようが独身だろうが一向に構わぬのだが、合衆国政府の敵である人物を公式に訪問するのを見咎められるのは、儂等の現在の外交的立場を鑑みるに得策ではない。今日は病で訪問は出来ぬと回答したのだが、この生意気な使者は諦めず、ヤングはもし儂自身が訪問出来ぬのであれば、儂の名高い同僚達でも喜んで招くと言い張りおってな——これ即ちお主等にあたるわけだが、どうかね?」

 大久保のほうを見ると、彼は「閣下、率直に申し上げても宜しいですか?」と発言した。

「いつものことではないか」と岩倉卿が曖昧な笑みを浮かべて答えた。

「では——これは我々の目的とするところに有益だと考えます」と大久保が答えた、「我々がここで学ぶべきこと全てについて、この街の全てを創ったというこの男以上に語れるものはいますまい?」

「宜しい」と岩倉卿が言った、「お主がそう感じていると聞けて、実に喜ばしい。何せ、悪いが無断で、お主等のために会合を手配するよう、既にデロングさんにお願いしてしまったからな。」

「岩倉卿は私の考えを良く御存知です。いつものことですが」と大久保は泰然とした態度を崩さず答えた。

「ですが閣下」と私は恐る恐る口を挟んだ、「この預言者とやらとは、どう扱えば良いのです?何の話についてなら聞いて宜しいのでしょうか?」

「それは、聞きたいことは、何でも聞けば良かろう」と岩倉卿が答えた、「もしこの預言者とやらがこれまで鉄道や工場を建ててきたと言うのであれば、それらに対する質問に答えるには過ぎた人物だというわけでもあるまい。彼奴自身は神でも何でもなく——ただの依り代なわけだから!」

「しかし知らず知らずの内に、モルモン達を刺激するようなことを私達が言ってしまう恐れもあるのでは……?」と私は続けて主張した。

「お主はただ、祖国と天皇陛下の御名前に相応しい振る舞いをしておれば良い。さすれば、後は自然と上手くいくであろう」と岩倉卿が繰り返した、「もし躊躇するようなことが起きたら、利通君を見習い給え。彼は厄介事に直面したときですら、いつも冷静だからね。」

 大久保はこの賛辞にただ軽くお辞儀を返し、一方私は、眉間の皺を隠すためにお辞儀をした。岩倉卿が私より大久保のほうを重宝していることは既に良く分かっていることであった——むしろ知らない者などいたであろうか?——それでも卿がそれを思い出させる、このような言動を取られる度に、私は不愉快に感じていた。

「さあ、二人とも行き給え」と岩倉卿が私達を急かした、「後で全部聞かせておくれ。あぁ、それとデロングさんに、お主等を長く引き留めてしまって申し訳なかったと伝えておくれ!」

 体躯に限って言えば、デロング公使は我々日本人に混ざっても違和感が無いぐらい、西洋人としては並外れて小さいほうであった。年齢という点では、彼は大久保と私のちょうど中間、つまり四十歳弱であった。デロングは常に喧嘩腰で、嵐のような癇癪持ちで、更にはみっともないほどに頑固な奴であったが、一方で彼は、他の異人連中と口論しているときを除けば、酒と煙草をよく嗜み、面白い逸話を語るのを好んでいたので、私は彼と同席することは左程嫌ではなかった。私の知る限り、彼はアメリカ大使として横浜に二年半も滞在していたにも関わらず、我々の言葉を一つとして解していないようであった。更に私が聞いたところによれば、彼による我々の名前の綴りは、彼が我々の名前を発音しようとするときよりも、更に輪をかけて酷いものだという話であった。(とはいえ、彼の綴りは自国語でも酷いものだったという話も聞く限り、これは別に目くじらを立てるようなことではないのかもしれない。)ともするとすぐ相手との確執を作ってしまうデロングの性質を考えると、彼と通詞のライスが穏便に付き合えているという事実は、私にとって不可解なものであった。と言うのも、デロングはこの一年間、ライスの父親が函館領事館の職を失うよう色々と企んでいたからだ。にもかかわらず、この二人の間に調和が存在しているのは、恐らくライスがこの大使に従属することを進んで受け入れており、高慢さや不躾な態度は一度として見せたことがなかったからなのであろう。デロングは、そういった態度を取る部下に耐えられない気質であった。元は鉱夫に始まり弁護士へと登り詰めるまで、デロングは生涯通して常に何かと戦い続けてきた。正式な教育は受けておらず、特に何の才能に恵まれていたわけでもないデロングについて唯一断言できるのは、彼が少なくとも勤勉であった、ということぐらいだ。

 岩倉卿の話がひとしきり終わり、私達が階段の上までやって来ると、下のロビーでデロングが扉の前を行ったり来たりしながら、自分の懐中時計を睨みつけている様子が伺えた。階段の上まで来た私達を見つけ、彼は鋭い音を鳴らして時計を閉じると、大袈裟に手を振りながら、せっかちな声を投げかけてきた。

「今日は特に昂っているようだな」と彼に会いに階段を下りて行きながら、私は大久保に向かって言った。

「怒鳴らせておけば良いでしょう」と大久保が答えた、「彼も同郷の人間に良い印象を残しておきたくて、神経質になっているのですよ。彼の周りでは今日一日、貴方も私も気を付けるようにしましょう。」

 私もこれには同意見であり、執事達が私達を外套で包み込み、帽子を手渡ししている間にも、デロングには気が済むまで吠え立てさせておくことにした。しばらくしてライスが我々に救いの手を出しに、ベランダからやって来た、「あぁ、木戸参議、大久保卿!申し訳ありません、大変失礼しました!もう下の階までお越しとは知りませんでした。」

「心配無用です、ライスさん」と大久保は帽子を被り、上着のポケットから手袋を取り出しながら答えた、「通訳が必要になるようなことは、何も言われていませんでしたから。」

 ライスが宥めるような口調と穏やかな手の仕草でデロングを落ち着けようとすると、デロングはようやく諦めがついたのか、しかし最後には馬の鳴き声にも聞こえる憤慨の音を上げ、ベランダに通じる扉をぐいと押して出て行った。ライスは、市長がもう到着しているということと、後は私達を待つのみで、馬車はいつでも出発できるのだということを私達に知らせた。これが彼なりの、何故デロングが短気になっているのかの遠回しの説明であった。

「岩倉卿がどんな方かはお前も知っているだろう、ライス」と私は肩を竦めた、「卿が私達にお話があるときには、ただ遅刻したくないからと言って、急かすことは許されん。」

「いえ、木戸参議!閣下、私はけしてそんなつもりでは——!」とこの通詞は強硬に言いつのろうとした。

 大久保はそれを端的に遮りながら言った、「無論そんなつもりではなかったのでしょう。それに我々は遅刻もしない。故に無用の議論は止しましょう。」彼は既に扉から外へと歩き出しており、ライスと私は彼のひょろ長い闊歩に追いつこうと急いでその後を追った。「さて諸君、仕事に取り掛かりましょう」と彼は馬車の手すりを掴み、ステップを踏み、車両に乗り込みながら宣言した。

 市庁舎は左程遠くなかったが、道中通してデロングが自身の手袋をまるで引き裂かんとばかりにひたすら捩じり続ける様子を見ていたせいか、まるで永遠の道のりのように感じられた。伊藤ですらこのデロングの様子にたじろんでしまったようで、私と大久保を見ても小声で挨拶するだけに留めていた。

 市庁舎に到着すると、市長は我々を昨日見学した立法府の大会議場へとエスコートした。今日この日、会議場は男女あわせた多くの人々で溢れかえっていた。これらの人々は、我々の到着が発表されるや否や、我々を一目見ようと熱心な様子で一斉に顔を向けてきた。我々が高座へと案内される間、通路の端から端まで、関心を反映した囁き声が付いて回った。大久保はと言えば、これらの好奇心に満ちた観察者達のことは一瞥だにしておらず、私も彼の例に倣うよう心がけた。彼の自然体、超然とした振る舞いは、まさしくこのような場に適していた。当然ながら地元の人間は、無視されればされるほど我々により一層の関心を持つようであったし、連中は異国の貴公子に期待するような荘厳さや誇りを大久保の中に見て取ったに違いなかった。

 我々は高座の上に設置された席に座ることを勧められ、まずは市長が聴衆の騒めきを静めようと二、三言発言した。すると再び入り口の扉が開かれ、立派な服を着込んだ多数の紳士達が入場し、高座の一番近くに置かれた長椅子へと案内された。ライスが我々に解説したところによると、これらが自治領と街の重鎮達で、今日我々に公式に紹介されるために馳せ参じたとの話であった。

 全員がこの講堂に着席すると、ソルトレイクシティの市長は行事を始めるために、まず歓迎委員会の代表として公式の挨拶を読み上げた。ライスはこれを以下のように私達に通訳してみせた。

『大日本全権大使、正二位岩倉具視閣下、及び副使、従三位木戸孝允閣下、従三位大久保利通閣下、従四位伊藤博文閣下、従四位山口尚芳(ますか)閣下。

 ソルトレイクシティの人々を代表して、私達は親交国の誉れ高い代表であられる貴方達を、暖かく歓迎いたします。

 貴方達が旅する間、他の地で御覧になられることになる、貴方達の注意と関心を引く産業や商業の宮殿は、ここでは御覧になられないかと存じ上げます。それは、ここが北米大陸の中心に根ざして建築された開拓者達の共同体で、ここにおける生活や事績は全て、過去二十五年の間に荒野から勝ち得られたものだからです。

 我々の暖かい歓迎は、貴方達の仰せのまま御希望のままに、誠意をもってお応えいたします。貴方達の由緒正しく、素晴らしい歴史を持ち、大いに栄えている帝国については聞き及んでおります。貴方達を歓迎する上で、ただ偉大な国家の誉れ高い大使達としてだけではなく、これまでの排他的な鎖国制度を終了し、我々の国家間の商務と外交を深める方策の代表者として、貴方達を迎え入れたいと存じます。我々の熱い歓迎と尊敬を、是非お受け取りいただけますよう、心より願います。』

 デロングが私に向けて頷き、私はこちらが公式の返礼をする番が巡ってきたことを理解した。私達は同時に立ち上がり、参加者達に向かってお辞儀をした。私は岩倉卿の言葉を読み上げようと、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。私の演説の後、デロングが英訳を読み上げる手筈になっていた。

 私は少しだけ時間をとり、参加者達を見渡した。長椅子に詰め込まれた光沢の良い黒コートの山に煌びやかな装飾と鮮やかなドレス、豊かな髭にきらりと光る白髪、帽子の羽やフリルを揺らしながら囁きあう淑女達、そして二百組余りの薄色の眼が私に注目していた。これが、彼奴等なのか?これが、我々が撃ち払いに来た敵の軍勢だというのか? この御婦人達や、年老いた色男達が——夷人だというのか? 宜しい、ならば過小評価するのは止そう——慮りなくして敵を侮る者は、必ず人に擒にせらるだ。唇を濡らし咳ばらいをしてから、良く通る声でハッキリと、私は以下の挨拶を読み上げた。

『光栄なる紳士諸君。使節団一同は、我々が受けた優しい歓迎に、心からの謝意を示したいと存じます。そして我々と貴方達の間に今存在する、この親交の気持ちが永久に続くことを願います。また我々の代表大使が、残念ながら今日参加することが出来なかったことを大変に遺憾に存じます。彼は私に、貴方達に対して、同席することが叶わなかったことを悲しく思うと伝えて欲しいと申しておりました。彼は、この街を発つ前に、他の機会に貴方達にお合いできるのを望んでいますし、もしそれが叶わなかったとしても、そうしたいと言う彼の気持ちは御理解いただきたいと存じます。』

 デロングがこの演説の通訳を終え、私達が席に戻ってくると、大久保が私に向けてほんの僅かに頷いたのが見え、これが彼なりの承認の仕方だと理解していた私は、自負で心が膨らむのを感じた。どうやら私は、敵軍の面前で祖国に相応しい満足な働きをしたようであった。

 これらの形式ばった作業が終わると、次いで儀式的な紹介が始まった。これらは以前、サンフランシスコでもサクラメントでも辟易させられた、非常に肩の凝る習慣であった。即ち、一列に並んだ異人達が、次から次へと自己紹介をしにやってきて、終わることのない握手と双方のお辞儀が付いて回ることを意味していた。このような場では、流れ作業で耳に流し込まれる名前を一つ一つ覚えようとするのは、無駄も良いところであった。すでに二、三十もの紹介を受けた後では、手が痛くなり、固い握手をし続けることすら難儀であった。

 これらの儀式は常に、何らかの法則に則って行われているようではあったが、それは大概において異人達にしか理解し得ないものだ。例えば今日、我々はまずユタの知事に紹介されるという光栄に預かったのだが、彼は次いで我々を彼の元で働く官僚達、即ち合衆国政府から見たソルトレイクシティの代表者達へと紹介した。ライスが小声で伝えたところによると、これらの人物達はモルモンではなく、彼が言うところの『真のアメリカ人達』であった。彼等の次に紹介されたのは、立法府である上院と下院の代議士達、そして市と郡の官僚達、そして最後がソルトレイクシティの重鎮達といった次第で——彼等のほぼ全員がモルモンだと、ライスは我々に断言した。これらの人々の列がゆっくりと我々の隣を流れ行く中、意味の無い挨拶が波のように我々の耳を通り抜け、我々の手はただ機械的に目の前に出された手を握り締め続けていた。この単調な出来事の中、市長がやや無礼と思われかねない頻度で懐中時計を確認していることに気付かずにはいられなかった。とてもではないが、彼を非難する気になれなかった。

 しばらくして、これは彼が単に退屈していたわけではなかったのだということが明らかになった。会場の扉が三度勢い良く開かれ、観衆達の間で騒がしい歓声が上がったのを見て、市長はようやくホッとした態度を見せたからだ。高座の上にいた私達は首を伸ばし、視線を遮っていた背の高い異人達の間から、何が起きたのかを見極めようとした。市長がいくつかの言葉を小声で囁くのを聞いてから、ライスは陸軍がようやく到着したのだと私達に伝えた。

 私が初めて彼等の指揮官を目にしたとき、まず初めに感じた感情が強い苛立ちであったことは告白せねばなるまい。この田舎者の群れが我々を貴人の一行の如くに、敬畏と共に見上げている中、ただ一人、彼だけが我々を畏れていなかった。歓迎式に悠々と遅れて来たというのに、この男はその無礼な行いには何の問題もないのだという、尊大な自信を全身に纏っていた。この男が我々の何を恐れるというのか——それをいうならば、この男が誰を恐れる必要があるというのか!彼はとても背が高く、水牛のようながっちりとした体躯に血色の良い顔をしていて、両頬には白髪交じりのもじゃもじゃ髭を備えていた。彼が何度か立ち止まりつつ、通路に身を乗り出して彼に挨拶をした何人かと活力に満ち溢れた握手を交わす様子を見ながら、私はこの私達を取り囲む毛むくじゃらの顔によく似た、そのもじゃもじゃ顔に敵意が湧いてくるのを感じた。もしかすると、この男こそ、我々の真の敵——我々がここまで闘いに来た、獰猛で傲慢なアメリカなのかもしれなかった。

「ウェルズ市長が、この中断について謝罪したいと仰っています」とライスが説明した、「この通り極端な冬の気候では、軍のキャンプから街までの道路状況を予測するのは難しいのだということを御理解いただきたいとのことです。なので将軍の到着が遅れてしまったのは、わざとではないので、どうかお気持ちを損なわれないようにと。」

 我々は頷き、市長に軽くお辞儀することで理解を示した。事ここに至っては、正直なところ、別に将軍と将校達がわざわざ来なくても、握手の数が減るだけ一向に構わなかった。だが誰も我々の意見は尋ねておらず、この軍人達が通路を通り、高座の周りで場所を争うかのように詰め合っていたお歴々の群れの中を通り抜け、高座の上の我々へと挨拶しにくるのを待つしかなかった。

 市長がこの『合衆国陸軍キャンプ・ダグラスの指揮官、ヘンリー・A・モロー将軍』を紹介すると、この将軍は急に真顔になり、背筋をピンと伸ばし、黄金の釦で飾られた青い軍服の胸を膨らませた。彼は軍隊式の鋭い敬礼をした後、デロングと力強い握手を交わした。次いで、ライスが私のことを使節団の本日の代理代表者として紹介すると、この将軍は私の手を熱意の篭った調子で握りしめ、まるで私の肩が外れてしまうのではないかという勢いで振った。

 彼が私に話しかけようと前屈みになると、彼の眉が形を変え、その表情が真摯さと感性に満ちたものに変化したことに、私はまず驚かされた。物思わしげで高潔なその顔立ちは、彼の見事なまでに濃い瞳を、詩人が持つそれのように見せていた。それはあまりにも率直な顔で、ライスが次のように訳す前から、彼が何を言わんとしているかが理解できるほどであった。「貴方の今朝の演説を聞けなかったことを残念に思うと伝えて欲しいと仰っています。また貴方が、とても許せないであろう遅刻の件を許し、明日彼のキャンプを訪問することで、どうか彼に埋め合わせをする機会を与えて欲しいとのことです。」

 確かに、私は人が言う通り気難しい人間なのかもしれない。だが私はこのような心からの真摯な謝罪には実に弱かった。貶めた相手を手前に、自分が仕出かしたことについて一切の罪悪感も持たぬまま、ただ謝罪の姿勢だけをとる奴等が蔓延るこの世の中において、これは極めて稀なことであった。もっと言えば、我々はよく罪の意識を感じないばかりか、時としてそれを表すことすらせずに紋切り型の謝罪をするものだ。故に私は、このように自らの過ちを素直に認められ、謙遜することを恐れない人物に出会うと、私自身も謙遜すべしという気にさせられるのであった。

 どうせ詰まらない演説だったのだ、と私は心中で思った。聞かずに済んだ分、彼は賢かったと言えよう。

 私はライスに向かって言った、「我々の気持ちを何ら損ねたわけではないのだから、謝罪の必要はないと、この将軍に伝えてくれ。だがその代わりにもし彼が我々を明日案内してくれるというのなら、そのようなありがたい招待を断りはしない、ともね。」

 ライスがこの発言を彼に伝えると、そのもじゃもじゃ顔に大きな笑顔が浮かび、モロー将軍は大きく声を上げた、「グッド、グッド!」そして彼は他の使節達と握手をするために前屈みになりながら、これを何度も繰り返し言い続けた、「グッド、グッド!ウェルカム、ウェルカム!」

 将軍と将校達が全員との握手を終えることで自己紹介はようやく終了し、歓迎式はもう少し砕けた談話の場へと変わった。重鎮達がわらわらと寄ってきては、質問や祝辞を述べていった。殆どの者達はデロングや、我々のサンフランシコ領事館から来たミスター・ブルックスの方に近寄って行ったが、より勇気のある者達は直接我々使節の方へとやってきたため、哀れライスはいくつもの質問を同時に捌きながら、可能な限り我々に通訳して伝えようと努めていた。伊藤だけは自信満々に、質問者には彼等の言語で返事をお返ししますと宣言し、これには異人達から賞賛の囁きと小さな拍手の音が聞こえてきた。私としては、これ以上奴を付けあがらせないでもらいたかった。

 結果としては、私は彼等が尋ねた質問の平凡さに少々驚かされた。『出発してからどれぐらいになるのか?』『あちらの天気はこちらと比べて違うか?』『どれぐらいの期間合衆国に滞在するつもりなのか?』『どの都市を巡ったのか、そしてどのような印象を抱いたか?』そして——これが一番重要らしかったが——『ソルトレイクシティは他と比べてどうか?』まったく、想像以上の退屈さであった。この連中は、謎に包まれた異国の頂点に立つ支配者達を、この長閑な山間の街へとまんまと連れ出すことに成功したと言うのに、本当にこれらが、連中が何としてでも我々から聞き出したいことだと言うのか……?私は別に何も、こう雑多な参加者がいる公式の場で物議をかもすような話題が議論されると思っていたわけではなかったが、それでも少しぐらいは何かしら刺激的な話が出てくるのではないか、と言う願いは、こうして儚く散ることになった。私達は彼等が尋ねた下らない質問に、一つ一つ丁寧に、さしたる熱意もなく機械的に答えていった。

 悲しいかな、楽しい時には終わりが来るのが常で、ようやくデロングが我々を好奇心盛んな参加者達の魔手から救出した。大会議場から連れ出され馬車に詰め込まれたところで、この歓迎式は全部でたったの一時間ぐらいでしかなかったという事実を初めて知り、私達は大いに驚いた。体感としては、まるでこの窮屈な部屋に何日間も閉じ込められていたかのような気分であった。

 我々は次に、この街で一番裕福な商人ミスター・ジェニングスとの昼食に誘われていた。馬車が市庁舎よりも堂々とした彼の家に乗り付けられたとき、この小さな街では金があるのとないのとでは大分違うのだということを我々は悟った。この豪邸はあまりにも華美で、何と名前すらつけられているのだと、ライスが私に伝えた——連中はここを『デベロー』と名付けたそうだ。この野蛮な国では、たかが家如きが気取った名前を持っているにも関わらず、街中でご老人が『ヘイ、オールドマン!』と気軽に呼び捨てられているという事実に私は驚嘆していたが、ライスは別にこれを気に留めもせず、こんな風変りなことをするのはジェニングスが結局はイギリス人であることを考えれば当たり前だと告げた——まるでそれで全てに説明が付く、とでも言いたげな口ぶりであった。

 私はあらかじめ、このジェニングスもモルモンであるという警告を受けており、ライスは恐らく、だからいつもよりも一層マナーに気を付けたほうが良い、とでも言いたかったのであろうが、これは無用の心配であった。ミスター・ジェニングスはむしろ、我々日本人ジェンタイルに対して出来る限りの譲歩を見せてくれ、我々は食事と一緒にワインが提供されるのを見て大いに喜んだ。ミスター・タウンゼントが近い内に、このモルモンの同輩からヒントを得てくれるのをただ願うのみであった。

 昼食後、我々はモルモンのホスト達が『セイント・ツアー』と敬愛を込めて呼んでいたものに参加した。最初の停留所は彼等の教会の最高寺院で、タバーナックルと呼ばれているものであり、これはわずか二、三年前に建てられたばかりなのだと、誇らしげに聞かされた。この建物は、私が今まで目にして来た建物の中でも、最も奇妙なものの一つであった。途轍もなく大きい楕円の円蓋が、そのまま広々とした広場の真ん中に鎮座した形のそれは、まるで化け物じみた規模のダンゴムシによく似ており、天井が殻、柱が足のように見えた。正直、美しい建物とは言い難かったが、私はじきにこの建物の大きさと構造は、集会目的に非常に適しているのだということを学んだ。

 ホスト達がこのタバーナックルに非常に自信を持っていることは、手に取るように分かったため、私達は義理からあえて色々と質問を投げかけた。『長さと高さはどれくらいか?』『建て終えるまでどれぐらいかかったか?』『何でできているのか?』『何人入ることができるのか?』『どのような用途に使われているのか?』等々。彼等の説明では、これは主に教会の集会に使われており、毎回一万人以上の人を収めることができると言う、俄かには信じがたい話であった。私達の疑問を受け止めつつ、彼等は規模を直接肌で感じるようにと建物の中へと誘った。

 タバーナックルは内部も外部と変わらず美しさに欠けていたが、その空間はまさに驚異的であった。白い漆喰の天井は我々の頭上遥か上で曲線を描いており、まるで巨大な卵の殻の中に足を踏み入れたかのような、不思議な感覚を覚えさせた。更には、この広大な天井を支える柱が一つとして存在しないということは、どう考えても不可能なことのように思え、このとき私は、我々の技師代表である肥田ならば、この建築の奇跡がどのように成し遂げられたか、大いに興味があるに違いないと思い立った。私達はモルモンに、これほどの規模の建物ではバルコニー席の一番後ろにいる人達は高座の上で何が起きているかまったく分からないのではないかと質問したが、彼等の答えでは、どんな離れた席からでも説教の一句一句が全て良く聞こえるように出来ているのだという話であった。彼等はバルコニー席に行って試してみましょうと熱心に薦めてきたが、私達は彼等を信じるのでそれは不要ですと丁重にお断りした。

 更にモルモンが本当に見せびらかしたかったのは、彼等のオルガンであった。この楽器は演壇の背後の壁に設置されており、高さにして四十五尺から五十尺ほどの、私が見てきた中でも最大級の一品であった。事実、我々のガイド達はこれがアメリカ全土で最大のものだと主張していた。私達はその場で、この荘厳なオルガンの製作者だという人物に紹介され、彼はそこで我々のために実演してみせた。聳え立つパイプの中から力強く押し出された音の勢いは、まずもって物理的にびっくりさせられるほどで、最初の一音から我々を思わず振るい上がらせ、またこの偉大な音の力が空間に響き渡る様子は極めて感動的であった——この胸に響く震えが、楽器の振動によるものなのか、それとも私自身の心臓の鼓動が高まったものなのか判断し兼ねるほどであった。この、他の音を掻き消し眩暈を引き起こす音に耳を傾けながら、私は一瞬だけ、神秘の世界を理解出来た気がした。

 雪に覆われた外の広場に戻って来ると、彼等は次に近くの広大な地面に広がった大穴へと我々を連れて行き、雪の下に敷かれた工事中の建物の礎を見せた。「これが」とライスが示した、「竣工した暁には、彼等にとって地上で最も神聖な領域となる予定の場所です。彼等はこれがユタ自治領で最も豪華な建物になるとも言っています。彼等の教会では『テンプル』と呼ばれているものですね。」

 実際の話、この建物は既にその偉大さの片鱗を見せ始めていた。周囲を見渡せば、どこを見ても巨大なみかげ石の厚板が取り付けられるのを待っており、このテンプルの礎は既にタバーナックルよりも輪をかけて大きな建物になることは明らかであった。

「こんな規模のテンプルを建てるほど、モルモンは多くいるのかい?」と伊藤が感嘆しながらライスに尋ねた、「彼等の教会は小さいという印象を持ってたんだけど……」

「それは、その通りです」とライスが答えた。彼はホスト達の一人に短い質問をしてから、我々に向かって言い加えた。「はい、彼が言うには、世界には約二十万人のモルモン達がいるそうです。世界の主だった宗教に比べると、これはごく小さい信者数にあたります。」

「モルモンの人達は野心的だねぇ!」と伊藤が感心した、「ここにお金を全部注ぎ込んでいるわけだ!」

「彼等の『教会』についてだけは、誰も彼等をケチだと貶すことはできませんね」と最初の言葉を若干鼻で笑ったような声でライスが言った。

「次はどこに行くのだ、ライス?」と私は広場を横切り歩道に戻りながら尋ねた。

 ライスは私達の少し前を歩いていたデロングに確認を取りに行き、そして若干の躊躇いが混じった声で私に答えた、「貴方達にはこれから、ブリガム・ヤングにお会いいただきます。」

 これにはデロングも歩調を遅れさせ、隣を歩いていたので、私は彼に話しかけながらライスに通訳するよう促した、「もしこのヤングとやらが我々に会いたいというのなら、何故彼は今朝の歓迎式に来なかったのだ?それとも、この預言者は一般人に混じるには偉大すぎるとでもいうのかね?」

 ライスがこれを訳すと、デロングは急に鋭い目付きで通詞を睨みつけ声を落とさせた。我々の前を歩いていたモルモンのホスト達の背中を用心深く見やりながら、デロングは何かをライスの耳に囁き、ライスが次にこれを私に伝えた、「実は、ヤングは現在合衆国政府の囚人として、裁判が始まるまでの間、自宅で蟄居させられているのです。なので彼は貴方達に会いに来ることができず、彼と会うには、代わりに彼の家まで会いに行かないといけないのです。」

 私はぎょっとして、思わず口ごもってしまった、「何、囚人だと!だが……罪状はなんだ?」

「殺人、とのお話です」とライスが薄気味悪く言った、「ただそれだけでなく、重婚の罪でも裁かれるのは間違いないでしょうね。」

「重婚はともかく、殺人とは——!」と私は不安な視線を大久保に向けて呟いた、「岩倉卿はそれについては何も仰っておられなかった。これは私達の想定範囲外ではないか?殺人罪に問われている人物と交流したこと知れ渡ったら、ジェンタイル達の怒りを買ってしまうのでは……?」

「そんなことはないでしょう」と大久保が言った、「それに、そうなったところで、何が問題なのです?」

「だが岩倉卿は私達に、醜聞は起こさないようにと、ワシントンまでは電信一本で繋がっているのだと、言い聞かせたではないか!これが『醜聞を起こす』良い例だとは思わないのか?」

「岩倉卿はこの状況を御存知の上で、私達のためにこの会合を自ら手配してくださったのです」と大久保は断言した、「さもなくば、なぜ卿は御自身が巻き込まれないよう注意を払われたのだと思います?もしアメリカ人が文句を言って来たら、卿はいつでも、これは個人的な訪問であり、使節団の総意によるものではないと主張出来ることでしょう。貴方もフラーさんが、私達が最初に着いたときに言った話を聞かれたではありませんか。私達は日本が必要としていることを第一に考えるべきで、誰が気分を損ねようと、聞くべきことは何でも聞くべきだと。岩倉卿は外交辞令の都合で手足を縛られているのですから、木戸さん、貴方と私が勇気を出して、卿には出来ないことを成すべきです。ヤングは我々にとって有益な人物かもしれないし、避けて通るわけにはいかないでしょう?」

「だが、人殺しだぞ?」と私は溜息をついた、「本当にか……?」

 大久保は、片眉を繊細に吊り上げ唇の端を歪ませ、私の顔を面白そうに見つめて言った、「人殺しならこれまで何人も見て来たじゃないですか。新国家を創立するにあたり、彼等の有用性は何ら損なわれなかった。それが今更一人増えたところで何です?」

第五章

 預言者ブリガム・ヤングは沢山の妻達と子供達と共に、幾多の立派な建物群が不規則に広がった敷地内に住んでいた。その全容は矢来に守られた軍の要塞にも似た造りになっており、全ては堅牢な内壁で覆い尽くされていたが、それが果たして住人が戦いに備えて作ったものなのか、単に外部の好奇の目から自らを守るために作られたものなのかは定かでなかった。モルモンの案内人達は、二つの母屋はそれぞれライオン・ハウス、ビーハイブ・ハウスと呼ばれていて、この二つの建物はいくつかの部屋を通じて繋げられているのだと教えてくれた。ライオン・ハウスは敷地沿いに並べられた何件かの住宅から成り立っており、ヤングの妻達と子供達の住居として使われていた一方、荘厳な見た目のビーハイブ・ハウスは預言者自身の執務室としての役目を果たしていた。

 我々が敷地への門を潜るとまず、左側ライオン・ハウスの手前で、幼い子供達の群れが雪の中、笑い転がり回っていることに気付かずにはいられなかった。それは厳格な態度で囚人の家を見張っている合衆国執行官の存在とはおよそ対照的な光景であった。ライスがまごつくのは分かりきっていたので質問は控えたが、これらがおそらく預言者の子供達なのだろうということは容易に推察できた。

 ライスはまるで子供達の楽しそうな騒ぎ声が聞こえないフリをしたまま、私達に向けて言った、「モルモン達は、屋根の上にあるあの蜂の巣の彫刻にご注目いただきたいようです——あれが彼等の象徴なのです。」

「それはどういう意味だ」と私は尋ね返した。

「勤労さを指しているのですね——蜂は働き者で知られており、モルモンはそれこそが一番の美徳だと考えているのだ、とのことです。」

 大久保はこれに対して何も言わなかったが、その瞳がかすかに光ったのが伺え、この話を好ましく思っているのだなと気付くには充分であった。

「デロング公使とは、ここでお別れになります」とビーハイブ・ハウスのポーチで立ち止まったところで、ライスが説明した。

「なに!彼は一緒に来ないのか?」と私は声を上げた。

「いいえ、入れないのです」とライスが答えた——さて、デロングは入れないのか、入らないのか?わざと曖昧なままにされたライスの訳が、どちらの意味なのか私には判断できなかった。私が動揺している様子に気付いたのか、彼自身は留まり通訳をするし、それにモルモンのホスト達に任せておけば安心ですとライスは保証した。「ご心配なく木戸参議。別に殺されるわけではありませんから」と彼は笑った、「たとえ殺されてしまったとしても、誰もが私達の居場所を御存知なわけですから、犯人は簡単に捕まりますよ。」

「君は私達がそれで安心するとでも……?」と私はぼやいた。

 デロングがライスに最後の指示を小声で話すと、この通詞はそれを私達へと伝えた、「公使は、ミスター・ブリガム・ヤングを相手にするときには、細心の注意をお払いいただきたいと言っています。ヤングは物腰柔らかな印象を与えることで知られていますが、騙されてはいけません。と言うのも彼こそ、ミシシッピ川以西で最も手強い男であることには、まず疑いの余地がないからです。この預言者は彼の教会を如何なる攻撃から守るため闘うことを躊躇いません。彼は伊達に『ライオン・オブ・ザ・ロード』と呼ばれるようになったわけではないし、貴方達も彼の支配する巣窟にいる間は充分にお気を付けください。」

「礼儀正しくすることにしますよ」と大久保が答えデロングに軽く会釈をし、それと共に我々は家の中へと案内された。

 我々が連れて来られた応接間には確たる変わったところは見られなく、私は若干ガッカリさせられた——この恐ろしい鬼僧の隠れ家を訪ねるという危険を冒した挙句に、こんなありきたりの応接間を見せられては意味がないではないか?こんな調子では、国元の井上宛に手紙を書く際に、伊藤と私が自慢出来るような面白いネタが一切ないままで終わってしまいそうだ。

 モルモンのホスト達は、両側にそれぞれ何席かの椅子が並べられたテーブルへと私達を案内した。私達の一行、即ち四人の副使とライスはテーブルの一方に座らせられ、彼等はその反対側に、一人分を空席にしたまま座った。この最初の空白時間を使い、大久保はライスに対し、預言者のことはどのようにお呼びすれば良いのか、モルモン達に尋ねるよう頼んだ。この質問を聞くとモルモン達はただ笑い声を上げ、いつもは単に『ブラザー・ブリガム』と呼んでいるが、もし大久保がそれよりも公式な呼び方を好むというのであれば、彼等の教会宗主である彼の通り名は『大統領』だから、つまり『ヤング大統領』と呼べば良いのだと言った。この合衆国大統領とまったく同位にあたる呼称を聞き、私は驚嘆せざるを得なかった——これは果たして、この預言者の誇大妄想から来るものなのか、それともアメリカの軍事力ですらまだ従順せしめ得ない真の支配者たる確たる証拠なのか?

 この謎に満ちた『ライオン・オブ・ザ・ロード』が登場するまで、長い時間を要さなかった。

私が間もなくこのヤングを目にしたとき、最初に思ったのは『遂に大久保に比肩しうる相手が現れたかもしれない』ということであった。この紳士の顔は年老いて丸くなっていたにも関わらず、ただ彼の眼だけは、単純な握手の間ですら、私がこれまでアメリカ人達に見出したことのないような鋭利な視線を通じ、相手の内側までをも無慈悲に見通していた。彼は七十一歳であると私達は聞かされたが、顔つきからも姿勢からも、とてもそのようには見えなかった。無論、彼はあくまで普通の人間の姿をしており、悪魔の角も持ってなければ、天使の翼も持っていなかった。これもまた若干残念ではあった。

 会合を通して、この預言者は礼儀正しく上品な所作を崩さなかった。しかし私には、この男の所作の一つ一つが鼻について仕方なかった。彼は横柄な空気を身に纏っており、私がこれまで目にしてきた大名達の中でも最も偉そうな人物ですらしないような顎の傾け方をしていた。彼の話す言葉は一つとして解せなかったものの、その声に含まれた右肩下がりの抑揚と、優越感に満ちた手の仕草からは、まるで彼が『矮小な諸君に神の言葉を下賜してやっているのだ』とでも言いたげな印象を受けた。彼は『文明未開化』な異国の使節に対してだけでなく、他の者達に対しても同じような調子で話しかけており、それもまた彼の性格をよく表していた。

 この預言者とテーブルを挟んだ丁度反対側の席にいたのは大久保であり、これは最善の席次のように思えた。話し上手でこそないものの、大久保ならばヤングに対してどのような質問でも躊躇うことなく尋ねることができるのは自明のことであった。大久保の中には『気まずい話題』などというものは一切存在しておらず、最も多くの学びを得るには、彼に会話の流れを任せるのが一番であった。

 会話初めの紹介が終わり茶を勧められる段になると、大久保は前口上もなく「ライスさん」と口火を切った、「彼に何人の御夫人達と子供達がいるのか、また、どう彼女等を養っているのかを尋ねてください。」

 ライスが躊躇し、眉間にしわを寄せ拒否したそうにしているのが見えた。「ライス、良く聞きなさい」と大久保が低く見下すような口調で言った、「貴方の潔癖さは、私には不用です。貴方の個人的な信念もどうでも良いです——貴方はただ給料に見合うだけの仕事をしてください。尋ねなさい。」

 それでおしまいであった。ライスはすぐさまヤングのほうを向くと、まだ俯いたままポツポツと訳し始めた。大久保の態度がこのようなときに格段に効果的だという事実は、私も認めざるを得なかった。もし私が相手であったら、ライスは恐らくのべもなく断っていただろうが、大久保のことは逆らえないほどに恐れているのであった。

 ヤングがこれらの質問に驚いていたとして、彼はその様子をおくびにも出さず、嬉々としてそれぞれの問いに答えを返した。

「彼が言うには、現時点で十六人の妻達と四十八人の子供達がいるそうです……」とライスが不明瞭に言った、「……と、思うそうです。彼も正確な数字は覚えていないと言っています。また妻達は各自が小さな家を持ち、それぞれの子供達と共に住んでいます——殆どの者は、貴方達が既に声をじかにお聞きになられた通り、この敷地内に住んでいます。敷地内に彼の子供達専用の私学校も建てたので、子供達は外出する必要すらありません。」

「そして、それで問題は起きないと?」と大久保が尋ねた、「御夫人達の間での嫉妬や口げんか、家族内での騒ぎは起きないのですか?」

「そんなことは絶対に起きないし、常に完全なる調和の元で暮らしていると言っています」とライスが呆れた目をしながら言った、「ですが私は、これが嘘だと知っています。彼等の邪な家族の間では常に争いが絶えないという話をもう何度も街で聞きましたし、ヤングの妻達の中の一人が彼女に対する扱いを不満に思うあまり、離婚すら考えているという噂もあるぐらいです。」

「恐らく真実は、二つの話の間を取ったところにあるのでしょう」と大久保が考え込むように言った。これは彼にも身の覚えがある話に違いなかった。いくら薩摩の女が慎ましく、かつ忍従の精神を持つことで知られているとはいえ、彼の鹿児島の妻が京都の片割れについて、一言も恨み言を漏らしたことはないのだろうか?と私は思った。「宜しい」と大久保がライスに向かって続けた、「では次に、彼が今面している犯罪の告発について尋ねてください。」

「大久保卿——!」とライスが許しを請うかのように口ごもった。

 大久保は、そのゾッとするような厳しい視線をライスに定めると、ただ一瞬ジロリと見つめてから歯切れよく繰り返した、「尋ねなさい(・・・・・)。」

 ライスは深い溜息と共に諦めたのか、その指示に従った。預言者の顔が険しくなり、目に見えて冷え込んだモルモン達の空気を感じ取り、ライスは居心地が悪そうにしていたが、それでも我々は回答を受け取った。「重婚については、言い訳の余地が無いでしょう——神自身が彼に複数の妻を囲うように指示したことを除けばですが!——しかし殺人容疑については、頑なに否定しています」とライスが伝えた、「教会に恨みを持つとある悪党が、自らが行った殺人を利用し、何人ものモルモンの重鎮達を巻き込まんと、ただ復讐のために中傷しているのだと主張しています。ヤングはこの男の証言だけを元に逮捕されており、今はただ身の潔白を証明する機会を待ち望むばかりだとの話です。この告発にはまったくの裏付けがないのだから、証明は簡単だと断言しています。」

「それは何とも災難でしたね」とおもむろに言いながら、大久保は注意深く茶を啜った。そして茶碗を受け皿に置くと、急に椅子の上で今一度姿勢を正し、背筋をまっすぐに伸ばし、両手を固め膝の上に休めた。私の良く知っている、彼が強く決意を固めたときの表情の変化が表れた。これは、彼がこれまでの会話をただの世間話としてしか捉えていなかったということと、彼が真に重要と考える話がこれから始まるのだ、という二点を示していた。

「教えていただきたい」と大久保は安定した深い口調でヤングに尋ねた、「どう成し遂げたのかを。」

「……これはどう訳すれば良いと?木戸参議……?」とライスが私に小声で尋ねた。

「ヤングが如何にしてこの荒野を手懐け、この街を造り上げることに成功したのかを聞きたいのだ」と私は解説した。

 ライスがこの質問を預言者に伝えると、ヤングはまず笑みを浮かべた。それは深い悲しみを背負いながらも、燃え上がるほどの自負に富んだ、薄い笑いであった。「まず最初に話すべきことは一つに限られると言っています」とライスが我々に言った、「それはジョセフ・スミスの話です。」

「誰ですか?」と大久保が尋ねた。しかしこれがモルモン教の設立者だと聞くなり、彼は目を僅かに細め、この会話の風向きに苛ついているのが見て取れた。私はそのわけも理解していた 。大久保はここに産業と政府について学びに来ているのであって、新興宗教に改宗されるために来たわけではなかった。「ライスさん、出来る限り」と大久保は言った、「この部分は早く済ませていただけるとありがたいです。」

「私もそうしたいのは山々です——信じてください、大久保卿」とライスが皮肉気に言った、「ただ彼は、この話には意味があるのだと主張しています。信仰が彼等の民達に及ぼす力を理解しなくては、彼等の街が如何にして生き延び栄えてこれたのか、理解することは叶わないと言っています。」

 大久保の目が更に細められたが、そのまま続けるようヤングに促した。

 このジョセフ・スミスとやらは、神や天使達と直接話すことの出来た預言者で、初期の信者達と共に、1830年頃にニューヨークでモルモン教を設立した人物なのだと我々は学んだ。この新宗教に対する弾圧はすぐに始まり、彼等は幾つもの州を越え、オハイオまで逃げ込み、そこから更に西のミズーリ、そして最後はイリノイへと移転し続けた。そこで弾圧は更に苛烈となり、預言者スミスは現地の人々に手によって死に追いやられてしまったほどであった。彼等の話では、このときヤングがスミスに代わる新たな預言者となり、同時に、二度と隣人達に嫌がらせを受けずに済むよう、教会全体で遥か西、周りに人間の住んでいない荒野へと再び移動することを決断したのであった。彼等は山間にある、猟師とインディアン以外には誰も住んでいないこの土地について聞き及んでおり、道中どれほどの苦しみに耐えることになろうとも、何としてでもここまで辿り着き、自分達の首都を築き上げようと決意していた。

「それはもう筆舌に尽くしがたい苦難だったようです!」とライスが伝えた、「この大陸の未開地を踏破するという恐ろしい旅路——十七か月に及ぶ徒歩での移動、インディアン、野生の獣、野ざらし、飢え——ありとあらゆる危険といつも背中合わせの生活でした。」

「だが彼は、未知の国へのいざないを人々に強いることが出来たと?」と大久保が言い、質問を重ねた、「どうやったのですか?」

 それは「神託」であったと、我々は聞かされた。

「ほう?」と大久保が聞き返した。

「つまり彼の話では、彼の民達は神の意図を解釈できる唯一の人間である預言者に、絶対の信仰を抱いていたのです。真なる神の国をこの地に再建するためには、持っているものを全て担ぎ、未開の地へと何千里を超す危険な旅をしなければならないと彼が言えば、彼等はただ信仰のために喜んでそうしたのです。信仰なくしては、ここでの最初の数年の苦難を生き延びることが出来ず、この共同体は失敗したであろうと言っています。」

「では、ヤング——と言うよりは神が、モルモン達に西へ向かえと言ったと。そして次にどうなりました?」と大久保が尋ねた。

「彼等はまず、民衆の大半を東に残したまま、この地に調査のための小規模な先遣隊を送り込み、それから残りを呼び寄せることに決めました。そうして送り込まれたのが」——彼はヤングに数を確認してから続けた——「送り込まれたのが、ここに同席している紳士達を含む、百四十三人の男性、三人の女性、二人の子供でした。ですが彼等がデザレットに移住せよという神命を受けたときには——」

「デザレット?」と私は遮った。

「はい、それが、彼等がこの自治領につけた名前です。『ユタ』は合衆国政府がつけた名前ですから。」

「なるほど。では続けてください、ライスさん」と大久保が言った、「彼等がデザレットに移住せよという神命を受けたとき……」

「はい、デザレットに移住せよという神命を受けたとき、どうも彼等はコーヒーハウスで午後のお茶を楽しむ程の用意すら出来ていなかったそうです。ましてや不毛な荒野に一生住むなど、とてもとても。適切な食糧も厳しい冬を越すための服装も何もなく、ただ驢馬とハンドカート(手押し車)しかないまま、ここに来たのです。」

「あとは彼等の信仰心だけであったと」と大久保が呟いた。

「えぇ、まあそうです」とは言ったものの、ライスは明らかにこの発言に苛つかされている様子であった。

「しかし何も持っていなかったと言うのなら、如何にしてこれだけのものを造り上げたのだ?」と私は感心して尋ねた、「私も若いころ様々なことを松陰先生に教わったが、流石に無を有と為す方法などは聞いていないぞ。」

 ライスは少しの時間をかけ、ヤング達と会話のやり取りをした。「やはり長い話になりますが」と途中でライスが言った、「二十五年に及ぶたゆみなき努力の成果だと、彼は言っています。まずは農業から始まりました。この盆地に最初にキャンプを設置したその日の内に、彼等は畑を耕す試みを始めました。山から材木を採ってくるのは難しかったので、最初の家はほぼ泥だけで建てられました。」

「話が少し飛びすぎですよ、ライスさん」と大久保が軽く叱りつけた、「居住者達を旅路の途中で置き去りにして、彼等が如何にしてこの地を見つけたのかも飛ばして、もう家を建てさせ始めてしまっているではないですか。ちゃんと順を追って説明してください。」

 ライスは溜息をついた。明らかに、大久保の厳密さに話の流れを曲げさせられることに辟易している様子であった。(その気持ちはよく分かった。)ライスはとうに言い返すことの無意味さを理解しており、そのまま先程のところまで話を戻した。「とにかく、彼等は1847年の7月に、最初にこの盆地に目を付けました。彼等は皆、初めて目にしたソルトレイクバレーの情景に心底感動したと口を揃えて言います。川と草木が豊富で、青々としたこの大地は農業の可能性に満ち溢れ、四方はあの素晴らしい山々に守られていました。ヤングは最初にこの地を見たときに、『ディス・イズ・ザ・プレイス(ここがそうだ)』と宣言したそうです。その日その場でこの大地を眺めているうちに、この植民地の未来絵図の神託を授かったと言っています。」

「なるほど」と大久保が言った、「確かにそれほど神がかった風景を目にすれば、そうなることでしょうね。」

 私はここでライスを一旦止めた。「しかしちょっと待ってくれ——ここは荒野だったのではなかったのか?私達はこれまでずっと、ここは何を育てるにも適さない乾いた荒れ地だったと聞かされてきたぞ!ライス、お前も自分の目で車窓から見たではないか——この盆地には一本の木すら見当たらなかった!」

 ライスがこれについて尋ねると、ヤングを含めたモルモンは皆ドッと笑い出した。彼等は一斉にライスに語り掛け、預言者が最後に決め手らしい何かを発言した。ライスは眉を吊り上げながら答えた。「ええと、確かにこの盆地は乾いていたし、何を育てるにも灌漑が必要だったのも、木がなかったのも事実だと言っています。しかし初めて着いたとき、ここの見た目は今と全然違ったのだとも言っています——ただ単に、近年のソルトレイク移民がそれを知らないだけのようです!創業者達は、盆地に多くの川が流れていて灌漑の可能性があったからこそ、この場所を選んだのだと説明しています。今日人々が目にしている『荒野』は、モルモンが畜牛達を数年間放牧していたせいで、この畜牛達が天然の草木を荒らし尽くしてしまった結果だそうですが、新参者はここが昔から荒野だったと思い込んでいるのです。御老人達がこの誤解をわざわざ解かないでいるのは、それでは効果的なキリスト教的な訓話にならないからでしょうね。」

 このときヤングは私達に何かを伝えようと、時折空中に浮かせた人差し指を勢いよく振りながら、直接大久保に向けて仰々しく語りかけた。ライスがこれを大久保に説明した、「大久保卿、彼は貴方への教訓として真実を伝えたいと言っています。まずそもそも、荒野に植民地を創るなどと言う愚かなことは考えてすらいけないが、それよりも重要なのは、貴方が荒野に植民地を創りあげることに成功したと、周囲に信じさせるよう全力を尽くすことだと。ことは現実主義に根差した計画を元に推し進めるべきだが、その現実主義は神徳の裏に隠しつつむべきであると。」

「それは少々、彼の民達にとって冒涜的な話なのではありませんか?」と大久保が僅かに微笑みながら言った。

 ヤングは静かに答え、ライスは溜息と共にこれを訳した、「神は愚者ではないし、神がその導きに信仰を持つよう信者に求めたとして、それは頭を空っぽにしろと言っているわけではない、とのことです。」

「彼の神のことは、彼自身の方が私より良く理解されていることでしょう。私は意見を控えることにしますよ」と大久保は冷静に言った、「しかしまだ話の途中でしたね。開拓者達がこの盆地に到着して『ディス・イズ・ザ・プレイス(ここがそうだ)』と。」

 ライスはヤングに続けるよう促した、「ええ、そして彼等はこの盆地に下りてきて、当座しのぎの居住地を作りました。丸太と泥レンガで建てた、インディアンの襲撃に対する多少の守りにはなる程度の小さな砦です。ヤングはこの時期に街の全てを設計しました。最初に決めたのは、聖域を中心に、大きな碁盤の目のように街を配置するという案でした——今もなお見られるとおりですね。彼等はこの図案を元に測量を行い、東部から残りの家族達が到着したときに配分する分譲地まで用意したうえで、畑を耕し始めました。勿論、彼等はここよりも雨に恵まれた東部の州の農民達でしたので、このような乾いた気候には慣れておらず、どれだけの灌漑が必要になるのかを大分甘く見ていました。そして彼等はまた、キリギリスのことも甘く見ていました。」

「キリギリスだって!」と私は笑った。

「いえいえ笑いごとではありませんよ、木戸参議!この辺のキリギリスは獰猛なのだと、彼等は言っています。機会さえあれば、この小さい怪物どもは収穫物を最後の一葉まで喰い尽くしてしまうのだと!霜、干ばつ、害虫と、初年度に植えられた苗は、ほぼ全て駄目になってしまいました。ただ少なくとも、灌漑の水路を作り、害虫と戦うための頭数さえ揃えば、農業は可能だということは証明できました。二年目の夏には、新たに数百世帯がここに到着し、本格的な仕事に取り掛かることが可能になりました。より野心的な農業計画が立てられ、砦も取り壊され、そのレンガや材木は新たな家を建てるのに再利用されました。ヤングはそれぞれの家族に分譲地を割り当てており、各々の住民が責任を取り全力で各自の土地を耕しました。この黎明期には、多大な忍耐と犠牲が必要とされたのです。しかし彼等の話では、わずか二、三年でここは既に本格的な街の形相をなし始め、人口も一気に五千まで跳ね上がったとのことです。」

「誰がどの分譲地を与えられるかで、いざこざは起きなかったのですか?」と大久保が尋ねた、「確かに、どの土地も肥沃さで言えば平等——と言うのも、どこもそれほど肥沃ではなかったのかもしれませんが、例えば人によっては、聖域から遠くの土地を与えられたことについて文句を言ったりはしなかったのですか?そしてそういった人々が不満を燻ぶらせ、社会全体を分断する要因になったりはしなかったのですか?」

 私には彼の論理の流れがハッキリと分かった。我が国においても武士達は、どれほど御城の近くに住んでいるかで家柄を判断することが出来た。大久保は——それに私も、伊藤も、内戦を経て唐突に眩暈がするほどの権力を手にすることになった他の男達も——我々は皆総じて城壁から遠く離れた場所で生まれ育っていた。それが今や御覧の通りだ。

 ライスがこれについてヤングに尋ねたところ、返ってきた答えはこうであった、「信仰の力を忘れてはならないと言っています。この預言者が誰かに分譲地を与えるということは、それは神の手そのものがその地を与えるのと同義であり、受け取り手は自らに与えられたものが何であれ、喜んで感謝を示すだけなのだと。ですから答えは否です——土地の分配に関する不満は出ませんでした。」

「ふむ」と大久保が言った、「ですが一方で、この植民地を本当の街にする上で犠牲にしなくてはならなかったものもあったと、貴方は言いましたね——一体、何を犠牲にしたというのですか?もし人民が皆、預言者の命令に完全なる信仰を抱いていたというのであれば、真に犠牲にされたのは一体何だったのですか?」

 この新たな植民地を造り上げていくなか、手の込んだ灌漑水路網を整備するといった骨の折れる労働に加え、不作と爆発的に増える人口に悩まされたのだと、我々は学んだ。「一部の人間はカリフォルニアに行こうとしたのですが、戻ってくるように説得されました」とライスは訳してから更に付け加えた、「実際には、強制的に引き留められた、と言ったところでしょうか——鉄道開通以前には、誰が街を行き来できるかということまで含め、モルモンが事細かに支配していたと聞いたことがあります。それに彼等の支配は完璧、かつ無慈悲であったとも——もしここに残って飢えろと、この預言者が指示をしたら、ここに残って飢えるしかなかったのです。」

「では最初の頃は飢えに苦しんだと?」と大久保が言った、「キリギリスが増えたせいで?」

「流石、鋭いですね大久保卿」とライスが微笑んだ、「ええ。彼等がちょうど今、憎き敵であるキリギリスに関する最もバカげた話を聞かせてくれました。もしモルモンの奇跡についてお聞きになられたいのでしたら、彼等がしてくれた話をお伝えしますよ。」

「是非!」と私は大久保が返事する機会を得る前に答えていた。

「良いでしょう。まず収穫の季節が再び訪れると、彼等は邪悪なキリギリス達に頭を悩まされていました。連中は時を置かずして全ての収穫物を貪り始め、日が経つごとに、これらの害虫を取り除くのは無理なように思えてきました。次の冬を越すのに必要な分の小麦がなくなりかけているのを見て、人々は絶望しました。ですがぎりぎりのところまで来て、最早カリフォルニアにでも発たなくてはならぬかと思っていたところで、彼等はカモメ達に救われたのです。」

「カモメ!」と大久保と私は同時に口に出し、隣の伊藤が笑いを堪える様子が聞こえてきた。

「ええ。突如カモメ達が大群で押し寄せて来て、畑に住み着いたのです。彼等は収穫物を平らげようとしていたキリギリス達を平らげました。そして最後の一匹まで害虫を食べ終えると、そのまま再び飛び去って行ったのです。モルモン達は、これを神が彼等を守護しこの地に留めるための確かな証拠と認め、結局ここに留まることを決めたのです。そして幸いにも、冬を越すのにぎりぎり足りるだけの穀物が残っていたと。ま、これが彼等の物語の顛末です。」

「最初は、そんな調子であったと」と大久保が言った、「そしてキリギリスがいなくなり、収穫高が改善し、人口が爆発的に増え、街が外へと広がり始め……そこで最初に育てようとした産業は何だったのですか?最初、政府はどのような形態だったのですか?」

 ライスは再びモルモン達としばらく会話を続けた。そして当時の産業は、植民地での生存に必要不可欠なものであったと答えた。「最初の二年で、既に大工と粉屋は現れていました——穀物のために三台の碾臼、五、六台の水力鋸があり、更に多くが作られるよう計画されていたそうです。鋳造所、なめし皮工場、馬車の車輪を直す店や……あぁ、それと木戸参議の温泉も、この時期に建てられたものです——人は常に清潔にしていないといけませんからね!」

 街を造る上で、温泉が他の全てに優先されるのは当たり前の話であった——これ以上に道理にかなっていることなどあるだろうか?

「彼等の政府についてですが」とライスが付け加えた、「えーと、常に支配をしてきたのは教会の指導者達であったため、政府自体も教会の必要とすることを最優先するようになっていました。勿論ヤングが全ての支配者であることに変わりはありませんが、そんな中ここに最初に設置された公式政府は、モルモン教徒でありヤングの影響下にある十二人からの評議会によって為されていました。時を置かずして、これは代表が選挙で選ばれる評議会へと変化し、そして二、三年後、合衆国自治領と化した後には、自治領政府も新たに設置されました。それでも実情はあまり変わらなかったようですね。ヤングは初代自治領の知事になり、彼のモルモンのお仲間達が選挙を通して、街の指導者達に選ばれました。と言うのも、モルモン以外に選挙に行く者など皆無だったわけです。」

「そしてこの政府は、初期の頃から市民の生活を厳しく取り締まっていた……と言うのですか?」と大久保はライスに尋ねた。

「ええ、それは間違いなく、そうだったようです」とライスが答えた。彼は如才なく頭を低くしながら小声でヤングに質問を行い、この預言者の返事を元に答えを明らかにした、「はい、最初の頃は、この歴史の浅い植民地がちゃんと生き延びられるよう、街の指導者達は厳しくあらなくてはならなかったと言っています。」ヤングはこれを途中で遮り、熱心に自分自身で説明しようとし、ライスがこれを直訳した、「デザレットは商業と産業を目的として設立されたわけではない。ここは神に選ばれし民達に約束の地を与えられるために作られたものであり、いわゆる、外界の誘惑や害悪は入って来れぬオアシスのようなものだ。だからここは元から陸の孤島として、自給自足が可能で隔絶された地として設計されており、それを至福で完璧な状況に留め置くため、我々は何もかも全てを手配しなくてならなかった。」

「『何もかも全てを手配』」と大久保が呟いた、「それほどの難業に比べて、なんと単純な言葉なことか……!」

「なんでも市政府は当初、資金不足だったようですね。そうすると、色々と大変ですから」とライスが言った、「ほとんどの商売は現金を介さず、物々交換で行われていました。すると税源確保も叶わず、そのせいで評議会は、最も必要不可欠で基本的な公共事業——つまり橋、道路、警察、公共の建物建築、等々——さえ賄えないほどに資金が足りていなかったようです。なので、これらは代わりに、無給の移民労働者と什一税労働者によって成し遂げられました——什一税労働というのは、教会が信者に課す義務労働のことですね。ですが彼の話では、商業からは逃げてきたつもりであったのだが、間もなく追いつかれてしまい、結局かなり早い時期から税制は整えることが出来るようになったそうです。彼等は常に、酒類の販売に一番の重税を課してきました——皆さんもご存知の通り、モルモンのお嫌いな品物ですね。彼が言うところの、その他の『放蕩』も皆、違法とされました。これが教会の支配する街の実情です——道徳ですら、政府の管理下に置かれてしまうわけです。」

「そして産業は?」と大久保が言った、「それほどまでに厳しい政府ならば、それもしっかりと把握していたのでしょう?」

 質問を尋ねてからライスが言った、「ええはい、それは何とも厳しい管理であったと。どうやら市の評議会はいつも価格操作を行っていたようですね——実際、もし鉄道が開通したことで価格操作が不可能にならなかったのであれば、今でも続けていたと言いたげな口ぶりですね。当時は、誰が商売を始めてよいかだけでなく、いくらで商品やサービスを売って良いかということまで、教会が決めていたようです。基本食品の販売者にとって価格操作は死活問題で、穀物不足の時分に商人達が同輩の飢餓を種にあぶく銭を儲けることを防ぐのは、とても重要な課題であったようです。とは言え今や、それもただモルモンの顧客に利するために、ジェンタイルの商人を罰しているだけの話しなようですが。」

「それは、どのように?」と大久保が尋ねた。

「えーと。それをここで議論するのは宜しくないかと」とライスと声をひそめた、「ただ一つ言えるのは、ヤングがジェンタイルの商人達を一切信用していなさそうだということぐらいですね。商人達は植民地の黎明期からずっと、モルモン達に不当な値段を要求しようとしてきたし、ほとんどの者は不正直な詐欺師だったが故に、価格操作をせざるを得なかったのだと主張しています。私の理解では、彼はこれを更に押し進め——ウッズ知事が今朝私に話してくれたところによれば、ヤングはここ二、三年の間にジェンタイルの商人達に対する不買運動を指示したとの話でした……そしてモルモンの商人達の間では、今は談合の動きも見えるとか……ウッズ知事の意見では、これらのジェンタイルに対する不公平な商習慣が、ここ十年間のジェンタイル達とモルモン達の間における軋轢の大きな理由の一つなのだ、ということでした……」

「よろしい、その話はもうそれで結構です、ライスさん」と大久保が滑らかに遮った、「話を元に戻しましょう。当初は市政府が現地の経済を全ての側面から管理していたと。ですがヤングは如何にして、これを上手くやり得たのですか?人々はこれらの管理について文句を言わなかったのですか?これも、預言者は神意を語っているのだ、云々と?」

「その通りです」とライスが言った、「そして、もしジェンタイルが異なる意見を持っていたとしても、誰も彼等のことは気にかけなかったのです。」

「経済支配は本当に、ただ厳しい黎明期を生き延びるためだけのものだったのですか?それともその裏には、何らかの理論があったのですか?商人達をそれほど厳しく管理することに、利はあるのでしょうか?ただ、この地で商いを始めることを控えさせるだけで終わってしまうのでは?」

「彼としては、別に商いを始めて欲しかったわけではなさそうですね、少なくとも外部の人間には。彼自身が言っていた通り、彼等の理想は自給自足でした。彼も評議会も、常に現地で生産された必需品を優先し、出来る限り輸入はしたくなかったわけです。まあ御覧の通り、これには完全な成功を収めたわけではないようですが、少なくとも挑戦はしたと。ああ、それと、彼等の最も無慈悲な戒律について話していませんでしたね!ヤングは最も厳しい批判を、鉱業のために取っておきました。彼は希少金属の採掘を完全に禁止していて、驚異的なことに、これを二、三年前まで維持することに成功したのです。金銀は近隣の山々でとっくの昔に発見されていたのですが、これらを掘り出して一山当てようとしたモルモン達は全員破門と地獄行きを宣言され、同罪で捕まったジェンタイル達は死刑に処される憂き目に遭いました。」

「だが何故ですか?」と大久保が言った、「西洋諸国の人間は誰しも、鉱業に相当飢えていると思っていたのですが。」

「はい、しかし鉱業に頼ることで、あまりにも容易に、急に、富むことができてしまいます」とライスが指摘した、「ヤングは信者達に、ただ神の祝福と共同体のためになることだけを追い求めるよう、純粋なままでいて欲しかったのです。これは道徳についての話であり、彼の考えでは生存にも関わる話でした——新しい共同体は金銀ではなく、農夫や大工、食べ物やレンガを必要とします。『金は食べられない』——これが、彼が私に伝えた言葉です。」

「確かに産まれたての共同体においては、それは理にかなっていますね」と大久保が言った、「即効性のある解決法の誘惑は、長期計画に必要なことの助けにはなりません。しかし貴方は先程、結局彼の願いに反して、鉱業はこの街にやって来たと言いましたね?」

「えぇ、その通りです。下町で沢山の汚らしい鉱夫がたむろしているのを見かけませんでしたか?最終的には、預言者の意志すらも、この地で商業が栄える運命を止めることは出来ませんでした。ここは交易者達にとってあまりにも魅力的な市場なのです。西に向かう旅人達は、常にここに留まり補給をしていました——昔は、ここがミシシッピ川とカリフォルニアの間にある唯一の街だったのです!——そして商人達は、ここで窮余の鉱夫と旅人達から多くの利益を巻き上げていったわけです。それも勿論、鉄道がこの街に通るようになる以前の話ですが。」

「鉄道以前、商人達は如何にして商品をここまで運んできたのですか?」と大久保が尋ねた、「まさか山道を超えてきたと?」

「その通りです」とライスが答え、ヤングに詳細を確認した、「野を超え、山を越え、幌馬車と牛達と共に。ミズーリ川とここを馬車で行き来するのに、六から七か月はかかったと言っています。厳しい試練だったことでしょう、とても効率的な商売のやり方だとは思えないですね!良いですか閣下達、鉄道はこのような開拓地の人々の生活を一変させたのです。」

「全てを一変させたと」と大久保はじっと考え込んだ、「そのような状況下では、隔離された理想郷を維持することは叶わないでしょう。ここに鉄道が通るようになったのはいつの話ですか?」

「ああ、つい最近の話です」とライスが言った。そして預言者と言葉を交わした後、彼は更に詳しく説明した、「オグデンを通る主線は1869年に完成しました。そしてオグデンからソルトレイクシティに通じる線は、つい去年開通しました。」

「彼は、鉄道設置にも反対したのでしょうね?」と大久保が言った。

 ライスがこれを尋ねると、モルモンは皆激しく言い返した。「貴方達は大きく誤解していると言っています」とライスが答えた、「ここユタに鉄道が来るよう働きかけたのは、他ならぬヤングだったそうです——彼の支援なくしては、これほど早急に作られることはなかっただろうと話しています。彼は実質、オグデンからソルトレイクまでの鉄道を保有しているようなものらしいですね。」

「だが、何故?」と驚きながら、大久保が尋ねた。そして彼は今や、ブリガム・ヤングに対して直接語りかけていた、「貴方が民のためにと考えていた、自給自足と隔離の妨げになることが分かっていながら、何故、敢えてそうすることにしたのです?何故、歓迎されたのです?」

「他にどうすれば良かったと思うかね?」と言うのが静かな返事であった、「この流れを覆す方法はない——この洪水を生き残るためには、まずこの大波を乗り切るしかない。」この預言者は、自らと大久保の間に火花散る視線を交わしたまま、咳払いをして、ゆっくりとハンカチで唇を軽く叩いた。「そうだ」とこの預言者はライスの通訳を通じて言った、「私はこの手で、ソルトレイクとオグデン間の線路へと最後のスパイクを打ち込んだ。そのとき私は、我々がここに実現しに来た理想、この地を他の一切から隔離する、最後の機会を諦めたのだ。我々はこれから、外の世界へと目を向ける。それはきっと多くの問題や不満をもたらすであろう。もう既に始まっていると言っても過言ではない。街は金銀に対する愛の虜で、山々をしゃぶりつくそうと新たな連中が押し寄せて来ている。畑はもはや小麦を育てず、代わりに金塊の精錬に使われている。私の街の景観はもはや形を留めておらず、金銭欲と愛欲しか頭にない悪しき男共で溢れかえっている——かつて、ここには犯罪などまったく聞かない時代があった。それが今や、我々の妻や娘達は自衛目的で銃を持ち歩くよう教わらなくてはならない。我々の現地産業は、安い輸入品にとって代わられ衰える一方だ。当地にはもはや平等さは存在しておらず、富む者はより富み、貧乏人はより貧乏になっていく。我々の街は、酒や、賭博や、その他一切の悪に圧倒されている。我々の共同体が持っていた特別な強み——即ち我等の信仰、勤労さ、不屈の精神、そして我等固有の生き方——これらは一つ一つ、まるでレンガを剥がすかのように、外の世界の陳腐さと醜い欲望に取って代わられるであろう。ジェンタイル達は彼等の生き方を我々に押し付け、我が民はいずれ彼等に依存するようになる。だがしかし」とここで彼は一旦言葉を区切った。それが彼が思考を纏めるために必要なものであったのか、それともただ我々への印象を強めるためのものであったのかは、この説教好きな男を相手にしては判断できなかった。「だがしかし」と彼はようやく続けた、「鉄道には、街と教会両方にとっての利点もある。そしてその到着がいずれ避けられないというのであれば、せめて我々にとって利になるよう手を打つべきではないかね?」

「どのような利があると?」と大久保が尋ねた、「大量の廉価品が輸入されれば、現地の生産業は退廃し、貴方の自給自足はきっと崩れ去ることでしょう。」

「だが我等の全ての現地産業が苦しむわけではない」とヤングが答えた、「現にいくつもの産業は栄えた。これらは鉄道そのものや、もしくはそれが運んでくる鉱夫を相手に金を作る類のものだ。我等の炭夫、毛織工、粉屋、大工、皮なめし士、鍛冶屋——これらは鉄道が通り、人口が増加するにつれ、大いに栄えた。我が民の多くは自治領内を通して鉄道設置に携わったし、まだ他の多くの者達が鉄道会社に雇用されている。私の商人達にとっても、商売はかつてより早くなり、より安価になり、結果としてソルトレイクの一般市民にとっての物価も下がった。そう、利は間違いなく存在している。我々の教会はジェンタイル達の影響に苦しむが、同時に列車は我々がこれまでとは比較にならないほどの利益を刈り取ることを可能とした。我々の宣教師達は今やこの国の端々まで旅して人々を真の教えに改宗させることができるようになり、そして我等の新たな信者達もここ母なる教会の手元へといとも簡単に移住できるようになった。かつての信者達は何か月もかけて大平原の中馬車を押し命がけでここまで来なくてはならなかったが、今や鉄道は彼等を数日の内にここまで連れてくる。我々には神の言葉を広め、教会の信者を増やすと言う神命があり、鉄道は我々を全世界の人々へと開いてくれることであろう——それこそ、もしかすると日本へも。」

 大久保はただ微笑んだ。

「貴方は笑うが」とヤングが言った。このご老体はまるで嗜めるかのように、引き締められた笑みを浮かべていた、「日本が真理を受け入れる準備ができ次第、今日貴方達が私達を訪れたように、私達も貴方達の元に向かうであろう。」ライスはこれをしかめ面で通訳し、更に小声で自分の意見を加えた、「大久保卿、どうか斯様な発言でお気を悪くなされないよう。」

「まったく構いません、ライスさん」と大久保は静かに言った、「彼が正しいかどうか、私がどう知り得ます?今から二十年、五十年、百年先を、誰が見れると言うのでしょう?もしかすると日本人はもう二度とモルモンを目にすることがないかもしれないし、モルモンは百年後には存在していないかもしれない——しかし一方で、もしかすると百年後には日本は完全に、男女子供、最後の一人に至るまで、敬虔なモルモンの国になっているかもしれない。」

「神は貴方達をそのような運命からお守り下さることでしょう!」とライスが断言した。

「最後にもう一つ、私がここをおいとまして喫煙休憩を取らなくてはいけなくなる前に、彼に尋ねておきたいことがあります」と大久保が言った、「この街の進歩と、それが如何に短期間の内に成されたかについては、詳しく聞きました。私が知りたいのは、やり残しは何かということです。ソルトレイクシティの今後の成長を妨げる要素はまだあるのですか?ヤングと彼のデザレットにとって、次の挑戦は何になるのですか?」

 これに対して、この預言者は完全な自信と共に答えを述べ、ライスの通訳を通じてさえ、このご老体の表情に突如現れた固い決意の印象は薄らぐことがなかった、「アメリカは、余りにも長い間、我々を自治領という呪縛に留め置きすぎた。」

「では、そのような不平等な関係を正す解決法は?」と大久保が関心を引かれたように身を乗り出した。

「我々はステートフッド(州昇格)を達成せねばならない」というのが、ハッキリとした返事であった。

「それにはどのような違いがあると?」と大久保が尋ねた、「と言うのも、州になることで貴方達の状況はどのように改善するのですか?」

 我々は、アメリカの法律上、自治領は合衆国から国の政府の意に応じて派遣された知事が与えられるのに対し、州は国の政府からの妨害を受けることなく、市民の意に沿い、選挙によって自らの指導者を選ぶ自由が与えられるということを学んだ。

「そして自治領が州になりたい場合、どうすれば良いのですか?」と大久保が尋ねた。

 それには正式な申請手続きがあり、自治領の重鎮達が集まり州の仮憲法を認可し、合衆国政府へと提出するのだという話であった。もしアメリカがこの申請を良しとすれば、ステートフッド(州昇格)が認められ、さもなくば半永続的に自治領のまま留め置かれるのだ。

「では、ユタは既にステートフッド(州昇格)の申請をしたのですね?」と大久保が言った。

「既に四回」という厳しい返事が返ってきた、「最初は1849年に、我々がここに住み始めた直後のことであった。」

「それは何故否定されたのですか?」

「何故ならば、合衆国はその権利、保護、後援を受けるために、我々に教義上の信念を裏切るよう迫ったからだ」と鼻であしらうかのように唇を少し歪め、ヤングが答えた。そしてこれを通訳した後、ライスは彼が重婚の件について話しているのだと解説した。

「まさかアメリカ人は、単にモルモンが複数の妻を囲っているからという理由だけで、この人々のステートフッド(州昇格)申請を四回も拒んだと言うのかね?」と私は信じかねて尋ねた。

「木戸参議、これは重大な話だとお話ししたではありませんか!」とライスが主張した、「しかし私としては、この預言者が如何にも預言者らしく、若干殊勝ぶった誇張をしていると言わざるを得ません——アメリカ政府がステートフッド(州昇格)を認めるのを拒んでいるのには、他にも理由があるのだと私は理解しています。ウッズ知事が私に話してくれたところでは、アメリカはモルモンが誰に対して真の忠誠を誓っているのか、疑念を拭い切れていないという話でした。いざステートフッド(州昇格)が認められるとなれば、モルモン達は善良なアメリカ市民として、その命すら国家に捧げることが前提となります。しかしそのような完全な忠誠と、モルモン達が既に教会に対して捧げている忠誠、如何に両立出来ると言うのでしょう?もし国と教会が争うようなことがあれば、モルモン達は教会を選ぶのではないかと言う疑いがあり、それ故に合衆国としては認可することができず、彼等にはアメリカ市民になる資格がないのです。」

「それはモルモン達の気質に対する正当な評価かもしれないし、そうではないかもしれない——それは私達には判断しかねることです」と大久保が言った。そしてヤングに向かって尋ねた、「では、貴方はどのようにしてアメリカ人達の偏見を乗り越えるつもりですか?きっと貴方は未だに、ステートフッド(州昇格)を再び申請する計画を諦めてはおられないのでしょう?」

「無論だ!」とヤングは語気を強めた。そして彼等が今まさに、合衆国政府に対して新たな州憲法を起草して提出するための委員会を選んでいる最中なのだと、我々は学んだ。この預言者は更に、アメリカの扉が彼等に向けて開かれるまでノックするのを止める気はないと我々に言って聞かせた。「我々がアメリカの隣人達に加えられ、彼等が享受する全ての権利を与えられるのは、既に神がお定めになられた運命だ」と彼は断言した、「それは明日ではないのかもしれないし、明後日ですらないのかもしれない、だがその日はいずれ訪れるし、それは神の望みそのものだ。忍耐だ、諸君、そして辛抱強くあることだ!」

 これを最後に、彼はもう時間も遅くなってしまったと告げ、その老骨が大久保の激しい質問攻めに敗れてしまったと宣言した。私達が一斉に立ち上がると、彼は礼儀正しく握手を交わしながら、私達に祝福を与えた。私達は好奇心で尋ねた質問に彼が丁寧に答えてくれたことに対する感謝を表意し、彼は私達に別れを告げた。

 我々は『ライオン・オブ・ザ・ロード』の巣窟を生き延び、その深淵から、獣の牙の間からしか勝ち得ない知識を手に、再び外界へと戻って来た。

第六章

 ブリガム・ヤング大統領との会合はかなりの長丁場になり、我々がハウスを出て門を潜り、ぬかるんだ歩道へと戻ってきたときには、時刻はもう三時近くであった。かの預言者はどうやら、我々がこの敷地のすぐ隣で彼の息子が運用していて、現地の人々の間でも人気な博物館にも興味があるのではないかと考えたらしく、我々は次にこちらへとぞろぞろ案内された。

 正直なところ、我々はこの博物館には大した興味を抱いていなかったのだが、それを面と向かって言うのはいささか憚られた。極端なまでのじれったさからか、大久保の指が無意識にピクピクと震えているのが見え、また彼の瞳には、私の脳髄を苛んでいるのと同じ凶悪な暴風雨が映っていた。今さっき、あまりにも興味深い話を聞かされたばかりだと言うのに、そこに来て更に他の目新しいものを見せつけられ、それに集中しなくてはならないというのは酷な話であった。ホスト達が奇妙な動物達の標本——生きているもの、死んでいるもの——を見せつけている間も、我々としてはただどこかの部屋に陣取り、気が済むまでやりあいたい(・・・・・・)だけであった。大久保と私は、時々こういう状況に遭遇することがあった。二人共頭の中では多くのアイデアが吹き零れんばかりになっていて、それを可能な限り速やかに、かつ乱暴に互いへと吐露し合わなくては辛抱ならない、という状況だ。これらは大抵の場合激論になって終わるのが常であったが、しかしそれはいつも目が眩むほどに創造的であり、不満が溜まるのと同じぐらいに満たされる瞬間であり、一千の穏やかな自己満足に勝るものであった。

 長時間の拘束の後、私達はようやくホテルへと帰還し、そして大久保も私も、入り口の扉を押し開けるなり、引き剥がした外套と帽子を執事達の腕へと押し付け、一時をも惜しんで上の階へと二段飛びに駆け上がっていた。大久保と私がこのように熱中している際には、それを邪魔しないよう心掛けることに慣れている伊藤が、私達二人のこの異様に緊迫した態度について、他の者達にも適切な説明と指示をしてくれるだろうと、私は信じていた。

 私達のノックに応じ、使節団付きの医師であるスローン先生が岩倉卿の扉を開いた。彼は私達が取り乱し、せっかちになっている様子は察したに違いなかったが、それでも一応の断りを入れた、「閣下はまだ回復しきられておらず、お休みになられています。大久保卿と木戸参議には、一時間後にお戻りいただけるか、もしくは夕食の後に……」

「無理です」と大久保が簡潔に答えた。幸いにも、先生を無理やり退かせることが必要になる前に、岩倉卿の呼ぶ声が寝室から聞こえてきた。

「通してあげなさい、スローン先生。さもなくば、お主は踏み潰されてしまうかもしれぬ。」

 スローン先生が、この極めて位の高い患者の意を汲んで道を空けるなり、大久保と私は応接間を突っ切り、卿の寝室へと向かっていた。卿は私達の様子にまったく驚いた素振りも見せず、小さな笑顔を浮かべた、「今日の任務は、お主等にとって愉快なものになるのではないかなと思っていたぞ。」

「岩倉卿、このような興味深い調査に携わる機会を与えていただき、深く感謝いたします」と大久保が答えながらお辞儀をし、私もその例に倣った。「話すべきことが多くあります」と大久保が付け加え、従者が椅子を運んでくる前に自らそれを引き寄せた。

「岩倉卿、なんという場所でしょう。このデザレットは!」と私も急いで椅子を探しに行きながら肩越しに叫んだ。

「うむ、儂の調子はだいぶ良くなった。二人とも、お気遣いありがとう。お主等は優しいな」と卿が素っ気なく言った、「まあ、お主等がこれほどに熱中になるというのであれば、全部さらけ出し、論じようではないか。今回は怒鳴り合いになって終わらないことを願っておるぞ。」

「私は怒鳴りなどしません、岩倉卿」と大久保が煙管と煙草をパッと取り出してみせながら答えた、「とにかく今日は、いくつか有用な事柄に遭遇出来たと思っています。我々は世界で最も栄えている場所について学ぶために旅しているわけですが、その中でも一番に栄えている地を見つけたのかもしれません——パリ、ロンドン、ローマ、このいずれかの内一つでも、僅か二十五年の内に荒野から街へと進化を遂げ得たところがありますか?」

「我々は最も文明が開化されたところについて調べることにもなっている」と私は思い出させた、「その点で言うと、ここは若干疑わしい……」

「文化が根付くのが遅かったからと言って、それが何です?」と大久保が言った、「鉄道が開通したからには、今後はそういった類のものも、この街にやって来ることでしょう。ですが文化を奨励出来るようになる以前に、まずは自給自足を達成せねばなりません——腹をすかせた人々が、如何にして芸術を楽しめると言うのですか?いいえ。哲学や、学問や、洗練された作法より先に、まずは産業、農業、そして商業がなくてはありません。」

「では自由は、権利はどうする?」と私は言った。

「ここの人々は自由でないと言うのですか?」と大久保が答えながら、煙管を吸い込み、そしてよく伸びた煙を吐き出した。

「かたや権力欲の強い預言者に抑えつけられ、かたや敵意ある軍の要塞に抑えつけられた街の、どこが自由だと言えるのだ?」
 
「確かに日本には預言者の類の輩はいませんが、もう一方については、横浜も似たようなものではないですか」と大久保が言い返した、「アメリカの艦隊が我等の湾を好き勝手に行き来するのを見て、東京にいる貴方は威圧されたと感じますか?山手に居座っている英国軍の詰め所のほうはどうです?」

「待て、待て」と岩倉卿が手を振り回し、割って入った、「お互いの喉元目掛けて飛び掛かる前に、まずは今日モルモン達から何を学んだか、噛み砕いて説明してくれ給え。」

 私達は二人して、モルモン達の移住話と、みすぼらしいデザレットを豊かなユタへと変身させた草創期の開拓話について、頻繁に互いを遮ったり言葉を付け加えたりしながらも、事細かく伝えることに成功した。

「ほぉー」と最後に大きな息を漏らすと、岩倉卿は枕の山へと身を沈め、自らの煙管へと手を伸ばした、「なるほど、では極めて有意義な会合となったわけだ。さて、お主等はこの情報を手にどうするのかね?如何なる教訓を持ち帰る?」

 大久保と私は同時に話し始めようとして言葉を止め、互いを見つめ合った。「お先にどうぞ」と大久保が言った。

「いや、君からだ」と私は言った、「自分の意見を述べるよりも、君が何故間違っているのかを指摘するほうがやり易い。」

「ようやくそれを口に出してお認めになられたことは感謝します」と大久保が目を細めて笑いながら言った、「では私の意見をお聞きになられたいと言うのでしたら、まず私としては、鉄道がもたらす難題に最も関心をひかれました。ヤングはこの地に共同体を作り上げ、ほぼ完璧な支配下に置くことに成功したにも関わらず、今それを、彼から支配を奪うであろう外部の権力に向けて開放しようとしています。何故か?何故ですかと、私は問いたい!これは、ただ問うフリをしているわけでなく——本当に理解できないのです!もしかすると、木戸さんなら説明できるかと……?」

「まあ、それはヤングが言っていたとおり、そのままなのだろう」と私は肩を竦めた、「鉄道には利点と欠点があり、彼にとっては前者が後者を上回っただけだ。教会にとっても苦痛ではあるが、それを補って余るほど多くの利を享受できる。」

「しかし、どのように……?」と大久保が頭を振りながら言った、「まるで、ただ藁を得るためだけ稲を刈り、貴重な米は捨ててしまうような話です。確かに多少の金銭的利益は得られるでしょうし、もしかすると教会への改宗者も少し増えるかもしれない。ですが、その挙句に全民衆の心情と精神を失ってしまっては!」

「君はいつも、支配の観点からしか物事を見ないから理解できないんだ」と私は答えた、「他の人々には、それ以外にも考えることがあるものさ。」

「他に何があると言うのです?」と大久保がまったく冗談の混じっていない口調で言った、「街には支配が必要です、人々にも支配が必要です、国家にも支配が必要です。個人々々が自由気ままに駆け回り、自分以外のことは考えず好き勝手にしていては、一体何が成し遂げられます?秩序は必要ですし、それが欠けてしまっては全てが無に帰します——まず最初に秩序があり、他の全ては後から付いてくるものです。しかし、その秩序を犠牲にするなど……何のために?利益のため?それとも、それすらも神のためなのでしょうか?ここでは、全てが神のためなのでしょうか?」

「そうかもしれない」と私は言った、「もしそうだとしたら、彼等の政府の在り方から何を学べると言えるか、私には分からないな。私達には、同じようなものはないからね。」

「いえ、あります」と大久保が答えた、「ですが、その話には後回しにしましょう。私自身は、まだ支配の質問に行き詰っている状態です。」

「いつもながらね」と私は呟いた。

「初期のソルトレイク評議会の話は驚愕でした」と彼はまるで私の言ったことを聞かなかったかのように続けた、「無から生まれ出たこの街がここまで栄えることができたのも、ただ一人の男のみが共同体にとって最適な決断を下す権力を持ち、他の内輪揉めが発展の邪魔をすることが許されなかったからです。」

「私が大きく懸念しているのは、まさしくそこだ」と私は答えた、「ここには、教会以外の声がまったく存在しておらず、人々は人生のほんの些細なことについてすら自分で決める権利を持ちえない。」

「ですが、人々こそが、その絶対的な力を自らヤングに差し出したのです——彼が人々に従うよう迫ったのではなく、人々が進んでそうしたのです。彼等は差し迫った状況を生き延びる唯一の方法は、信頼に足る一人の人物に、他の皆全員に代わって決断を下す責務を任せることなのだと気付いたわけです。」

「それを日本で再現しようと言うのなら、元に戻って幕府の圧制の元で暮らせばよかろう!」と私は思わず声を荒げていた。

「私は別にそれが、この未開の地で成功したように、日本でも必ず上手く行くとは言っていません」と大久保は断りを入れた、「しかし、貴方がそちら側に立って議論するのは可笑しな話ですね——戦場から亡骸を片付け終わる前から、絶対的で完全な中央集権政府を作るべきだと提唱していた木戸さんが!あの、廃藩推し進めるべしと、声高に無鉄砲にも主張されていた木戸さんが、今さら人々の権利やら何とやらの戯言を盾に、私に泣きつくと言うのですか?まるで日本が、この不安定な時期に、そのような贅沢を享受できるとでも言わんばかりですね!」

「私は泣きついてなどいない」と頭に血が上るのを感じながら私は言い放った、「私は単に話をしているだけだ。だが、君が既に何もかも分かっていると言うのなら、なぜ私に意見を求めるのだ!私が封建国家より集権国家を好んだからと言って、絶対的な独裁者を必要としているわけではない!だいたい、一体誰がその役を務めると言うのだ?君か、えぇ?他の誰に頼ることなく、自らのアイデアだけを頼りに全国家を手玉に取り、舵取りが出来る者など、我々の中にいるかね?」

「勿論それは私ではありません!」と大久保が否定した、「岩倉卿も仰るでしょうが、私は自分のために権力を求めたことなど一切ありません。私はただ、人が私の双肩に課した責務を拒否したことがないだけです——それは考えられないほど、無責任なことですから。」

「諸君、頼むから!」と岩倉卿が煙の合間に遮った、「お主等は、互いのことではなく、モルモン達の話をしていたのだろう——また話をずらさないようにしよう、な?」

「まあ」と大久保が続けた、「いずれにせよ、専制的な支配者がいるだけでは、この街をここまで発展させられなかったのは確かです。ここの人々は、それよりも更に強力なものを持っていました。それは一つに統一された意志、です。日本に、目的と呼ぶに値するものがありますか?もしないのであれば、いつか手にすることはできるでしょうか?それとも不可能なのでしょうか?」

「今この瞬間に限って言えば、持っていないのは確かだ」と私は溜息をついた、「薩摩、長州、土佐、佐賀、越前。どの藩も自分勝手に動いているか——動きたがっているかだ!——国家全体のために動いている者など一人もいない。」

「更に質の悪いことに、彼等は勝手に考えています」と大久保が付け加え、長い煙を吐き出した、「我々の故郷のほとんどの者達の頭の中には、日本が存在していません(・・・・・・・・)。全世界各国の歴史を紐解いたところで、国民達ですらその国の存在をしっかり感じていないという、そんな哀れな国が他にありますか?ですから——貴方はこれに溜息をつかれるであろうことは分かっていますが——支配に話を戻さないといけないのです。」

「君。人々に、彼等の国を認識するよう強いることは出来んぞ」と私は慎重な口調で警告した。

「もし強いることができないのであれば、では、どう説得すれば良いか?ですね」と大久保が考え込んだ。彼が思考の合間に、岩倉卿のベッドに隣合わせた机に自らの煙管の灰を叩き落すことで生じた甲高い音に、私はギョッとさせられた。

「最初のモルモン移民達の極端で盲目的なまでの信仰が、苦難を耐え、共同体のために自己意志を犠牲にし、世界を一から作り上げるだけの強さを与えたのは明白です。これらの人々は、どの土地を与えられても進んで受け入れ、どのような命令に対してでも労力を割き、どのような制限を課されてもそれに従い、何を禁止されてもそれを控え、どのような重荷を課せられようとそれを担ぎました——これらがまったく論理的でなく、自分の利益に反するときですらです!——そしてそれもこれも、神に命じられたと、彼等が信じたからです。」

「大久保さん。我々はモルモン教には改宗しないぞ」と私は呆れたように言った。

「無論、それはありえません」と大久保が返した、「ですが木戸さん、神とは何ですか?」

「それこそ、今日一番の問いだな」と私は思わず笑い出さずにはいられなかった。

「神とは、象徴以外の何物でもありません」と大久保は躊躇うことなく答えた、「そう考えさえすれば、我々ですら『神』を得ることが出来ます——いや、得なくてはなりません。もし我々も、彼等がしたように生き延び、栄えたいというのであれば、我等が民を鼓舞できる、同じ位に強い象徴が必要になります。それが今まだ存在していないというのなら、その象徴を作り上げることは私達の指導者としての責務であり、それこそ私達が目指さなくてはならないことなのです。我々は一つの御旗の元に集結し、迅速、かつ容赦なく国内の脅威に対応しなくてはなりません。さもなくば、我々は中国のように国外の脅威に晒されてしまうことでしょう。」

「天皇陛下であらねばならぬ」と岩倉卿が突如、声を発した、「お主の言う象徴——お主の『神』は……」私が驚いて目を向けると、卿は沈着に思いを巡らしながら、私達を見ることもなく、まるで神意に魂を掴まれたかのような風貌で宙を見据えていた。

「はい」と大久保がゆっくりと答えた、「はい、私もそう考えていました。我等の民にとっての天皇陛下は、この地の人々にとっての神と同じでなくてはいけません。人々は何かのために生き、戦い、そして死にます、必要とあらば。この象徴が何であるかはそれほど重要ではなく、ただ何かが在ること自体が重要なのです。」

「それは結構な話だが」と私は言った、「そしてこの部屋にいる全員が、私がどれほど陛下を敬愛して止まないかはご存じだと思う。しかし経済が崩壊し、百姓どもが反乱を起こし、巨大な地震が東京を壊滅させたとして、この『神』がそれらを全て直せると言うのかね?もし君の象徴が、実務的な税制を考案できると言うのなら、私はすぐにでも賛成するよ!」

「まさか木戸さんが実務的詳細の側に立った発言をされる日が来るとは。心が温まりますね」と大久保が苦笑いした、「ですが貴方も、あの預言者が言っていたことを聞かれたでしょう。事は現実主義に基づいた計画を元に進めるべきだが、木戸さん、その現実主義は後々、神徳の裏に隠すべきだと。勿論、私達自身が治世の重要事項について現実的な対応を取らないといけないのに変わりはありませんが、私達は同時に、ちょっとした神徳を組み立てることで、冷厳な立法に暖かみを与えるのを忘れてはなりません。我々にもカモメは必要でしょう、木戸さん?」

「それは君にお任せするよ」と私は答えた、「政治家なのは君であって、私ではない——私は戦略的嘘といった代物は得意ではないのだ。それに君が今回の会合で得た知見は、神話の必要性だけではないだろう。」

「無論です」と大久保が言った、「正直なところ、私自身はモルモンの精神そのものに、大変感銘を受けたと告白せざるを得ません。実直、勤勉、計画性、これらは全て最終的に成功の鍵となるものです。忍耐と辛抱強さ!これらは長期的に効いてくる美徳で、内戦が終わって三年も経つのに未だ我等の民が抜け出せないでいる爆竹のような無謀さとは一線を画しています。今この瞬間、日本人はこの地の金鉱鉱夫達と同じ考え方をしており、三十年後、五十年後に何が必要になるかではなく、今何が欲しいかだけを考えています。歩けるようになる前に走ろうとする誘惑はあまりに強く、また、我々が既に成し遂げた勝ち得たものが多すぎるせいで、誰しもが、より多く、より早く、よりすぐ、より堪え性なく求める、せっかちな状態に陥っています!」

 このまま続ければ、議論がいつもの振り出しに戻ることを分かっていながら、私はこう口に出さずにはいられなかった、「ではどうしろと言うのだ?何かしらから、手を付けないといけないではないか!君はいつもそんなことを言っているが、私には君がとても理解できない。『ゆっくり』と君は言う、『事はゆっくりと成さねばならない』と、だがそれは結局のところ何を意味している?君は、我等の民達がまだ、ここの人達と同じものを持つことの準備が出来ていないと考えているのか?工場、税制、鉄道と学校の準備がまだ出来ていないと——それとも、準備がまだ出来ていないのは、選挙、議会、政治への参加、平等、自由、そして人間としての尊厳だけだとでも?」

「貴方は私が言うことを全て捻じ曲げる」と大久保は冷ややかに言い返した、「ですが、貴方がそう言うのなら、私も言わせてもらいます。ええ、その通りです。彼等に議会を持つ準備が出来ているとは思いません。貴方も、貴方だってそれが真実だと、分かっているでしょう!人間としての尊厳はともかく、街中で見る乞食、街角の豆腐売り、芸者茶屋で酒を注ぐ娘っ子、金勘定をしている商人達——誰一人として、学校も教室も目にしたことすらないというのに、彼等に国家の舵取りを任せると?貴方はここで教育制度についてお調べになられているでしょう、木戸さん——貴方は、我々の学校制度がアメリカのそれと対等だとお思いですか?確かに選挙はアメリカ人に適した制度かもしれませんが、今の日本ほどに不安定な国で、どれだけの無知の者達の手に権力を預けられるとお思いですか?それは私達の国家が生き始められるようになる前から、死刑宣告してしまうようなものです。列強諸国はさぞ喜んで我等の死骸を貪ることでしょう!」

「では、我々にきちんとした学校が準備でき、我等の民が市民と呼ぶに相応しい者達になったとしよう。次に何が起きる?君はそのとき、彼等が次に享受すべきものを与えられるのか?それとも、侍達にとって権力は心地良いものになってしまうのではないか?薩摩がその他全員に代わって、日本の政策を勝手に決めることに飽く日は来るのかね?君は如何にして、我々が、我々自身のために考える準備ができたと決められるのだ?誰が(・・)、決められるのだ?」

「それはごもっともな指摘かもしれません」と大久保が言った、「私はその問いへの答えは持っていません。ただ分かっているのは、今がそのときではないということだけです。考え得る限り近い将来の話ですらありません。少なくとも数年、恐らくは数十年先の話でしょう。貴方も、西洋が如何に発達しているかをご覧になられたはずです。我々には、彼等と真っ向から視線を交わせるようになるまで、あまりにも多くのことを成し遂げなくてはいけません。その日が来たとして、その後どうなるか——それは、まあ……」

 もう何度も繰り返し言ったこと以外に、彼に対して新たに言えることなど残っておらず、私は膝の上で握りしめた拳をただ睨みつけていた。

 大久保はと言えば、ただ深く溜息をつき、再び煙管に新しい煙草を詰め始めていた。「木戸さん、貴方はまったくしょうもない人ですね」と彼は言った、「日本に議会?本気ですか?私達がこういう話をする度に、貴方は特に深く考えたわけでもなければ本気で信じているわけでもない、非現実的なアイデアをぶち上げるだけです。その挙句に、後でじっくりと考え、理論的帰結を考える機会を得た後になって、結局それを撤回なされる。貴方はいつも性急に最終地点に辿り着こうとしていて、途中の経過を全て飛ばしてしまっている——口を開く前に(・・)、少しは考えてみられては如何ですか?」

「私がいつ口を開こうが、私の勝手だ!」と私は思わず噛みついていた、「それに対して、いちいち君の許可は要らない、この薩摩っぽが!私は好きなように言わせてもらう、考えごとを口に出して言うのは、それが私なりの思考法だからだ——私は好き勝手にやらせてもらうし、それで誰に叱られようが気にする気はない、それがどこぞの芋侍でもだ!」

 大久保の顎が引き締められ、煙管が歯に食い込むのを見ながら、私はゾクゾクとした感覚が背筋を走り抜けるのを感じていた——ようやく注意を引けたようだな、この氷塊め!

「まあまあ、落ち着け、諸君」と岩倉卿が私達を諫めた、「文明国家にあるまじき話し方ではないか?儂等は共通の目的のために働いているのであろう?少しはお互いに遠慮しようではないか?ともかく、利通君、君が言っていたのは——」

「それに」と私は熱くなったまま遮り、大久保に向かって言った、「それに、私は自分が言うことは全て信じている、少なくとも言っているその瞬間にはだ!何故君が、私はただ論争したいがためだけに論争を始めたり、君を弄ぼうとしていると思っているのか、私にはまったく理解できん!私を森有礼か誰かと勘違いしているのではないか!」

「では貴方は節操のある人だと言うのですね?」と大久保が切り返した。ウィスカー()を引き攣らせたその様子は、まるで私を小馬鹿にしているかのようでもあった。

「ああそうだ。それに、黙らされはしない!」と私は語気を強めた、「どんなことがあっても!」

「それは、貴方がときには口を閉ざした方が、国家のためになるようなことがあってもですか?」と大久保が静かに加えた。これで、彼が私を嘲笑っているのは確実であった。私は、なぜかこのほうが、彼に表立って侮辱されるよりも腹に立った。

「それでもだ!」と私は叫んだ、「国家が必要とすることがあるように、人にもそれがある!私には言いたいことを言う権利があるし——それは誰しもが持つべき権利だ!」

「貴方が信念を持っているのは良いことです、木戸さん。賞賛に値するぐらいだ」と大久保が言った、「しかし貴方が、時には必要に応じて、それを国家のために曲げることを知らないのは残念なことです。」

「残念なのは、君が一切の信念を持っていないということだ!」と私は言い返した。

「そんなことはありません」と彼は冷静に答えた、「信念ならば、私も持っています。しかし現実的に事を成し遂げるに当たり、それを無視したほうが好都合になった場合には、単にそれをひとまず横に置く術も弁えているだけです。」

「諸君、いい加減にしたまえ」と岩倉卿がひどく苛立たしげに声を荒げた、「まったく!まるで子供達を御するようなものだ!ともかく、お主等がソルトレイクシティの物語を話してくれている内に、儂の頭に浮かんで来た一つの命題に話を戻してみてはどうか。鉄道が開通したことで、モルモン達は街の支配を失っただけでなく、伝統的な生き方の変化を認めなくてはいけなくなった。そして儂等自身も、まさしく同じ刃先で如何に絶妙な均衡を保とうとしているかという、今この瞬間の現状に、お主等は恐怖を感じぬか?ここでお主等に問いたいのは、これまで閉鎖的だった社会を急に世界へと開いた結果、どうなるかということだ。これは儂等が国元でよく議論していたことだが、この街は特に儂等の国家の現状に関連性の高い訓話を持ち合わせているかのように見受けられる。故に、今こそ、この質問により深い注意を払うに適した時なのかもしれぬ。どうも今日の孝允君は意欲的な気分のようだから、まずはお主から始めてもらおうかな?どうぞ、どうぞ!」

「もし私の意見をお尋ねでしたら——ここにいる全員がそうではないでしょうがね!——ヤングがそれを懸念しているのは、まさしく正しいことだと思います」と私は言った、「共同体を外に向けて開くことで、人々が神前に這いつくばる以上に個人の富を築きたくなることを恐れるのもそうですが、それ以上に、その共同体を特別にあらしめている何か、共同体の心や魂と呼べる何かを失うとなると……?それは非常に怖い。怖いし、それは私達の国家にも通じる話です。」

「珍しく」と大久保が言った、「私も同意見です。」

「ほう!」と私は言った、「それは予想外の変化だな。」

 大久保は時間をかけ、目を細め煙管を吸ってから、おもむろに付け加えた、「私達は二人とも、西洋の技術を日本に招致しないといけないことは、もう分かっているはずです。西洋の武器、西洋の工場、西洋の裁判所、西洋の学校、西洋の戦争と商業のやり方。西洋諸国と同じ域に達するには、それらは認めなくてはならない。そうですね、木戸さん。」

「ああ、勿論だ」と私は答えた、「そう考えていなかったら、我々は一体何のために、わざわざ世界の半分も旅してここに来ているのか?」

「では、私達は何処で線を引かなくてはいけないのでしょう?」と大久保が考えながら言った、「どこまで行けば、もう充分なのでしょう、そして我々が西洋で目にする全てを、先見の明と用心深い取捨選別無しに輸入したら、いつ日本は日本でなくなってしまうのでしょう?無害な娯楽は、確かにあります——ウィスキー、シガレット、ファッション、オペラ——しかしどこまで行けば、行き過ぎになるのですか?我が国で、オペラが歌舞伎を超える日は来るのでしょうか?着物が絶滅し、スーツに取って代わられる日は?人々が焼酎を忘れ、ウィスキーだけを飲むようになる日は?それとも、これらは自然な進化の流れで、我々の国を外へと開いたことによる、認めざるを得ない当然の帰結なのでしょうか。そう、ヤングが鉱夫達と連中の『悪癖』を認めざるを得なかったように。それとも我々はこれらを不自然な侵略と見なし、断固として抗戦しないといけないのでしょうか?戦おうとしたところで、無駄なのではないでしょうか?」

「私も、君の質問に答えられたら良いなと願うよ」と私も呟いた、「モルモン達は既に、この悲痛な同化の必要性を認めてしまっているようだ。我々も同様に、我等を特別にせしめる全てを失っても良いかと言えば……私は、そうは思わない……うん、私には無理だ。」

「それは私もそうです」と大久保が言った、「しかし、そう言った結果にはならないと思います。日本人は公共の場と、私的な場で異なる生き方をします。確かに、人が毎日スーツを着て仕事に行き、仕事の取引相手と牛肉を食べ、ウィスキーを飲み、チェスの腕を競い、オーケストラのコンサートを聞きに劇場に通うような日は来るのかも知れません。しかし、それとまったく同じ人々が、自宅で親しい友達に囲まれながら、着物を着て、米を食べ、焼酎を飲み、碁を競い、芸者の奏でる三味線と唄に耳を傾けるのではないでしょうか?私は、あるものは永遠に変わらないと思いますし、それは喜ぶべきことだとも思います。ですが、日本の外向けの顔に限って言えば——まあ、何が必要かは一目瞭然でしょう。」そして彼は煙管で私の上着を指した。

「人々が、各々の良心に沿って決断できるようになることを心から願うよ」と私は答えた、「我々が人々にそのような生き方を強いることが出来るとも思えないしね——この窮屈な靴を履かせるのだって、拷問みたいなものだ!」

 大久保の煙管の周りに笑顔が浮かび、岩倉卿も破顔しながら言った、「そうだな、間違いなく!儂はあの図体のでかい異人共が如何にして一日中、あの小さい靴を履いて過ごせているのか、一切理解出来ん——毎回あの靴に足を捻じ込む度に、儂は纏足をさせられた中国人女性の気分を味わされているぞ。」

「我々も既に、表立った士農工商の強調は止めさせようという段階まで来ています」と大久保が言った、「いずれ侍は刀を捨て、丁髷も無くなります。このような政策だけでも非常に施行が難しいのに——それ以上を強いるのは無理というものでしょう。そうすべきではないとすら、私は思っています。人々が何を着て、何を食べるか、一々議論することに利はありません。誰がスーツを着ようが着物を着ようが、政府の問題ではありませんし、正直そのようなことに関わるのは時間の無駄で、政府の尊厳を損ねるだけです。それだけでなく、そのような生活様式の改革には多くの危険な落とし穴が付いて回ります。民草の士気は馬鹿にできたものではないし、もし西洋の靴が全国民の足に無理やり履かせられるようになったら、劇的な減退が起きることは疑いの余地が無いでしょう。」

「君がそう発言するのを聞けて嬉しいよ」と私は答えたし、これは本音であった。大久保と彼の政府が、合法的に我が家に押し入り、私の草履を全て焼き払ってしまうような日が来るのは見たくもなかった。そんな苦痛を、私の足が生き延びられるとは思えなかった。

「ですが、表面上を超えたこともあります」と大久保が付け加えた、「いずれ、日本の道徳がどうあるべきか、私達が定めなくてならない日が来ます。こちらの方が、より辛い決断になることでしょう。と言うのも、残念ながら、こちらは政府が関与しなくてはならない話だからです。私達には既に、異人にとっての道徳がどのようなものか、少しずつ、しかしハッキリと見え始めています。街中で裸になることは不道徳だが、街中で酔っ払うのは普通だと。売春は見えないところに隠されるが、紳士達はパーティーでは他の紳士達の妻と公然と踊ると。憎悪と圧制は悪とされるが、それもイエス・キリストの名の下に行われれば良しとされると。我々も世界の一員の座を得る為には、彼等に追随し、道徳を捻じ曲げないといけないのでしょうか?」

「民草に、異人の前では裸のケツを隠すよう迫るのは一つだが——ただ異人を喜ばせるためだけに、キリスト教への改宗を強要するのはまったくの別次元の話だ」と私は言った、「それに芸者遊びを止めさせる?ありえないね!」

「分かってます、分かってます」と大久保が言った、「それでいて、残念ながら今の我々は、我々がどのように異人の目に映るかを無視するだけの余裕を持ち合わせいません。非常に匙加減が難しいところではありますし、いつもと同じように、注意深くやらなくてはいけません。こういう議題は絶対に解決しなくてはならない日が来るまで、可能な限り先延ばしにしておいたほうが良いでしょう。」

 ここまで語り終えて、私達は両者ともそれぞれの考えに耽り、沈黙した。岩倉卿は大きな欠伸と共にベッドの上で起き上がり、腕を伸ばしながら言った、「宜しい、今のところはこれで良かろうな。時間も遅くなってきたし、日本の命運にはもう一日待っていただくことにしよう——今は、お主等は正装せねばいかんしな。」

「正装?」と私は上着の襟を引っ張りながら笑って言った、「もう、しているではないですか?」

「観劇のための正装だよ、観劇の!孝允君」と岩倉卿が笑い返した、「今夜夕食の後にと、誘われているのだ、そして全使節団が見に行きたがっている。デロングさんが儂に話してくれたところによると、彼の奥方様が、女の子達の内二、三人を連れていけないかとお尋ねになられたそうだ。と言うわけで、お主等二人には、使節団がきちんとしているよう、今夜は特に目を光らせておいてもらわんとな。」

「了解しました」と大久保が言った、「では、夜会用の礼装で?」

「その通り、白い蝶ネクタイとだ」と岩倉卿が言った、「そして、お主は、あのポマードをふんだんに使って髪を固めておくようにな、利通君——どうやら今夜は雨のようだ。」

「はい、はい」と大久保はこの冗談を軽くあしらいながら言った、「とはいえ、劇場はできれば避けたかったですね——代わりに現地の金鉱と銀鉱の見学をご手配いただけなかったのですか?恐らく今回の滞在では時間が足りないでしょうが、もし余裕があれば、例の悪名高い鉱山は是非私自身の目で見ておきたかったところです。これだけの問題を起こしているのだ、とても興味深かったに違いありません!」

第七章

 私が白チョッキと燕尾服を着用し夕食に降りて来た頃には、伊藤と山口も同様に今夜の余興に合わせ着飾り、既に副使達のテーブルに着席していた。

 伊藤は私を見るなりテーブルから立ち上がり声を上げた、「あぁ、良かった!もしかすると大久保卿に食べられちゃったのかと思い始めていましたよ——例のカモメとキリギリス達みたいに!それで、お二人で激論にうち興じられたお時間は如何でしたか?」

 次の瞬間、伊藤にとっては何とも気まずいことに、突如大久保が私の背後から現れて答えた、「生産的だったと私は思います。木戸さんが、もしそう思われてないのでしたら、そう仰ってください。」

「こそこそ入ってきて、驚かさないでくれ」と私は小言を言い、皆で席に着いた、「だが、うん、伊藤君、良い歓談だったよ。君がぺちゃくちゃ話すのを控え、我々二人だけで話せるようにしてくれたのは、何とも良い気配りだったね。」

「えっ!」と伊藤が異議を唱えた、「ですが先生、今日の私はとても行儀良くしていた方ではありませんか——それは先生もお認めでしょう!今日は何一つ仕出かさなかったじゃないですか、何一つ!大久保卿、私は分相応にしていませんでしたか?」
 
「そうですね」と大久保が答えた、「貴方はとても礼儀正しくされていました。山口さんも、いつも通りお静かでしたね。」これが賞賛なのかどうか私には判断し兼ねたが、山口はただ会釈を返すのみであった。

 山口。さてさて。もし私がこれまで彼について名前以外に何も言及してこなかったとしたら、それは彼の人となりが、考えられる限り最も積極的に薄鈍く、取るに足らないものであったからだ——『積極的に』とあえて言うのには、彼がこれほどまでに詰まらない人間であるがために、相当の努力を積んだに違いない、と私が信じているからだ。山口はいつもそこに居合わせていながら、いつも存在感に欠けていた。彼は全ての会議、全ての食事、全ての考えうる行事に参加していながら——そして、この使節団においては、伊藤と同じ肩書を持っていながら!——にもかかわらず、自らを透明人間と化すことに成功していた。彼の存在を示す証拠写真さえなければ、実は彼はこの使節団に参加すらしていなかった、と言い切れるぐらいであった。私には、この使節団における彼の役割が何なのか未だに良く分かっておらず、どの分野を担当しているか、そもそも彼が西洋に興味を抱いているのか——もっと言えば、彼が興味を抱いていることなど一つでもあるのだろうか——すらも分かっていなかった。私の知る限りでは、単に佐賀藩が使節団の中に誰かしら代表者を送り込みたかった、ただそれだけの理由で彼はここにいるのであった。それだけの話であった。山口は政府内部の口論の産物で、故にその類の産物全般と何ら違わず、無味で、面白みに欠け、気の抜けた妥協案に過ぎなかった。

 この食事の席においては、他の幾多の場面同様、彼は主に食べることに集中しており、返事が必要になったときだけ、少しだけ視線を上げ、一言二言ボソボソと述べるだけであった。彼は二人分のおしゃべりをする伊藤の相方に適していた。

「木戸先生」と伊藤は話しつづけていた、「良いときにお越しになられました。ほら、彼等からの届け物ですよ——あの預言者様直々の贈り物です!」

 彼はテーブルの隣に置かれた、幾冊の本が入った小さな木箱を指し示した。私が中身の一冊を取り出してみると、その背表紙には小さな金色の文字でBOOKOFMORMONと記されていた。「宜しい」と私は言った、「君に輝く機会を与えてあげよう。これは、なんだね?」

「これこそが、モルモン達の経典なんですよ!」と伊藤が宣言した、「覚えていますよね、預言者スミスが天使の力を借りて見つけたと言う、あの聖なる文書のことですよ。」

 既に忘れていた。と言うのも、モルモン教会の話とそれが如何にして設立されたかという話は荒唐無稽で信じ難いものであったし、ヤングの話のほとんどは、ライスが嫌悪感を抱いたことについてわざと曖昧に訳していたためか、要領を得ないことが多く、私としてはライスが我々に話したこととヤングが話していたことが近いのかどうかすら、よく分かっていなかった。我々が聞かされた物語には論理的な詭弁が多く、筋が通っていないようであったので、恐らく違うのであろうと私は推測していた。「これが、スミスが岩の下から掘り出したとか言う聖なる書だったか?」と私は冗談で聞き返した、「あの、金版に古代語で書かれていたと言う代物かね?」

「ええ、その通りです!」と伊藤が言い、私を仰天させた。

「は?——その通り、だと?」と私は声を上げていた、「ヤングは、本当にそう言っていたのか?」

 伊藤が頷き、誇らしげにこう付け加えた、「大筋はそうですね。ライスは良くやってくれていますから、先生を欺くようなことはしませんよ——まあ、そう過分には、ですが。私がいつも目を光らせているのは、彼も知っていますからね!」

「貴方の尽力には、いつも感謝しています」と大久保は煙草を取り出しながら言った。

「それは……何ともバカげた作り話だ」と私は愕然としたまま言った、「キリスト教の一派にしても……これほどまでに阿保らしい話を真実として伝えられたのを聞くのは初めてだ。ニューヨークの岩の下に転がっていた古代の金版だって?次は何だ?無知な人々が信じられる物事には限界というものがないのか?全ての西洋人が、常に我々より進んでいるわけではないというのは、せめてもの慰めだな!」

「大久保卿……」と大久保が煙草を煙管のために丸める様子を見ながら、伊藤が遠慮がちに言った、「この前お話しした内容、覚えておられますか……?煙管について……?」

「ん?」と大久保が聞こえないフリをして言った。

「えーと、ダイニングルームで喫煙するのは……無作法にあたると……?」

「ああ、はい。覚えていますよ」と大久保が言い、そして一瞬だけテーブルのランプカバーを外し、自らの煙管に火をつけてから付け加えた、「そんなこと、私はまったく気にしていません。」

「木戸先生、貴方、この人に何をしたんですか?」と大久保が満足気に煙管をスパスパ吹かす様子を困惑した目で見ながら、伊藤が私に耳打ちした、「世間の目を無視してまで煙管に向かうなんて、そうとう頭にキテいるのではないですか?」

「私が『イの字』を使ってしまったから、ご立腹なだけだろう」と私は答えた、「なあ大久保さん、さっきはそう呼んでしまって済まなかった。私も時折、冷静さを欠くことが——」

「分かっています」と大久保が言った。

「『イの字』……?」と山口が口ごもり、伊藤が代弁した、「『芋』のイですよ。」

「はいはい、ありがとー、伊藤君」と私は食いしばった歯の間から絞り出した、「いつものことながら素晴らしい気配りをありがとう。だが大久保さんなら、私が本気で——」

「木戸さんは、すぐカッとなる癖を抑えるべきです」と大久保が静かに重ねて言った、「それだけのことです。貴方の年齢を考えると見苦しい悪癖ですからね。」

「ああ、分かってるよ」と私は噛みついていた、「それは君も既に——これまでに何度も——!」しかし私はそこで言葉を区切り、ただ渋い顔で俯いた。これでは、彼の言い分をそのまま認めるようなものではないか。それに彼の言っていることは間違いではなかった。先に侮辱したのは私のほうであり、もう一度同じ愚を繰り返すわけにはいかなかった。長州人が『薩摩の芋侍達』について内輪で愚痴をこぼすのが好きだというのが周知の事実だとはいえ、この私ですら、大久保に面と向かって直接それほどまでに失礼なことを言うのは極めて間違ったことだと思っていたし、一時の怒りに負け、口を慎むだけの強さを持たなかったことは自ら恥じていた。

「まあ」と大久保がしばらくして口を開き、じっくりと煙管を吸いこんだ、「まあ、これまでに何度も言ったことですし、あえて繰り返して貴方を飽きさせるつもりはありません。」そして、この発言の調子、言葉裏に込められた不思議に柔らかい響きを聞き、私は彼に許されたことを理解した。私自身はこれをより一層に恥じた。と言うのも、私はまだ彼に許しを請うどころか、それに値することなど何もしていない内に、彼がこのように寛大に授けてしまったせいで、私は正しく許しを求め与えられた場合よりも心苦しく感じていた。大久保は時折このような態度を取ることがあり、この寛容な許しこそ実は、私が真に過ちを犯したときに恥をかかせるための、彼なりのやり口なのではないかと私は考えていた。今回はまさしくその一例で、私はこれを相応の罰として受け入れた。

 伊藤は、大久保の許しも、私が晒されていた恥も、私達の間に調和が戻ってきたこともよく分かっていなかった。それでも彼は、突然空気が緩んだ小さな証拠を察知し——大久保の椅子の座り方ひとつ、私のテーブルへの肘の置き方ひとつ——これが話題を変えても安全な頃合いだと言う合図を受け取ったようであったし、私としても、ここで話題を変えてもらえるのは正直ありがたいことであった。そこで伊藤は言った、「先生、言おう言おうと思いつつ忘れてしまっていたのですが、私達の悩みの種であったある一件について、進展があったのですよ……」

「進展?」

「もうヤングからの贈り物はお見せしましたよね。そして……」と伊藤は最大限の印象を残すためか、如何にも勿体をつけ、わざと間延びさせた口調になっていた、「そして——もう一つ贈り物があるんですが……」ここで彼はテーブルクロスの下から金色に輝く液体の瓶を取り出し、私達に見せつけた。

 私は深い安堵の呻き声を上げつつも、尋ねずにはいられなかった、「どこでそれを手に入れたのだ?どうやって?」

「ありがたいことに、岩倉卿が私達のために調達してくれたのですよ」と伊藤は言った、「そして今夜の夕食から使えるよう、私の部屋までお届けになられたのです。卿曰く、これらの物品に対するこの地の税金は異常なまでに高いが、副使達の士気を高めるには安い買い物だったとのことです。」

「なら良いから、さっさと一杯くれ!さっきから喉が渇いて堪らんのだ!」と声を上げ、私はテーブルの花瓶に残った水をあけ、空にした杯を伊藤に向けて突き出した。彼は優雅な仕草で栓を抜くと、薫り高きウィスキーをトクトクと注いだ。これはきっとアメリカ大陸における最低品質のウィスキーに違いなかったのであろうが、それでも私達が最も歓迎すべき一杯でもあった。

 伊藤はテーブルに座っていた全員に注いで回り、私達はお互いに向けて熱烈な『乾杯!』を挙げた。大きな一杯を口にした後、私は満足の溜息を吐き出し、付け加えた、「明日岩倉卿にお会い次第、感謝することを忘れないようにしよう!」

 満足しながら、一皿目と二皿目の合間にウィスキーを飲み進めていると、ある一人の異人が唐突に近づいてきて、私達に話しかけようと試みた。これは非常に稀なことであり、このときは若干びっくりさせられた。大久保ですら煙管を置き、この乱入者をいぶかし気に注目していたほどであった。視界の端では、離れたテーブルのライスが、何かに気付いたのか、席から立ち上がるのが見えた。まるで彼の役目が必要とされたのを、通詞固有の超自然的な感覚で感じ取ったかのようであった。伊藤は代わりに笑みを浮かべ、彼一人でもこの状況はどうにかできる、と手の仕草で伝えた。

 気付いたときには、伊藤は既に立ち上がった後であり、この紳士と熱い握手を交わしていた。この紳士はこの混雑したホテルのダイニングルームで唯一の英語を喋れる日本人にぶつかったことに驚き、喜んでいたようであった。円満な伊藤は、この紳士と何分か会話に興じた後、ようやく我々のほうを向いて言った、「木戸先生、大久保卿、山口さん。ミスター・ファウラーを紹介させていただきます。彼もこのホテルに何日間か滞在しており、遂に好奇心から、私達に自己紹介しても良いかを確認するために、こうしてお越しになられました。」

 大久保が立ち上がり、握手を求めて手を差し出した。山口と私もその例に倣い、このファウラーさんは穏やかな挨拶の数々と共に私達の手を握った。彼は学者風の、若干だらしない容貌をした年配の紳士であった。毛深い眉毛と巨大な髭の影からは、二つの鋭利な薄い目と、笑みを備えた口元が覗いていた。私達との握手を終えると、彼はまるで新郎の家族の前で緊張から髪を整える若い新婦のように、その手を自らの白い髪のトサカの上へと滑らせた。

「彼は教授です」と伊藤が言いながら、そのままこの教授に質問をすると、それはすぐに答えられ、伊藤は詳細を付け加えた、「そしてフレノロジストです。国中で有名なお方のようですね。」

「ふれの——ふろ——何だって?」

「フレノロジストですか?科学の一種ですよ」と伊藤が説明した、「フレノロジストは、人々の頭蓋骨の形を研究して、それによって人々の人格を予測するのです。」

「占い師みたいなものか」と私は言った、「西洋科学は、そんなものは許容していないという印象を受けていたのだがな。」

「まったくの逆ですよ、先生!」と伊藤が私に言った、「これは非常に科学的な研究だと考えられています。頭蓋骨の大きさと形が、その持ち主の脳みその要素を表していると言うことには、まず疑いの余地がありません——なので、異なる脳みその部位が異なる人々の本性を司っていることを思えば、脳みそのどの部位が最も活発なのかを知るのに頭蓋骨を調べればよいのは自明なわけです。」

「なるほど」とは言ったものの、私にはよく分からず、思慮深げな発言と顎を撫でる仕草をすることで、理解できていないことを何とか誤魔化せていることを、ただただ願うのみであった。

 この紹介が終わると、伊藤はウェイターにもう一つ椅子を持ってくるよう指示し、この紳士に彼と大久保の間に座るよう勧めた。伊藤は熱心にこの異人と会話を交わしていたが、大久保のほうはと言うと、煙管をふかす以外には、ただ黙々と上品にラムチョップを口に運んでいた。

 私はしばしの間耐えていたが、会話が一段落落ち着いた頃合いを見計り、この教授が何を言っていたのか伊藤に尋ねてみた。

「あー、ご無礼を、木戸先生!」と伊藤が言った、「このファウラーは中々面白い御仁ですよ。彼はただのフレノロジストなわけではなく——将来有望な社会改革の方法があると強く信じられているそうです。人類の進歩こそ、真に有徳な者にしか成し遂げられないものだと彼はお考えです。」

「彼は孔子の門弟かね?」と私は冗談で言った。

「いえ、テンパランスのことですよ!」と伊藤が答えた、「彼にとって徳とは、健康的な生活をすることで見いだせるものなのです。」

「てんぱらんす?」と私はウィスキーを口にしながら聞き返した。

「はい。彼は、人々が身に害を及ぼす悪癖を控え、健康を気にするようになれば、社会全体が進歩するとお考えなのです。」

「身に害を及ぼす悪癖とは、例えば何だ?」

「何でも過ぎたるは及ばざるがごとしです」と伊藤が言った、「食べすぎ、眠りすぎ、働きすぎ。肉の多すぎや、コーヒーの摂取も体に悪いとお考えです。そして、飲酒と喫煙には特に激しく反対されています!」

 私は飲みかけていたウィスキーを思わず唇の手前で止め、大久保のほうを見た。彼は分かりやすい満足げな表情で、じっくりと煙管を吸い込むと、小さい煙の束をウィスカー()の下から吐き出していた。テーブルの向かいではこの教授が、私達のことを明るい友好的な表情で見ながら、訳された彼自身の言葉に耳を傾け頷いていた。

「この酒を入手するのにどれほど苦労したかさえ、彼が理解していればな——!それで、それ以外にも、この先進的な僧侶の宗派が排除したがっている悪行はあるのかね?」と私は冷ややかに尋ねた。

「えぇ、彼はお茶も体に悪いと、とても強く主張されています」と伊藤が笑った、「何て破天荒なご老人ですかね!次には、温泉も健康に悪いと言いかねません!」

「酒も、コーヒーも、お茶も、煙草も駄目だって?」と私は信じかねて言った。

「死んだ方がマシですね」と煙管を噛み締めたまま、大久保が一言吐き出した。

 私は大笑いした。伊藤も笑顔を隠し切れないまま、私達の感想をこの高潔な社会改革者へと伝えた。この紳士は少し驚きの様子を見せたものの、懲りることなく、多くの仕草と共に何やらごちゃごちゃと前にも増す勢いで伊藤に向けて話し始めた。どうやら伊藤をお茶や酒の罪悪から解放された未来への夢に改宗させようと努力しているのは分かったので、我々は伊藤を自己責任という名の牢屋に放置することにした。この国に着いてから、まだ数週間しか経っていなかったが、私は既に、これらの異人と彼等の哲学について深い議論をするのは避けておいたほうが良いと言うことを理解していた。と言うのも、彼等は自らの考えに執着しており、主張だけは沢山するくせに、耳を傾けることを知らなかった。こう言った点では、彼等もそんなに違いはしないのだなと我々は思っていた。

 しばらくして、伊藤は私達に話すだけの余裕が出来たようであった。「この教授は、ぜひ、私達の頭蓋骨の計量を行いたいと言っています。彼が言うには、他のオリエンタル(東洋人種)の計量は行ったことはあるが、日本人に会うことができたのは今回私達が初めてで、我々の頭が中国人のそれとどう違うのかを是非知りたいと言っています。」そして、彼は笑いが篭った口調でこっそりと打ち明けた、「彼は、私達の方がより尊い頭の形をしているのではないか、という仮説をお持ちのようです。」

「ふむ、だが我々には多くの公式義務があり、時間は限られている」と私は言った、「しかし、ここを発つ前に少しの余暇ができたら、彼の研究のためにいくつか頭蓋骨を調達するのはさして難しくないだろう。なあに、他にやることがなさそうな、長野桂次郎あたりを提供すれば良かろう。」

「長野は止しなさい」と大久保が言った、「私達としては、中国人より尊いと言う評価を得たいのでしょう?」

 私もこれには同意するしかなかった。

 伊藤は私の返事をこの教授に伝えた。彼は我々の善意に喜び、続いて熱心な握手が交わされた。

 夕食が終わりに近づくと、ライスが我々のテーブルまでやって来て、馬車がもうすぐ到着する手筈になっており、デロング公使は我々の準備が出来次第、出発する用意が整っていると伝えた。結局のところ、使節団の内およそ四十名が、この夜劇場へと向かうことになった。我々が皆ホテルの入り口を占拠して、こぞって執事達を小突きながら、各々の外套や帽子を掴み取ろうとしていると、突然一行の間で囁き声が上がった。階段の上を見ると、ちょうどマダム・デロングが現れたところだった。

 常日頃より内心思っていたことだが、デロングの御夫人はそれほどに美しい女性ではなかった。しかし彼女はその外見を凌駕する優雅さと気品を身に着けており、どの部屋にいても、自らの存在力だけでその場の空気を支配していた。我々は彼女の如何にも気位の高そうな身のこなしに慣れていたため、聞こえてきた囁き声は彼女に向けられたものではなく、代わりに彼女の大きく膨らんだスカートの陰に付き従っている二つの小さな影に向けられていた。これが我々の女子達であった。

 使節団が日本を発つ準備をするにあたり、娘を海外で教育を受けるよう送り出すことに同意する侍の一家の捜索が行われた。これが名案なのだと説得するのは(これは政府に対しても、家族達に対してもそうであった)非常に厄介な難題であったのだが、努力の末、我々はどうにかしてアメリカに連れて行く五人の女子を確保することに成功した。彼女達はこれから十年間この国に残され、西洋の女性としての在り方について鍛えられ、その後帰国し、同輩の日本人女性達を育てることを期待されていた。無論、我々のうち誰も、この捜索の結果どれほどに若い女子達が集まるかは想定していなかったが、限られた選択肢の中で仕方なく我慢するしか道はなかった。一番の年長者は十四歳、そして一番の年少者は、たったの七歳になったばかりであった。

 ほとんど無関心な男達に囲まれ郷愁と孤独さに苦しむこの哀れな子供達を、伊藤は溺愛していた。彼女達は毎日ただ部屋に閉じ込められたまま、何もすることが無く、何処に行くことも出来ず、孤独の内に食事を食べ、ワシントンに到着して各々の学校へと届けられる日をただ待つばかりの境遇に置かれていた。伊藤は彼女等を時折訪ねては、優しい言葉をかけてあげる唯一の人間で、彼女達は百の無関心な顔の中、ただひとつ彼の顔だけを親しみ深いものとして覚えていた。彼女達が階段の上のマダム・デロングのスカートの後ろから覗き見ると、伊藤は『おいで、おいで!』と言わんばかりの笑顔で、彼女達に向かって応援するかのような仕草をした。

 私自身は同僚達と同じく、小さい女子は、少なくとも男子の興味を引くような年齢になるまで、人に聞かれるべきでも、見られるべきでもないと言う考えを持っていたが、この自慢気な父親のようにとろけた笑顔を浮かべた伊藤を見て、あえて尋ねることにした、「あれはどの子達だ?」

「捨松と繁ですよ、あの、真ん中の」と伊藤が答えた、「ホント賢いんですよ、この可愛らしい子達は——きっと将来は、華々しい貴婦人になるに違いありません!」

「それも彼女等が君のような悪党に恋しなければ、だがね」と私は肘で小突いてからかった。

「そうはさせませんよ!」と伊藤が叫んだ、「いいえ、私のおチビちゃん達はもっと高みを狙います。そうでなくてはいけません!」

 女子達はマダム・デロングに誘導されながら馬車へと向かい、我々男衆はぎゅうぎゅうとお互いの間を詰めながら、彼女達のために入口へと繋がる広い通路を作った。件の船での醜聞以来、大久保の怒りの矛先を向けられることを恐れる者達は、誰一人として彼女達の着物の袖に触れたと告発される憂き目に遭わぬよう、万全の注意を払っていた。

 この街の劇場は、既に私が述べたように、ソルトレイクシティの中でも最も美しい建物の一つであった。馬車がその前に乗り付けると、今夜は特にお祭り気分なのだということが伝わってきた。劇場全体がいくつものアメリカの国旗で覆われており、その上誰が思い巡らしたものか、我々への歓迎の印として小さな工夫を凝らし、入り口のロビーのあらゆるところに日本から特別に輸入した赤い提灯を吊るしてあった。一見すれば、これは非常に心温まる気配りのようにも思えたのだが、残念なことにこれを手配した人間はまったく誤った吊るし方をしており、その背後にはオイルランプの強い光が輝いていた。結果、我々の提灯の柔らかい橙の光は、強すぎる現代の光源によって薄暗く見えてしまっており、これらの提灯が薄ぼけた光と共に寂しく通路を照らしている、もの悲しい様子は見る者の心をかえって沈ませるのに十分であった。

 この晩は、異国情緒たっぷりの東洋人達を一目見ようと、街の住人全員が劇場に足を運んだかのように感じられた。我々には預言者のボックス席の真上にあたる、ドレスサークルの最前列が与えられていた。この席は劇場の中でも一番の上席の一つなのだと聞かされていたが、果たしてそれが私達が芝居を良く見れるためのものなのか、それとも観客達が私達を見るためのものなのかは、まあ、私には判断しかねる話であった。

 そして彼等は実にジロジロと私達を見つめていた。我々が馬車を下りた瞬間から、入り口の階段を上がり、ロビーを通り、大階段を上がり、講堂を通り、ようやく桟敷の前方にある席にたどり着くまでの一歩一歩に、周囲の囁き声と視線が使節団全員を付いて回った。

「彼等は何を見ているんだ?」とようやく席に到着してから、私はライスに尋ねた、「まるで我々がとんでもなく興味深いとでも言いたげじゃないか。」

「ですが、その通りでは無いですか、木戸参議!」とライスが笑った、「こう言った小さい街の人達にとっては、その通りなのですよ。彼等は貴方達の階位に相当する人は目にしたことも無いし、それが多勢となると特にそうですし、更にそれらが日本から来ているなんて、考えられないことなのです!彼等の様子にお気持ちを悪くされないよう、どうかご辛抱ください——貴方も、初めてアメリカ人を日本で見たときには、見つめたり、小声で話されたりしませんでしたか?」

 それは、そうだったかもしれない。あまりにも多くの月日が経っていたせいで、良く思い出せないでいた。

「ライスに煽てられてはいけませんよ」と伊藤がからかいがちに耳打ちした、「この異人達はオジサン達のスーツ姿を見に集まったのではなく——我々の女子達に興味があるのですよ。彼女達の話はもう既に色々と聞いているから、今夜はそれを実際に目にする最初の機会だったのです——それに彼等は皆、どうやら私のおチビちゃん達と着物姿に、ひどく感心しているようですね。」

「だが……何故だ?何に感心すると言うのだ?ただの武家の打掛を着た、ただの女子達ではないか……」私はこの頃には既に、このような異人の奇抜さに接した際には、肩を竦めるぐらいしか、他にやりようがないと言うことを理解していた。今朝の歓迎式で私に感心し、私を貴公子のように扱っていたのと同じ連中が、着物を着ただけのただの小娘達に同様の念を抱いていると言うのは、ある意味で私の自尊心を傷つけていた。

「まあ異人達も、私達が持っているものを全て持っているわけではありませんからね」と伊藤が私に思い出させた、「日本人も海外の小物とか好きじゃないですか——きっと異人もそうで、彼等も打掛で自分達の女性達を着飾らせたいとでも考えているんでしょう。」

 それはないだろうと私は考えたが、口には出さないでおいた。イギリスとアメリカの両方に行ったことがある人間にしては、伊藤は時折、こちらが唖然とするほど異人の考え方について知見に欠けていた。異人達は先進的な人々で、蒸気機関や電信を発明し、いつも生き急ぎ、詩情に欠け、毎年のようにファッションをコロコロと、より風変りに、よりけばけばしく変え、自分達の女性をどちらかと言えばビーズ、プリーツ、フリンジ、プーフ、フェザー、フラワーやフワフワに飾られたケーキみたいに見せることを好む人種達であった——そんな彼等が、極めて単純で古めかしい打掛の直線的な輪郭を好むわけが無かろう?

 大久保も、少なくとも異人の思考については私と同じ考えのようで、私は彼が呟いたのを耳にした、「シカゴに着いたら、あの娘達のためにまずは西洋のドレスを仕立てねばならない……何とも厄介なものだ、この着物というものは……」

 現地の人々の我々に対する好奇の目は相当なもので、幕が上がった後でさえ、留まることを知らなかった。最初の一幕を通し、一階の連中の顔は舞台よりもドレスサークルに対して向けられていることの方が多く、私はこの午後に博物館で見た、檻の中の動物達のような気持ちを感じ始めていた。私は遂にこの当惑と不満に耐えかね、大久保越しに身を傾けながら、ライスを非難がましく問い正した、「なぜ連中は、まだこちらを見つめているんだ?芝居を見る気が無いのであれば、一体この劇場に何をしに来たのだ?」
 
 ライスはただ笑いを堪えながら、西部ではこれが普通なのだと小さな声で返した——ここの人々は、役者ではなく観客こそを見るために劇場に来ているのだと。「大体の場合、実際の舞台上で起きている何かよりそちらの方が、ドラマ性がありますからね」と笑顔で付け加えた。

 大久保は、この時点で、とある恋愛の場面を集中して見れるよう、私達二人に黙るよう指示した。

 当然ながら、我々の一行も同じぐらい異人達に興味があったため、これをきっかけにこちらも遠慮なくジロジロと見つめ返していた。最初の幕間になると、例のモルモンのホスト達がやって来てその場を借り、同じように私達に挨拶に来た現地の重要人物を新たに紹介したり、再紹介したりした。そして二つ目の幕間では、一階の群衆をざっと見渡しながら、我々のところに挨拶に来るだけの勇気が無かった他の人間達を指摘して回った。この流れのどこかで、誰かが近くのボックス席を訪れていた二人の若い娘達を指さした。聞くところによると、彼女等は預言者ブリガム・ヤングの数多くある娘達の内の二人なのだと言う話であった。

「ごく普通で、平凡な女子達のようですね……」と大久保がしばし考え込む様子を見て、私は笑いを堪えきれなかった。

「どんな顔をしていると思っていたのだ?」と私は冗談で彼に問うた、「それとも、多くの女性を孕ませるほど、より化け物じみた子供が産まれてくるとでも?」私は、彼が二人の女性との間に七人もの子を成したことを、彼自身、化け物じみていると考えているかどうか尋ねたい衝動に駆られたが、大久保を怒らせるのは流石に一日に一回で十分であろうと考えた。

 前屈みの姿勢で、何気なく群衆を見渡している内に、私は例の闊達なモロー将軍が後ろを振り返りながら、私に笑顔を送っているのを見た気がした。それは本当に同じ顔であったか、それともまったくの赤の他人の異人のものなのか?彼等の毛むくじゃらの顔はあまりにお互いに似過ぎており、私は勘違いで手を振るなり敬礼するなりの合図を送ってから、それが将軍でないと気づいてしまったら、屈辱以外の何物でもないと考えた。私はすぐ席に身を沈め、見なかったフリをした。

 これらの探り合い、人々が指をさし囁き合う最中にも、芝居は着々と進行していた。さて、この芝居自体はどうであったか?デロングはあらかじめ私達に対し、恐らく何を言っているか一言も分からないわけだから、きっと詰まらないことでしょうと謝っていた。一方ライスは言外に、どうせ別に大層な芸術作品を見にいくわけではないし、少なくとも冒険活劇としての演出はお楽しめいただけることでしょうと付け加えていた。この件においては、ライスの方が正しかったと私は思った。と言うのも、少なくとも私は実際に楽しませてもらったからだ。かなり楽しませてもらったと言っても過言でないぐらいであった——ライスが約束した通り、これは大層な芸術作品ではなく、我々でも難なく物語の流れを追うことができた。主人公は富を求めて列車で訪れ、女性に恋をし、脚本の都合上手が届かないことが分かり、友人を殺され、話の筋が込み入り、戦い、恋愛、戦い、恋愛、と場面が続き、最後にはこの男の死と女性の悲しみで終わる。幕。

 今日に至っても、私がまだハッキリと覚えているこの芝居の場面が二つある。列車の場面と、主人公が首吊りの刑に処される最後の場面だ。覚えていると言っても、それはこれらの場面自体についてではなく、それが我々に及ぼした効果についてだ。歌舞伎の仕掛け以上に優れたものは目にしたことが無い我々日本人の一行は、ちゃんと稼働している本物の鉄道機関と車両が、役者も観客達も押しつぶそうと、舞台の上をゴォッと迫りくる様子に仰天させられた。そして、この鉄道の場面より更に恐ろしかったのが処刑の場面で、こちらは我々一行を完全に狼狽させた。この場面ではまず、若い主役が、良く分からないが恐らく台本の要するところによって、これから首吊りに処されるため絞首台の上に連れていかれ、そこで首に縄を巻きつけられる最中にも、情熱的な演説をすることを止めなかった。彼の長ったらしい演説を終わりにするときが遂に訪れると、処刑者は合図を送り、この哀れな者の足場が蹴とばし外され、縄が引き締まり、そして彼は最もおぞましい顔をして、まるで本当にそこで空中にぶら下がったように見え、さながら我々の目前で本当に死にかかっているようであった!日本人一行の間からは喘ぎ声や叫び声が聞こえ、マダム・デロングのドレスに顔をうずめた一人の女の子からはすすり泣きが聞こえてきた。視界の端では、大久保の眉ですら、処刑の瞬間、ほんの僅かにピクリと震えたのが見えた。我々一行の一人があまりのことに「誰か、助けろ!」と叫び声を上げると、次いで観客の間で笑いが波打つように広がり、役者達は目に見えて苛立っているようであった。ホスト達は慌てて、何も問題はありませんと我々に耳打ちし、これは只の演出で若い役者はまったく無事なのだと保証した。多くの者は、実際にカーテンコールが始まり、この『死人』が現れてお辞儀をするまで、これを信じようとしなかった。

 この芝居が終わると、我々のホスト達は我々の一行がこれ以上の無用の注目に巻き込まれず、無事に馬車まで戻ってこれるよう手配していた。時を置かずして、私は他の副使達と共に、街中の凸凹道の上を再び揺られていた。伊藤は興奮の内に、あの恐ろしい首吊りの場面についてペチャクチャと私に話しかけており、山口はただ微笑を浮かべたまま聞くことに専念し、大久保は片手を髭に置き、馬車の外でみぞれ雪が叩き付けられる様子を見つめながら、深い思考に耽っているようであった。いつものことながら、その場にいてもいなくても、岩倉卿が言うことは正しかった——結局、雨は降った。

 我々がホテルに戻ってきたのは深夜を遠く過ぎてからのことであった。この日は余りにも長い一日で、伊藤と飲む元気すら残っていなかったほどに疲労困憊であった。明日は一日かけて街の外にある陸軍キャンプを訪れると言う予定が入っていることもあり、眠くなるまでベッドの中で読書をするか、ランプの火が尽きるのを待つかが賢明なように思えた。寝る前に洗面台で顔を洗おうとして、私は久方ぶりに鏡に映った自らの顔をじっくりと見つめていた。別に、そこに颯爽とした長州侍、桂小五郎が見つめ返していることを本気で期待していたわけではなかったが、それでもそこに代わりに立っていたあまりにも疲れ果てた政府官僚、木戸孝允を見つけ、私は自分が如何に年を取ってしまったのか信じられずにいた。かつての私は透き通った肌、豊かで艶のある髪、大きな瞳、笑みを浮かべた口で知られていた。それが今や、肌は染みだらけ黄ばみ、瞼は垂れ、口角はたるんで渋くなっていた——まあ、まだ髪は豊富に残っていたが。あの、女性に化けて新選組の追跡すら躱せた桂は、何処に行ってしまったのか?

「嗚呼」と私は溜息をつき自らに言い聞かせた、「なんという浮世か!」ここ数年で、私はあまりにも体と心を病んでしまった。若さと健康は重責の代償に、そして美しさは国家の祭壇に供物としてくべられたのであった。

 無駄な努力とは知りつつも、私は体を温めに毛布の中に深く潜り込み、読みかけであった本を拾い上げた——数週間かけても、ただの一章すら読み進められていなかったし、最後に何を読んだのかすら思い出せなかった。そのときになり突然、私は明日の陸軍訪問のことを再び思い出した。何故かは自分でも説明できないが、私はまたモロー将軍に会えることを楽しみにしていた。明日に思いを寄せ、胸の上で本を開いたまま、壁向こう隣の部屋から聞こえてくるくぐもった大久保の靴音に耳を傾け、私はゆっくりと眠りに誘われていった。

いじん

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作は全部で二十八章の長編になりますが、星空文庫には最初の七章を掲載しました。もしお楽しみ頂けたのであれば、以下のリンクよりキンドルで販売中の完全版(1200円)のご購入を検討頂けますと光栄です。ご支援、感謝致します。

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いじん

1872年、ソルトレイクシティ。 その日ユニオン・パシフィック駅に降り立った木戸孝允は、世界万国の優れた文明に広く知見を求め調査する、という目的から構成されたこの重要な使節団が、まさかこんな辺境の地で三週間を過ごす羽目になるとは想像だにしていなかった。モルモンとアメリカ陸軍が互いに睨みを利かせているこの街で、彼は何を見るのか。 いじんとは、何なのか。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-05

Copyrighted
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  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 第四章
  5. 第五章
  6. 第六章
  7. 第七章