クリスチャン・マークレー




 クリスチャン・マークレーさんが表現手法として用いるサンプリングについて筆者の認識を披露すれば、サンプリングは既出の表現が有する内容だけでなく、表現媒体が有する物としての特徴をも抽出、意味化する過程で獲得する各表現物の異物らしさを失うことなく一つの枠内で結合させ、その結果をテーマでコーティングする。そうして形になるキメラな表現が見せる主張、知的な洗練ぶり、またはユーモアやシニカルといった感情的な刺激をもって生まれる笑みと冒険心を楽しませる。
 このようなサンプリングを表現手段とするクリスチャン・マークレーさんは、専ら音楽に関する表現物をサンプリングの対象とする。レコードを擦ったり振ったり叩いたり、遂には割って地面に落とし、それをさらに多人数で踏み付ける「ファスト・ミュージック」は1980年代ならではの前衛さが表れているだけでなく、レコードを物として扱う手、踏み付ける足などを捉える映像のコマ割りやカメラワークのセンスの良さが映像表現を有機的に結合し、シンプルでありながらもサンプリング表現の特徴をきちんと伝える。
 東京都現代美術館で開催しているクリスチャン・マークレーさんの『トランスレーティング[翻訳する]』の冒頭を飾る「リサイクル工場のためのプロジェクト」はパソコンモニターが工場で製作され、スクラップとして処理されるまでのルーティンを映像として流す作品である。その上映は作業中に発生する音をBGMとして展示会場の床に置かれたブラウン管のパソコンモニター(複数台が円になっている)の画面上で行われる。それら全てを観るために鑑賞者も円を描いて移動しなければならないのだが、展示室で強いられる円運動はこれだけではない。長方形の展示室の壁面には実験的な音楽に対するクリスチャン・マークレーさんの言葉が横向きに書かれている。それを全部読もうと思うなら、鑑賞者は展示室を一周しなければならない。その途中、途中には額縁に収められた四つの絵が展示されていて、数センチ開いたその隙間をさきの言葉がすり抜ける。そこに描かれているのはいわゆるガラケーが回転する様子だったりするのが何とも皮肉で、絵でも実際でも生まれる円運動がさきの言葉を追って行き着く先、展示会場入り口に書かれている解説ではクリスチャン・マークレーさんの次の発言が紹介されていたのを思い出して苦笑する。すなわち、クリスチャン・マークレーさんは「言語をあまり信じておらず」、「視覚的言語や音楽など、異なる記号や認識に頼る他のタイプのコミュニケーションに興味があ」った。
 筆者の苦笑には以下のものが混じっていたと自覚する。一つは表現者の意図に見事に引っかかり、音楽に対して書かれた展示室内の言葉を最後まで追った自身への自虐。もう一つは、計算する表現者が差し出した足に気付かず見事に引っ掛かり、転びそうになるのを免れた自身のバランスを頼りに舞い戻った展示室内で経験した円運動及び展示室内に響く機械音が奏でるものを音楽として「把握できた」ことへの驚き。最後の一つは、ポップさを前面に出した軽妙なスタイルを勝手に想像していたクリスチャン・マークレーという表現者の実際に遭遇して抱いた、真っ白な尊敬の念である。
 クリスチャン・マークレーさんがサンプリングとして取り扱う表現物の多種多様さ及びその膨大な量は「ビデオ・カルテット」という映像作品で存分に窺える。「ビデオ・カルテット」は古今東西の映画の中から音楽に関する各場面を切り取り、それらを繋ぎ合わせて四分割された画面で流す映像作品である。それぞれの画面は独立していて、上映時間中に各々異なる場面を映したり又は同じ映像を同じタイミングで映したり若しくはズラしたりして、様々なテンポと意味ありげな物語を展開する。場面を飾る音楽には声楽も含まれ、拡大解釈によって叫び声も音楽として採用されている。鑑賞していると、モノクロ映画からカラー映画まで音楽が登場する場面の多さに圧倒される。楽器についても、例えば神に捧げるメロディを奏でるオルガンから、屋根裏で埃にまみれてゴキブリが走る無音のピアノまで遠慮なく現れる各場面で音楽に触れる人々も老若男女と多岐に渡り、見間違いでなければアルトゥール・ルービンシュタインまでジャジーな展開と対比されるように表現者によってサンプリングされていた。各場面で描かれる叙情性といった印象なども効果的に用いられていたので、もっと時間を掛けて見れば「ビデオ・カルテット」で分類可能な要素が山程見つかるはずである。これは筆者の想像に過ぎないが、このような膨大でかつ多種多様な映像を対象に行うサンプリングは一つの映像が映像作品全体の出来を左右するぐらい重要な意義を持つ。そのため、ある時点の映像を差し替えるという判断を表現者が行う時、それは映像作品全体の手直しをする意味まで含む。以前の場面に合っていた別の場面が、新たに採用する場面の映像と合わないからまた別の場面を探して、採用して、すると今度はまた別の場面の映像との繋がりが悪くなるからタイミングを変えたり又はあるシークエンスの流れ自体を大幅変更したり、といった具合に。
 根気よく行うだけではきっと足りない、「ビデオ・カルテット」のサンプリングには表現者たるクリスチャン・マークレーさんのセンスとは別に完成に向けたヴィジョンの確かさが真正面から問われており、本映像作品だけでもクリスチャン・マークレーさんの表現の凄みを知れる。
 筆者が思うに、続けることで人は自然と学ぶ。このことは表現行為においても同様である。だから表現行為を続けることにより、いつしか作品の完成に向けたヴィジョンを持てるようになる。しかしながら人には好みがあり、かかる好みの傾向が判断及び行動に影響を与える。そのために作品の完成に向けて表現行為が形になる過程を主体的に歩む表現者が可能性に満ちた岐路に立った時、自由意思に基づき選んだはずの道が自身の好みに彩られた手癖が惰性で選んでしまういつもの帰り道だったりすることがあっても、決して不思議ではない。
 じゃあ手癖に歯向かえばいい、と瞬時に反論したくもなる。けれど、好みに由来する手癖を無視した作品に対して感じられる隙間風は不思議なぐらいに寒々しい風をこちらに吹かせる。表現者が納得しない表現を否定はしない。俗っぽい言い方をすれば作品は観られてこそなんぼ、と正直に思うからだ。それでも送り手と受け手が作品を挟んで交流できる温かさを求める道を求める。その努力をどれだけ行っても、し過ぎることにはならないだろう。
 手癖に認められる自身の好みと、私という存在感から突き放して見る表現行為に秘められた可能性との対話を上手く行うこと。そのためのアプローチと眼差しを如何に身に付け、保持し、また深めていくか。かかる問いを抱えたまま、言語に対する不信を明言する表現者だからこそ対象に切り込めるその角度を目の当たりにできる機会は、だからとても有難い。



 クリスチャン・マークレーさんの表現に認められる分析的な面を指摘するのなら、以下のようになる。
 綺麗な和音が連続で鳴らされたとしても、個々の音が単発の音としか聴く人に認識されないのであれば曲には成らない。また鳴らされる個々の音が同一の時間軸上で並べられなければ、個々の音が鳴らされるタイミングの異動によって生まれるリズムも聴く人に認識されることがない。ここから岡崎乾二郎さんの『ルネサンス 経験の条件』では音楽の成り立ちについて、鳴らされる個々の音を全体的に把握して一括りのものとして認識できる聴く側のイメージが欠かせない。そう言及されていたと記憶する。かかる言及に従うのなら、イメージという土壌の上に降り注がれる物理的な音とリズムによって人の内側で生まれる音楽表現はイメージ=抽象の側にその根っこを生やしている。
 市場で販売されるレコードジャケットのイラストにジャクソン・ボロックなどの抽象画が採用される理由について、商品としてのレコードに付加価値を付けるためという経済的判断があることを承知しつつ、さらに音楽と抽象性の関係を露わにするためにレコードジャケットの上にペイティングを行い、ジャケットの抽象画を忠実に再現することを試みた「アブストラクト・ミュージック」。その作品群を通じて、クリスチャン・マークレーさんはレコードジャケットの商品価値を塗り潰し、理性的動機に満ちた自由なき抽象画を「具体的に」再現して角度を変えた「音楽」という表現の展示、鑑賞者と共にその在りどころを非言語的に追求する。
 このように、クリスチャン・マークレーさんの視線は鋭い。けれど筆者個人は分析的だけではない、クリスチャン・マークレーさんの表現が有する別の側面を考えてみたい。



 井筒俊彦さんの著作である『意識と本質』の文中で禅について書かれていたことは俗世から悟りの境地への道程を上を向く矢印で記せば、その境地から再び俗世に戻る下向きの矢印を禅は辿らなければならない。つまり俗世という下線を引いたときに後者のベクトルを含めて描ける三角形が禅の本質なのである、ということであった。
 その意味するところは何か。筆者の拙い理解で記せば以下のものになる。すなわち、「それ」と目の前にある対象を指示するにも言葉=意味を必要とする人の世界において、非合理な禅問答などで意味の網の目から逃れた後で拓けるセカイがある。そのセカイの景色を背景にして日常の言語を使い、生活することは以前のそれと明らかに異なる。つまり、文脈の質感が以前のものとは異なっている。対象に向けて言葉を綺麗に貼れたり又は貼れなかったりする出来事の全てに違う響きが生まれている。俗世という地面からふわりと浮くその仕方で、俗世の日々を全うする。その姿が体現する人と世界の隙間、融通無碍。それが禅に生きるということである。
 悟ったことで拓けるセカイが果たす役割、と言葉をもって記そうとすれば、それこそお前は悟りが何たるかを何も識ろうとしていないとお叱りを受けるだろうと十分に予想するところではあるが、その不徳を全身で受け止める覚悟を決めて言葉を紡げば、かかる役割は修めた者の内で言葉の限界事例として存在することになると筆者は考える。
 言葉を覚えた人が言葉の外に出ることはできない。身体面の支障が生じた場合などは別にして、認識に刻まれた意味の分節は見えてしまったが最後、その生を終えるまで人は見続ける。ただ、言葉にならない「セカイ」という限界を知ることでぴったりと一致していた指示する言葉と指示される対象の関係は剥離する。その契機を見逃さなくなる。
 いつの間にか始まっていて、いま現在も行われている言語という運動は人々がその仕組みをルール化して客観的に把握しようがしなかろうがずっと続いていく。この意味で人々は気付けば言語という流れに巻き込まれていて、あらゆる試みが言語という実践の下に位置付けられる。だから人はこの運動の外に出ることができない。故に、限界事例としての言語運動の縁を瞬時にでも感じ取れたときに得れる自由は、その運動の只中に舞い戻ってのみ行使できる。
 運動に巻き込まれていたという事実を識って行う動きは、言語という大きな流れを変えるものには決してならない。しかしながら、指示する言葉と指示される対象との関係が剥離する現場に立ち会うことで選べるものがある。その流れに乗るか又は抵抗するか。またはその流れの表層に止まり若しくは深く潜って、静かに沈黙するか。反対に生来の興味と好奇心を発揮してその運動に倣い、私(わたくし)的言語を創造して向こうに感じられる、世界内「世界」の可能性を存分に楽しむか。
 赤色に見える物を「青」と言ったり、「走る」と言って歩いたりと私(わたくし)的ルールを設け、それに従って言語を使用することは誰においても行えるだろう。その使用を継続して観察すれば、各人が用いる私的(わたくし)ルールを他人が把握することもきっとできる。それを真似て、同じ私(わたくし)的ルールを使用する複数人が構成員となって空間の形成及び拡大を行う。これをもって私(わたくし)的言語が通用する世界内「世界」を創造したと考える。それも一つの形だ、と個人的に思いはする。
 しかしながら言語運動は実践されることで、客観化されたルールが把握していない言語の使用実態を幾度も生成し、記述されたルールを過去のもの又は部分的に妥当するものとして常に下位に置く。これにより言語運動にはルール化された瞬間からルール化を免れ又は未だ実践されていない(言い換えれば、未来において実践されるべき運用可能性を内包している)ためにルール化すらできない得体の知れなさが認められる。その存在を認識させるくせに、その内実を決して把握させないこの得体の知れなさこそが言語運動を言語たらしめる。かかる言語運動に倣って行う私(わたくし)的言語の創造は、だから私(わたくし)的ルールを言語に用いればいいという単純な話で片付けられない。私(わたくし)的ルールの適用が言語運動の得体の知れなさを再現できていなければ意味はない。
 「叫び(ダークエコーズ)」は暗い色調で赤から黄へと変わるグラデーションが表れた木目の背景の真ん中に、タッチが異なる漫画の登場人物が叫ぶ三つのコマをクリスチャン・マークレー氏がさらに裁断した部分を重ね、完成させた彩色木版画である。劇画風のキャラの熱い叫びを押し込めるように両脇を固める爽やかな男女のキャラが叫ぶ様はズレながらも拡大された三人分の口によって、異なる声が混和した奇妙で素晴らしいデザイン性を発揮する。
 本作品を見ていると、問題解決手段であるデザインは確かに前述したサンプリングの特徴と上手く噛み合うように思える。既存の表現物を複数集めてそれらを切り貼りし、全体を見直してからまた材料となる表現物を収集し、それらを切り貼りしてという過程を何度も繰り返せば、サンプリング表現としてそれなりの形にはなるのだと想像する。しかし、その出来は容易に壁にぶつかるのでないかとも推測する。切り貼りされる表現物が乗り越えられない互いの異物感をどう解消し又は活かすかがサンプリングの肝だと考えれば、偶然性に身を任せてただ切り貼りしているだけでは材料となる表現物の内容は喧嘩する。なぜなら、かかる表現物はそれ自体で完成した作品として発表されているのだから、完成した物同士、それを見た目や形状といった形式のみで並べたところで互いの主張を言い合うだけとなり、設定した枠内で共存しない。
 サンプリングが材料として用いる表現物の二次的、三次的表現になるという大事な指摘を誠実に受け止め、一つの媒体の内側で異なる声のアンサンブルを生じさせるために必要なもの。それらに悩み、苦しみ、確信して作品として発表することを続け、自身の中の経験則として積み上がるものをときには言語化し、ときにはただただ掻き鳴らしてその内面に触れていくことを繰り返し、自分のしたいことと可能なこととの境目を把握する。そうして生まれる独自のルール体系が巨大なものになり、また多種多様なルールが興味深い模様を見せる関係を形成していれば、その隙間で作られる路地も奇妙で奇抜、しかし唯一無二の面白さを備える。
 さきの「アブストラクト・ミュージック」とは別のクリスチャン・マークレーさんの抽象絵画である「アクションズ」はコミックで使用される擬音の文字面に抽象表現が重なる。かかる重なりにより画面上で生じる前後不明、すなわち抽象表現が先に描かれて擬音がその上から重なることで、自由な解釈を許すはずの抽象表現に意味の理路を与えたのか又は先に描かれた擬音の文字面を飲み込むように抽象表現が画面から湧出し、擬音をただの飾りにしてしまったのか。そういう地と文の入れ替わり自体が表現される。
 あるいは五線譜又は五線譜に乗った音符が書かれていることを唯一の条件としてノートやポストカード、チラシ、紙袋、ポリ袋やお菓子の箱、さらにはネクタイとありとあらゆる物を厚紙の上に配置し、風化する物と共に儚く消える立体的な音楽を表現した「エフェメラ」という作品においてもただのセンスで置いたのではない、表現者にしか見えない確信、もっと言えばかかる確信を根拠づけるバックボーンの存在が見て取れる。このことは、鍵盤の上に演奏者が手を乗せただけの写真と音符のない短い五線譜が印刷されただけの一頁をショーケース一杯に並べた作品についても指摘できる。
 極め付けは最後の映像作品、「ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)」でクリスチャン・マークレーさんは最初の展示室を訪れた鑑賞者を円運動に巻き込んだあの実験音楽について記した言葉を手話で表現する。このことは作品を鑑賞した後で解説を読んで知った。不勉強な筆者は手話の表現体系を知らない。それでもじっと観ていれば、何となくで知れる音楽について言及している(のだろうなと感じる)身振り手振り、そして豊かに変わる表情の変化があり、手話を操る彼女の内面に波打つ言語以上の集積群の存在を感じる。その詳細は分からない。でも伝えようとするその意思と動きが、それを知りたいと欲求する筆者の気持ちを釘付けにした。
 表現することは見てもらうこと、伝えたいことがあるということ。そのためにいつしか行われ、実践されてきた言語運動、その只中で試みる私(わたくし)的なものの創造においてもまた同じ。そういう基本的で大切なことが溢れるかの人のサンプリング表現。
 だから兎に角お喋りなのだ、表現するクリスチャン・マークレーさんは。私(わたくし)的ルールから演繹的に導かれる必然を受け手に確信させるぐらいに明確な意味を予感させる表出をもってして、第三者が把握し切れない程の私(わたくし)的ルールの複雑な運用を実践し、世界内「世界」の可能性を啓示して、観る側にも「それ」を信じさせるぐらいに。



 黒の画面に弧を描く線、その線の其処彼処で心電図のように生まれている微かな震えが伝える。
 知的な野心と、虚空に吠えるための喉の使い方は「こうしてみる」ことでしか分かりはしないと。

クリスチャン・マークレー

クリスチャン・マークレー

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-26

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