一周走りきるための
音爆弾の震わせたもの
農学部の馬が音楽室の前を通るのはいつも昼休み前だった。ギターの個人練習がひと段落し、僕がさあもうお昼だし御飯でも食べようかというときふっと外を見やるとだいたい馬がやってくるのだ。まず少し離れたところから誰かがドアをノックするようなコッ、コッという足音が聞こえ始め、それが近づいてきたかと思うとまず窓の外に馬の黒い鼻が見える。続いて立派に黒光りする上半身がぬっと現れ、筋骨隆々とした下半身も姿を見せる。馬が一歩踏み出すごとに、陶器の様に光沢を放つ皮膚の下で肩や足の筋肉が美しくうごめき、それは僕を惚れ惚れさせた。まさしく自然の造形物の神秘。
彼(だか彼女だかわからないがとにかく馬のことだ)はいつも決まった男に連れられていた。その男はいつも小さくて華奢な体にピタリとあった細身の乗馬服を着ていたが、たまにつなぎの作業着を着ていることもあった。背筋をぴんと伸ばし、顎を引き、視線をまっすぐと前に向けながら優雅に歩く男だった。彼の歩行はとても滑らかだったから、ほかの人のより上等な関節を持っているんじゃないかと思ったくらいだ。見たところ僕とさほど年齢は変わらないように見えたが、鼻の下にあまり似合ってはいないけれど、形だけは立派なちょび髭を生やしていて、それが彼の年齢をよくわからなくさせていた。まるで昔の外国の紳士かナチスのドイツ人のようだった。
はじめのうちはその見慣れないペアを興味深く静観していた僕だが、そのうち見るだけでは飽きてしまって、すこし彼らに悪戯をしてやろうかと思い立った。馬が通る時にアンプにつなげたギターをいきなり大音量で鳴らしてすこしびっくりさせてやるのだ。しかしいきなり爆音で鳴らして馬を必要以上に驚かし、傍らにいる男が興奮した馬に蹴り殺されても後味が悪いので、僕は回数を重ねるたびに段階的に音量を上げていくことにした。人生を楽しむためには物事は常に新鮮なまま保つよう努力しなければならないが、そのためには常に用心深さも持ち合わせる必要があるのだ。最初はアンプのボリュームつまみをレベル1にして開放弦を鳴らした。馬も男も反応なし。次はレベル2。同じく反応なし。次は3。基本的には同じように反応がなかったが、今度は男のちょび髭が少しだけぴくりとした。でもこちらも見向きもしないままあくまで滑らかに、優雅に僕の前を通り過ぎて行った。僕は悔しくなって、今度はその首をこっちにひねらせやるからなと次は一段階飛ばしてレベル5にした。すると、男は歩きながらくるっとこちらを向いた(馬は今までと同じように全く反応しなかったのだが)。いつもは左右同じ角度のちょび髭が左の方だけわずかに上向いていた。少し笑っているようにも見えた。男は興味深そうに目を丸くして僕を見ながら、一瞬何か考えているようだった。それからそのまま何気なく馬の手綱を持っていない方の手をこちらに向けて宙に固定した。よく見ると男の指先は一般の男たちが卑猥な冗談を言うときによくつかわれるあの女性器を表すマークを形作っていた。そして3秒もたたないうちに窓の外を通り過ぎて消えてしまった。
僕にはわけがわからなかった。なぜあの男は僕にあのサインを見せたのか。そしてなぜ馬は全然反応しないのか。僕が鳴らしているアンプ(ローランドのジャズ・コーラス)は大きくて高い出力が出るからボリュームのつまみを5にして音を出すと結構な音量になるのだ。すこしくらい耳をパタパタさせたりびくついたりしてもよさそうなものなのに。
僕は男が取った行動と馬の冷静沈着さについてその日一日中真剣に考え、その結果普段ならしないようなミスを連発した。自動販売機でアイスコーヒーを買おうとして間違ってホットコーヒーを買ってしまうし、気づいたらズボンのチャックは開きっぱなしだし、電車も10駅くらい乗り過ごしてしまった。極めつけは間違った相手に留守電を入れてしまったことだ。そのとき僕は遠距離恋愛をしていて、たまにさびしくなったり声を聞きたくなったりしたときに恋人に電話をしていた。電車を乗り過ごしてしまったために一時間も遅く自分の家の駅に着いた時、僕は無性に彼女の声を聞きたくなった。しかし電話をかけたら珍しく留守電につながった。残念に思いながらも、たまには留守電に長いメッセージを吹き込んで彼女に聞いてもらうのもいいかもしれないと思い、僕はおなじみのピーっという音が鳴ってから最近起こったことや思ったことを次々と口にした。といってもついこの間乗り合わせた電車に痴漢が出たがその痴漢は中学生を専門とする恥女だったとか、隣に住んでいる40過ぎの人妻は絶対僕を性的な目で見ているような気がするだとか、たぶん気のせいだと思うけれど自分のペニスはすこし大きくなった気がするとか、そういうくだらないことだったけれど。だいたい言いたいことを言ってしまうと僕は溜息といっしょに電話を切った。それからまたあの男と馬について考えながらアパートに向かって歩き始めた。でもなにかおかしい気がして携帯の発信履歴を確かめてみたら、僕は恋人にではなく大学のクラスメートに電話していたことがわかった。それも全く親しくない女の子だ。なんで彼女の番号が登録されていたのかも思い出せないくらいの相手だった。僕は道端に立ち止まっておもわずしゃがみこんでしまいそうになった。なんてことだ。そのクラスメートの女の子には次会うとき一体どんな顔して会えばいいんだろう。その子は絶対周りの友達に言いふらすにきまってるし、僕はきっと少なくない数の女の子や男どもから変態の烙印を押されてしまうだろう。僕は電話を切る時に「早く君の太陽系に僕のスペースシャトルを見切り発進させたいな」と言ったのである。こんなことを告白するのは少し恥ずかしいのだけれど僕はそういうわけのわからない下ネタが大好きなのだ。
僕はそんな失敗があってからもめげずに考え続けたが、眠るときになっても男が取った行動の謎がわからなかったために、僕はこれはもう次でこの悪戯を終わらせちゃうしかないなと思った。つまり一気にボリュームをマックスにするのだ。また致命的な間違い電話をしてしまう前に。多少心配なのがいきなり爆音にしたときの馬の反応だが(傍らの男を蹴り殺すかもしれない)、今までの感じからしていきなり暴れることもないだろうと僕は楽観的な予測をつけた。そしてなにより、そうしたときにあの男がどのようなリアクションをするのか早く知りたかった。僕は一度気になったらすぐにそれを解決したくなる性質なのだ。性質というよりかそれは僕の一種の病気だった。
次の日、僕はいつもより早く音楽室に出向いて事に当たる準備をした。そして昼休みの少し前になると、いつもどおりコッコッという馬の足音が聞こえてきた。自分が少し度を過ぎたことをやろうとしていることを自覚していた僕にとってその足音はまるで悪魔が自分の心のドアをノックしているかのように響いた。暗いドアの向こうで誰かがにんまりとしていた。僕にはそれがわかった。僕はギリギリまで迷ったが、男と馬が音楽室のちょうど真ん前に来たときに何かがふっと切れたように冷静になった。視界が鮮明になり、僕の耳はどこかでガチャリ、というドアの開く音をとらえた。入りたければ入ればいい。僕は左手でFを押さえて、右手を弦にたたきつけるように振り下ろした。ジャズコーラスから破裂音に近い爆音が飛び出した。Fは爆風のように僕の全身を震わせ、部屋の天井につるしてあったゴジラの人形を揺らし、もうずっと前から部屋の隅に置き去りにされた気の毒なダッチワイフの体をぶるぶると震わせ、そして窓ガラスを揺らした。
近くにいた人間はきっと何事かと思ったことだろう。しかし、一番近くにいたはずの男と馬は何事もなかったかのように無反応だった。それを見た僕が放心したように呆然としていると、男がこちらを振り向き僕に向かって彼自身の耳を指差した。みると彼の耳の穴のところにはオレンジ色のなにかがついていて、それが耳栓だとわかるのに大した時間はかからなかった。それから彼は嬉しそうにニヤリとして、僕にチャーミングなウインクをした。そして相変わらず無反応な馬と一緒に通りさって行った。
馬のお尻が完全に見えなくなるまで僕は混乱していたが、すぐに理解した。
あの男は僕の企みを完全に見抜いていたのだ!
なんてこった。
続く
一周走りきるための