天正6月2日第3章 堺暗転

天正六月二日第3章です。今回からチャプター分けをしまして、少し読みやすくなっていると思います。見出しをつけたので、なんか映画のDVDのチャプターみたい☆第1章、第2章も時間があれば手直しをしていく予定でいるので、よろしければぜひ、ごひいきに。それではどうぞ。

1 宗易憤激

その夜が明けてちょうどあの本能寺の変から一週間、六月九日の朝が明けようとしている。払暁、千宗易は秀吉のいる播磨から、船便で急きょの帰国を果たしたところだった。ここ数日は船を次ぎ、早馬にまたがり、昼夜問わずの強行軍だ。五十を過ぎた老体に、さすがに疲労は軋むほど辛く、響いていた。
屋敷に入るなり、老人は人払いして風呂を使う。それから家人に朝餉の献立を簡潔に言い渡した以外には終始無言で、あとは無人の茶室に籠った。
この部屋は宗易が自ら意匠して考案した無駄のない作りだ。主人と客、一対一になるべくたったの二畳に切り詰めた庵に独りきりで籠もると、何かに包まれているかのように外界から刺激を遮断できるような気がする。宗易は目を閉じ、心を鎮めていた。閉じぬ瞼を薄く閉じて、座り寝の姿勢を作ってそこにいると、ほんの一瞬でも心に空白が出来る。
こうしていても満足に眠れはしないが、自分好みの茶室にいることで、精神の均衡は、どうにか保てそうに思えた。
(久々やな、こないに大きな博打をぶつのは)
いつ以来か。いや、かつてなかったかも知れない。おのれの首を賭けた経験はあっても、せいぜい得られるものは、富貴と栄誉くらいのものだった。
それが―――今度の相手は天下なのだ。
間違いなくこれは、今、日の本で最高の武士たちとの覇権を賭けた大一番だ―――宗易があと、十歳ほども若かったら、寝食を忘れて熱狂したに違いない。だがその分、今の緊急事態にあわてて無駄な動きもしただろう。さきにも姫路であの程度の出来事でうろたえていたのなら、下手をすると信長の亡霊に怯えた秀吉に手を退かれ、その場で斬り殺されていたかもしれない。
(真偽はどうあれ、信長公はこの世界から消えて無うなった。これを嘘かマコトにするのはわしの腕次第や)
老人は心の中で今まで打った布石の位置を数え直してみる。生きていた信長が姿を現したとしても―――老人の辛い目で見ても、流れはこれで、五分と五分だろう。まだ、信長が生きていると決まったわけでもないし、もしそうだとしても、大局に影響はない。
(誰かが信長公を利用しようとしとる。それが亡霊にしても―――)
相手はいかにも思わせぶりに姿を見せ隠れするが、それは信長が生きていることを利用しようと言う何者かの姑息な姦計でないとも言いきれない。或いは噂は本当で、信長自身が裏切り者の自分たちの手の内を十二分に吐き出させるための手であったとしても、一度出かかった船は進む潮を読むことは出来ても、道を引き返すことは出来ない。
(ここは何が何でも読み切ったる。わしの描いた絵図でアガるんや)
千年生きた亀のようなしぶとい男は、おのれの巣穴で決意を新たにしようとしていた。

銃声が聞こえたように思えたのは、その瞑目のさなかだった。
―――夢やなかったか。
はっと目を覚ましてから、宗易は思わず身構えた。次に、過敏になり過ぎた自分を()じ、忌々しげに顔をしかめた。夢だと思っていたことが現実になりかわったのは、直後のことだ。不穏な歩調の足音が、打ち水をした庵の敷石を踏み鳴らして近づいてくる気配がし、にじり口をくぐり抜けてあわただしく入ってきた相手が運んで来たのがそれだった。
「なんや、どないした」
宗易は背を向けつつ答えた。
入ってきたのは、宗易が私用で使っている甲賀の草の者崩れだ。堺を留守中、宗易はこの男に出来る限り畿内の情勢を集めるように申しつけてあったことを思い出した。
「今の銃声はどうした」
「銃声?」
忍びは首を傾げた。もういい、と言うように宗易は手を払い、
「なんの用で来た」
忍びは簡潔に用事を告げた。
「六郎島が襲撃されました。あの島に軟禁していた人質も、ひとり残らず・・・・」
「殺されたのか?」
あごを引く仕草で男は、(うべな)ってみせた。
「何者の仕業や」
男がにじり寄って、耳元で宗易に何事か告げると、使いこまれた天目茶碗の蛙目(がいろめ)に似た老人の顔にみるみる赤みがさした。
「やってくれよる」
憤然と膝に手をついて宗易は立ち上がると、
「すぐにあのどら息子を呼ぶんや。今すぐ来いと言うてこい。来なんだら、お前ら一人残らずこの堺の港から生きて出さんとそう言うてくるんや」
音もなく草の者が退くと、宗易も蹴飛ばすようにしておのれの茶室を出た。
「くそったれ」
老練な宗易が構成した陰謀が、今、瓦解しようとしている。人知れず毒づく言葉も、どす黒い憎悪に満ちていた。
(このままつぶされてたまるかい。何が『必罰』や・・・・何が南蛮や)

2 あざみ、戻る

その頃、あざみたちはようやく堺の町木戸に達したところだった。
朝もやにたたずむ宗十の屋敷を見て再び、あざみの身体から力が抜けた。
「・・・・・あそこか」
「やっと着いた」
背後を歩く高虎と虎夜太に、あざみは指差して見せた。血と泥にまみれて三人の憔悴は並のものではない。
「ちょっと待ってて」
あざみは門を叩き、奥へ取り次を頼んだ。朝餉の用意に下男が起きて台所で仕事をしていたようだが、話によると宗十は昨日から不在で連絡が取れないようだ。やがて門が開き、迎えに出てきた二人を見て、あざみは驚いた。そこにいたのはガルグイユ、は分かるとして、もう一人が、あのランパだったからだ。
「てめ・・・・」
「ランパ!」
声を上げかけたガルグイユを、当然のようにあざみは無視した。
「あざみサン」
「どうしてここに?」
夷空の仲間、オレステの大柄な黒人の用心棒は、さすがに瞳を潤ませ、大きな手であざみの差し出した掌を包んだ。
「・・・・・無事で何よりでした。でも。イスラ、どうしました?」
廃糖蜜のような肌の色と、まったく対照的に白すぎる目を剥いてぼろぼろのあざみたちを見渡すランパに、あざみはこれまでの経緯を説明した。夷空の話によると、彼らは確か宗易に人質に取られていたはずだった。
「助けてくれたのは、宗十サンです。あの後すぐ、宗十サン、六郎島からわたしたちの居場所、探しだして匿ってくれました」
「エリオは?」
ふっ、とランパは顔を曇らせた。
「あの子は、宗易が手元に置いてます。今、どこに監禁されているのか・・・・・宗十サンはその行方を捜しに出たまま、まだ戻ってません」
「そうなんだ・・・・・」
「てめえ・・・・そろそろいい加減にしろよ」
夷空がしたのと同じ完全すぎる黙殺に耐えかねたように、ガルグイユがうなった。
「どう言うことだ。なんでてめえは、パトロンを連れて来ねえ」
この男にも話すのが気が引けて、あざみはうつむいた。
「夷空は・・・・連れて行かれたの。リアズ・ディアスに」
「なんだと?」
あざみのその一言の重大さを知っていたのか、ガルグイユも絶句して勢いを失った。
「ランパさん、知ってたら教えて。リアズ・ディアスが現れて・・・・無理やり夷空を連れて行ったの。あの宣教師、信長といた。ディアス・・・・あの男は何者なの?」
「ディアスとイスラの話、ランパは、あまりよく知らない。昔少し聞いただけだから。宗十サンが帰ってきたら詳しい話、出来ると思う」
「・・・・・じゃあまあ、ともかく、上がらせてもらうぜ。その宗十とやらが来るまで、話は進まねえんだろうからな」
高虎は玄関先で草鞋を解こうと、足を踏み入れかけた。
「おっと、待て―――チビはまあいいとして、お前らは大体何者なんだ。男まみれでただでさえ汗くせえ場所に、お前らまで迎え入れる筋合いはねえ」
「なんだ、この妙な南蛮人は?」
疲労で苛立っている虎が不穏な空気を出しても、狼は怯まない。
「気にしないで、高虎さん。夷空が飼ってる番犬みたいなものだから。ランパさん、お風呂って、使ってもいいのかな」
「ええ、今すぐに用意しましょう」
「上がるな! てめえら、誰のうちだと思ってるんだ!」
「宗十さんの屋敷でしょ」
吠えつく番犬には無視するのがもっともいいことを示すと、あざみはさっさと自分の草鞋を脱いだ。
あざみは湯船には入らなかった。手桶に汲み、その身体に湯を浴びせるに留めた。湯をかぶると、何度も足元に真っ黒な水が溜まった。当然だ。二日前、夷空にもらったばかりだったあの赤い小袖も、煤と泥と血で、見る影もなくなってしまっているのだから。熱い湯を何度も何度もかぶり、手足の爪から汚れをこそぐ。身体の中まで隅々を温め、あざみは丁寧に死の匂いを祓った。
今、洗い流したのは、姉さまの血―――
湧くように立ち上る息苦しいほどの湯気を吸いこんで、あざみは深くため息をついた。あのあと白瀬のむくろを、高虎に手伝ってもらって、峠の麓の村で葬ってもらったのだ。名も知らぬ村の塚に立てられた、一本の墓標。姉はもはやどこにも行かず、そこで、あざみを待ち続けることになった。
(ごめん・・・・・もうわたし、姉さまに謝れないね・・・・)
だが今、あざみの脳裏に焼きついている映像は違った。姉のあの、無残な死にざまではなかった。姉の死よりも、強烈な印象を残してそこに、血なまぐさい暗雲をまとった信長と言う男の顔がある。
(最悪だ)
信長と南蛮人。思いつく限りの、最悪の組み合わせだ。信長がやるとなれば、あの男はこの国のすべてを売り渡してでも、裏切り者を滅するために行動を開始するだろう。信長のなりふりの構わなさを、あざみは誰よりも知っていた。
かつては、お師匠たちも―――徹底的に壊滅させられた伊賀を、あざみは目の当たりにしている。その身を傷つけた夷空を、信長は死体にした後でも憎みつくすに違いない。それを想うだけで―――身体の震えが止まらなかった。板場に膝をつき、あざみは頭から何度も湯をかぶった。

身体を拭いて出ると、甘い白味噌の香りが、ふわりと漂った。居間にはすでに膳が用意されているのだ。高虎と虎夜太は庭で、とっくに身体を拭ったようだった。
「―――あざみ、よう戻ってきた。無事で何よりや」
背後で宗十の声がした。朝餉の膳を用意させたのは、宗十のようだ。
「宗十さん、夷空は・・・・・」
あれから一晩中駆けまわっているのか、宗十の顔も疲れていた。
「まずは飯でも喰え。話はそこでゆっくりと聞こう」
「う、うん―――」
あざみは自分の膳のある席に着いた。
「話はおおよそ、ランパから聞いた―――信長が生きておったそうやな」
ようやくと言った雰囲気で腰を落とすと、宗十は言った。
「そのことは、別に悪い話やない―――まあ、いい話でもないがな。宗易のやつ、おのれで仕掛けた陰謀の火消しにてんてこ舞いや」
そう言えば、とあざみは思った。堺の町木戸に至った時だ。宗易の迎えが来るとばかりあざみは予想していたのだが、予想に反して街は静まり返り、三人は重い足を引きずって、どうにかここまでたどり着いたのだった。
「ランパから聞いたと思うが、夷空の乗組員はどさくさに紛れておれが六郎島から救い出しておいたぞ。エリオの方は宗易が手元で軟禁していて、わしらも容易に手が出せんかったが、つい今朝がた宗易の屋敷が襲われて、無事エリオは救い出されたと、わしはそう聞いたんやが」
「それはわたしたちじゃないんだ。わたしたちは―――ここまで来るので、どうにか精一杯だったから」
「お前らの様子を見れば、それは何となく察しはついたが・・・・・」
宗十は帰還したあざみと他の二人の顔を見比べながら、言葉を濁した。
「ランパたちのことはありがとう―――宗十さん、夷空の代わりにお礼を言っとく」
あざみは言葉を切ると意を決して、
「やっぱり、信長は生きてたんだ。あの男は、南蛮の宣教師たちのお陰で難を逃れたみたいなの。京都からわたしたち協力して逃げてきたんだけど、信長が生きてることを知った人間はみんな、命を狙われていた」
「それでお前は、こいつらと京都を脱出してきたわけか」
宗十は訝しげな顔で、面々を一瞥した。
「で、夷空は? 今どうしてる?」
高虎が口を開いた。
「あいつはさらわれたんだ。リアズ・ディアス―――どうやらそいつが、夷空を連れて行ったみたいなんだが」
眉をひそめ、宗十はあざみに尋ねた。
「話が呑み込めん。まず順を追って話してくれんか」
「うん―――ちょっと長くなるかも知れないけど」
「ああ、構わん」
息を吸うとあざみは、宗十に京都での二日間を話した。事実を簡明に述べようとすると、話の構造はそう難しいことではない。まず宗易の命で京都に潜入していた姉が掴んだ話、それに播磨屋と言う油屋の商隊に同道して、京都を脱しようとしたこと―――そしてその中途、信長らしき男が馬で現れ、姉を斬り殺したこと。そのころ河原では、リアズが引きこんだ南蛮の兵士たちが、乱入し、夷空を連れ去っていったのだ。
高虎や虎夜太の助けを借りて、あざみはなるべく、起こったはずの事実のみを正確に伝えようと努力した。それでも、信長が生きていたことを話すとき、姉の死に際について触れざるを得なかったときには声が詰まり、視界が涙で濡れた。
「大丈夫か?」
「うん」
引き攣った唇を綻ばせると、あざみは気丈に肯いた。口の中で本当は、歯を食いしばっていた。事実をたどることで麻痺した感情が、突然、暴発した。圧迫していた器官が解放されて一気に血が巡るように、感情がほとばしる。だがもしここで話すことをやめてしまったら―――ここで立ち止まったら。どうしていいのか分からなくなりそうだった。話をし終えてあざみはむしろ、ほっとした気分になって息を抜いた。
宗十はその様子をあえて気遣わずに、腕を組み目を閉じると、一言も漏らさないように聞いていた。薄目を開けて瞳を動かすと、やがてぼそりと、
「・・・・で、夷空はそいつらに着いて行く、とそう言うたんやな?」
あざみは高虎に視線を送った。
「間違いはないぜ―――おれはお前らの言葉が分かるわけじゃないがな。あいつはおれには、確かにそう言ったぜ。気の進まない仕事を果たしてくる、あとのことは頼む、と」
「リアズの他には誰かいたか?」
難しそうな顔になると高虎は、右に傾いだ首筋を掻いた。
「そうだな―――なんだか、不気味な男がいたぜ。念仏坊主みたいに、つるつるに頭を剃りこぼったな。南蛮人にしちゃ背丈はそれほどでもねえ。こいつくらいだ」
高虎はガルグイユにあごをしゃくった。
「厄介やな」
絞り出すような声で、宗十はつぶやいた。
「何者なの、その男?」
「そいつはカウリヨ・ランディエ、サルディーニャの人さらい野郎だよ」
ガルグイユが口を挟んだ。
「隠すことはねえだろ。話しちまえよ。確か、そいつなんだろ、宗十―――パトロンの身体をあんな風にしたのは、罪深いあの男なんじゃなかったのか?」
「まさか―――本当にそうなの、宗十さん?」
無言で肯いた宗十は、明らかに血の気が引いていた。
「カウリヨとリアズ・ディアス、そいつらは七年前に夷空を裏切った張本人や。奴らのことはマニラ政庁もイエズス会も、半ば黙認と言う形で放置している。いろいろと問題を起こしている危険な奴らでな。おれらの中でも一番、警戒されてる連中や」
「リアズとカウリヨ―――おれたちゃ、ついに最悪の札を引き当てたってわけか」
皮肉げに言うとガルグイユは肩をすくめた。
「借金まみれのイスパニア王室はやつらみたいなゴロツキも飼ってやがる。イスパニアからただ船で荷を運べば、物が売れる時代でもねえからな。今奴らは大明を狙うために、毛唐ども(イギリス人)のように、この近海に足がかりになる国が欲しがってるのさ」
「借財うんぬんの話は、夷空から話は聞いた覚えがあるがな」
難しげな顔で、高虎は腕を組んだ。
「どう言うこと?」
「確かよ」
高虎は首をひねった。
「あいつが言ってたことを、簡単に言えば・・・・・南蛮人の連中は、この日本で鉄砲が売れなくて困ってるってことさ。おれはよくは知らんが、イスパニアは、遠いんだろ?―――売りつけるものがなきゃあ、やつらは命を賭けてこの国に来た甲斐がない。まあ、分からねえ話じゃねえわな。おれの知る限り、いくさに入用の鉄砲と言えば、南蛮人の銃じゃない。国産の堺筒や国友筒だからな」
「そうやな、例えば鉄砲に関して言うなら―――わしらが兵器それ自体売る時代はとうに過ぎてる。今でも扱う品と言えば、火薬の素になる硝石やが・・・・これだって、北陸の上杉家あたりじゃ、馬や人の糞尿から精製しているらしいしな。塩硝と言うらしいが」
「連中はもともと、お前ら倭人に鉄砲なんて売るつもりはなかったのは事実さ」
と、ガルグイユが唾とともに、酒くさい息を吐いた。
「だがよ―――勘違いすんなよ。連中の目は、こんなちっぽけな国には向いてはいねえ。狙いはあくまで、大明(中国)なんだ。お前らが銃を自分で作るようになっておれらの需要がなくなったのは確かに誤算だが、大失態ってわけじゃねえ。考え方を変えればいいのさ。新しい狩の仕方を仕込んだ犬になら、今度はその犬どもをせいぜい、どうやって飼い馴らすかってことを考えりゃいいだけの話さ」
「高虎殿、あんた、織田家の武士なら唐入りの話を聞いてるやろ。信長はあのまま、羽柴筑前に中国を平定させた後は、明智光秀に九州を任せ、その勢いで朝鮮や大明に兵を送ろうと考えとったはずや」
高虎は顔を曇らせた。
唐入(からい)りな―――あれは、秀吉の放言って話だが・・・・・まさか本気で唐入りを考えてるわけはないと思ってたがな」
「信長を焚きつけてたのは、南蛮の宣教師たちや。やつらにとって倭人たちは、『大明を宣教するための先兵』―――そのための布教や未来の兵士たちの教育は、すでに着々と進んでおる。マニラのイエズス会はむしろリアズ・ディアスのような危険な宣教を行う連中に、陰で援助を与えていると言うもっぱらの話や」
「馬鹿言え。この国の人馬、軒並み引っ掻き集めても大明といくさなんぞ、出来るわけがねえ。それにそもそも、唐入りするってことは―――その中途にある、朝鮮ともことを構えなくちゃならねえんだろ。おれたちは、海の向こうの二国相手にしなくちゃならねえってことだ」
「唐入りが現時点で暴挙やと言うことは、信長も認識しておったはずや。信長が手に入れた版図は広大とは言え、いまだ西に東にと、平定すべき国々が残っとるわけやからな。西国の平定が終わってからと考えるにしても、そこから長くて十四、五年―――今の状況では到底無理や。だが今回、唐入りを主張してその種の活動を続けてきた南蛮人が信長を助けた、とすると―――」
「信長はそいつらに借りが出来るってこと?」
宗十は肯いたが、言葉は濁した。
「まあ一概には言えんがな。あざみ、話はまだ途方もないにせよ―――このままこの騒動が収束に向かって、信長が考える裏切り者がみな、討たれたとしたら、次に安土に再構築される政権は、南蛮人に大きな借りを作ることになるやろ。するといずれは唐入り、あんたたち武士は対馬を渡って、朝鮮から大明、身一つではるばる遠征と言うことになる」
水を向けられた高虎は不快げに腕を組み、ふんぞり返った。
「ふん、そんなもんいつになるか分からねえ、なったらなったでそのとき考えりゃいいんだ。生憎だがはるか先の話にはおれは興味はねえぞ。今、問題にしてるのは、これからどうなるかってことさ―――その連中は、つまり信長に唐入りさせたいがために、身を救ったってことなんだろ? これからやつらは何をしてくる? 重要なのはそこだ」
宗十は腕を組むと、首をひねった。
「こちらが集めた話だと、中国路から集結した秀吉の軍勢が、続々と播磨に集結しつつあるようや。安土から引き返してきた明智と、京都の登り口辺りで衝突する気配はあるが、やるとしたら奴らはそれに乗じて何か仕掛けてくる気やとは思うんだがな」
「・・・・・京都から出ようとしている連中を軒並み始末させているのは信長の指示だろうが、やつらの次の動きが分からない以上、おれたちは何の手も打ちようがねえんじゃねえのか―――逃げるにしろ、戦うにしろな。それにな、それだけじゃないだろ。あざみ、お前は、夷空を救ってやりたいんだろ?」
はっとした宗十を見てあざみは、はっきりと肯いて見せた。
「うん―――わたし、夷空を助けたいの。丹右衛門に証文を握られてたわたしを助けてくれたのも夷空だし・・・・・生き別れた姉さまに会わせてくれたのも、夷空だし。でも、それだけじゃないよ。わたし―――」
高虎や虎夜太の方も見ると、あざみは息を呑んで、
「―――夷空と一緒に生きたいの。どこか遠い海で―――エリオと、三人で」
あざみは、同意を求めようと、宗十たちを見たわけではなかった。気持ちは本心だった。それをようやく口に出せたと言う感じだった。
「そうか・・・・・分かった。どっちにしても夷空のためなら、わしは協力惜しまん」
宗十が声を上げた。
「今朝の動きから見ても、連中はお前らより先に堺に到着している。そこからどうするにせよ―――堺に居る以上、まだやつらの先回りする希望はなくなったわけやないしな」
あざみは微笑んだ。
「そうだね」
「それより問題は、宗易の方や―――やつはおのれの目論見が続々と外れちまって今、手負いの虎や。こうなった以上、向こうもなにをしてくるか判らん、わしらも早めに堺で身の安全を確保しなければならん―――エリオがあの屋敷からいなくなったことが分かったさけ、わしらもやつにかかずらうこともないしな」
「また逃げるのかよ? だがどこに逃げ場がある?」
ガルグイユが吠えた。
「逃げはせん。預かった人質はすでに逃がしたが、わしらは別行動を取らんとな。まずは隠れ家を移して今夜仕立てた船で播磨へ渡ろう。夷空を救うにはなるべく敵に近づいた方がええし、秀吉の陣なら高虎殿、あんたが居ればある程度自由には動き回れるはずやろ」
「今度は、こっちから討って出るんだね?」
交わしたあざみとガルグイユの瞳に力が籠った。
「反撃か―――悪くねえ考え方だ。こそこそと逃げ回るのもうんざりしたしな。で、秀吉の陣じゃあんたが、おれらに協力してくれるわけだろ?」
狼は、虎に向かってあごをしゃくった。虎は言った。
「まあな、行きがかり上、仕方ねえだろ―――どの道おれは、陣に戻ったら、いくさには参加しなくちゃならねえからな。だがもしいくさが始まったら、お前らを放っておれはそっちに行く。おれが条件をつけるとするなら、まずそれだな」
宗十はあごを引いて肯いた。
「無論、それで構わん」
「ありがとう、高虎さん」
戸惑う高虎の手を、あざみは強く握った。

「ところであざみ、お前は―――あいつの身体を見たのか?」
あざみの目の前に、傷ついた夷空の姿が浮かび上がった。
「うん、それに―――京都でも・・・・・」
あざみは肯くと、夷空が悪夢にさいなまれたことを話した。あれはつい、昨夜の出来事だったのだ。むごたらしい傷の生々しさが、至る所に浮かび上がった、夷空の身体―――すでに子供が産めない身体になっていると言っていた。
「しかし、あいつがようあざみに話したもんや」
宗十はその声に驚きを滲ませた。
「そのこと、あいつは決して人に話さん。もう十年近くも前のことやが―――」
「夷空は、わたしに話してくれなかった。京都で倒れた時も、身体を見せてくれたときにも、どうしても話したくないみたいだった。でも、ちゃんと知っておきたい」
「聞きたいか?」
うん―――宗十の問いかけにあざみは、迷いなく肯った。
宗十は俯いた。苦い顔をしたまま肯いたのだった。
「あいつはそう言うやつや。下手にお前に気遣われるのが嫌だっただけや。だが、あれは本当に悲惨な事件やった。夷空がもう、二度と口にもしたくない気持ちは分かる」
「話してくれる?」
「仕方ないやろ」
宗十は大きくため息をつくと、
「だが今、ここでは話せん。移動しながらや。そろそろ姿を隠さんと、宗易が来る」

3 封じられた夷空の過去

宗十はあざみたちを連れて、裏通りに出た。狭い路地の町木戸をせわしなくくぐりつつ、どこか人目につかない場所へ移動するようだった。宗十はいきなり聞いてきた。
「あざみ、まず、お前は・・・・・あいつが―――お前ぐらいの年から海賊をしてたのは知っているな?」
「うん―――夷空は本当はわたしたちと同じ、倭人なんだって言ってた。人買い商人のところから逃げだして、わたしくらいの歳には今の仕事をしてたって聞いてたけど」
「そうや、おれが出会ったときには、あいつはお前ぐらいの年やったな。その頃、あいつは、応化(おうか)と言う明人の海賊頭の船で、呂宋から禁輸品の鉄鉱石や硝石、それにイスパニア人から横流しした武器を密輸する仕事をしておってな」
「もう今と、あんまり変わらなかったんだね」
微笑しつつ、宗十はあごをひき、
「ああ、あいつはイスパニア語の通詞(つうじ)(通訳)やったが、お前ぐらいの歳でもういっぱしの商談も出来た。おれはそこが気に入ってな―――応化は王直と言う倭寇の大物の手下で、王直が明政府に処刑されてから、密輸の仕事を引き継いでおったんやが、夷空が十八の頃、その応化も捕縛されて一味は解散した。
そのとき、おれは夷空とともに、残った船団の乗組員を率いて、呂宋から九州に、仕事場を移したんや。西国の大名衆は、この辺りの大名衆より無論、早くに鉄砲をいくさに欲しがったからな」
訊いていて自然とうなったのは、いくさ好きの高虎だった。
「ほう――西国の大名ってのは、そんなに鉄砲好きなのか?」
「この近畿では、言うまでもなく信長やが、その信長以前から、九州は鉄砲を使ったいくさのやり方は研究されてきたんや。例えば島津家―――この家は鎌倉以来の名家やが、大将の維新入道義弘(いしんにゅうどうよしひろ)自らが、鉄砲撃ちの名手や。この男は信長が生まれた年に初陣しておる古つわものでな。
話によれば、もっとも早く二丁の鉄砲を買った種子島家の菩提寺は、信長の菩提寺と同じ法華宗やからな。信長も自ら鉄砲撃ちを習っておったと聞くが、もしかしたらこの男の話を聞いたのかも知れんな」
「宗十さん―――話を戻していい? じゃあ、と言うことは夷空は、九州でリアズに会ったってこと?」
「ああ、あの男はイエズス会から派遣されて、博多から夷隅(いすみ)(宮崎県)、薩摩(鹿児島)へと布教して歩いておった。お前らも知ってると思うが、倭人の船ではめったに南蛮人の宣教師を同乗はさせん。夷空はその水先案内を買って出たわけや。
おれも夷空も、別に切支丹(きりしたん)と言うわけやないが、リアズ・ディアスは不思議と魅力のある男やったさけな―――抜け荷を扱ってるおれらが宣教師を乗せると言うのは、危険に倍増しするようなもんやったが、夷空がたってと言うので、おれも折れた。
それに、呂宋から禁制品を運ぶのにイエズス会の宣教師のリアズの名を使うのも、おれらにとってはそれなりに意味はあってな。思えばそれが油断やったんや。おれたちはすぐ、あいつが想像以上に危険な男やと言うことに気づいた」
ふんと、くしゃみする馬のように、そのときガルグイユがあからさまに鼻を鳴らした。
「やつがしてたのはただの布教活動やなかった。あいつ、おれたちの武器を横流しして、反乱を煽動しておったんや。各地の切支丹どもと、武装団を組織してな。
リアズは、集めた信者たちを兵員として、マニラ政庁に九州に一斉武装蜂起を提言する企画建白書をたびたびに上奏しておった。火の車のイスパニア王室は侵略を続けて、負債の消化にあてようと躍起になっておるからな。リアズの意見は公式にはならなかったが、イスパニア本国からは、黙認されることになっていたそうや」
「いかれた野郎だな」
高虎は大きくため息をついた。
「ああ、おれも夷空も危うく血祭りにされるところでなあ」
純粋さの中にある、どこか、狂気じみた危うさ―――聞きながら、あざみは、あの、リアズ・ディアスのたたずまいの中にあるものの正体を知った気がした。
「当時、南蛮寺や神学校のあった博多と違って、九州の南半分、島津領ではただでさえ宣教師にはもっとも風当たりの強い土地柄やった。イエズス会も危険を承知で、あの男の活動を承認したんやろうが―――リアズ・ディアスの考え方についてこれたものはほとんどおらんかった。人殺しの道具を売るおれが言えんが、あいつは鬼畜や」
ただくれぐれも言っておくが、と宗十は前置きし、
「イスパニアの思惑はともかく、もともと日本に来る宣教師たちの目的は、純粋に布教で、反乱を扇動する意志も力ももともと無かったんや。リアズはおれたちの物資を横流ししたり、島津領から兵糧を盗んだりして力を蓄えておった。
おれは何度も忠告したんやが、夷空は聞かんかった。リアズの正体にあいつが気がついた時には、二進も三進もいかん状態でな。おれは夷空を連れて無理やり九州を離れることにしたんやが、そのとき、あいつの腹にはもう―――エリオがおったのや」
裏道の木戸をくぐり抜けるとそこは、華やかな表通りだった。
「ここが柳町か・・・・・」
堺の歓楽街である。高虎がうなったように、雑多な人波に揉まれ、南蛮や琉球、大明と言った国々の衣装を凝らした異風な妓楼が軒を連ねている。昼下がりの街筋に響くのは、琉球渡りの蛇皮線の音だ。ふと高虎が聞き惚れている間に、宗十たちは足を速めている。
「ねえ、夷空は、リアズのどこに惹かれたの?」
もっとも聞きにくいことをあざみは、訊ねた。
「知るかい、おれに聞くな」
宗十はさすがに憎々しげに憤りを吐き出し、
「それが分かってたら、もっと早くあいつを止められたやろ。あいつがリアズの子供を身籠っていたことを知って、おれは言葉を失った。だが例えそれでも、あいつをリアズから離さな、商いどころか身の破滅やったんや。あいつは納得せんでもおれは、やるしかなかった。おれたちはそんだけ急いで九州を棄てたんや」
「夷空は、それで納得したの?」
「いや・・・・・納得はせんかったが、なにしろ腹の子がおる。エリオのためにと考えなおしたんやろう、黙っておれに従っておった。一時離れることになってもいつかは、エリオを父親に―――リアズに会わせることが出来るだろう、そう信じたんやろう。おれもまたリアズに会うと約束はせんかったが、いつか九州に戻って商いを考えなおすことは頭に入れておったし、あいつもそれを考えておれを見限ることはなかった。
だが、その矢先や。呂宋を発した硝石の積み荷の船が、海賊の船に拿捕されてな。あいつ、乗組員全員の命と引き換えに、おのれの身柄と積み荷を海賊に預けてしもうた」
「乗組員全員の命と引き換えに自分を?」
思わずはっとして、あざみは聞き返した。
「そうや。まさかそんな阿呆なことするはずないと思ったがな。その場には、お前も知ってるオレステがおったさけ、そのときの話はあいつが詳しいが、夷空のやつ、積み荷をさばくのには自分が必要だと言って、わざわざ人質になったらしい。
相手は船ごとぶったくって、乗組員は海に放り込んで皆殺しにする奴らで有名やったさけ、あいつは先手を打ったつもりやったんやが相手が悪すぎた。やつは売れるものなら何にも手を出す男やさけな」
そこまで話すと宗十は、再び不快そうにその名を口にした。
「そのときの海賊船の頭がカウリヨ・ランディエ、お前らが見た、禿頭の男や」
「あの野郎、海賊だったのか」
「ああ、カウリヨは海賊専門のぶったくり屋で、おれたちもぐりの倭寇商人の天敵みたいな存在やった。・・・・・この男の本業はもともとは人さらいやったらしいが、報酬次第では、どんな船の積み荷も襲う節操のない男でな。後から調べたところによるとリアズはこの男に、夷空の船の積み荷を狙わせたらしい」
「夷空を逆恨みして復讐したってわけだ。だがあいつ、よく助かったな」
「夷空を乗せた途端、カウリヨの船は嵐に巻きこまれ、呂宋沖から琉球の外れまで遭難したんや。海では何が起こるか分からん。夷空のやつもそれでどうにか命は拾ったが、そのとき何があったか、具体的なことはおれにも決して話しはせん。だが―――あの身体の傷の具合を見れば何が起こったかは話すまでもないやろ」
宗十の話ぶりだけでおぞ気が立った。漂流した船に閉じ込められ、そこには一人の味方もいない。それが、どれほどの恐怖か。あざみには想像もつかなかった。
「嵐の後、行くかたない船に閉じ込められ、飢えた男たちの凌辱に耐えて、あいつは生き延びた。地獄のような船の中で七日以上―――死ななかったのはあいつの執念や。夷空の腹の中にはエリオがおった。リアズがカウリヨを雇って自分を襲わせたと言うことを、あいつは知らなかったさけな。皮肉なことに、夷空は必死に裏切り者の、リアズとの子供を守ったんや」
あらかた話し終えると宗十は、一軒の湯屋の前に足を停めた。
「さて、ここや」
『琉球屋』の金看板を掲げた、横に細長い板葺きの二階家と、真面目くさった宗十の顔を、あざみは不思議そうに見比べた。
「ここが隠れ家?」
どう見ても妓楼にしか見えない。あざみは、怪訝そうな顔をした。琉球染めの藍の暖簾を押しのけて出てきた肌の浅黒い女たちが、本土の倭人とは違うかん高い声を上げて男たちの袖を引いてくる。
「ここで待ってりゃいいわけだな」
「ひでえ目にあって息抜きがしたかったとこだ」
高虎とガルグイユは顔に喜色を浮かべ、すでに女たちと飲み直す算段をつけている。
「ちょっと待って二人とも! そんな暇ないじゃん、宗十さんも、こんなところ連れてきて! 大体あの人たちはいいけど、わたし、こんなとこで遊んでられないよ」
いそいそ暖簾をくぐっていく二人に、あざみが非難がましい悲鳴を上げた。
「ランパに金は預けるで、お前たちは、必要なものを準備して待っていてくれ。船の調達はオレステたちに任せることにして、おれは出来る限り奴らの動きを探ってみる」
遊び気分の二人を任せると、宗十はさっさと行ってしまった。

4 偶然の再会

「て、言うかなんで今、遊ぶかな・・・・・」
昼遊びを始めた二人を置いて、あざみは虎夜太とランパを連れ、ぶつくさ言いながら街へ出た。エキドナの火薬は夷空が持っていってしまっているので、今後のためにも予備の装備が必要なのだ。
「船が出るのは夕刻ごろだっけ?」
傍らで荷担ぎするランパに、あざみは訊いた。
「ええ―――宗十サンの話では、播磨へ運ぶ兵糧の船に紛れ込むそうです」
宗易の手の者が港の監視を厳重にしていると言う。まだあざみは直接見たわけではないが、堺の街が物々しい空気になってきていることは、街を歩くと分かる気がした。
大きないくさが近づいている。中国の遠征から帰ってきた秀吉と、光秀が衝突するのだ。
本能寺の変が起きて一週間近く、緊張は再び高まって、次の臨界点に向かい、刻々と秒読みが始まっていた。
今朝、エリオをさらったのは、言うまでもなく夷空たちだろう。夷空を意に従わせるためにあえて、人質の救出を優先にしたのかも知れない。あざみの脳裏にはさっき聞いたばかりの、夷空の過去とリアズとの因縁、そしてエリオの出生の秘密とが渦巻いていた。
リアズは夷空の、女としての(さが)や生き方も含めて、そのすべてを利用し尽くして棄てたのだ。夷空は逃げずに、その業を背負った。リアズとの子供の、エリオを育てて。あの、無垢のままの少年の笑顔をそれでも必死に守り通して、生きていく人生とは、どんなものなのだろう―――
(知らなかった―――)
エリオのどこまでも自由で透明な笑み、それを見守る夷空の、普段の彼女からは、想像もつきそうにない、昼凪の海のように静かでやわらかな笑顔―――残りの人生、すべてを賭けても彼女が守ろうとしているもの。そこに、あざみには分からない無数の意味と、矛盾が含まれていたなんて―――
そして今、再びリアズは自分の運命と業に夷空の人生を巻き込んだ。この上いったい、リアズ―――そして、信長は、夷空にどんな役目を負わせる気なんだろう―――
(許せない)
考えれば考えるほど、あざみの心にも冷たいほどの怒りが湧いた。
「お前らが見たと言う以外に信長自身が現れた、言う話はまだどこからも伝わってこんが、もしあの男が生きて姿を現わせば、状況は一変するやろうな」
宗十の言い方は、あくまで慎重だった。あざみのように眼前に信長を目撃していない距離感もあるが、この時代の情報網では、飛び込んでくる情報を精査するには、ある程度の悠長さと冷やかさが必要だろう。
「あざみが見た信長が本物であるとしても、その現れる機はよほど、慎重に見なければならんやろう。考えてみい、明智光秀が表の裏切り者なら、羽柴秀吉は陰の裏切り者や。
信長が生きていたとして、それがまだ噂の域を出ないなら、噂のうちに信長を始末しようと考えるんは、当然のことやろ。おのれの汚い姦計が公に出ておらんうちなら、まだ、ごり押しに揉みつぶせる。なんにせよ」
―――宗易のやつ、死に物狂いで来るで。
はっきり言って今は、遊んでいる場合じゃないことだけは確かだ。
決して行くなと言われていたが、火薬を調達したあざみは港に出ることにした。
正午の日も傾いた港は、物々しい空気に包まれている。播磨に到着した秀吉の陣に物資を運ぶ船の荷降ろしで人足たちが右往左往していた。客船にも、多くの商売人たちが乗り込んでいる。話では、播磨に到着した軍勢は二万からまだ増え続けているのだと言う。ことに敏い商人たちの態度でも、どちらが勝ちそうかは目にも明らかだ。
あざみの目は無意識に、乗り相客たちに向いていた。播磨行きの船の客の中に、宣教師たちの姿があればふと、目を留める。リアズたちならすでに朝、堺を脱したかも知れないのに―――まだ、ここに留まらなくてはいけない自分がもどかしかった。
「あざみ、目立つなよ」
虎夜太が、あざみの袖を引いてあごを向けた。
「―――あいつら、おいらたちを探してるんじゃないのか」
あざみは視線の先を、ずらせた。見るからに人足風の柄の悪い男たちが乗り合い客を順に検めている。うかつな行動をすれば、目をつけられるのはこちらの方だった。
「忘れんなよ、あざみ。信長の顔をきちんと知ってるのはお前だけなんだからな。おいらたちの目的は、白瀬のお姐の仇を討つことなんだ。おいらだって一刻も早く播磨に行きたいんだ。今お前が捕まっちまったら・・・・・」
「分かってる―――無茶はしないよ」
あざみは言った。
「そろそろ戻りましょう。私たちの姿、意外と目立ちます。それにイスラたちを見つけたところで、今の私たちに出来ること―――何もありません」
「そうだね―――」
ランパの言うことはもっともだ。ここでねばっていて、何が出来るわけでもない。
「わたしたちも、ここで捕まるわけにはいかないし」
とは言え、あざみがここへ足を運んだのは、焦る気持ちの表れだった。朝、この街に現れたはずのリアズたち―――いや、夷空がいつ、堺を発つか、もはや播磨に入っているのか、確証がない。そもそもが秀吉のいる播磨へ渡ると言うのも、宗十の観測なのだ。
粘れるだけは粘ってみたが、あざみたちは柳町の妓楼に引き返すことにした。朝から薄く張った雲が晴れたせいか、首筋に照りつける陽射しが熱かった。
「雨は夜ですね」
空を見上げたあざみに、ランパが言った。ここは晴れているが、海の向こうの空は黒く煙っている。海の男のランパには分かるのだろう。同時に、宗十の考えも読めた。空が荒れれば船着き場の客どものいらだちが募って浮足立ち、警戒にも隙が出てくる。
洋傘を黒人の奴隷に差させた、商人(カピタン)の一行がその横をすれ違った。人数は十四、五人と言ったところだろう。積み荷を運ぶのか、中国人の苦力(クーリー)を後に従えている。あざみは顔を上げて人相を検めたが、リアズや夷空らしき人相はなかった。
「あ、旦那だ―――」
その後ろから高虎が歩いてきた。倭人離れした身の丈のせいか、異人たちの被ったつば広のソンブレイロの群れの向こうからでも、その顔がはっきりと分かった。
「よう、お前ら、港には行かないって話じゃなかったのか?」
あざみはとってつけたように微笑んだ。
「高虎さんこそ一刻も早く戦場に戻りたいんじゃなかったの?」
「遊びには飽きたんだよ。一刻も早く播磨に戻って、おれはいくさがしてえんだ」
とは言いつつも高虎が陸路を取らず、わざわざ自分たちに付き合ってくれていることをあざみは知っていた。
「―――で、どうだ? 夷空のやつはいたか」
あざみは全然だと言う風に、首を振った。
「リアズたちは播磨に行くと思う?」
「さあな。でもあの、宗十って野郎の話は間違っちゃいねえと思うぜ。さっきそこで話を拾ってみたんだが、姫路に入った後から急に中国軍の行軍が緩まったらしい。二万近い軍勢が備前から姫路までたったの一昼夜で駆け抜けたってのに、おかしな話だ。秀吉には兵庫から動けない何らかの理由があるんだろうって言うのが、宗十のやつの話だったが」
「つまりそれは、リアズたちが何かしてるってこと?」
うーん、と高虎は眉根を寄せると、難しそうに首をひねった。
「南蛮人の奴らに出来ることは思いつかないが、たぶん―――そうだろうな」
その点については、あざみも納得いく答えではなかったようだ。
「でもさ―――秀吉は自分が裏切ったことを、信長に知られてるわけでしょ。だからこそ、宗易も死に物狂いで、信長を播磨に入れまいとしてるわけで・・・・・」
「信長が播磨に戻ったってことで、今さら秀吉が言うことを聞くかってことか?」
こくりと、あざみは肯いた。
「馬鹿言え、何とかなるどころじゃないさ。もともと秀吉が任されている軍勢は、信長のものなんだ。秀吉の側近―――弟の秀長は別としても、それ以下の幹部連中はみな、織田家から直接俸禄をもらってるいわば同輩なんだ。裏切り者の罪を秀吉と連座するくらいなら、奴らは喜んで掌を返すだろうよ」
「そんなものかな」
「ああ、そんなもんさ。裏切りを画策したのが秀吉だと分かれば、信長が播磨に入った時点で、二万の軍勢はそっくり奴の手を離れちまう。そもそも信長が生きていることが分かった時点で、秀吉の奴にとっては死活問題なのさ」
立ち話をしているうちに積み荷の列が途切れ、今度は唐人の乗組員たちが後に続いた。日だまりが出来た広場は雲が掛かって、辺りは暗くなってきている。
「用事が済んだんなら、帰るぞ。宗十のやつがもう、戻ってるんだ。播磨へ行っても、夷空を探すのに何も手立てがないんじゃ仕様がねえだろ」
「そうだね。ちょうど今、戻るところだったの―――」
高虎と話しながら帰り道に歩み出したあざみは言いかけて、足を停めた。そう言えば、雨が立つのはいつぐらいになるだろう。思いなおして、何気なく港の方を振り返った。するとその傍らを、急ぎ足で中国人の通詞が駆けて行くのが見えた。
「あっ・・・・・」
見えたのは一瞬だ―――だが、分かった。その人物は、身の丈の大きさもあって男だと錯覚したが、よく見ると、着ているゆったりとした唐服は体型を隠すための少し大きめのもので、同じ色の臙脂の帽子には長い髪を編み上げて隠しこんでいる様子だった。
かすかな衣ずれの音に―――あざみは、はっとしてその姿を目で追ったが、相手も同じ予感を持ったらしく、かなり行ってからふと、こちらを振り返って見直していた。髪をひっつめたせいで、少しつり上がった幅の広い瞳―――その瞳の下の見慣れた頬の曲線まであざみの観察眼は一瞬で捉えた。
「待って―――」
彼女の唇がかすかに動いて何かを伝えようとしたが、とっさのことであざみには内容を読み取れなかった。彼女はなんと言ったのだろう? だが―――間違いない。彼女は確かに、あざみに向けて言葉を口にした。
「どうかしたのか?」
「見つけた」
―――夷空だ。
「なにをだよ。お、おい―――」
気がつくとあざみは、わき目もふらず駆けだしていた。

「待て、停まれっ、あざみ―――」
なりふり構わず、人混みを縫って走り出したあざみを、高虎たちはあわてて追いかけた。
(夷空だ)
間違いない。あれで―――間違うはずはない。今のは、確かに夷空だった。あざみがぴんと来たように夷空は雑踏の中、直感的にあざみの姿を見つけ、感じ取ったのだろう。彼女は家康を追って白瀬と京都に戻ったはずのあざみの姿を見つけて、愕いたのだ。
―――どうして。
唇の動きは、単純な愕きを表した短い言葉だった。
なぜ、戻って来たのか。
走りながら、あざみは思った。
(そんなの、自分でもわかんないよ)
何を答えたとしても、今は嘘になる気がする。ただ、戻らずにはいられなかった。夷空―――彼女があざみを救ってくれたように、理由などなかった。とにかく、彼女の力になりたかった。
明人の通詞に化けていたその女は、瞬く間に人混みに揉まれて姿を消した。
それでも目の前に群れる人や荷物を掻き分けて、あざみは奔った。
一心不乱に駆けたあざみはいつしか高虎たちから離れ、独りになっていた。
やがて、人混みは絶え、そこは荷物を運び出された後の納屋の並びだけになった。
立ち止まってあざみは、辺りを見回した。
「・・・・・・・・消えた?」
積み荷を吐き出したその場所は、生き物の死に絶えた沼のように静まり返っている。板塀の上はやや高く下地に細かい砂が撒かれ、蔵の戸は無造作に開けられていた。無人の通りには、そこから漏れ出したひんやりとした闇の気配が横たわっているだけだ。
―――いない。
再び息を切らせながら、あざみは小走りにその一つ一つを丹念に調べてみた。いちいち中へ入ってみるまでもなかった。そのどこにも人の隠れられるような場所はなかった。
足取りとともに思考も停めたあざみは茫然として、そこに立ち尽くした。
(どうして・・・・わたし、絶対に夷空を見た)
まさか、見間違いとか―――ふと、自分への疑いがあざみをよぎった。
いや、間違うはずがなかった。夷空は、わたしの前を通った。夷空は、わたしを見た。その映像があの一瞬ではっきりと焼き付いている。あれは確かに、夷空だった。
そして何より明らかなのは。彼女はあざみを見て、急に態度を変えたのだ。どうして、と、かすかに震えた唇は、あざみに問いかけるためと、予期せぬ突発事態に直面して、自分の中に生じた混乱と動揺を取り押さえるための四文字を胸に留めたままにしていた。
やはり―――夷空は、堺にいたのだ。そして、恐らくあのリアズたちも。
夷空があざみを見て逃げ出したのは、あの男にエリオを人質にされているからだろう。彼女は気づいていた。あざみとともに、そこにいた顔ぶれにも、当然―――自分の問題にあざみを巻き込むことを恐れたからこそ、夷空はあんなにも急いで逃げ出したのだろう。
「いそら・・・・・」
いつの間にか、あざみは膝を突いていた。今の一瞬で暴発した心と体の緊張が解けて、力が抜けてしまったのだ。夷空は無事だった。視界が滲み、瞳が涙で濡れたのが分かった。腰が砕けてしばらく立ち上がれそうになかった。
(よかった・・・・無事だったんだ・・・・・)
あざみの脳裏を掠めていたのは、あの、無惨な姉の死だった。通りすがった馬上から、虫けらのように。姉を斬り捨てた、信長の非道さ―――強大な力にあまりにも無力で運命に抗うことが出来なかった、自分の不甲斐なさ。無駄死に終わるかも知れない。でも二度と、あんな―――みじめな気持ちを味わいたくない。胸を膨らませて、ふーっ、と大きく、あざみは息をついた。これで確信が持てた。
夷空は―――播磨へ発つ。
(行かなくちゃ)
宗十はすでに琉球屋に戻っているはずだ。天候や時間など関係ない。危険を冒しても、こうなったら、どんな手段を使ってでも、彼女に、リアズたちに追いついてやる。
必ずあのリアズから、夷空を助け出す。
そして信長―――黒い馬に乗ったあの男に、無惨な姉の死を償わせてやる。
すでに自分の汗で濡れた拳を、あざみは握り締めた。
塀の脇から、足音が迫っていた。歩調からするとたぶん、高虎だろう。はぐれてしまっていたのだ。あざみは初めて自分が、たった一人になってしまっていることに気づいた。
「ごめん、高虎さん―――急に駆けだしたりして。夷空がいたと思ったから」
しかし曲がり角を折れてあざみが次に見たのは、見慣れた高虎の巨躯ではなかった。板塀から飛び出してきた巨大な腕が、あざみを掴み上げ、蔵の壁に押し込むように叩きつけた。二階屋から落ちたほどの衝撃が、小さなあざみの全身にほとばしった。
「ううっ」
続けて容赦なく、相手はあざみの首を絞めてくる。抗う気になれないほどの怪力だ。それでもあざみは、襟を締めあげてくるその指を噛んだ。
あざみの頭の中でがりっと音がするほど歯が喰いこんだが、男は顔色一つ変えなかった。それどころか、ますます力を加えて圧迫してくる。白くぼやけていく視界の中であざみが最後に見たのは、片腕であざみを足が浮くほど持ち上げているその男の顔だった。
(誰?・・・・・)
ぼんやりとした輪郭の中に男の顔立ちが、浮かんだ。はっきりと見えていないが、想像がそれを補える気がするのだ。まるでまっ暗闇でも自分の部屋の間取りが分かるように。
相手は、あざみの記憶にない。そのはずなのに。
それでも、どこか見覚えがあるような―――
考えているうちに、あざみの気は途絶えた。

5 リアズの非道

同じころ、播磨行きとは別に、淡路島方面に向けて南蛮人たちの船が出港していた。
瀬戸内海へ向け、博多行きの船だ。船主は南蛮人で、乗員に日本人はほとんどいなかった。通詞は中国人、その他に水先案内人と言う現地人が同乗している。
呼び水の典三(てんぞう)は、もと熊野水軍の海賊の水先案内人だった。
往来船の渡航に際しては、現地の海賊たちとの交渉があるが、特に瀬戸内の海賊たちは、行く先々の入り江や港で待ち構えており、その通行料が彼らの収入源になっているために絶対にこれを無視して通ることは出来ない。
水先案内人はこれらに話を通すための交渉人であり、入り組んだ海域を安全に航行するための文字通りの案内人で、往来船には不可欠の存在だった。彼らは出発地の顔役の紹介などで入ることが多いが、この呼び水の典三も当然、堺の顔役から派遣されている。典三の元締めはあの、熊野の丹右衛門だ。
―――どうも話がおかしい。
典三は首をひねっていた。
親方の丹右衛門が、ここ数日行方を晦ましている。典三が会おうにもその所在すら分からず、難儀していた。まだ大きなひといくさはありそうだが、他の商いと同じで港の商売も、表が物騒だからと言ってやめられるわけではない。
(どうなってんねや)
実は、典三はこの船に乗って堺までやってきたのだ。
(確か、こいつの積み荷の中身は武器弾薬やと聞いたが―――)
丹右衛門の指示で典三は、この船の積み荷の管理を任されていた。イスパニア人たちからこれを仕入れたのは、なんでも堺の会合衆直々のお達しだったはずだ。
―――なんや、今におおきないくさが来るかも知れんで。
丹右衛門は得意げに何かを仄めかしていたがそのときの典三には、よく分からなかった。典三は本能寺の変の話を、堺港に着いて初めて聞かされた。それが六月三日のことだ。
今から織田家の内乱が始まる。この弾薬は、そのことを見越していたのだろう。典三は小躍りした。この武器が会合衆によってどう使われるかは分からないが、信長の死で、かつて大坂の海で煮え湯を飲まされた織田家が確実に滅茶苦茶になるのだ。
典三は丹右衛門の連絡を待ち、船を港に停泊させたまま、何か指示があるのを待っていた。だがそれから、丹右衛門とはまったく連絡が取れずに今日まで来た。典三なりに努力はしたが、心辺りをいくら探しても姿がなかった。
そしてついに今日になって、船は積み荷ごと別の土地に転売される運びになってしまった。典三は、ここで降りるべきだったが船の主がそのまま着いてこいと言うので、次の到着地までの案内を引き受けることになった。
乗員のうち、もといた通詞がいなくなって新たに雇い入れることになったのも、典三の気に喰わなかったことのひとつだった。その通詞は唐人のようだったが、ひどく無愛想で無口なうつむき加減の男で時間には遅れてやってくるし、どことなく不気味で不審な印象が拭えなかったからだ。
出港前後から、典三は男の様子をそれとなく探っていた。背丈の大きい割に、細い身体つきをしているその男は、足音を立てずに船の中を歩き回り、積み荷を検めていた。よほど声をかけようと思ったが、この中でも典三は部外者だ。船が出てからしばらくは、見守るしか手がなかった。
まったく何もかもが、気に喰わないことばかりだ。男の怪しさをあれこれ勘ぐるうちに、典三は、突然現れたこの通詞が、典三が疑問に思っている一連の出来事について何か関わっているのではないかと思わずにはいられなくなってきた。
(なんでこの船・・・・いくさが始まる前に港を離れねばならんのや―――)
典三が物陰でうかがうと、男は甲板にのぼり、船尾のへりの辺りに陣取って何かしている。箱舟の形をした和船と違い、遠洋航海をする南蛮船には、板張りの甲板が張ってありマストや船室の陰で人目につかない場所も多かった。
通詞の唐人は船員との接触も避け、何もかもがこそこそしていたが、それは出港前に甲板から吊るしておいた荷物を引き上げるためのようだった。長く重たい革の包みを、甲板に引き入れ中身を解くと、男は無駄のない手際でそれらを組み立て始めた。
「あっ」
―――銃を持っておったのか。
典三が叫ぶ間もなく、男は用意してきた箱から火薬を取り出すと筒のようなものを空に向けて火薬煙を放った。凪の海を轟音がつんざき、空気の震動で典三は突き転ばされたようにたたらを踏んだ。
「おのれ、なにしやがんねや―――」
典三が怒鳴り声を上げると同時に、悲鳴が上がった―――背後からだ。
何時の間に。どこから出て来たのか、見たこともない乗員が船を占拠している。典三は、愕然とした。なんだこいつら何時の間に―――そうだ。やつらは、積み荷に隠れていたのだ。それがあの男が持ち込んだ、鉄砲の合図で一斉に蜂起したのか。
かちん。すぐ背後で火ぶたを持ち上げる硬い音がして、典三は目を剥いた。
(まさか―――)
通詞の男は、帽子を取り、中に隠した髪を腰まで垂らしている。長いまつげに縁取られた二つの瞳が、じっと典三を見詰めていた。
「お前、男やないな。化けておったんか」
口元だけで小さく、女は微笑んだ。疑うまでもなく、顔立ちからして女性だった。女は男装して中へ潜り込んでいたのだ。
女が両手でこちらに向けて構えているのは、銀色の蛇女が彫りこまれた大筒だった。
「こちらに背を向けてひざまずけ。両手を、頭の上に乗せるんだ」

「なかなか手際がいいな。話だと海賊からは足を洗った、と聞いたが?」
リアズ・ディアスは、上機嫌で夷空に言った。武器を携えない宣教師は、時間に合わせて小舟でやってきた。武器弾薬を積んだ南蛮船は幾艘もの小舟に拿捕され、鉤縄で固定された船体には、身軽で野蛮なカウリヨ率いる海賊たちが入り込んでいる。
「奪った武器は海に残らず棄てるぞ! 全部だ」
カウリヨは積み荷を甲板で検め、生臭い唾を地面に吐いた。
「黄色い猿どもに一泡吹かせてやれそうだ。リアズ、あんたの思った通り、堺の千宗易はこの国の内乱に大分物騒な見通しを持っていたみたいだな―――」
「この武器弾薬は播磨に運ばれるべきものだ」
違うか? と言うようにリアズは両手を振り上げた。
「この船の積み荷を事前に発注しておくということは当然、宗易は今の状況を的確に予想していた、と言うことになる。取引の相手は秀吉だ。つまりそのこと一つだけで、羽柴秀吉と千宗易が、信長公に対して重大な背反を犯したということの揺るがぬ裏付けになるわけだ」
傍らで上得意のリアズを一瞥して、夷空は首を傾げた。
「だろうな。だが、だからどうした? やつらは信長の死のあとに来るいくさを当然予想していたし、この船以外にも積み荷は堺に運びこまれていただろう。そんなことはとっくに、やつらは折り込み済みのはずだ」
登ってきたカウリヨが揶揄するように夷空を見て、
「まあ、予想はついていただろうな。例えば、誰かがしくじるとか」
夷空は鼻を鳴らした。
「それでも王を孤立させることには成功した。孤軍になって信長公は事実上、死んだんだ。それを真実にするか、ただの誤報にしてしまうのか、我々が秀吉の陣に入ることが出来るかによって決まるわけさ―――その前になりふり構わず、信長公を始末したい。やつらが今考えているのは、たぶん、そんなところだ。さて、では、我々はなにを為すべきだろう?」
リアズは思わせぶりに夷空の顔を覗いたが、彼女は視線を反らして答えなかった。
「言っておくが、君にも関係のある話だぞ、イスラ―――君があのまま宗易の言うがままにしていたら、堺に着いた時点で君は拘束され、体よく闇に葬られていただろう。君の仲間たちやエリオも同様だ」
しぶしぶ夷空は、リアズに答えた。
「私たちが今すべきなのは、播磨の陣を乗っ取ること。それが何よりも先決だ。それにはまず、足元から―――信長が死んだという『事実』を覆していく以外にない」
まるで熱心な信者との問答に満足したように、リアズは夷空の出した答えに、満足げに肯くと、
「そうだ―――伏せたタロットを、また裏返すように一つ一つ、運命を粛々と逆戻りさせていく。時間との勝負だが、じっくりだ。すでに、いくつか布石は打ってある。もう何度も言ったと思うがその最後の切り札の一つが―――イスラ、君だ」
幼児を根気よく教育する眼差しで、リアズは夷空を見つめた。それにしても、果たしてその迷いのなさはどこから来るのか、と夷空は思った。
もし、この男が決定的に間違っていると、理性で判断したとしても、それに抗いえないのではないかと危惧させるような、不思議な輝きがその瞳には宿っている。その正体が何か、夷空にすらそれが未だに掴みきれない。
「さて準備が出来たぜ」
カウリヨが唐突に言った。
夷空はカウリヨが指さした左舷の端を見た。そこに、船長以下乗組員たちが一列に並ばされている。全員が両手首が前で拘束され、一本の荒縄につながれていた。そして先にはカウリヨたちが甲板に運び出した大量の武器弾薬の積み荷が括りつけられている。
「こいつはいい重石だ」
カウリヨが箱を叩いて乾いた笑い声を立てると、重石の端につながれている典三が取り乱して叫んだ。
「お、おい―――おれらをどうする気や?」
「彼に伝えてもいいが、理解してもらえるだろうか?」
倭人がいることに気づいたリアズは大仰に眉をひそめて夷空に耳打ちすると、
「私たちは今空になった船を手に入れた。そして、これから、別の島で積み荷を替えてこの船で播磨に上陸するんだ。これは誰にも気づかれてもいけないし、少しの無駄なくやらなくてはならない。そこで、問題があるんだが―――余分な乗員を陸に降ろしている暇がないんだ」
カウリヨは忍び笑いをしながら口をふさぐ仕草をし、リアズと微笑を交わした。リアズたちの言葉の意図に気づいたのか、夷空は目を見張った。そのうちに目の前で行き止まりになったと判った自分たちの運命を呪って、つながれた船員たちが騒ぎ始める。
カウリヨは三人がかりで重石を抱えあげた部下に向かって、大声で命令した。
「海に重石を落とせ」

6 エリオを護って

小さな船室では、エリオが待っていた。戻ってきた夷空は少年を抱くと、そのまま腰を下ろして大きく息をついた。
まぶたの裏で再び白い泡が立っていた。ついさっき目の前で起こった悪夢の断片。飛沫を撥ね上げて、重石の積み荷が沈んでいく。海底深くに沈んでいった男たちの悲鳴が、まだ耳にはっきりと残っていた。
やはりだ。あの男は何も変わっていないのだ。
リアズ・ディアスに迷いなど、もともと無かった。彼が耳を傾けるのは、彼が信じる神のみだ。しかもその声は、他の宣教師たちが信じる神の声とは違う。彼自身の中にしかない神の声なのだ。
ぎらぎらと輝く、瞳は狂信者のもの。自分がそう思ったもの以外は目もくれず、邪魔をするものは、どれほどの時間と手間をかけても完全に葬ろうと言う偏執的な情熱に満ちた目だ。
(同じだった。あの男と―――信長と)
全身にわだかまる重たい不安を、夷空はえづきとともに飲み下す。
あの船に乗る、数刻ほど前だ。
そのリアズと、気味が悪いくらい同じ目をした男をもう一人、夷空は五日ぶりに見た。

「お前があのときの―――そうか」
そう言って、信長は怪我をした自分の左肘を叩いて見せた。そこは厳重に包帯が巻かれているが、指が動かせないほどではなく、その掌に無造作にエキドナの銃身を乗せている。やはりこの男は、業火の本能寺から逃げおおせていたのだ。何かに取り憑かれたように、輝く瞳がかすかに潤んで、夷空を見つめていた。自分を撃った銃にその狙撃者。憎悪に目を血走らせると言うよりは、珍しい見ものだと言うように、信長は彼女を見ていた。日本最大の支配者はその二つをおのが手に収集することが出来て、まず満足そうだった。
「なかなかいい」
信長がエキドナを構える姿は不気味なほどしっくり来ていた。
「これで余を撃ったか」
「ああ、あと一発であんたを仕留められた」
「ほう、確かに―――よう出来ておるでや」
夷空にあと一発で殺せたと言われても信長は、眉ひとつ動かさなかった。
「お前の望みを聞こう」
銃を構えながら、信長は聞いてきた。
それは今日の風向きを聞くような、なにげなさだった。
「望み?」
そうでや―――信長の声は甲高いが、適度に抑制の利いた張りのある音色だった。
「お前の望みを言え、と余は言うた。今さら説明する気もないが、お前との話はすでに、新しい局面にある。お前がこれで、余を撃ったことは過ぎたことでや。過ぎたることに余は関心を持たぬ。見ての通り今、余はお前の腕を利用できる状況にある。あとお前を働かせるのに必要なのは、お前が望むものを知ること―――それだけだで」
そうじゃないか? と言うように信長は夷空を見ると首を傾げる。
「一つには絞れない」
しばらく考えたのち、夷空が正直に言うと、
「一つとは言ってない。余がお前に望むように―――お前も余に望むことがある。今、余がお前について知りたいことはそれだけだ。絞れないならまず、一つ望め。それがお前を動かすために、余が望むことだ」
「―――息子の命を助けてほしい」
「ほう」
手慣れた仕草で銃弾と火薬を詰めると、信長は火ぶたを持ち上げる。そこに火縄を手挟んだが滑らかで遅滞がなかった。その素早さに夷空は目を見張った。肘を負傷しているにも関わらず、エキドナが発射準備に入るまでの支度の時間は、夷空とそれほど変わらなかったからだ。
「で? お前の子は、どこにいる」
「千宗易に捕まっている。どこだかは分からない。堺屋敷だと思うが―――私は、宗易に脅されて、あんたを撃つ羽目になったんだ」
火縄がくすぶっている。信長はゆっくりと銃身を持ち上げた。
わずかに上体も持ち上げ、狙撃の姿勢に入る。肉食のエキドナの牙口が、夷空の眼前に迫っていた。信長が引き金を絞れば、そのまま、夷空の顔は吹き飛んでいただろう―――
夷空は息を呑んだ。
「それでは撃てない。肘を張って肩に乗せろ。そのまま撃てば、銃身が暴れる」
泥の塊を飲み込んだような沈黙―――やがて、夷空は、言った。信長の構えを素振りで訂正したが、手が震えていないか、自分でも自信がなかった。
「ほう」
信長は素直に肯くと、同じように構えを訂正した。和製の銃と異なる構え方にやや違和感がしたが、もともと勘がいい信長の構えは不思議とすぐに安定する。銃の扱いといい、知識といい、信長ほど熟練した大名は他にいない。
「悪くない。肩で構えれば和銃と違い、発射のとき銃身のぶれを容易に御しやすい。頬で銃身を抑え撃つのには、なにしろ熟練が要るのだわ。四匁程度の弾なら良いが、強薬を使った大筒を撃つときには含み綿でもせねば、衝撃で舌を噛みかねんからな」
信長はゆっくりと巣口を夷空に向けたが、のけとは言わなかった。夷空はその場を動けず銃口にさらされている。そうさせない殺気が、信長にはあったのだ。
「ここで死ぬか?」
そのとき、じろりと瞳を上げて夷空を睨んだ。
「私はそれで、あんたを撃った。私が武器を渡したら、次は、逆に、あんたから同じ目に合わされないとは思ってない」
「ほう」
切れ長の目を細めて、信長は笑った。
「ここで死ねるか」
信長が力を込めて引き金を落とすと、エキドナが巣口から火を噴いた。灼熱の飛沫が降りかかる感触を残して、弾丸は夷空の頬を掠めて、乾いた余韻を残して空を掃いた。
外した―――信長の真意は分かっていた。試したのだ。それが分かっていてなお、夷空はあの瞬間、信長に射殺されることを覚悟した。また、それなら、それでもいいと思った。エリオのことがなければ―――心が揺れた。撃て、と、そう言った瞬間死にたくないとも思った。助かる目算があって、今の言動を選択したわけではない。また、それがあれば、殺されていただろう。あえて虚勢を張る。その裏にある、夷空の葛藤を―――覚悟を、信長は、試したのだから。
夷空にエキドナを返すと、信長は言った。
「余につけば、七日のうちに解放を約しよう。お前と、お前の子。救うのは一度だけだ」
夷空は黙って肯いた。こちらを見詰める信長の顔をまともに見た。
―――あのときと同じ。
その瞳が感動の色で潤んだのは、エキドナの本来の構え方を知ったときだけだった。それ以外のとき、信長の瞳はいかなる場合も、白く乾いていた。

―――では、すぐに息子に逢わせてやろう。手を貸してやれ。
信長は気前よく、そう言った。まるでそのことが今のことの褒美だと言いたげな口調だった。

「よくやったな」
薄いまどろみの中、エリオの寝息を聞いていると、唐突にリアズの声がした。夷空が顔を上げると、信長と同じ目をした、リアズ・ディアスがそこに立っている。
「正直、心配してた。なにしろ、あの王は地獄の蛇より執念深い」
ここで笑うところだ、と言うようにリアズは唇を綻ばせた。夷空は、何も応えなかった。代わりに、リアズから視線を落としてエリオの髪に顔を埋める。そう言えば昨日から一睡もしていなかった。
「憎まれ口を利くのも、疲れ果てたか?」
夷空は目を閉じ、静かにかぶりを振った。
「私とは今、話したくないみたいだな」
夷空は黙ってリアズを睨みつけると、また同じように面を伏せた。
「なあ、この際だ。言ってもいいか?」
リアズは言って、小さく肩をすぼめた。
「イスラ、君こそ―――いつまで海のこそ泥のような仕事を続ける気なんだ? 私から言わせれば、君の行動こそ矛盾だらけだ。そもそも―――」
「どうして今、お前とその話をしなくちゃならない?」
夷空は遮るとうんざりだと言うように、ため息をついた。
「今でも、君は私のものだ。そう、信じている。だがエリオはもう、君だけのものだ。私に会いたくなければこの国に戻る必要などなかったんじゃないのか?」
「詭弁だ」
「君が私に、息子を連れて会いたいと決意した時から、覚悟はしてたはずだ」
「覚悟はしたさ。この国に来た時から。どこでお前が野垂れ死んでるだろうかとな」
リアズは、どこか、嬉しそうに片頬を歪めた。まるで自分が野垂れ死んでいたら―――そのことが事実なら、今のは最上のジョークになっただろうと言うように。
「つまりは、私の身を案じてくれたんだろ、君はここへ戻るべき人間だったんだ」
リアズが夷空の髪に伸ばした手を、彼女は、拒みはしなかった―――傷だらけの大きなその手がなぞるように夷空の火薬すすだらけの頬を滑った。
「この国を動かすのに、あの男はまだまだ必要な存在だ。君に撃たれて死なずに、本当に良かった」
「それもいつまでのことだろうな。あの男は事が成ったら、掌を翻すだろう。私を生かしておくわけがない」
「交渉の余地はいくらでもある」
慈愛に満ちた眼差しでリアズが微笑み、夷空は黙って、顔を背けた。どうして戻った?―――もちろん、息子の命のためだがこの疑問は、まだ彼女の心の底に澱のようにわだかまっていた。この男の言葉の空虚さを、誰よりも分かっているはずなのに、従わざるを得ない自分が嫌だった。
「君はまだ―――心のどこかで私を信じてくれている。そのことを、私は知っている」
唐突にリアズが言った。夷空の頬の輪郭を落ちて、その手は首に下げられた十字架にいっている。歯型のついた純金製のロザリオを、リアズは乾いた瞳で眺めた。
「魂はそこに出して見せることの出来ないものだが、私たちの魂が、まだ繋がっている―――君が首に架けているこれは何よりの証になるんじゃないのか?」
リアズの指の色が、よく磨きこまれた金色の十字架に混じっている。リアズの傷ついた手は、ひな鳥を慈しむように、そっとそれを包みこんでいた―――幼い歯型のついた、小さな十字架を。リアズは言った。
「憶えているだろ? あの娘を―――この十字架の本当の主を見つけた時のことを」
「いい加減にしろ」
叩きつけるように、夷空は言った。だが語気の強さはそのまま、自分に対してそのことを言い聞かせるためのような困惑と弱気を表しているように見えた。対して、子供を寝かしつける口調で話すリアズはあくまで静かに夷空に語りかけ続けた。
「私はいつでも君を愛している。変わったのは君だ。だからゆっくりと私に戻ればいい」
「ふざけるな」
「この計画が上手く運べば、一生この国で暮らせる。君の祖国だ。三人で―――」
眠っているエリオの髪にゆっくりと伸ばしかけたリアズの手を、夷空は乱暴に振り払った。憎悪に満ちた目で、夷空は彼を睨んだ。
「次に無断でエリオに触れたら、その場でお前を殺してやる」
「殺す?」
君がか? 意外だと言うように、ことさらわざとらしくリアズは目を丸くした。殺気に満ちた夷空の言葉だったが、リアズは、手なれた飼育員のように檻の中の猛獣の扱い以上にそれを恐れる様子を見せはしなかった。
「お互いに、時間をかけよう。今、私たちが失ったものにはそれだけの価値がある」
リアズは薄く微笑むと、音もなく立ち上がった。
「あの男とのことは、任せてくれ。決してむやみに君を殺させたりなんかしないから」
「むやみに? まだ必要ならってことか?」
リアズの答えはなかった。
足音も立てずに、ただその場を去って行った。

(分かってる)
むやみに殺さない、と言うことは、必要ならばどんな犠牲をも辞さない、と言う言葉の裏返しなのだ。今のやり取りも、ただの利害関係の確認に過ぎない。知っていた。彼に対しては人間が持ついかなる慈悲も通用しはしないのに。
リアズに会っても、やはり無駄なのだ。だがそんなことはこの国に来る前から、分かっていたはずのことだ。
(私は、もう、分かっていたんだ―――エリオを父親の、リアズの元へ連れていくことなど、無意味だと言うことに。リアズを憎んでもいた。エリオをあの男に会わせる、そのことだけが復讐のようにも思えていた)
だが、それは一方でエリオにとっては、彼を傷つけるだけの結果しか与えないことも分かっていたのだ。
(それなら、そもそも私は、この国に来ることで、一体なにを望んでいたのだろう?)
リアズに?―――それとも、この国にか?
いくら考えても、気持が錯綜するだけでその答えなど出そうになかった。
答えだって?
そこには初めから何も意味などなかった。それはただ夷空の心を激しく押し揺らすだけのもので、進路も分からないまま、吹き荒れる嵐の中に飛び込んだだけの行為となんら変わらなかった。
嵐に意味などを求めたら、荒れる甲板の上で船乗りが出来るのは、どうして嵐など来るのだと、頭を抱えてへたりこむことぐらいなのだ。
私から言わせれば、君の行動は矛盾だらけだ。
リアズの言葉が頭の中で反響していた。
そもそも――――私に会いたくなければこの国に戻る必要はあったのか?
リアズの去った部屋で夷空はじっと、座りこんでいた。
大きく息をつくと、やがて薄く、瞳を閉じた。
腕に包んだエリオのことだけを、眠りながら考えていた。

7 三河の太守

「あざみが夷空を見た?」
宗十は目を剥いて、声を上げた。
「ここでか?」
高虎は首を振った。
「いや、違う。波止場で見たのさ。それであいつはここまで奔って来たんだ。それから―――消えた」
「消えたやと?」
それは、あざみが何者かに連れ去られて―――間もなくのことだ。
高虎たちはあざみが消えた倉庫の路地に、宗十たちを呼んだ。高虎たちが説明する経緯によると、あざみの姿は、ここで、跡形もなく消えたのだ。彼女が何者かにさらわれたことを明らかにするのは、砂地に残された異常なほど大きな草鞋の跡だけだった。それは両足の歩幅から考えても、並みの大きさではない背丈の人間のつけたもののようだった。
「今、虎夜太が跡を追ってる。まだ遠くには行ってないはずだ。この足跡もあいつが見っけたんだ。どうやってあざみを運んだにしても、その上背じゃ往来に出りゃ相当目立つだろうとよ」
「リアズたちに捕まったのか、それとも別の誰かか・・・・・」
宗十が口に出した言葉に何とも言えず、高虎は顔をしかめた。
「いずれにしても、まだ陸地にいることを祈るしかねえな」
「ところでこいつはあんたのだってオチはねえだろうな」
固く地固めしたその場所に残った、大きな足跡を怪訝そうに見降ろして、ガルグイユは口先を尖らせた。
「馬鹿言え、そいつがおれののわけあるか」
高虎は右足を上げて裏を見せた。彼が履いていたのは、琉球屋で借りた高下駄だ。
「あと、一刻ほどしか猶予はないぞ。おれらも、日暮れ前の最後の船で出んと―――播磨へ行く船は、また明日やさけな」
「おれは構わんが―――あざみを置いていくわけには行かねえだろ」
そこにいる誰もが事態への切迫感を察して表情を暗くした。
「なあ、あざみはもう船に乗せられてるんじゃないのか? 見間違いか、本当なのかは知らねえが、あいつは波止場でパトロンを追いかけて消えちまったんだろ? リアズたちにさらわれたとすりゃ、こんなところでぐずぐずしてるだけ時間の無駄だぜ」
「あの馬鹿でかい足跡は草鞋だぞ。南蛮人のものには見えねえが」
高虎は腕を組むと顔をしかめた。確かにこの男の言うことにも一理あった。
「実はお前らがおらん間、堺で宗易の他にも裏で活動している何者かがいる、と話は訊いてた。どうやらそいつらの手に掛かって、宗易の屋敷のものが殺されたり、行方が分からなくなっておる、と言う話やったが―――」
「そいつらは何者なんだ?」
答えもなく、宗十はかぶりを振った。
「おれにもよう分からん。実はおれも、堺で活動してる間、何度かつけ狙われたことがあってな。どうやらおれらの他にも、宗易が今度のことの絵図を描いていることに、勘付いたものがおるらしい。これはあくまで噂なんやが―――あの男がまだ、堺に留まっている可能性がある、と、そんな胡散臭い話もあってな」
「ある男だ?」
「それが―――あまり信じたくないことなんやが」
宗十は顔色を鈍くすると、その名を口にした。
「あの、徳川家康らしい」

その頃、あざみは自分が袋の中に詰められて担ぎあげられていることに気がついていた。あれからどれだけの時間が経ったのか―――落ちていたのはものの数分程度だが、相手はそのうちに彼女の身体を頭陀袋の中に仕舞いこんで持ち運び出したらしい。
米俵を担ぐように、その男はあざみの入った袋を軽々と運び上げている。大屋根を支える梁のような、太い木材の上に乗っている安定感が、あざみを支えている。恐らくその鍛え上げられた骨格は、唐橋の欄干よりも太く、がっしりとしていて、袋の中のあざみがいくら身動きしようと、微塵も揺るぎもしない。
(一体何者なのだろう?)
気絶する以前に見た印象では日本の武士で、リアズたちの一味には、思えなかった。あの一瞬のあざみの記憶の中にあったのは、男がつけていた土埃の斑点まみれの色合いの草摺り袴と、同じように武骨な柄巻で拵えた豪壮な野太刀―――さらには真正面から見据えたときの、おぼろげな顔かたち、雰囲気、そして、たたずまいだ。
―――わたしは、この男の顔を見たことがある?
あざみは首を振った。
いや、違う。顔、と言うほどのしっかりした記憶はない。それは、印象と言うか―――幼い頃の記憶の断片でしかないのだが、あざみの奥底にはその何かが、はっきりとした形で植えつけられていた。
それは途方もなく昔の記憶の彼岸―――
そう、あの土砂降りの晩。いや、違う。だが、その付近だ―――あのとき。
あざみには男たちに家を引きずり出されて遠くまで連れて行かれた。あの夢を今も時折、見ることがあるが―――あれほど、強烈で鮮明な記憶ですら、よく考えてみると断片的な印象の連続でしかない。ことの経緯や繋がりともなると、さっぱりなのだ。後で姉から聞いた記憶への補足や、他人の話から類推したことが唯一の頼りだ。
だがそれでも、短い印象の中でこの男の面影を、あざみは見た気がするのだ。
(何者だろう? それにどうしてわたしの身柄を―――)
ふと突然あざみの身体がぐらりと左右に揺れ、袋ごとどこかに放り出された。やはり、人を扱うとも思えぬ乱暴な落とし方だ―――落下の衝撃でうめき声を立てながらあざみは自分が袋の外に放り出されたことを知った。目を開けて見回すとそこはどこかの神社の境内のようだった。
「立て」
泥まみれの草鞋を履いた足がそこにあった。あざみが顔を上げると、はるか頭上にここまで彼女を担ぎあげてきた顔が見えた。体格に見合った俵型の大きな顔だった。
色白のせいで、ふっくらとした印象のあごはなだらかな線だが、猛禽類のように縦びらきした瞳は澄んで、無表情に見下ろしている。余計な先入観は抜きで第一印象は武士と言うよりも、猟師、と言うのがあざみの感想だった。わたしはこの男を知っているのに、とあざみは思った。だが、同時に訝りもした―――風貌にその印象がないのはどう言うわけなのだろう?
「宗易の手下―――この小娘が、確かに、そうか?」
どこかで別の声が上がった。痛みをおして、あざみは立ち上がるとその声の方角に目を凝らした。
そこにいたのはもう一人、小太りの赤ら顔の中年男だった。
「大丈夫なのか」
こんな小娘に何が判る―――その男の口調はそう言いたげだった。
「調べに間違いがあるとは思えませぬ。京都の本能寺が燃え落ちたとき、寺から鉄砲放ちの狙撃者を手引きして抜け出させたのは、まさしくこの小娘」
太い声で男は言った。
フクロウのような瞳がくるくる動いて、あざみを見据えた。
「ほう、本当か?」
あざみはそれには応えなかった。それよりも、自分の記憶の中にあるはずの、背後の男の顔をもう一度眺めて、思いをめぐらせた。
「あなたたちは何者? 見たところ、宗易の手下やリアズの仲間でもなさそうだけど」
「殿の下問に答えることだ」
背後の男は眉をひそめて、柄に手をかけた。この程度の脅しには慣れている―――あざみは動じる気配もなく、目の前の男を見つめ続けた。しばらく、沈黙があった。
「もうよい。私はお前と少し話がしたいだけだ。名を知らねば話しにくいなら、別に、それでも構わん」
フクロウ男は苦笑すると、
「だがまず、お前の名を聞いておかねばな。名乗れ」
「あざみ」
彼女は答えた。
二人ともその名には反応しなかった。
「後ろの男は平八郎と言う。私の名は、あまり、おおっぴらに明かしたくないが―――三河の主、と言えば分かるだろう」
「―――徳川家康」
「ああ、そう呼ぶものもいるにはいる。東海道にしぶとく居座る古鯰よ」
あざみは息を呑んだ。姉が追っていた三河の太守が、まさか堺にいるとは―――
「愕いた様子はないようだな」
徳川家康はため息を噛み殺しながら、言葉をついだ。
「あの六月二日から、私はずっとこの堺に隠れていた。傍観しておったのさ、おのれの目の前で一体なにが起きようとしているのか。あの宗易なる商人めが、これほど大胆な野望を思い描いているとは思わなんだが。まさか―――狙いは、あの信長自身とはな」
「狙いはあんたじゃなく?」
恐る恐る、あざみは訊いてみた。家康は片頬に苦笑を滲ませ、
「ああ、最初は、私への罠だと思った。三河へ招待した返礼に我が安土へ―――と、ただ何もなくあの男、信長が言うとは思えんでな。それなりの覚悟も決めてきた。信長とは、いかにしても喰えぬ男。本能寺はああなったが宗易風情が狙い殺そうとて、ことがそう上手く運ぶとはどうしても思えんのよ」
「あんたの言うとおりだよ。信長は死んでない。直接狙い撃った本人が言うんだから間違いはない」
「ほう」
ふくろうのような目を丸くした家康はかすかに肩をすくめた。
「お前が本能寺で見た後もか?」
「それどころかつい、少し前にもね」
自分がどんな表情をしているかついに判らずに、あざみは答えた。
「わたしは、姉をその場であの男に斬り殺された。ほんの一瞬の出来事だった。それからあの男はわたしの仲間を去って堺に去った」
「ほう、ではそれで、宗易めが躍起になったか。道理でわしには目は向かんわけだ」
「今、あんたの命を狙ってるやつが知りたければ他にも、それはいる」
あざみは言った。
「姉は―――姉は、あんたの命を仇と狙っていたんだ」
「仇、か―――言われて慣れる言葉ではないが、覚えならばいくつかはある」
「あんたは忘れているだろうけど、七年も前のことだ」
「悪いな。残念だが、お前の顔を見ても、何も思い出すことがない」
「わたしもね。あんたの顔を見て思い出すことはなかった。でも姉があんたを殺したがっていた」
あざみは言うと、思案顔で腕を組んでいる家康を睨み上げた。
「恨みもまた、人の縁よ。小娘、お前のような下郎とも、私と縁があるものだな。だが、今のお前に何が出来るとも思えんが、な」
「かもね」
あざみには、十分分かっていた。家康の余裕は、相手が無腰の小娘に過ぎないとみているからだ。それに、背後にいる平八郎―――この男もかなりの遣い手で、うかつな動きは禁物だが、不意を突けばその刃を逃れる術はなくはない。ようは今、無力な小娘でいて、相手の油断をもっと誘うことだ。
「殿サン、この小娘―――」
平八郎は柄に手をやりながら、片時もあざみの動きから目を離してはいない。あれは、まぎれもない猟師の眼だ。優れた猟師は停まっている獣からも、その動く姿を想像して、そちらを見ている。だからこそ、相手が動く生き物なのに狙い過たず、急所を一撃することが出来るのだ。
「斬るか―――斬られるのは、怖くないか小娘」
「怖いよ。でも、そんなの―――どんなときだって、そうだった」
脅ししているつもりか―――あざみにはむしろ、それが可笑しかった。自分は二度も信長に殺されそうになったことがある。あの本物の殺意を、かいくぐった経験がある。確かに怖いが、殺されてしまうかも知れないことなど、怖くはない。想像もしない。そう思わなければ、本当に殺されてしまう。上手くいくかいかないかなど、時の運に過ぎない。背後の男の剣が神がかりの達人のものだって、斬れないときは斬れない。
「斬れ」
家康が言った。
その刹那だ。
「あざみっ、伏せろ!」
虎夜太の声にすべてを察し、あざみはやや斜め前に飛び込むと、両手で後頭部を庇う形をとった。小型手投げ弾が爆発する連続音がそれに続いたのが、それからすぐだ。火の粉をまともにかぶって火傷を負ったのか、腕の肉でも吹き飛ばされたか―――煙幕と爆風に紛れて、さっきまでの局面がどう変化したのか分からないが、背後にあった平八郎の刃は回避できた。
「こっちだ。早くしろっ」
虎夜太の声だ。爆弾がさく裂する真っ只中にいたせいか、音の高低が波打って聞こえる。両手を突いて立って、声のする方向にあざみは走った。平八郎のいただろう位置からは外れ、ともかくも、この場所を通り過ぎたかった。見たところ、連れて来られたのはどこぞの神社の境内のようだが、恐らくは堺を出ていないだろう。
「いつから気づいてた?」
虎夜太は訊いた。
「ずっと。足音も聞こえたし、火薬の匂いも焼ける匂いもちゃんと匂ってた」
「お前―――なんともないかよ」
虎夜太の身体に抱きすくめられた。少年の身体は、自分と同じように骨ばって貧弱なばかりで硬い感触がする。
「大丈夫。でもよく、尾行してきたね」
「足跡をつけるのはあざみよりおいらのが慣れてる。誰に浚われたかは、分かってる。でも、ともかくまずはこの場を離れるんだ」
「ここは?」
あざみは訊いた。
「住吉神社の領内だ。港で捕まって、お前はそのまま連れて来られたんだよ。話じゃ、あいつらも宗易の手の者に追われて、命が危ないみたいじゃないか」
いい気味だ、と言うように虎夜太は言った。
家康の情報については、姉がよく知っていたが、虎夜太も同じだろう。彼らは例えば、家康が本能寺の変を聞いてすぐに伊賀の険しい山道を越えて、あわてて領国へ逃げ帰ったなどと言う虚言を信じてはいないのだ。もしくは、京都で明智方の兵に囚われて惨殺された一件―――あれは家康ではなかったのだが、ともかくこの畿内から家康の情報は消えていた。信長の生死の如何や、京都内外の諸大名の動きに囚われ、埒がいとして、誰もが顧みることはなかったのだ。
「武器はまだ持ってる?」
神社の出口、杉の小路を走りながら、あざみは虎夜太に尋ねた。あざみが持っているのは、ほとんどが火器だった。手投げ弾は着火に時間が掛かる上、命中してもその精度が低い。さっきのようにとっさの場合、逃げるような役にしか立たないのだ。
「―――小娘」
不気味なあの声で呼ばわれて、あざみは初めておぞ気が立った。あの平八郎と言う男の声だ。見るとその男がすでに、あざみたちが走り抜こうとする小路の前方に立ちはだかっているのだ。
「さがれ、あざみ」
虎夜太は懐に手をやると、足を停めた。これ以上先に行くと、斬られる。平八郎の一足一刀の間合いをきちんと計っている。
「小娘の仲間か」
平八郎は言った。この男の言い方はなぜか、ごく淡々としていた。
「殿サンには斬れ、と言われている。小娘の仲間なら、みな、斬るしかないな」
平八郎は右手に剣を下げているだけの無構えだ。垂れた切っ先が、少し広げた自分の足先の真上辺りに、ぶらさがっている。つまり、驚くことに剣ほど重たいものを握っていて、そこにほとんど無駄な力は入っていないのだ。
―――あれが自在に動く。
野生の勘だけで鍛えた戦場剣法の恐ろしいところだ。
とくに格好をつけなくても虎夜太が次にどう動いても、斬って捨てる準備が出来ている。
「平八郎はいくさ神の申し子のごとき男よ」
家康の声がした。
この男もいつの間にか、平八郎の後ろに立っていた。
「この男の傍におれば、毛ほどの瑕疵も負うこともない。先のような小細工も、無駄になったな。先に言っておくが、これはお前らが招いた結果だ―――無惨なことよ。結局、私たちはあたら若いお前らの命を摘み取らねばならぬのだから」
自分では俵型の体型になってきた肩を揺るがし、家康は言った。
「楽に死にたくば、無駄な抵抗はやめることだ。お前らでも訊いたことぐらいはあるだろう。この男が私に過ぎたるものと言われたことを」

8 平八郎の実力

――――本多平八郎忠勝。
三河の家康にはもったいない、と言われるものは、いくつもあるがこの男は別格だ。
目の前にいる本多平八郎忠勝は、誰もがよく知る大いくさにいくつも参加して、しかも、かすり傷ひとつ負わずに帰ってきたと言う、奇跡のような武将だった。それもこの男が参加しているのは、片田舎の小競り合いなどではない。
例えば三方ヶ原の一戦―――あの当時、徳川家康は三方ヶ原での武田信玄との遭遇で、壊滅寸前の状態まで追いやられていた。家康ですら具足を捨てて、逃げる馬の背に身体を託さなければいけなかった場面を、この男が救った。戦国最強とも言われる甲斐武田の三万の精兵を、百分の一以下のわずかな手勢で真っ向から受け止めたのだ。
その家康が今生きてこの場にいるのも、この男が殿をつとめ、一言坂で奮戦したからに他ならない―――そう言っても過言ではあるまい。
あざみの見るところ―――この男はまさに熟練した猟師が山の様子を見、獲物の動きを見極めるように戦場を闊歩してきたに違いない。肌でそれが分かるほど、目の前の男は緊張もせず、かと言って、弛緩してもいない。いくさ場に出るために生まれてきたような男なのだ。
例えばこんな話がある。家康の足下に同じく井伊直政と言う名将がいるが、いくさに出るたびに大けがをした。用心のため、装備に装備を重ねていくのだが、必ず怪我をする。だが、平八郎忠勝は逆に驚くほど身軽な軽装備で出ると言う。それで身に、一矢も受けたことはないのだ。その直政は、やがて鉄砲傷がもとで結局命まで落とす羽目になったが、その感覚は生まれ持ったものなのだろう。
危険を察知する能力、そしてその中から火中の栗を拾いだす度胸と勘の良さ。
本多平八郎忠勝にはそれが十四の初陣前から備わっていると言われた。
あざみたちは今、東日本随一と言われるようになる武将と対峙している。
虎夜太の懐に呑んでいるのは、三寸(約・一五センチ)ばかりの棒手裏剣が一つ。あざみも炸裂弾は用意があるが、恐らく着火の前に取り押さえられ、この平八郎に縊り殺されてしまうだろう。
平八郎忠勝の目は薄く濁って、一見眠たげになる。もはや獲物は追い尽くしたのだ。次の一瞬で、虎夜太は棒手裏剣を懐に入れたまま、右袈裟を腕ごと両断され、あざみはその胸を突き通されているだろう。
つと、忠勝が足を踏み出した―――
左手を柄に添えて、大ぶりの拝み打ち―――虎夜太の頭上を完全に狙っていた。その一瞬、虎夜太は懐に手をやったまま背後に飛び、その一撃をすんででかわした。恐らく、一か八かで手裏剣を投げつけていたら、即死していただろう。絶対不利を悟って、防御に徹したのが功を奏した。
並外れた運動神経と反射神経の良さはクグツである虎夜太だからこそ出来たことだ。
だが、もちろんこれで終わりではない。
「よくかわした」
相変わらず淡々とした口調で忠勝は言うと、抜き身を振り下ろしたままの姿勢で、さらに進み、峰を返しての左の切り上げ、さらに脳天を狙っての唐竹、で、続けて虎夜太の命を狙う。懐に手裏剣を呑んだままの虎夜太は、それをなんとかしのぎ切っている。防御に徹するしか方法はないが、それでも、忠勝のような戦達者の剣を、虎夜太は絶妙の体さばきでかわしきっている。
「ほう」
初めて、忠勝の唇の端に笑みが浮かぶ。この刹那の攻撃で少なくとも三度も、獲物は仕留められる危機を逃れたのだ。狩りをする者の熟達した心は滅多に揺れ動くことはないが、それでも、虎夜太の必死の身のこなしは忠勝にとってとりあえずは称賛に値するものだったに違いない。
しかし――――三撃目の唐竹の途中で、忠勝が中空で剣を停め、左手を突き離すように押し出して、右手一本の片手突きを繰り出したときは、さすがに虎夜太もかわし切れなかった。切っ先は着ている着物の右肩を引き裂き、骨には貫通しなかったが、獲物を仕留めるのに十分な量の肉を削ぎ取っていった。
「ぐうううっ」
「虎夜太っ」
虎夜太は吹き飛ばされ、えぐられた右肩の傷の出血を手で押さえながら呻いた。もはやこの肩では反撃の手裏剣は撃てまい。
「終わりだ」
忠勝は言った。とどめの一撃は歩み寄って、そのまま突き殺せばいい。
家康が吐き捨てるように言葉を次ぐ。
「早く仕留めろ、場所が場所だが誰が見ているか分からん」
「虎夜太っ」
傷口の出血を抑えながらも、虎夜太はまだ立っていたが、すでに反撃する力を失っていた。唯一の手段―――懐に隠した棒手裏剣で、一撃必殺を狙う機会を失ったのだ。だが、その瞳からはまだ、生きる意志は失われてはいなかった。
「―――投げろ」
痛みを堪えつつ、虎夜太は、声を振り絞って言った。あざみに―――自分が投げ損ねた棒手裏剣を投げろと言ったのだ。
「わたしが―――?」
「いいから投げるんだ、早く・・・・・・・」
あざみにもある程度は、心得はある。しかし、あの平八郎をその一撃で仕留めることが出来るわけはないではないか。
「やるんだっ」
それでも、もはや賭けるしかない。あざみは決心した。血まみれの手で託された手裏剣を、あざみはそれに指を添え構えを作ると、立ち上がって平八郎に対峙した。
「今度は小娘か」
無駄なあがきだとは分かっている――――やめておけ、とも、平八郎は言わなかった。かわりに再び、刃についた虎夜太の血を払って無構えに戻った。
手裏剣は肘を立て、垂直に投げる――――それは棒手裏剣も、他の手裏剣も同じだ。
その有効射程距離は相当の熟練者が投げても一五メートル前後だが、あざみの腕と、今の状況を切り抜けるには、その一個の棒手裏剣では足りまい。だが虎夜太に渡されたそれを見たとき、あざみはすべてを理解した。
あざみはさっき、虎夜太が平八郎と対峙した位置より離れて、間合いを遠くとった。血でぬめってすっぽ抜けないように、袖で拭う。そしてそれを平八郎とその背後にいる家康にめがけるようにして、投げた。
しかし―――
手裏剣はどこにも当たりはしなかった。
放物線を描いて、黒い影が夕闇の中に落ち込んでいったに過ぎなかった。笛穴が開いていたそれは、甲高く尾を引く引き裂くような大きな音を立てながら、神社の大杉の藪に落ち込んでいった。
「殺せ」
家康が言った。ちょうどそのときだった。
鉄砲の発砲音がして、平八郎たちの動きを停めた。
撃った方向を見て、あざみは安堵した。ランパが銃を構えていた。平八郎の鼻先三寸をまさに、弾丸の火花が掠めた。虎夜太の跡を追ってきてくれたのだ。音の出るように笛穴を施した棒手裏剣はもともと、合図用だったに違いない。虎夜太が、懐に棒手裏剣を携えてきたのは、合図の意味合いだったのだ。
「あざみサン、無事で安心しました」
さらに別の場所から闖入してきた男の攻撃も、平八郎の次の動きを封じさせた。
ガルグイユの剣が―――あの斧に似た不格好な鉈が、平八郎の額にめり込もうとするように、強く、叩きつけられている。戦闘意欲に満ちたバスク人の殺気の籠った一撃を受け取って、平八郎としては、年若い二人を斬って捨てる仕事などより、興が湧いたのかも知れない。
「野蛮人、妙な剣を使うな」
小男のバスク人と大兵自慢の自分の膂力が同じことを知り、驚いているのか、初めて平八郎は目を丸くした。表情の少ないこの男は、バスク人の剣を払ってそのまま、胸を田楽刺しに貫こうとしたが、やはり猿のように俊敏な、ガルグイユの動きの速さでかわされ、かすかに歯を見せて口元を緩ませた。
「なかなか使う、南蛮人」
「おいチビ、お前にしちゃ中々上出来な相手を連れてきたもんだ」
大丈夫かとも言わずに、ガルグイユは言う。
その間に―――虎夜太の傷を宗十の手を借りてあざみが手早く止血する。
宗十は銃を構えている。家康は腰のものをいまだに抜けずにいた。
「手遅れにならんうちに言うておこう」
宗十は言った。
「今の状況でもはや、誰もあんたなんぞ眼中にありはせん。下らん些事に囚われず、あんたはただ国へ帰るべきやないのか」
「帰れと言われてもな。ここを出られない。私たちも足を突っ込みかけてる」
眉をひそめて家康は、言った。
「いいや、あんたはすっかり蚊帳の外や」
「なら一つだけ聞かせてくれ。貴様らはいったい今、なにをしているんだ?」
「裏切りは、すでにばれたんだ。明智光秀、羽柴秀吉―――この裏には、堺の千宗易がいる。信長がそれを察知していた、と言うのが、そこにいる、小娘―――あざみが聞いた言葉や。これから、信長は兵庫に現れて二万の兵をそっくり、光秀への討伐軍に編成し直すやろう。堺の宗易は全力でそれを阻止したい。だからここまでして、信長が孤軍のうちに討ちとって、すべてをなかったことにしてしまおうとしておるのさ。おれたちもどちらかと言えばそれに―――賛成だ」
「信長を討つのか?」
「ああ、撃つ」
引き金を絞る仕草をして、宗十は答えた。
「そのための仲間がやつらに捕えられてる。信長は、南蛮人の助けを借りて、播磨の海を渡ろうと考えておるんや」
「その話の根拠は?」
宗十はあざみにあごをしゃくった。
「もう十分、聞いたはずでしょ? わたしたちの目的は、信長を倒して、その鉄砲放ちを救い出すことなんだ。わたしは――――信じてる。彼女がもう一度、引き金を絞ったなら――――信長を獲れる」
「酔狂な話だ。その鉄砲放ち――女か? どれほどの腕かは知らんが、本能寺で信長を仕留め損ねたのだろう? 本当に大丈夫なのか? その腕でまた信長を狙おうなどとは、笑い話にもならんぞ」
「くたばれっ」
ガルグイユの剣が空を切った。二人の競り合いは互角には見えていたが、天性のいくさ勘のいい忠勝にやはり分がある。その証拠に平八郎は、またしてもそれをぎりぎりの間合いでかわした。ほぼ目線のすぐ先だ―――そして上体を反らしながら、放った片手の右の切り上げがガルグイユの頬を掠め、こちらは血飛沫を斜めにほとばしらせた。
「くそったれ野郎、次はぶっ殺してやる」
言いながらも、ガルグイユは忠勝の返しの左拳を喰らい、よろけながら、何とか次に攻撃に転じようとするが、今度はその剣も後手に回り始めている。
忠勝はあくまで平常心の男だ。容易に心が波立たない。自分が、有利になろうが不利になろうが、それはそれで、結果として受け止めて処理して前に出てくる。
「次は仕留めてやろう。南蛮人、お前が相手ではおれは止められん」
「だが、二人ならどうだ」
そのとき、平八郎の背後で声がした。
ふと、振り返った平八郎の動きが一瞬、停まった。
そこに立っていたのは、自前の素槍を携えた藤堂高虎の姿だった。穂先だけで、一尺(三○センチ)近いその槍には、血溝が掘られ、それが朱に塗られている。高虎はそれをまだ肩にかけていたが、その立ち位置からは、忠勝の咽喉を狙って楽々と突き通すことが十分可能な間合いだった。
「卑怯だな」
忠勝が苦笑すると、あんたが言うか、と高虎も同じように笑い捨てた。
「いくさ場では訊かん言葉だな」
槍が刀に相対するには、三倍の実力を要すると言う。剣と槍とは言え―――同じように若い頃から戦場勘を磨いてきた二人が殺し合いをしたならどうなるか―――それはやってみねば分かるまい。
「あんたも引け、ここでもう終いにしよう」
だが、あえて高虎は言った。
「痛み分けってやつだろ。それにもともと、あんたに誰も関心を持っちゃいない。それは、もう、十分に分かっているはずじゃねえか。これ以上、おれらの邪魔をするな。天下はまた動く。あんたたちがすべきことは、もとの三河に戻ってまた力を蓄えることだ」
「だが、お前らは殿サンの命を狙っている。排除すべきだとも命令を受けた」
違うか? と言う風に、忠勝が言うと、
「だがそれが今じゃなくてもいいだろ?」
槍の穂を肩から外し、殺気を見せつつもまだ、高虎は穏やかな口調で言った。
「なるほど」
忠勝は、その姿とガルグイユとの間合いを見極めてから言った。
「今は、自分の負けだ。このまま殿を自分が生かすには、自分の命を賭さねばどうにもなるまい。そうしてはお前らを殺したあと、殿サンを守れない。ただ、どうしても、と言うなら自分は殿サンの命を守るためお前らを殺さねばならぬが」
「どうするも糞もあるか。ここまで来て―――」
何事をするのにも、段取り主義で、慎重で沈着―――家康はそう言う男だったが、根は短気なのだ。忠勝はそんな主君の冷静な判断力が戻るのを待っているのか、これ以上、闘う意志がないことを見せながらも、高虎たちから目を離さずにいる。
「なあ、落ち着きなよ、家康殿。おれたちはあんたたちを元々、どうこうする気はなかったんだ。お互い、この街にいる危険から早く去りたいだけだ。今なら、刀を納めてなかったことにして、この堺から一緒に脱出する手段を講じられるんだ」
「待てよ」
と、高虎の言葉に割って入ったのは、虎夜太だった。
「高虎の旦那、おいらはこいつらとは絶対ごめんだぜ。あざみだって、そうだ。こいつは、家康は、白瀬のお姐が仇だって追ってた張本人じゃないか。それを―――」
「いいよ」
あざみが言った。
「わたしは気にしない。あんたたちを仇だと思ってたのは、姉さまだし―――それに、あんたを殺す、と言うより、あんたに会って話は聞きたかった。姉と違って、わたしがあんたにしたかったのはそう言うことだったの」
「あざみ―――待てよ。そんなの、納得できるか。おいらたちが家康を追って来たのはそんな理由じゃないだろ!」
まだ納得していない様子で、虎夜太は叫ぶ。
「虎夜太、姉さまは死んだの―――確かに、この男、家康を追って。でも、姉さまは心底、あんたを憎んでたわけじゃなかった。機会があれば殺したいとは思ってたかも知れない。でも、本当にしたかったことは、直接あんたに問いただすことだったんだ。
あのどうしようもない土砂降りの晩どうして、父さまや兄さまが戻らなかったか。わたしたち一家は夜盗にさらわれて、人買いや妓楼に売り払われる羽目になったか。すべては、家康、あんたのせいなんだ。姉さまの無念のためにもわたしのためにも、あんたにはことの成り行きを、わたしたちに説明する義務がある」
「義務だと? 草働きの娘風情がのぼせるな。虫けらのような貴様のことなど誰が知るものか」
怒りに震えたままの家康は、肩を上下させては呼吸を治めた。しかし、その刹那、
「娘、お前―――父御の名を言えるか」
唐突に訊いたのは、忠勝だった。
「言える。わたしは、七つのときだった」
「それはいつのことだ」
「七年前―――父さまの名前は嘉蔵(かぞう)、兄さまの名前は喜助(きすけ)
「なんだと―――」
愕きの声を上げたのは、なんと家康の方だった。
「嘉蔵の・・・・・お前、まさか、あの男の娘か?」
「生きていたとは・・・・・」
忠勝も同じように面に、驚愕の色をのぼらせている。やはりこの男をわたしは知っていたんだ―――あざみは思った。わたしが知っているように、忠勝は当事者として、その事件にかかわっている。そのはずなんだ。
驚愕の面持ちの家康は、忠勝と顔を見合わせた。そして、
「と、言うことは信康の――――」
言いかけたそのときだった。
「そこまでだ。貴様らっ!」
訊きなれた塩辛声の大音声が鳴り響き、一瞬、聞く者の動きを停めた。
そこには、兵を従えた千宗易が、憤怒に顔を赤く染め、仁王立ちしていた。
「ようやく見つけたぞ、裏切り者ども」

9 信長

潮騒の音が、聴衆を失った楽団のようにわびしく単調に続いている。
(おかしい)
夷空たちの乗っ取った船は兵庫には直接向かう様子はなく、進路は西側へ取られた。彼女には感覚として、船がまっすぐに播磨に向かっているのではないことがすぐに分かった。それは船が、乗る潮の流れを変え雨雲を避けて走っているからだ。もし、播磨に行く船であるのなら、この船は漆黒の雨雲に突入するはずだろう。
夕陽を受けて雨雲の端は、無垢の生地が染まるように橙に滲ませたが、光を逃がさない中心部は黒く、乱れてよどんでいた。
リアズがやってきて、甲板にいる夷空の傍らに立った。
「どこに行くんだ?」
夷空は聞いた。傍らでリアズ・ディアスは静かに笑みを浮かべたままでいる。
「なんのことだ?」
「この船は、どうして播磨に向かわない? それに―――」
「信長はどうした? か? あの王は、この船にはいない」
「どこに?」
「なぜ、お前に答える必要がある」
リアズは思わせぶりな笑みを隠さずにいた。
「お前らがどこで何をするかぐらいは答えてもいいだろう」
「日の本の王は荷運びの船などには、乗らない」
リアズは鼻で笑い、
「在庫があるんだ。今から、そいつを取りに行く」
「在庫だって?」
「一体なんの? か? 夷空、君は少しは自分が本業にしていたことを思い返すべきだ。お前ら倭寇が日本のいくさのなにで儲けた? それは値の高い花火を何発も何発も消費するからだろう? 信長公がいれば、いくさにはよい買い物をしてくれるだろう。売れるものは、現場じゃ役に立たない骨董品でも売り払う。そう思うのがおれたちの自然な摂理だ」
反論は出来ない。だが、納得はしていない。そんな顔で、夷空はリアズを睨み返した。
「まだ、それでいい」
リアズは、笑みを絶やさなかった。
「じきに、自分の本当の姿を思い出す」
夷空の肩に手を置いて去るリアズと入れ違いに、エリオが夷空のもとに駆けてきた。
「イスラ、この船で博多(ハカタ)に戻るの?」
「・・・・・母親と呼ばせてないんだな」
夷空は去っていくリアズには何も応えず、駆け込んでくるエリオを自分の腕の中に迎えた。エリオが口を開いた。
「ねえ、いつ帰るの?」
「もうすぐ戻れる。でも、まだ、仕事が残ってる。それが終わってからだ」
ブロンドの美しいエリオのまつげは、その明るいブラウンの瞳を輝かせた。
「アザミはもう、ついてこないの?」
「あざみか?」
夷空は一瞬、言葉に詰まった。
「―――後で、追い付く。今、離れて別の仕事をすることになってる」
「本当?」
「ああ、本当だ。これから堺に戻って途中で落ち合うことになってるんだ」
「戻れればいいけどな」
違う声がした。そこに、銃を入れた包み袋を肩にかけたカウリヨが立っている。
「どうだ、ものを確かめてみるか」
カウリヨは、リアズに向かって包みを差し出した。リアズは仔細げに中身を検める。
「上物だろ?」
夷空とカウリヨが睨み合っていると、その間に包みの中身が差し出された。夷空にとってそれは意外にも、ヨーロッパでは最新式のホイールロックを採用した火縄銃だった。ホイールロックとは火縄を挟むバネの代わりに、歯輪と言われるギアを使い、速射しやすく改良したものだ。
「国によらず、どこの王も新し物好きで派手好きが多い」
「至言だな。だがこんな高価なものを、今の信長がどれほど買えると言うんだ?」
しかも、と、夷空は皮肉たっぷりに言った。
「こいつは歯輪に火縄が引っ掛かりやすく、壊れやすい。高価な癖に実戦使用には、問題が多すぎる代物だ。あの鉄砲狂いの信長がそれに気づかないはずがないだろう」
「そうかもな。だが、今は非常時だ」
リアズは、それには応えず、口元を綻ばせたまま首を振った。カウリヨが言った。
播磨(ハリマ)の海は荒れてるみたいだぞ。また、前みたいなことにならなきゃいいがな」
「前のようになったら、まずお前から撃ち殺してやるさ」
ゆっくりとカウリヨは二人の方へと、近づいて行った。
「また、喰われる前にか?」
カウリヨは人差し指を夷空の左胸に指して、不敵に右頬を吊り上げた。
「安心しろ。喰うなら、ガキの方からだ。なあよ、ガキは女より美味いらしいぜ。美味いもんから先に喰わんとな」
エリオを庇いながら、夷空は吐き捨てるように言い放った。
「二度はないさ。今度はお前を喰って、私が生き延びる番だからな。甲板に立つ時は、せいぜい後ろに気をつけろ」
「相棒は返しておいてやる」
ぽん、と、カウリヨは夷空にその袋を放り投げた。
「ただし、弾と火薬は渡さねえ。おれらが必要になったら、渡す」
それにはエキドナが入っていた。信長が発射してから手入れがなかったのだろう。火薬皿に汚れがあった。夷空はそれを指で擦った。黒くなった指の腹を見つめると、エリオが不安そうに、母親を見上げてくる。夷空は言った。
「大丈夫だ」

10 光秀の乱心

間もなくあの、六月二日から一週間近くが過ぎる―――
(何かおかしい。殿はどうなってしまわれたのだ・・・・・・?)
斉藤利三(さいとうとしみつ)は、その思いを拭い切れなかった。
明智光秀と言う男は状況を分かっているのか。
あの秀吉が、六月六日からの一昼夜で、二万の軍勢を、高松から姫路まで移動させたと言うのだ。信長の弔い合戦を標榜しつつ、さらに、軍勢を膨らませながら姫路へ―――
利三の主君の光秀と言う男は、それまでに綿密な計算と計画で物事を運べる男だと信じていた。しかし、今、目の前にいる光秀と言う男は、死んだ信長の亡霊に踊らされているただの腑抜けにしか過ぎなかった。
大軍の衝突まで間がない。決戦場はどこになるか? 京都に集結するとして、軍勢はどれほど集まるのか? 生き残るためにあることは、この七日間に山ほどあったのに。
主君の光秀がこの間にやったことと言えば、朝廷に信長討滅を認可させたことと、信長の築いた安土城を占領したことくらいだ。それ以外は、ほとんど何もしていないに等しいのだ。
光秀は言う―――利三に。
訊いたものがいるのだ、と。
―――信長公が今、なお御身を永らえているようなのです。
「信長を捜せ」
あれほど利三が信長のことは構うな、と言っても、光秀は信長の生死を確かめる、などと言う、ただそれだけの作業のために、余計過ぎる人員と手間を割いているようなのだ。変の三日後、安土城に光秀を入城させたのも、京都に信長がいると言う流言から、気を反らさせるためだったと言うのに、七日にようやく軍を発して京都に戻ろうと言うときに、また発作が再発したように、
「信長は本当に死んだのか?」
と、言い出したのだ。
そのため、予定を少し遅らせて八日、利三たちは坂本城にいる。ここで一泊して京都入りするのだが、軍勢を整えるのは名目で、本来は、光秀の精神状態を整理するためだ。

『必罰』
そう棄て札をされた生首どもの姿が、河原に晒されたと言う事実を、利三も知っていた。そして確かに、こちら側が放った細作も何者かに襲撃され、三条河原や他の場所で殺害されている事実も把握している。だが、それがなんだと言うのか。
(目の前の敵は、あくまで羽柴筑前秀吉なのだ―――信長ではない)
利三は、信長と同じ四十九歳だ。直接の主人として信長に仕えた時期もあったが、長く仕えるような主人でないと思っていた。そもそも苦労人で人の見る目に長けた光秀こそが、自分の主君としてもっとも愛着のある存在だった。
以前仕えていた稲葉一鉄(いなばいってつ)と言う美濃の大名に、信長を通じて、自分の元へ戻れと半ば強制された時も、自分が必要だと言い、信長の命に逆らってまで、利三を自分の元に置いて重用してくれたのが光秀と言う男なのだ。その光秀が、
「信長を討つ」
と、打ち明けてくれたときこそ、嬉しかったし、自分もまた機会はこのときだと思った。
「信長は死んだ」
利三もこの事実は信用していいと思っているし、実際、それだけの作戦を光秀に命じられて指揮したと言う自負はある。しかも京都に発つ前にも、民家にまで人をやって残党狩りまでやったのだ。
それでなくても、いくさが一たび起きれば情報は錯綜するものだ。確実に死んだと言われていたものが実は生きていたり、とっくに死んだ人間が、各方面で、まだ生存していたと誤認されることはままある。
「生きているはずがない」
あそこまで徹底的な作戦を実行したものが、そう思わなくてどうするのだ。
「利三殿」
茫然としたままの光秀に歯噛みをしながら、利三が振り向くと、そこに溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)が立っていた。この男は、光秀が織田家に仕える前、ただの流浪人だったときからの唯一の腹心である。
「どうだ、殿は」
吐き捨てるように言う利三に、庄兵衛はすげなく首を振った。
「みてみよ」
具足の小手をつけたままの腕を振って、利三はがなった。
「こんなときに、弱気でどうすると言うんだ。敵はもう、兵庫にまで迫っている。大和の筒井順慶(つついじゅんけい)も、娘を嫡男の嫁に預けてある細川藤孝(ほそかわふじたか)でさえ結局誰も味方にはせ参じた者がおらん。これもすべて殿が、信長の亡霊に怯えておるせいではないか」
気焔を上げてどうにか鼓舞しようとする利三に対して、庄兵衛は深刻な面持ちだった。
「―――ですが、利三殿、一概にはそう、言えないところもあるのです」
「なにを」
利三は目を剥いた。
「あの本能寺には隠し穴があって、確かに寺が焼け落ちる前に何者かがそこから、落ちのびた、と―――それにあれから京の街に放っておいた者どももすべて何者かに秘かに殺されております。それに、河原にさらし首にされた首は、前野車左衛門と言う、秀吉の配下の者とか―――」
「あの毛無し猿めが、我らが謀反を知っておったか。それであれほど速くに戻ってきおったというわけか」
「もともと此度の謀反を持ち掛けて殿をその気にさせたのは堺の会合衆、千宗易でしたからな。あの男―――もともと、秀吉と繋がっていた、とすると」
「我ら、あの猿がために謀反をしたようなものではないかっ!」
叫びとともに柄を握ると、利三は剣を抜き放った。なにを斬ろうとしたわけではないが、放った瞬間、空に鉄砲を放ったような音が鳴り響き、二人の緊張が高まった。悲鳴に似た叫び声とも、怒号ともつかない声がその後に続き、利三は庄兵衛と顔を見合わせた。
―――今のは、殿の声ではないか。
奥の板の間で、光秀は、少し瞑想すると言って籠もっていたのだ。事変に踏み切るのに、確かに光秀は迷ってはいた。
もはや、五十の初老に入った生真面目な男が大ばくちをするのに最後の一歩を踏み切らせたのは、実際に光秀の軍勢を統括していた利三の力が大きかったかも知れない。利三も陰では、責任を感じてはいた。だからこそ、光秀にはもう少し堂々と信長を倒したことを誇ってもらいたかったのだが――――
「殿っ!」
二人は急いで駆けこんだ。光秀は立ち上がり、火ぶたを切って火縄銃を構えているところだった。
「なにをなされるっ」
利三と庄兵衛があわてて光秀を取り押さえたので、銃口は大きくぶれ、発射された弾丸は、轟音を立てて天井に突き刺さった。
五十五歳の光秀が。分別も思慮もあり、織田家では筆頭出世頭とまで言われた男の顔が、今、初めて空から襲ってきた鷹を見た小動物のように茫然としていた。
目が、口が、ぽかんと開いている。
「信長が、いた」
「馬鹿なっ」
銃の筒先は、坂本城の楼閣の格子窓に向けられていた。光秀はそこの窓から何かを撃とうと銃を構えたのだ。だが、普通に考えてみて、そんなところに、人がいるはずがない。
「信長が生きているっ」
「ふざけたことを!」
「殿、御平らに!」
利三が銃を奪いはがいじめにして庄兵衛が、光秀をどうにか鎮めた。亡霊が出るのが夜中にしても、今は真昼間だ。何が光秀をそうさせたのか、聞いても、光秀は信長が生きている―――そう言うだけで、後は何も意味のあることを答えなかった。
「信長がいただと? そんなはずが―――」
鼻で笑った利三が、光秀が信長がいたと言う窓際に立つと、その瓦屋根の間に、何かが立てかけてあるのが見えた。
「利三殿、それは――――?」
鉄砲だった。それも、日本のものではなかった―――黒塗りの長い、傘の柄のように床尾が曲げられたもので、東南アジア辺りを根城にする商人(カピタン)たちが取り扱う、肩づけで撃つ、南蛮銃の床尾が長いものではなく、火縄挟みなどの金具などの形状も、日本人が使いやすいようにそれに似せられたものだった。
利三が持ってみると、まだ熱い―――最初に聞いた銃声はこの銃で放たれたものだったのだ。つまり、光秀は反撃をしようとしたに違いない。
「見よ、利三―――」
窓際から振り返ると、弾丸を撃ち込まれた場所がはっきりと分かった。光秀の座り込んでいるすぐ、頭上なのだ。納戸の奥、天井との隙間に留められた一枚の紙があった―――そこに描かれた二文字―――『必罰』と書かれている。
光秀の瞳はその二文字を凝視しながら血走り、わななく唇は意味をなさぬ言葉の羅列をこぼれ出させている。
―――もう終いか?
心の中の誰かが言う。いや、違う。利三は光秀にこそそう言ってやりたかった。
ただ、はっきりしたのだ。まだ一人、斬るべき相手が分かっただけだ。
利三はその銃を放り投げると、一閃で床に切って棄て叫んだ。
「おのれ、信長―――」

11 あざみと家康

「おのれら、生きてここを出られると、思うなよ」
宗易は言った。顔に憤怒で、燃えあがるようなしわがくっきり湧きたっていた。
「おれらを殺しても、今さら何にもなりはせんぞ」
宗十が言った。怒鳴る調子で、説得する声ではなかった。
「それでも構わん。おのれらも知っとることは知っとるやろ。ここが始末のしどきや」
(どうする?)
どんな非常時でも、忠勝は眠たそうな目をしている。動物的勘の鋭い忠勝は、すぐに理解したのだろう。自分たちが生き残る上では、今はあざみたちに加担した方がいいことを。
(少し待て)
高虎の判断に、家康が同意し、忠勝もそれに従った。交渉する余地があるなら、それに越したことはないと思ったのだろう。
「大事なのが一人足りないぞ? 分かってるだろうが」
高虎は言い、わざとらしく両手を広げて見せた。
「それにもう一つ、教えてやる。信長は、生きてるぞ。おれがこの目でしっかり見たよ―――それに、あざみはあんたが密偵で使っていた実の姉の白瀬を目の前で斬り殺された」
亀の目が、驚愕に見開いた。
「白瀬を―――だと?」
ここぞとばかりに宗十が畳みかける。
「それだけやない。もう、堺に信長はおらん。裏で糸引いてるのは、イエズス会のイスパニア人のリアズ・ディアスや。その男と夷空は船で出た―――おれたちは港で夷空を見た。あんたの屋敷から、エリオを奪い返した後だったんやろうな。恐らく、播磨行きのその船に信長は乗ってるやろう」
「よくはおれにゃわかんねえが、つまりは、おれたちに構う暇があるのか? ってことだろ」
ガルグイユが妙に流暢な日本語でうそぶいた。
「やかましいっ!」
宗易が手を振ると、背後に伏せていた鉄砲隊が、左右十名ずつ展開して姿を現した。高虎たちも仕方なく身構える。まさに一触即発の空気だ。
「宗易さん、わたしたちの争いは無意味だ」
それでも一歩踏み出したのは、あざみだった。
「まだ信長は生きている。そのことは確かめた。わたしと夷空は、あなたとの約束は、一つは果たしたんだ。でもまだあと、一つは済ませてない。そしてまだそれも遅くはないはずだ」
「―――約束だと?」
「信長を撃つ」
はっきりと、あざみは言った。
「次は外さない。わたしと、夷空なら―――でもそれには、夷空を取り戻す必要があるんだ。夷空はさらわれたんだ、リアズたちに―――夷空を使って、あいつらが何をしようとしているのか、そのことは分からない。でも、わたしたちなら、まだ、あなたたちの望みをかなえられる。信長は死ぬ―――そして播磨の二万の兵は、堂々と仇討が出来る」
「で、お前らはどうなる? なにが望みだ」
「自由」
はっきりと、あざみは言った。
「わたしは夷空たちと、この国を出る。外の海で暮らしたい。二度とここへは、帰ってくるつもりはない。新しい世界で暮らす。あんたたちのことは、いっさい忘れる」
「忘れるだと?」
宗易は赤らんだ眼を剥いた。信じられるか、と言う顔つきだ。
「あんたもここでわたしたちを殺すより、打つ手は多い方がいいはずだ」
夷空ならそう交渉するだろう。そう思いながら、あざみはもうひと押ししていた。
「おれはあざみと夷空に乗った。と、言うことは信長は、すでに死んだんだ」
と、次に高虎は言った。
「だから、おれは播磨に戻って、その弔い合戦って言うのに乗っかりてえ。矢玉を売るのが商売のあんたらと違って、槍稼ぎがおれの本職だ。望むならおれが光秀の首でも何でも、獲ってきてやろうってくらいの気概はある」
「宗易殿、わぬしは筑前めと織田家を乗っ取る腹づもりなのであろう?」
「う・・・・・」
鋭い口調で指摘して、宗易を睨み上げたのは、家康だった。
「信長公が死んでも、信長公にはまだ、跡継ぎがおる。信雄、信孝、この二人は、本能寺で死んだ嫡男の信忠に続く、正統な跡継ぎのはず。織田家を乗っ取るのであればまずはそのどちらかを持ち上げるかだ、が―――それを神輿に押し上げてくる競合相手も沢山おろうな。これから、そのすべてと、闘う気概はお持ちかな?」
宗易はそこに家康がいることと覚悟を試すような発言に、かっ、と目を見開いたが、かたくあごを引き、その覚悟を見せつけた。
「ならば、何も言うまい。徳川家は織田家に長年、煮え湯を飲まされてやってきたが、正直、この辺りが潮時と思うときも何度もあった。三河は三河で勝手にやらせてもらおう。信長は死ぬ、と。この家康、了解した。だがその鉄砲放ち、腕は確かなんだろうな」
あざみは家康に向って肯いて見せた。
「この娘の言葉には、嘘はない」
忠勝は、あざみを見て言った。
「あざみは嘉蔵の娘だ」
「嘉蔵を信じることは、信康めを信じる―――ことか」
家康も逡巡していたが、やがて静かに肯いた。
「いいだろう。信じよう。三河もこの件は口に出さん。宗易殿、わしらの命の冥加代はこれでいいかな?」
「うぬ・・・・・だがしかし」
「ここで家康を味方につけておいた方が得ですぞ、宗易殿。それにこの家康一人が討ち取られたところで、代々この徳川を支えてくれた三河はびくともせん。むしろ、あなたがたを阻む強大な敵になるでしょうな。分かったら、羽柴殿にもよろしく申されるがいい」
「承知、し申した・・・・・」
しばし、躊躇していたが苦いものを飲み下した顔で、宗易は首肯した。
「い、家康殿の堺での安全は宗易が保証する」
「以降はいい。行路に、もう案内役を手配してあるからな」
さすがに沈着さを取り戻すと、家康は泰然としたまさに大物だった。自分の命を賭けた宗易との交渉を、弁舌一つで、乗り切ってしまった。
「嘉蔵の娘、言ったからには、ことは必ず為せ。あの信長が死ぬ、か――家康もこの期にやりたいことがあるでな。お前らが仕掛けた大ばくち、乗ろうではないか」
「おい、あざみ、いいのか。話が途中だったんじゃないのか」
まだ聞くべきことがあるだろう、と言う風に高虎があざみに促した。
「嘉蔵のことか」
家康は、目を見開いてため息をついた。
「お前たちはずっとそのことを思っていたのか」
「わたしより、死んだ姉が―――」
「あの男は家族を守り切れなかった。手は打ったが―――それに不備があった」
忠勝が言った。
「あざみ、お前は姉からどこまで聞いているか知らねえが、その嘉蔵ってのは、あんたたちの下で密偵をしてたんだろ」
「ああ、あの男は、我が嫡男、信康めの使いをしてあることを調べていた」
「信康?」
高虎が答えにくそうにしたので、宗十が答えた。
「家康公の嫡男や。信長の娘を迎え、武勇に優れ、家康の跡継ぎとして将来を期待されておった。だが数々の乱行に咎めを受け、果ては、母の築山殿を通じて甲斐の武田家に内通したとの謀反の疑いを受けて処断されたとか・・・・・・」
「違う」
遮るように言ったのは、家康だった。
「信康はそんな男では断じてない。断じてな。だが、あれは―――あのときは、信康を処断するより手が無かったのだ。あやつが突きとめてしまった秘密には・・・・・」
家康のあまりに強い語気に、あざみたちは息を呑んで黙り込んだ。
「つまり、それで父さまは―――兄さまと殺されたの?」
「ああ―――」
ごくり、と唾を飲み下して、家康は肯いた。
「あの男は、信長はある劇薬を使うて二度も、死地を切り抜けたのだ。それは、さるものの作り出す魔性の劇薬でな。私も、この安土に行く際に何度、毒を盛られる怖さに震えたか―――」
「毒だと? どう言うことだ」
「猿だ」
忠勝が意味不明のことを言ったので、みな顔を見合わせた。
「そう言う男がいる。毒を作る。どんなものにも忍びこませる不治の毒を―――」
「その男は、美濃の猿と言った」
家康はあざみを見て、はっきりと言った。
「美濃の猿を調べていて、お前の親父と兄は始末されたのよ」

12 恐るべき毒飼い

数刻のち、あざみたちは宗易の船に乗り、夜半、播州明石の海を渡っていた。
夕陽を焼け焦がすような暗雲に降りしきる雨が、行く手に待ち受けている。
宗易は渋々ながら、提案を飲んであざみたちを秀吉に会わせることを承諾したのだ。
再び畿内に蘇った信長を再び撃つために――――
これから、嵐に突っ込む。
雨に備えてあわただしい船上で、あざみは静かに物思いにふけっていた。
「あざみ、どうかしたのか?」
高虎の声がした。
「まさか酔ったんじゃないだろうな」
こくり、と肯いたあざみは小さな胸を両手で押さえていた。
「それとも、さっきの話で恐ろしくなったか?」
あざみは小さくかぶりを振った。だが、美濃の猿―――あざみの脳裏に、先ほど家康と話していたことがまだ残っているのもまた事実だった。
「確かにな。あれは恐ろしい秘密だ」
高虎が、慨嘆するにも無理はないことだ。
家康が話したことは、まさに信長に関することでも、秘事中の秘事だった。

史上、言うまでもないことだが―――
信長には、かつて二度、完全な死地が迫ったことがあった――――それは、二人の乱世の先達に道を阻まれたときだ。
「武田信玄と上杉謙信―――」
この二人が、京都を目指して攻めのぼってきたときが、信長滅亡の危機の時期であった。しかも、それが二度もあった。彼が幸運だったのは、この二人が同盟を結んで、一気に攻めかけて来なかったことだが―――畿内での信長は常に、湧いてくる本願寺門徒たちに行く手を阻まれており、その背後を衝く形で、二人の強豪たちが西上を始めたのだ。
「まず現れたのが、武田信玄だった―――」
これが元亀三年(一五七二年)十一月の下旬、武田信玄は家康のいる三河を横切って、信長を「成敗」するべく、西へ大軍を動かした。領土を侵犯された家康は当然、軍を出し、三方ケ原で、武田勢と衝突―――これが、大将の家康が具足を捨てて逃げるほどの大敗北を喫した。
「あのときも、信長は、形ばかりの援軍を出しては、我ら決死の三河勢に協力する姿勢も見せなかった。我ら徳川は完膚なきまでに信玄に打ちのめされ、次にやられるのはおのれだと言うのにな」
だが、不思議なことにその武田勢の侵攻も中途で止まる。陣中で武田信玄が病死したのだ。武田勢は撤退を始め、信玄の死が知れる数年はあの大躍進が嘘のようになりを鎮めた。
「信玄は労咳(肺結核)で亡くなったと後で知れた」
世に第一次信長包囲網と言われるものの終わりが、それだった。
そして二度目の、信長滅亡の危機―――
それから六年後。上杉謙信、突然の西上である。謙信は越中加賀の本願寺門徒と対決する姿勢を見せ、織田には不可侵の条約を結んでいたのだが、本願寺との戦いに信長が不利と見るや、条約を破棄。信長のいる畿内に向け、大規模な侵略作戦を開始した。手取川の戦いと言われるものがそれだ。
結果は織田方の大敗北である。天正五年(一五七七年)九月二十三日、謙信は信長配下の武将、柴田勝家をそこで破りそのまま信長の喉元にまで迫る勢いだった。しかし、二度目の信長滅亡へのカウントダウンは、その謙信が、翌年の三月十三日、四十九歳で急死してしまうことにより急停止する。酒好きで有名な謙信の死は、酒宴の最中、厠に立つと言って倒れたきり目を覚まさずの、突然死であった。一説に、脳卒中だったとも言われるが、その死因は今なお諸説定まらず。
戦国最強と言われた二人の男の急死―――それによって信長はからくも、二度も、滅亡の危機を逃れていたのだ。
「わしは、あの三方ヶ原敗北の後、信玄の死を不審に思い、どうしても調べてみたくなった。もしかしたら、信長めは、ことの顛末があのようになることを事前に知っておったのではないかと思ってな。でなければ、説明がつかぬことが多すぎる。言うまでもなく、我が家は武田家に縁がないでもない。すると、不思議な噂が流れてきた」
――――あの信玄の死は、何者かの毒飼いだそうな。
「わしも初めは信じなかった。誰だって、武田信玄の領国甲斐と言えば、いかに警備が厳重かが分かっている。だがそれをものともせず毒を飼うものが、おると言うのだ。すると毒飼いで思い出したが、信長めのもとに降った松永久秀めよ」
「あの主君の三好長慶親子を毒殺した、と言われる大和の大名か?」
高虎の問いに、こくり、と、家康は肯いた。
「ああ、あの男なら、いかなる毒飼いの名人も使える。そこで探り出したのよ。美濃の山中、と言う集落に生まれつき腰の折り曲がった下人が隠れ棲んでいると―――その男は猿と呼ばれ、村民に侮蔑され、蔭に潜んでいると言うがそれが実は、毒飼いの達人であるとな―――」
「まさか、それは・・・・・・」
と、息を呑んだのは宗易だった。
「聞いたことがある。その男の身体に異変があるのは、何でもその昔、山中の関で、男の祖先が源義経(みなもとのよしつね)の母・静御前(しずかごぜん)を殺害した祟りだと土地では言われておるが、その実は長年、おのれで工夫した毒を作る課程や実験を繰り返し続け過ぎたため、身体に変調を来たし、ついには畸形化したものだとか」
「その男の仕込んだ毒で、信玄も謙信も?」
あざみの問いに、家康は脂汗の浮いた顔であごを引いた。
「ああ、その毒は無味無臭で、しかも仕込ませるのなら衣類にも染み込ませることが出来る、と言う。鴆(ちん)(ヒ素)の毒を精製して作る、よく似た毒が泰西(たいせい)(ヨーロッパ)のある名家に代々伝わると言うのだが―――」
「カンタレラだ」
訊きなれない家康の言葉に、一同は絶句した。
「かんたれいら・・・・・?」
「その毒のことなら、聞いたことはあるぜ」
二の句を発したのは、ガルグイユだった。
「カンタレラ。―――フィレンツェのボルジア家って貴族の家が、邪魔な政敵を毒殺するために使った伝説の毒薬だ。噂じゃ、その(ちん)の毒ってのを使って作るらしいがな。製法は門外不出、だが効き目はその話通りよ。なんでも死にざまから、死ぬ年月まで、一瞬から数年、と自由に調節出来るらしい」
ガルグイユの説明に、あざみたちは絶句した。死ぬ年月まで、それほど細密に調整出来るような、そんな恐ろしい薬が果たしてこの世に存在するものなのか―――
「そんな毒を飼う毒飼いが美濃におると聞いて、さすがの私も背筋におぞ気が立った。あの男には、人の常識と言うものが通じぬところがあるからな。例えば年賀の挨拶に顔を出した折も、信長公がまさかおのれにも―――と思いながら、いつも懼れていたものだ。そこでせめてその毒飼いを探し出し、殺さぬまでも懐柔して、その毒に当たらぬ方法を探ろうと、密偵を使い、方々を探ったわけだ」
「それが三河で密偵をしていたって、あざみの親父と兄貴なんだな?」
「ああ、そうだ。嘉蔵は美濃で薬の行商をしながら、噂を探った。そうしてどうにか美濃の山中にいた、その男の存在を突き止めることに成功した。山中村のある関ヶ原の片隅に庵を結んで生きていたが―――やはり噂通り、背はかがまって足を引きずり、不気味などす黒い顔をした老いた隠者だった。その男がどのような毒を作り、そしてどうやって、毒を飼うものか、我らはそれを知ろうとしたが矢先、ことが露見しかけたのよ」
「おぬしらの父と兄は、口封じのために自らを犠牲としたのだ。徳川が、織田家が秘蔵にしていた毒飼いの正体を探ろうとなどと、密偵を放っていたと知れたら、それこそ、その毒を我が主君に盛られかねんからな」
緊張で硬直する家康の顔を見ながらあざみは、言った。
「父さまと兄さまが、あんたたちの犠牲になったことは分かった。それも進んで――」
「お前たちの行く末に嘉蔵は、最後まで心を痛めていた。だが、あのときはああするしか方法が無かったのだ。嘉蔵たちはおのれらもいつ、毒を盛られるか、すでに盛られておるのか、それも分からぬ状況で、探索に従事していたからな。恐らくはお前たちに被害が及ばぬようにするには、お前らを売って、縁を切るより仕方なかったのだろう」
「それで、自分でわたしたちの身曳き証文まで書いて―――」
あざみは言葉に詰まった。
「嘉蔵がお前らをどうしようとしていたかまではわしは知らん。恐らくは引き取り手を用意しておいたのだろうが、それを逆手に取られたのだろう。おのれらが永らえたことがせめてもの救いよ。やがて嘉蔵と、おぬしの兄自身も捕まり、無残に殺されたからな」
家康が無念げに口を閉ざしたのに、忠勝が、
「殿は、お家のため、我が子の信康殿と、正室の築山殿(つきやまどの)を犠牲になされた。ことは武田が、二人をそそのかしてやらせた、と言うことになしたのよ」
ちなみに家康がこのとき喪った信康をもっとも愛していた、と言うのは有名な話である。
例えばこれよりまだ先のことになるが、関ヶ原の戦いの折り―――
東国の戦地から関ヶ原に参着した六十歳の家康は、江戸から遅参した三男の秀忠に待ちぼうけを喰わされたまま、戦いに臨むしかなかった。その朝、
「ああ、息子がいたならばわし自ら出陣することなどなかっただろうな」
と、嘆いた。おりしもその頃、到着しない三男の秀忠は、信州の嬬恋で智将、真田昌幸(さなだまさゆき)に足止めを食っていたのだ。側近が、その秀忠のことを言うと、
「阿呆め。あやつのことではないわ。信康めのことよ」
憎々しげに、言い返した。世評通り信康が乱暴で不行跡が多く、しかも武田家の内通に加担していた反逆の申し子のような息子であったとしたならなら、家康がこのようなことを言ったはずがなかっただろう。
「すべては御家を、徳川家を守るため――――戦国のならいとは言え、殿はそれでも信康様を愛しておられたのだ」
忠勝の言葉に当時の心境を思い出したのか、両眼を瞑った後、家康はあざみに直り、
「だからお前らにこれで許せ、と言う気はわしにはない。すべては戦国のならいよ。わしもお前の父もそれに従ったまでのこと」
「わたしも、戦場を連れまわされて同じような人生を歩んできた。だから父さまや兄さまがしたことを恨む気持ちは今さらない」
「わしらは別にしてもか?」
あざみは黙って首を振った。今の―――本当の気持ちは、分からない。だが、それより重要なことが今、あることは分かっていた。だからあざみは言った。
「あなたにはもう、二度と会わない」

13 うらみはいらない

「なあ、あざみ・・・・・ところで、だが、あのとき、家康を逃がして本当に良かったのか?」
「そのこと―――虎夜太にも後で、聞かれた」
迷っている暇も、必然もなかった。でも、それだけではない。ただ、ひとつ、心の中に潜んでいたもやもやとしたわだかまりがこれで一つ、ほとびたような気もしていたのだ。
「でも、間違ってはいなかったと思うよ」
きっぱりとあざみは言った。迷いのないその眼差しを、高虎は見据えながら鼻を掻いた。
「まあ、それなら、いいが。おれがどうこう口を出せた問題じゃねえからな」
「結局は、父さまたちへのわだかまりだったんだ―――わたしも姉さまも」
あれほど家康への恨みに、姉が執着したのも。いくら家康に責任を求めようとも、父がその名前をもって自分たちを売り払った、と言う事実に対する禍根は消えはしなかった。抜き差しならない事情があったとは言え、どうあがいてもこの事実は揺らぐことはない。幼心にも、この事実に直面する自分を認識することは難しくなかった。まごまごしている間にも、刻々と現実は厳しいものにすりかわっていくのだから。嫌でも分かる。
自分は、棄てられたのだ―――実の父親に。
だが、あざみはそれを、こんな乱世のすさんだ世相にあっては仕方ないことと処理してきた。戦場の裏世界を渡り歩く中で、飽きるほど見聞きしてきたからだ。自分よりも悲惨な、あるいは救いようのない、どうにも抗い難い事実を。
ただ、姉は違った。本来は、父の仕打ちを恨むことを―――その残酷な事実を呪うことを、家康を恨むこと一心にすり替えて、この世界を生きてきた。
あるいは、そこから目を背けるためだけの、家康への恨みだけだったのかも知れない。幼いあざみより棄てられた記憶の深い姉はより強く、それを思おうとしたのだろう。ただ、人を恨むことは、その強い気持ちだけで生きる原動力になることがある。
でも、もう、それは必要のないことなのだ。
あざみにとっても―――そしてたぶん、死んだ姉にとっても。
「恨みは、要らない」
「そう言いきれるのか?」
高虎は鋭く切り返した。彼もまた、この乱世で多くの人の恨みを負うことも、恨みで生きるものたちの多いことも知るいくさ人だ。
「分からない」
あざみは素直に答えた。
「今はそう、思いたいだけなのかも知れない。でも―――心からそう思うことは無理でも、時が経ったら、本当にそう思えるようになるかも知れない。だから、これからのことも、わたしは自分の恨みだけで行動したくない。今からわたしがすることは全部、夷空を救い出すため―――それ以外に信長を撃つ理由は求めないことにしたの。そう決めた」
「白瀬のためにか?」
そうであり、そうでもなかった。でも、あざみは肯いた。
「船に乗ってから、ずっとつぶやいてたの。許して、って。姉さまがいるあの岸に向かって―――最期まで喧嘩別れのままだったから、許してもらえるかどうか、分からないんだけどさ」
「だと、よ。虎夜太」
高虎の後ろから、虎夜太が曇らせた顔を出した。
「あざみ、おいらは、正直、まだ気持ちが収まってない。あそこで、あっさり、家康を逃がしちまったこと。お姐はずっと家康を追ってた。だからお前みたいに、夷空の姉御を救うためだけに、すぐに気持ちを切り替えることは出来ない。でも―――」
「わたしにだって出来てないよ」
あざみは苦笑し、虎夜太は言い淀んだ。その戸惑いは、分かっていた。
「白瀬のお姐を目の前で殺したのは、信長だ。奴が播磨にいる。おれは家康よりも、あいつのことを許せないよ。おいらの目の前で、虫けらのように、お姐を殺した、あいつを」
「だから、お前は白瀬を殺した信長を恨むことで、ここにいる。だから夷空を救う、か?」
虎夜太は肯いた。あざみはふっ切ろうとした。だが虎夜太は、信長への恨みへとそれを塗り替えることで、今の自分の気持に収拾をつけたのだろう。それだって、間違いだとは言い切れない。
「夷空の姉御が信長を仕留めるなら、おいらはそれに賭けるだけだ。どのみち、白瀬のお姐の無念を晴らすためには今のおいらには、それしか出来ないんだ―――だから、今はお前の決めたことに従う。ただ、それだけだ。でもおれはお前のこと、許したわけじゃないからな」
「ありがとう、虎夜太―――姉さまの最期、看取ってくれて」
「馬鹿野郎」
鼻を鳴らしたが、虎夜太は瞳を潤ませていた。恐らく、それを誤魔化そうとして何か口にしようとしかけたが、すぐにあざみから顔を背けた。
「絶対やれよ、あざみ。お前まで犬死したら許さないからな」
あざみは思わず吹き出してしまった。
「虎夜太もね。つまんないことで死ぬなよ」
「うるせえな」
「夷空のこと、頼んだ、あざみ。まあ、おれが頼めた義理やないが」
再び、声がした。そこに宗十が小さな身体をもたせかけて立っていた。
ガルグイユもいる。大儀そうに首を鳴らした。
「パトロンをリアズみてえないんちき野郎に渡してたまるかよ。大体な、あの野郎がいなかったら、パトロンはこんな危ねえ港で金にもならねえ仕事せずに済んだんだ。今だって、どうなってる? もしあいつらからふんだくれるものがあるとして、何がおれの分け前だ?」
「知らないよ。大体、別にあんたについてきてほしいなんて頼んでなかったし」
「なんだと? お前ら、さっき誰のお陰で命拾いしたと思ってるんだ!」
「高虎さんのお陰でしょ? て言うかもう少しで、本多忠勝に殺されそうになったところじゃんか」
「いつおれがやられそうになったって? 口の減らねえチビだ!」

「しょうがねえな、あいつらは」
高虎は下らないことで言い合うあざみとガルグイユを尻目に見つつ、
「なあ、ところで正直な話なんだが―――あいつらは夷空を何に使うつもりだ?」
「それなんやがな―――はっきりしたところ、おれにもよく分からんのや」
宗十が口ぶりを濁すのに高虎は、眉をひそめた。
「あいつの鉄砲放ちとしての腕は確かに認めてる。それに、撃ち方以外にも、扱いに長けてる、ってこともな。だが、どうにも解せねえ部分がある。こんなときに言うのも何だが―――例えばもしあいつを、信長を撃った張本人として、秀吉の前に突き出してみせるって言うんなら、生きて話が出来る必要などないんじゃないのか」
「首でも構わないか? まあ、その方が、信長らしいやり方かも知れん」
腕を組んだまま、宗十は口ごもる。
「さっきも誰かさんが言ったが、あの宣教師はいんちき野郎だ。だが、そこらのペテン師とは、ひと味もふた味も違う匂いがしやがる。あんたら海の人間に関しちゃ、門外漢のおれが言うのも何だが―――まだ、おれらの知らない切り札をひとつふたつ、やつは確実に隠してる。おれには、そんな気がしてならねえんだ」
「リアズのことや、ただ一時の情で夷空を連れ去ったとは思えんが・・・・・」
「あんたに心当たりがあるとしたらなんだ?」
宗十は眉をひそめて、首を振ってみせた。
まるで答えないことが答えだと言うように。

尼崎までの海路、高虎は別のことを考えていた。
家康が話していたことだ。
なんと信長のもとには、伝説の毒飼いがいた、と言う話―――かつて戦国最強と言われた二人の武将を苦もなく毒殺し、織田信長と言うその名を天下筆頭の地位まで上らしめた。その男のことだ。
このことは、たぶん、死ぬまで他言しない方が賢明だろう。
恐らくそれは、織田信長と言う男に関して、闇に葬られた、と言っていいほど、もっとも秘匿された機密事項のはずだ。ただ、それにしても―――
(よく、あの武田信玄や上杉謙信にまで毒を盛れたもんだ)
あのガルグイユとか言う南蛮人の話によれば、なるほど、カンタレラと言う毒がどれほど恐ろしいかと言うことは、何となく想像できる。しかし、どんなに効き目のある毒であっても、それを暗殺したい本人に直接服用させなければ、なんの意味もない。
(つまり、あの当時の甲斐武田領や越後上杉領に、侵入した奴がいたってことだろ)
それも短期間ではない。怪しまれず毒を飼うとなれば、ある程度の期間が必要だ。
なにしろ相手は、武田信玄と上杉謙信だ。
ほとんど不可能に近い。
恐らくはこの二人の寝所にも自由に出入り出来るほどに接近せねば、ことは果たせまい。高虎などは、そのことを想像しただけで脂汗が出るくらいだ。
家康の証言では、その山中の猿と言う男は、長年の毒の害で歩行も困難な男だと言うが。
(そんな男が、行くだけでも険しい山中の甲斐や、極寒の厳しい越後に長期間潜入出来るものなのか?)
取扱いの難しい南蛮由来の毒物だ。生半可な忍びには、任せえないはずだ。と言って、忍びの腕が立てば、誰でもいいと言うわけでもあるまい。なにせ、門外不出の毒だ。うかつな者には、扱わせたりはしなかったろう。
(まったく因果の多い世間だぜ)
刹那の時の運だけが交錯する戦場と比べ、政治の世界は得体が知れなくて恐ろしいものだ。船上で高虎は、ふと、おのれの行く末を思った。ゆくゆくは自分も、一国一城の主になる心算なのだが。荒波に揉まれながら、彼は大きな拳で傍らに立て掛けた槍の柄をつついて大きく息をついた。

天正6月2日第3章 堺暗転

第3章、いかがでしたでしょうか。まだまだ、ハードな展開が続いていくのでスピード感を重視してやっていきたいですが、歴史説明は込み入ってきているし、登場人物が多いので正直ちょっとごちゃってきてます。早見表を作るとか、補足を書くとか、誰か殺すとか(おい・・・)どうにか工夫します。ともあれ3章まで読んでくださっている方、本当にありがとうございます。次章は直接対決、展開としては佳境になっていく予定です。次もお付き合い頂ければ嬉しいです☆それではまた。

天正6月2日第3章 堺暗転

本能寺の変を題材にした女海賊・夷空と火術師の少女・あざみの物語、第3編です。ここではついに、夷空とリアズとの因縁の過去、そしてあざみと家康との間に隠されたある事実が明らかになります。傷だらけの夷空の肉体の謎、あざみの家族の秘密、すべては天正六月二日の陰謀に結びついていきます。舞台は再び堺へ。冒頭は、宗易(利休)のじっちゃん怒ってます。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 宗易憤激
  2. 2 あざみ、戻る
  3. 3 封じられた夷空の過去
  4. 4 偶然の再会
  5. 5 リアズの非道
  6. 6 エリオを護って
  7. 7 三河の太守
  8. 8 平八郎の実力
  9. 9 信長
  10. 10 光秀の乱心
  11. 11 あざみと家康
  12. 12 恐るべき毒飼い
  13. 13 うらみはいらない