不思議の国のウサギさん
ウサギさん。何処からやって来たのか真っ白なウサギさんが、あたしの目の前をすっと横切って、山のふもとに広がる大きな森へと走っていく。
「急がなくっちゃ、急がなくっちゃ……!」
ウサギさんは時間を気にしていたのか、しきりにその真っ赤な目を、手に持つ懐中時計へと遣っている。けれどあまりに時計ばかり見ているものだから、地面のちょっとした出っ張りにも気付かずにつまずいて、ど派手に転ぶウサギさん。すぐさま起き上がると、また時計を見ながら走り出す。そしてまた、ころりと転ぶ。
ふふっ、お馬鹿さん。まるでおかしなお芝居を見ているみたい。急いでいるのだったら、時計なんか見ずに、ずっと前を見ていながら走った方がきっと早いのに。あたしでさえ解るそんな簡単なことが解らないなんて、きっとあのウサギさんは本当のお馬鹿さんなんだわ。
ウサギさんが何処へ急いでいるのかはあたしには分からないけれど、今ウサギさんが遅れそうになっているのも、きっとそのお馬鹿な頭でお馬鹿なことをしてしまったからに違いないわ。もしかすると、時計の見方すら知らなかったりするんじゃないかしら。ふふっ、可笑しい。
転んでは起き上がり、また転んではまた起き上がる。それは本当に間抜けな光景。でもあたしは、それを繰り返すウサギさんの後ろ姿を見ているうちに、ウサギさんを妙に愛おしく感じるようになる。
……あのウサギさんを、あたしのものにしたい。
そんな考えが、まるで誰かに耳元でそっと囁かれた言葉のように、突然、ぱっとあたしの頭の中に湧く。いけない、あたしには、そんなことをする権利はない。行くべき場所へと急ぐウサギさんを捕らえて、腕の中へぎゅっと抱いて閉じ込めるなんて、あたしはしてはいけない。ウサギさんは、ウサギさん自身のもの。他の誰かのものじゃない、もちろんあたしのものなんかでもない。
けれどもあたしは、ウサギさんを自分のものにしたいという思いがどうしても頭から拭い切れない。拭い切るどころか、その思いは強さを増していくばかり。だから、あたしはウサギさんの後を追って森へ走り始める。ぽつんと遠くに見えていたウサギさんの姿が、だんだんと大きくなる。
「どっちだったかな、どっちだったかな……。ああ! 急がなくっちゃ、急がなくっちゃ!」
森の中の道で立ち止まり、ぶつぶつと呟きながらきょろきょろと首を振っているウサギさん。見ると、ウサギさんの立っている場所から、道が二つに分かれている。
ふふっ、きっと道に迷ってしまったんだわ。やっぱりお馬鹿なウサギさん。行き先への道のりも確かめないで出掛けるなんて、本当にお馬鹿さん。
「……あたしのものにしてあげる」
あたしは後ろからウサギさんにそっと近付くと、ふわふわとした柔らかく白い毛に包まれたウサギさんの体をしっかりと両手で掴んで、胸へ抱く。
ウサギさんは突然のことに驚いたのか、懐中時計をその手から落とす。地面に落とされた時計は、ばらばらになって壊れる。そしてあたしに抱かれたウサギさんは、あたしの腕の中で力一杯暴れる。
「わあ、何するんだ! 僕は急がなくっちゃいけないんだ、離しておくれ!」
「離さない。お馬鹿さんなあなたは、あたしがずっと守ってあげる」
「守って欲しくなんかないよ! 僕は、行かなくっちゃいけないんだ! だから、離しておくれ!」
やがてウサギさんは、あたしに抱かれたまま大人しくなる。静けさに覆われた深い森の中で、あたしはウサギさんと二人きり。
大丈夫。もう時間を気にすることも、何処かへ急ぐこともないわ。あたしが、これからずっと、あなたを守り続けてあげるから。
安らぎの時を、あなたにあげる。
不思議の国のウサギさん