ブオナローティ

 手と手をしっかり繋いで歩いていた。ちゃんと手が繋がっていることを確かめるように、ぎゅ、と兄は手に力を込める。必要以上に力を込められた手が痛い。ざわざわと木が揺れ出していた。葉音は次第に大きくなり、僕らの髪をさらう。ぎゅ、とまた力が強まった。
「ぼくは飛んでいったりしないよ」
 ハッとした様子で兄は手に込めていた力を抜く。汗ばんだ手の平が気持ち悪かった。じめじめとして、これ以上ないほどに、熱い。
「分からないじゃないか」
 今までの失態を取り繕うように兄は柔らかく笑った。けれど眼は何一つ笑っていない。まるで表情が張り付いているようだ。背中がひんやりとする。それでも手は、まだ堪らなく熱かった。体を置いて手だけが発熱しているみたいだ。
 土が剥き出しになった階段を上る。先週散ったばかりのさくらの花弁が落ちていた。ねちゃねちゃとした土と絡まった花弁は、ひらひらと舞うこともなく、静かに踏まれ、茶色くなっている。
 無暗に悲しくなりそうな茶色を別の場所に移し替えたくなった。空を見上げる。それから僕らを囲むようにして生えているさくらの、微弱に残っている花、そして幹。太く、硬骨と立っている。今年は、さくらまつりよりも早く、花が散ってしまった。
「桜は散ったあとの方が綺麗だ」これは春の中途になると再発する兄の口癖だ。けれど、今年は春が台風のように忙しいからか、まだ一度もこの言葉を聞いていない。
 去年の、桜を見上げる火照った兄の表情を思い出したら、無性にその口癖が恋しくなった。どうしても、どうしても、その声が今すぐに聴きたくなった。恋の病に伏せった患者のように縁はふやけて、ほのかにバニラエッセンスの匂いがするその声を、どうしても聴きたくなった。
「桜、散ってしまったね」
「ああ、これじゃ、花見は出来そうにない」
 声は、透き通っていた。色は青く、先は尖っている。それが、青い、硝子の破片と結びつく頃には兄の体を揺さぶって、忘れてしまったの、とひたすらに問い詰めたい気持ちでいっぱいになっていた。
「…………好きなんじゃ、なかったの」
「ぼくが、……なにを」
「散った桜の木」
「………………好きだよ。当たり前だろう」
「じゃあ、その間はなんなの」
 期待した答えは何一つとして返っては来なかった。体の底から、灰色をした不安が迫り上げてくる。まっすぐに階上を見据える兄の眼は、硝子玉のように静かで、冷ややかだった。「ごめん」
「いい過ぎた」
 想定していたよりも喉から出た声は小さく、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。もう余計なことをいわないように、としっかり口を結んで顔を伏せる。また、手と手の境目が薄くなっていくのを感じていた。
 戸惑いがちに見上げると兄は先刻と同じ眼をしていた。それなのに手の平は、夏の窓辺のように熱を放っている。じわじわと肌に浮かんで来る汗はもはや、兄のものなのか、僕のものなのか、定かではなかった。
 さくらまつりの喧騒が近づいてきていた。さくらはもうほとんど散ってはいるけれど大勢の人が集まっている。僕らは最後の段を同じタイミングで踏み越えた。
 ついさっきまでは遠かった人の群れが眼の前に、突然、現れたような感覚がして僕は一歩、後退った。
 その様子に気付いた兄に引っ張られて自由に歩き回る人波を、泳ぐように進んでいく。暫くして、ひしめき合う人の塊にぶつかった。
「見える、」
 何も、と首を振る。何を指しているのかは分からないけれど、少なくともそれが、他人の後ろ姿でないことは確かだ。
「仕様がないな」
 急に地面の感覚が消えた。「わっ」不安定に揺れる僕の体を支えながら兄はゆっくりと立ち上がる。
「見える、」兄は再度そう問いかけた。
 人々の視線の先には簡易的なステージがあった。布で隠しきれていない鉄パイプが剥き出しになっている。
 丁度、小学生の合唱団が歌い始めようとしていた。揃いの服と帽子を身に着け、同じ姿勢できちんと二列に並んでいる。
 その中に背丈の低い彼方の姿を見つけた。例外なく彼も、険しい顔で顎を引いている。中には余裕そうな顔をしている子もいるけれど指で数えられる程度しかいなかった。彼らは明らかに学校のステージで歌っていた時に浮かべていた笑顔を忘れている。
「重たくない、」
 上から顔を覗いて尋ねた。
「君は小柄だから」
 子供たちは美しい声を合わせて歌い出す。彼らの声が伸びる空では、一羽の鳥がゆうゆうと、つばさを広げて飛んでいた。

「会いに行かなくていいの、」
 林檎飴の出店には演目を終えた合唱団の子供たちが居た。上手く歌い終えたご褒美に飴をねだっているのだ。「行きたくとも行けないよ」
「彼方は羽のない天使で、ぼくは体のない子供なんだから」
 飴の中から覗いた林檎をかじる彼方の姿が行きかう人たちの間から見えている。あと二回夜が明けたら、彼方とはいつもの教室で会えるのに、何故だか、僕はもう彼方に会えないような気がした。
「食べるよね、」
「……いらない」
 数秒、迷ってから答えた。「本当にいってるの」彼方への視線を辿っていた兄は、逆走する形で僕の顔を見つめる。
「好きだったよね」
 尋ねているというよりは確かめているような言い方だった。自分の中にある記憶を探っている、ほとんど固まった声は、つい一時間前の僕にとても良く似ている。
「もう好きじゃなくなったんだ」
 不服そうに、ふうん、と鼻を鳴らしてステージ上を一瞥する。自然な手つきで僕の手を取ると、兄は何もいわずにその場から離れた。

 数少ないさくらの花を見上げている。人々が食事を取っている中をするすると歩きながら花を見つけては立ち止まった。あの枝はまだよく咲いているね」
 指をさした方を見ると確かに、他の木や、枝よりも花が残っていた。「もう少しよく見たいな」そう呟くと兄は幹に近づき、さらさらと零れ落ちてくる前髪を抑えながら、首を傾けて、枝の根元を覗く。
「綺麗だね」
 僕ではなく花に直接声を掛けていた。溢れるように浮かんだ微笑に思わず見惚れる。熱っぽい眼はぼんやりとして、白い部分はちょっぴり濡れていた。その濡れた部分がちらちらと煌いて、暖かな日の海みたいだ。
 傍らで注がれている視線にも気づかないほど熱心に花を見つめている。今、声を掛けたらどんな顔をするだろう。あれこれと今まで見てきた兄の表情を思い浮かべてみる。けれど一つとして形の合うものはなく、返ってもどかしくなった。だからといって声を掛けることは出来ない。あまりにも淡いピンクを孕んだ青い色の美しい眼をしているから、にいさん、と発音しようとすると一音も漏らすことなく喉が閉じてしまうのだ。
「あ、ああ。ごめん、つい」
 我に返り、振り向いた兄と目が合う。それから、僕に見られていたことに気付いて恥ずかしそうに苦笑した。「ごめんね」
「……兄さん」
「なに」
「…………兄さん」
 表情を変えずに言葉を待っている。急かさず、求めず。
 待たれていることを知りながらそれ以上の言葉を探すことなく、俯いた。耐えるように待っている兄は呆れている筈だ。どうしてなんだろう。伝えたいことがあったのに、直前になると口にするほどのことじゃないように思える。自分の中で終わってしまってもいいようなことに思えるのだ。
 背中を向けて兄は芝生の間に作られた土の道を歩いていく。その後ろを、はぐれぬようについて歩いた。「ちゃんと付いてくるんだよ」
「うん、分かっているよ」
 声に鋭さは欠片もなくて安心する。幼い頃から変わらない心底から優しい兄の声だ。花期の終わりかけた木に咲くさくらを愛している、大好きな、大好きな、僕の。

 辺りを見回す。ぐる、ぐる、と気持ちが悪くなるほど首を左右に回して、体の向きを変えて。「兄さん、」傍にいないことを確認して店先の方へ走って近づいた。たこやきだとか、わたあめだとか、色々な出店のお客さんを歩きながら見て回る。
 お客さんの中にいないことを確認するとステージを見た。今は、ゲストでやって来ている知名度の低い芸人がコントをしている。ど、っと笑い声が上がる。眼だけじゃなく頭まで回りそうだ。「兄さん、」
 公園の中心部で様々な人の顔を確かめていく。けれど三十人と立たない内に、自分が迷子になってしまったことを認めた。
「どうしよう」
 誰にも聞き取れないような声で呟いてから、慰めるように頷く。今頃、兄も探している筈だ。迷ったら動くな、というし元の場所に戻った方がいい。そう考えて、知り過ぎた顔を探しながら、奥へ、奥へ、と小走りで戻った。
 公園の奥には大きなさくらの木とブランコや滑り台といった遊具が置いてある。とはいえ、ステージから遠く、出店の一つもないここは穴場のお花見スポットになっていた。だけど今年は多くの人で賑わっている。というのもここに植わってる大きなさくらは、公園の大半を占めているさくらより、元々、ずれて咲く。その為、このさくらだけが分かりやすく花を咲かせていて、唯一、今日に相応しい姿をしていた。
 汚れを払ってから長椅子に座る。微かに土が舞った。待つのは得意ではないから、はやく来てくれないかな、とさくらをぼんやり眺める。やっぱり花の沢山咲いているさくらの方が、好きだ。どうしてもどうしてもさくらの散る季節に好きになれるのは、兄の表情だけでそれ以外は、寂しい。

 十分が一時間に、もしくは、一時間が長い十分に感じられるようになった頃、空いていた左隣に子供が座った。眼元を拭いながらじわじわと泣いている。
 歳はそんなに変わらなさそうだけれど自分よりは下だろうか。白いブラウスにサスペンダーを付けた黒いズボンを穿いている。女の子のような顔をした男の子だ。気付かれないように、そっと様子を窺う。
「どうしたの」
 何時まで経っても泣き止む気配のない少年に声を掛ける。
「はぐれてしまったんだ」
 少年は声をつっかえさせながら答えた。声に出したら余計に悲しくなったのか、また、くしゃくしゃの顔に戻っていく。「誰とはぐれたの」
「姉さん」と、短く。
「何処ではぐれたの」
 右眼を拭っていた小さな手で弱々しくさくらの木を指差した。自分と同じ辺りだ。とても人が多く、はぐれてしまっても無理はないような。
「泣くなよ、直ぐに迎えに来てくれるさ」
「分からないじゃないか」
「怒らせるようなことでもしたの、」
「してない。ねえ、もしかして君もはぐれたの」
「兄とね」
 はぐれた、と付け加える。
「じゃあ必ず迎えに来てくれるって、思う」
 本来なら、この少年だって初対面の人間にこんな風にまくしたてることはないだろう。自分に対して問答するように少年は時々、声を詰まらせたり、喉をならしながら、続ける。
「そのくらい姉にとって大切な存在だって、いい子だって、役に立つって、害さないって、だから迎えに来てくれるのは決まり切ったことだって、」
 何と答えたら良いか分からなかった。少年はきゅっと口を結ぶ。我慢しようとして、でも出来なくて、少年の眼から涙がほろほろと落ちた。
 少年は不安を振り払って欲しがっているのだと分かっても、それに相応しい対応が一つも分からなくて、自分の変わらない気持ちを口にする。
「兄さんは迎えに来てくれる」
 泣いていた少年がこちらを見ている。少年を見つめ返すことなくはっきり答えた。
「放っておくなんてことはない」
 絶対に、と言葉を反芻する。絶対に、空は影を落とし始めていた、絶対に。

 頬に冷たい雫が降ってきたのは、確か、五分ほど前のことだ。少年は一時間くらい前に双子の姉と一緒に帰っていった。もしかしたら、十分前かもしれないけれど。ざあ、と容赦なく雨は体を叩いていく。
 雨を察知した人々は波のように去り、初めから、何もなかったように静まっている。平然と抱えられていた、あらゆることへの感情が、今ではとても重たい。迎えに来ない兄や、去っていく彼方のこと。
 平気でいられたことが平気でいられなくなる。とても、とても惨めな気分だった。
「…………兄さん」
 俯いていた顔を上げる。雨は傘によって遮られていた。その代わり傾けた傘は兄を雨から守ってはくれず、びしょびしょの服が兄の体に張り付いている。「帰るよ」
 考えることも嫌になって頷く。立ち上がって同じ傘の中に入ると一言も発することなく、泥になった道の上を戻った。

 雨の音が聞こえている内は沈黙にも耐えられそうだった。それに、今は一刻もはやく布団に潜って寝てしまいたかった。
「帰ろうとしたんだ」
 珍しく、雨の日に兄が自分から、口を開く。
「君を放って帰ろうとしたんだ」
「でも、迎えに来てくれたじゃないか」
 惨めそうな、卑下するような、眼を、兄はしていた。そんな眼を見るのは初めてで、少しだけ、怖くなる。出来ることなら、知らないことは、知りたくない。何もかもを知っているまま変わらないでいてくれたならいいのに。
「どうしても帰れなくて遠くから君を見ていた」
「僕も、……僕も、同じだよ」
 階段から滑り落ちそうになった。強く、腕を引かれる。反射的に振り返ると慌てた様子の兄と間近で目が合った。「僕も、疑った。来てくれないんじゃないかって」
「だから、純真なんかじゃないんだ」
 兄の喉が上下する。うん、と囁くような声が聞こえた。
「理想を押し付けすぎてしまったね」
 これ以上ないほどに寂しそうな顔をしていた。飲み込むように笑い、悲しんでいる。それから僕らは一言も話さなかった。ねえ、変わることを恐れていたのは、本当に僕だったのかな。

ブオナローティ

ブオナローティ

2019再掲

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-04

Copyrighted
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