ますこ島まで

 片思いの恋にものの見事に玉砕したわたしは、傷心旅行と銘うって、誰にも告げることなく「ますこ島」までやってきてしまったのである。
 一日に二度あるかないかの連絡船で渡ってきたものの、噂には聞いていたがここまで無音が流れているところだとは思ってもみなかったので、小一時間ほど、わたしは海岸通りを歩いてみたり砂地の上で風の音に耳をすませたり、突堤の先に座って早くも郷愁にふけってみたりした。けれど、小一時間後のわたしの内部ではささやかな革命が起こり、ますこ島の澄みわたった大気の中央に自分が位置しているような感覚にみまわれた。帰りたくない、ここの住民でいたい、それよりもずっと前からこの土地に根づいているような確定的な安堵感が、体じゅうにふつふつと満ちていた。
 と、背後にひとの気配がして、わたしはきびすをかえした。
 ひとりの老人が傘をついて立っていた。眼が合うなり、ようこそいらっしゃい、と微笑みながら言った。銀色に光る髪は後ろでひっつめ、化粧は口紅だけくっきりと施している。つぎはぎだらけの服を着ているが、ふしぎと清潔感が漂っている。
「あなたは」訊くと、
「ますこです」老人は答え慣れた言いかたとともに、頭を可愛らしく下げる。
「ますこ? ますこって、この島の名前ですよね。おばあさんの名前もそうなの?」
「あい、この島でひとり暮らしています。いつのまにかあたしの名前が島に取られちまってねえ」
 わたしはなんだかおかしくなって笑った。
「よかったらうちへ来て食べていきんさい」ますこさんはそう言ってくるりと身をひるがえし、そのままぐんぐん坂をのぼっていく。意外に足腰はしっかりしているようだ。
 その日はますこさんのうちに泊まった。そして翌日は、なにもせずにだらだら過ごすのも気がひけたので、ますこさんの野良仕事についていくことにした。ますこさんは果樹園を持っているらしく、九月なかばのいまは、ちょうどかきいれ時にあたるのだそうだ。(もっとも商売をするほどつくっていないらしいが)
 潮まじりの空気を吸いながら、梨をもぎとってはコンテナに入れていった。へたは見た目以上に弾力があってなかなかちぎれないのだが、悪戦苦闘のわたしの真横でますこさんはひょいひょいと収穫していく。視線と手は梨に向けたまま、あんたはどうしてこんな辺鄙なところにきんさったんかな? とゆったりと開口する。わたしは、傷心旅行ですとだけ答えた。傷心旅行? はい、失恋に果ててここまでやってきちゃいました。それはそれは、でも、またどうして? そうですね、どうしてここを選んだのでしょうね、自分でもわかりません、ただ、日本地図を見て直感で行ってみようって思ったんです。はあ、以前にダーツがこの島に刺さったからやってきたという若者がいたが、あんたもその口かな? まあ、そんな感じです。若いですなあ。いえいえ。
 昼食は海の幸をおなかいっぱいによばれ、そして食後にはこれまたおなかがはじけそうになるまでとりたての梨を堪能した。梨は糖度があって、果肉も存外やわらかく、口のなかで甘味のふくまれた水分がじゅわーっとあふれた。スーパーで売っているぱさぱさの梨とは比べものにならないほどだった。
 午後、ますこさんと一緒に海へ出た。海面はしんと凪いでいて、そのせいか乾いた砂音さえ耳に強く残る。足の裏はほどよい温もりを受け、それは人肌の温もりにも通じるようだった。人の体温はどれだけ自然に触れたかで、質が違ってくるのではないだろうか。ふとそんなことを思った。横たわる流木の上にわたしたちは座った。ますこさんは煙草を一本もんぺのポケットから取りだすと、海風に手こずらされながら、火をつけた。美味そうでもまずそうでもなく、かといって別段忙しくも遅くもなく、一定の、義務的な動作で吸った。わたしの興味深さをたたえた視線に気づいたのだろう、ますこさんはああと言いながら自分の煙草を見て笑い、これはねえ、と、つづけた。これはねえ、大切なひとのために捧げているのさ。きょうがちょうど命日だからね。わたしは、そうですか、と相槌をうったあとに、当ててみましょうか、と言った。大切なひとって、たぶん、旦那さまでしょ。ますこさんは口の両端に薄い笑みをとどまらせるだけだった。

 夕食を食べたあと縁側で夜空をながめた。五右衛門風呂というものにはじめて入った。浴衣を着るのも何年ぶりだろう。わたしはとても充足していた。そしてトイレに行こうと廊下へ立ったときだった、裸のますこさんと出くわしてしまったのだ。
 ますこさんは動揺を露ほども見せず、わずかにうなずいてから、自分の部屋に入っていった。わたしはその場にたたずんだまま、ますこさんの股間に垂れていた男性の「モノ」を思いうかべた。
 困惑したまま用を足し縁側にもどってくると、浴衣姿のますこさんが座っていた。わたしを見ると静かに手招きする。逃げ道のないわたしは、ゆるゆるとますこさんのとなりに腰かけた。くつ脱ぎ石に裸足をおくとひんやりと心地よかった。ますこさんは、やっぱりあたしは妻じゃないんだよねえ、と淋しそうにつぶやいた。
 わたしは首をかしげた。ますこさんは微笑み、それから女装の理由を、打ち明けてくれた。滔々と語られるあいだ、わたしは、潮の香りと魚の生命と砂のざらつきを鼻先に感じながら聞いた。
 はじめは死んだ妻の服を着ていただけだったそうだ。妻が残してくれた形見のすべてを愛し、その強い切ない愛情ゆえ、妻の名残を常に身につけていようとした。そして身につけているうちにその恰好が当たり前となった。どんどん妻に近づきたくなった。自分が妻になってしまえばいいのだ――と。ほんと馬鹿な考えなんだけどねえ、とますこさんは話の最後に自嘲した。わたしはなにも言えずじまいのまま床についた。

 その二日後、梨の収穫に付き合ってから、わたしはますこ島をあとにした。未練はあったが、家に帰りたいという気持ちの方が勝っていた。そんな日常的な気持ちにかられたのはいつ振りだろうか。わたしは長いこと虚構の恋に引っぱられて、家を顧みることをしなかった。
 玄関を開け放つと同時に、ただいま、と大声で叫んでやった。
 夫がサラダの盛られた大皿を片手に忙しなく出てきた。
「ちょっとお、どこ行ってたのよお。心配したじゃない。もうすこしで捜索願を出すところだったんだからあ」
 傷心旅行よ。わたしはつっけんどんに答えた。
「なによそれえ」夫はいまにも泣きそうだ。まるでつつけば倒れそうな積み木。
「ていうか、どうしてオカマ口調なのよ」わたしは訊いた。
「知らないわよ」夫の眼から雫がぽろぽろこぼれだす。こんなに脆いやつだったっけ?
「キヨちゃんのことばかり考えていたら、いつのまにかこんな感じになっちゃったのよ」
「へえ。だから、わたしがいつも使っているエプロンとか、イヤリングをしているんだ?」
「そうよ、悪い?」
「べつに悪かないけどね」
 わたしはすごく嬉しかった。土足まま上がると夫のほおにキスをした。その拍子にバッグから梨がふたつこぼれ落ちた。夫からはますこさんとおなじにおいが漂っていた。
 もう、こいつ以外のひとを愛すのはやめよう。偽りの愛を追い求めるよりも、そのエネルギーをこいつにそそいでやろう。わたしはひそかに決意を固める。

ますこ島まで

ますこ島まで

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-12

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